Paradise Lost - ストリップ・リクライシス 作:添牙いろは
楓は、基本的に毎日ライブハウスに通っている。朝早く、まだ街の空気が少し冷たさを残す頃――新歌舞伎町の喧騒が目を覚ます前――ライブハウス『ノクターン』の扉を静かに開けて中に入る。この時間帯、会場には誰もいない――わけではない。少なくとも、この建物にはリリザが住み込んでいる。楓はそのことを知っていたし、かつて自分も一時的にこのライブハウスで寝泊まりしていたことがあった。そのときに借りた合鍵を、いまだに返しておらず手元にある。黙認されている状態なのか、それともダンスチーフとしての特別待遇なのか――そこは、楓自身にもよくわからない。だが、それを当然とは思わず、あくまで“借りている”という認識で使わせてもらっている。
だから、なるべく迷惑をかけないように。音源はスマホで再生し、音量も最小限に抑える。とはいえ、大きく身体を動かすときは、それだけでは物足りない。それでもこの環境を得られていること自体が、楓にとっては奇跡のようなものだった。思えば、かつては深夜の公園でひとり、街灯ひとつの暗がりの中で踊っていた日々――雨が降れば、当然中止。風が強ければ身体を支えるのもやっと。そんな不安定な毎日を思えば――いまあるこの空間は、まさに理想郷といえる。
朝の薄明かりが差し込むステージフロアに立ち、楓はいつものように準備を始めていた。ストレッチを済ませ、練習用の音楽ファイルを立ち上げ、レッスンに入ろうとした、そのとき――聞き慣れない足音がフロアに届く。そして、普段この時間帯に姿を見せることはないはずのリリザが、ゆっくりとカーテンの向こうから現れた。
「……あら、楓さんだったんですね」
楓はちらりと視線を向けながら、その声に答える。
「こんな時間に、私以外の誰が来るんですか?」
軽く冗談めいた響きを含ませながら苦笑を浮かべる。他のメンバーがここで練習していることもあるが、もう少し遅い時間が多い。こんな早朝に誰かと顔を合わせたことは、ここしばらく記憶になかった。
しかし。
「それは――」
リリザからの返答は、ガチャリ、と入口の扉が開かれる音で遮られる。こんな時間に――? 楓は驚いてそちらに視線を向けた。しかし、フロアに入ってきたふたり組に、楓は見覚えがない。
ひとりは非常に小柄な女性。そして、もうひとりは大柄――ではなく、標準的な体格の女性。だが、一方の女性が極端に小さいためか、その隣に立っているだけで必要以上に大きく見える。
ふたりとも、長く伸ばしたストレートヘアを持ち、印象としては姉妹に見えなくもない。だが、その装いが明確な違いを際立たせていた。
小柄なほうの女性は、黒のパンツスーツ。年齢不詳ではあったが胸は極めてなだらかで、全体的なフォルムだけ見れば、小中学生がスーツだけを着せられているような印象すらあった。だが、その隙のない姿勢や堂々とした立ち居振る舞いからは、れっきとした社会人の風格が滲み出ている。あえて悪く表現するならば、“老けている”とも。
一方、もうひとり――標準体型の女は、ブレザーの学生服である。やや抜けたような表情で、何も語らず、ただぼんやりと立っていた。制服姿の彼女に、楓はほんのわずかに、棘のような感情が胸の奥で逆立てられる。高校――自分には叶わなかった場所。過去の憧れ。いまだにどこかで拭いきれない悔しさがどうしても刺激されてしまう。
無意識に視線を逸らすと、視界の外で小さいほうが苦言を呈する。
「正面の施錠がされてませんでしたわよ。少々不用心ではなくて?」
小柄な女性の、やや気品を感じさせるお嬢様口調――その言い回しに、楓は思わずある人物を思い出す。このライブハウスが危うかったときに現れた貸金業の“お嬢様”――華奢でありながらも強烈な存在感を放っていたあの人物。共通する雰囲気から、楓はすぐに察した。……たぶん、この人が“新しい店長”だろう。そして、そうであるなら――楓のなかに新たな疑問が生まれる。隣にいる学生服の彼女は一体何者なのだろう?
その答えが出る前に、リリザは管理不行き届きを訂正していた。
「練習中」
小さく告げて、リリザはスッと楓のほうへ手を向けた。小柄な女性は、その指の先――楓に視線を移し、ふわりと微笑む。
「まあ……こんな時間から。熱心ですね」
その笑顔には、嫌味もトゲもまったくない。むしろ、静かに胸の奥を打つような温度がある。――あ、この人は、本物だ。楓は確信する。作られたキャラクターではなく、根から気品を備えた、“生粋の”お嬢様なのだと。
そして、その女性は丁寧に言葉を継ぐ。
「本日よりこちらで店長を務めさせていただきます。私のことは……『エリ』、とお呼びくださいませ」
「はぁ……」
楓は思わず、短いため息をこぼす。“お呼びくださいませ”ときたか――その言葉の端々に漂う格式。そして――なるほど、新歌舞伎町のライブハウスともなると、店長ですら源氏名を用いるのか――やはり、この街はどこまでも用心深い、と内心で皮肉まじりに苦笑する。
だが。
「そして、私はリリザ・シャトレ」
一歩前に出て自ら名乗る。なぜリリザさんまで? 知り合いじゃないの? ――実際、エリは「そう」とだけ短く答えただけ。だから、それはどうやらエリの隣にいる制服――あのとっぽい印象の女に向けたものだったらしい。特に反応は見られないが。
楓もリリザに続き、促されるように軽く会釈をする。
「ダンスチーフを務めております、楓と申します」
そのまま視線を、学生服の女に向けた。先ほどまでぼんやりと立っていた彼女も、ようやく視線を上げる。皆の注目を受けていることに気づいたらしい。そして、口を開く。
「
短く、淡々とした自己紹介だった。
「そう」
楓も、つられるように同じく調子で返す。結果的にエリの口調を真似る形となってしまった。
しかし……まだ芸名がない……? こういうのは、仕事を始める前に自分で付けるものでは……? 楓の心の疑問に答えるように、エリがやわらかな口調で補足する。
「彼女は、
その一言に、楓の眉がぴくりと動く。芸名が決まっているにもかかわらず、あえて本名を名乗るとは。繁華街に身を置く者としては、あまりにも無警戒――いや、浮世離れしていると言うべきか。
――なんだか、波長が合わないかも――それは、ひとつの本能的直感――この街には自分の理解の及ばない思考の持ち主は山ほどいる。が、それを超えて――何か根本的な噛み合わなさを、楓は感じていた。
そして、その予感は――次の舞のひと言によって、すぐに的中することとなる。
「役職は、
「……は?」
楓が露骨に眉をひそめ、不快感をあらわにしたからだろう。
「間違えた」
舞は、あっさりと自分の発言を訂正する。
「役職ではなく、ポジション」
そういう問題じゃない! ――淡々としながらもどこか尊大な口ぶりに、楓の苛立ちは増していく。自分が守ってきた“センター”というポジションに、初対面の小娘が何の遠慮もなく名乗りを上げるなんて――その事実が、楓の神経を逆撫でしていた。
どういうつもりなのか――楓は無言でリリザに視線を送る。何か意図があるのか、事情があるのか――そう問うような目で。これに、リリザは少し困ったように微笑みを浮かべる。
「彼女は、今回の<計画>に欠かすことのできない人物でして」
「はぁ」
楓は思わず、冷えた吐息をもらす。その<計画>とやらが何なのか、いまは知らない。だが、あとでじっくりと話を聞かせてもらおう。ダンスチーフであり、“現”センターとして――楓の目は、鋭くリリザを見据えていた。
リリザも、それを感じ取ったのか、すぐに付け加える。
「もちろん楓さんも、ですよ」
「…………」
その言葉を“フォロー”と受け取るほど、楓は甘くない。むしろ、自分を脅かす要因として警戒心をさらに強める。
そして、そんな空気の中――エリが静かに口を開いた。
「<計画>については、舞さんのステージの後、詳細にお話させていただきますけれど……」
言いながら、視線を横に流す。その先には、リリザがいた。
「……私に準備せよと?」
リリザの返しに、エリは当然のように答える。
「他にどなたが?」
「……そう」
リリザは呟くように答え、くるりと背を向ける。短いやり取りであったが――わずかに、不穏な空気を感じていた。とはいえ、それは決して、単純に悪いということでもない。リリザがこのライブハウスを守ろうとするときに纏う冷徹なる狂気――その片鱗を見せていた、ということは、
リリザは静かにフロアの奥へと姿を消し、代わって舞がステージに立つ。その様子を、楓はステージ前の客席スペースで腕を組みながら見守っていた。その隣にエリが、あくまで落ち着いた様子で並ぶ。
「まずは、彼女のステージを見ていただかないことには、納得いただけないでしょうから」
諭すようなその言葉を、楓は宣戦布告として受け取った。……つまり、この人も、あの女の肩を持つってことね――楓は内心で舌を打つ。ここは自分にとって、ようやく居場所になりつつあった。なのに、その空気が不本意な形で侵蝕されていく――そのことに、楓は焦りと苛立ちを感じていた。
――そのとき、ステージから音楽が流れ始める。
瞬間――楓の背筋に、鋭い緊張が走った。
まだ歌声はない。ただ、イントロに合わせたダンスが始まっただけ。にもかかわらず――その動きには、観る者の呼吸を止めさせるほどの存在感があった。
リズムに合わせて、余分な力を一切排した無駄のないステップ。指先の動き、足元の揺らぎ、表情のコントロール――どれもが、鍛え上げられたものだった。
ただものじゃない――楓は腕を組んだまま、その一挙一動に注目する。喉の奥にひやりとしたものが落ちた。それは、恐れに近い感覚ともいえる。
そして――歌が始まった。
「誰にも見せられない手札を……艶やかに隠す夜……♪」
その第一声で、空気がさらに一変した。澄んだ低音から始まるその歌声には、無駄な媚びも
それは、明らかに“素人の自己表現”とは一線を画していた。完全なるプロ――楓は確信する。いま、自分が観ているのは、ひとりの“プロ・アーティスト”のステージだ。それも、こんな小さなライブハウスではもったいないほどの――
照明の淡い光に照らされながら、舞うように歌う彼女の姿は、まるでそこだけ異世界のように見える。楓の心に、静かに、だが確実に――ざわりとした焦りの波が広がっていった。
しかし、サビを終え――一拍おいた、その瞬間。
「…………!」
楓は、目を見開いて息を呑む。非の打ち所のないステージ――ダンス、歌、存在感――すべてにおいて揺るぎなく高次元でまとまっている。それだけに、楓は重要なことを、すっかり忘れていた。
――自分たちは、ストリップ・アイドルだったということを。
音楽が次のパートへと進む中、舞は激しい動きのまま、自然な流れでブレザーを脱ぎ始める。する、する――と滑り落ちていく布地は、ステージの演出としてあまりにも自然で、だが、たしかな意志を伴っていた。
その脱ぎようは、もはや“ストリップ”の枠を超えている。
羞恥も、ためらいもない。
むしろ――それを喜んでいるかのようだ。
これが本当の自分の姿――そう言わんばかりの堂々たる振る舞い。誇り高く解き放たれたように舞い、次々と制服を脱ぎ捨てていく彼女の姿に、楓は思わず立ち尽くしていた。
そしてそのとき――楓は思い知る。あの光は、まるで夜空の小さな星々が集まって、ひとつの超新星として爆発したような――落ちこぼれの練習生がひとりのアイドルとして“覚醒”した瞬間に放った輝き――それに魅入られたとき、楓は裸を魅せることに誇りが芽生えた。――いまだ、そこには届かないけれど。
それをいま感じたということは、あの女はすでにその領域に到達しているという証拠――
――悔しい――!
彼女もまた、おそらく――TRK26の元メンバーなのだろう、と楓は確信する。ストリップ・アイドルとしての完成度でいえば、リリザの比ではない。ダンスの実力は自分と肩を並べ、歌唱力はリリザを超える。才能であればハロクド並みだが、何となくの雰囲気で踊ってきたわけではない。明確な動機と目標を掲げ、技術と表現力を努力で磨き上げてきた――少なくとも、現時点で如月舞を超える逸材は、このライブハウスにはいない。その現実を、楓は認めざるを得なかった。
やがて音楽が終わり、照明がふわりと落ち着いたトーンに変わる。舞は全裸でステージ中央に静かに立ち尽くしていた。まるで、スイッチが切れたかのように。先ほどまでの圧倒的なオーラは消え、再び、さっきまでの無表情でどこか抜けた“でくの坊”に戻ってしまったようにも感じる。その変貌を、楓はただ呆然と見つめていた。拍手を送ることさえできない。それほどまでに――圧倒されていた。
突然現れた究極のストリップ・アイドル――陽が沈んでも、楓の中に灯った熱が消えることはない。その余韻を引きずりながらも――生活のためにファミレスの仕事に従事し、そして、再び――朝。
楓の勤務シフトは、いつも深夜に始まり、早朝に終わる。そして、そこからは――その足でライブハウスへ直行し、ひと踊りしてから帰宅する――それが日々のルーチンである。朝の静かなフロアで、誰に見られるでもなく汗を流すその時間は、楓にとって唯一無二の贅沢だった。
しかし、最近になって、その習慣に綻びが生じ始めている。どうやら舞もまた、ライブハウスをレッスン場として、入り浸っているらしい。それが楓にとって、実に厄介な話だった。楓は舞を避けたいが、舞に楓を避ける気がない。仕方なく楓は職場からの直行を諦めた。一度自宅へ戻り、そこで時間を潰し、舞が学校へと出かけていったのを見計らって、入れ替わるようにライブハウスを訪れることにしている。
それに、自宅でもできることがないこともない――たとえば、体幹を整える筋トレや、衣装のメンテナンスなど。だが、歌うことも踊ることも、集合住宅では難しい。そんな中で、楓が最近、特に時間を費やしているのが、篠田由伸の写真集だった。
――『MITO』
楓がまとめ買いした中でも、特に思い入れの深い一冊である。被写体は、古竹未兎。テーマは『復活と躍動』。その一枚一枚には、言葉では表せない熱量があった。動きの瞬間を切り取った写真は、まるで生きているかのようで、楓はそこにダンスを超えたもの――人の目では捉えきれない奇跡のようなものを見ていた。――もしかすると、ストリップを超える表現かもしれない――楓にとって“ストリップ・アイドル”とは、ただ裸になることでも、踊ることでもない。ストリッパーを越える表現者になること――その道を志している。
だからこそ、楓は毎日、日替わりで篠田由伸の写真集をめくり、その構図、動き、視線、衣装の揺れ方まで研究を続けてきた。そして、それを自分のステージ表現へと落とし込むよう努力している。
ある日――ページをめくる手を止めたまま、ふと考えてみた。――もし、自分が由伸に撮影してもらえるのなら――派手なステージよりも、薄暗い路地裏のほうがいい。そこから差し込む一陣の光と、その中で踊る自分――様々な写真を鑑賞してきただけに、その絵をありありと思い描けてしまう。
だが。
その可能性は極めて低い。何故なら、その可能性を自分で潰してしまったから。それに、知り合いの兄に向けてヌードを披露するというのも、やはり緊張するし、恥ずかしい。
それでも。
楓の胸に、ゆっくりと芽生え始めていた新たな感情――それは、表現者としての憧れと敬意。彼であれば――それは、同じ表現者としての決意の表れでもあった。
さて。
ステージに上がるメンバーは、基本的にダンスチーフを中心に構成される。現在、その役職は三人――一応、ハロクドという変わり種の四人目はいるが、滅多に出てこないので、実質三人で回している。が、そこには楓なりの不満があった。
というのも――リリザはダンスチーフであると同時に、ダンスリーダー――踊り娘たちの代表という立場でもある。そんな彼女が――しっとりと落ち着いた曲を歌いたいというのなら譲るしかない。
そして、あの女――如月舞は――すでにCDデビューしていることもあり、ロックのイメージを定着させようとしている。
そのため――楓が明るくポップな役割を担わざるを得ない。これまで、盆踊りやサンバを披露したことはあったが――自分のキャラではないな、と悩むところはある。が、どんなダンスでも踊ってこそダンサーだし、客のウケもいい。実際、少し前――夏の始まり頃、たまたまハロクドが出てきたので、彼女にファニーポップは任せて、楓はこれまで温めていたストリートに挑戦してみたのだが――その反応はイマイチだったといわざるを得ない。
楓には、個人の動画配信チャンネルである『Red Hand Moving』もある。そっちでは好きなように踊っているし……と他のふたりにシリアスを譲り続けている間に、楽しいイメージがキャラとして定着してる……? というか、もしかして、私がダンスチーフの中で一番下っ端……!? このライブハウスに加入した当初はダンス中心で、自分の実力を遺憾なく示すことができた。練習中にアドバイスしたり、相談に乗ったり。しかし、アイドルは総合力――最近はMCまで入るようになり、カリンや
これは――
色々と思うところはあるが、楓にはレッスンに努めることしかできない。何故なら、ずっとそうしてきたから。ゆえに今日もライブハウスに向かう。あの女が登校したであろう時間になってから。
しかし――
「……っ!」
楓はライブハウスのフロアに足を踏み入れた瞬間、その光景に息を呑む。そこには――とっくに授業が始まっているはずの時間に、ジャージ姿でストレッチをしている舞の姿があった。それも、校章の入った学校指定のジャージで。まるで、『私は、貴女と違って高校に通ってますんで』と当てつけのように――実際はそんなことはないのだが、高校に通うことができなかった楓は、思わず被害妄想を滲ませる。
まるで、私をイラつかせるために存在しているようね――その無神経さに、楓の眉間がぴくりと跳ねる。舞は無表情のまま、ただ自分の身体を伸ばし、ほぐしていた。一度も視線を合わせることなく淡々とストレッチを続けている。楓の存在などまるで眼中にないかのように。その態度も、楓の苛立ちを煽る。間違って休日に来てしまったか? ――シフト勤務の楓は、時折カレンダーの感覚がズレることもある。だが――今日は火曜日だ。たったいまスマホで確認したのだから間違いない。
ゆえに、楓は堂々と話しかける。
「如月さん、学校はどうしたの?」
退学になっていたら笑えるのだが。
舞はジャージの裾を引きながら、ちらりと楓を見上げる。
「学生にはね、夏休みという特権があるの」
「それは優雅なことで」
楓はわざと嫌味たっぷりに返した。だが、舞はその言葉に動じることなく、口角をわずかに上げる。
「残念ね。しばらく時計の針は私に味方してくれそうよ」
楓の心の奥がざわりと波立つ。これはきっと――休み中はレッスンに専念する――その宣言だろう。天候に縛られず、部外者に邪魔されず――ここは踊るに最適な環境だ。しかも、タダで。この先、この女とレッスンを共にするのは極めて癪だが、ここを超える練習場を、楓は知らない。
「……二学期が始まるのが楽しみだわ」
楓は、わざとらしく笑みを浮かべて言い放つ。舞は伸びをするように腕を頭上に上げ、肩を回しながら問いかけた。
「秋になるまでそこで待っているつもり? 場所を選ぶのも大事な才能だと思うけど」
楓は思わず眉をひそめる。
「ここ以上に練習しやすい場所はないからね」
結局、一緒に練習するしかないようだ。マットは一枚しかないので、楓は硬いフロアの上に腰を下ろす。広さだけで見れば、何十人と収容できる会場だ。この女と空間を共にしているということ以外に、トレーニングには何の支障もない。
楓も腰を据えたと見ると、舞は意味深な笑みを浮かべる。
「もっと貴女に適したステージを、私は知っているわ」
「それは是非教えてほしいわね」
楓は挑発するように言うが、舞は少しも動じない。涼しい顔のまま、静かに口を開く。
「一度行ってみたら? 『からおけや』というところなのだけど」
「そんな狭いところで踊れるわけないでしょう!」
楓は即座に却下するが、舞は残念そうに肩をすくめる。無表情で。
「まだ、踊りひとつで勝負していくつもり?」
その言葉に――楓の胸の奥が、ぐさりと刺された。その痛みに耐えるように、無意識に両手を握りしめる。
「当然――」
楓は堂々と反論したかったが――その言葉を飲み込んだ。それを口にしてしまったら――未だにダンスに依存していると認めることになる気がして――
楓は一呼吸置いて、視線を逸らしながら言い直す。
「……歌の練習だって、ここでできるでしょ」
舞は、ふっと薄く笑う。
「からおけやであれば、貴女の歌声を正確に評価してくれるわ」
「……採点機能ね」
それがどの程度有効か――カラオケに行ったことがない楓には疑わしいところもあるのだが。
「機械じゃ心の声までは測れないけれど」
「……貴女、私を馬鹿にしているの?」
少しだけ期待してしまったが、どうやら採点機能は、楓が思っているほど万能ではないらしい。
楓は舞を睨みつけるも、舞はどこまでも淡々と返してくる。
「貴女の歌声を届けるための場所は、ここより外の世界にあるわ」
さっきから、歌、歌、と――私は踊るために来たのに――!
「貴女、私にダンスの練習をさせたくないの?」
「貴女、歌の練習をしたくないの?」
これに――楓は返す言葉が見つからず、唇を噛む。舞の言葉はすべて正論だった。だからこそ、反論することができない。
そのまま、わずかな沈黙が流れる。やがて、舞がふっと息を吐きながら言った。
「貴女のダンスは、このライブハウスに収まるレベルではないと思っているけれど」
「……それはどうも」
舞の言葉を聞いた瞬間、楓の胸の奥が、わずかに温かくなる。上から目線で偉そうに評価されているのに――嬉しい。そう感じてしまった自分が、情けなくもあり、悔しくもあった。
舞の実力は認めざるを得ない。あのキレのあるダンス――そこだけなら楓とて負ける気はしない。だが、それに加えて、澄んだ歌声、堂々たる立ち居振る舞い。アイドルとして、自分に足りないものをすべて持っているような存在だった。
だからこそ――楓の心には、強烈な嫉妬と焦燥が渦巻く。楓が視線を外すと、舞はすっと立ち上がった。ストレッチは終わり――ここからは、ウォームアップ――だが、その立ち方ひとつまで洗練されている。そして、ゆったりとしながらも流れるようなリズム感。無駄のないラインの美しさ。だが、そこにハロクドのような奔放さはない。まるで一流のコーチの指導を受けてきたかのような完璧なる王道――その一つひとつがどこまでも勉強になる――だからといって、こんな女に弟子入りするつもりはないけれど――楓は心の中で強がりを言い聞かせていた。
一頻り踊り終えて――舞は一礼する代わりに言い放つ。
「見ているだけなら、クニへ帰ることね。貴女にも家族がいるのでしょう?」
国は関係ないが――要するに、楓にも踊って見せろ、と舞は言っているのだろう。舞はいつも、物事を伝える際に余計なフレーズを付け加えたがる。だが、今回は――その言い回しが楓は気に入らない。
「……いないわよ、そんなの」
それを聞いた瞬間――少しだけ見開かれた舞の瞳の奥にかすかな影が差した。ずっと余裕綽々で表情を崩さなかった舞の眉が、わずかに動いた気がする。少なくとも、楓の帰りを待つ家族はいない。義務教育を卒業すれば成人――その時点で、楓は家から勘当されている。ロクな高校にも行けないごく潰しは我が家には不要、と――
そのこと自体は、決して誇れることではない。だが――想定外の返答で、この女の鼻を明かしてやった――ただそれだけのことが、楓にとっては少しばかり爽快だった。
舞は少し黙って――その間もぼーっとしているだけだったが――それ以上踊ることなく、静かにステージを下りる。
「あら、もう帰るの?」
舞が荷物のほうに向かっているように見えたので、楓は期待を込めてそう煽る。舞は振り向くことなく、楓の期待を裏切ることもなく、スクールバッグを手にしてひと言告げた。
「私にも、帰る家はない」
その口調に、楓は少し居心地の悪さを感じる。まるで、私たち、似た者同士ね――そう言われているような気がして。
だから、一緒にするな、と切り返す。
「私には家くらいあるわよ」
社宅ではあるが。
楓からの反論に、舞は振り向く。だが、そこに意外そうな色はない。
「それは、とても便利そうね。雨風をしのげて」
「ええ、助かっているわ」
この付近に住もうとすれば、かなりの高額な家賃を要求されることだろう。それを、家賃補助の名のもとに大部分を支給してもらえるのだからかなりの好待遇である。少なくとも――このハコに住み込んでいるリリザを除いて、徒歩で来れるメンバーを他に知らない。楓にとって、それはひとつの優越感でもあった。
が、それを舞が意に介することもなく。
「ストリップ・アイドルは、総合力」
それだけ言い残すと、舞はライブハウスを後にした。ストリップ・アイドルは総合力――度々聞いた言葉だが、総合的に優れた舞に言われると、他の誰よりも重く感じる。
だが、それでも――舞の姿が扉の向こう側へと消え、再びガチャリと静寂が訪れた瞬間――
――勝った――! 楓は、この練習場を勝ち取ったのである。思わず拳を握りしめ、ひとつ大きく息を吐いた。これから学生の夏休みが終わるまで、時間帯は考える必要があるだろうが――ともかく、今日は楓が使うことができる。
そのまま残されたマットをさっと拭いて、そこでストレッチの続きを終えると――
「エー、エー、アー……アーアーアー……」
スマホのアプリで、ガイド音に合わせた母音の確認を。いまの自分に最も必要なのは発声の練習か。あの女に従うようで癪だが、避けて通ることはできない――それを、楓は知っていた。
その次の日――またしても、楓はライブハウスに向かう。だが、今日はひとりではない。心強い援軍と共にしていた。
「すいません~、
「……まあ、夏休みだから」
いつもの言い訳で一三分ほど遅れてやってきたのはカリン――フリルのついたオフショルダーの白ブラウスに、パステルカラーのラップスカート。軽やかなサンダルに合わせたつば広の帽子まで被っている、華やかさ全開の夏服姿だった。片手には、小ぶりながらしっかりと膨らんだスポーツバッグ。中にはトレーニング用のウェアが詰まっているはずだ。
しかし、五分くらいならいつものことだが、一〇分超えは珍しい。カリンが車で来ることは知っているが――この時期は電車を使ったほうがいいのでは、と楓は思う。
遅れてしまった申し訳なさもあり、カリンは楓に不思議そうに尋ねた。
「けど、これから練習と“撮影”だよね? なら、ノクターンに直接でも……」
カリンが遅れてる間、舞とふたりきりになるのを避けるため、楓は合流場所に職場であるファメリアを選んだ。が、そんな情けない理由を説明するつもりもない。
「仕事がいつもより押しててね」
実際は、押していたというより、押させてもらった、というほうが正しい。モーニングの時間帯は割安のメニューを狙って客もそれなりに来る。学生の増える夏休みシーズンともなればなおさらだ。それに対応してもらえるのなら、店側としてもそこまで手助けを拒む理由もない。おかげで、楓はそれなりに残業代を稼がせてもらった。
さて、ふたりがこの時間帯に練習に来るのはいつものことだが、加えて今日は――楓の個人サイト『Red Hand Moving』のための撮影もある。これまで、深夜の公園でスマホを立てかけていた楓が、いまではライブハウスのステージで、プロ用の機材を借りられるのだから――にもかかわらず、登録者数はあまり増えていない。当時は『環境が悪いから』と事あるごとに苦言を漏らしていたが、こうなってくると、そんな言い訳にも逃げづらい。
カリンとは、練習中にちょくちょくライブハウスで鉢合っている。舞と異なり拒絶する理由もなく、カリンに色々とアドバイスをしながら共にトレーニングに励んでいた。それで今日は、撮影を手伝ってもらうために呼んだのである。
午前九時過ぎの新歌舞伎町。夏の強い陽射しがビルの谷間に差し込み、大通りのアスファルトがじわじわと照り返している。通勤の人々や観光客が行き交い、開店準備中の看板や日除けテントが並ぶ街並みは、どこかせわしない。楓とカリンは、その喧騒から一歩引いた歩道を選び、にこやかに話しながら歩いていた。
「けど、撮影だったら舞さんに手伝ってもらっても良かったんじゃない?」
カリンはそんな
「それは、まあ、追々」
適当にあしらってみるも――カリンはそれを苦笑で返す。
「心配しなくても、舞さん、ライブハウスには来ないと思うよ」
「えっ!?」
これには本気で驚いた。楓自身が舞のことを意識的に避けてきたところがあるが――よく考えてみれば、自他共に認めるセンターである。他のメンバーの間では何かと話題に挙がるのだろう。
「しばらく旅に出る、ってリリザさんに話してたみたいだから。元々、カラオケボックスとか知り合いのスタジオとかを転々としてたみたいだし」
「……あのコ、本当に帰る家がなかったの……」
楓は思わず喉を詰まらせる。その口ぶりだと、おそらくこれまではライブハウスで寝泊りしていたのだろう。楓にも、少しだけそういう時期があった。なので……追い出したような形になってしまい、楓にも少しは罪悪感がよぎる。だからといって、あの場所を譲る気もないし、仲良く交互に使いましょう、なんて提案するつもりもない。
複雑そうな表情を浮かべる楓を、カリンはちょっと諫める。
「楓さんのほうが先輩なんだから……ね?」
「……勝手にセンターを名乗るような後輩にかける情けはないわ」
頑なな楓にカリンは困った顔でため息をつく。楓さんだって、舞さんがセンターだと認めているのに、と。もちろん、一朝一夕で解決できるとは思っていない。
なので――ライブハウスに入るタイミングで、カリンは別の話題に変えることにした。ライブハウスの前に着き、カチャカチャと鍵を開けている楓に、カリンは後ろから何気なく話しかける。
「ところで、明日のお昼、予定ない?」
「そりゃ、まあ」
とノータイムで答える。楓にとって、昼間は就寝時間だ。埋まっているほうが少ない。
「良かったら、ランチとかどう?」
「はぁ」
カリンも夜型の生活を送っているはず。夜食や朝食ならまだしも、何故ランチ? と思えば――
「お兄ちゃんが、新歌舞伎町で出版社の人と打ち合わせがあるらしくて」
「……はぁ!?」
いまの由伸は、楓にとってただのコネクションではない。教科書として頼りにしている写真集の撮影者であり、表現者としても尊敬している。
写真集にサイン、もらえないかな――? 前に、失礼な対応で不興を買っているにも関わらず、楓はそんなミーハーな期待を早速抱く。このあいだと違って、今度は名実ともにファンなわけだし。
「まぁ……いいけど」
素っ気なく答えようとするも――ニヤけた表情を引き締めることができない。いずれにせよ、小手先の仮面なんてお見通しだろうが。そんな気兼ねしなくていい相手だからこそ――楓は、カリンの隣に心地よさを感じてしまうかもしれない。