太陽が東の空から昇り、白桜学園の広大な敷地を黄金色の光で包み込み始める。鳥たちのさえずりが聞こえ、爽やかな朝の風が木々の葉を揺らす。どこからどう見ても、平和で、希望に満ちた新しい一日の始まり──の、はずだった。
俺、宇生優斗は、男子寮の食堂の定位置に座っていた。
目の前には、湯気を立てる白いご飯、完璧な焼き加減の鮭、出汁の香りが鼻腔をくすぐる味噌汁、そしてふっくらとした卵焼き。男子寮の食堂のおばちゃんが腕によりをかけた、栄養満点かつボリュームたっぷりの朝食セットだ。普段なら、この光景を見るだけで腹の虫が鳴り、優等生としての活力が湧いてくるはずだった。
だが、今朝の俺の胃袋は、鉛を飲み込んだかのように重く、冷え切っていた。
原因は明白だ。昨日の出来事。あの、俺の人生の歴史において最悪の汚点となり、精神を崩壊させるに十分だった「女子トイレでの惨劇」。そして、その後ホームルームで繰り広げられた、白桜美怜と紅峰華音という二大財閥令嬢による精神的拷問。さらに夜に見た、五人の花嫁による血みどろの結婚式という絶望的な悪夢。
それらが複雑に絡み合い、俺の心身を徹底的に痛めつけていた。箸を握る右手が、微かに震えている。
しかし、俺の食欲を根こそぎ奪っている要因は、昨日のトラウマだけではなかった。
今、この食堂を支配している「異常な空気」。それこそが、俺の首を真綿で絞めるように息苦しくさせていたのだ。
「……」
「……」
「……」
無言。圧倒的な無言。
普段の朝の食堂といえば、寝癖をつけたままの男子生徒たちが、部活の朝練の愚痴をこぼしたり、昨晩のゲームの話題で盛り上がったり、小テストのヤマを掛け合ったりと、むさ苦しくも活気に満ちた騒音が飛び交う場所だ。食器が触れ合うカチャカチャという音、椅子を引く無遠慮な音、おばちゃんの「残さず食べなよ!」という元気な声。それが日常のBGMだった。
だが、今日は違う。
食堂には数十人の男子生徒がいるというのに、誰一人として口を開かない。皆、静かに、まるで葬式の参列者のように伏し目がちに食事を口に運んでいる。咀嚼音すら立てないように細心の注意を払っているのがわかる。
そして、その全員の意識が、目に見えない糸のように、中央のテーブル──つまり俺の座っている席──に集中していた。
俺のテーブルを囲むように座っているのは、親友の田所圭介を筆頭とした、クラスメイトの面々だ。彼らの態度は、異常を通り越して不気味だった。
「優斗、お茶のおかわりはどうだ? 熱すぎないか?」
「あ、優斗くん、醤油取ろうか? 鮭に少し垂らすと美味いぞ」
「優斗、おしぼり新しいのに替えるか?」
接待。そう、これは間違いなく接待だ。
まるで、大企業のワンマン社長を囲む平社員たちのように。あるいは、生贄として捧げられる神聖な供物を、腫れ物に触るように扱う村人たちのように。彼らは俺に対して、過剰なまでの気遣いを見せていた。
俺の湯呑みのお茶が少しでも減れば、誰かがすかさず急須を手に取る。俺の視線が醤油差しに向かえば、光の速さでそれが目の前に差し出される。
(……なんだこれ。マッジで気持ち悪い……!)
俺は内心で盛大に毒づきながら、引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に制御し、「優等生スマイル」を顔面に貼り付けた。
「ありがとう、みんな。でも、自分でできるから大丈夫だよ。みんなも温かいうちに食べなよ」
爽やかに、毒にも薬にもならない模範的な返答をする。だが、その言葉を聞いた瞬間、クラスメイトたちの顔に一瞬だけ浮かんだのは、「安堵」ではなく「深い罪悪感」と「恐怖」だった。
彼らは昨日、倒れた三村先生を運び出すという大義名分のもと、俺をあの地獄の教室に置き去りにしたのだ。そして、白桜美怜と紅峰華音という、この学園における二大爆弾の間に俺を挟ませるという、最悪の状況を放置した。
その負い目があるからこそ、今日のこの過剰な接待なのだということは、俺の優秀な頭脳がすぐに弾き出していた。
(だがな! お前らのその怯えたような気遣いが、余計に俺の胃を痛めつけてるってことに気づけよ!)
沈黙が続く中、クラスメイトたちの代表として、俺の正面に座る田所圭介が、重々しく口を開いた。彼の顔には、普段の快活さは欠片もなく、まるで世界の終わりを告げる予言者のような深刻さが漂っていた。
「さて、優斗」
圭介の声は、低く、押し殺したようなトーンだった。その一言だけで、周囲の男子たちの間にピリッとした緊張が走る。
「昨日の事だが……」
昨日の事。その単語が出た瞬間、俺の脳裏には、女子トイレでの惨劇、顔に浴びた生温かい液体、むせ返るようなアンモニアの臭い、そして、涙に濡れた白桜美怜の痴態が、4Kの高画質映像となってフラッシュバックした。
(うっ……!)
胃酸が喉元までこみ上げてくるのを、俺はすんでのところで飲み込んだ。やめろ、思い出すな。あの記憶は、俺の精神の最深部にコンクリート詰めにして海に沈めるべきものだ。
俺は圭介が何を言い出すのか、身構えた。
「なんであんなことになったんだ?」「お前と白桜さんの関係は何なんだ?」「紅峰さんとはどういう繋がりだ?」
当然、そういう質問の矢が飛んでくるものだと思っていた。男子、それも噂話やスキャンダルが大好物な年齢の奴らだ。普通なら、好奇心の塊となって質問攻めにしてくる場面だろう。
だが、圭介の口から出た言葉は、俺の予想を完全に裏切るものだった。
「──絶対に、言うなよ」
「……は?」
俺は間抜けな声を出してしまった。優等生らしからぬ反応だったが、無理もない。
「昨日の教室での出来事、お前と白桜さん、そして紅峰さんの間に何があったのか。……俺たちは、何も聞かない。だから、お前も絶対に、俺たちに言おうとするな」
圭介は、真剣そのものの目で俺を見つめ、そう言い放った。周囲のクラスメイトたちも、音を立てずに深く頷いている。その表情には、「知らぬが仏」「触らぬ神に祟りなし」という人類の根源的な生存本能が刻み込まれていた。
数秒の沈黙の後、俺の脳内で処理が追いつき、そして、抑えきれないツッコミの衝動が爆発した。
「なんでだよ!?」
俺は思わず箸を置き、身を乗り出して叫んだ。声量が大きくなりすぎないように抑えつつも、その語気は荒かった。
「ここは若さ故の好奇心でツッコむ所だろうが!? 『優斗、お前白桜さんと付き合ってんのか!?』とか、『紅峰さんってどういうキャラなんだよ!?』とか、目を輝かせて聞いてくるのが青春ってもんだろ! なんでそこを全力でスルーしようとしてんだよ!」
俺の悲痛な叫びは、食堂の重い空気に吸い込まれ、虚しく響いた。
頼むから聞いてくれ。聞いて、俺をこの理不尽な状況から救い出す手伝いをしてくれ。俺一人で抱えきれる問題じゃないんだ。俺はただの優等生を演じているだけの、ちっぽけな存在なんだよ!
だが、圭介は首を横に振り、まるで死地に向かう戦友を諭すような、悲壮感漂う表情で語り始めた。
「優斗。……こんな事は言いたくないが、白桜学園に通ってる奴は大概、資産家だったり名家だったりするんだ」
その言葉に、俺は唇を噛み締めた。
そうだ。この白桜学園は、日本でも有数の超エリート校であり、同時に超絶金持ち校だ。生徒の大多数は、どこぞの企業の御曹司だったり、代々続く名家の令嬢だったりする。歩けば親のすねかじりに当たるような、特権階級の集まりだ。
「お前の様な、児童福祉施設出身なんて例外中の例外なんだよ」
圭介の言葉は、事実として俺の胸に突き刺さった。
俺は孤児だ。親の顔も知らない。施設で育ち、自分の力だけで這い上がるしかなかった。この学園に入れたのも、死に物狂いで勉強し、教師に媚びへつらい、完璧な「優等生」という仮面を被り続けた結果、特待生枠をもぎ取ったからだ。
俺にとって、この学園はゴールではない。社会という残酷なヒエラルキーの底辺から抜け出し、頂点へ這い上がるための、ただの踏み台に過ぎない。
「無論、ここにいる奴らはお前の事を尊敬している。施設出身というハンデを背負いながら、成績トップクラスを維持し、誰に対しても分け隔てなく接する。……凄い奴だよ、お前は」
圭介の言葉に、周囲の男子たちも同意するように頷く。彼らの目には、確かに同情だけではない、純粋な敬意が混じっていた。
「いや、褒めてくれるのは嬉しいよ? ……でも、それがどうしたんだよ? 今の状況と、俺の生い立ちが何の関係があるんだ?」
俺が尋ねると、圭介は深く、本当に深くため息をついた。
「そういう奴らはな、つまり親から帝王学やら処世術やらを叩き込まれてる俺たちみたいな連中は、幼い頃から全員こう教えられているんだ」
圭介は周囲を一瞥し、声を一段と落とした。まるで、壁に耳があることを恐れるかのように。
「『五大財閥の人間には絶対に関わるな。徹底的におべっかを使って、決して関心を寄せられないようにしろ』と」
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。
沈黙が流れる。
食堂の空気が、さらに数度下がったような気がした。
五大財閥。
日本の経済、政治、ひいては裏社会に至るまで、あらゆる分野で絶対的な影響力を持つ五つの巨大な血族。白桜財閥と紅峰財閥は、その筆頭格だ。彼らは単なる「金持ち」ではない。国家の行く末すら左右しかねない、特権階級の中の特権階級だ。
「……お前も知っての通り、俺の家は日本でもそこそこ裕福な家だ」
圭介が自嘲気味に笑いながら言う。
「そこそこって……」
俺は呆れてツッコミを入れた。
「大企業の社長令息だろうが」
田所圭介。こいつの実家は、全国展開する大手総合商社だ。総資産額を聞けば、普通の人間なら一生遊んで暮らせるどころか、国が一つ買えるのではないかと錯覚するレベルの金持ちだ。
俺は最初は、こいつの事も嫌いだった。「金持ちの子供」というだけで、俺の憎悪の対象だった。何も努力せずに、生まれながらにして全てを与えられている連中。施設でパンの耳をかじって飢えを凌いでいた俺からすれば、同じ空気を吸うことすら腹立たしかった。
だが、圭介は違った。
鼻につくような傲慢さはなく、誰に対しても気さくで、何より人間ができていた。俺が施設出身だと知っても、哀れんだり見下したりすることなく、一人の人間として、本心から敬意を持って接してくれた。
そんな奴を、「金持ちだから」というただそれだけの理由で嫌い続けるのは、あまりにも器が狭すぎる。俺という、清く正しく完璧な優等生である至高の存在が、そんな浅ましい思考に囚われるなんて耐えられなかった。だから俺は、圭介を「親友」として認めたのだ。
「いいか、優斗。そんな俺の家でさえもな」
圭介の顔から笑みが消え、真剣な眼差しが俺を射抜いた。
「白桜や紅峰に比べりゃ、道端の石ころ、いや、木っ端微塵の塵みたいなもんなんだよ。あそこは日本という枠に当てはまらない。世界規模なんだよ」
世界規模。
その言葉が、ずしりと重く響く。
「俺たちの親は、血の滲むような努力と駆け引きで今の地位を築いた。だが、五大財閥の連中は、気まぐれ一つでその全てを吹き飛ばせる力を持っている。文字通り、指先一つで企業を潰し、路頭に迷わせることができるんだ」
圭介の言葉を聞くクラスメイトたちの顔に、恐怖の色が濃くなる。彼らもまた、それぞれの親から同じような教育を受けてきたのだろう。
「そして……」
圭介はゴクリと唾を飲み込み、さらに声を潜めた。
「あの『氷の女王』と呼ばれる程、他人に全く興味を示さなかった白桜美怜が、お前に異常なまでの執着を見せた」
その指摘に、俺の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
そうだ。あの女は、これまで誰に対しても氷のような態度を崩さなかった。ファンクラブの連中がどれだけ媚びへつらおうと、視線すら向けなかったのだ。
それが昨日、俺の腕に絡みつき、「私を助けてくれた恩は忘れないわ。一生ね」と、呪いのような言葉を吐いたのだ。
圭介の顔が、恐怖で歪む。
「……余程の事があったんだろうよ」
余程の事。
その言葉が引き金となり、俺の脳内に、再び昨日の光景が強制再生された。
薄暗い女子トイレの個室。
便座に座り込み、羞恥と絶望に顔を歪める白桜美怜。彼女のプライドが完全にへし折られ、涙と鼻水に塗れた顔。
そして、俺が彼女のスカートとショーツを下ろした瞬間、限界を超えていた彼女の身体から弾け飛んだ、あの生温かい液体。
俺の顔面を直撃した、あの衝撃。鼻腔を焼くような臭い。
(う、ぐえぇぇぇぇ……っ!!)
ダメだ。思い出すな。思い出すな宇生優斗!
俺は必死に頭を振り、フラッシュバックを振り払おうとした。だが、記憶は鮮明すぎて、昨日の感触が今まさに肌によみがえってくるようだった。
ああ、せっかくの朝食を、完全に胃袋から逆流させてしまいそうだった。俺は口元を手で覆い、必死に深呼吸を繰り返した。
「優斗、大丈夫か!?」
圭介が慌てて声をかけてくるが、俺は答える余裕すらなく、ただ首を縦に振るしかなかった。
「……だから、言っただろう。俺たちは何も聞かない。聞いてしまえば、俺たちも『共犯者』として、彼女たちの視界に入ってしまうかもしれない」
圭介の言葉は、冷酷だが、あまりにも理にかなっていた。
「俺たちも、親の会社、従業員、そして自分自身の未来……多くの人の人生を背負っているんだ。迂闊な動きをして、もし彼女たちの機嫌を損ねでもしたら……!!?」
突然、圭介の言葉がピタリと止まった。
彼の視線が、俺の背後──食堂の入り口の方向を向いて固定され、顔面から一瞬にして血の気が引いていくのがわかった。
(……どうしたんだ?)
俺は圭介の異常な反応に疑問を抱いた。周囲のクラスメイトたちも、次々と入り口の方向を見ては、まるで石化魔法にかけられたように硬直していく。
食堂の空気が、重くなったのではない。
完全に「凍結」したのだ。
絶対零度の冷気と、肌を刺すような甘い香りが、背後からゆっくりと忍び寄ってくるのを感じた。
そして、俺の両耳に、決して聞いてはならない二つの声が、同時に流れ込んできた。
「へえ、優斗君って友達が相手だとそんな口調なんだ?」
左耳から聞こえたのは、氷のようでありながら、どこか底知れぬ熱情を秘めた、美しくも恐ろしい声。白桜美怜。
「優斗〜、卵焼き頂戴」
右耳から聞こえたのは、緊張感など微塵も感じさせない、間延びした能天気な声。紅峰華音。
(は……?)
俺の脳が、現実の処理を拒否した。
幻聴だ。悪夢の続きだ。そうでなければおかしい。
俺は、首の関節が軋むような速度で、ゆっくりと背後を振り返った。
そこに立っていたのは、純白の制服に身を包んだ、この世のものとは思えないほど美しい二人の少女。
銀髪を揺らし、蒼い瞳で俺を射抜く白桜美怜。
黒髪をなびかせ、悪戯っぽい笑みを浮かべる紅峰華音。
日本経済の頂点に君臨する二大財閥の令嬢が、なぜか、男子寮の食堂に、揃って立っていた。
「……なんでテメェ等が居るんだよ!?」
俺は、優等生の仮面も、言葉遣いの丁寧さも全て投げ捨て、魂の底から絶叫した。
「ここは男子寮の食堂だろうが!! 女子が、堂々と入ってきていい場所じゃねぇんだよ!!」
俺のツッコミは、極めて真っ当なものだった。学園の規則でも、男子寮への女子の立ち入りは厳しく制限されているはずだ。特例中の特例を除いて、あり得ない光景なのだ。
だが、彼女たちに常識や規則など通用するはずがなかった。
美怜は涼しい顔で、俺の隣の空いている椅子(さっきまでクラスメイトが座っていたはずだが、いつの間にか逃亡していた)に優雅に腰を下ろした。
「あら、寮長には許可を取ってあるわ。『少し、用事がある』と伝えたら、快く通してくれたもの」
(快くじゃねぇよ! 脅迫されたか、財閥の力で黙らせたかのどっちかだろうが!)
華音も反対側の椅子に座り、身を乗り出して俺の朝食を覗き込む。
「美味しそー! 優斗、あ〜んして?」
(するわけねぇだろ! 幼児かお前は!)
俺が内心で絶叫し、現実逃避の算段を練り始めたその時──。
「みんな逃げろ!!」
食堂に、割れんばかりの轟音が響き渡った。
見ると、田所圭介が、食堂の隅に設置されている緊急用のアナウンスマイクを握りしめ、必死の形相で叫んでいた。
「白桜と紅峰の令嬢が此処に居るぞ!! 命が惜しければ、一刻も早くこの場から離れろぉぉぉっ!!」
それは、火災報知器よりも、ミサイル警報よりも切実な、魂からの避難勧告だった。
その声が合図となった。
静まり返っていた食堂が、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
「うわああああああ!!?」
パジャマ姿で寝ぼけ眼だった男子が、椅子を蹴っ飛ばしてダッシュで逃げていく。
「出してる最中だったのにいいいいいい!?」
トイレの方から、ズボンを半分下ろしたままの奴が、涙目で飛び出してきて廊下へ消えていく。
「服なんざ着てる場合じゃねえ!!」
シャワー室の方から、泡だらけでバスタオル一枚しか巻いていない奴らが、スライディングするように逃亡していく。
誰もが、文字通り「蜘蛛の子を散らすように」逃げ出した。
彼らの親から叩き込まれた「五大財閥には関わるな」という教えが、生存本能と直結して作動した結果の、見事なまでの逃走劇だった。
「ちょっ……お前ら! 俺を置いていくな!! 圭介! 親友だろ!!」
俺の叫びも虚しく、圭介はマイクを放り投げ、「すまん、優斗! 来世でまた会おう!」と言い残し、誰よりも早く食堂から姿を消した。
(あの薄情者どもがあああああ!!)
俺は絶望に打ちひしがれた。
ふと厨房の方を見ると、いつも元気な食堂のおばちゃんまでが、エプロンを脱ぎ捨てて裏口へ向かっていた。
「今日は店じまいだよ!! あたしゃ命あっての物種だからね!!」
おばちゃん! あんた大人だろ! 生徒を守れよ!
俺の心のツッコミも虚しく、裏口のドアがバタンと閉まる音が響いた。
数分前まで活気に満ち(いや、今日は異常に静かだったが)、数十人の人間がいた食堂は、あっという間にもぬけの殻となった。
静寂。
先ほどの重苦しい沈黙とは違う、絶対的な静寂。
広大な食堂に取り残されたのは、俺。
そして、右に白桜美怜。
左に紅峰華音。
たったの三人だけ。
「……ふふ、静かになって良かったわね。これで、誰の邪魔も入らずに『朝食』が楽しめるわ」
美怜が、氷のように冷たく、そして毒のように甘い笑みを浮かべて、俺の顔を覗き込む。
「そうだね〜。優斗、僕にもその鮭、食べさせてよ〜」
華音が、能天気に俺の腕に絡みついてくる。
逃げ場はない。
助けは来ない。
俺の、優等生としての平穏な学園生活は、完全に終わった。
朝日が差し込む食堂で、俺はただ一人、絶望という名のフルコースを味わうことになったのだ。
気分転換の不定期更新ですので気長に待って下さい。