Paradise Lost - ストリップ・リクライシス 作:添牙いろは
その日を境にして、陽子もまたノクターンでの練習に加わるようになった。天夏や恵も同様に、頻繁に足を運んでくれている。ようやくバンドメンバー全員が揃って音を合わせるようになった。
となれば、そろそろ次のステップとして、決めたいこともある。
「はーい! だったら『××××・サウンズ』で!」
「放送コードに引っかかる単語は含めないでください」
そろそろユニット名を決めようと話し合ってもらったものの、天夏や恵は悪乗りが過ぎる。陽子は、このような場で意見を出すタイプではないし、湊も「みっ、皆さんにお任せします!」と遠慮がちだ。
不毛な議論の末に『ネオ・カブキ・ポップス』に決定――楓の一存で――一応、あとでカリンとも相談したので、これで大丈夫なのだろう。
こうして、ネオ・カブキ・ポップスの新歌舞伎町応援ソング『
計画は常にカリンと共にある。だからこそ、楓は尋ねられた。
「楓さん自身は出ないの?」
「ええ、私は、ほら……“組合長”だし」
もちろん、自分がソロでダンスを披露することも考えた。けれど、それは組合長権限でゴリ押ししているようで気が引ける。とにかく、今回は新歌舞伎町のことを第一に考えなくてはならない。街を守り切ったら、そのときは――“組合長”の役目からも解放されるだろうし、存分に踊らせてもらおうと思っている。
その想いを、カリンは酌んだ。ひとまずは。
「新歌舞伎町想いだね、楓さんは」
「ええ、このライブハウスがなくなったら困るから。ひいては、この街もね」
ようやく自分の居場所を見つけたのだ。エリからも役割を託されている。だからこそ、今回のライブはどうしても成功させたい。
そんな決意を瞳に宿らせる楓に、カリンがニンマリと笑いかける。
「ということで、そんな楓さんのために、ちょっとしたサプライズを用意しました!」
「な、何……?」
そういうことをされたことがないので、楓はドキドキしてしまう。素直なカリンのことだから、皮肉めいた嫌がらせはないだろう。
そして、それはその通りだった。
「明日、日曜日ですから……楓さん、お仕事もお休みだよね」
「それは、まあ、ライブもあるし」
自分の出番がなくても、他のメンバーの演出は参考になる。なので、毎週、できるだけ参加することにしていた。
「ちょっと、お願いしたいことがあって」
「ふぅん?」
サプライズからお願い――一体何なのかと思えば。
「新歌舞伎町の写真展を開きたいので……お兄ちゃんの撮影に一日同行していただこうかと」
「えっ!?」
また、とんでもないサプライズをぶっこんで来たものだ――と楓は天井を仰ぎながら――それでも、頬の緩みを隠せずにいた。
写真展――それは新歌舞伎町のイメージアップを図るためのプロジェクトである。シンカブ組合が発足された当初からその計画は存在し、その時点で、きっとカリンのコネを使って由伸に頼むのだろうな、という想定は楓の中にもあった。ただ、楓自身は『ネオ・カブキ・ポップス』のほうに注力しており、他のことはすべてカリンに任せていたところがある。ゆえに、そういう意味では寝耳に水といえた。
ずっと前――コンビニでバイトしてたとき、由伸を紹介してもらおうとしたものの、それはあっさりと躱されて――それが、いまでは積極的に接点を作ってもらっている。それが、楓には少し不思議な気分だった。ふたりの関係も変わったし、楓自身も変わってきている、ということなのかもしれない。
いずれにせよ。
楓には、由伸の真意が読めない。社交辞令には敏感だが、常に本気半分、冗談半分――ただ、カリンが由伸との関係を応援してくれている、というのは伝わってくる。
ならば――! と変な方向に意気込むつもりは、楓にはない。ない、つもりである。何故なら、楓は“組合長”だ。これは私的な撮影ではない。由伸もそのつもりで臨んでくるだろう。ゆえに、まずは良い撮影を支援すること――それを第一に考えよう――と心に強く決めつつも、当日に備えて新しい夏服を揃える算段を立てている楓であった。
そして、撮影当日――レストランの仕事を終え、朝焼けが空を染める時間帯、楓は待ち合わせ場所に向かった。新しく用意したのは、淡いブルーのシャツに白のノースリーブ、ベージュのワイドパンツという、夏らしく清潔感のある装い。ただし、足元だけはいつもの白いスニーカー。撮影中に靴擦れなんて起こしたら最悪だから――その機能性重視の選択である。が、全体のコーディネートの中でどうにも浮いてしまっているのがどうにも残念だ。
由伸が現れたのは、まだ街灯が消え切らない早朝の新歌舞伎町の大通り。看板の明かりがちらちらと瞬き、ビルの隙間から差し込む光が長い影をつくっている。その薄暗い景色の中、彼はいつものように白いスーツ姿で、胸元にチーフをあしらい、涼しげな笑みを浮かべて立っていた。その姿はまるで、この混沌とした街の空気をも纏うような存在感を放っている。
「取るに足りない不肖の身ながら、精一杯、街のために努めさせてもらうよ」
その言い回しには、どこか皮肉が込められているようにも聞こえた。もしかして――まだこれまでのこと、引きずってる――? 思えば、前回のランチでは先に撮影を決めた舞に嫉妬して、その前の初対面では、写真集も持ってないのにファンのフリをして――
楓自身とて、もしストリップを見に来た男が、個人サイトのほうも知らずに『あなたのダンスのファンでした』なんて言ってきたら、同じように冷たくあしらっただろう。ゆえに、由伸の態度は理解できるし、文句を言う資格は最初からない。
けれども、相手もまた大人だ――と、楓は期待している。人としてはともかく、よい写真を撮れる手伝いができればそれでいい、と割り切っていた。
少しずつ街灯が消えてゆき、朝陽が昇り始める時間帯。週末といえど、新歌舞伎町の大通りには、まだ人影はまばらだ。いまはまだ楓にできることは少ない。だが、この先――店内を撮影するのであれば、許可を取るためには楓がいたほうが話も通りやすいだろう。
まだ朝方ということで、陽は低い。楓はレフ板でも何でも持つつもりであったが、由伸は街の風景に向けて、絶えずファインダー越しに覗いている。
だが――
「……何か
何度もシャッターを切ることなくカメラを下ろしてしまう由伸に、楓はつい呟いてしまった。日々、由伸の写真集で研鑽を続けている身として――この光景には何かが欠けていると言わざるを得ない。
由伸はその言葉に反応し――レンズから目を離して楓を見た。その視線には、どこか嬉しそうな感心が滲んでいる。
「なかなかやるじゃないか。たしかに、いまのこの街は、俺のシャッターにはまだ少し届かない」
その言葉は、楓にとって少しだけ嬉しいものだった。由伸と、初めて写真の話を――相変わらず婉曲な表現を操るが、褒められていることだけはわかる。そこに、皮肉はないはずだ。
「俺のレンズが求めているのは、この街の哀愁と、
「……ああ」
それで、楓は由伸の言いたいことを何となく理解する。ただ荒廃しているだけでは駄目なのだ。そこに何か“華”がなければ――
楓は空を見上げ、そして目の前の通りを見つめる。早朝の冷たい空気の中、淡い光に照らされた街並み。ここで、華となりうるもの――
「でしたら、ここで脱ぎましょうか?」
そんな言葉が、ついこぼれ出る。この光景にヌードモデルがいれば――毎日のように見ている由伸の写真集を思い出して。
しかし――思いの外、由伸の瞳が鋭い。まるで、獲物を捉える瞬間の狩人のような力強さと、静かに燃える情熱を湛えていた。こんな視線を、楓はいままで見たことがない。ゆえに、その意味を理解する。きっと由伸の頭の中にはファインダーがあって、目に映る光景をどのように切り取るか考えているのだ。つまり自分が、由伸の写真の一部になっている――!
ゆえに――本気にされたらマズイ、といまさらになって楓の顔に焦りが滲んだ。先程の言は、いわば勢いである。純粋に、由伸の写真に収まる最適解を提示しただけで。しかし、こんな時間に、急遽ヌード撮影など――事前に役所なり警察署なりに相談していればともかく、急にこんなところで脱ぎ始めるなんて――!
そんな楓の焦りを汲み取ったのか、それとも、常識的な判断か。
「街が、キミを輝かせることを認めてくれる日が来たら……ね」
やはり、由伸の言葉は芝居がかっていて、本気かどうかわからない。だから――楓も深くは踏み込まない。
「楽しみにしてます」
楓はただ、その言葉を淡々と返した。曖昧な笑みを浮かべて。由伸もまた、カメラのレンズを通してそんな楓の姿を見つめていた。
楓は由伸と共に、新歌舞伎町の街を歩いていく。始発が走り始めたからか、ぽつぽつと動きのある時間帯になったことで、由伸のカメラは徐々に加速し始めていた。道端を歩く猫、舞い降りる鳩、通り過ぎる人の後ろ姿――元々陰のあるこの街の中でこそ際立つ明るさが演出されており、どれもが彼のシャッターによって、映画のワンシーンのように切り取られていく。さすが、隙がない――楓は感心しながら由伸の横顔を見つめていた。彼の集中力は研ぎ澄まされており、シャッターを切るたびに目が鋭く光る。楓もまた、その熱に引き込まれるように、心拍が速くなっていくのを感じていた。
新歌舞伎町の一日の中で、最も静かな時間帯は午前中である。こんな早くから開いている店は、牛丼屋やファミレス『ファメリア』のような二十四時間営業の店ばかり。通りを歩く人影もまばらで、街には閑散とした空気が漂っていた。
しかし、正午を過ぎれば、街の色彩は一変する。強い日差しが高い位置から照りつけ、舗道のアスファルトがじりじりと熱を帯びてきた。しかし、そのうだるような暑さの中にも、時折通り抜けるビル風や、氷菓子を手にする若者たちの姿が清涼感をもたらしてくれる。ペットボトルを傾けるスーツ姿のサラリーマン、コンビニの軒先で日陰を探す配達員――そのコントラストが、まさに由伸の写真にとっての真骨頂なのだと、楓は思った。
レンズ越しに切り取られていく風景には、派手さも奇抜さもない。けれど、その静けさや、何気ない人々の仕草の一つひとつに、息をのむような美しさが宿っていた。もともと夜型の楓だが、めくるめく新たな発見の前には眠気など微塵も感じることはない。むしろ、由伸の横にいて、同じ風景を見つめることに夢中になっていた。
そんなふたりは休憩を挟みながら歩き続け、陽も暮れかけた頃――
「由伸さん、あれ……」
楓が指差したのは、路地裏の隅でポツンと佇む小さな映画館だった。色褪せた建物は半世紀以上前に建てられたもので、壁の塗装は剥がれ、窓ガラスもくすんでいる。壁面にはいくつかのポスターが貼られているが、どれもどこか古めかしく、楓が知っているようなタイトルはひとつもなかった。
ドキュメンタリー・ムービー――? ポスターには歴史上の偉人や事件を掘り下げた作品が並んでいた。中には成人向けの怪しげなタイトルも混じっている。
楓は興味をそそられて近づいてみた。入口には『本日休館』の札がかかっている。表に貼られているスケジュールを見ると、今週は上映予定の作品がない。新作は来週から公開開始予定のようだ。休館なのは、単に上映作品がないから、ということなのかもしれない。
楓は窓越しに中を覗き込む。館内は薄暗く、誰もいない。けど――こんな場所こそ、由伸さんが好きそうかも――と楓は感じた。
それで、試しに提案してみる。
「中、入れてもらいましょうか?」
いまは新歌舞伎町が一丸となって立ち向かうべきときだ。ならば、撮影の許可も――
「休館日なら、脱いでも大丈夫かもしれませんし」
施設側も、必要とあらば協力を惜しむことはないだろう。しかし、由伸は――少し眉をひそめ、肩を竦める。
「館長もいまは休暇中なのだろう? 彼女の時間を邪魔するほど、俺たちは急いでいるわけじゃない」
言われてみれば――たしかに、無理にお願いしてまで入る必要はないのかもしれない、と楓も考え直す。だが、それでも――由伸は再び建物のほうへと目を向けている。その思いは館内にあるようだ。もしかしたら、そこに楓は立っているのかもしれない。
その鋭い眼差しに、楓はつい見入ってしまう。――この人、本当に写真を撮ることが好きなんだ――しかし、由伸は我に返ったように、楓に微笑みかけながら少しだけ口元を緩める。
「それに……浮気はできない性分でね」
浮気――それは、舞のことを指しているのだろう。由伸の写真の被写体として、舞はすでに選ばれている。だが、その眼差しは――楓にも向けられているように感じられた。だから――楓は少しだけ視線を逸らし、小さく微笑む。
「でしたら、その恋に早く区切りをつけることですね」
これは、ちょっとした意趣返し。だが、由伸の胸にも驚きをもって響いたようだ。
「俺が戻ってくるまでに、お姫様の気が変わらないことを祈るよ」
由伸は軽くウインクをして見せる。楓も負けじと返しながら静かに目を閉じた。
「お姫様は気まぐれなものだから、急いでくださいね」
「了解。貴婦人の心をつなぎ止めるのも、俺の仕事さ」
ふたりの言葉のやり取りはまるで舞台の一幕のように響く。最初は、楓も面食らったものだが――このような掛け合いも面白いかもしれない、と少し楽しくなってきていた。
それなりに夜も更けてきたところで、撮影は一区切りとなる。『ちょっとした、俺のわがままだ。この街の今夜一番の“輝き”を撮りたくてね』――そう告げた由伸に連れられ、楓は車に乗せられた。今日は新歌舞伎町の撮影だったはず。なのに――一体どこへ行こうというのか。
このシチュエーションは、先日、エリと共にしたときと雰囲気こそ似ているが――由伸の車なら安心できる。落ち着いた気持ちで、楓は後部座席から車窓を眺めていた。煌びやかな看板、雑然とした人混み――それらが、まるで別世界の景色のように遠ざかっていく。そしてすぐに、高層ビルがそびえる都心の街並みが近づいてきた。信号待ちの交差点ではタクシーのヘッドライトがガラスに映り、ぼんやりと揺れている。都会の夜は冷たくもあり、どこか魅惑的でもあった。その景色を眺めながら、楓は静かに思う――この光の海の中で、自分も輝いていけるのだろうか、と。
新宿を出た車は都心の高層ビル街の中へと滑り込み、やがて六本木に到着した。そのランドマークともいえる展望台――そこからは、都内の夜景が一望できる。
「ここから見える新歌舞伎町の光……まるで星屑みたいだろう?」
由伸はその最上階の窓にぴったりとカメラを構え、レンズ越しに街の灯りを見つめている。楓もその隣に立ち、遥か遠くの新歌舞伎町を見つめた。あんなに賑やかな街も、こうして見るとちっぽけに見える。
「俺たちは広い世界の中の……ほんの一部でしかないんだよな」
由伸の言葉には、どこか孤独が滲んでいる。彼の視線は街の灯りを捉えたまま、楓の方を見ていない。あの街の中に――もしかして、如月舞のことを見てる――? そんな想いで、胸が苦しい。舞は自分にとっても厄介な存在である。ストリップ・アイドルとしての実力は圧倒的だ。由伸が舞に惹かれるのも――仕方がない。けれど、いつかは――楓の中に、
ふたり並んで夜景を見つめていたが、そんな楓に、由伸が優しく声をかける。
「さて、今日の相棒に感謝を込めて……夜景の後に、ディナーは如何かな?」
由伸からの唐突な誘いに、楓は――六本木でディナー!? それは彼女にとっては、どこか遠い世界の響きのように聞こえてしまう。マナーやドレスコードなど、場違いな心配が頭を駆け巡り、もはや食事どころではない。
そんな楓の戸惑いを察したのか、由伸は口元に笑みを浮かべる。
「はは、そう構えるようなものでもないさ。ちょっとお気に入りのパンケーキの店があってね」
パンケーキ――その響きに、楓の緊張は少し和らぐ。そのメニューだけで、勝手にカジュアルな店なのだろう、と楓は思い描いて承諾した。
が、由伸の店選びはそんな予想を軽々と裏切る。パンケーキといえど、ここは六本木――洒落たインテリアで統一された店内、白いテーブルクロスのかかったテーブル、そして落ち着いた照明――こんなお店でパンケーキ――? そこは庶民的なカフェとはまるで異なる空間だった。
しかも、メニューに目を通してみると――値段がない!? もしかして時価!? ――女性用に値段の伏せられたメニューがあるなど、楓には思いも寄らない。だが、値段がわからないことには頼みようもない――恐れ多すぎて。
なので、由伸がエスコートする。
「この、ルミエール・セットをね、キミに是非味わってみてほしくて」
「あ、はい、じゃあ、それで」
楓は頭の中が真っ白になっており、言われるがままに言葉を返すことしかできない。こんな状況で味などわかるものなのか――
しかし、運ばれてきた豪華なディナーセットに楓は思わず食い入ってしまう。皿の上には、肉厚のステーキと並んで、ふわふわとしたパンケーキが添えられていた。表面にはほんのりとシナモンシュガーが振られ、湯気とともに立ち上る香ばしく甘い香りが、鼻をくすぐる。シナモン――その香りに、楓の胸がふわりとほどけた。大好きな香り。どこか安心させてくれるような、あたたかな気持ちを呼び起こす。そしてテーブルの隅には、綺麗なワイングラスが並んでいた。
「今日一日付き添ってくれた相棒に……乾杯」
由伸がグラスを軽く掲げる。楓も慌ててグラスを手に取り、そっと合わせた。――こんなディナーまで奢ってもらえるなんて――というか、奢りでいいのよね――? 相棒に感謝、みたいなこと言ってたし。楓は財布の中身を思い出す。念のために、今日は多めに現金を持ってきていた。というか、由伸からの好感度が高いとは思っておらず、むしろ、自分から誘うつもりで。
にも関わらず、こんなもてなしを受けている――いま、このひとときが、思っていたよりずっと心地よいものであることに、楓は少なからず感激していた。
今度こそ――由伸と距離が縮まったような気がする。初めて会ったときは連絡先さえ交換してもらえなかったけど、今回は――うん、嫌いな相手を義理で誘うようなお店とは思えない。
ワイングラスを傾けながら、楓は六本木の夜景を見つめていた。ビル群の向こうには、新歌舞伎町の灯りも小さく滲んでいる。私も、あの街で輝きたい――由伸さんが見つめていた、光のひとつとして――そんなことを考えながら、楓は静かにグラスを口元へ運んだ。
そんなディナーの余韻の中で、本日の撮影会の幕は下りる。楓は由伸の車に乗せられて新宿まで送ってもらっていた。
しかし、車に乗り込むと同時に、楓の全身から力が抜けていく。強烈な眠気に目蓋が抗えない。実のところ、今日のスケジュールは、楓にとってほとんど徹夜のようなものだ。一応、勤務中の休憩時間を使って仮眠を取ってから臨んだものの、楓の生活は本来夜型である。由伸と朝から晩まで撮影を続け、体力はとっくに限界を迎えていた。シートに背を預けた途端、まるで糸が切れたように意識が遠のいていく。
次に目を覚ましたのは――どこからか響いてくる力強い音楽に揺さぶられてのことだった。ゆっくりと目を開けると、視界に見覚えのある天井が飛び込んでくる。ここは、ノクターンの控室――四角い蛍光灯が静かに光り、壁にはステージ衣装がいくつも吊るされているのが見えた。空気には楽器の残響がほんのりと漂い、壁の向こうからは逞しいギターのリフが聞こえてくる。けれども、それに負けないほどの歌声――それで思い出した。――ああ、今日のストリップ・ライブは、如月舞だったか。
楓は、ゆっくりと身を起こしながら、先ほどまでの出来事を思い返す。由伸との一日が、まだ身体の奥に残っているようだ。撮影を共にした緊張と高揚、街の匂い、彼のレンズ越しに見つめられた感覚――どれも鮮明に蘇ってくる。自分はたしかに、あの人と“作品”を創っていた。その手応えが、心のどこかに残っている。
けれど、由伸がこれから撮影するのは――如月舞。それが、どうしようもなく楓の心を曇らせる。舞と並べば、自分など到底敵わない――それはもう、何度思い知らされてきた。ルックスも、カリスマも、そして何より“才能”が違いすぎる。実際、由伸が最初に指名したのは、自分ではなく、舞だ。
ゆえに、ふと不安がよぎる。由伸は、あのように飄々とした性格だから――もしかしたら、舞に対しても今日の自分と同じように丁寧に、優しく接しているのかもしれない――それを想像して、胸の奥に小さな棘が刺さる。
――でも。
由伸の“もてなし”に、舞がデレデレと応じている姿だけは、楓にもまったく想像できない。それだけが、せめてもの救いだった。
楓にとって、ストリップ・ライブをステージの外から鑑賞させてもらうのは毎週の習慣となっている。メンバーたちの力量もわかるし、何より自身の勉強にも最適だ。それが、如月舞であれば――悔しいが、学ぶべきことは多い。
せっかくライブ中なら、観ていこうか――そう思ったことで、自分が“ここにいる違和感”に気づく。眠っている間にここまで運ばれてきたということは、由伸が自分を抱えて運んだということになるのかもしれない――楓は徐々に状況を思い出してきた。車に乗ったところまではたしかに記憶があるが、その先が途切れている。
まさか由伸が――起こしてくれても良かったのに。ともかく、まずは礼を伝えなければ、と楓はすぐにスマホを取り出す。
すると――すでに由伸からのメッセージ通知が届いていた。その内容は何となく想像がつく。どうせまた、キザな言葉で締めくくられているに違いない。それをこの場で読むには少し恥ずかしくて――つい、内容を開く指が止まってしまう。
視線は自然と、由伸の下に表示されたカリンのメッセージに移る。『撮影上手くいった?』という軽い一言――ワクワク、と期待に満ちたスタンプも添えられており、返しやすそうだ。しかし、同伴していた兄より先に妹に返信するのも、なんとなく順番が違う気がして、やはり手が止まる。
さらに下には、エリからのメッセージも届いていた。おそらく、業務連絡か何かだろう。これが一番触れやすそうだ。そんな軽い気持ちで開いてみるも――
「ぶっ!?」
思わず声が漏れた。
そこに添付されていた画像に、楓は目を疑う。メッセージ自体は『写真撮影お疲れ様』というシンプルなものだったが、その下の画像には、よりにもよって由伸にお姫様抱っこされている自分の姿が――しかし楓には、そのだらしなさが、まるで捕獲されたトドのように見える。というか、由伸のカメラ目線――恥ずかしげもなく撮影に応じてる場合じゃないでしょ!
楓は絶叫したい衝動を必死で堪える。控室の外ではライブ中だ。こんなところで騒いだら、さすがに迷惑になる。
この状況で、どうやって返信すればいいのか、楓にはまったく見当もつかない。何も考えられずに、顔を真っ赤にしながらスマホを握りしめる。これは、舞のライブどころではない。とにかく、まずはここを出よう――そう決めて、楓はハンドバッグにスマホを放り込むと、そのまま控室を飛び出した。
夜の街はしんと静まり返り、その中をライブの余韻が空気をかすかに震わせているような気がする。アスファルトは乾いていて、雨の気配はない。月がかすかに雲間から顔を覗かせていた――けれど、その冷ややかな夜気とは裏腹に、楓の顔は火が出そうなほどに熱く、心の中は煮え立つような羞恥でいっぱいだった。
ようやく自宅へたどり着いた楓は、火照った身体を布団に包みながら、ようやく落ち着きを取り戻す。そして、改めてエリのメッセージを開き直そうとするが――無理! こんなの直視できない!
布団の中で顔を覆い、楓は深く息を吐く。結局、その返信を打つ勇気は湧かず、『明け方にしよう……』と心の中でつぶやくのが精一杯だった。
その日一日かけて楓と由伸が撮影した写真は、当然写真集として出す。だが、先行して、写真展を開く計画になっていた。今回打ち出されている特措法縮小案に異を唱えるためである。しかし――その展示会場が見つからない。
「からおけやさんに断られた時点でおかしいなー、とは思ったんだけどねー……」
カリンがいつものフライドポテトを摘みながら眉をひそめる。だが、一方の楓はいままさにファメリアで仕事中だ。どうやらカリンは、ファメリアにくれば楓と話ができると思っているらしい。実際、暇さえあればシフトを入れているので、カリンの認識はある意味正しかった。
客席で軽く会話を交わしながら――その報告に、楓は小さくないショックを受ける。あのミニステージは、組合の決起集会にも使わせてもらっていた。広さ的にも、写真の展示にちょうどいい。それなのに、利用不許可――これには、何か複雑な事情が絡んでそうだ。
そのヒントを、カリンは示す。
「最近、舞さんが、それまでお世話になってたスタジオを出ることになったらしくて」
「ああ」
また行く先々で良からぬことをやらかしたのだろう、と楓は無意識に納得したが――
「茶化さないの」
どこか嬉しそうに頷く楓をカリンはピシャリと嗜める。その声には、いつもの柔らかさがない。これには、思わず楓も背筋を正す。カリンがこんなにも強い語調で叱るのは、極めて珍しい。
しばしの沈黙が流れた後、カリンがやや声を落として続ける。
「……ただ、それは口実にさせてもらおうと思って」
「口実?」
楓は首を傾げるように尋ねた。それで、カリンが真面目な面持ちで自分の方へと手招きするので――楓が少しだけ顔を近づけると、カリンは周囲を気にしながら囁く。
「うちの舞が、何かご迷惑をおかけしませんでしたか、って」
やっぱり、あの女がやらかしたんじゃ――と楓は密かに高揚するが、先程窘められたばかりなので顔に出さないように気を引き締める。
言葉を続けるカリンの表情には冗談めいた色はない。彼女は真剣だった。
「そしたら……この付近で会場を探すのは諦めたほうがいいって……」
「あの女……一体何をしたの……」
「楓さんっ!」
今度ははっきりと怒られてしまった。楓としては――
「違うの?」
本気でそう思っていたため、むしろ驚いて尋ねてしまう。これに、カリンは残念なものを見る目で楓を諭す。
「舞さんはね、舞さんのほうから、スタジオのオーナーに話を通そうとしてくれてたんだよ?」
会場として貸してもらうために。
「ぅ」
そのひと言で、楓には何も言えなくなる。楓とて何もしていなかったわけではない。しかし、具体的な交渉や調整は、すべてカリンに任せきりだった。舞が主体的に行動していたという事実は、楓にとって意外で、そしてどこか悔しい。
同時に、楓は自分たちの窮地も理解する。舞がお世話になっていた――あの宿無し女の世話ということは、よほど懐の広いオーナーだったのだろう。そこから、如月舞が追い出された――そこに、舞本人に原因がないのであれば――
音楽スタジオであれば、写真展だけでなく、現在進行中のバンドの公演を依頼した可能性もある。それが先んじて潰されたとなると――
「唐沢さんがこっそり教えてくれたんだけどね」
「唐沢さんって?」
「スタジオのオーナーさん」
オーナーの唐沢はかねてより新歌舞伎町の外側から、街を応援してくれていたようだ。舞を寝泊まりさせていたのも、その一環だろう。そんなオーナーだからこそ、こっそり教えてくれた。他の誰もが、口の端にも上げたくなかったことを。
「……この付近で、協力してくれる施設を探すのは諦めたほうがいい、って」
「新歌舞伎町が、そこまで嫌われている……?」
思わず口から出た問いに、自分でもわずかな震えが混じっているのを感じた。たしかに、新歌舞伎町は危険なイメージを持たれがちではある。けれど、それでも手を貸してくれる人たちはきっといるはずだと、そう信じていたのに――
そんな楓の恐れを、カリンは拭い去る。ただし、別の恐怖で。
「もしかしたら――」
わずかに眉を寄せながら、これまでよりさらに小声で。
「……圧力、かかってるかも」
その言葉に、楓の背筋は凍りついた。町内の黒服たちがこの件で敵対する理由はない。だとしたら――
「政府関係者……ってこと?」
呟いた言葉が自分の耳にも重く響く。黒服も恐ろしいが、国家の力が絡んでいるとなれば、話はまったく別次元だ。想像するだけで、手足がすくむ。
たしかに、ことの発端は安心党だ。その法案に対抗するために、新歌舞伎町は一丸となって動いている。とはいえ、『シンカブ組合』という組織名は一切表に出していない。というか、写真集も写真展も告知さえしていないし、バンドのほうも、せいぜいイメージソングと称して配信している程度。あくまでまだ水面下の活動に過ぎない。にも関わらず、政府が先手を打ってきているとなると――
そのとき、ピンポン、とテーブルから店員を呼ぶベルが鳴った。楓が顔を上げると、カリンも、静かに、そして残念そうに微笑みながら頷く。いまはあくまで、仕事中の店員に声をかけただけなのだから。
楓が仕事に戻るべく足を向けたところで、カリンがふと彼女の後ろ姿に声をかける。
「その髪飾り、いまでは仕事中も着けてるんだね」
楓は少しだけ足を止め、自分の髪に触れてみる。紅葉の形をした髪飾り。言われてみれば――まだカリンと共にコンビニで働いていた頃は、
けれど、いまでは――朝起きてから寝るまでのあいだ、外すことはほとんどない。これは、楓が小学生の頃――ダンスの大会で銀賞を取ったときに、母からもらったもの。それを思い出して、楓は少し恥ずかしげに、それでいてどこか誇らしげに笑った。
「これは……ダンサーとしての証みたいなもので……」
カリンは、黙って頷いていた。それで、楓はそっと言葉を重ねる。
「これを着けているときは、自分はダンサーなんだ、って忘れないようにしているの」
それは、誓いにも似た言葉だった。日常のすべてを、表現のために使う――その決意として。
楓は再び足を進め、来客対応に向かいながらも、自分の言葉の余韻を胸の奥に刻む。かつては――日々の中であまりに不本意なことが多すぎた。無気力に接客業に務め、挙げ句には不本意な写真を撮り――その度に、これは本来の自分ではない、と言い聞かせるため、この髪飾りを
だが、いまは違う。ライブハウス『ノクターン』のストリップ・アイドルとして――その意識は常に忘れるつもりはない。そして、その道へと導いてくれたライブハウスを、そしてこの街を守らなくてはならない。たとえこの国全体を敵に回すことになっても、自分のステージを奪おうとする存在であれば。
そして、ここまで追い詰められているとすれば、考えられる可能性は――スパイ――安心党に『シンカブ組合』の動向を密告している者がいるのだろう。カリンは、そんな存在を疑いもしないのだろうな、と楓は思う。だが、楓は――真っ先に如月舞を思い出すが――あの女はストリップにだけは誠実だ。さすがにそのようなことはしないだろう――だが、何らかの条件によっては――そんな半信半疑な不安を抱えていた。