Paradise Lost - ストリップ・リクライシス   作:添牙いろは

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秘密結社・パラノイア

 直前の舞台裏で波乱はありながらも、日曜日のストリップ・ライブが終わり、出演者たちはステージから控室へと戻る。楓たちは汗を拭きながら、それぞれの荷物をまとめていた。カリンは元々深夜勤務で、昼夜逆転にも慣れている。どうやら、新月も似たようなサイクルで生活しているようだ。

「ねえ、ファメリアで朝まで打ち上げしない?」

 カリンの声は楽しげで、いつもの無邪気な期待に満ちていた。新月もノリノリで頷き、口元に笑みを浮かべながら楓の方を見やる。

「うん、行こう――」

 ふたりに楓が応じようとした、そのとき。

「楓さん」

 エリの声が背後から遮る。楓は一瞬、肩を強張らせる。デスクに座ったままのエリは――相変わらず優雅な様子で、踊り娘たちの様子を見渡していた。

「大変申し訳ないのですが、これから少しお時間いただきます」

 その言葉に、楓は隠すことなく戸惑っていた。

「え、あっ……はい」

 しかし、こんな時間から、一体何を? ――これには楓だけでなく、カリンと新月も不思議そうに顔を見合わせる。

「それじゃあ……」

 今日の打ち上げは無しにする? ――カリンが言葉を濁した。しかし、楓はすぐに首を振る。

「大丈夫。あとで合流するから」

 チラリとエリに視線を送ると、エリも頷きで応える。こんな時間から長々と説教されるような無様なステージは見せていない――事前にそれを確認できただけでも、楓はひとまず安心できた。

 カリンと新月を見送り、楓は控室の中でひとり、深呼吸する。少しばかり緊張と不安が入り混じっているが――悪い話はないはず、と自分を奮い立たせていた。

 けど、それなら何の話なのだろう――理由もわからないまま、腰を据えて話し合うため、楓は出しっぱなしのパイプ椅子に腰をかけようとする。しかし、それとは対照的に、エリは荷物をまとめて立ち上がろうとしていた。――え、出かけるの? こんな時間から――? てっきり、この控室で何か打ち合わせでもするのだと思っていたが、どうやら外に出るらしい。エリが袖を通したジャケットは、光沢のある濃紺の生地で、丁寧に仕立てられているのが一目でわかる。背が低くて幼児体型なのに――だからこそ、それは周囲に対する『ナメられないための鎧』にも見えた。

「お待たせしましたね。では、行きましょうか」

 エリは淡々とした口調で言う。

「……はい」

 楓は少し戸惑いながらうなずくと、手荷物を持ってエリの後に続いた。

 外に出ると、ライブハウスの前には黒塗りの高級車が停まっている。その艶やかなボディは、夜の街灯を反射して鈍く光り、まるで漆黒の獣のような威圧感があった。それだけで、車自体に慣れていない楓は萎縮してしまう。運転席には黒メガネをかけたドライバーが座っており、その無表情さがさらに不安感を煽ってくるようだ。

 夜の繁華街で黒塗りの高級車なんて――これに楓は、思わず足を竦ませる。ゆえに、エリが先に車に乗り込み、振り返って楓を招き入れた。

「さ、どうぞ」

「……はい」

 断ることもできず、楓は恐る恐る車内に足を踏み入れる。ドアが閉まると同時に、外の喧騒が一気に遮断され、空気が重くなった。車内は意外なほど静かで、革張りのシートはまるで雲の上のように柔らかい。しかし、その居心地の良さは、異質な静けさとして楓を逆に緊張させる。その隣の席でエリは落ち着いた様子で足を組み、しなやかに腰を預けていた。

 しばらくの沈黙の後――エリが口を開く。

「楓さん」

「……はい?」

「エルメさんがいらしたときに、楓さんがお話されていたことなのですけれど」

「え……」

 楓は、つい呆気に取られる。私、ナニ言ったっけ――? 楓自身、どんな話をしたのか覚えていない。

「それって、え……えーと……?」

 楓は思い出せずに口ごもる。だが、エリの眼差しは鋭く、逃がさないとばかりに楓を見据えていた。

「また別の力……つまり、第三勢力を味方につける、という()()()ですね」

 て、提案!? 楓の脳裏にも、ようやくあのときの言葉が蘇る。たしかに、そんなことを口にしたような。まさか真に受けられるとも思わず、ここまで深刻な話になるなんて――!

 エリは楓の動揺を気にも留めない様子で、穏やかな声を保ったまま話を続ける。その眼差しには微笑みを浮かべていたが、どこか感情の読めない深さがあり、逆らいがたい圧を感じさせた。

「現在の私の立場ですと、街の深部に精通することはできますが、その分、表立って動くことは難しく」

 いま、さり気に怖いこと言わなかった――? 楓は思わずエリから目を逸らす。薄々感じてはいたけれど、やっぱりこの人、闇に片足――いや、両足突っ込んでいるらしい。つまりは、この車を運転している黒服と同族――街の中で一度目をつけられたら最後、静かに追い詰めてくるような、そんな“表には出ない力”の持ち主だ。

 相手が完全に逆らえない状況にあるのを承知で、エリはあくまでお願いという形を装う。

「そこで、楓さんには、街の表側としてのアピールをしていただこうかと」

「えっ――」

 エリの言葉が一瞬理解できず――楓は言葉を詰まらせる。

「いえっ、私……そういうのは……」

 自分が得意なのはダンスであり、舞台でのパフォーマンスであり――交渉やアピールといった“社交”の場ではない。言葉で何かを伝えるのは、あまりにも苦手分野である。

「そっ、そういうことなら、リリザさんのほうがっ!」

 焦りから、思わずリーダーの名前を口走る。しかし――

「彼女にはまた、別に動いてもらっておりますので」

 エリは、ゆるやかに首を振る。

「別に……?」

 エリの言葉は一切の揺らぎがなく――まるで計画通り進んでいるとでも言わんばかりの口調である。

「ステージ上での実力を兼ね備えているという意味でも、楓さんが適任だと、私は判断いたしました」

 その言葉に、楓は唇を噛む。たしかに――カリンは社交性こそあるけど、パフォーマンス力はいまひとつだ。ハロクドは神出鬼没で不在が多いし、“あの女”は自分以上に協調性がない――そう考えると、自分にしかできない――いや、()()()()()()()()()()()()――楓にも状況が見えてきた。

 責任は重大だけど――楓は心を決めたように小さく頷く。

「わかりました……。それで、これから向かっているのは、その件ですか……?」

 楓がそう尋ねると、エリはふわりと優しく微笑みかける。

「はい。我々が新歌舞伎町の内部を司るのに対して、()()()は、街の外から……」

「外……?」

 楓の眉がひそめられる。新歌舞伎町の“外”――その言葉が何を意味しているのか、楓には見当もつかない。

「一口に“外”って言っても広いですけど……」

 楓が不安げにそう呟くと、エリは優雅に頷きながら、またしても意味深な笑みを浮かべる。

「ですから……はい♡」

 その甘い声とは裏腹に、楓の胸の中には不安がじわじわと広がっていく。

 “外”の世界――一体、誰に会わせるつもり…? ――車の窓越しに見えるネオン街の光が、闇に揺らめいている。一瞬、見とれてしまいそうな美しさ――けれど、それが余計に、現実との境界を曖昧にする。思わず楓はその光景に見入っていたが――我に返って、背筋を正す。夜の新歌舞伎町の風景は、どこか異質なまでに煌びやかな幻のように感じられた。

 車のエンジン音が静かに唸りを上げながら、新宿の街を離れ、渋谷方面へと向かっていく。楓は窓の外を流れるネオンの灯りを眺めながら、小さく息を吐いた。街は変わっても、この状況の重さは変わらない。不安ばかりが胸の奥で膨らんでいく。

 こんなところを車で移動しているなんて――普段、自転車で走り抜けるには混雑が激しいこの街を、自分が黒塗りの高級車の内側から眺めているというこの状況――どこか現実味を欠いていると楓には感じられた。

 車は道玄坂を上り始める。街のネオンが一層強まり、こんな深夜帯だというのに、人の声が窓の外にこびりついているようだ。しかし――楓の胸に、不穏な感覚が広がっていく。見覚えのある看板、奇抜な色彩の建物――ここって、もしかして、ラブホ街――? 自分が勤めるストリップ・ライブも、ある種の風俗業の一環ではあるが、ここまで露骨なエリアに足を踏み入れたことはなかった。それでも、どこかで知ってしまっている。新歌舞伎町の住人として、この界隈の空気は避けて通れないものだと。

 それでも――楓にとって、ストリップ・ライブと性的サービスは、どこか切り離して考えていた。ゆえに、自分がこんな場所に連れてこられていること――その現実に、楓の背筋がじわりと粟立ち、ひやりとした感触が首筋を伝っていく。

 そして――車はどこぞの地下駐車場の入り口へとスッと吸い込まれていった。コンクリートの壁に囲まれた無機質な空間。車はゆっくりと停車し、ドライバーが降りて後部座席のドアを開けてくれた。とはいえ、楓にはここで降りることはできない。だって、ここの部屋に入るということは――!

「ご安心ください。私は()()()()()ですので」

 楓が不安げな表情を浮かべていることに気づいたのか、エリは軽く肩をすくめて笑ってみせる。

「はぁ……」

 楓は曖昧に返事をしたものの、その言葉はさして安心材料にもならない。いまだ、こんなところへ連れてこられた目的が見えていないのだから。まさか、さらなる黒服に囲まれて、変な契約書にサインさせられたりしないでしょうね――? 楓の不安は募るばかりだ。

 エリはそのまま淡々と歩き、地下から直通のエレベーターに乗り込む。楓もそれに続いた。ボタンが押されたのは――八階。エレベーターが静かに上昇し、目的階に到達したとき、エリは迷いなく「803号室」の前で立ち止まった。

「楓さん、こちらです」

「……はい」

 エリは扉を軽くコンコンと叩く。中から応答があり、扉がゆっくりと開いた。部屋の中は、思いのほか生活感がある。もっと“露骨”な内装――天井の鏡張りや、怪しげな照明などを想像していた楓だったが、廊下から覗いた時点で、そのイメージは良い意味で裏切られた。シンプルな絨毯敷きで、奥にはローテーブルとソファがひとつ。壁際に置かれた小ぶりな冷蔵庫と、淡い色のカーテン。必要最低限の家具で構成されたその空間には、どこか学生向けのビジネスホテルのような素っ気なさすら感じられた。

「お疲れ様です。こんな時間にお呼び出しとは」

 控えめな声が耳に届く。楓は全神経を研ぎ澄ませるようにして、その声の主を見やった。しかし、そこに立っていたのは――Tシャツにネルシャツを羽織り、下はジャージという、だらしない格好の男がひとりだけ。

 この人――? 楓は肩がわずかに強張るのを感じながら、驚きと戸惑いの入り混じった視線をエリに送る。エリは特に気にする様子もなく、部屋の中へと一歩踏み込んでいった。楓も、恐る恐るそれに続く。

 男の姿は、一見してこの界隈の人間とは思えないほどに緩い。髪は寝癖がついたままのように乱れ、口元には無精ひげが残っている。でも、ここまでくると逆に怪しい――この場に連れてきたのがエリである以上、この男がただの一般人であるはずがない。むしろ、この気の抜けた格好が“相手を油断させるための仮面”ではないかと疑わしくなってくる。わざとだらしない服装で警戒心を和らげ、どことなく頼りないその態度も、計算された演技のように思えて仕方ない。

 男は、楓の疑念を受け流すように軽く頭を下げる。

「名刺……は、交換しないほうがいいでしょうね」

 その単語に――ふと、名刺というアイテムの存在を思い出す。いまのところ、楓はそんなものを持っていない。ダンスサイトを始めた頃は、あったほうがいいのかな――? と思って作ってみたこともある。結局――一度だけ行ったダンス界隈のオフ会に、コンビニで擦った十枚を持って行ったくらいだが。そして、誰とも交換することなく持ち帰っている。

 だが、あの頃とは立場が変わった。いまはストリップ・アイドルである。営業用に用意したほうがいいのか――? いずれにせよ、必要ならばエリかリリザが指示するだろう――いま、楓は不審な男と密室で相対している。にもかかわらず、そんなことを考えていた。

 さて、いまは三人で入室しているが、ここはラブホテルの一室である。用意された椅子は――向かい合ったひと組のひとり用のソファふたつしかない。が、エリがちょこんとベッドに腰を下ろしたことで、男は自分が椅子に座りつつ、楓にも着席を促した。

「僕は、 輝山(きやま) 工祐(こうすけ)。表の肩書きは……まー、ゲーム会社の社長ってことになってますけどね」

 社長――その単語に、楓の心は少しだけ弾む。だが、その直前に聞き捨てならない枕詞が置かれていた。それが、彼女の表情を強張らせる。『表の肩書き』ということは、『裏』もあるのでは――? おそらく、それこそが今日の本題だろう。

 すぐにでも尋ねたい気持ちはあったが、自分からは踏み込めない。楓は不安な表情をエリに向けた。エリは、まるで何でもないことのようにニッコリと微笑む。

「裏の顔は、秘密結社・パラノイアのリーダー……ですわね」

「はあ……」

 楓の唇から思わずため息が漏れる。秘密結社? まるで漫画の世界みたいだが、エリがあまりにも普通に言うので、楓はつい真顔になる。

 そんな反応に、輝山は苦笑して首を振った。

「いやいや、秘密結社って……エリさん、そういう言い方は、やめてくださいよ」

 その様子を見て、楓は輝山の人物像が少しだけわかった気がする。エリと異なり、新歌舞伎町の人間ではなさそうだ。けれど――どこか余裕を感じさせる。それが怖い。楓の心臓は早鐘のように鳴っていた。

「まあ、公に活動してるわけじゃないけれど――」

 だったら、何をしているんだ――楓の視線を受け流すように、輝山はテーブルの上に無造作に置かれたスマホを弄びながら答える。

「基本的には、議員へのロビイングがメインですね。あとは、必要な人と必要なものを繋ぐことかな。まあ、簡単に言えば、裏で人と人を繋げる仲介役ってところですよ」

「はあ……」

「つなげる先は、主に『開放党』の議員……『管理社会時代』に失われた表現の自由を、現在、陰から支えていただいておりますわ」

 議員だの、裏だの――正直、楓としてはできれば関わりたくない。だが――表現の自由、という意味では――これまで興味はなかったが、自分が有害とされる興行に携わっている以上、他人事ではなくなってしまったのだな、としみじみ思う。何しろ、まさにいま、ストリップ・アイドルという表現が失われそうになっているのだ。それまで日常的にできていたことも、政治のバランスひとつで奪われることもあるのだろう。それをパラノイアは裏から守ってくれていたらしい。いまさらながら、楓は感謝する。

 だが、いずれにせよ――今回問題になっているのは『安心党』だ。ゆえに、それに対抗してもらうのであれば『開放党』になるのだろう、ということくらいは楓にもわかる。

「で、今日はその話ですか?」

 楓がエリに話を振ると――

「紹介が遅れましたが――」

 エリはここぞとばかりに、輝山に向けて協力者を指し示す。

「こちら、『シンカブ組合』の組合長に就任しました、楓さんです」

「えっ!? えええええっ!?」

 思わず楓は立ち上がる。組合長? そんな話、一度も聞いていない! 輝山も驚いた顔をしている。

「エリさん……またロクに説明せずに連れてきましたね」

「楓さんにはこの場で直接お伝えするほうがわかりやすいかと思いまして」

 相変わらず無邪気に微笑んでいるエリ。だが、その笑みの裏には底知れぬ策略が潜んでいるようにも見える。この人は何を考えているのか本当に読めない――というより、一般市民のスケールをとうに超えている。

 輝山は溜息をついて、楓に視線を戻した。

「まあ、シンカブ組合ってのは……今回の『歌舞伎町“リクライシス”』に対抗するための、いわば臨時の労働組合みたいなものでして」

「……リクライシス?」

 また聞き慣れない単語が現れた。話についていけず、思わず楓の眉が寄る。しかし――これは、“関係者”の中でのみ通じる造語のようなものであった。

「昔あったんですよ。『歌舞伎町クライシス』という事件が」

「歌舞伎町クライシス……」

 輝山の説明でも、楓はまだ理解できない。そこで、エリの方を見やりながら、助けを求めた。すると、エリは教師が生徒に説明するような口調で尋ねる。

「『歌舞伎町クライシス』については……?」

「学校で習った範囲なら……」

 楓の返事に、エリは小さく頷く。なお、『歌舞伎町クライシス』はいわゆる“俗称”であり、学校で習うようなワードではない。そのことからも、エリは、楓のこの件に対する理解度を把握した。

「いまから半世紀ほど前、二〇五〇年頃の出来事……念願の政権交代を成し、政権を握ったのは『安心党』でした」

 それは試験にもよく出る内容なので、楓も何となく覚えている。それほど、大きな事件だった。彼らが掲げたスローガンは『誰もが安心できる社会の構築』――その実態は、あらゆる“不健全”な娯楽を規制する『管理社会』だった。

「真っ先に着手されたのが、風俗業の禁止でしたね」

 当時、“自分には関係ない”――そんな国民が多く、特に騒がれることなく、その規制法はすんなりと成立した。しかし――ひとつの規制はその周辺への規制へと連鎖していくもの――それについて、エリは語る。

「さらに、女性キャストによる接客業にも厳しく制限が設けられました。スカートまでも、性の不当搾取であるとして禁止され……」

 楓は、昔を思い出す。小学校で習った際には教室内の誰もが失笑していた。小学生にすら呆れられることを、本気で推し進めていたのが管理社会だったのである。

 これもまた、たかだか制服の問題――当時もそのような認識であったため、大きな問題として取り上げられることはなかった。しかし、業務形態の中には『制服の特異性』を売りにしている店もあるわけで。

「この混乱により、歌舞伎町を支えていた接客業が営業不能に陥り、一帯は壊滅的な打撃を受けたのです」

 楓はその言葉を黙って聞いていた。小学生の教科書では、繁華街の実情を深く取り扱うことはない。しかし、実際にその街で暮らす人間になってみると――その深刻さが改めて実感として突き刺さる。

「人の消えた街には何が残るのか――」

 エリの目が冷たく光る。

「放置された空き店舗の数々です。そして、それらは国内外の違法組織の温床となり、かつてないほどの無法地帯と化しました。違法賭博、麻薬密売、人身売買……歌舞伎町は世界的にも類を見ないほどの“犯罪都市”と化したのです」

 安心党によって生み出されたものは『誰もが安心できる社会』という理想とはあまりにかけ離れたものだった。

「それが『歌舞伎町クライシス』と呼ばれる事件です。そして――」

 エリは楓の瞳をまっすぐに見据えた。

「今回お話ししております『“リ”クライシス』とは、『危機の再来』という意味ですわ」

「リクライシスって……」

 その単語を復唱する楓の声は掠れている。新歌舞伎町が再び無法地帯に――そんなことが本当に起こり得るのか? ライブハウス存続の危機を乗り越え、どうにか自分の居場所を守り切ったはずが、街そのものが違法組織に乗っ取られるだなんて――

 そんな楓の心情を見透かすように、輝山が口を開く。

「新歌舞伎町はこれまで、横断的な組織づくりを忌避してきたところがありまして」

「……わかる……気がします」

 楓はつられるように頷いた。

「そんな組織を作ろうとしたら、怖い人たちに目をつけられそうですし」

 楓は言葉を選びながら、怖い人――すなわち、この街を陰で仕切る存在をほのめかした。あの恐ろしい人たちが、誰の指示で動いているのか、楓にはわからない。だが、それ以外の統制組織を作ろうものならば――両勢力で仲良く、とはいかないだろう。

 楓の理解に、輝山は肩を竦めて苦笑する。エリもまた、同じように。だが、その瞳の奥は笑っていなかった。

「しかし、今回ばかりはそう言っている場合でもなさそうでして」

 エリの言葉は、まるで一枚の厚い幕が降りたかのように、部屋の空気をずしりと重くした。つまり――今回ばかりは“お目こぼし”を与える――ということなのだろう。いま迫っているのは街全体の危機――そんな緊迫感がエリの口調から伝わってきた。

 輝山はソファの背もたれに体を預け、深く息を吐く。

「クライシスの失敗を繰り返すわけにはいかない、という反省もあるんですよ」

 それは、授業の範囲外か、それとも、習ったけれども忘れただけか――そのあたりのことは楓にも定かではないが、もしかすると、五〇年前に“クライシス”と呼ばれる事態を引き起こしたのは、住人たちの連携が取れていなかった所為でもあるのかもしれない。それぞれが自分の縄張りだけを守り、他者との協力を拒んだ結果、街全体が瓦解していく――そんな光景が目に浮かんだ。

「そのために作られた一時グループを、私が……」

 楓は呟く。一時的なもの――そうであれば、少しは気も楽かもしれない。自分がこの街を支える礎になるわけではなく、期間限定のまとめ役であれば――

「少し違いますね」

 エリは微笑みを崩さぬまま、とんでもないことを口にする。

「作られた、ではなく、楓さんにこれから作っていただこうかと」

「はぁっ!?」

 これには思わず楓の声は裏返る。思わず立ち上がりそうになったが、膝が震えて無様に崩れ落ちた。作る――つまり、自分がリーダーとなって何もないところから人を集めて組織するということ? そんなの絶対無理でしょ!!

 心の中で絶叫するが、エリと輝山の表情は冷静で、そのプレッシャーが楓の背中にのしかかる。

「すいません」

 輝山が申し訳なさそうに頭を下げる。

「僕もエリさんも、表立って動くわけにはいかないので」

「その代わり、我々もパラノイアも全力でバックアップしますよ」

 エリは、まるで心配無用とでも言うかのように優雅に微笑んでみせる。

「新歌舞伎町のことであれば、私が」

「政治関連のことであれば、僕がサポートしますので」

 輝山がそう言って、テーブルの上に一枚のメモを置いた。楓は恐る恐る手に取ってみる。そこには、連絡先のようなものが記されていた。おそらく輝山――パラノイアのものだろう。

「ただ……」

 輝山の声が、少しだけ低くなる。

「我々と連絡を取った後は、その履歴は削除しておくことをおすすめします」

「……え?」

 楓はぎょっとして目を見開く。

「押収された際に、不利に働くと思いますので」

 この人たち、どんだけ危ない橋を渡ってるの――!? 楓の胸がざわめき、手のひらには冷たい汗が滲む。とんでもないことに巻き込まれてしまった――楓はそのメモを見つめながら、頭を抱えたくなる衝動を必死で抑える。エリとはライブハウスで顔を合わせることができるから、まだ何とかなりそうだ。しかし――この輝山って男は――見た目はだらしなく、全身の服がヨレヨレで、どう考えてもまともな人間ではない。だが、いまの言葉からして、相当危険な人物である。

 ゆえに――ひとまず、この男に頼るという選択肢は、楓の中からなかったことにしておいた。仮に、その件を解決したとしても、その後の人生に禍根を残しては意味がない。

 

 輝山との顔合わせが終わり、エリと楓は再び車に戻る。車内の空気は、少し冷たい。エリは運転席のドライバーに向かって、淡々と指示を出した。

「では、新歌舞伎町のファメリア……までお送りすればよろしいでしょうか?」

「え、あっ、はい」

 楓は思わず返事をしながら、内心で驚く。エリが自分たちの打ち上げに配慮してくれるとは。

 エリは後部座席の楓に向き直り、優しく微笑む。

「シンカブ組合の件は……まあ、内密にできることではありませんが」

「ですよね……」

 楓は曖昧に頷いた。むしろ公にしなくては意味がない――そのくらいのことは理解している。だが、エリはさらに声を潜めて続けた。

「できる限り内密にお願いします」

「あっ、はい」

 これはむしろ――早々に立ち上げてしまったほうが、隠さなくてはならない秘密は少なくて済みそうだ。

 車は静かに走り続け、新歌舞伎町のファメリアの前に到着する。時間はまだ午前三時前。ひと気の少ないこの街は、終電後の喧騒もすっかり消え去り、ネオンの明かりだけがぼんやりと夜を照らしている。空気はひんやりと湿り気を帯びていて、ライブの直後よりもさらに夜が深まっていることを、肌で感じさせるようだ。それでも、店の中にはカリンたちがいるはず。楓は、ようやく自分の本来の場所に戻ってきたのだと実感していた。

「それでは、ダンスチーフとしてのご活躍に期待しておりますよ」

 エリが淡々とした口調で楓を送り出す。

「は、はい……」

 まさにこれから、いわゆる打ち上げだ。気分も大きくなることだろう。そのような場で――いきなり愚痴を垂れ流すわけにはいかない。楓が車から降りると、そのままエリを乗せてどこかへと走り去っていった。

 日曜深夜のファメリアは、休日にハメを外して帰り損ねたお調子者たちの避難場所となる。ただ、土曜日に比べればまだマシか。店に入ると、深夜担当の深見から「お疲れ様です」と挨拶をもらう。それで、ついバックのほうに入りそうになるも――今日の自分はあくまで客だ。はっとして進路を変える楓に、深見は微笑ましげな視線を送る。

 店内はさすがに人の出入りもまばらで、夜も深まったいまは、始発まで時間を潰そうという客が静かに腰を落ち着けていた。テーブルには飲みかけのグラスと、片付けるタイミングを逸した皿がぽつぽつと残されていて、長時間の滞在を物語っている。

 少し奥の席に新月とカリンの姿が見えた。ふたりもこちらに気づき、手を振る。

「おっ、楓さん、おつかれ~!」

 新月が笑顔で声をかける。楓は曖昧に笑みを返しながら席に着いた。

「で、どんな話だったの?」

 カリンが早速聞いてくる。だが、楓は守秘義務の扱いに慣れていない。どこまで話して良いものか分からないので、正直に答える。

「え、あ、いやー……いまはまだ話しちゃいけないことみたいで……」

 楓の浮かない表情に、新月の眉が僅かに寄る。

「うーん……“前”みたいな話でなければいいけど……」

 新月の言っている“前”とは――前オーナーのこと――ストリップ名目で集めた踊り娘をソープに売ろうとするわ、運営資金を持ち逃げしようとするわ――特に、持ち逃げの件では危うくライブハウスが潰れかけた。あのときの混乱の記憶が蘇り、楓は思わず陰を落とす。

「できる限り相談に乗るから、何でも話してねっ」

 カリンは優しい笑みを浮かべて励ましてくれた。その笑顔に、楓の心は少しだけ救われるような気がする。

「うん……ありがと」

 楓がそう言うと、カリンはぱっと表情を明るくして、新月のほうに向き直る。

「それでですねっ、さっきまで新月さんと今日のライブのお話してたんですけど……」

「うん」

 楓もすぐにその話題に乗る。カリンの話題の切り替え方は、本当に絶妙だった。楓は同僚ふたりのやり取りを聞きながら、ようやく緊張が解けたように深く息をつく。

 カリンは本当に頼りになるな――楓はカリンの明るい声を聞きながら、冷えた指先をぎゅっと握りしめる。まだ、自分が何をしなければならないのか、その全容は見えてこない。ただ――私が、街の顔として――その言葉の重さだけが、楓の胸にじわじわと染み込んでいった。

 

 朝の空が白み始める頃、店内はようやく静寂を取り戻していく。始発の時間と共に、ひとまず解散となったが――

「おつ~……てか、ふたりは帰らないの?」

 新月があくびを噛み殺しながら楓とカリンに尋ねる。

「私は……朝はレッスンしてから、というのが日課でして」

 楓が答えると、カリンも同調するように頷く。

「カリンも、せっかく楓さんと一緒なので」

 新月は眉をひそめ、呆れるように笑う。

「うーん、真面目だなぁ……私は帰りますねー……お疲れ様ですっ」

 軽く手を振り、新月はフラフラと店を後にした。彼女の夜型は、夜明けと共に寝るリズムらしい。夜型にも色々あるんだな――楓は新月の背中を見送りながらそんなことを思う。

 そして、楓の生活リズムは、それよりも少し遅い。どうやらカリンも同じタイプのようだ。ライブハウスに戻ると、照明も落とされ、室内はひんやりとしている。静まり返った空間には、夜明け前の薄青い光がかすかに差し込み、どこか幻想的な静けさが漂っていた。誰もいない――いや、本当はリリザがいるはずだが、今日も姿を見ていない。いつものことではあるけれど。

 そんな薄暗いフロアで、楓とカリンはレッスンを始めた。ストレッチのあと、軽く振りを合わせる程度のメニューだったが、どうしても渋谷での話が気になってしまう。

 それで――

「楓さん……今日の打ち合わせ、そんなに難しい話だったの?」

 カリンの声が不安げに響く。

「え?」

 楓は動きを止め、カリンの顔を見た。

「だって、楓さん……今日、動きにキレがないよ」

 見抜かれてる――楓は軽く息を吐いた。自分の不安がカリンに伝わってしまったらしい。やはり、隠し事はできないな、と楓は思う。

「うーん……まあ、何というか、苦手ジャンルというか……」

 言葉を選びながら返す楓に、カリンはその目をじっと見つめた後、ふっと笑う。

「楓さんが苦手でも、カリンには得意かもしれないよ?」

 そのひと言に――やっぱり今度も『適材適所』という単語を思い出す。見ず知らずの人たちをまとめるなんて、自分ひとりでできるはずがない。エリからは『できる限り内密に』とは言われたものの、『内密にできることではない』とも言われている。遅かれ早かれ、頼ることになるのだろう。

 ゆえに。

「実は――」

 ライブハウスのフロアに、楓の言葉が静かに響く。彼女は、自分が覚えている限りの情報をカリンに伝え終えた。

「……ふむぅ、シンカブ組合……」

 ここまでカリンはひと言も挟まず、ただじっと楓の話を聞いていた。そして、頬に手を当て、天井を見やるように顔を上げる。その瞳は、何かを思案するように強く光っていた。

「うーん……」

 楓は、カリンの言葉を待ちながら、わずかに唇を噛む。カリンの反応が気になって仕方がない。自分ひとりでは抱えきれない大きな問題――それを共有したことで、少しだけ心が軽くなったような気がする。

 だが、それでも――

 カリンは、やがて視線を楓に戻した。その瞳は、鋭い光を帯びている。

「えーと、ひとまず今回の特措法縮小案はただ事じゃない……」

 カリンの声には、いつもの柔らかな響きが消えていた。真剣そのものの表情で、楓の瞳を見据える。

「――と考えてる人じゃないと、お話にならないよね」

 楓の胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が走る。それはまさに、最初の自分の反応――『またいつものか』なんて思ってる人ではいけない。危機感を持たない者にこの話をしても、事の重大さを理解してもらうには手間がかかる。しかし、猶予はもうそれほど残されていない。

「じゃあ、まずは危機感を持ってる人を集める、って感じ?」

 楓の確認に、カリンは軽く頷いた。

「そうだねー。まずはそこから」

 楓は息を整え、カリンの顔をまっすぐ見つめる。自分の頼れる仲間――いま、この場で動けるのはカリンだけだ。

「……頼んでいい?」

 楓の声は、わずかに震えている。これまで、自分を助けてくれる人などいなかった。助けを求めてくれる人もいなかった。楓は、ずっとひとりで生きてきた。誰のためでもなく、ただ、自分のためだけに。

 しかし――いま背負っているのは自分ひとりで抱えるには重すぎる使命。思えば、このライブハウスが危機に陥ったときも、主に動いてくれたのはカリンだった。その明るさと社交性は、この街の人々を繋ぐ強力な武器になる。

 カリンは少しだけ瞳を閉じて深呼吸。そして――

「うんー、カリンにできることならねー」

 カリンはいつものように、にこりと笑ってみせた。その表情は、何も言わなくても受け入れてくれるような、穏やかな安心感に満ちていて、楓は思わず肩の力が抜ける。

 よかった、私には、カリンがいるんだ――それだけで、楓の心に一筋の光が差す。カリンに話を聞いてもらったことで気持ちも軽くなると、身体の動きにもキレが戻ってきた。しばらくふたりでダンスレッスンやボイスレッスンを重ねていると――

「それにしても、すごいねー、楓さん。いつもこんなに?」

 カリンがタオルで汗を拭きながら、感心したように楓を見つめる。楓は軽く笑いながら、誇らしげに応えた。

「嬉しくて」

「うん?」

「練習中、誰かが傍にいてくれることなんて、これまでなかったから」

 その言葉に、カリンは意外そうに目を丸くする。楓の背後に横たわるのは、暗がりに沈んだ広いステージ。その場所で同じ志を持った仲間と踊り、歌うことができる――

 カリンはしばらくの間、楓の言葉の意味を噛み締めるようにしていたが、やがてふっと笑顔を浮かべた。

「……だね。うん、カリンも頑張らないと!」

 カリンの声は元気に響き渡る。それに楓も釣られるように、小さく頷いた。いま、新歌舞伎町にはかつての危機が再び押し寄せようとしている。けれど、立ち向かうのは私だけじゃない。カリンも、新月も、みんなで乗り越えよう――

 

 一応、ライブの後ということもあり、今日の練習は軽めの内容で終わらせることにした。復習のような動きで身体をほぐし、汗を軽く拭ったところで、楓とカリンは店の前で別れる。

「じゃあ、またね、楓さん!」

「うん、ありがとう、カリン」

 カリンはいつものように明るく手を振り、新歌舞伎町から朝陽を背に受け歩いていく。楓もなびくその長い髪を見送りながら、自分の家へと足を向けた。

 帰宅までの道のりは約三〇分。その道のりが、今日は少しだけ軽く感じられた。カリンのおかげで、少し落ち着けたのかもしれない。思えば、一時はとんでもない出来事に巻き込まれたような不安に苛まれていた。しかし――朝の光が建物の隙間から差し込んで、通学途中の学生や出勤前のサラリーマンたちが、いつものように足早に歩いていく――その景色に、楓の心は穏やかさを取り戻していた。カリンは、いつだって明るい。そんな頼もしさが、楓を再び日常に引き戻してくれたようだ。

 

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