Paradise Lost - ストリップ・リクライシス 作:添牙いろは
さて、その日は気合いを入れて撮影し、早速動画もアップして――あわよくば、由伸に観てもらうために――結局、閲覧数の伸びはいつも通りだったけれど、そこはそれ。観てもらいたい人にさえ観てもらえれば、それでいい。
だが、問題はまだまだある。何しろ、印象最悪からのスタートだ。そこで、奢ってもらって当然、のような顔はできない。だが――新歌舞伎町で、ランチ――当然、ファメリアのようなチェーン店に入ることもないだろうし、社員割りは利かない。
ここは、腹を括って――正社員の財力を解き放つとき――! その夜、楓は口座の残高を見ながら決意を固める。これは未来に対する『必要経費』――! けど――人付き合いって、お金がかかる――これまで、ひとりで活動してきた頃には想像もできなかった悩みだ。いかにいまの環境が恵まれているか――それを思えば、ランチのひとつやふたつ、どうとでもなるだろう
そんな意気込みと共に深夜シフトを乗り越え――当日となった翌朝もしっかりとレッスンはこなした。ルーチンワークになっているので、サボると調子が狂いそうだし――それに、いまは舞から場所を譲ってもらっているも同然である。少しでも追いついて、あの女を後悔させてやりたい。
ただ、ランチの準備があるので、切り上げる時間は少し早めに。服装は――例によって、面接のときに着ていくリクルートスーツ。これなら、ドレスコードを心配する必要もないだろう。そして、何より重要なのは――由伸の写真集三冊――いまでは全部買っているし、しっかり読み込んでいる。今度は、堂々とファンだと名乗ることができるだろう。なんなら、タイトルどころか、写真一枚一枚にさえ反応できる自信がある。
家を出る前に、鞄の中を再確認――大判三部は少々重いが、さすがにもう抜かることはできない。
待ち合わせは、ライブハウス・ノクターンの前――普段は遅刻の常習犯であるカリンだが、兄同伴のおかげか、正午五分前に到着した。楓は十五分前に到着していたが。
「こんな可愛いファンと再会できるなんて、光栄の極みだね」
現れた由伸は、相変わらず落ち着いていた。黒に近いダークブラウンの短髪は丁寧に横へ流され、よく手入れされた眉と端正な輪郭が、上質なスーツに自然と馴染んでいる。装いはシンプルながらも細部に品があり、身につけている腕時計さえも、無駄なく洗練されていた。その姿からは、いかなる場でも揺るがぬ自信と、隙のなさが滲み出ている。
由伸の言い回しは、相変わらず真意が読めない。歓迎されているようでもあり、一線を引かれているようでもある。
「先日は、そのー……いきなりお会いしてしまったもので……緊張してしまって……」
言葉を詰まらせながらも、楓は一生懸命に言い訳を並べる。そして、カリンのほうにチラリと目線を送ると――カリンはヘラっと笑って見せた。
「楓さん、人見知りだから」
うん、しっかり伝わっている。今回の設定は――楓は元々由伸のファンだったが、写真集の話に対応できなかったのは、緊張してうまく話せなかっただけ――もちろん、相手はカリンの兄である。その程度のウソはお見通しだろう。だとしても――物事には建前というものがある。オーディションでも、バイトの面接でも――応募者だけでなく、採用側にも。それが、社会人というものだ。由伸くらいの人物であれば、そのくらい弁えているはず――ここはあえて、それに甘えさせてもらいたい。
「今日は……お誘いいただきまして、ありがとうございます」
「こちらこそ驚いてるんだ。妹の仕掛けには敵わないよ」
どうやら、カリンのゴリ押しで兄妹のランチに楓をねじ込んだらしい。
「楓さん、お兄ちゃんのサインほしいって、言ってたもんね」
ナイストス! 本当に、こういうときのカリンは頼りになる。写真集を持ってきていることは話していないが、これでサインをお願いしやすくなった。もし何も持っていなくても大丈夫なように、“何に”サインするかは伏せている。こんなにカリンの存在がありがたく感じたのは――楓が路地裏で前のオーナーから襲われたとき以来かもしれない。
「はっ、はい……写真集、全部持ってますし……次の、リリちゃんのも……!」
楽しみにしてます、と楓は言葉足らずのエールを送る。リリちゃん――
このような大通りでヌード写真集の話をするのも気が引けるが、飲食店に入ればもっとだろう。だからせめて、いまのうちに少しでも聞いてみたいと思っていたのだが。
「水裏さんはね、写真には収まりきらないタイプさ。あのセリフの間……空気……彼女のドラマは観ているかい?」
「あ、はい……」
楓としては、もう少し写真集の話をしたかったのだが。
「水裏さんの奥行きは……お芝居での空気の切り方は、圧巻のひと言だよ。これも、コメディリリーフとしてのコントの中で培われてきたものかもしれないね」
ここまで芸能関係に踏み込まれては、さり気なく写真の話に戻ることなど、楓の話術ではできそうにない。
「そ、そうですね……」
レストランへの道中は、そんな普通の話題でつながれた。夏休み中の真昼とあって、アーケードの下やカフェの前には若者の姿が目立つ。制服姿の高校生や、旅行中らしきキャリーバッグを引いたカップルなどが行き交い、どこか浮ついた雰囲気が街に漂っていた。
そんな中、ふと由伸は足を止め、店の看板を見上げる。構えは小ぢんまりとしており、正直、あまり目立つ外観ではない。それでも、新歌舞伎町の雑多なビル群の中にあって、そこだけは確かに“特別”であろうとしていた。外壁には淡い色のタイルが貼られ、木目調のドアと真鍮の取っ手、手書き風のロゴが控えめに掲げられている。入口脇には鉢植えのハーブと、ランチメニューを記した黒板ボード。どこか都会の喧騒から切り離されたような、小さなオアシス――そんな雰囲気が醸し出されている。
「ここでいいかな? 妹のプレゼンにしてはなかなかにロマンチックだったからさ」
「ほら、前にお話ししてたところですよー」
「えー……あー……」
何とか思い出そうとするも、自分には縁のない店だと聞き流してしまっていたのかもしれない。本当に、こういうところがダメだな、と楓は深く反省していた。
カリンは少し残念そうだったが、そのまま三人で入店していく。昼下がりの喫茶店は、程よい賑わいを見せていた。木製のテーブルには白いクロスがかけられ、窓際の席にはレースのカーテン越しに、淡い光がゆらいでいる。コーヒーの香りと焼きたてのパンの匂いが、空間全体をふんわりと包み込んでいた。きれいなお店――あまりにお高そうなキラキラっぷりに、楓がこれまでつい避けてきた雰囲気を感じる。こんなところに私が――? それも、店員ではなく、お客さんとして――? むしろ、これから『お疲れ様ですー』とか言いながら厨房に引っ込むほうがしっくりくるくらいだ。
「予約していた篠田です」
ランチひとつに予約とは。やっぱり金持ちの家なのかな? と楓は思う。撮影機材って高価なものが多いだろうし、という憶測とともに。
案内されたテーブルに乗っていた『予約席』のプレートに、楓は少し驚愕する。研修では教わったけど、ファメリアで実際に使用したことはない。
揺れるカーテンがほんのり明るさを滲ませていており、直射日光ではないため暑さはなく、光の加減が絶妙に心地よい。外の喧騒とは対照的に、さわやかで穏やかな空間が広がっている。
「えーと、忘れないうちに……」
多少強引な切り出し方だが――楓にはカリンのように自然な会話の流れを作ることは難しい。それに、お荷物はこちらに、なんてカゴに収まってしまったら、いよいよ機を逸してしまう。楓はカバンの中に手を入れ、少しだけ周囲を気にしながら取り出す。写真集『MITO』――表紙は着衣のショットとはいえ、由伸の写真集である。知っている人が見れば『アイドルのヌード写真集だ』と気づいてしまうかもしれない。楓は少し気まずさを感じながらも、一度、息を浅く吸い込んで、視線を合わせた。そして、表紙裏を開き、由伸のほうにペンと一緒に差し出す。
「……サイン、お願いできますか?」
由伸は、ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。決してこれは、サインのために買ってきた新品ではない。何度も読み返してもらった痕跡を、この一冊からはたしかに感じる。先日の時点ではさておき――いまでは対等に向き合うべき相手だと、由伸は感じていた。
「こんなに大事そうに持ってこられちゃ、断る理由が見つからないね」
受け取った写真集をテーブルに置き、由伸は慣れた手つきでペンを走らせる。サラサラ――流れるような筆跡。サインを書き終えたその手元を、楓はじっと見つめていた。自然体でありながら、自信に満ちたその動き。楓は、いつか自分もこんな風にファンにサインを求められる日が来るのだろうか――そんな遠い未来を想像してみる。だが、現実味はまるで湧いてこなかった。
「ささやかだけど、お守りにでもしてくれ」
由伸が写真集を戻す。楓は両手でそれを受け取り、食い入るようにサインを見つめていた。
「ありがとうございます……!」
心の底から湧き上がる喜びに、楓は思わず声を弾ませた。
「美しいランチの同席者に、サインひとつで帳尻が合うなら安いもんだよ」
楓と由伸がうまくまとまったのに一安心したところで。
「それじゃ、ごはんを選びましょっか」
とカリンが促す。楓は、こういうところで迷っていては恥ずかしいな、と思い、速やかに――それっぽくオシャレなランチセットを選ぶ。
「なるほど。妹が気にするはずだ」
メニューを見ながら由伸が微笑む。
「えへへ、ここのジェノベーゼ、美味しいって評判みたいで」
じぇ、じぇのべ――? オシャレな喫茶店でしか聞かないような単語に――そういえば、ここはオシャレな喫茶店だったか、と楓は思い出す。ファミレスでの勤務もまだ一年未満なので、そのようなメニューにはいまだお目にかかったことはない。篠田兄妹とは住んでる世界が違うように感じて、楓は少し気後れしてしまう。
さて。
楓が注文したのは、彩り豊かなサラダと冷製スープ、そしてハーブの香りが立つローストチキンプレート。こんがりと焼かれた鶏肉の表面には軽くオイルがかかり、カリッとした皮の下からはジューシーな肉汁がのぞく。カリンはパスタランチ、由伸はあっさりとした魚介のセットを選んでおり、それぞれがテーブルの上で湯気を立てていた。
料理が運ばれてくると、由伸が手を合わせて「いただきます」とひと言。
「このチキン、香りだけでもう満足感ありますね」
「ドレッシングもすごくフレッシュ」
カリンはサラダをひと口食べながら楓に頷く。
「焼き加減が絶妙だね。外はカリッとしてるのに、中はふわっとしてる。ソースも控えめでいい」
由伸も白身魚にフォークを入れながら、と静かに感想を述べている。それぞれが料理に舌鼓を打ちながら、和やかな雰囲気がテーブルを包んでいた。
そして、食後を見計らって運ばれてきたのは、セットのデザートプレート――焼き立てのアップルパイと、アイスクリーム、そして香り高いシナモンティー。パイの表面にはたっぷりのシナモンシュガーがかかっており、湯気とともに甘く刺激的な香りが立ち上る。
楓は、思わず顔を近づけて深く吸い込んだ。――幸せ。シナモンの香りには、なぜだか心がほどけるような安心感がある。大好きな香り――だけど、ファミレスのまかないにはなかなか出てこないし、スーパーで買うほどでもない。だからこそ、パイと紅茶でシナモンがかぶるほど、贅沢に満喫させてもらっている。
「……こういうの、ほんと久しぶりで……」
楓はつぶやきながら、パイにフォークを入れた。口に含むとサクッと心地よい音がして、温かい果実の甘みが広がる。そのとき――ふと由伸の視線を感じて、楓は少しだけ口元を拭った。その微笑みに、楓の頬が少しだけ赤くなる。思わず目を逸らしかけるが、気づかれないようにもう一度笑みを作った。変な顔してないかな、とほんの一瞬、自分の表情が気になってしまう。が、とりつくろうほどの余裕もなく、そっと笑った。だが、その場の雰囲気は決して気まずくはなっていない。由伸は、そのまま軽やかに会話を続ける。
「そのナイフの扱い……実に鮮やかだ。そういえば、現役のプロだったっけ?」
「あ、はい。ウェイトレスをしています」
とは言いながらも、配膳というより厨房のほうが仕事は多い。ほぼほぼ加熱するだけとはいえ、簡単に食材を切ることも多い。
「その界隈ともなれば、工場の味が主流になりがちだけど……店ならではのこだわり、なんてのもあるのかな?」
「あ、そうですね……うちのお店では、サラダのドレッシングだけは手作りなんです」
マニュアル通りの比率ではあるけれど。
「ほぉ、それは侮れないな。ドレッシングって、料理の性格がにじむ場所だからね」
楓が話すたびに、由伸は『うん、うん』と相槌を打ちながら、さらに話を広げてくれる。その巧みな聞き方に、楓の緊張は次第に解けていった。どんな塩対応をされることかと覚悟してきたのに――なんだろう、こんなに話しやすい人だったっけ? ――楓がふとカリンの方を盗み見ると、カリンは穏やかな笑みを浮かべている。さも、自宅で寛いでいるかのように、ゆったりと。おそらく、これが自然なやり取りなのだろう。この兄の下で育ったから、あんなコミュ力になったんだろうな――そんな思いを馳せながら、楓は再び由伸の方に目を向けた。
「コーヒー、ブラックなんですね」
楓が尋ねると、由伸はカップを傾けて微笑む。
「キミの甘い視線があれば充分さ」
いまどき、そんなセリフを真顔で口にする男がいるとは思わず、楓はつい吹き出してしまう。
「いつもそうやって女性を口説かれてるんですか?」
楓は少し笑いながら返す。由伸は軽く肩をすくめて――じっと楓と目を合わせた。視線が絡んだそのとき、楓の胸がふっと浮くような感覚に包まれる。まるで時間が切り取られたような、そんな錯覚すらあった。
「いや、写真家というのは口説くより、見つめるほうが得意なんだよ」
楓は、少しだけ視線を逸らしながら尋ねる。
「じゃあ……私はいかがでしょうか?」
その瞬間、由伸は真剣な眼差しで楓を見つめ――穏やかに微笑む。
「魅力的だよ」
その言葉に、楓の心臓がどくんと高鳴る。この人は、本気で言ってるのか――? 軽く言ってみただけのようでいて、どこか響くような口調。それが、楓の胸の奥にじんわりと染み渡っていった。カップのコーヒーから立ち上る蒸気が、ふたりの間にふわりと漂う。
本来、この手の社交辞令をまともに取り合う楓ではない。本心をごまかすための作り笑顔に、彼女は人一倍敏感なのだから。にもかかわらず――由伸の表情は、いつも真剣で、いつも嘘っぽい。だからこそ、否定しきれず――曖昧なまま、この時間が続けばいいのに――そんなことを思わせるような魔力が、彼の言葉には宿っていた。
楓は、由伸の眼差しを真正面から受け止めながら、少しだけ背筋を伸ばす。
「それは……被写体、として?」
ここまで、写真の話はまったくできていない。しかし――楓の由伸への憧れは、やはり写真家としての姿勢にある。
「私、これでもステージに立つ人間ですから」
それも、ストリッパーとして――言葉には出さなかったが、その想いはきっと伝わっているはずだ。由伸ほどの目を持つ人物ならば、楓の覚悟も、彼女が“見せる”ことにどれほどの意識を傾けているかも。
由伸は、ふと視線を宙に向け、それから軽く息を吐く。
「“踊る肉体”と“踊らない眼差し”……その対比が一枚に収まるのなら……確かに悪くない構図だね」
その言葉に、楓の胸が高鳴る。これは――もしかして――! ダメ元だった進言に、一筋の希望が胸の奥で弾けるように灯る。
だが――
「けれど……生憎、口説く女性は一度にひとりだけ、と決めてるんだ」
言って、由伸はわずかに口元を緩め、片眉を上げる。楓の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。つまり――いまは別に撮りたい人物がいるということ――
「……それは、実に興味深いですね」
少しだけ嫉妬しながら、楓はそんな強がりを口にした。が、半分以上は純粋なる好奇心でもある。由伸が選んだ被写体――それは、自分の表現にも大いなる刺激を与えることだろう。
楓からの視線を面白がるように、由伸は軽くウィンクを飛ばす。
「なぁに、キミもよく知っている
意外な言葉に、楓は思わず――カリンのほうに振り向いた。
「違う違う! カリンじゃないって!」
本人が慌てて手を振って否定する。由伸は、そんなふたりのやり取りを、どこか微笑ましそうに眺めながら――彼がそれを隠すことはない。隠す必要もないだろう、と判断して。
「何しろ、キミの劇場でセンターを務めてるって話だからね」
その瞬間――楓の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。如月舞――! その顔が脳裏に浮かび、楓はぐっと唇を噛みしめた。よりにもよって、あの女に――!
自分が勇気を出して踏み出した先に、舞はとっくに招かれていた。
自分が努力を重ねてきたその先に、舞はとっくに到達していた。
何もかもが、あの女の思うようになっている――!
悔しさの涙を堪えるので精一杯だった楓の様子に由伸が気づかないはずがない。ゆえに、この話題は終わりだ、と言いたげにカップのコーヒーを飲み干す。だから、写真の話はしたくなかったのだが――そんな哀れみの視線に、カリンだけが気づいていた。
昼食の後――楓は、駐車場まで由伸を見送る。当然、カリンも同乗して帰るのかと思ったが――
「あ、カリンはこれからライブハウスで練習していくよ」
それは由伸も聞かされていなかったようで、少しだけ意外そうにドアにかけていた手を止める。
「練習熱心なのは感心するが――」
ここで――由伸は初めて本気の視線を見せる。
「……あまり、そのステージに執着するものじゃない」
それはまさに、兄が妹を戒めるような忠告――だが同時に、ステージに立つすべての仲間たちをも切り捨てる言葉だった。
楓はそれに何も言えない。振り切るように運転席に乗り込んだ由伸は、そのまま車を走らせていく。そのテールランプを眺めながら、楓はこれまでにない胸の苦しさを感じていた。 駐車場の奥に伸びる日陰には、蝉の声も届かない。ふたりを包む空気はひっそりと静まり返っていた。
篠田由伸――あれほど自分の作品に誇りを持ちながら、妹のストリップ活動に対して、あんな否定的な態度を取るなんて――楓は、あの日以来、胸の奥に燻るような感情を抱えていた。自分は裸を撮りながら、妹の活動には眉をひそめる。それは明らかなる矛盾だ。見損なった――ともいえる。カリンの兄だからこそ、失望はなおさら大きい。
けれども――
楓はため息をつきながらも、机の上に広げた写真集『MITO』を見つめていた。ページをめくるたびに目に飛び込んでくるのは、美しい構図――逆光を背にした横顔のカットや、風に揺れる髪を捉えた瞬間のシルエット――写真の中の古竹未兎は、ただ立っているだけなのに、まるでその一枚一枚が物語を持っているかのように見えた。
楓のなかで、由伸に対する印象が尊敬と軽蔑のはざまで揺らいでいることは事実である。それでも、写真が美しいことには変わりない。楓は、悔しさを押し殺しながらも、その作品を研究し続けることはやめなかった。いくら撮影者に含むところがあっても、その腕前には抗えないものがある。
そして――日曜日。ファミリーレストランの仕事は、ストリップ・ライブがあるため休みを取っている。今日はカリンと
壇上では、ダンスチーフである楓を中心に、三人は息を合わせた動きを見せている。カリンの動きには明らかなる成長が見られ、新月の柔らかな歌声も調和に華を添えていた。楓は――直前まで抱えていた迷いをステージに持ち込むことはない。『内には、すべての不安を押し留め、外には、ただ踊るだけ』――それが、楓にとって唯一の表現だった。
そんな三人を眺めるリリザの視線は柔らかい。今日のステージの成功を確信しているのだろう。場内には静かな熱気が満ち、観客の視線が一点に集まっていた。
だが、そのとき――
「お願い! ここの責任者に会わせて!」
ホールのドアが勢いよく開かれる。飛び込んできたのは――けばけばしい化粧をした女性だった。真っ赤なリップ、目尻を跳ね上げたアイライン。胸元が大きく開いたドレスは派手すぎて、完全に水商売の女――“新歌舞伎町の住人”だと察した。
――なんか嫌な予感がする。楓は目を細め、女の動きに警戒していた。
「お願い……!」
女は必死の形相でフロアを見回す。楓たちは、一斉にリリザの方を見るが――リリザはため息をつきながら、髪をかき上げる。
「店長は控室にいますので、案内しますね」
そう言うと、リリザは女を促し、控室の方へと消えていった。楓は再び振り付けの位置に戻ろうとするが、カリンも新月も、明らかに動揺している。このままでは、本番の開催すらも怪しい――そんな予感を、楓も感じている。
仕方ない――楓は小さくため息をつき、リハーサルを中断することにした。
「……ちょっと見に行ってみる?」
楓が提案すると、カリンも小声でそれに応じた。
「そうだね。なんかタダゴトじゃない感じだったし」
楓と新月は頷き、三人でこっそり控室の前まで足を運ぶ。廊下の壁に身を寄せ、静かにドアの隙間から中を窺っていた。その控室では――エリが事務用デスクに腰掛け、件の女と向かい合っている。リリザは丁寧にお茶を出し、静かに席に戻ったところのようだ。
エリの表情は、相変わらず冷静で優雅に見える。どこかの令嬢のような佇まい。その表情を崩すことなく、静かに口を開く。
「ご用件は、後ろの皆様の前でもお話しできる内容でしょうか?」
その言葉に――楓たち三人は一瞬息を呑む。控えめに覗いているつもりだったが、エリにはすでに気づかれていたらしい。
「ええ、誰の前でも」
女は胸を張って言い切った。それで、エリは口元に薄く微笑を浮かべる。
「では、どうぞ」
楓たちは顔を見合わせ、わずかに息を呑むと、無言のまま控室の中へと入る。明らかに気圧されているのが分かる空気だった。リリザはそのまま座っている。追加のパイプ椅子を並べるつもりはないらしい。なので、楓たちも各々パイプ椅子を広げて座り、視線を女に向ける。重々しい空気の張り詰める控室――彼女は先ず源氏名を名乗った。
「私は、『デイドリーム』ってとこに勤めて……いた、エルメ、と申します」
その言葉に、楓の眉が僅かに動く。――勤めて
「用件はわかりましたわ」
「えぇっ!?」
新月が声を上げる。楓も驚いたことには違いない。わかったって――何が? きょとんとしている楓たちのために、リリザが静かにエリの方に視線を向ける。
「説明して」
リリザは――どうも、エリと相対するときは
だが、エリの受け答えは変わらない。そのまま楓たちの方を向かず、あくまでエルメと向き合ったまま話を続ける。
「デイドリームといえば……先ほど摘発が入った風俗店ですわね」
「……さ、さすが、耳がお早い……」
エルメは項垂れたまま、小さく息を吐く。その肩の震えは、わずかにだが、楓の目にも見えていた。
「この街において、情報は値千金。常に警戒を怠るわけにはまいりませんので」
淡々と答えたエリの言葉に――楓は不意に背筋が寒くなる。この街って、そんなに危険なの――? 実際、リリザもエリと同じタイミングで状況を把握していた。これに楓は――もしかして、のんびりダンスだけに注力していることもできない――? そう思うと、思わず身が震える。
新歌舞伎町――大の大人の男が女子を平気で殴り飛ばすような無法地帯。楓もそんな事態に直面してきたが、いまエリが口にした言葉は、さらにその上を行く冷ややかさを孕んでいた。
「なるほど……あなたがたが原因だったのですね」
「えっ」
エリのひと言で、エルメの顔色が変わる。楓も思わず息を呑んだ。原因って――何?
「ここからは、エルメさんとふたりでお話ししてよろしいでしょうか」
エリは優雅な所作でカップに手を伸ばしながら、視線を楓たちには向けないまま言う。その態度からは、これ以上の介入を許さないという強い意志が感じられた。
カリンと新月は、心配そうにエルメの方を見つめながらも、席を立とうとする。だが――
「エリさん、私にも聞かせてください」
楓の声が響いた。新月も驚いているが――カリンはむしろ怯えている。ここから先は、自分たちが踏み込むにはあまりに危険――そんな空気を察していたから。けれど、楓は目を逸らさず、まっすぐエリを見据えている。私は<計画>の一翼を担う立場にあるのだから――重要な話ならば、自分も知っておきたい。舞と共にエリから<計画>の話を受けたとき、舞は――本当に聞いていたか怪しくなるほど興味を持っているようには見えなかった。ならば、自分がアイツの分までしっかりしないと――ダンスチーフの一員として――自分の居場所を守るため、楓はそう覚悟を決めていた。
エリは、ふっと静かに息を吐く。そして、ようやく顔を楓の方へと向けた。その瞳には、冷たさと優しさが同居している。
「そうですわね……」
エリの口元がゆっくりと緩む。控室の空気が、さらに張り詰めたものへと変わった。彼女の声は、落ち着いていながらもどこか重々しい響きを帯びている。
「――これは、この街に住むすべての人の問題でもありますから」
その言葉に促されるように、カリンと新月も席に座り直す。楓も椅子の背もたれに深く身体を預け、しっかりとエリのほうへと向き合った。
エリは空気を切り替えるようにゆったりと一息つくと、静かに話し始める。
「ことの起こりは……新歌舞伎町の特別措置法縮小案です」
そのひと言に、楓は思わずため息をついた。
「……またですか、それ」
それは、三〇年ほど前の出来事――当時は『管理社会』と呼ばれ、あらゆる娯楽が厳しく規制されていた。風俗店は次々と閉鎖され、歌舞伎町はスラム街のような様相を呈していたという。『歌舞伎町クライシス』――教科書にこそ明記されていないが、その俗称は国民の間で広く知られていた。
しかし、政権交代が起こり、『開放党』が政権を奪取すると、状況は一変。管理社会時代に制定されたルールは次々と撤廃され、国民はかつての自由を取り戻したのである。
その際、政府は新たな特別措置を設けた。それが限定地域による風俗業の許可制度である。営業許可を得るための基準は大幅に緩和され、多くの店が改めて事業を再開した。その結果――歌舞伎町は『新歌舞伎町』として生まれ変わり、自由な表現を謳歌する街となったのである。
だが、それは同時に『自己責任社会』の幕開けでもあり、楓には苦難に満ちた生活をもたらした。ゆえに、楓は『自己責任社会』をあまり歓迎していない。かといって、何かある度に辞任辞任と騒ぎ立てる野党のありようには辟易しているが。
特に『管理社会時代』に政権を握っていた『安心党』は、撤廃された規制を復活させるべく、特別措置法の縮小案を度々提出してきている。しかし、それらはすべて反対多数で却下されてきた。それでも懲りずに繰り返すのだから――もはや風物詩と化している。
しかし。
「今度は、その他野党からも賛同者が出ているようで、予断を許さない状況です」
「え?」
楓は耳を疑った。しかし、エリの表情はいつになく深刻である。口調こそ落ち着いているが、その視線の奥には焦燥の色が見え隠れしていた。
カリンが不安げな表情を浮かべながら、隣に座るエルメに目をやる。
「……原因……」
エルメも、どこか遠くを見るような視線で俯いていた。最初はただのトラブルに巻き込まれた程度のつもりだったのかもしれない。だが、いまはその顔色がさらに青ざめ、まるで本当の恐怖に囚われているかのようだった。
新月がやや引きつった様子で尋ねる。
「エルメさん、一体何をしたの……」
だが、これにエルメは心底驚く。
「私は何もしてないってば!」
本気で否定しているので、よほどシャレにならない状況らしい。
「ただ、店の方にガサが入って……」
「ガサ?」
楓の胸がざわめく。エルメは喉を鳴らしながら、唇を噛んだ。
「なーんかね、うちの店に未成年のキャストがいたとかで……」
「うわ……」
エルメの言葉を聞いた瞬間、楓は露骨に嫌そうな顔をする。一般的な感覚で。しかし――新歌舞伎町という街でそれが発覚すれば、ただ事では済まされない。
この街は『自己責任社会』を謳っているとはいえ、何でもかんでも自己責任として切り捨てているわけではない。特に、義務教育卒業をもって成人とする、と年齢が引き下げられた代わりに、中学生以下の扱いについては極めて厳しい規制が設けられている。
もし、本当に未成年キャストの存在が発覚したなら――楓の脳裏に浮かんだのは、黒いスーツに身を包んだ“彼ら”の姿。その存在は、新歌舞伎町の住人にとって超法的に治安を維持している畏怖の象徴である。もし彼らが動けば、“先代オーナー”のような末路は避けられない。それは街の中で密かに囁かれている噂話であり、誰もが知っている事実でもあった。ゆえに、部屋は静まり返る。その深刻さに、何も言えずに。
そんな恐怖を和らげるためか、カリンがそっと言葉を添える。
「警察に介入させちゃうと、開放党の責任問題になってくるから……」
規制の再来を恐れて、街のことは、街で解決を――それが、新歌舞伎町の特殊性だった。
だからこそ。
「で、他の党にも賛同者が……」
そういうことならば、楓にも事情を理解できないこともない。現在は開放党の一強で、他の政党はその地盤を崩すことだけを目的に政治活動を行っている――ように、楓には見えている。それは政治家というより活動家ではないか。無責任な文句を――議事堂の外で騒ぐか、中で騒ぐか――違うのはそのくらいのもので。
しかし、何故それが進展しないのかといえば。
「とはいえ、相手が安心党ですので」
エリの言葉に、楓の眉が僅かに動く。安心党――『安心』の名とは裏腹に、その実態は過激な左翼であり、管理社会を牛耳ってきた強硬派である。他の政党も、さすがに旧時代への逆行は避けたいらしく、連立を組むにも慎重な姿勢を見せていた。
しかし、今度ばかりは――未成年の風俗営業――これを無視しては開放党を批判する側としては立つ瀬がない。
「とりあえず、『特措法の縮小案』だけは協力していいのでは……という空気が、野党内にありまして」
“とりあえず”で潰されてたまるか――! エリの言葉は軽いが、楓は重く受け止めている。楓は主語の大きい話に興味はない。楓は、自分の生活を第一に考えている。ゆえに、管理社会への回帰はある程度歓迎しつつ――戻してほしいところを戻さず、自分の生活だけ不便になるような規制は認められない。
その元凶となった『デイドリーム』――キャストであるエルメにも非難の目が向けられている。それに焦ったように、当の本人は膝を揺らした。
「けどさー、うちだって被害者なんだよー。偽造の身分証掴まされちゃって。ま、確認が甘かった、ってのは否めないけど」
「だったら、正直にそう訴えれば?」
楓が強めの口調で言うが――エリが、ため息交じりに静かに首を振る。
「新歌舞伎町という一帯は、外の法とは別の力関係で動いておりますので」
ああ、そうだった――と楓は黒服の存在を思い出す。
「迂闊に触れれば、このようなライブハウスなど、明日にはなくなっていてもおかしくありません」
ビクッとして――楓は思わず
このままではマズイ――何か解決策を提案しないと、誰かが不幸になるのでは――それで、楓は思いつくままに口にする。
「なら、それらとはまた別の力のある人に訴えてもらう、というのは?」
「え……?」
カリンは楓の発言の意図を汲み取れず、驚きの目を向ける。実際、楓とて深く考えていたわけではない。ただ――警察にも、黒服にも頼れないのなら、他の誰かに頼むのはどうか、と思っただけで。
しかし、その横で――エリは楽しげに口の端を上げる。まるで遊戯に興じるような――“新たなカードを手に入れた”と言いたげに。
「それはそれで、面白いかもしれませんが……」
エリはエルメに向けて話を戻す。だが、その瞳にはどこか冷ややかな色が滲んでいた。
「楓さんの意見には一聴の価値があるとはいえ……少なくとも、我々には御社を救済することはできません」
そんな無慈悲なひと言にエルメは――ここの店長は来客から興味を失っている――その危機感から、訪れた目的を切り出すことにした。
「いや、そうではなく」
楓たち全員がきょとんとした表情を浮かべた。エルメはそのまま、視線を泳がせながら続ける。
「政治とか、権力とか、話の腰を折っちゃって悪いけど……私は私で、身の安全を確保したいというか……」
「……それで?」
エリが早々に話を切り上げようとしているので、エルメは端的に要求だけを告げる。
「私さー、ここ一週間ほど休み入れてたのね。だから……一週間前にはこっちに移籍してたってことにしてくれない?」
「それは無茶でしょ……」
楓は呆れたように返す。だが、エルメの食い入るような表情を見ると、どうやら本気で言っているらしい。
「そもそも、そういうことならライブハウスよりソープとかに頼むのが筋なんじゃ……」
不思議そうに楓が呟くが、エリがそれを糺す。
「同業他社に移ると引き抜きを疑われる……ということですわね」
この街唯一のストリップ業であるため楓は知らなかったが――風俗業の同業他社への移籍は、事務所同士の慎重な協議を通さなければならない。店に無断で他所に移ることは“黒服案件”である。
新月はそのことを何となく把握していたので、別の疑問があるようだ。
「というか、過去に遡って手続きなんてできるの?」
ログファイルやデータの操作履歴が残りそうなものだが。しかし――エリはにっこりと微笑みながら、唇の端を少しだけ上げる。
「だからこその、アナログ・ドキュメントですわ♡」
その言葉に――楓は、以前のオーナーが紙の書類に向き合っていた光景を思い出した。デジタル管理が当たり前の現代社会において、新歌舞伎町の取引や契約が“紙”で行われているという事実。数値の改竄も、おそらくは紙の上で行われているのだろう。――ここでは、帳簿の信頼性なんて期待しちゃいけない――外の世界の常識の通じない無法地帯に、楓は目眩を起こしそうだ。しかし、エリは平然とした様子で続ける。
「とはいえ……
エルメは、その言葉を聞いて即座に顔を上げた。目には一筋の光が宿っている。
「そこは大丈夫! 私、カラオケは得意だから!」
控室の扉が閉ざされ、エルメが舞台に立っている。ちょうどさっきまでリハーサルを行っていたこともあり、ステージの準備に手間取ることはない。早速、エルメのストリップ・ライブを披露してもらうことになった。
ステージの上――エルメはスポットライトを浴びながら、深呼吸をひとつ。そして、音楽が流れ始めた。
「朝まで、呑みましょう……温もり、求めて……♪」
エルメの歌声は、それなりに安定している。音程も外していないし、リズムもそこそこ合っているようだ。しかし、楓の目には、そのパフォーマンスがどこか物足りなく映る。そして、その原因にすぐに気付いた。踊りながら歌うことができていない――エルメは、歌唱中はほとんど動かず、その場で軽く左右に揺れながら腕を振る程度。まさにカラオケである。振り付けという要素はほぼ考えられていない。
そして、間奏部分に入ると、それっぽく腰を振り始め、手際よく衣装を脱いでいく。だが、そのストリップもどこか淡白な印象を拭えない。おそらく――風俗嬢として裸になることに慣れすぎてしまっているのだろう。
これじゃあ、ステージとしては地味かも――楓は内心でため息をついた。ダンサー出身の楓から見れば、エルメのパフォーマンスはどうにもつまらない。一方で、カラオケ上手が歌いながら脱いでいく、と考えれば――その方向では観客に喜んでもらえるのではないかとも思える。
これに照明などの演出も加われば、形にはなるのでは――楓はそう結論づけることにした。いまはダンスばかりではないし、歌に特化しているのも悪くない。あと、それなら自分ともかぶらないし、と打算的なことを考えつつ――楓はエルメの加入をやんわりと歓迎していた。