その予告ついでに、三好長慶についてのまとめ。資料的な。
細川家の家臣の三好家に生まれるも、管領の細川春元が主君だったためにバチクソ苦労して、辛酸を味わった人。
掲げた標語は『理世安民』。乱世を終わらせ、民を安んじる。信長の『天下布武』とだいたい意味は同じである。
まず長慶の父親は、細川春元の宿敵を倒した有能な部下だった。
が、そんな部下を春元は褒美をやるどころか、謀殺。
一向一揆を使っての、豪快な謀殺だったそうな。春元の所業は、こんなんばっかりだよ。
しかも一向一揆が、頼まれたお仕事終わったら、素直に解散してくれるかと言うと、そんなわけもなく。
大きくなって、方針を巡って内乱を起こして、かなり畿内が荒れる結果に。大小一揆とか、享禄・天文の乱と名付けられるレベルまで発展。
阿波に逃げていた長慶、なんと12歳でこの事態の解決に乗り出す。
実際に幼名の千熊丸の名前で、和睦を周旋した記録が残っている。
だからリアルは時々フィクションを殴るのをやめてくれ。
その後本願寺と喧嘩別れした一派が、和睦に応じないので戦ったり、親の仇の春元と、本願寺の力も借りて戦ったり。
春元と和睦して、三好家として細川家の家臣に戻ったり。
そうすると本願寺がまた敵側になるので、戦って勝ったり負けたりした。
そして春元の家臣として同僚の、三好政長と京の利権などを巡って対立する。
京は長慶の父が生前仕切っていたが、死後に政長が手を伸ばしていたのが、気に入らなかったと思われる。
同僚という事もあってか、幕府に近付いた長慶は、戦ではなく政治的に政長を追放に追い込んで決着した。
のだが。じゃあ父が代官やってた領地の代官も、と手を伸ばしたら、春元が政長の味方をしだして、幕府を巻き込んで揉めだした。
本願寺が長慶に付いたり、六角が春元に付いたりしたが、双方衝突は避けて和睦。長慶は代官職を一時諦めた。
そして阿波へは帰らずに、摂津に留まり、根を張って力を蓄えた。
和睦したので所属は春元の家臣に戻り、ともに将軍足利義春と戦い、打ち破ったりもしている。
そりゃ義輝が三好長慶を嫌うわ。というほどに、将軍家を殴っている。
なお将軍家と戦った理由は、春元が幕府と揉めすぎて排除されそうになったから。
本当にそんなんばっかりだよ、アンタ。
将軍の義春も『京から逃げては、和睦して京に戻る』という室町将軍の悲哀を何度も味わわされて、限界だったのだろう。
そして今回も将軍家と春元の和睦が成立して。
その翌年。何があったのかは謎だが、政長にガチギレした長慶は、討伐の軍をあげた。
邪魔するなら春元も敵とする。と軍議で口にするほどキレていたらしい。
そして、政長討伐願いが受理されなかった長慶は、本当に春元排除に動きだす。
去年は敵として戦った、将軍に味方していた家々を、どうやったのか味方に付けて。
結果。政長は討ち取ったが、嫡男の政勝と、春元は逃がしてしまった。
この逃走に、なぜか足利将軍義春、息子の義輝も連れて同行する。
マジでよく分からないが『長慶ヤベェ! 幕府、乗っ取られそう!』という危機感があったらしい。
実際、長慶は足利義維という義春の弟を代わりの将軍にして、傀儡にしようとしたので、見方としては正しいかもしれない。
しかし何度も逃げては、和睦して京に戻る。というのを繰り返してきた室町将軍に、力も権威ももはやそこまでは残っていないので。
大人しく、傀儡になっておけば、畿内は平和になっていたと思われる。
京を出た将軍親子は、六角定頼を頼って、近江へ。
そこで己の寿命でも悟っていたか、義春は義輝を正式に征夷大将軍の位に就かせた。
京に居ないでの将軍の就任が通ったのは、六角の力があってのゴリ押しだと思われる。
そして通ったせいで、戦いは続いてしまった。義輝は、色々と頑張ってしまった。
城を造って立てこもったり、包囲されかけると、火を放って逃げ出したり。
幕臣を暗殺者として送り込んだり、東山一帯に放火したり。同盟者に、帰依していた宗派の坊主を刺客として差し向けたり。
もちろん、普通に戦も仕掛けた。普通に負けたが。
長慶が心を病みだしたのって、この頃からの激しいストレスのせいじゃないかなって。
しかし六角定頼が亡くなって、跡を継いだ義賢の斡旋で、長慶と義輝の戦は終わった。
見返りも無いのに、これ以上義輝の味方し続けるのを嫌がった義賢のファインプレーである。
これで義輝は『あちこちで世話になりながらゲリラ活動する、名ばかりの将軍』から、京に戻ってちゃんとした将軍になれる。
長慶も『細川家の家臣』から『将軍の直臣』へと身分が進んで、京での活動が楽になる。
具体的には、治安を守って、揉め事も解決して、と世話しているのに権威で見下し、殴りつけてくる公家や武家が少し大人しくなる。
あと大名クラスと、条約を結びやすくなる。
しかし義輝は和睦しても、細川春元はダメだった。
そうすると、和睦したはずの義輝がそちらへ合流しようと、また京から飛び出してしまった。
だがもう権威を手にした長慶には、これまでにない手が使えた。
「将軍に付いたやつらの給料無しな」
多くの幕臣が義輝から離れて、帰京したという。
そして義輝は、再び近江の六角家に転がり込んだ。手放したはずの厄ネタが、勝手に戻ってきてしまった六角義賢の気持ちは、どうだっただろうか。
なんだかんだその後も5年間、また長慶と和睦させるまで面倒を見た義賢は、実は幕府の忠臣だったのかもしれない。
まあ、メリットがかなり少なめだったと思うので、家臣たちからの評価は、うん。
1560年。ここが三好長慶の全盛期だった。三好実休、安宅冬康、十河一存という3人の弟に、松永久秀ら、自分が見出した家臣。叔父の三好康長などの一門衆。
摂津を中心に、畿内一円に、四国の東半分。当時、天下と言われていた以上の地域を差配し、影響力を持った、まさに天下人だった。
流れが変わったのは、畠山高政が裏切ってからだろうか。
河内の守護代だったが一度追放されて、長慶の支援で守護代に復帰していたのだが、そういう恩を仇で返すのが、室町幕府関係者。
この時期の三好家に勝てるわけも無く、普通に討伐されて、河内が三好家の直轄領になったので、むしろ都合は良かった。
ついでに大和にも松永を入れて、北部を手に入れた。
そうして広がりきった領地を統治する弟達が、死んでいった。
十河一存が急死して、任されていた和泉の支配が揺らいだ。
年々強大になっていく一方だった三好家に、たまたま訪れた隙。これを好機と見た(生きていた)畠山高政と(忠臣?)六角義賢が手を組んで、攻めかかったのだ。
そして三好実休が、戦死する。
戦には勝ったものの、犠牲は大きかった。また長慶がこの戦に出ていない。
弟たちの死に、心が限界を迎えて倒れたのではないかと思われる。
その代わりに嫡男の三好義興と、松永久秀、残った弟の安宅冬康が奮闘したが、その義興もまた病に倒れ、そのまま帰らぬ人に。
十河一存の息子、つまり甥っ子の義継を養子にして、継承者にしたはいいものの。
その継承の邪魔になると思ったのか、それとも病からの妄想か。
3人いた弟の最後の1人、安宅冬康を居城へと呼び出して、誅殺。
それを悔いていた、という説もあるが、真相は不明。松永の讒言によるものだったという話も、同様に真偽は不明。
ただ一代の英雄が、寂しく世を去ったという、事実があるだけ。
享年わずか43歳。
三好家は、彼の死後に更なる分裂と衰退をする。
それが、史実だ。
このサイトの、個性が「穢土転生」な件 を推してみる。作者は ボリビア 氏。
転生者だが、この個性に飲まれたらマズいな、と自覚して、賢く立ち回ろう…
としたら、ソッコーで公安に見つかる。お婆さんだかの個性がヤバかったので、観察対象だった。そのままスカウト、という名の監視下へ軟禁。
ちなみにご飯を食べさせると軟禁、ナシだと監禁になるぞ。罪の重さが変わってくるってナニワ金融道で言ってた。
手柄立てて待遇改善を、と原作知識を生かそうとする。トンチキではなくクレバーな立ち回りと、謎ではなく説得力のある根拠を示しての、先読みに見せてヴィラン側を封殺してく様が実に見事。