Paradise Lost - ストリップ・リクライシス   作:添牙いろは

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<計画>

『シンカブ組合の代表として、シネマ・トーチライトの件で確認したいことがあります』

 その文言に、いつものように浮ついた色はない。呼び出した場所は、新歌舞伎町からひとつ大通りを挟んだ一角にある喫茶店『紅茶館』――かつて、楓が初めてライブハウスに赴いた際に、カリンと待ち合わせのために入った店である。そこに、個室があるのを覚えていたので指定させてもらった。

 ラストオーダーが迫る二〇時頃――通りにはまだ人波が続いており、喧騒とネオンが混じり合う新宿の空気は、夜が本格的に動き出す前の熱気を帯びていた。そんななか、『紅茶館』の店内はやや落ち着いた雰囲気で、静かに過ごす数組の客たちが、各々の時間を楽しんでいる。楓は予約名を告げると、店員に先導され、奥にある個室へと通された。

 会いたいような、会いたくないような――そんな気持ちに揺られながら、楓は一〇分前に入店する。すると――やはり、由伸は先にいた。

「待っていたよ。キミの声を聞けるのをね」

 由伸はいつもの調子である。だが――彼に限って、察していないはずがない。何しろ、あのカリンの兄なのだから。

 実際、話し始めようとしたところに、ちょうど店員が楓の分のコーヒーを運んでくる。このタイミング――あらかじめ頼んでいたな――それも、シナモン入り――その気遣いと香りに、楓はついほっこりしてしまう。だが、今日はシンカブ組合の代表として来ている。そのカップには手をつけず、楓は凛として由伸と向き合った。

 しかし。

「……それで、誰に聞いたのかな?」

「えっ!?」

 由伸からの先制攻撃に、楓はうろたえる。

「そっ、それは……本人が、自白した、というか……」

「なるほど……裏は取ったのかい?」

 そう言われると――言質以上のものは何もないが。

「でもっ、状況証拠、というか……それで、黒服にも捕まってるんです!」

「ふむ……」

 ここで、由伸の眉間にしわが寄る。新歌舞伎町の外の人間でも、事の重大さは伝わったようだ。

「それで、どうして俺が?」

「そ、それは……」

 改めて問われると、言いにくいことではある。確信もない。だが――()()は、はっきりと覚えている。

「由伸さん、写真撮影の際に、シネマ・トーチライトに行きましたよね」

「……そうだな」

 由伸は少し思案したようだが、ここで誤魔化すことはない。

「そのとき、由伸さん……館長のことを“彼女”って呼んだんです」

 楓の指摘に、由伸は――感心したように目を見開いた。休暇中の()()を邪魔するほど――たしか、そのように。楓とて、他の人の言葉であれば忘れていたことだろう。けれど、由伸とのひとときだったからこそ、覚えていた。

 とはいえ、これだけでは何の確証にもならない。あくまで二分の一の確率である。だとしても――あえて女性だと明言するのは不自然であることは否めない。

「それに、あの眼差し……由伸さん、館内の様子を知っていますよね」

 でなければ、あんなにじっと構想を立てられるはずがない。あのとき、私を館内に立たせていたはず――と楓は信じたい。

 そして、だからこそ。

「もしかして、由伸さん……今回の特措法縮小案のこと、公式発表の前から知ってたんじゃないですか……?」

 由伸自身がヌードに対して芸術的に取り組んでいるにも関わらず、ランチの後、駐車場で――そのステージに執着するな――それで、カリンに対して警告したのではなかろうか。

 どの推論も、決定的な証拠にはならない。それでも――

「ふっ、合格……としようか」

 どちらかというと――楓が自分との撮影中にこぼした言葉をそこまで覚えていてくれたことが、由伸にとって嬉しかったといえる。ゆえに、これはギリギリの及第点。今回の件は、()()としても歓迎できる事態ではないのだから。

「わかった。すぐにでも()()()()()()()()

「えっ!?」

 由伸が突拍子もないことを言い出したので、楓は目を丸くした。が、これには由伸も逆に驚かされる。

「……どうした? てっきり“その席”に座りたいのかと思っていたのだが」

 いきなりお義父様にご挨拶なんて、楓には思いもよらない。

「いっ、いえっ、映画館のオーナーさんが……由伸さんの知り合いなんじゃないかって……」

 だとしたら、黒服に酷い目に遭わされる前に、ひと言断っておこうと思っただけで――

 これには――由伸は笑いを堪えきれずに思わず吹き出す。

「ははっ……いやはや、この勝負、俺の完敗だ」

 自分からは情報を明かさず、楓の手札をすべて明かしたはずだったが――まさか、ゲームそのものが違っていたとは。ここまで慎重に隠してきたのに、最後の最後で自分から本丸を明かしてしまったのだから、由伸としては笑うしかない。

「ご褒美に、幕が上がる前に“配役”だけは教えておこう。今夜の主役は、キミたちの間でも注目の的だろうからね」

 コーヒーの湯気が静かに揺れていた。テーブルの空気がふと重くなる。由伸の目が、真っ直ぐに楓を見据えた――その先にある“何か”を見せるために。

「俺の親父、 篠田(しのだ) 頼十郎(らいじゅうろう)は安心党のトップ……つまり、盤面そのものを動かす“王将”だってことさ」

 これに――楓は声も出ない。スパイである映画館オーナーとつながりがあるのであれば、最悪、由伸も何らかの関係者かと心配していたが――まさに本丸のご子息だったとは。

 

 その料亭は、日付が変わる頃まで営業しており、いわゆる、()()同士の密会にも使われているらしい。というか、私が、政治家御用達の料亭で会談――? これは悪い夢かもしれない、と楓は現実を疑いたくなってくる。ただ、こんな夜遅くに会ってもらえる、というのだから、由伸が党首の実の息子、というのは本当なのだろう。

 その間、楓はいったん自宅に戻り、身なりを整えていた。いつものトレーニングウェアで会うわけにもいかないが――楓にできるのは、せいぜい虎の子のリクルートスーツくらいである。

 しかし、相対する由伸に目を向けると――これが本当の正装か、と思い知らされていた。普段着でありながら、どこに出ても恥ずかしくない着こなし――元々センスは良かったが、こうして並んでしまうと、さらに洗練されて見える。自分の垢抜けない姿が急に恥ずかしくなり、楓はつい俯いてしまう。

 それでも。

「悪くないね」

 由伸がふと微笑みかける。

「新歌舞伎町の毒に染まっていないその姿……目に優しいよ」

 その言葉に、楓の頬が熱くなる。顔を赤らめながらも、彼の真意を受け止め、静かに頷いた。

 

 車で向かいながら、由伸は後部座席の楓に向けて、自身の境遇について話し始める。

「親父は、俺が跡を継ぐと信じて疑ってないようでな。……やれやれ、俺の意思なんて最初から関係ないらしい」

 その言葉に、楓は少し胸の内を掻き乱されたように感じた。

「政治家に……なるんです?」

 しかし、由伸はいつもの調子で。

「冗談きついな。政治家なんてものは、写真と違って嘘しか写らない」

 そうは言うが――その、嘘だか本当だかわからない語り口は、政治家である父親によって植え付けられたのでは、とも思える。同時に、由伸の芸術性によって、そこに芝居じみた演出が加えられたのかもしれない。

「どうやら親父は、俺のシャッター音が気に食わないらしくてな。静かにしていろ……そう言いたいんだろう」

「それはつまり、写真家としての道を潰すために……?」

 安心党として規制の強化を――だとしたら、酷い公私混同ではないか。楓の憤りに気づき、由伸は和らげるように笑顔を作る。

「よしてくれ。俺のために政治を動かす? 笑い話にもならないね」

 だが、そんな思惑も少しは含まれているのだろう。楓は、唇を強く噛む。

「これ以上、キミたちが信じて立ってる舞台には、余計な影を落としたくはないんだ」

 ゆえに、本来はありえない一足飛びに――楓はこれから立ち向かう。今回の事件の元凶と。いつもなら、カリンが不在であることを心細く思うところだろう。しかしいまは、そんな心配はない。楓にとって――誰よりも信頼できる人が、隣に立ってくれるのだから。

 

 地下駐車場のスロープを滑るように車が降りていく。控えめな照明が足元を照らし、無機質なコンクリートの空間に、車のエンジン音だけが静かに響いていた。車が止まり、ドアが開く。ふたりを出迎えたのは、控えめながらも隙のない所作の和服姿の案内係だった。緊張して固まっている楓を、由伸は優しく励ましてくれる。

 だが。

「緊張はいらないよ。『旅の恥は掻き捨て』ってやつさ」

「え?」

 妙な例えに、楓が聞き返すと。

「なに、ここから先は、すべてが()()()()()()になるんでね」

 まさに、念に念を押した国家の密談――! 楓はすぐにでも叫んで逃げ出したい思いだったが――由伸の手前、そんな醜態は許されない。

 地上に出ると、そこには街の喧騒から隔離されたような、静謐な佇まいの和風料亭が姿を現す。黒塀に囲まれた敷地の中には、さざ波のような砂利の音を立てて歩みを進める石畳があり、瓦屋根の建物が奥ゆかしく構えていた。朱塗りの格子戸がそっと開けられ、ふたりはその中へと導かれていく。

 建物の中は、外観とは裏腹にほの暗く、灯籠のような照明がぽつりぽつりと廊下を照らしていた。畳敷きの床に、廊下を隔てる襖が静かに並び、空気には微かに香の匂いが漂っている。まるで時間の流れが止まったような、そんな静寂があった。

 由伸と楓は並んで廊下を歩き、案内された座敷の前で立ち止まる。襖を開けると――

「親父……」

 その奥にいたのは、堂々と座るひとりの男――篠田頼十郎であった。恰幅の良い体に、筋肉の厚みがワイシャツの胸元を盛り上げている。強面で、自然と人を圧倒する風格をまとっていた。だが、胸ポケットにはペンではなく一本の鉛筆が差されている。それが妙に印象的だった。

 重そうな漆黒の座卓を挟んで、楓は由伸に続く。そして、ふたりは座布団の上に膝を下ろした。ここは、正座なのだろうな、と楓は覚悟を決める。豪奢な料理は並んでいるが、手を付けられる雰囲気ではない。もったいない、とも思うが、あまりにも立派すぎて、楓にはもはや食品サンプルのようにしか見えなかった。

 頼十郎の視線が、由伸と楓を交互に見据える。やがて、重々しい声が響いた。

「息子と再会するのが、こんな形になるとは……正直、失望したぞ」

 その口調には、隠しきれない侮蔑が滲んでいた。

「……お久しぶりです」

 由伸は静かに一礼した。しかし、すぐに冷ややかな言葉が浴びせられる。

「それで、私に話があるというのは……そこの女か」

 鋭い眼差しが、楓に向けられる。こんなとき、楓はどう名乗ったらよいものか、未だに答えが見えていない。ただ、今日は――

「シンカブ組合の組合長を務めております……ノクターンの楓、と申します」

 その立場で来ている以上、新歌舞伎町の人間として名乗るべきだろう、と考えた。そして、それはある意味正しかったと言える。安心党にとって、新歌舞伎町の住人、そしてシンカブ組合は抵抗勢力――()として認識されていた。すでに調べもついている。

「裸踊りで金を稼ぐ売女を連れてくるとは……政治家の息子が聞いて呆れるわ」

 容赦ない言葉だったが、楓の表情が微動だにすることはない。むしろ、軽く鼻で笑う。かつて、自撮りポルノで稼いでいた頃に浴びせられた罵詈雑言に比べれば、この程度はまだ上品に思えた。

 楓は堂々と背筋を伸ばし、頼十郎を真正面から見据える。

「それが売女でも何であっても……いまは、由伸さんの同行者としてここにいます」

 頼十郎の眉がわずかに動いた。それでも、表情は冷笑へと変わる。

「貴様もまた、ヌードは芸術、とでも言いたいのか?」

 これに、由伸が静かに答える。

「古代ギリシャの彫刻や、ルネサンス期の絵画でも……裸体は美の象徴として表現されてきました」

「伝統ある芸術と裸踊りを一緒にするなよ?」

 頼十郎は息子からの進言に眉を吊り上げ、嘲るように一蹴する。由伸の眉間にわずかに皺が寄るが、それでもいまは口を噤んだ。

「あの時代の絵画や彫刻……たしかに裸体ではある。しかし、あれは人間の肉体を“理想形”として造形しているのだ。筋肉の流れ、厚み、骨格……すべてが現実を超越している。あれは神の領域だ」

 頼十郎の声に熱が帯びる。

「現実の肉体など、陳腐で醜悪だ。芸術とは現実を超えたところに存在する。凡俗な裸など、ただの穢れでしかない」

 楓はその話を聞きながら――内心で呆れていた。神だの穢れだの――主語が大きくなると急に冷めてしまう。だから、黙っていた。ここは、由伸に任せて。

「たしかに、人は神にはなれないでしょう。だが、人は神を模した存在です。だからこそ、限りなく近づくことはできます」

 頼十郎の目が細くなった。

「では、貴様の写真で神になった者がいるとでも?」

 由伸はすぐに答えず、にわかに口を閉ざす。やがて、深く息を吐き出し、ゆっくりと語り始めた。

「私は、神のような完成形を見出すつもりはありません。不完全ながらも現実の肉体が放つ光……一歩でも神に()()()()()()()()……それこそが唯一無二の真実です」

 息子の言葉に、頼十郎は目に冷ややかな色を浮かべていた。

「ならば、ポルノでも撮っていれば良かろう。欲望を煽っているだけの風俗カメラ小僧が芸術家気取りなど片腹痛い」

 その言葉に――ついに楓は黙っていられなくなった。

「……欲望を煽るだけ? そうではありません」

 だが、これは怒りからなどではない。この頼十郎という男に――いまこそ、伝えなくてはならないと感じたのだ。そのために、自分はここにいるのだと。シンカブ組合としてではなく――ノクターンの選ばれしダンスチーフとして。

「私たちには……<計画>があります」

「計画?」

 小娘が急に口を挟んできたことは、頼十郎には少し意外だったらしい。楓は由伸に視線を送り、彼の小さな頷きを確認すると、まっすぐに頼十郎の眼を見据える。

()()ストリップ計画……純粋に、芸術性を競い合うための」

「競技……だと……?」

 頼十郎の眉がわずかに動いた。その視線を真正面から受け止めながら、楓は凛とした口調で言葉を続ける。

「はい。これは、男性客をターゲットにした風俗業ではありません。女性の、女性による、女性のためのストリップです」

「ほう……?」

 その言葉に、頼十郎が僅かに反応を見せた。

「出演者も、審査員も、観客も――すべて女性で構成します。純粋に女性の美しさを追求する舞台……それが、競技ストリップの目指すところです」

「たしかに、理想的ではある。だが――」

 頼十郎は腕を組み、深く息を吐く。

「あまりにも壮大過ぎる()()だな」

 悔しさに、楓は小さく拳を握りしめる。簡単には受け入れてもらえない。だがそれは、覚悟の上だ。諦めることなくまっすぐに見据える楓を、頼十郎の視線が冷たく楓を射抜く。

「貴様は本気で、女の裸が男の欲望なしに事業として成立すると思っているのか?」

 楓は、これに言い返すことができない。たしかに、これまで自分が見てきた観客の多くは、欲望の眼差しを隠すことはなかった。

「男たちの反応を直接見てきたのは、他ならぬキミ自身だろう」

 そのひと言は、楓の胸の奥に鋭く突き刺さる。楓の瞳が揺れた。かつて、生活費を稼ぐために、自らスマホのレンズの前で、顔を隠して裸体だけをネットに晒す――そんな日々がたしかにあった。

 けれども――だからこそ、この頼十郎とは言葉をかわす価値があると楓には確信できる。やはり、由伸の父というべきか――あえて傷つけようと攻撃的な言葉を選びつつも、自分を金で買おうとしてきた連中とは違う。どこか、優しい。

「それでもなお……裸体が芸術などと、そこの愚息と同じことが言えるのかね?」

 楓は、<計画>を信じている。だが、過去の屈辱を消すことはできない。

「裸体はわいせつ物。ストリップは性風俗。どんな名目を口にしようと、それが現実であることは否定しません」

 正直な物言いに、頼十郎の目が細められる。だが、楓は深く息を吸い、ゆっくりと由伸の父を見据えた。

「由伸さんの言っているような“芸術”や“美学”なんて……一度も自分の身を汚したことのない者の綺麗事です」

 楓の隣で、由伸が申し訳なさそうに目を伏せる。自分は女性の美しさを最大限に引き出す仕事をしてきたつもりだ。それでも――一定の羞恥心の上に成り立っていることは否めない。女性たちの、犠牲の上で――

「けれども……」

 言って、楓は微笑む。

「そんな現実より、由伸さんと共に目指す“綺麗事”のほうが、私は好きです」

 頼十郎の目がわずかに見開かれた。

「願わくば――」

 楓の声は震えていなかった。真っ直ぐで、強く、そして揺らぐことはない。

「二十二世紀はその綺麗事のほうが現実となるように、私たちはステージに立ち続けます」

 頼十郎はしばし楓の顔を見つめ続けると――ふいに視線を外し、低く呟く。

「……我が身を削り、それでもなお、俗人たちに期待しているのか……」

 その声には、諦めとも羨望ともつかない色が滲んでいる。そして、それ以上何を告げることもなく、頼十郎はゆっくりと立ち上がった。頼十郎の広い背が、灯りを背負って浮かび上がるように際立たせる。

「お前たちが……自己責任社会の申し子か……」

 独り言のように呟くと、唇をきゅっと引き結んで、少しだけ振り返る。

「……見せてみろ。お前たちの、無駄な足掻きを」

 それだけを残して頼十郎は障子の向こうへと消えていった。由伸は何も言わず、そっと楓の肩に手を置く。楓もまた、言葉を発することなく、ただ頷いた。

 ふたりは静かに客室を後にする。背後で障子が静かに閉じられ、その音だけが、いつまでも微かに残っていた。

 

 ――そして数日後、安心党から提出されていた新歌舞伎町の経済特区縮小案は、正式に撤回された。

 

       ***

 

 重々しい扉が軋みを立てて開かれると、そこには古びた蔵の室内が広がっている。木の柱や梁には長い年月が刻まれており、天井近くの小さな窓からわずかに光が差し込むだけで、空間は薄暗い。空気はひんやりとしていて、乾いた土と古木の匂いが漂っていた。

 薄暗い中には、埃をかぶったキャンバスが何枚も無造作に立てかけられている。大きさも形もさまざまだが、いずれも布が掛けられ、その姿を隠されていた。

 その中で、ひときわ大きな一枚に頼十郎が手を伸ばし、静かに布を外す。現れたのは、ひとりの女性のヌード画だった。決して、華やかなものではない。神々しさも、理想の美も、そこにはない。ただ、素朴で、どこか日常の温もりを感じさせるような裸体――けれど、その表情だけは、紛れもなく愛に満ちていた。

 頼十郎はしばらくその絵を見つめていたが、やがてそっと目を伏せて呟く。

「……他はともかく……お前だけは、捨てられんよなぁ」

 指先が、木枠の縁をゆっくりなぞる。

「誰の怒りを買おうが、蔑まれようが……あれから四〇年以上、ずっと連れ添ってくれたお前だものなぁ……」

 独白の中には、若かりし日の熱情が、まだたしかに宿っている。頼十郎はその絵に背を向けると、静かに蔵をあとにし、扉を閉めた。外へ出ると、ひんやりとした風が頬を撫でていく。蔵の前には、鬱蒼とした林を抜けた先に広がる、見晴らしの良い斜面があった。空気は澄み、遠くには幾重にも連なる山々が青く霞んでいる。朝陽が斜めに差し込み、山肌を金色に染めていた。そこで、彼は胸ポケットから差していた鉛筆を手に取る。その一本は、まるで彼の手の一部のようにしっくりと馴染んでいた。彼は鉛筆の芯をそっと上に向け、片目を閉じながら腕を伸ばす。その先には、懐かしい景色が広がっていた。

 鉛筆の上で、景色を指で測るように撫でていく。その瞳には、過去を、いまを、そして未来を映す光があった。そして――一筋の涙が、彼の頬を静かに伝う。

「……私はもう、取り返しのつかないほど道を誤ってしまった。しかし、我が息子……そして、あの若者たちの世代であれば……」

 その声は、かすれている。けれど、確かにこの街のどこかへと、しっかり届いていた。

 

       ***

 

 特措法縮小案が撤回されれば、これ以上シンカブ組合が徒党を組んでいる理由もない――のだが、一応、組織としては残っている。再び街に何らかの危機が迫ったとき、楓はまた矢面に立つことになるのだろう。そう思うと、何も起きていないのに、いまから胃が軋むようだ。

 それを予感させるように――今回の傷跡はいまなお残されている。あやのは、いまだジムとの折り合いがつかないらしい。問題が解決されたからといって、手放しで出演再開とはいかないようだ。

 スピィも戻ってきていない。街が危うかった時期に距離を置いて、安全になってから戻ってくるのもあまりに調子が良すぎる――と遠慮しているのでは、と楓は案じていた。それでも、籍は残している。練習さえ積み直すようなら、楓はいつでも歓迎するつもりだ。

 エルメも同様に――そもそも、彼女は緊急回避としての一時所属にすぎない。ただ、あまりに短期間すぎると怪しまれるので、日々『からおけや』でボイストレーニングに励んでいるとのことだ。しかし、元のソープ嬢に戻ることも検討しているという。

 一方、美春はライブハウスに戻ってきていた。ずっと金欠のようだったが、いまもそれは変わらないらしい。ただし――『次の日曜日は予定があるから』――デートを匂わせつつ出演予定をキャンセルしてくるのは――レッスンさえ絶やすことがなければいいのだけれど――! 釈然としないモヤモヤを抱えつつ、それでも楓が拒むことはなかった。

 そんなさまざまな人間模様の中、意外な人物が加わっている。

「これがストリップの稽古場……!」

『シネマ・トーチライト』のオーナーの 三島(みしま)(ひとみ)――一時は黒服によって消されそうになっていたが――楓の計らいによって安心党とのしがらみから解かれ、かろうじて釈放された。そのお礼と、迷惑をかけてしまったお詫びとして、彼女のほうからノクターンの踊り娘として参加させてほしい、との申し出を受けている。ただ――どちらかというと、ストリップに対する興味のほうが強いらしい。いまも興味津々な様子で新月の脱ぎっぷりを見学しているし――もしドキュメンタリー映画を撮るようなら、是非自分の映画館で放映させてほしい、と気の早いことを言っていた。いずれにせよ、自分たちのストリップを披露する場所が増えることはありがたい。そのような政治的判断もあり、エリは瞳の提案を受け入れた。

『ネオ・カブキ・ポップス』として招集された四人は、いまだ練習に参加している。湊は、再び初代に戻ってきてもらうため。天夏と恵はただ全裸演奏を面白がっているフシがある。陽子については――楓にもよくわからない。けれど――本当は音楽が好きなこと――音楽に触れて、それを思い出したこと――いまだ脱ぐことはないけれど、それでもライブハウスとつながりを持ってくれているだけで、楓は嬉しい。

 そして――

「でね、お兄ちゃんの次の撮影は星見野ってところで」

 隣でステップを踏むカリンの笑顔は明るい。そんな彼女が傍にいてくれるだけで、楓は安心できる。もしこの先、また別の危機が街に訪れたとしても――そのときも、力になってくれるのなら。

「星見野……って、どこだっけ?」

「パパの生まれたところで、カリンたちもちょっと前までそこに住んでたんだよー」

 ならば、生まれ故郷、といったところか。そのようなロケ地を選ぶということは――親子の関係も少しは改善されたのかもしれない。

 ようやく、すべてが上手く回り始めている――と思われたが、その中にひとつだけ例外があった。如月舞である。無断で衣装を脱ごうとした行為に対して、エリから厳しく叱責を受けた彼女は、一ヶ月の出演禁止を申し渡された。楓は内心、()()()と小さく笑ったものの――舞の表情に何らかの感情が浮かぶこともない。少しでも悔しがる素振りを見せれば、まだ可愛げもあるのだが。もちろん、出演を禁止されたとしても、腐ってレッスンをサボることはない。今日も練習着のまま、どこからともなく現れた。そしていまは、控室のほうで打ち合わせをしている。写真集の撮影について。一ヶ月の出演禁止は、そちらに専念させるためでもあるようだ。

 由伸のカメラの前で、舞はどんな顔を見せるのだろう――そう考えると、楓の胸に小さな痛みが走る。そんな楓の表情に、カリンは心配そうな眼差しを向けた。こればかりは、由伸を信じるしかない。

 そのとき――控室のほうから打ち合わせを終えた一団が現れた。そのまま流れるようにライブハウスから出ていこうとする舞を呼び止めるエリの鋭い声が響く。

「このまま、舞さんを撮影に連れて行っていただけませんか?」

 言葉としては由伸に向けられたものだが、抗えない圧力が舞の襟首を掴んでその足を止めさせる。エリはことを強引に進めようとして、舞は終始乗り気ではない――由伸の様子から、楓にはそんな打ち合わせの様子がありありと思い描けてしまう。

「いいのかい? この扉を開けたら、もう引き返せないぜ?」

 これもまた、おそらくエリに問うものなのだろう。しかし、割り込むように舞が答える。

「良くはないわね。美しさを整えるにも段取りというものがあるから」

「ありませんでしょう?」

 エリの即断に、楓は思わず吹きそうになった。実際、舞はこれまで各地を転々としていたため、私物をほとんど持っていない。化粧品も衣装も、ライブハウスに置きっぱなしである。

「隙を突いて逃げ出さないとも限りませんし」

「逃げるだなんて面白い冗談ね。私は常に、前進しているだけよ」

 エリと舞が淡々と口論を交わしている間――由伸が楓のもとへと静かに歩み寄る。

「俺はこれから、自分に課せられた使命を果たしてくることにするよ」

 由伸の真剣な瞳が、楓の目をまっすぐにとらえる。その視線に不意を突かれた楓は、軽く息を呑んだ。そんな楓に、由伸は言葉を続ける。

「だが、その後は――」

 彼の双眸が、楓の内面の奥深くに触れようとするかのように、静かに探り込んでくる。一瞬、時が止まったように感じられた。楓の胸の鼓動が高鳴る。

「俺のシャッターを……キミに預けたい。どうかな?」

 その言葉が何を意味するのか、楓はすぐには理解できなかった。由伸の話しぶりはいつも通り芝居がかっていて、本気なのか冗談なのか、判断がつきづらい。

 けれど――

 頬にじわじわと熱がのぼってくるのを、楓はたしかに感じている。由伸は、恭しく頭を下げ、楓を見上げている。その眼差しは真剣そのものだった。

 しかし。

 いまさら写真集を出したところで、舞の後塵を拝するだけ。それは――ちょっと悔しい。だから、つい意地悪な言葉が口に出る。

「……仕事でなければ」

 一歩踏み込んできた楓に、由伸はふっと微笑みを浮かべてあっさりと応じる。

「いいだろう。ひとりの男として……俺のレンズに、最高のキミを収めさせてもらいたい」

 その瞬間、楓の心臓が大きく跳ねた。顔を見ていられず、思わず背を向ける。入口のほうでは舞が不機嫌そうな顔をしていたが、そんなものを目に映している余裕など、楓にはない。由伸が舞を連れ出す前に――そっと楓の肩越しに言葉を落とす。

「待っていてくれ」

 それだけを告げると、由伸はホールを出て行った。楓には、その背中を見送ることもできない。ただ静かに、俯いたまま、その場に立ち尽くしていた。

 そんな、固まったままの楓の背中に――

「良かったですわね……プロポーズ」

 エリから()()()()()()言葉をかけられて、楓はつい振り返る。

「ぷ、プロ……って、そんな……! というか、あの男はいつだってあんな調子で……!」

 顔は真っ赤に染まり、声は裏返っている。からかいに来たエリは、わざとらしい間を置いてから。

「――a photo shoot――写真撮影をお約束いただいたようで」

「え、英語……?」

 不自然につなげられた続きに、楓はついぽかんと口を開ける。『写真撮影の約束』を英語で言っただけ――? エリはそのまま、涼しい顔で踵を返し、出口のほうへと去っていった。その背中を見送った後、楓は胸の奥がどんどん熱を帯びていくのを感じている。

「良かったね、楓さん!」

 カリンの労いも、いまの楓の耳には届かない。頭の中が真っ白で。

 由伸が、自分を撮る――それは、ただの裸ではない。きっと、それは――

 熱くなる頬に手を添えながら、楓はフロアの隅で、そっと瞳を閉じた。

 

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