終末世界に先はない   作:空想の墓場

4 / 6
これまでとこれから

 

 だいたい1,2時間ほど経っただろうか。少しだけ太陽が傾いて、窓から入ってくる光が強くなってきたころ。

 

 あたしと依束、それと栞は思い思いのものを持ち寄って、入り口付近に再集合していた。それぞれの傍らには荷物がまとめられたカートが置かれており、このスーパーで集めてきた物資が積まれている。

 

 遊の姿はまだ見えない。単純にまだ探索の途中か、それとも何かしらのイタズラでも企んでいるのか。

 

「朔ちゃん。それ何? やけにカラフルだけど……」

「これ? ペンシルバルーン。風船をねじったりして犬の形にするパフォーマンスあるじゃん? それに使うやつ」

「できるの? 器用なんだね」

「いや? できないよ?」

「えぇ……?」

「これから練習するんだよ。娯楽がないのは死活問題だもん」

「えっと、頑張って?」

 

 依束があたしのカートの中の商品を不思議そうに見つめながら。彼女の視線の先には、先ほどのペンシルバルーンに始まり、クラッカー、装飾に使えそうなテープ、トランプに各種ボードゲーム。

 

 あとは完全にノリで持ってきたひげメガネにタスキ、アフロのカツラに取ろうとすると指が挟まるイタズラガムなどなど……。改めて見るとロクなものないな。まぁ、あたしが見つけてきた物資なんだけど。

 

 栞があたしに訝しげな視線を向けてくる。チクチクと刺さるようなまなざしが痛い。

 

「あの……。それ、何に使うんですか? ボクにはいつ使うのか分からないんですけど」

「いやいや。これには深い考えがあるんだって」

「……一応聞きましょう」

「娯楽って、生活が豊かになったから生まれたものでしょ? だから、逆に多少生活がしんどくても娯楽があれば精神的に余裕が生まれるんじゃないかって思ったんだよ。それにほら、息抜きも大事でしょ?」

「まぁ、差し迫って必要かと言われたらそうじゃない気もしますが。朔さんなりにみんなのことを考えてくれてたんですね」

 

 栞の視線が和らぐ。分かってくれたみたいで良かった。

 

「てっきり面白半分で持ってきたものだとばかり」

「あたしもバレたかと思ったよー」

「え?」

「やば」

 

 ボロが出そうになったのを口笛を吹いてごまかす。本当に、分からなくていいところまで分かってくれたみたいだ。いやでも、これは仕方ない。センスで選んで来いなんて大雑把に言われたって、どうせ他の人と丸被りする未来が見えている。

 

 実際、売り場をめぐっているときに他の3人と鉢合わせそうになったことが何度もあって、そのたびに見つからないよう身を隠した。

 

 別に見られてどうということはないけどさ。出先で知り合いにばったり出くわすとなんか気まずいじゃん。それと同じだ。

 

「だって、どうせ被るじゃん。それなら他の人が持ってこなそうなものの方がいいかなって」

「あって困るものでもないですし、いいじゃないですか」

「やだ。それだとなんか負けた気分になるもん」

「何にですか?」

 

 何と聞かれれば自分にだろうか。冷ややかなツッコミはいったんスルーして、

 

 確かに、冷静になって見てみるといつ使うのか分からないものばかり。ついテンションが上がってしまった。他の人が真面目に頑張っている中、自分だけゲーム感覚だったのが急に恥ずかしくなってきた。

 

「まぁまぁ。朔ちゃんも、みんなが退屈しないようにしてくれたんだもんね?」

「どっちかって言うとあたしの趣味9割かな」

「せっかくフォローしたのに。正直でいいね」

 

 短所を長所に言い換える天才がいる。この調子なら世界を終わらせたのがあたしだったとしてもいいように言い換えてくれるかも。

 

 まぁ、栞の言うとおり面白半分で持ってきたのは認めよう。でも、娯楽がないのも味気ないと思ったのも本当。

 

 インターネットがつながらないどころか、テレビも漫画もなくてここんとこずっと手持無沙汰だった。ドーパミンに侵されきった脳をデトックスするにはちょうどいい機会だと言い聞かせていたけど、それにしたって暇すぎる。

 

 夜は明かりがないから夜更かししたくてもできないし、スマホも一応あるにはあるけど充電ができなきゃ板切れと変わらない。むしろ、そういったものの無い時代に生まれた人々はどうやって時間を潰していたのか不思議。

 

 図書室にあった読めそうな本も、どっちかと言えば参考書寄りのものばっかで暇つぶしには向かない。あれを楽しめる人もいるだろうけど、少なくともあたしは無理。新手の拷問かと思ってしまう。

 

 それに、『生活に必須な食べ物や道具は他の人が持ってきてくれる』という、楽観的な期待もあった。何しろ担当してるのが真面目組の2人だから。言うまでもなく不真面目組はあたしと遊。

 

 遊に関しては、衣服でふざけられるとこもそうないだろうという読みだ。せいぜいが変な文字が印刷されたものを持ってくるのが関の山。

 

 決して、ただ面白そうという理由だけでパーティグッズを集めてきたわけじゃない。……選んでるとき、ウキウキしなかったかと聞かれれば否定はできないけど。

 

 そうこうしていると、奥の方からガラガラと音を立ててこちらへ向かってくる遊が見えた。カートには山積みの衣類と、よく分からないアクセサリーがいくつか。

 

 荷物の多さもあるが、衣類コーナーは入ってきた扉からは正反対の位置にある。それもあって多少遅れたのだろう。

 

 ちゃんと前が見えているのか不安になるほど積み上げられた荷物の山。その横からひょっこりと顔を出して、こちらに声をかけてくる。

 

「なんだ、アタシが最後か」

「ここの支払いは最下位の遊持ちね」

「しゃーねぇ。今日はアタシのおごりだ!」

「おごりも何も、最初から払う気ないじゃないですか」

 

 突如として始まった茶番に、呆れた様子で栞が言う。こんなときくらいしかできないんだからいいじゃん。富豪ごっこ。端から端まで買うってシチュエーションは憧れるでしょう。

 

「じゃあそれぞれ戦利品を発表してこうぜ。まずアタシからな」

 

 遊は嬉々として取集してきた戦利品を自慢する。一枚のシャツを持ち上げてそれを見せびらかすように胸の前で広げる。

 

 黒字に簡潔な英文がプリントされた、何の変哲もないシャツにみえるが。その英文が問題だった。

 

「ほら、これ見ろよ。『It’s not the end of the world.』だってさ」

「いや、だいぶ終わってる寄りだと思うけど」

「だろ? ちょっと面白いから持ってきた」

 

 広げたTシャツに書かれていたのは、この場にそぐわない文字の羅列。たまにいるよね。変な英語の文が書かれた服を着ている人。ああいうのって、ちゃんと意味も理解したうえで来ているんだろうか。直接聞くには勇気が出ない。

 

「励ましっぽいニュアンスですかね? 失敗しても世界が終わるわけじゃないんだから、的な」

「いや終わってるじゃん。どんな失敗したらこうなるんだろうな」

「まぁ、無理矢理いいほうに考えるなら、これ以下はないとも捉えられますね」

 

 意外にも深めな意味がこもっていそうなフレーズだったが、今だけは例外である。最初に言った人もこのTシャツを作った人もこんな状況になるなんて想定外だったはず。というかそもそもどんなシチュエーションのときに着ていくんだこれ。

 

「他にも薄手のシャツとー、あとは帽子と、下着と……それと靴だな。これから作業するとして、サンダルとかスニーカーじゃ限界もあるだろうし。ついでに軍手も」

「……」

「どうした? 黙っちまって。なんか足りないものあったか?」

「いや。完璧すぎて逆に驚いてる。遊って真面目にやることもできたんだ」

「アタシをなんだと思ってんだよ」

 

 意味不明な柄物とか、逆張りで冬着を持ってくるくらいのことはしそうな彼女がこんなにもまっとうに任務をこなすなんて。感動して涙が出そうだ。と思っていたとき。

 

「服屋じゃないから、季節の服しか置いてなかったんだよ。あれば持ってきた決まってんだろ」

 

 前言撤回。どこまで行っても人の性根は変わらないらしい。

 

 スーパーの発注担当の人がまともで本当に良かった。もし店員にも奇人が紛れ込んでいたら、炎天下のなかモコモコの服に身を包みながら過ごす羽目になっていたかもしれないと思うと恐ろしい。とにもかくにも、これで遊のターンは終わり。

 

 次は誰が発表するのか。目配せを挟んで、依束が続く。

 

「私は食品コーナーを探してきたけど、食べられそうなものはほとんど残ってなかったよ。特に生鮮食品は全滅」

 

 そう言いながら持ってきた食品がこちらに見えるようにカートを移動させる。そこに乗っているのは缶詰と乾物がほとんど。

 

 遊がため息をひとつ吐いて、がっかりしたように言う。

 

「予想はしてたけど、やっぱり腐ってるか」

「腐ってるとか、そういう次元すら超えてるかも。黒い塊というか残骸みたいになってて閲覧注意状態」

「何年経ったらそんなんになるんだよ」

 

 分かってはいたものの、いざ肉や魚、野菜が食べられないと知るとそれはそれでショック。ちょっと期待していただけ余計にだった。

 

 ……一旦それはいいとして、今の依束の発言で疑問がひとつ浮かんだ。それは、ある意味あたしたちにとってめちゃくちゃ重要な情報。

 

「今のでちょっと気になったんだけど」

「なぁに?」

「あたしたちの目が覚めるまでに数年経ってるとしてさ。だとしたら、あたしたちって今何歳なの?」

 

 ――口にした瞬間、空気が凍り付いた。

 

 朝からずっと感じていた暑さが一気に引いたし、むしろ寒気さえ感じる。栞が思わず自分を抱くように体を丸めた。その腕には鳥肌がびっしり浮かんでいる。

 

 一歩間違えれば、全員のメンタルを崩壊させかねない特大の地雷がむき出しになった状態で目の前に置かれているような状態だった。遊が震える声でかろうじて言葉を絞り出す。

 

「そこは……精神年齢でいいんじゃねーか? ほら、実年齢は考えない方向で」

「暑さを紛らわすにはちょうどいいくらいのホラーかもね……」

「い、意識を失ってたわけだし! ノーカンだろノーカン!」

 

 あたしの質問に対する返答か、それとも自分を納得させようとしているのか。動揺を隠せない様子で主張しながら、恐ろしい想像を振り払おうとしていた。

 

 気にはなるけど、これ以上深堀するのは良くない。ここに来てようやくあたしの危機察知能力が警鐘を鳴らしはじめた。もしかしなくても手遅れでも、なんとか話題を変えようとして。

 

「ほ、他に何かなかった!? どんなもの見つけてきたか知りたいなぁ!」

「……ハッ。そ、そうだね。ええと……」

 

 彼女には刺激が強すぎたらしく、呆然としていた依束が意識を取り戻す。何か別の作業に意識が向きさえすればすぐに正気に戻ってくれるはず。彼女は深呼吸したあと、改めてカートの中身を紹介する。

 

「見つけたもので、他に食べられそうなのはビスケットとか乾麺とか。カップ麵もあるけど……。これもちょっと悪くなってそうだから、お湯を入れてからまた確認した方がいいかも」

 

 彼女が挙げるものはどれもこれも保存食の代表として聞き覚えがあるものばかり。やっぱり保存食として選ばれるからには理由があるんだなと今更ながらに関心していた。

 

 そのとき、あるものがあたしの目に入った。カートの下段になっていて気付かなかったが、真っ白に宝石のような輝きを放つそれはまさしく。

 

「依束、下にあるそれって……」

「これ? 見てのとおりお米だよ」

「おお……!」

「見た感じ袋にキズもないし、虫もついてなかったから食べられはすると思う。味は……保証できないけど」

 

 日本人の魂とも呼べるもの。あたしは感動を抑えきれず、思わず声を漏らした。やっぱり、おかずがどれだけあったとしても主食がなければ食べた気にならない。味が落ちているのは仕方ないとしても、そこにあるだけで食卓にまとまりが出るというものだ。

 

 目の前に用意された多様な食材の数々は、これまでの生活からは考えられない充実具合。それらを目にした遊は感慨に浸りながら言う。

 

「これで食糧問題は大幅改善だな。ようやく味気ない食生活から脱却できんのか」

「ホントに良かった……。最後の晩餐が乾パンはあんまりだもん」

 

 こんなに嬉しいと思ったのはこの世界になって初めてのことだった。あたしと遊は肩を組んで喜びを分かち合う。大袈裟に思えるかもしれないけど、あたしたちにとっては死活問題だったからね。割とマジで。

 

 そんなあたしたちの様子を苦笑いで見つめていた依束が、「あ」と声を上げて、忘れていたというふうに。

 

「問題は調理器具がないことなんだけど……」

 

 依束が栞に視線を送る。それに対して、栞が待っていましたと言わんばかりに答える。

 

「ちゃんと調理器具一式は見つけてきましたよ。それと、使い捨ての紙食器も」

「みたいだね。学校にあるやつはあんまり奇麗じゃなかったから、ありがと」

 

 学校の調理室にも調理器具はあるが、依束の言う通り錆びたり汚れたりであまり使う気になれないありさまだった。食器に関しても似たような感じ。紙食器は思いつかなかったけど、いちいち食器を洗う手間とか、衛生面や水の貴重さを考慮するなら、確かにそっちの方がよさそうに聞こえる。

 

 せっかくの食料なのに、他が悪かったら台無しだもん。周辺の道具はできるだけいいものを揃えておいて損はない。

 

「そうそう。錆びたフライパン使うと鉄の味して嫌なんだよねー」

「これだけあれば手の込んだ料理もできるね。材料がないのはともかく」

「料理するにしても、火はどうしよっか? ガスは止まってるし」

「カセットコンロとか? 鍋するときに使うみたいな」

 

 料理か。物資の少ない現状、豪華なものは望むべくもない。でも、機会があればみんなの作った料理も食べてみたいかも。あたし、調理実習じゃもっぱら味見担当だったからなぁ。危なっかしいとかで包丁には触らせてすらもらえなかった。

 

 依束は割烹着を着て味噌汁を温めているのが容易に想像できるし、栞はグラム単位までこだわるタイプっぽい。遊は……未知数だ。意外と器用にこなすかもしれない。

 

 ただ、そんな妄想をしたってまずは火がないことには皮算用だ。見たところ、栞のカートに火を起こせそうな道具はなさそうで。その疑問は栞にとっても予想がついていたらしく、あたしが聞くのに先んじて言った。

 

「ガスボンベはありました。でも、経年劣化もありますし……。これだけ暑いところに何年も放置されてたんだとしたら爆発したりする危険も考えられます」

「え、じゃあ火は使えないの?」

「そんなことはないですよ。オイルライターなら使えますし、最悪事故が起こってもガス爆発ほど大惨事にはならないでしょう」

「そっか。そっちの方が無難か」

「時間はかかるかもですけどね」

 

 言われてみればその通りだ。ガスで爆発事故とかたまにニュースで見たことあるし、学校でもそんなビデオを見た覚えがある。

 

 詳しいことは分からないけど、もしかしたら充満したガスで中毒になることだってあるかもしれない。まぁ、この気温のなか窓を閉めっきりにすることなんてまずないとは思うけど。

 

 毎回火をおこすのは面倒でも、危ないよりはずっといい。それに、火が使えないことに比べたら多少の手間なんて些細すぎる問題。

 

 そんなことを考えていたとき、遊がふと思い出したように問いかけてくる。

 

「ボンベってなんでボンべっていうか知ってるか?」

「知らない。なんで?」

「ボーンと爆発するからだよ」

「へぇ。そうなんだ。初めて知った」

「ちなみに今考えた」

「おい」

 

 一瞬真面目に考えてしまったのが本当に馬鹿らしい。彼女の言うことのほとんどが冗談で構成されていると気づいていたはずなのに。

 

 軽く睨みつければ、遊がイタズラっぽく舌を出す。どんなにかわい子ぶってもこれまでの言動のせいでウザさしか感じない。後でなにかしら仕返しをしてやろう。そう心の中で決意を固めていると。

 

「爆弾を意味するボムから来てるって説もありますし、実際当たらずとも遠からずなんじゃないですか」

「マジか。メチャ適当に言ったのに」

「嘘から出た誠ってやつ?」

 

 付け足された栞の豆知識にあたしたちは2人して目を丸くする。面白い偶然だ。いや、語源どうのこうのって話なら言葉の響きが似ているのは必然なのか。

 

 と、話がわき道にそれたのを栞が軽く咳払いして引き戻す。最初にふざけだしたのは遊なのに。いつの間にかあたしにも責任をなすりつられている気がする。

 

「とにかく。バーベキューコンロ一式と炭があれば火は何とかなりそうですね」

「いいじゃん! やっぱりサバイバルと言えば焚火だよね。炭でやるバーベキューって憧れだったんだー」

「レジャーと一緒にしない方がいいと思いますよ? 全く能天気……。じゃなくて、ポジティブですね」

「聞こえてるからね? 全部言ってから言い直しても遅いって」

 

 「それと」と、さらに付け加えて。

 

「使えそうなもので、乾電池がありました。ハンディファンとか懐中電灯もあったので、そのくらいの低電力の家電なら使えるようになりますね」

「ドライヤーとか、そういうのはダメそう?」

「そのレベルの家電になると、流石にまともには動かないんじゃないですか」

「そうだよねぇ」

 

 依束が肩を落とすが、それでも何も無いよりはずっとマシだろう。ここのところ原始時代に逆戻りしてしまったような生活が続いていたんだから。電気と火が使えるなら今よりはずっと人間らしい生活ができるようになるし、嫌が応にも期待は高まる。

 

「いやいや。明かりがあるのは十分デカいでしょ」

「真夜中になると本当に何も見えなくなってましたしね」

「そういや、おととい栞が夜中に一人でトイレ行けなくて――」

「わーわー! 遊さん! 言わないって約束したじゃないですか!? ……2人も、生暖かい目で見るのはやめてください!」

 

 言っちゃダメそうなことを口走りかけた遊の口を、耳まで赤くした栞が強引にふさぐ。……うん。いやまぁ分かるよ。あたしもちょっと怖かったし。

 

「ついでに、スマホの充電もできたりしない?」

「あー……。できなそうです。モバイルバッテリーって使わないで置いておくと放電して使えなくなっちゃいますから。ここにはありませんでしたけど、家電量販店とかならもしかしたら乾電池式の充電器があるかもしれませんね」

「そっかー。まぁ、どうせインターネットが使えないんじゃ、カメラかメモ帳代わりにしかならないもんなぁ」

 

 「こんなところですかね」と集めたものを一通り出し終えた栞が言葉を区切る。最後に残ったあたしに遊が視線を投げかけてくる。依束と栞には既に説明しているので簡単に伝えた。

 

「あたしは別に大したもの持ってきてないよ。暇つぶしのおもちゃとか」

「お。なかなかセンスあるじゃんか」

「マジ? 2人とも聞いた? やっぱあたしセンスあるってさ」

 

 褒めるな褒めるな。照れちゃうじゃないか。この辺の感性が似ているらしい彼女にとって暇つぶしの遊び道具は好印象らしかった。子供の様に目を輝かせながらいくつかのボードゲームを手に取って吟味している。

 

 あたしが鼻の下を擦ってドヤ顔を披露していると、眉尻を下げて苦笑いする栞がたしなめるように言った。

 

「もう、すぐ調子に乗るんですから。遊さん、あんまり甘やかさないでくださいね?」

「まぁでも、必需品じゃないにしろ必要ではあるだろ。お前だって昨日暇そうにしてたじゃん」

「それは……。否定できませんね」

 

 栞が珍しく遊に言い負かされて、顎に手を当てながら黙り込んだ。やはり暇を持て余していたのはあたしだけではなかった様子。彼女をやりこめたことにちょっとした優越感を感じつつ説明を再開する。

 

 あたしが見つけてきた物資の中には、先に集まった2人にも説明していないものもあった。皆が集まってから言おうと思って隠していたもの。

 

「あとね。もうひとつ、良いもの見つけたんだ」

「良いもの? 他に何か必要なものあったっけ?」

「そういうわけじゃ……。まぁ見ててよ」

 

 もったいぶった口ぶりが3人の興味を惹いたらしくこちらに視線が集まる。授業中、クラス全員の前で発表することになったときの緊張感を思い出した。

 

 ……いや、そんなに期待されるほど、生活においての必需品ってわけでもないから、そんなに見つめられても困るんだけどさ。物珍しさと懐かしさ、加えて個人的にやりたかったという理由だけで手に取ったから。

 

 あたしはカートの底から探り当てたそれを取り出して胸の前に掲げた。目一杯腕を伸ばして、少しでも大きく見えるように。

 

「じゃーん! 花火セット! どう!?」

 

 満を持してあたしが皆にひけらかしたのは、手持ち花火の詰め合わせセット。袋いっぱいにいくつもの種類の手持ち花火がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。ビビットカラーの花火たちがめいめいに自己主張して、目が痛むほど鮮やかだった。

 

 想像していたものとは違っていたのか、3人は一瞬キョトンとした反応を見せる。しかし、少しして表情に明るさが灯っていく。誰からともなく「へぇ」と感嘆を含む声が上がったのを見逃がさず、あたしはプレゼンを続けた。

 

「夏の風物詩と言えば何と言っても花火でしょ。最近じゃ公園ですら迷惑がられてたけど、今なら文句を言ってくる人間はいないわけだし。皆でやったらスカッとしそうじゃない?」

「花火か。久しくやってねーな」

「集合住宅に住んでた身からすると、花火なんてホントにやる機会なかったですね。見に行くならともかく、手持ち花火ってもしかしたら初めてかもしれないです」

「それもちょっと珍しいね」

 

 3人がそれぞれに花火の思い出について話し合っているのを、あたしは後方で腕を組んで見守っていた。うんうん。青春してるねぇ。何様だと言われかねない感慨を抱きながら。

 

 ――花火と言えば。あたしにも、思い出がある。

 

 彼女たちが談笑するその傍らで、あたしも過去の記憶を振り返っていた。この花火セットを手に取ったときにも感じた、懐かしさの、その原点を。

 

 時間の流れに覆われた風景はくすんでいて、はっきりとは思い出せないけれど、今の状況と少し似ていた気もした。

 

 目の前でじゃれ合う彼女たちがぼやけていく。それは不定形の影のように歪んで、曲がって。最奥から引っ張り出された記憶が神経細胞とこすれ合って、焼けるような摩擦熱を引き起こした。

 

 電気信号が、やがてあの日のあたしたちの姿を形作る。画質の低いムービー、ざらざらしたノイズ交じりの声が頭の中に響く。低品質なカメラで撮影した映像をそっくりそのまま再生するみたいに。

 

 いつのことかすら思い出せないほど昔の、幼心に残る思い出。物心つくかつかないかの年頃だったと思う。あのときは確か親も一緒に居たけど、あの日もみんなで集まって遊んで、晩御飯の買い出しに連れて行かれて。そのときに誰だったかが店内でごねたんだ。

 

『やだ! 花火やりたいー!』

 

 みっともなく泣き叫ぶ甲高い声。自己中心的で、なんでも思い通りにならないと気が済まない幼児の癇癪。その声の主は、もしかしたらあたしなのかもしれない。

 

 そんなことすら曖昧なワンシーン。登場人物たちの顔は霞がかっているものの、呆れた表情をしているのは容易に想像できた。結局親の方が折れて、そこそこの大きさの花火セットを買ってくれた。

 

 暗くなってからにしようね。そんな言いつけが煩わしくて、何度も時間を確かめた。そこから永遠にも思える時間が過ぎる。あたりが暗闇に包まれて、うつろいやすい子供の好奇心が花火から逸れかけたころ。

 

 ぽつり、と。真っ暗な世界に明かりがつく。それは、ろうそくの炎だった。隣に座る友達の顔すら見えないのに、目に焼き付く炎の色を鮮明に覚えている。

 

『どっちが長く続くか、競争しようよ』

 

 不意に、隣から聞こえた。記憶の中の自分が音の鳴る方に視線を向けるが、その先は闇だ。友達がいたはずの場所は、いっそう暗い黒で塗りつぶされていて判然としない。

 

 淡い色をした靴のつま先と、手に持った線香花火だけが闇の中に浮かんでいた。

 

 手渡されるままに線香花火を手にとって、唯一はっきり見えるろうそくの炎にかざす。紙に燃え移った火はたちまち大きくなって、火薬がスパークとともに爆ぜる。勢いを増した炎が視界を広げる――そう思った、次の瞬間。

 

「――っ痛」

 

 突如として感じた、刺すような痛み。記憶の中心に至ろうとしたのその瞬間に、飛びかけていた意識が激しい頭痛によって引き戻される。

 

 (これも久々だなぁ。高校入って以降初かも)

 

 あたしはこめかみに指を押し当てて、走った痛みを抑え込む。数秒ほど待ってようやくいつも通りの思考が戻ってきた。

 

 もう少しで思い出せそうだったのに。あたしは煮え切らない感覚に歯噛みするが、錆び切った思い出の引き出しはすでに固く口を閉ざしてしまった。こじ開けようとしても、その取っ手すらつかめない。

 

 ……昔からたまにあるんだよね、知恵熱的なやつ。久々すぎて忘れかけていたこの現象ももはや懐かしい。

 

 小さいころからのクセというか体質。あたしは何かを強く思い出そうとすると、時折偏頭痛が起こすという性質があった。成長してからはなくなったと思っていたのに、ぶり返してしまったらしいそれに、憂鬱さを感じながら頭を振る。

 

 というか、思い出そうとしただけで頭痛って。我ながら脳の容量が小さすぎないか?

 

「朔ちゃん? 大丈夫?」

「ん? ああ、何でもない。花火なんて青春だなーって浸ってただけ」

「そう? ならいいけど……」

 

 気づくと、依束が心配そうにこちらを覗き込んでいた。思ったよりも長く回想に浸っていたらしく、遊と栞も怪訝な表情で様子をうかがっている。

 

 あたしは慌てて否定し、心配には及ばないとおどけてみせる。意味のない空想に思考を飛ばしてしまうのもまた、昔からの悪いクセ。先生が話してるのに窓の外を見てボーっとして怒られてるタイプの子だった。

 

 まだ少し不安そうな依束が気遣うようなそぶりを見せるが、本当になんともないからかえって申し訳ない。それとは対照的に、心配が空回りして気の抜けた栞が、あたしの年寄りみたいな発言につっこむ。

 

「青春って、何歳なんですかあなたは……。ホントに同年代ですよね?」

「そんな老けて見える!?」

「あ、いや、そんなつもりじゃ」

 

 ががーん、と擬音が付きそうなほど大袈裟に落ち込むフリをすると、目に見えて彼女はうろたえだした。その様子がおかしくてつい笑ってしまって、そこでようやく向こうもからかわれていると気づいたらしい。

 

 彼女は「もう」と小さく鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまったが、小柄な見た目も相まって全く迫力はない。そんな反応されると、むしろもっとからかいたくなるだけなのに。

 

 しかし、根っからそういう心理を理解していない栞にとっては精一杯の意地悪のようだった。頬を膨らませる彼女の横顔を微笑ましく見つめていると、遊がパチンと一度拍手して全員の注目を集める。

 

「よっし。思いつく限りですぐに使いそうなもんは集まったし、そろそろ学校戻るか」

「いいけど、そんな山積みで大丈夫? 運んでる途中で落っことしたりしない?」

 

 取り仕切る彼女の言葉には賛成するも、あたしは山積みのカートが気がかりだった。物資が集まったのは喜ばしいことだ。喜ばしいけど、思いがけず順調に集まりすぎた。

 

 容積の限界を超えて荷物の詰め込まれたカートは見るからに不安定だ。店内は平坦だからいいものの、アスファルトの上では飛び跳ねて荷物を落としてしまいかねない。学校までの道は整備されていなくて亀裂が走っていたからなおさら。

 

 そう思って問いかけると、遊に代わって栞が右手を挙げる。

 

「なら、これ使います?」

 

 彼女が掲げた手に持っていたのは、彼女がゾンビ対策にと一応持ってきた網目の細かいネット。確かに、それで全体を覆えば単純にロープで括るよりも安定しそうだ。

 

「おお。思わぬ形で役に立ったね」

「今回ばかりはビビりに感謝だな」

「慎重派、と言ってください」

 

 不本意な呼ばれ方をした栞がむくれた顔で訂正しながらも全員にネットを手渡す。あたしたちは各々それでカートごと荷物を覆ってみた。試しに軽く揺らしてみたが、ほどけたり荷物が落ちそうな気配もなくいい感じ。

 

 遊がネットに包まれた衣服の山をバシバシと叩く。その猛攻を受けても微動だにしない荷物を見て満足そうに頷いた彼女が改めて。

 

「これでいいか。日の高いうちに帰ろうぜ。ちゃんと動くかも確かめなきゃなんねーし、何より腹減った」

「そう言われたら、急にお腹空いてきた」

 

 そういえば。寝坊のドタバタもあって忘れてたけど、あたし朝から何も食べてないんだよね。今更ながらそのことを思い出す。空っぽの胃を体の上から撫でまわすと、わずかにウエストがへこんでいることに気付いた。健康な痩せ方ではなさそうだけど正直ちょっと嬉しい。

 

 もともと朝食は取らないタイプだったから空腹感自体は別になんてことない。でも、今後も炎天下の中動き回るならこの習慣も考え直した方がいいか。こんなんで倒れてもしょうもないし。夏休みに入って乱れていた生活習慣をこんなタイミングで考え直させられるとは。

 

 そうこうしているうちに、遊と栞は出口へ向かおうとしていた。あたしも2人の後を追おうとカートの取っ手を握り直し体をそちらに向ける。

 

「依束、あたしたちも行こう。……依束?」

「……うん」

 

 促すために背後を振り返って。すると、どこかぼんやりとした表情で立ち尽くしている依束と目が合った。いや、目が合った、というのは適切ではないのかもしれない。彼女の目は、ここではないどこかを見ているようだったから。

 

 依束の視線の先を追うと、あたしのカート、正確にはそこに置かれた花火セットにたどり着いた。先ほどみんなに見せたとき、彼女だけ反応が薄かった気がしたからあまり興味がないのかとも思っていたが。

 

「私もあるんだ。花火の思い出。小学校に入る前くらいかな?」

「そんな前のこと、よく覚えてるね」

 

 曖昧に宙を見つめたまま依束は話し始める。そのまなざしが何を映しているのか、あたしには全く分からなかった。この世界で彼女に出会ってからそれなりに仲良くなったつもりだったのに、予想することさえできない。

 

 なぜかは分からないが、そのことがどうにも引っかかった。毛羽だったささくれのように気になってしまった。小さな瑕疵は、一度気になるとどうしようもない。

 

 ふと、これまでみんなと話したことのほとんどはこの世界に関することばかりだったと気づいた。切羽詰まった状況だったから仕方ないとはいえ、一緒に暮らす仲間として、暫定この世界に残った最後の4人として。あまりにもみんなのことを知らなすぎると、そう思った。

 

 ここに来る前。こんな世界になる前。彼女たちは、どんな人生を送っていたのだろう。自分と同じく平凡で鬱屈とした日々を送っていたのだろうか。それとも、特別な人生を送っていたのだろうか。

 

 ――彼女の心に触れてみたい。そう思ったときにはもう口が動いていた。過去を深堀りするにしてはぶっきらぼうな、人生経験の不足が露呈するヘタクソな質問の仕方で。

 

「えっと、そのときはどうだったの?」

「うーん……。楽しかった、ような気がする」

「え?」

 

 微妙に煮え切らない言い方。仮に忘れているのだとしても、その言い回しは少し不自然だった。自分も知らず知らずのうちに素っ頓狂な顔になっていたのだろう。あたしの表情を見た依束が自分の言葉を訂正する。

 

「その、楽しかったのは本当なの。でも、具体的に何がって言われると思い出せないっていうか」

「あー、まぁ。確かにそういうことあるよね。『最近何かあった?』って聞かれてもパッと答えられないみたいな」

「そう! そんな感じ」

 

 例え話がハマったようで、彼女が食い気味に同意する。

 

 それなら彼女の微妙な態度も納得がいく。あたしもさっき似たような体験をしたばかりだったからなおのこと理解できた。

 

 過去の記憶は、どちらかというと不意に思い起こされるもので、思い出そうと努力して出すことの方が少ない。無理矢理思い出そうとしたところで、かえって語る言葉が足りなくなるだけだ。

 

 よほどのことじゃない限り、記憶は時間とともに薄れていく。そして、平凡な人生に『よほどのこと』なんてそうそう起こらない。だから、全てを鮮明に思い出すことなんてできないのは普通のことだと思う。

 

 しかし、依束もそう思っているかは別の話。彼女は両手を背中に回すと、体中の空気を全部出し切る勢いで深く、深くため息を吐いた。その吐息には後悔とか未練とか、そういう感情が無数に含まれているように感じた。

 

「『最近どう?』とか、『最近何かあった?』ってお約束みたいな質問だけど、結構難しい質問だよね。私はそう聞かれて答えられなかったとき、すごくもったいないことした気分になっちゃう。損、とはまた違うかもだけど。ぼんやり生きてたんだなーって実感するから」

 

 その言葉がすんなりと心に入り込む。インクが染み込んでいくみたいに自然に、されど深部まで。その感覚は、あたしがこれまでに感じてきたものによく似ていた。

 

 変わり映えのしない日々。その中で、何を得たのか。何もしないまま、進まないまま。無為に日常を過ごして、いつのまにか置いて行かれている感覚。

 

 何かあったかという問いは、何か起こるのが当たり前だという前提のもと成り立っている。だとすると、その問いは平凡な日常は許さないとでも言いたげで、ぼんやり生きることを言外に責めているのだ。相手にそんなつもりはなくとも、そう思える瞬間がある。

 

「こんなことなら日記でもつけとけばよかったかな。……ごめんね? 急にこんなつまんない話して。朔ちゃんも困っちゃうよね」

「まぁでも、そんなもんでしょ」

「え?」

 

 ウザいだろうなとは自覚しつつ、聞かれてもいない答えが口をついて出た。否定したかったのは、彼女の想いか、それとも何もない自分の人生か。

 

 人間の記憶なんて、そうあてになるものでもない。思い出せるのなんて昨日かおとといの夕ご飯が限度で、一週間前にまでさかのぼると大抵のことは忘れている。どんなことがあったかなんてだから、全部を覚えておくのなんて無理な話で。

 

「夏休みだって、終わってみたら何があったかなんてほとんど忘れちゃうけど。なんとなく楽しかったってことだけ覚えてられればそれでいいんじゃないかな」

 

 結局何もしないまま終わる夏休みなんて、この世にはありふれている。特別な才能を持つ人間なら、大会やらなにやら人生を変えるようなイベントもあるだろう。それこそ甲子園とか。

 

 でも、ひと夏で見違えるほどに成長できる人間のほうがずっとまれだ。休み前と明けで見分けつかなくなるのなんて小学生の身長くらいなもんで、感動のドラマなんて一般人には縁ない話。

 

 休みなんて関係ないかのように詰め込まれる部活や補修をこなし、一日休みの日は昼過ぎまで寝て、残り数日になってようやく焦り始める。

 

 夏の風物詩なんてこんなもんだ。キラキラした青春もひと夏のアバンチュールも、シアターの向こうにしかなくて。

 

 でも、そんな日々の中にもなんとなく。楽しかったことがあるのだけぼんやりと覚えている。それは何も人生を揺るがす出来事である必要はない。

 

 どんな場所にだって楽しみはあるはずなのに、つまらないと感じるのは、何もないと感じるのは、自分がそれを見つけられていないだけなんだと思う。

 

「そういうなんとなくが積み重なってこそ夏休みでしょ。終わったあとで、『なんもしなかったー』なんて笑い話にできるくらいがちょうどいいんだよ」

「そういうものかなぁ?」

「そういうもの! 依束は悪いほうに考えすぎだよー。それに、ヤなことまで全部覚えてたって損なだけじゃん。夏休みの宿題を最終日に48時間かけてやった苦しみなんて、忘れちゃった方が楽だもん」

「それは覚えといた方がいいんじゃないかな……。それだと来年も苦しむ羽目になっちゃうし」

 

 楽しいことだけ覚えていられるならそれが一番だけど、そうもいかない。でも、忘れるから苦しみも消えていく。

 

 ひとつひとつはぼんやりしてても、それらの楽しみをつながった結果が思い出になる。下書きの絵が、実現しないアイデアが素晴らしいものに思えるみたいに。ぼんやりしているからこそ、なんだかんだ楽しかったなって、良いも悪いも一緒くたに出来るんじゃないか。

 

「今年の夏って言っていいのか分かんないけど。こうなったからにはさ、やりたかったこと全部やっちゃおうよ。どうせ誰にも怒られないんだし」

 

 宿題はないけど、きっとこれがあたしたちに残された最後の宿題なんじゃないかと思う。代り映えのしない日常がまるっきり変わってしまった世界で、特別を見つけること。

 

 あたしは依束の背中を軽く叩く。少し驚いた様子でこちらを振り向く彼女に、あたしはできるだけ明るく言った。自分の不安や苦悩を悟られないように。

 

「思い出せないぶん、これから作ればいいじゃん」

「あはは。そうかもね」

 

 楽天的過ぎる理屈に釈然としない様子だった彼女も、最後にはそういうものかと納得してくれた。困ったふうに笑いながら、それでもあたしの言葉を繰り返して。

 

「うん、そうだね。思い出せないぶんはこれから作ればいいよね」

「そうそう。今日がその第一歩だよ。スーパーの商品を勝手に持っていくなんて、したことないでしょ?」

「あったら大変だよ」

 

 依束が苦笑しながら言う。そりゃそうだ。もしあったらそれは万引きになってしまうから通報せざるを得ない。どこに、と言われても困ってしまうが。

 

「おーい! 何してんだよ。置いてくぞー!」

 

 唐突に大声で呼びかけられる。顔を上げると遊が出入口の外からこちらに手を振っていた。いつの間にかだいぶ距離が空いていて、長身のはずの彼女が手のひらほどの大きさに見える。あたしはそれに応えるべく、同じくらいの大声で返事した。

 

「ごめーん! 今行く! ……待たせちゃっても悪いし、早く行こ?」

「ちょっと話し込んじゃったね」

 

 依束の言葉には申し訳なさがにじんでいた。後ろめたい気持ちはあたしにもあったけど、それ以上に依束と話せたことの喜びの方が大きかった。自分の中で、なんとなく考えがまとまった気もしていた。

 

 どことなく軽くなった足取りで2人のもとへ戻ろうと踏み出して、一歩、二歩と進んだとき。

 

「……だとしても」

 

 かすかに聞こえた声に、思わず再び振り向く。大声ではないものの、彼女の息遣いが含む強い意思が、その言葉の響きを何倍にも膨れ上がらせていた。

 

「やっぱり、忘れたくないなぁ。なにもかも全部」

 

 つぶやいた唇の動きが、頭から離れなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。