Paradise Lost - ストリップ・リクライシス 作:添牙いろは
帰宅した楓は、いつものように机の上に広げた写真集に目を落とす。今日は新しい練習用のダンス動画を編集する予定もない。代わりに、自分の部屋の静寂の中で、篠田由伸の写真集『MITO』を開いた。
ページをめくるたびに、古竹未兎の美しいヌードが映し出される。しなやかな曲線、強調された陰影、まるで呼吸しているかのような肉体の躍動感。
――冷静になって考えてみれば――楓はページを見つめながら、ふと思い出す。自分の妹のヌードさえ撮るような写真家が、ストリップ・アイドルから身を引けとか言うのって――どこか不自然よね――楓の指がページの隅をなぞる。
もしかして――由伸さん、この動きを事前に察知してたのかも――何しろ、彼は著名なヌードフォトグラファーだ。裏の世界に通じている可能性もゼロではない。なら――なんで話してくれなかったのかな。私たち、当事者なのに。まだ話してもらえるほどの信頼を得られていないのかもしれない。
けど、次に会ったとき、もう少し突っ込んで聞いてみようかな――街のために。楓は写真集を閉じ、布団に潜り込んだ。頭の中では考えがぐるぐると巡り続ける。それでも午前中に眠りにつき、楓が目を覚ましたのは、夕方近くになってからだった。楓の生活リズムは、日の入りに合わせて活動を開始する夜型である。布団から起き上がると、まずはスマホを確認するのが習慣になっていた。何件かの通知が入っている中で、カリンからのメッセージが目に留まる。
『近所のカラオケボックスに予約したから、明日の夕方4時にここに来て』
そのメッセージと共に、リンクが添付されている。リンク先は、新歌舞伎町から通りひとつ挟んだところにある『からおけや』という店舗だった。――ここって、前に舞が話していた店――? 楓の眉がわずかに寄る。とはいえ、街の中で集会を開けば、それだけで悪目立ちしそうだ。まだ組合は走り出してもいない。そんなときに無駄なリスクを避けるために、あえて外で集合するということだろう。
それにしても――楓はメッセージを見つめながら思う。こんな早くに人が集まるものなんだ――カリンに話したのは寝る前の今朝のこと。にもかかわらず、もう集会の準備が整っているとは――
あぁ、そうか――明日は火曜日――週のうち、比較的余裕のある曜日だ。かつてはノクターンも火曜日にストリップ・ショーを開催していたほどである。――最も入りが少ない日の穴埋めとして。いまは夏休みシーズンだけに、どこもかしこも連日大賑わいである。そんな中で、少しでも余裕のある曜日、ということで白羽の矢が立ったのだろう。
ただ、これだけ急な召集にも関わらず、開催に漕ぎ着けられた、ということは――それだけ、危機感を持ってくれてる人が多いってこと――? 楓はメッセージのリンクを見つめながら、無意識に息が漏れる。カリンの行動の速さに驚きつつも、明日の集会への緊張が胸の奥でじわじわと高まっていくのを感じていた。
楓がファミレスに出社すると、珍しく店長がバックに入っている。普段、社員がふたり同時にシフトに入ることなんてないのに。
店長は楓の姿を見つけるなり、大きく手を振って駆け寄ってくる。
「聞いたよ、楓さん。街が大変なんだって?」
楓は思わず目を見開いた。どうやら、カリンは楓の勤務先にも声をかけてくれていたらしい。
「ええ、今回ばかりは、事情が違うらしく……」
楓は控えめに頷いた。街の危機――『リクライシス』の話をどこまで店長が知っているのかはわからない。だが、その表情は真剣そのものだった。
「俺も参加させてもらうから、一緒に頑張ろう!」
店長は楓の肩に軽く手を置き、力強く頷く。楓はその手の温もりに、一瞬だけ戸惑った。仕事関係は賃金と引き換えに自分の生き方を妨げる存在――そう思っていたのに――立場は異なる。目指すところは違うかもしれない。だとしても――このような形で共闘することになるとは思いもよらなかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
言葉は返したものの、楓は自分がどんな顔をしているのか、自分でもわからない。カリンなら、きっと情緒豊かで安心感を与えるような表情を見せられるのだろうな――そう思うと、自分の無表情さが少しだけ恥ずかしくなる。
そして、仕事と日課のレッスンを済ませて、起床時刻は午後三時――例によって、楓にとっては“早起き”の時間だ。
まだ日差しは高く、アスファルトの照り返しもまぶしいほどだったが、それでも新歌舞伎町の街には、どこか夜の気配が漂い始めている。甘くきつい香水の残り香に、焼き鳥屋の煙、排気ガスの匂い――雑多な香りが重なり合い、少しずつこの街特有の空気を作り出していた。
スーツ姿のビジネスマンが足早に駅へと向かう一方で、露出の多い服をまとった女性たちが、午後の太陽を背にして通りに現れる。光の強さとは裏腹に、そこには浮ついた空気と、どこか不穏なざわめきが混在していた。この街にとって、どうやら昼と夜の境目は曖昧なものらしい。通りの片隅では、廃棄されたチラシが風に舞い、誰かのスマホから漏れる音楽が、わずかに周囲を彩っている。
そして、新歌舞伎町と新宿の街を隔てるように走る新宿通り――その向こう側に『からおけや』はあった。ビルとビルの間に無理やり押し込められたような縦に細長い建物。灰色のコンクリートの外壁は年季が入り、窓枠のサッシにもところどころ錆が浮いている。
一階のフロント上には、手書きのような字体で『からおけや』と書かれた看板が掲げられているが、照明は切れかかっているのか、片方がチカチカと瞬いていた。入り口の横には、時間帯ごとの料金が書かれた立て看板が立てかけられている。数字が並ぶその表を前にして、楓はふと足を止めた。この金額を払うなら、スマホ片手に公園で踊った方がマシかも――そんな考えが脳裏をよぎる。まして、そのうえにワンドリンク代が別途必要だとは、この時点の楓は知らない。もし知ったら、さらに驚愕することだろう。
『からおけや』のビルに入ると、フロアはやや薄暗く、古びたカーペットには無数の足跡が染み込んでいる。壁にはアイドルやアニメのポスターが雑多に貼られていた。どのキャラクターたちも楓には馴染みがない。天井には小さなスポットライトが等間隔に埋め込まれ、控えめに床を照らしていた。受付カウンターの上には貸出用のマイクやリモコン、フロント用の分厚い台帳が並び、その空間にはどこか二〇世紀のような匂いが漂っている。
受付に座っているのは眼鏡をかけたオバチャンだった。黒髪を丸く結んだお団子ヘアにし、赤縁の大きな眼鏡をかけている。制服は、濃紺のベストに白い半袖シャツ、その上からチェック柄のリボンをきちんと結んでいる。ベストにはネームプレートがついており、スラックスもシャープにアイロンがけされていた。全体に真面目な印象だが、丸眼鏡越しの目元は柔らかく、ややおっとりとした物腰がそのまま外見ににじみ出ているようだった。女性にしては背丈はややあるようだが、その雰囲気からはマスコットのような親しみやすさを感じられる。
「いらっしゃぁい」
その発音だけで、地方出身だとわかった。のんびりとした口調に、楓はわずかに肩の力が抜ける。
「篠田……って名前で予約……されてる、と、思うんですけど……」
初めてのカラオケボックスだけに、仕組みがわからず楓は緊張してしまう。そんな恐縮した様子を気にせず、オバチャンは「あらあら」と嬉しそうに声を上げた。
「カリンちゃんとこの!」
ちゃん付けされているということは、カリンの知り合いなのだろうか。そういえば――ライブハウスの金策騒動のときも、カリンって意外と顔が広かったし。楓はカウンターの上に置かれた手書きの台帳をちらりと見たが、内容までは読めなかった。
「ほんじゃあ、エレベーターで十階まで行ってねぇ」
「はい、ありがとうございます」
オバチャンの言葉に従い、楓はエレベーターに乗り込んだ。そして、『10』のボタンを押すと、扉が閉まる。そういえば――部屋番号、聞いてなかったな。楓はいまさら気づくも、ゴンドラはすでに上昇を始めている。
まあ、行けばわかるでしょ――軽い気持ちで到着を待っていると、扉が開いた。エレベーターを降りたところで、とりあえず周囲を見回してみる。すると――そこには、扉がひとつしかない。厳密には、奥に非常階段があるようだが、それ以外の扉は本当にひとつだけ。
なるほど――と楓は安堵しつつも気を引き締め、その唯一の扉に歩み寄る。
中からは、複数人の話し声が漏れ聞こえてきた。スマホの時計を見ると、時刻は午後三時五五分。約束の時間の五分前――とっくに集まりは始まっているらしい。
楓は心臓の鼓動が自分でもわかるほどの緊張を感じながら、硬い表情で扉に手をかけ、そっと開けた。
「お疲れ様です~」
楓が顔を覗かせると、入口のところでカリンが満面の笑みで手を振っていた。その向こう側の客席には、三〇人を超す老若男女が椅子に座り、ざわざわと話し合っている。――いや、全般的に“老”ではあるのだが。客席に座るのは中年以上の男女がほとんど。むしろ、楓とカリンが最も若い部類に入る。やはり、管理社会の辛苦を味わったベテラン経営者たちを中心として集まっているのかもしれない。
部屋の奥にはささやかながら舞台のような台が設置されており、いかにも演説や発表会用のステージのようだ。高台の前には簡易なプラスチックの椅子がずらりと並んでおり、座席はほとんど埋まっている。たしか、ここはカラオケボックスではなかったか――? 楓の頭の中には『からおけや』の看板がちらついている。だが、この広々としたフロアは、壁面こそ白一色で無機質だが、照明はやや落とし気味で、カラオケルームというよりも、小さな集会場のような雰囲気だった。それが、楓に緊張感を押し付ける。
「実は私……ノープランなんだけど」
もはや、何をすれば良いのかすらわからず、楓は自嘲気味に笑いながら呟いた。いくらカリンに頼りきりだとしても、それはないだろう、と自分の酷さを楓は申し訳なく思う。
それでも、カリンは屈託のない笑顔で応えてくれた。
「カリンも♡」
ちょっとわざとらしく肩を竦めて――これ、本当に大丈夫なの? と楓は心配になってくる。
プレゼンアイテムはステージ上のホワイトボードのみ。おそらく、ここに書き込みながら進めていくのだろう。だが――
「というか、こんなに集まるなんて……」
予想以上の反響に、楓は――カリンの集客力に感服していた。しかし、そのカリンはマイクを持ちながら――少し表情を引き締める。
「そりゃー、飲食店から服屋さん、ビデオ屋さんまで色々だから」
「ふぅん……?」
楓は首を傾げる。確かに風俗店がメインターゲットだと思っていたが、特措法とは無関係な職種まで集まっているのが意外だった。不思議そうな楓に、カリンは頷きながら説明を続ける。
「特措法が縮小されてお客が減ったら困るもんね」
「ああ」
楓はようやく納得した。風俗関連が主力である以上、そこが潰れれば関連する街全体が被害を受けることになるのである。
そして、ついに四時――カリンは改めてマイクを持ち直し、声を張り上げた。
「皆様、お忙しい中、お集まりいただきまして、誠にありがとうございます!」
集まった人々が一斉にカリンに注目した。楓もその様子を見て、カリンの司会進行に感心している。きっと自分では、キョドってしまい、ロクに喋れなかっただろう。
「以後、こちらの集まりを『シンカブ組合』と呼称いたしますので、何卒よろしくお願いいたします!」
カリンはそう言い切ると、迷いのない手つきで後ろのホワイトボードに『シンカブ組合』と大きく書き込んだ。立ち姿も堂々としており、この空間をすっかり仕切っている。さらに、その下に二次元コードの印刷物を貼り付けた。
「URLも用意してありますので、帰る前にチャットルームに登録していってくださいねー」
会場にいる何人かが頷きながら、壇上のまだら模様の正方形にカメラを向けている。性能のいい機種なら、その距離でもスキャンできるのかもしれない。楓はあとで近くに寄って登録しておくつもりでいた。
そして、カリンは続ける。
「さて、我々の目的は、新歌舞伎町のイメージアップにあります。今回の事件を受けまして、我々の取り組みを知っていただくには、どのような活動が必要でしょうか」
会場が一瞬、静まり返る。カリンはその沈黙を見計らってから、声を張り上げた。
「えー、ご意見のある方は、挙手をお願いします!」
その言葉に応じて、ひとりの男性が控えめに手を上げた。楓はカリンからもう一本のマイクを受け取ったので――その人のところへと小走りで向かう。一応、自分が代表を任されたはずなのに、すっかりアシスタントだなぁ、と
マイクを渡された男性は、少し会場の様子を窺いながら、それでも意を決したように口を開く。
「歌舞伎館という喫茶店を営んでおります、田辺と申します」
楓は田辺の服装に目を留めた。彼が身に着けているのは、まるで燕尾服のようなフォーマルな衣装。おそらく仕事着なのだろう。仕事の途中で抜けてきて、終わればまた戻るって感じか――みんな、合間を縫うようにして参加してくれているのだろうな――改めて探してみれば、ファメリアの店長も座席に混ざっている。こちらは私服であったので、気づくのが遅れた。幸い、発言者である田辺に注目しているため、目は合っていない。もし合ってたら、こっ恥ずかしかったろうな、と楓はすでに恥ずかしくて目を逸らしている。
そんな楓の杞憂をよそに、田辺は一度咳払いをしてから、落ち着いた声で話し始めた。
「児童労働防止の取り組みについて改めて訴えるのはもちろんのこと、安心党政権前まで遡り、特措法の重要性を知ってもらう必要があると考えています」
「いいですね!」
カリンは明るく返事をすると、ホワイトボードの前に向かう。『シンカブの歴史』と大きく書き、その下にサブタイトルのように『安心党政権前まで』と加えた。それを眺めながら、楓は――こう書き込みは私の役割なんだろうけど――と、少しだけ気が引けてしまう。だが、その分、田辺の意見を噛みしめることができた。楓自身も、この街の特措法の歴史を深く理解しているとはいえない。ゆえに、田辺の言葉には説得力があり、楓はその内容をしっかりと胸に刻み込む。まさに、背筋が伸びる思いだった。
「他に意見のある方はお願いしますー」
カリンが再び呼びかけると、今度は初老の女性が手を挙げた。楓は再びマイクを持って、その女性の元へ向かう。
「居酒屋・ゆるりの吉本です。とにかく、人を呼ばないことには始まらないので、一斉に割引セールなんてどうでしょう?」
「いいですね!」
吉本の提案に、カリンは即座に反応する。カリンはホワイトボードに『割引セールの企画』と書き込みながら、付け加えた。
「新歌舞伎町で使えるクーポンなんかを発行すると、相乗効果があるかもですねー」
楓はカリンのスムーズな進行に感心しつつも、こういうところがカリンの強みだよな――と改めて感じる。
さらに続いて、今度は中年の男性が手を挙げた。楓はまたもやマイクを持って走る。
「とんかつ・なかもとの仲本です。イメージキャラクターや、イメージソングを作ってみるのはいかがでしょうか」
楓は思わず眉をひそめる。いまはマイナスイメージを回復することが最優先だ。負の象徴やテーマソングを作ってどうするのか――と内心思ってしまう。
しかし――
「いいですね!」
カリンは仲本の意見にも即座に同意した。ホワイトボードに『イメージキャラクター&ソングの企画』と書き込みながら、カリンは笑顔で返す。
「テーマソングを作って、ミニライブなんかを開けば集客にもつながりますねっ!」
なるほど――楓はその発想に納得する。ミニライブであれば、自分の得意なダンスを披露できるだろう。そして、ライブパフォーマンスが話題になれば、街のイメージアップにも貢献できるかもしれない。
その後も、会場からは次々と意見が飛び交った。
『街の清掃活動をしてはどうか?』
『無断で貼られたチラシの撤去を徹底しよう』
『地域住民との協力体制を強化するべきでは?』
どれも現状の改善策としては有効だが、どれも決定打に欠ける。楓はホワイトボードに書き込まれていく項目を眺めながらヤキモキしていた。風俗業の一時自粛なんて言い出されないだけマシだけど。その方向に進めば、風俗業そのものが悪とされ、新歌舞伎町が再び廃墟のようになる危険性がある。しかし、ここに集まっている人々は、自分たちが風俗業と共存していることをよく理解しているようだ。それは楓にとって、わずかながらの救いだったのかもしれない。
一時間程度の会議が終わり、参加者たちはそれぞれの役割を胸に、会場を後にしていく。そして、楓たちも。ホワイトボードの板書はスマホに送り、検討の場所をファメリアに移した。店長もシンカブ組合の賛同者であるため、安心して話し合うことができる。
画面には、びっしりと書き込まれたアイデアの数々が映し出されていた。夏休みという集客シーズンに向けて、少しでも早く動き出さなければならない。だが――
「うーん……
「えっ!?」
楓はぎょっとして顔を上げる。
「あっ、ごめんなさい。料理は美味しいですけどね」
ファミレスの店内で『マズイ』などと言われては、厨房に不手際があったのかとついビクついてしまう。楓の反応に軽く謝りながら、カリンはテーブルに置かれたポテトをひとつ摘まんで口に放り込んだ。それを美味しそうにサクサクと噛みしめながら、再び今日の議題の内容に視線を戻す。
「この時期だから、会場を確保するのは難儀かなー、って」
「あぁ……」
楓も状況を理解して深く息を吐く。たしかに、夏休み期間中の催事場やホールの予約は何ヶ月も前から埋まっているだろう。急に企画を立ち上げたところで、会場を押さえられなければ意味がない。
「けど……穴はあるだろうから、徹底的に当たってみる!」
カリンは気合いを入れるように拳を握り締めた。
「う、うん……私も、できることはやるし……」
楓はそう答えながらも、自分に何ができるのかわからない。ハコ探し? 集客? どれもカリンの方が適任である。
すると――
「楓さんにお願いしたいのは、ステージのほうかな」
「あぁ」
楓は思わず抜けた声を漏らす。数ある企画案の中で、イメージソングのことをすっかり忘れていた。それどころか、歌となると、自信がない。
カリンは楓の心境を察したのか、にこりと笑う。
「曲については特急でどうにかするとして……振り付けのほうはお願いね」
「あ、う、うん……」
楓はぎこちなく頷いた。ダンスはともかく、自分に歌が務まるのか――不安は消えない。それは、これまでの人付き合いでも常に感じてきた、自分だけが場違いなのではという戸惑いにも似ていた。
現実的なところ、シンカブ組合の企画立案においては、カリンが主導で動いている。楓はそれに従う形で補佐しているに過ぎない。それでも楓がシンカブ組合の『組合長』という立場になっているのは、ダンスチーフという肩書きがあるからだ。
しかし――私、本当にリーダーとして動けてるのかな――楓は俯き加減で、ジャージの裾をぎゅっと握り締める。本来、ステージで観客を楽しませるのが自分の役割だ。しかし、歌の舞台となると――楓はダンスが主軸なので力不足は否めない。ならば他のメンバーに――と思案を巡らせるが、そもそもノクターンのストリップ・アイドルは初心者ばかりだ。歌といえばリリザが真っ先に思い浮かぶも――彼女はダンスリーダーである。彼女にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。
だからといって、もうひとり――歌もダンスも完璧だが、人格的に問題がありすぎる人物――彼女を軸とするのは、あまりにも危険だ。
だからこそ。
「大丈夫。この街って意外と、音楽経験者も多いから」
カリンは新たなボーカル担当を探すつもりのようだ。しかし、そんな人材がすぐに見つかるかどうかはわからない。かといって、人見知りの楓では声をかけて回るところからギクシャクしてしまうだろう。
本当に、本当に――カリンに頼りきり――そんな自分が、なんと声をかけたものか――結局、何も思いつかず――
「……ごめん、そろそろ出勤だから……」
逃げるように、楓は席を立つ。
「あ、はい。それじゃ、カリンも早速動いてみるね」
外はいつの間にか夜になっていた。店内には低くBGMが流れ、テーブルには夜を共に過ごすための荷物を置いた客がちらほらと残っている。窓の外には、新歌舞伎町のネオンが濃く照り返し、湿ったアスファルトの路面がわずかに反射しているようだ。タクシーが通り過ぎるたびに、静かな夜の空気が少しだけ揺れる。
カリンは退店し、楓は制服姿に着替えて厨房に入っていた。しかし――彼女の気持ちは落ち着かない。心の中にいまなお不安が渦巻いている。自分は、組合長としての役割を果たせていない。歌も、ステージも、すべての企画が動き出しているのに、自分は――
楓は深く息を吐いたちょうどそのとき、注文伝票が出力される。それを手に取り――いまは、仕事をしなきゃ――そう自分に言い聞かせるも、その指先はわずかに震えていた。
新歌舞伎町には、意外と古い店が多い。安心党政権下での厳しい規制の中でも、細々と商売を続けてきた経営者たち――その苦労の痕跡は、店内の写真や古びた装飾品の中に色濃く残されている。もしこれらを活用して、過去と現在を繋ぐような展示ができれば――
だが、問題は会場の確保である。現在のところ、新歌舞伎町内の施設であれば多少の融通は利くかもしれない。だが、できれば町の外に場所を借りたいというのがカリンの狙いだった。新歌舞伎町と外部の良好な関係を示すことは、街のイメージアップにもつながる。
一方、楽曲の進捗は――『ノクターン』は腐ってもライブハウスである。音楽関係者たちにかけあって過去の没曲を提供してもらい、それに歌詞を当てはめる形で、現在進行中だ。
楓としては、楽曲さえ決まれば振り付けの作成はできる。だが、舞台に立つ人間が問題だ。ストリップ・ライブであれば、脱ぐことで一定の形にはなる。だが、
それを補うために――カリンの呼び声のもと、音楽関係者たちがライブハウス『ノクターン』に集められた。
ステージの上には、四人の女子が並んでいる。どこか統一感がなく、妙な迫力があった。
「
「同所属、
天夏と恵は、ふたり揃ってメイクが異様にケバケバしい。濃いアイシャドウに、真っ赤なリップ――その色合いだけでも派手なのに、ラメやラインストーンまであしらわれており、夜の街でこそ映えるような顔立ちになっている。香水の甘い匂いが強く漂い、ふたりの存在感をいっそう際立たせていた。
さらに、ふたりの装いも何かと目を引く。夏らしいタンクトップにミニスカートという出で立ちだが、生地もぴったりと身体に張り付くような素材で、素肌の露出をためらう様子はまったくない。いわゆる、ギャル系といって差し支えないだろう。ヒールの高いサンダルを履き、全身に対して“盛る”ことに注力している。その派手さは――先日やって来たエルメに勝るとも劣らない。彼女たちの姿からは、自信と開き直りのような強さがにじんでいた。ファッションセンスの方向性は同系統ながら、体型は――控えめな恵と巨乳の天夏――巨乳といっても、楓より一回り大きい程度だが――ふたりのコントラストが自然と際立つ。意図しているかは定かではないが、ひと目で“コンビ”であると伝わってくる相性の良さがあった。
「しょ……所属……?」
楓が恐る恐る尋ねると、天夏はニッコリと笑って胸を張る。
「はい、AV事務所」
「えっ……!」
楓の視線が凍りつく。聞けば、天夏と恵は高校時代の同級生で、在学中に揃ってAVデビューしたらしい。義務教育を卒業すれば成人として扱われる二十二世紀ともなれば、珍しい話でもないが。その後、昨年度末に卒業し、現在はAV女優として活動しているとのこと。
ということは――年下――!? その歳で、そのケバさとは――楓は新歌舞伎町の水がどれほど人を染め上げるのか、少しだけ怖くなる。
一方――ステージの隅で、ぼんやりと突っ立っている別の女性。その姿は、眩しすぎるふたりの影になっており、場の雰囲気から大きく浮いていた。
「……
陽子の声は、まるで魂の抜けたように乾いている。学校のジャージに身を包み、だらしなく伸びた髪が顔にかかっていた。大きな眼鏡の奥の目は、眠そうというよりも、何かを恨んでいるようにも見える。それは、人生や他人に対する諦念すら感じさせるもので、ただ立っているだけなのに、彼女の周囲だけ時間が止まっているかのような空気があった。
そして、胸はそれなりにあるのに身長が異様に低い。これに――楓は思い出すように目を細める。かつて、このライブハウスに似たような体型のコがいた。彼女もストリップ・ダンスは不得手だったが、総合芸術――ストリップ・アイドルとしての正体を現した途端、舞台上での輝きが一気に開花したのである。
とはいえ――陽子にはその片鱗は見えない。そこにいるだけで暗い気持ちになりそうだし。ただ、楓にはこのコを放っておけない何かを感じる。
そして――今回集まった中でも極めつけが四人目の
「お世話になります、お嬢様。メイド・キャバクラ『メイド・イン・ヘブン』にてご奉仕させていただいております
湊は深々と頭を下げた。長い前髪を左右に分け、両サイドからはツインテールが垂れ下がっている。しかし、最も目を引くのは――その衣装だ。エナメル生地のメイド服。しかも、鮮やかな緑色でテカテカと光り輝いていた。リアル・メイドの作業着というよりは、どこかコスプレ衣装めいたデザインである。
そういえば、『からおけや』の集会に、喫茶店のマスターが仕事着のまま来てたけど――それは、あくまで燕尾服である。しかし、こちらのメイドは――
楓は額に手を当てて目を閉じる。いくら新歌舞伎町が特殊な場所だからといって、メイド服で出歩くのはさすがにどうしたものか。湊は依然として姿勢を正したまま、硬い笑顔を浮かべている。その不自然な明るさの裏には、どこか鋭い決意のようなものが宿っているようにも見えた。
楓は湊を前にして、確認するように尋ねる。
「……楽器は?」
湊は一瞬だけ考える素振りを見せたが、すぐに顔を上げて答える。
「楽器演奏の経験はございませんが、以前、メイド喫茶のミニライブにて二代目『メイド☆スター』として務めさせていただいておりました」
「はぁ」
楓は曖昧な相槌を打ちつつ、内心では疑念が渦巻いている。メイド喫茶のミニライブ、ねぇ――とりあえず、いきなり楽器を合わせろというのも難しいだろうと、まずは湊の歌唱力を見せてもらうことにした。
ノクターンのステージに、本人の得意曲であるというバラードが流れ始める。
「生きている世界が違う~……♪」
湊の声は確かに悪くはない。可愛らしくもしっとりとした旋律に合わせて、柔らかく伸びる声。
だが――楓は唇を引き結ぶ。リリザや舞の歌声を聞き慣れている楓にとっては、湊の歌はそれほど突出したものには感じられない。むしろ、自分より少し上手い程度、といったところか。
曲が終わり、湊は控えめに頭を下げる。どこか、肩の力が抜けたようでもあった。張り詰めていた緊張が一気に緩んだのだろう。
「いかがでしたでしょうか?」
「ええ、まあ……はい、良かったと思います」
楓は答えの言葉を選びながら、ステージの端に視線を移す。その間に、楽器メンバーたちはできそうな曲を検討していたらしい。天夏と恵は同じバンドだったので、あとは陽子が合わせられそうな楽曲を探していたようだ。
湊と入れ替わりでステージに上がった三人による演奏は――肝心のボーカルがない。だが、楓の好きな曲だったので、イントロの雰囲気で何となくわかった。多分、
先は急ぐが、まだ歌詞すら完成していない。それでも伴奏の方は進められるだろう、と楽器隊にはこのライブハウスを稽古場として提供し、先行して練習を始めてもらうこととなった。楓としては、初めてのことばかりで、まだ全体像すら掴めていない。それでも――進むしかない、と前を向く。カリンが、こうして集めてくれたメンバーなのだから。ここからは自分が応える番――楓は決意を固めていた。
それから――湊は連日、ライブハウスに通ってきている。歌詞はまだ仮置きなのに――練習熱心なところは感心するが――毎回必ずメイド服姿で現れる。これは、仕事着のまま来ているというより、湊の私服がメイド服なのかもしれない。あまり歓迎できる趣味ではないが。
それでも、仮置きの歌を練習してもらっている申し訳なさもあり――楓は一曲終えた湊に声をかけてみる。
「ずいぶん熱心ですね」
それは、練習に対してもあるが――メイド服に対しても熱心に見える。楓のねぎらいに対して、湊はヘッドドレスに手を添え、恭しく頭を下げた。
「はいっ。このヘッドドレスに懸けておりますので」
初対面のときは丁寧な新人メイドさん、という印象だったが、何日かつき合ってみると――ツインテールも相まって、どこか幼げな雰囲気が拭えない。だが、無邪気に一生懸命な姿勢に楓は感心していた。
「……ヘッドドレス?」
頭に乗っている白いヒラヒラ――楓にとっては派手なカチューシャ、という認識だったが、メイド界隈ではそう呼ばれているらしい。
「初代、メイド☆スターは仰られました。メイドがメイドたる
「はぁ……」
湊は誇らしげに微笑むが、楓にはその言葉の意味がよくわからない。というか、“仰られた”って――初代ってことは同じメイドだろうに、まるでご主人様に対するような言葉遣いだな、と心の内で訝しむ。
「そして、このヘッドドレスは、初代より承った逸品なのです」
湊は得意げに頭を傾ける。その様子も、なんだか可愛らしい。そして、楓がそのヘッドドレスをジッと見てみると――『Cheese O'clock』――メーカー? 店名? 楓は知らないが、何かのロゴが刺繍されている。店名だとしたら、以前働いていたメイド喫茶で、記念にもらってきたのかもしれない。
「それで、その初代さんはどうしてるんです?」
楓は少しだけ興味を持ち、尋ねてみた。すると、湊の目がにわかに陰る。
「……忽然と、姿をお隠しになられたのです。去年の、年末に」
「!」
楓の胸がざわつく。去年の年末といえば――このライブハウスがストリップ・ライブを始めた時期であり、その少し前は“伝説の終焉”とも呼ばれた出来事――『TRK26』の消滅のあった頃合いだ。
詳しく聞きたい気持ちもある。だが、あの騒動に触れるのは危険――何故なら、その原因はいまだわかっておらず、下手に首を突っ込むと、自分どころか、ライブハウス自体が潰されてしまうかもしれない――ゆえに、湊の言葉に楓は押し黙る。
が、そんな気まずさを打ち破るように、湊は再び口を開いた。
「だから、私はこの街から歌を発したいのです。初代に向けて……私はここで待っているから、いつでも帰ってきてほしい、と」
湊の目は真剣だった。その心意気は、楓にも伝わる。歌で、想いを伝えるって――何か、いいな――楓は少し温かい気持ちになり、湊を見つめた。
「それで、ここに来るまではどこで待ってたんです?」
楓が尋ねると、湊は姿勢を正し、丁寧に頭を下げながら――
「もちろん、メイド・セクキャバ『メイド・イン・ヘブン』にて。私も初代も、そちらに勤めておりますので」
「…………」
あー、そういやそうだったわ――どおりで午前中の練習で鉢合うはずだ。キャバ嬢ということなら、自分と同じ夜型だろう。けど、せっかくいい話を聞いたんだから、初代はせめてメイド喫茶で待ってて欲しかったなぁ、と楓は他人の美談につい口を挟みたくなっていた。てか、メイド・セクキャバって――途端に、楓の中から初代メイド☆スターへの敬意がサラサラと飛んでいくようだった。
その後も、湊はソロで練習を続けている。ようやく歌詞も固まったので、ホームページで公開する準備も始めたい。だが――いまのところ、カラオケ音源を自分で流し、それに合わせて歌うだけ。他のメンバーと合わせることはほとんどない。もう少し、全員で集まったほうがいいんじゃないか――楓はそう思いながらも、湊たちの練習に口を挟むことはない。いまはとにかく歌唱力を磨くことが最優先――そうカリンからも指示を受けている。何故なら、伴奏は打ち込みでも流せるが、ボーカルはそうもいかないから。
しかし、そんなある日のこと――楓はいつも昼頃に家路に就く。カリンやあやのと一緒になった際には打ち合わせついでに食べていくこともあるが、湊とはそこまで親交を深めていない。そんな日は、帰ってから納豆パスタで済ます。かつてはすべての食事がそれだったが、いまではファミレスの正社員であるため、一食は補助金によって格安でファミレスメニューを味わえるようになった。これは、食生活革命だな、と楓は日々職場に感謝している。
その日もライブハウスで湊と別れ、これからのことや、これまでのこと、そして、自分のダンスのことなどを考えていた。昼食のメニューは固定なので、考える必要がない。
しかし、どこぞのファーストフード店の前を通りがかると――あのコたち――! ガラス越しに見えたのは、カウンター席に座る天夏と恵の姿だった。ふたりは楽しそうに駄弁りながら、バーガーを頬張っている。しかも、楓と目が合うと、『チーッス』と言わんばかりには手を挙げて軽い挨拶。
――反省の色なし。楓は奥歯を噛み締めた。こんなところで時間を潰してる暇があるなら練習しろよ――! だが、楓は彼女たちに命令できるような立場ではない。天夏たちはあくまでゲスト――カリンに呼ばれてきた外部の人間だ。
それでも――少しだけ警告しておきたい――そう考えた楓は、そのままファーストフード店に足を踏み入れる。
普段、楓が外食をするのは社員割引の利く勤務先のファミレス『ファメリア』くらいだ。ゆえに、フルプライスでの購入には少し抵抗がある。だが――今日はこれからシンカブ組合の組合長として苦言を呈するのだ。最もシンプルなハンバーガーひとつだけというわけにはいかない。楓はメニューを見つめ、悩んだ末に定番のテリヤキバーガーを選んだ。しかし、フライドポテトは脂分の塊のようなものだから、と自分に言い訳をしながら、ドリンクだけにしておく。レジで会計を済ませると――店内は昼時で混み合っているが、幸いにも天夏たちの隣の席は空いていた。楓は少しだけ躊躇したが、トレイを持って天夏の横の椅子に座る。
席に着いても、ふたりは気にも留めず、堂々と会話を続けている。目の前のトレイには、バーガーの包み紙に空の紙コップ、そして食べ終わったポテトの容器。しかも、あのバーガーは期間限定メニューのもの。自分よりいいもの食べてる――! と、楓は胸の内で密かに毒づく。しかし――これは、自分の方が節約しているだけのこと――楓は自分にそう言い聞かせるが、何かに負けたような気分は否めない。
さて、どのように声をかけるべきか――そう思って口を開きかけたとき、楓は初めて気づく。彼女たちは、ふたりだけではない。隣に、もうひとり見慣れない女のコが座っていた。髪はウルフカット寄りのショートボブで、後ろ髪がやや長めに残されている。小さな身体が椅子に沈んでおり、雰囲気もどこか小動物のようにおとなしい。ふたりのような派手なメイクもしておらず、クリーム色の半袖ブラウスに、くすんだグリーンのスカートという、どこか学生のような控えめな夏服を着ていた。足元は白いスニーカーである。あまりの印象の違いに、とてもケバい水商売の関係者とは思えない。これが、このふたりの社交力というべきか――顔の広さに楓は恐れ入る。
無関係な知り合いがいるなら、あまりきついことは言えないかも――さまざまな経験を乗り越えて、楓もそれなりに対人能力に自信をつけたつもりだった。だが、本質的には根っからのコミュ障である。顔見知りのふたりならともかく、初対面の誰かの前で説教を始めるほどの度胸は持ち合わせていない。
「……お疲れ」
結局、口にできた言葉はそれだけだった。それ以上何も言えずに、楓は自分のバーガーに手を付けることなく視線を落とす。だが、そんな緊張は天夏によってあっさりと一蹴された。
「お疲れッス~!」
店内に響くような元気な声に、隣席の少女も気になってしまう。
「えーと……お知り合い?」
「さっき話してたライブハウスの~」
恵が軽く補足すると、「ああ」と、少女は思い出したように相槌を打つ。
楓としては、ここで自己紹介を挟むべきか悩んだ。そして、その場合は芸名にするか本名にするか――けれど、気づけばもう三人の会話は勝手に進んでいる。疎外感が半端ない。
「というか、練習はしなくていいの?」
「してるっちゅーの、家で」
少女がふたりに問いかけると、天夏が当然のように答えた。これに、楓は少し安心しかかるも――ギターならわかる。エレキなら音量も抑えられるだろうし。だが、ドラムは? まさか、電子ドラムで叩いているとでも?
そんな楓の疑念の目をヨソに、恵はエアスティックを振るう。
「やっぱ楽器っていいわー。案外手が覚えてるもん」
「最近は身体張るほうだけだったからねー」
天夏がバーガーの包み紙をクシャっと丸めて言った。その言葉の意味は――いわゆるAV女優としての仕事のことだろう。
すると――
「というか、ふたりとも彼氏いたはずじゃ……」
隣の少女が、少し心配そうに尋ねる。
だが。
「いるよー。でも、そこはそれってことで」
天夏はあっけらかんと笑う。バレたら修羅場になりそうな――という楓の懸念を他所に。
「てか、一緒に観てるし」
どんな彼氏だよ! と楓は聞き耳を立てながら目を見開く。寝取られ願望でもあるのか、その彼氏――と思ったが。
「てかそもそも、汁男優だし」
天夏が飄々と言い放つ。ファーストフード店でそんな会話しないで! と楓は恥ずかしくなりつつも、同時に、そんな関係の発展があるのかよ! と驚愕もしている。だが、総じて何も言えない。正直、口を挟みたくない。
「それじゃあ、もう音楽はやらないの?」
少女が少し気遣うように尋ねる。
「やってんじゃん、こうして」
天夏は平然と答えた。うちが招致しなければ、やってなかったじゃん――と、楓は内心でツッコミを入れるが、口には出さない。
「前の事務所は一応、音楽だったのに」
少女の声には少し残念そうな色が混じっている。
「名目上はねー」
天夏は肩をすくめる。
「てか、入ってすぐに『セクシー路線はどこまでイケるか』とか言ってさ、AV撮る気マンマンだったじゃん」
恵は楽しそうに苦笑い。どうやら、ロクでもない事務所に捕まったようだ。
「けど、いまは……」
少女が口を開きかけるが――
「まあ、AV事務所だけにエロ一〇〇%だけどね!」
天夏はけらけらと笑う。その無邪気さに、少女は何とも言えない表情を浮かべていた。楓も同様に。一方、相棒は平常運転として受け止めている。
「けど……ま、それとは別に、たまには音楽もいいよね」
恵がカラになった紙コップをくるくると回しながら言う。
「なら、いまのライブハウスで続けていけるといいね。その……ストリップもやってるんでしょ?」
「そうそう、ストリップ・ライブ!」
少女の問いかけに、天夏は大声で応える。いくら新歌舞伎町だからって、あんまりストリップとか言わないで――と楓は思わず顔を覆う。幸い、他に気にしている客はいないようだが。
けれど、恵はふと、ドラムの話題に戻す。
「これからも呼んでくれたら面白いよねー。あ、そうだ、ドラムの椅子にこんな感じのをセッティングしてー……」
恵が片手を突き上げ、手首をクルクルと回して卑猥なジェスチャーを始める。楓はそれを見なかったことにして、黙々とテリヤキバーガーをかじっていた。
このふたりとは、少なくとも公共の場では話したくない。というか、その真面目そうな少女は何を思ってふたりの友人をやっているのか――少し距離を置いて他人のフリをしていると、天夏のほうから詰め寄ってくる。
「楓さん、私ら全裸オッケーなんで、これからもステージに呼んでもらえません?」
だからそーいうことをこういうところで言うな! ――とは思うが、その音楽熱を冷ましたくはない。
「……今回の、反響によっては」
何とか平静を保ちながら楓は言葉を返す。確約せず、練習を促す絶妙な塩梅――これ――結構、上手く返せたんじゃない? ――楓は内心で自分の成長を感じていた。
これに、天夏もニッと口の端を上げる。どうやら、楓の思惑通りに受け取ってもらえたらしい。
「ほんじゃ、そろそろ
天夏が席を立ちながら相棒に促した。
「うん、
どうやら、これからふたりで練習するようだ。なら、ライブハウスで合わせてくれ――楓は呆れながらも、何も言わずバーガーを再びかじる。
「そんじゃ、お疲れっしたー」
と結局何も変わらない挨拶で、天夏たちは店を出ていく。それに続いて、付き添いの彼女も通り過ぎようとしたが――
「天夏ちゃんと恵ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
はにかみながら、小さく、そっと囁く。それはまるで、保護者のような口調でもあった。振る舞いも落ち着いているし、もしかしたら“姉的立場”なのかもしれない、と密かに感じ、そして、あのふたりが妹分だと苦労するだろうな、と同情する。
その声は小さかったが、天夏と恵にも聞こえていたようで――
「んなことゆーなら、
「そ、それは……いまの事務所と相談しなきゃだから……」
天夏の軽口に、少女の声は萎んでいく。
しかし――“事務所”という単語よりも――るなる――Lunaru――!? その名はデビューしたばかりのアーティストのもので、楓も密かに気に入っている。その名前がここで出てくるとは――もしかして、彼女が――? そういえば、“事務所”って――!
ほとんど顔を合わせていないので外見的なところは確認できていないが、声は似ていたような気がする。だが、三人はとっくに店を出てしまった。そのためだけにわざわざ追いかけるわけにもいかないし――! 楓はハンバーガーの包み紙を八つ当たりのように握り潰す。
だが――これから、もし縁があれば、話題に挙がることもあるだろう。そのためにも――こまめに練習に来なさいよ――! 楓はそんな自己都合な思惑を抱えて、席を立った。
ひとまず、天夏と恵に対して、楓は以前ほど心配していない。どうやら、ふたりは自宅で練習しているようだから。ならば、ベース担当の陽子も同じように家で練習しているのだろう――そう期待していた。
さて。
楓の職場であるファミレス『ファメリア』は、新歌舞伎町のはずれにある。さらにそこから自宅の社宅までは、徒歩で約二〇分の距離。歩くにはやや遠いが、自転車を使えばそこまで苦ではない。
しかし――昨晩は夜から雨が降っていた。さすがに雨の中で傘を差して自転車に乗っているところを警官に見咎められては、罰金を取られるかもしれない。あと、普通に危ない。ということで、楓は仕方なく徒歩で通勤していた。こんなときでも、
新歌舞伎町の雨は、街の喧騒を少しだけ和らげてくれる気がする。煌びやかなネオンも、濡れたアスファルトに反射してぼんやりと滲み、昼間だというのに、どこか夜のような雰囲気を漂わせていた。ホストクラブの看板たちも、水滴を伝って艶やかに光り、傘を差した通行人たちは早足で行き交っている。路肩には、まだ開店準備中の店舗も多く、シャッターの隙間から漏れる蛍光灯の灯りが、雨粒に揺れていた。
こんな天候のときこそ、楓はこの環境をありがたく感じる。これが、夜の公園に出向いていた頃なら、問答無用で雨天中止――だが今日も、ライブハウスのお陰で、こうして練習に励むことができた。
楓は傘を差しながら、そんな新歌舞伎町の裏通りを抜け、いつもの帰り道を歩いていく。日常のはずなのに、どこか非現実めいた光景――その中で、ただひとり、靴音だけが雨音に混じって響いていた。
新歌舞伎町のはずれから社宅へ向かう道の途中には、広い公園がある。普段は自転車で通過するため外周をぐるりと回っているが、歩きであれば中を突っ切ったほうが早い。広場にはベンチやブランコが並び、雨の所為か人影はない。だが――雨音に混じって、どこからか音楽が聞こえてくる。耳を澄ませば――それは、誰かの弾き語りのようだった。しかも、こんな雨の中で。
――どこ? 楓は雨音を掻き分けながら歌を探して視線を巡らせる。そして見つけた。ドーム型のコンクリートの遊具の中で。外側はタコの足のように枝分かれした滑り台がいくつも伸びているが、内側は空洞になっており、子どもたちが隠れられるようなスペースになっている。まるで隠れ家のようなその場所から――たしかに音楽は漏れ聞こえていた。
楓はゆっくりとそのドームの中を覗き込む。そこには――
「だけどいまも聞こえるよ……誰かの足音……♪」
雨音の中、低い天井の下で座り込んで歌っていたのは――陽子だった。彼女は膝を折り、地面に座ったままエレキベースを抱えている。アンプに繋がれていないため音量は控えめで、彼女の歌声が主旋律となって響いていた。
楓は少し驚きつつも、声をかけることができない。床は濡れている。陽子はその冷たいコンクリートの上に直接座っているのだから、さぞお尻が冷えるだろうに――
話しかけていいものか――ひとりで歌いたくて、こんな場所を選んでいるのかもしれないし――少し迷った末に、楓はそのまま立ち去ろうとした。
が、そのとき陽子の視線と交わる。歌を止めて――陽子もまた、楓を見つめ返した。ふたりの間に、気まずい沈黙が流れる。ふたりを包み込むのは雨の音。楓がぎこちなく会釈をすると、陽子もまた会釈で返した。しかし、それだけで会話につながることはない。
楓は――ノクターンにやってきて、ダンスチーフという役職に就き――というより、むしろ、カリンのおかげだが――多少は人と話せるようになった。しかし、根はコミュ障である。気の利いた世間話など思いつかない。
だが、陽子もまた、歌を続ける様子はない。つまり――私に、行け、ということ? ――陽子はひとりになりたがっている――楓は、そう感じた。しかし、何も言わずに立ち去るのは違う気がする。それでは――彼女を取り巻く有象無象のひとりになってしまうのではないか、と。
少しだけ考え込んだ末、楓の口から出た言葉は――
「歌、上手いですね」
その賛辞は、楓の心からのもの。実際、こんな難しい姿勢であるにも関わらず、陽子の歌声は湊よりも明らかによく通っていた。低くて芯があり、ベースの伴奏にも負けていない。正直、湊とポジションチェンジしてもいいのでは、と思えるほど。
しかし――楓は同時に気づいている。陽子のベースは単調だ。リズムは安定しているが、特に技巧があるわけでもなく、伴奏としての役割を果たしているに過ぎない。
「もしかして――」
陽子のベースの技術と歌声のギャップから、楓は尋ねる。
「――元は、ボーカルでした?」
それは、『歌と比べてベースはそんなに上手くないですね』という言葉をオブラートに包んだ表現ともいえる。だが、これなら失礼には当たらないはず――と、楓は思いたい。
しかし――陽子の表情が曇った。元々暗い表情ではあったが、視線が逸れたことでさらに影が落ちたように見える。楓は雨の中で陽子と見つめ合いながら――胸の奥が重く沈んでいるのを感じていた。どうも、陽子と通じ合うところがある気がする――楓もかつては闇の中にいた。ダンス動画を上げても誰にも見向きもされず、ただ自己満足で踊り続ける日々。それでもいまは、ストリップ・アイドルとして表舞台に立ち、観客の歓声を浴びている。
だが、陽子の闇は――きっと、私より深い――と楓は思う。何より、先ほど見せた陽子の沈み込んだ瞳は忘れようもない。自分が味わった以上の絶望を抱えているような――そんな、深い影。
雨は次第に強くなり、公園の遊具のドームに雨粒が打ちつけられる。楓は、ドームの中に目を向けた。陽子は相変わらず、冷たいコンクリートの上に座ったまま、ベースを抱えている。その手元はかすかに震えているようにも見えた。
陽子の目は伏せられ、視線は自分の足元を見つめている。ふたりの間に響く雨音は、どこか重い。
「ボーカルをやるなら、調整もできますよ」
楓は慎重に言葉を選んで話しかけた。だが――
「いえ」
陽子の声は、まるで消え入りそうに弱々しい。そして、その瞳には深い悲しみが宿っていた。
「私には、歌う資格がありません」
そのひと言で、楓は何となく理解する。どうやら、何かがあったらしい――陽子が歌うことを拒む理由が。きっと――前のバンドで何かをやらかしたのだろう。自分から、
そんな気遣いを、陽子もまた楓から感じ取ったらしい。陽子は少しだけ顔を上げ、楓を見つめた。しかし、何も言わない。陽子は慰めを求めていない。けれど、楓の中に伝えたい思いはある。それが伝わるように言葉にするのは難しいけれど。
だから、楓は一方的に思いを伝える。
「新歌舞伎町のために、ありがとう」
楓に言えたのは、それだけだった。
陽子が今回のバンドに手を挙げたのは、おそらく贖罪のためだろう。かつて何かを、誰かを、傷つけてしまったことへの――償い。
本当は、もうステージに立ちたくなどなかったのかもしれない。それでも、ここで新歌舞伎町の窮地を無視してしまったら、自分の過去と同じことを繰り返すことになる――それはできなかったのだろう。
楓は改めて、陽子の沈んだ横顔を見つめた。そして、ふと思い出す。
「……もしかして……高梨さんたちと、同業者……?」
その問いに、陽子は俯いたまま静かに答える。
「デビューはしてません……
そのひと言に、楓はハッとさせられた。つまり――それは、陽子がデビュー寸前であることを意味している。それはまさに、“彼女”のように。
楓の頭の中に、かつての記憶が蘇る。風俗に身を売られそうになっていた少女。
そのとき、楓は応援の言葉をかけることができなかった。
素直になれず、冷たくあしらってしまった自分――
だから、今度こそ。
楓は強く息を吐き、陽子を見据える。
「デビューするなら……その前に、うちに声をかけて」
陽子の瞳が僅かに揺れる。その表情は、驚きとも戸惑いとも取れる曖昧なものだった。そんな彼女に、楓は言葉を続ける。
「うちは……貴女ひとりに壊されるほど柔じゃないから」
陽子は何も言わず、再び視線を伏せる。だが、その指はベースの弦を再び弾き始めていた。低く、重い音が響く。まるで彼女自身の心の奥底から打ち鳴らすような――そんな深い音だった。
楓はその音を背中に受けながら、冷たい雨の中を歩き出す。雨の音は止むことなく、ふたりの距離を飲み込んでくれた。