TSヴァンパイアは世界を揺るがしかねない封印を解放し妹にしてしまうらしいです 作:西春江
潮風が、俺の頬をやさしく撫でていく。
朝焼けが海面に揺らめいて映り込み、その光は淡い朱に俺の感情を染め上げた。
俺は、服を着たまま海に足をつける。
ひやりとした塩水が足首を濡らし、砂の感触がくすぐったい。
鼻をかすめるのは、海の匂いと、わずかに混じる口の中の血の匂い。
地平線を見据える。
暗く深い海を目に入れると、背筋を撫でるような恐怖が走った。
けれど不思議なことに、今の俺にはその恐怖さえ心地よかった。
俺はゆっくりと息を吐き、装備をひとつずつ外していく。
金属が砂に落ちる音。布が濡れる音。
それらはすぐに波に攫われ、沈んでいった。
重っ苦しい装備ともこれでおさらばだ。
ようやく重圧から解放される感覚……とは少し違う、かな。
重圧からは魔王戦の時に、とっくに解放されている。
朝焼けが肌を照らす。
冷たい海と、優しい陽光。
景色が、少しだけ変わって見えた。
あの時、元の世界で死を選んだ時とは全くの別物だった。
どっちがいい……とは決められない。
比べるものじゃないと、そう感じた。
その時、後ろから足音がした。
俺はゆっくりと振り返る。
「……イリス」
「おはよう。何してるの? 一緒に入るって約束したじゃん……」
朝日に透ける白桃色の髪。
その顔には、子どものように拗ねた影が浮かんでいる。
俺は海からゆっくりと上がり、イリスの隣で膝をつく。
それに合わせるようにイリスも俺の隣に座った。
「起きるのが遅いのが悪い」
「まだ早朝だよ? 待っててほしかったよ」
頬を膨らませるイリス。
「悪い。次……いや、これで最後だ」
その言葉に、イリスの瞳が震えた。
彼女の小さな声が、風にかき消されそうになる。
「……まだ、一緒にいられるよね?」
声が震えていた。
俺は首を横に振る。
その瞬間、イリスの目が大きく見開いた
「俺がいなくなった後、お前達はどうするんだ? 旅を続ける――」
「そんなこと言わないで!」
俺の問いは、イリスの叫びで遮られた。
彼女の肩が小刻みに震えている。
「ま、充分生きたろ。前世も今世も、美味しいとこだけ食べた感じだが」
軽口を叩いてみせる。だがイリスは首を振るばかりだった。
「まだ、一緒にいようよ……!」
イリスの手が、俺の手を強く握る。
……体温を感じなかった。
「できないな」
「なんで……」
「寿命はどうにもできない」
もしかしたら、吸血種の命吸の力が間に合うかもしれないと、どこかで期待していた。
だが、その願いは叶うことはなかった。
まぁ、叶ったところで俺に他人の命を奪う行為はとてもできなかっただろう。
結局、俺はイリスを生き残らせ、自分だけ終わろうとしている。
甘えた、どうしようもないクソ野郎だ。
……だが、その判断を俺は後悔しない。
「飯は、作れるようになったか?」
「うん……メリスのおかげ」
「思い出の味はいつの間にか消えるものだ。忘れないようにしとけよ」
俺の言葉に、彼女は頷く。
俺だって今も、転生前に食った料理を、懐かしく思い出すことがある。
黙り込んだ俺を見て、不安げにイリスが口を開いた。
「レルナクリアなら寿命を増やせる……かも」
「無理だ。もう試した」
「……じゃあ、またあの時みたいに薬草を食べよ?」
首を横に振る。
あんな思いは二度としたくないし、やったところで意味がない。
数日、口の中が薬草臭くなるだけだ。
「わたし、最近回復魔法の勉強を始めたんだよ。もしかしたら……蘇生だって……」
言いながら、彼女の声が小さくなる。自分で無理だと理解しているのだろう。
蘇生、それは魔法の領域を超えた、禁忌の叡智。
肉体の修復ならいずれ可能かもしれないが、魂や脳の修復は不可能だ。
「わたしなら、できるから……メリスも諦めないでよ……」
「……イリス」
途端、頭に眠気に似たノイズが走った。
思考が途切れそうになるのを必死で繋ぎ止め、俺は口を開く。
「未来の話をしよう」
「……未来?」
「あぁ」
俺は力なく頷いた。
「何か目標はあるのか?」
「家族が、欲しい……」
過去、魔王は魂を四つに分けられた。残りの二つは、この広い世界のどこかに散っているはずだ。
案外、封印は勝手に解放され、保護者役がいなくて死んでいるという可能性もありそうだ。
「……家族か。きっと、イリスならいい家族を見つけるはずだ。迷宮を探索するとなると――」
きっとこの少女なら、俺みたいに不器用なやり方ではなく、もっと上手く立ち回ることができるだろう。
その未来をこの目で見られないのは、正直に言えば少し寂しい。
「そんなことを……言って欲しいんじゃないんだよ」
イリスの声が震え、俺の言葉を断ち切った。
「私は、メリスに……」
言葉が喉の奥で詰まった。
そして俺は、短く、乾いた息を吐き出す。
「……悪い」
結局、俺はその関係を拒絶した。
理由は分かっている。俺には妹がいるからだ。
――決めたはずだった。
イリスを、妹と重ねることだけはやめると。
だからこそ、この言葉だけは決して口にしてはいけないと思っていた。
そう、決めていたはずだった。
だが、気づいてしまった。
拒絶するということは――つまり、重ねている証拠じゃないのか、と。
そう悟った瞬間、心の奥で長年絡みついていた鎖のようなものが音を立ててほどけていく。
……そして、気づいた時には口が勝手に動いていた。
「俺の、妹になってくれないか」
波音に混じるように、俺は呟いた。
その瞬間、胸の奥を締めつけていた呪縛が溶けていく。
海に装備を投げ捨てた時よりも、さらに体は軽くなった。
イリスは一瞬、何を言われたのか理解できないように目を瞬かせた。
けれど、すぐに頬を濡らす涙が増えていき、震える声で答える。
「……っ! うん、なる。私、メリスの妹になるよっ!」
彼女の手が俺の指を強く握る。
その熱が、もう霞み始めた感覚を現実に引き戻してくれる。
イリスの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、勢いよく俺に抱きついてきた。
彼女の体温は感じられなかった。
それでも、不思議と心は温かくなる。
ようやく……ようやく言えた。
「……出来の悪い姉だけど、いいのか?」
「そんなことない……私をここまで連れてきてくれた、大切なお姉ちゃんだよ」
「お前がそう言ってくれると、嬉しいな……」
お姉ちゃん――俺はその呼び方を、何度も拒絶してきた。
本当に、なんでそんなバカことをしていたのか……今となっては自分でも不思議に思う。
「お姉ちゃん……! お姉ちゃん!」
必死に名を呼びながら、ぎゅっと抱きしめてくれるイリス。
「悪かったな。認めるのが遅すぎた……」
「うん……本当にそう。メリスが臆病だからだよっ!」
返す言葉は無い。
けれど、責めるようでいて優しいその口調に、俺は小さく笑った。
「……ねぇ、約束守ってくれる?」
「何のことだ」
「一緒に海に入ろっ」
そう言って、イリスが俺の手を取る。
無理やり立ち上がらせると、立ち上がった瞬間に足がふらつき、視界が揺れた。
危うく倒れそうになるが、何とか踏みとどまる。
「姉使いが荒いんじゃ無いか」
そうぼやくと、イリスは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま笑った。
「いいからっ! ほらっ」
手を引かれるまま、俺は海へと進む。
冷たい水が腰まで浸かる頃には、心臓の鼓動がやけに大きく耳に響いていた。
これ以上先に進めば、本当に危ない。
イリスもそれを理解しているのだろう。決してこれ以上先には行かなかった。
「冷たい……」
「そりゃそうだ。海だからな」
「思ってたの違う……」
きっと、巫女様のコロニーで入った風呂のような温かさを想像していたのだろう。
俺は小さく笑いながら、イリスの手を握り直す。
「手を離さないでくれよ。足を滑らせて溺れるかもしれん」
「わかってるよ」
イリスは俺を引っ張りならがら海の中を歩いた。
「……なぁ、イリス」
「なに?」
「ナナとレルーに伝えてほしいことがあるんだが」
「……本当に、これで最後なの?」
「あぁ……」
俺は弱く頷く。
「あの馬鹿には日頃の生活をちゃんとしろって伝えといてくれ。飯もちゃんと食えと……これからは晩飯の用意当番が1人減るんだ。あいつもあのままじゃまずい……」
長々と言うつもりはなかった。
だが、レルー……レルナクリアの顔を思い浮かべると、どうしても言葉が溢れてしまう。
あいつは放っておけば本当にダメ人間まっしぐらだ。
コホンと咳払いをしてから、続けた。
「ナナにはとっくに許してるって、言っといてくれ」
「それは自分でいいなよ……」
「やだね。恥ずい」
あいつは出来が良すぎるぐらいに出来がいいから、イリスと同じで何も伝えることがない。
イリスも……少しくらい欠点があった方が、姉冥利に尽きるというのに。
ま、気楽に逝けるからいいか。
「ね、私には何も言ってくれないの?」
イリスの問いかけに、俺は思わず喉を鳴らした。
「さっき全部言ったろ」
「足りない……全然足りない」
「そうはいってもなぁ……言うことが何も思いつかん」
俺は海を歩きながら、必死に頭を働かせる。
言葉は泡のように浮かんでは消え、形にならない。
「じゃあ、そうだな」
「なに?」
「……お前はこれから俺の想像以上のことを経験する。だから、俺が言うことは気休め程度に聞いて欲しいんだが……」
唇が勝手に動く。
「楽しめよ」
俺が言いたいことは、それで、全てだった。
「人生なんて、ただの劇と変わらん。最後に笑えたら、ハッピーエンドなんだよ」
苦笑交じりに続ける。
「想像以上のこと……辛いことも悲しいことも、お前はこれから沢山経験する。それ全部を笑えとは言わんが」
俺は人差し指を自分の頬に当て、無理やり口角を吊り上げる。
「楽しむことを忘れるなよ」
俺は、それを忘れていた。前世でも、今世でも。
だから生きづらかった。
まぁ、こんな助言がなくても、この少女なら大丈夫だろうが。
「うん……私、頑張るね……」
「あぁ」
その時、足がふらつき、冷たい海が喉まで迫る。
視界が揺れるが、すぐにイリスが沖へ引き上げてくれた。
彼女は近くの岩に俺を背負わせ、必死に支える。
「ねぇ、お姉ちゃん……」
「……なん、だ」
イリスの声が遠い。
ボーッと頭にノイズが走り、意識が霞んでいく。
「私、やっぱりまだ一緒にいたいよ……」
俺は、体が重くなり、その場を一歩も動けずにいた。
イリスが嗚咽を漏らしながら、涙声で何かを語っている程度しか、俺の脳内に情報は入ってこない。
イリスの体温も、取り戻した陽光も、潮の匂いも、全てがわからなかった。
「俺、も……まだ一緒にいたいな」
俺は、力を振り絞りただ答える。
それ以外に集中すると、すぐにどこかへ消えてしまいそうだった。
「もっと、楽しいことが待ってるよ。私、まだまだメリスと、旅をしたいよ」
それは……できない。
だが、そんなことはわかっていても、俺はそれを否定しなかった。
「あぁ……もっと、いろんなことをしよう」
虚ろになりながらも俺は応える。
「前、話してくれた前世の話、ほら、クリスマスとかお正月とかバレンタインとか、まだまだ……まだまだメリスとやりたいこと、こんなに沢山あるんだよ……?」
「悪い……」
記憶が崩れる。思い出せない。
泡沫のように、朧げな断片となって流れていく。
「……お前は、俺の自慢の妹だ……俺は、それを誇りに思う」
「私も、お姉ちゃんのことを誇りに思ってるよ……」
その瞬間、巫女様の最期の姿が浮かんだ。
彼女が残した言葉。忘れていたはずのそれが、自然に口をついて出た。
「また、俺の妹になってくれるか……?」
意味など説明しなくても、きっとイリスには届く。
「うんっ! 私、生まれ変わってもメリスがお姉ちゃんがいい……!」
「そうか……ははっ。本当に……」
もう感覚はほとんど無い。
それでも、笑っている自分をはっきりと感じられた。
「……メリスは、お前にやる……自由に名乗ってくれていい」
「……メリス・イリス? ……あれだね」
「逆に味があっていいだろ」
思いもしなかった関係。
もっと相応しい名を選んでやれば良かったかもしれない。
だが、不思議と後悔はなかった。
――もう、全てを言い終えた。
視界は暗く、記憶は溶けていく。体温は急速に奪われる。
――自分が誰かも、ここがどこかも思い出せない。
……どれくらい時間が経ったのか。
誰かに抱きしめられている気配だけが残っていた。
頭上、遠いところから、柔らかな声が降りてくる。
「ねぇ、お姉ちゃん」
とても、穏やかな声だった。
この声に包まれて眠るなら、全てを許せそうな気がした。
「私に、名前をつけてくれてありがとう」
誰に向けられた感謝なのかも、もう分からない。
だが、その声を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
「こんな私と……一緒に旅をしてくれて――ありがとう」
あぁ、そうだ。
俺は、彼女を――
――
朝日が昇りきる頃、潮風は昨夜の涙の跡を優しく撫でていた。
「……うんっ。これでいいかな」
イリスの背後には、一つの墓が静かに立っている。濡れた砂の上に突き立つ一本の剣。
それは、
「イリス様、もういいのですか」
澄んだ声がかけられる。蒼い髪を風に遊ばせながら、少女。ナナが歩み寄ってきた。
その後ろには、真っ白な髪の少女、レルナクリアの姿もあった。
「うん。もう大丈夫。いっぱい泣いたしね」
イリスは微笑む。
その顔に完全な吹っ切れはない。けれど、虚ろでも絶望でもなかった。
前に進むと言う意志を感じさせる。
「うぅ……シーラぁぁ……」
耐えきれなくなったように、レルナクリアが墓にしがみついて声をあげる。
「じゃあ、私、行くよ。レルー、ナナ」
そう言いながらイリスは荷物を肩にかけた。
「……本当にいいんですね?」
「うん。前から決めてたことだしね」
イリスは空を仰ぐ。陽光を浴びて、両腕を大きく広げる。
「んー! 私も頑張るから、2人とも頑張るんだよっ! 特にレルー! もうお世話してくれる人はいないんだからねっ!」
わざと明るく言い放つ。けれどその言葉が、レルナクリアの嗚咽を逆に強くする。
「置いてかないでぇ……」
「約束したじゃん!?」
「……知らない」
「絶対覚えてるよね?! お姉ちゃんの悪いとこばっかり真似しないでっ?!」
涙と笑いが入り混じるやりとりが、束の間だけ墓前を明るくした。
やがて――。
「レルー行っちゃったね……」
「はい……優柔不断なのか、そうじゃないのか、よくわかりませんね」
ナナが小さく答える。
吸血種の復活。その願いを胸に、レルナクリアは最初に一人きりで旅立っていった。
「では、私も……機械種の復活を目指して進もうと思います」
静かに立ち上がるナナ。
「うん。頑張ってね」
「イリス様も」
「もちろんだね」
そう言葉を交わし、ナナも去っていく。
――旅の終わりはあっけない。
だが、だからこそいいのかもしれない。そうイリスは胸の奥で思った。
「結局最後は私かぁ……お姉ちゃんに怒られちゃうかなぁ」
冗談めかしてつぶやき、イリスは立ち上がる。墓を振り返らない。振り返ってしまえば、あの人に縛られてしまう。
きっとそれは、お姉ちゃんが一番嫌うことだから。
けれど、振り返らなくても。墓に行かなくても。お姉ちゃんは――絶対に不機嫌になる。
そんな気がして、イリスは少しだけ苦笑した。
潮の香りを乗せた風が吹く。
止んだ雨のあと、太陽は惜しみなくその光を地上に注いでいた。
暖かな陽射しに背を押されるようにして、イリスは歩き出す。
彼女は、姉が最後に止めてくれた雨を思い出しながら。
「お姉ちゃん! ばいばい!」
小さく、それでいて空に届くほど力強く。声を放つ。
時間はまだ、長い。
数年後でも、数百年後でもかまわない。
旅の果ては、まだまだ遠い。
そして、その果てに辿り着く時――。
彼女はまたきっと、笑って「ただいま」と言うだろう。
TSヴァンパイアは世界を揺るがしかねない封印を解放し妹にしてしまうらしいです――完。
これにてTSヴァンパイアは世界を揺るがしかねない封印を解放し妹にしてしまうらしいですは完結なります。
処女作ということもあり、至らぬ点や拙さが多々あったかと思います。
それでも最後まで読んでくださった皆さま、誤字脱字報告をしてくれた方々に特大の感謝を。