愛しきインターネット
上を向いて生きろ。誰に言われたのか覚えていないけど、誰もがそう言っているような気がする。
何かにつけては比較と競争の社会で、上昇志向を持って生きること。
それはもはや良い悪いとかの問題ではなく「老人に席を譲る」とか「捨て猫を助ける」とか、当然そうすべきの常識になり果てた。
別に、上昇志向そのものを否定したいわけじゃない。夢に向かって努力する人はカッコいいと思うし、自分にはできないとも思うから。
「……あ、満月」
遮るものがない学校の屋上からは、星がよく見える。真っ暗な空の中心に、一片たりとも欠けのない月が堂々と鎮座していた。
自分こそが唯一無二の、完璧な存在だと知らしめるように。
屋上には、安全のための柵が備え付けられている。あたしはそれを乗り越えて、校舎のふちに座って空を見上げていた。それも、制服ではなくラフなカットソーとハーフパンツという私服スタイルで。
普段の学校なら、深夜とは言え残って仕事をしている先生だとか警備会社の人だとかがまだ校内に残っているはずだ。そして、こんな危なっかしいことをしている人間がいたらすぐにでも止めに飛んでくるだろう。
でも、今この学校にあたしの行動を咎める人間は誰もいない。
……いや。『この学校』ではなく、『この世界』にと言った方が正しいのかもしれない。そう言い切るにはまだこの世界のことを知らなすぎるけれど。
「きーらーきーらーひーかーるー」
微妙に調子の外れた、間抜けな歌声が夜の空気に混ざっては消えていく。静かすぎて、あたしが音痴なのが街じゅうに知られてはいないかと少し不安になった。
「おーそーらーのーほーしーよー」
なんとはなしに伸ばした手が空を切る。星の数は限りないけれど、そのどれも、一つとして触れることはできない。
星だけじゃない。月も虹も太陽も、空にあるすべては、あたしにとって本当にあるかどうかも分からない遥かな憧れだった。美しいけど、不確実で手の届かないもの。
でも、下を向けばどうだろうか。足元に広がる街並みは豆粒のように小さく、ともすれば踏みつぶせそうだと感じた。
目に映る草花、きれいな石、水たまりに反射した空になら、指先が届く。だからあたしは、そういう小さな幸せが好きだった。
(真っ暗だと、こんなに星が見えるんだ。)
だけどそれに固執するのは停滞でしかないんだろうと。そんな思いもあった。
短くも長い人生の中で植え付けられた言葉たちが、怒鳴りつけるみたいに頭の中で響いている。このままじゃダメだ。前を向いて生きろ。頑張らなくちゃいけない。しなくちゃならない。
そんなふうに急かされても、どの道を進めばいいかすら分からないのに。
自分だけが置いて行かれているみたいだった。皆が大人になっていく中、子どものころに集めたくだらない宝物を大切にしている自分が。
どうしようもない出来損ないがいるぞって、笑われている気がした。
手のひらに乗るくらい小さくても、そのどれもが大切な思い出のはずなのに。手を伸ばせば触れられる、すぐそばの幸せが大好きだったはずなのに。
それを肯定する言葉と術をまだ持たないあたしは、いつからかその想いに蓋をしてしまった。
「あー……。なんか駄目だなぁ。なんで夜って、こうどんよりするんだろ。元気とユーモアだけが売りなのに」
別段、悲観的な性格ではないつもりだ。内省的な思考にふけるほど真面目ったらしい性格でもない。けれど、他人という存在がいなくなると自然と矢印が自分へと向くものらしい。
(こんな世界にならなかったら、死ぬまで気付かなかったんだろうなぁ。)
あたしはもう一度、視線を足元に向けた。密集した家屋とマンション。そこから少し離れた大通りには、おそらくスーパーかドラッグストアらしき一回り大きい建物が接している。
さびれているとは言えない、むしろそれなりに栄えている街のはずなのに、明かりは一つたりとも見えなかった。街灯も、ビルも、民家も真っ暗。広い道路には車の影すらない。
ただ月明かりだけが街をかすかに照らしていた。静かなものだ。虫の声すら聞こえないほどに。
「ホント、なんなんだ。この世界は」
ぽつりと独り言でつぶやいたはずのそれは、やたら大声に聞こえた。
瞬間、ひときわ強い風が吹いてとっさに前髪を押さえる。身の危険を感じたあたしは、柵を手すり代わりにゆっくりと立ち上った。
そうして柵をまたいで、ようやく戻ってきた屋上。足裏に感じていたソワソワが嘘のように引いていった。
あたしが風で乱れた前髪を整えていたとき、屋上への出入り口が甲高い音をあげながら開いた。その扉の先にいたのは、ここ数日で見慣れた顔。というか、それ以外の顔が見えたらきっと腰を抜かしてしまう。
栗色の髪をツインテールにした少女と目が合う。彼女は扉越しにあたしを確認すると、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。
そして、あどけない顔つきからイメージする通りの、柔らかな声色でこちらに問いかけてきた。
「朔ちゃん。やっぱりここにいた。眠れなくなっちゃった?」
「やー。そういうわけじゃないけどね。一人で黄昏たくなる時もある。そんなお年頃なわけ」
「あら。それなら、私はお邪魔だった?」
「冗談冗談。今から教室に戻ろうとしてたとこ」
「じゃあ、一緒に行こう? 明日は早起きして探索に行かないとだから」
「うぇー……。はぁ。こんな世界になっても、労働はあるんだね……」
あたしがこれ見よがしにげんなりとした表情を作ると、正面に立つ少女がかすかに笑った。早く寝ないとなのに、考え事なんて慣れないことをしちゃったせいで、変に意識がはっきりしている。
「あー。なんかホントに目が冴えてきちゃった」
「眠らないといけないって思うと、眠れなくなることあるよね」
「眠れないって言ったら、子守唄歌ってくれる?」
「ふふ。いいよ。私が眠くなるまでね」
「マジ? 言ってみるもんだなぁ」
彼女がこちらに手を差し出してきた。子ども扱いされているみたいで気恥ずかしいけど、誰が見ているというわけでもない。ここはひとつ甘えちゃおうかなんて考えがよぎる。
それに、一人で物思いにふけるのもさびしくなってきていた。あたしは差し出された手を取って軽く握りしめる。
誰かとこうして手をつないだのなんて何年ぶりだろう。温かい感触が鬱屈とした想いを溶かしていくのを感じていた。
今ここにいるのは、あたしと少女の二人きり。だというのに、人間という存在の確かさをこれまでにないほどしっかりと感じていた。
「また明日。目が覚めても、人類が滅んでいますように」
隣に立つ彼女にすら聞こえないほどに小さな声で、そんな不謹慎な願いを口にした。
**
何度目を覚ましても、また同じ景色。学校の教室で朝を迎えるという非日常的な体験も最初こそ楽しかったが、4回目ともなればそろそろ目新しさもなくなってくる。
早朝と呼ぶには高く上りすぎた日差しが差し込む窓。その外から聞こえるのは、名前の分からない鳥のさえずり。相変わらず人の声と街の音は聞こえない。
体育でよく使う体操マットを床に敷いただけの粗末なベッドから体を起こすと、慣れない環境に適応しきれなかった体のあちこちが悲鳴をあげた。
あたしは思わず年頃の乙女にあるまじきうめき声を発する。
「うう……。腰痛ったー……」
まずはじめに感じたのは、背中の痛み。次いで息の詰まるような蒸し暑さ。あたしは上体を起こした体勢のまま腰をさする。
この調子じゃ、おばあちゃんになったときどうなることやら。早いところこんな急ごしらえの寝床から脱却して、体が沈むほど柔らかなマットレスに寝転がりたい。
とにもかくにも、まずは起き上がらなきゃ始まらない。上体を軽く引いて弾みをつけ、勢いよく立ち上がった。凝り固まった関節が空気の破裂する音を鳴らして、足先から背筋、頭頂部に向かって血が流れていくのを感じる。
同時に襲ってきた立ち眩みに数歩たたらを踏んだが、働かない頭に代わって反射的に命令を下した脊髄が支えてくれた。
「体ベタベタ……。着替えたーい……」
じっとりと体にまとわりついた不快な感触は、カットソーの胸元から空気を送り込んだくらいではどうにもならなかった。薄手の生地が皮膚にぺたりとくっつく。
人は寝ている間にコップ一杯分の汗をかくんだったっけ。この暑さに加えてエアコンもないんじゃ、ジョッキ一杯分くらい流れててもおかしくない。
起きたばかりだというのにすでにくじけそうな心を奮い立たせて眠い目をこする。ややかすんだ視界に、今自分が寝そべっていたマットと全く同じものが映った。
あたしのマットの隣に川の字に3つ。等間隔に並べられたそれらは、今のあたしたちの心の距離を暗示するかのように中途半端かつ絶妙な距離が空いていて。
寝床があるからには、当然それを使う人間もいてしかるべきだ。しかし、今この教室にあたし以外の人間はいない。
寝起きの悪い自分と違って朝型の彼女たちは、一足先に準備を進めているのだろう。ぼんやりしたままそのことを悟って、少し釈然としない感情を覚える。
「起こしてくれたって良かったのに……。いやいや、何甘えてんだ、あたし。これからは自分たちだけで生きていかなきゃいけないんだから。こんなんじゃダメだって」
ふと芽生えた不満をかき消すためかぶりを振る。いつも起こしてくれた母親は、もういないんだ。
あ、ヤバい。初日ぶりに思い出してちょっと泣きそう。これ以上考えたら3人に見せられる顔じゃなくなってしまう気がしたので、自分で自分の顔をひっぱたいて、強引に思考を切り替える。
不幸中の幸いとでも言うべきか、ヒリつく頬が目を覚ましてくれた。ひとまず、大きく伸びをして眠気をごまかす。
「んー……っ。よし! そろそろ行きますか!」
多少遅刻したくらいで怒るような人たちじゃないことは短い付き合いながらも理解しているが、あまり待たせすぎても彼女たちに悪い。
それに、4人しかいないこの学校でハブられるなんてことになったら目も当てられないし。
あたしはまだ鈍い痛みを訴える肢体に鞭打って教室の出入り口に向かう。立ち込める熱気を少しでも逃がすために開けっ放しになっている扉を抜けて左。
学校には気の利いた洗面所なんてないので、今のところトイレがその代わりを果たしている。
初日に校内を軽く探索したときにも気になっていたのだが、そういえば男子トイレが見つからなかった。もしかしなくても、もとは女子校だったのだろう。
見知らぬ学校での生活も4日目ともなればだいぶ勝手は分かってくる。迷いなくトイレに近づくにつれ、かすかに聞こえていた話し声がだんだん大きくなってきた。
数日でずいぶんと聞き慣れた声を頼りに近づいて中を覗き込むと、やはり――いや、急にゾンビとかに出くわしても困るんだけど――見知った顔の2人がいた。
誰もいないこの世界で、私以外の生き残り。まだ友達とも仲間とも言い難い、そんな人たち。
向こうもこちらに気付いたのか、暇そうに個室のドアにもたれかかっていた長身の少女がこちらを振り向いて右手をあげた。
「よ。やっと起きたか、ねぼすけ」
「えへへ。朝は苦手なもんで……。ごめん、待たせちゃった?」
「後5分遅かったら置いてこうかって話してたとこだ」
「えっ? そんな寝てた?」
体内時計ではそこまで遅れたつもりはなかったのだが、まともな時間を測るすべがない環境ならいつのまにか狂っていたとしても不思議ではない。
あたしが驚愕しながら反省していると、鏡でツインテールを弄っていたもう一人の少女が振り返って、たしなめるような口調で言った。
「もう、遊ちゃん。そんなこと一言も言ってないでしょ? あんまりからかっちゃダメだよ?」
「え、噓だったの?」
「冗談だ」
「もー。一瞬ホント焦ったんだからね」
「はは。悪ぃ」
むくれた顔で長身の少女――遊をにらみつけると、彼女は短髪をかきあげながらからからと快活に、愉快そうに笑った。その仕草がやけに堂に入っているのは、彼女のスタイル故か。
「おはよう。朔ちゃん。その様子だと、あの後はぐっすり眠れたみたいだね」
「おはよう、
依束からの挨拶に言葉を返し、この学校に暮らすもう一人の少女の行方を続けざまに問いかける。みんな一緒に居ると思っていたのだが、トイレの中に彼女の姿は見当たらない。まさかこんな状況で単身飛び出していったわけでもあるまいし。
「それなら」と。あたしの疑問を依束が補足する。
「栞ちゃんなら、探索に使えそうなものがないか体育館倉庫を見てくるって。もしかしたらゾンビが出るかもしれないとかで、すごく怖がってたから」
「え? そんな怖がりだったっけ、あの子」
不思議に思って聞き返すと、遊が代わって答える。
「あー。昨日あいつが暇そうにしてから、パンデミックものの漫画の話を聞かせてやってたんだ。それが効いたのかもな」
「えぇ……。やめてあげなよ……」
あっけらかんとした調子で言い放つ遊に二人分の白い目が向けられる。さしもの彼女も分が悪いと悟ったのか、気まずそうな声をもらしながら頬をポリポリと掻いて、最後に舌を出しておどけてみせた。
くそう、普通はイラっと来る動作でも美人がするとサマになってしまう。なんて不平等なんだ。
はぁ。これ以上相手するのはやめておこう。ただでさえ慣れない環境で疲れが抜けきらないのに、こんなことでいちいち体力を消耗していては体が持たない。丁度洗面台も開いたみたいだし、とりあえず顔でも洗っておこうかと思い立って。
「いやー、今日はまた一段と暑いね。出かけるの、また今度にしない?」
「そうも言ってられないよ。いつ物資が無くなるか分からないし……。夜は明かりもないから、昼間のうちに動かないと」
「だよねー。気合入れますかぁ」
軽口を交わしながら洗面台に近づく。その見た目は作業台のような広い机にくぼみがあるみたいなタイプで、手をかざせば水が出る蛇口付きの小奇麗な手洗い場、なんだけど。
「……? あ、またやっちゃった。いい加減慣れないとなのに」
「ふふっ。私もそれ、よくやるよ」
手を蛇口の下に持っていっても、蛇口は一滴の水もこぼさなかった。一瞬頭上にクエスチョンマークが浮かんで、すぐに思い出す。
そうだった、ここはもういつもの世界とは違うんだと。そうまざまざと感じるのは、人気のない街を見た時ではなく、日常の中の些細な当たり前が通じなかったとき。
身近かつ具体的な出来事は、漠然とした不安を確かなリアリティへと変貌させる。
「はぁ、ホント不便。ネットもつながらないし、今までどれだけ恵まれてたのかって、失わないと分からないんだね」
「それは同感……。特にお風呂に入れないのが無理」
「分かる。汗でベタベタだし、ホント最悪」
非常に、ひじょーに不都合なことにこの学校には、電気も水道も、ガスすら通っていない。いつからここが放置されているのか定かではないが、少なくともインフラが麻痺する程度の歳月が経っているらしい。
当然インターネットが通じるわけもなく、最初気が付いた時には軽く絶望した。積み木に触れるよりも先にタブレットの画面をタップしていたデジタルネイティブ世代の人間にとって、インターネットはもはや長年連れ添った相棒だ。
ああ愛しきインターネット。禁断症状で指先の震えが止まらない。
特にこんな非常事態にあって、人類の集合知に頼れないというのはいっそうの不安を煽る。
……あのソシャゲ、そこそこ課金してたんだけどなぁ。もう遊べないのかぁ。
喪失感はあるが、それでもありあわせのもので何とかするしかない。あたしは台上に置かれたペットボトルを手に取る。
そのキャップ部分には工作室から見つけてきた道具で開けた小さな穴がいくつも開けられており、強く握ることで中に入った水が押し出される仕組みになっている。ここ数日でマストアイテムへと上り詰めたこの世界のトレンドだ。
生活するのに当然水は不可欠。しかし、ペットボトルをそのまま逆さにすると勢いよく流れ過ぎて不要な分まで流れ出てしまう。
ちょうどいいサイズの桶みたいなものも探したが見つからず、清掃用のバケツはなんか汚い気がしたので使う気になれなかった。
そこで必要最低限の量を使うために生み出されたのがこの道具。依束が小学校の頃の夏休みの宿題で作ったというペットボトルじょうろのアイデアから生まれた道具だったが、これがなかなか便利だった。
これなら貴重な資源を無駄にすることもない。片手がふさがってしまうのが玉にキズなんだけど。
「持っててあげようか?」
「いい? じゃあお願い」
なんて思っていたら、依束が文字通り手を貸してくれた。彼女が流した水を手のひらで掬い取って、顔面にぶつけるみたいに浴びる。
ほとんどお湯みたいに茹だった水は全くもって清涼感を与えてはくれなかったが、それでもルーティンをなぞるということ自体この世界で正気を保つのに重要な行為である。実際、寝起きでだれていた心が幾分かはっきりしてきた。
びちゃびちゃに濡れた顔を手のひらで拭って鏡を見つめれば、16年も連れ添ってきた、パッとしない間抜けな顔と目が合った。
ここに来てからの数日で肩にかかるくらいまで伸びた髪と、少しやつれたその顔。水も滴るいい女とはお世辞にも言い難い。頭を犬のようにふるって、浮かんだ考えを水滴ごと吹き飛ばした。
「……ふぅ。ありがと、もう大丈夫」
「はい、どういたしまして」
にこやかに答える笑顔が眩しい。うう、なんていい子なんだろう。依束の近くにいると、自分が卑しい人間に思えてくる。きっと彼女は、宿題の答えを写したことなど一度もないに違いない。
そういえば。ペットボトルを見ながら改めて思う。あたしたち、当たり前みたいに使ってるけど。
「誰が用意したんだろうね、これ」
「さーな。やっぱアタシらをここに連れてきたやつがいんじゃね?」
「うーん……。やっぱり、今は考えても答えは出なそうだね」
「だな。それよりも先にやんなきゃいけないことが山ほどある。謎解きは、その後でいいだろ」
ふと気になってあたしがペットボトルを摘まみ上げながら発した疑問に、遊が後ろ手に腕を組みながら答えた。
当然一介の(元? ってつくのかも)高校生に過ぎないあたしたちがペットボトルを一から自作できるはずもない。これらは、あたしたち以外の誰かによって持ち込まれたものだと思われる。
3日前。あたしたちがこの学校の保健室で目覚めた時、誰が用意したのか分からない大量の段ボールが目に付くところに山積みになって置かれていた。
恐々としつつも開封して中を確認すると、水と保存食がこれでもかというほど詰め込まれていた。
あまりにも用意が良すぎる、そして都合のいい状況は、あたしたちがこうなることを見越していた誰かの存在をほのめかすのに十分な証拠たり得た。
でも、その目的は一切不明。手近な場所にはそれらしい手掛かりは何一つとして見当たらなかった。
そのことも不気味だし気がかりなんだけど……。今はそれ以上に差し迫った問題がある。その大きな問題が、あたしたちの意識を『誰か』の存在から逸らしていた。
「やっぱりまずは食事だよねー。もう乾パンは見たくもないよ」
「こんな暑いのにパサパサのパンって、ほとんど拷問だもんね……」
目下問題になっているのはもっと根本的なもの。すなわち、『どうやって生きていくのか』という、生存に関することだ。
哲学が仕事の無い暇人たちの学問であったように、考え事をするためにはまず生活に余裕がなければならない。いくら能天気なあたしと言えども、今が何の心配もなく過ごせる状況であると言うのは流石にはばかられた。
特に食べ物。保存食はもうこりごりだ。人間体の栄養だけでなく、心の栄養も同じくらい大事。お肉も野菜も食べたいし、お菓子やスイーツだって食べたい。
クオリティ・オブ・ライフって言うんだっけ。とにかく、食事が味気ないことは、想像以上にあたしたちのメンタルにダメージを与えていた。現代のジャンクフードに慣れ切った舌は半端な刺激じゃ満足できない。
したがって、あたしたちは湧き上がる無数の疑問は一旦後回しにして、とりあえずしばらくの間は生活基盤を整えることに尽力するという方向性で合意した。あの粗末なベッドも、無いなりに頑張って作ったほうだと思う。
あたしが顔を洗い終えたのを受けてか、暇そうにしていた遊が飛び上がるようにして姿勢を正した。
「準備オッケーか? じゃあ後は栞が戻ってくんの待つだけだな」
「遊ちゃん、楽しそうだね。私は不安で仕方ないのに」
「バッカお前、これでワクワクしない方が嘘じゃんよ。荒廃した世界を探索してサバイバル生活とか、ロマンの塊だろ」
「うーん……? そう、かな? よくわかんない」
楽し気な声色で依束に同意を求めた彼女だったが、返答は芳しくない。そりゃそうだ。突然わけわかんない世界に放り出されて、楽しそうにしろって方が無理ある。
ただ個人的には、ワクワクする気持ちも正直わかる。無人島でサバイバル生活、みたいなバラエティー番組は結構好きでよく見ていたし、都会の喧騒から離れて悠々自適な生活を送るという暮らしにも憧れはあった。
「おいおい。男心の分からんやつだな」
「いや、アンタも女子じゃん」
「朔なら分かんだろ?」
「ここであたしに話振られんのめちゃ不服なんですけど」
なんであたしなら分かると思ったんだ。いやまぁ、ちょっと共感しちゃったけども。
(サバイバル生活、か。)
しかし、実際にやるとなると話は別だ。
それに、テレビのあれは結局のところバラエティーなのだ。考えるだけ無粋だと分かっていても、カメラに映らないところにいるスタッフや、タレントが倒れたらすぐ救出できる場所にいる専門家の存在がちらついてしまう。
というか、もし仮にいなかったら驚きを超えてドン引きである。だから、手放しで彼女の意見に賛同することはできなかった。
「楽しみとまではいかないかな。何が起こるか分からないし。……あぁでも、自分たちで生活スペースを作っていく、ってのは面白そうかも。そういうシミュレーションゲームはよくやってた」
「だろ? 分かってくれると思ってたぜ」
「わっ」
『同好の士を見つけた』。そんな軽い調子で遊はあたしの隣にやってくると、その勢いのままにあたしの肩に手をまわした。ただでさえ暑いのに、密着されると余計に暑苦しい。
彼女の身長はあたしよりも一回り大きく、ちょうど彼女が腕を持ち上げた脇の高さにあたしの肩が来る形になる。予想外のフレンドリーさに、あたしは困り笑いを浮かべることしかできなかった。
別に、自分の人を見る目に自信があるわけではないけれど。これまでの数日で、彼女たちの人となりについてなんとなく分かってきたことがある。
依束は、優しくて気が利くお姉さんタイプ。遊はちょっと変わっているけど、陽気で気さくな外国人みたいだ。
そして、この場にいない栞は――。と、意識が空想の世界に飛びかけたところで、トイレの入り口からこちらに呼び掛ける声がした。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「お、来た来た。気にすんなって。こいつもさっき起きたばっかだからさ」
「流石に“さっき”ってほどじゃ……ないかも」
「えっと……。あんまりご迷惑をかけていないみたいで、安心しました」
カラスの羽のように真っ黒な髪の毛を腰ほどまで伸ばした小柄な少女が、顔だけ出す格好であたしたちを覗き込んでいる。その表情には申し訳なさそうな色が浮かんでいたけれど、あたしと遊の小競り合いを見て杞憂だと悟ったのか、すぐに苦笑に変わった。
栞を例えるなら、小さいけど飼い主に忠実な小型犬だろうか。何事にも、見ているこちらが心配になるくらいに一生懸命で真面目な子だ。
今回、物資を補給するために探索に出ようと言い出したのも彼女からだった。ここまで小走りで戻ってきたのか、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
細い腕の中には何に使うのかよく分からない棒と、バレーで使うよりも目の細かい――そうだ。見たことあると思ったら、たぶん野球で使うやつだ。そんなネットを抱えていた。
「い、一応武器として使えそうなものを見つけてきました。もしゾンビが現れても、これを投げつけたら絡まって足止めできるかもって……!」
「あー……。悪い。ゾンビうんぬんはアタシが適当に言った冗談だ」
「え、ええっ!? 」
「そういや、お前らには言ってなかったか。実は昨日、一人で軽く外をうろついてきたんだよな。仮にゾンビみたいのがいたら少なくとも痕跡は残るだろ? でも、そういうのもなかったんだよな」
「ボク、モンスターに襲われたらどうしようって一晩中考えてたんですよ!?」
「ま、まぁまぁ」
きゃんきゃんと擬音が聞こえてきそうな勢いで狼狽する彼女を依束と2人がかりで宥める。ゾンビは分からないけど、栞の持ってきた道具も全くの無駄ってわけでもない。
「たまたま見つからなかっただけでいるかもしれないし。野犬とか出たときにも使えるじゃん?」
「確かにそうですけど……。うう、無駄に緊張してた自分が馬鹿みたいです……」
「そんなに自分を卑下すんなよ。誰にでも失敗はあるもんさ」
「遊、アンタは黙ってて」
栞の肩をポンと叩きながら慰める遊。栞はその手と遊の顔を交互に見比べて、「え? なにコイツ平気な顔してんの?」とでも言いたげな視線をあたしに投げかけてきた。いや、あたしに助けを求められても。
まるで自分は何も関係ない、あたかも自分は理解者みたいな調子で言ってるけど、ビビらせたのアンタが原因だから。栞も元凶に慰められるという未知の体験に納得いっていない様子だった。
遊のプロフィール情報を更新しておく必要があるかもしれない。ちょっと、ではなく、だいぶ変わっていると。
……まぁ、数年来の親友や、家族にだって知らない一面はある。これから嫌でも一緒に居ることになるんだし、ゆっくり時間をかけて理解していけばいい。
「全員そろったことだし、そろそろ出発するか」
「あたしは準備オッケーだよ」
待ちきれないとばかりに逸った様子の遊が問いかけた。その場で小さく足踏みをして、この場に他の人間がいなかったら今すぐにでも飛び出していただろう光景が容易に推測できる。
もともと、あたしは別に大した準備はない。短めの髪はこういう時便利だった。
年頃の女子として全くの無頓着というわけではないけど、以前から身だしなみに時間をかける方ではなかった。せいぜいが化粧水を浴びて、ヘアアイロンを当てて、たまにクマ隠しのコンシーラーを塗るくらい。
こうなっては、それすらもできなくなってしまったが。
準備に時間がかかるとしたら、依束と栞の方じゃなかろうか。比較的長髪で、言動の端々から女の子らしさを感じる彼女たちには、あたしじゃ想像もつかない魔法のような準備工程があるかもしれない。
知り合いにもやたら準備が長い子がいたし。この辺は個人差過ぎるからなぁ。
「私も大丈夫だよ。というか、こんな状況じゃ大した準備もできないから」
「そうですね。寝癖を直したかったんですけど、どれだけ濡らしてもダメで……」
そうぼやく彼女。見れば、右側の一束だけぴょこんと飛び出していた。なんだか、これはこれでワンポイントになっていてかわいい。
あたしがほほえましく見つめていると、寝癖をからかわれていると思ったのか、栞は半身を引いてそれを体で隠してしまった。そんなつもりじゃなかったのに。少しだけ神経質っぽいから、あんまり気にしすぎてないと良いけど。
ともかく。ひとまずは全員準備ができているらしい。それを確認して、遊が意気揚々と声を上げた。
「じゃあいくか。――いざ、宝探しの大冒険へ!」
「物資を探しに行くだけだし、まだ周りのことも分かってないから、今日はあんまり遠出しないよ? 分かってるよね?」
「わーってるって。盛り上げようとしただけじゃん。こんな状況なんだからむしろ、さ」
「へー。そんな気遣いできたんだ」
「あー傷ついた。今日はもう出かけんやめちまおっかな」
「ごめんて」
唇を尖らせたまま出ていった遊の背中が遠ざかっていく。依束は困ったように笑ってこちらを振り返ると、「朔ちゃんも」と促してくれた。あたしもその後を追い、昇降口へ向かう。外の世界に、少しの不安とそれ以上の期待を抱きながら。
楽しみにはしていないと。遊に言ったこと、あれはやっぱり嘘だ。
こんなことを言ったら怒られてしまうかもだけど。あたしは少し嬉しかった。まともな世界じゃなくなってしまったことが、だ。
面倒な学校や宿題が無くなったこともひとつ。なにもかもが無くなってしまった今。それは言い換えれば、人類の文明がはるかに後退してしまったということ。
けれど、あたしにとっては違う意味を持っていた。ずっと止まっていると思っていた人生が、初めて大きく動いた気がした。
――感動という言葉の意味を、辞書で調べたことがある。いわく、強く感情を揺れ動かされること。
それはなにも喜ばしいことだけを言うんじゃない。悲しみに大きく揺れ動いても、そこに感情の大きな変化があるのならそれは感動と呼べる。それならば後退もまた変化で、停滞よりはずっとマシな気がした。
ずっと繰り返しだと思っていた。同じ人、景色、話。
そんな日常も悪くはなかったけれど、いつか先に進まないといけないという焦りに苛まれ続けるままに生きていくうちに、自分の存在が呑み込まれそうになることもあった。
そんなふうに思っていた日常が突然色を変えた。その先に何も無いからこそ、急かされることもない。恐怖もなくはないけど、あたしにとっては希望でもあったんだ。
常識の通じない、この終わったから始まった世界でなら。胸を張って肯定できる幸せを見つけられる気がしたから。