(トイレまでがんばれ俺! そしてがんばれ俺様!)
俺は、全神経を足元と肩にかかる美怜の体重に集中させる。
歩き方が少しでも乱暴になれば、その振動が引き金となって爆発するかもしれない。
だが、ゆっくりすぎればタイムリミットが来てゲームオーバーだ。
絶妙な速度と繊細な足運びが要求される。
これはゲームだ。赤と青、二本のコードを切る程度のレベルじゃない。
無数に張り巡らされたトラップを掻い潜り、人質(=美怜の尊厳と俺の平穏)を救出する、世界で一番スリリングで、絶対に失敗が許されないゲームなのだ。
一歩、また一歩。俺の額からも、美怜とは違う種類の冷や汗が流れ落ちていく。
ゴールはもう目と鼻の先。
だが肩に全体重を預けている“時限爆弾”は、いよいよ最終カウントダウンに突入していた。
「はっ、はっ、はっ、はっ……」
隣から漏れる呼吸音は、もはや呼吸ではなかった。
短く、浅く、途切れ途切れの喘ぎ。
全力疾走直後のように肩を上下させ、その衝撃だけで決壊してしまいそうなほど全身が限界を訴えている。
(ひいいいい、鳴ってる! カウントダウンの音が鳴ってる!)
俺にはその喘ぎが、爆弾の電子音にしか聞こえない。
ピッ、ピッ、ピッ――と確実に破滅へ近づく死の宣告だ。
「耐えて、白桜さん! もう少しだから!」
心の声はもっと切実だった。
(本当に死んでも出すなよ! 頼むから! せめて俺が離れた後にしてくれぇ!)
数メートルが数キロに感じられる。
永遠のような時間をかけ、ついに俺たちは聖域の扉へ到達した。
ピンク色のピクトグラム。
女子トイレの扉。
それはただの建具じゃなかった。
今この世で――いや、人類史において最も尊い扉だった。
砂漠の旅人にとってのオアシス。
嵐に飲まれた船乗りにとっての灯台。
断崖絶壁に取り残された登山者にとってのヘリコプター。
俺にとっては、それ以上の意味を持っていた。
この扉の先にこそ、希望があり、救済があり、未来がある。
この数十メートルを歩くために、俺の人生はあったんじゃないかと思えるほどに。
(ああ……尊い……尊すぎる……!)
両手を合わせて拝みたくなる。
いや、いっそ土下座して礼拝したい。
そのくらい、このピンク色のピクトグラムは神々しく輝いて見えた。
女子トイレの扉――それは俺と白桜美怜を救う“最後の楽園”だった。
「着いたよ! 白桜さん!」
俺は肺の奥に溜まっていた空気をすべて吐き出すように、大きく安堵の息をついた。
そして、震える声で勝利を宣言した。
(長い、長い道のりだった……)
俺にとっては、地球から月を越え、火星を越え、冥王星のさらに先まで旅してきた気分だ。
一歩ごとに寿命を削り、一秒ごとに胃に穴が開くような圧迫感。
その全てに耐え抜き、ついに辿り着いたのだ。
女子トイレの扉の前――
俺にとっては、これ以上ない栄光のゴールテープだった。
(……俺は、勝ったんだ……!)
額から滴る汗が、まるで達成の涙のように頬を伝い落ちていく。
だが――俺はまだ知らなかった。
ここがゴールではなく、さらに深い地獄の入口であることを。
肩から身体を離そうとした、その瞬間。
「だ、めぇ……」
か細い声。けれど、その袖を掴む指先の力は鋼鉄のように強かった。
必死の形相で俺を見上げる美怜。
その視線にはもう、かつての「氷の女王」の冷たさは微塵も残っていなかった。
完璧を演じ続けてきた仮面は、今まさに音を立てて剥がれ落ちている。
プライドも、威厳も、すべて地に崩れ落ちた。
そこに残ったのはただ、惨めで弱々しい、一人の少女。
彼女は白桜美怜ではなく、“ただの女の子”として俺に縋り付いていた。
高嶺の花であるはずの存在が、今は必死に袖を握り締めている。
その小さな両手に込められた執念は、「お願い」でも「懇願」でもなく、もはや“依存”に近い。
……氷の女王という偶像は、ここで完全に崩壊した。
(だ、めぇって……何が!? ゴール目の前だろ!)
俺の脳が再び警報を鳴らす。
最後の最後で動けなくなる――これはつまり。
(本州の端っこ、下関まで来てる!? 関門海峡を越えるかどうかの瀬戸際だろ!)
もう、自力で数歩歩く余力すら残っていなかった。
膝は笑い、太ももは小刻みに痙攣し、足首は今にも折れそうに震えている。
肩を預けているくせに、その身体は意地でまだ“女王の姿勢”を崩していない。
限界だ。
誰が見ても一目で分かる。
人間としての生理的な許容量を、完全に振り切っている。
それでも白桜美怜は――氷の女王と呼ばれるその異名に、最後の最後まで縋っていた。
蒼い瞳には涙が浮かび、歯はぎりりと噛み締められ、唇は血の気を失って真っ白になっている。
全身が悲鳴をあげているのに、それを見せまいとする意思だけで姿勢を保っているのだ。
「……っ、はぁ、はぁ……っ」
漏れる声は哀れなほど切羽詰まっている。
だがプライドが、彼女を人としての尊厳のぎりぎりの線に縛り付けていた。
まるで、深海の水圧に耐え続けるガラス球。
ひびは幾重にも入っているのに、まだ砕けてはいない。
(くそっ……これが白桜美怜か……!)
足はもう震えて、汗も滝のように流れて、今にも崩れ落ちそうなのに――それでも彼女は必死に姿勢を保っている。
普通の人間ならとっくに膝から崩れ落ちて、地べたに泣き伏しているだろう。
(限界を超えてなお、プライドだけで持たせてやがる……!)
そう、彼女を立たせているのは体力でも根性でもない。
ただ「氷の女王」と呼ばれる自分のプライド。
その一点だけが、彼女の肉体を辛うじて繋ぎ止めている。
……恐ろしい女だ。
だが同時に、呆れるほどの馬鹿でもある。
こんなところで意地を張られている俺の胃は、もはや穴だらけだ。
歩いた瞬間――その奇跡は崩れ落ちるだろう。
限界の先の先。
彼女は――最後の最後まで「一歩」を踏み出せずにいる。
「白桜さん、あと少しなんだ! ここまで来れたんだから!」
外に向ける声は必死に優しい。
だが心の中では怒号が渦巻いていた。
(いい加減にしろ! 少しぐらい自分で歩けやこのアマ!)
ここまで来たんだ、残り数歩くらい根性で踏み出せ!
気力を振り絞ってでも、ほんの数秒だけ自力で持ちこたえろ!
それくらいできるだろ、氷の女王だろ!?
このまま全部俺に丸投げすんな!
――そう、俺は心底無茶振りをしていた。
分かっていながらも、願わずにはいられなかった。
しかし現実は残酷だ。
美怜は涙をこぼしながら首を横に振るだけ。
その姿は「もう一歩も無理」と全身で語っていた。
俺の淡い希望は、見事に打ち砕かれた。
俺は悟った――選択の余地はない。
「……非常、事態だ」
俺は天を仰ぎ、深々と溜息を吐いた。
もはや笑うしかない。
どうしてこんな理不尽な役回りを俺が背負わされているんだ。
女子トイレ――男子にとっては聖域にして禁断の領域。
踏み入れた瞬間、即アウト。
一生「変態」「痴漢」「不審者」のレッテルを貼られてもおかしくない。
そんな場所に、俺は今まさに足を踏み入れようとしている。
(なんで俺様が……よりによって女子トイレに……)
だが、ここで見捨てれば廊下でダム決壊だ。
それよりはマシ。俺は腹を括った。
「行くよ」
美怜の腕を肩に回し直し、扉に手をかける。
もし誰かに見られれば、優等生イメージは地に堕ちる。
(お願い神様仏様ご先祖様! どうか誰もいませんように!)
俺は震える手で取っ手を掴んだ。
金属の冷たさが指先を刺し、心臓の鼓動と一体化する。
ガチリ、と重たい音が響き、扉がゆっくりと開いていく。
……無人だった。
(よっしゃああああ!!)
心の中で、人生最大級のガッツポーズを決めた。
思わずその場で飛び跳ねそうになるのを必死に抑える。
これは奇跡だ。――いや、奇跡なんかじゃない。
(日頃の行いだ! 優等生として徳を積んできた俺様のおかげだ!)
そうだ、これは必然だ。
運命が、世界が、歴史が、宇宙が、すべて俺の味方をした瞬間だ。
だが、まだ勝負は終わっていない。
これは決してゴールではない。
いま俺は、バクチのサイコロを振っただけ。
勝負の真っただ中にいるのだ。
一度転べば、全てが終わりだ。
俺の三年間の平穏、努力、プライド、評判――すべてが一瞬で吹き飛ぶ。
ここから先の一歩一歩が、俺の人生を決める。
背中を伝う汗は冷たい。だが胸の奥は燃えるように熱い。
まるで受験、勝負試合、人生の岐路――そのすべてを一度に味わっているようだ。
胸を張りつつ、一番手前の個室へ美怜を誘導する。
「頑張って」
(マジで、ここが正念場だから頑張れよぉ!)
個室に入れ、便座へ座らせる。
着席した瞬間、彼女の全身から力が抜けた。
俺も安堵した。
「白桜さん、後は……」
優しい声で言った。あとは君一人で――そう言いかけた瞬間。
また袖を引かれる。
便座に座った美怜が、涙に濡れた瞳で俺を見上げている。
「お、ねが、い……」
(……嫌な予感しかしない)
「ぬ、がせてぇ……」
時が、止まった。
俺の思考は完全に停止する。
今、この女は……何と言った? 幻聴か? 俺の疲弊した脳が作り出した幻聴なのか?
一瞬だけ本気で「別の意味だ」と思おうとした。
制服がきつくてボタンを外してくれとか、靴を脱がせてほしいとか、そういう軽いやつだと。
だが――違う。
彼女の震える手が、スカートの裾をぎゅっと掴んでいるのを見てしまった瞬間、全てを悟った。
(あ……そういう……意味……!?)
羞恥と絶望で歪んだ顔。涙に濡れた蒼い瞳。
そこから滲み出るのは、ただ一つの切実な願い。
――自分は、もう無理。
だから、俺にやれと。
(ふ、ふざけるなああああああああ!!)
心の中で魂が絶叫する。
これだけは断じて出来ない。
男女の垣根とか、そういうレベルじゃない。
人として、越えてはならない一線だ。
だが、俺は優等生の仮面を被り続ける。
冷静を装い、震える声を抑えながら問う。
「……自分じゃ、出来ない?」
美怜は答えなかった。
ただ、子供のようにしゃくりあげ、無言でこくりと頷いた。
その頬を、大粒の涙がいくつも伝い落ちる。
目元は真っ赤に腫れ、普段の冷ややかな輝きはどこにもない。
唇は噛みしめすぎて血が滲み、声を出そうとしても、喉が詰まって言葉にならない。
制服の裾をぎゅっと握りしめている指先は白く変色し、震えていた。
あの堂々とした氷の女王の姿は、どこにもない。
ただ、耐え切れずに子どものように涙を流し、助けを乞う少女がそこにいた。
それは、彼女が誇りにしてきた尊厳が完全に崩れ去った姿だった。
財閥の令嬢として、誰よりも気高く振る舞ってきた彼女が、自らのプライドを捨ててまで他人にすがる――その事実こそが、彼女の心を完全に打ち砕いた証だった。
蒼い瞳に浮かんでいるのは、羞恥も、怒りも、威厳もなかった。
ただ、哀れで、情けなくて、弱々しい「お願い」の光だけ。
宇生優斗の目の前にいるのは、氷の女王ではない。
立派な白桜家の令嬢でもない。
尊厳をすべて失い、泣き崩れるただの少女――白桜美怜だった。
その姿を見て、俺は全てを悟った。
ああ、そうか。これが俺の運命なのか。
「……わかった、よ」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
(俺、前世でどんな悪行をしたら、こんな罰ゲームを受けるんだ……?)
そう心の中で呻いた瞬間、胃の奥がぐるりと裏返るような不快感が込み上げた。
足は鉛のように重く、肩にまとわりつく空気は異様に粘ついている。
俺の全身は、汗でびっしょりだった。冷たく、それでいて嫌に粘っこい。
目の前にいるのは――白桜美怜。
普段は氷の女王と呼ばれ、誰もが憧れる存在。
だが今は、涙と羞恥に濡れ、必死に縋る一人の少女に過ぎない。
それが逆に恐ろしかった。
俺は分かっている。
ここで手を伸ばせば、もう後戻りはできない。
優等生の仮面なんて関係ない。
これは“人として”越えてはならない領域だ。
――だが、拒めば。
爆発する。
その惨劇が残酷な映像となって脳裏に浮かび上がり、背筋を冷たく撫でていく。
彼女の名誉は粉々に砕け散り、俺も巻き添えで地獄に落ちる。
天秤の両端には「俺の尊厳」と「俺の未来」。
どちらを選んでもロクな結果にならない。
だが、選ばなければもっと最悪だ。
喉が渇いて声が出ない。
心臓は鼓動ではなく爆音。
呼吸一つするたびに「これが最後になるのでは」と錯覚するほどの重圧が襲いかかってくる。
俺は、もう一度天を仰いだ。
白い蛍光灯が目に刺さり、現実を突きつけてくる。
これは夢でも幻でもない。
俺は本当に、この局面に立たされているのだ。
ラキスケも普通