何の変哲もない普通のラブコメ   作:ナオ3

5 / 10
ヒロインがついにデレます。


5話

俺は目の前の現実に降伏した。

抵抗は無意味だと悟ったのだ。

これは運命であり、俺に課せられた試練なのだと。

そうでも思わなければ、この状況で正気を保つことなどできやしない。

 

俺はゆっくりと美怜の前に屈みこんだ。

便座に座る彼女の顔は羞恥と絶望でぐちゃぐちゃになっていた。

そこに普段の「氷の女王」の姿は欠片もない。

白桜美怜という偶像は完全に砕け散り、ただの限界を迎えた一人の少女がいるだけだった。

 

 

「……失礼するよ」

 

 

声を発する喉がカラカラに乾く。

俺は固く、固く目をつむった。

まぶたの裏で暗闇がうねり、耳に集中しすぎたせいで外の静寂が逆に不気味に響く。

 

俺は自分の姿を想像してしまった。

――便座に座り込み、羞恥と絶望に震える白桜美怜の前で、俺は跪いている。

高飛車な氷の女王のスカートに手をかけ、震える指で布地を扱う自分。

優等生、模範生、教師からも信頼される宇生優斗が、だ。

 

 

(……なにやってんだ、俺……?)

 

 

脳裏に鏡像のように浮かぶ自分の姿は、どこからどう見ても「変態」でしかなかった。

誰かにこの瞬間を見られたら、弁明の余地などない。

「人助けでした」なんて言い訳を口にした瞬間、俺は学園中の笑い者として処刑台に送られるだろう。

 

 

(うぷ……)

 

 

喉の奥が痙攣した。

胃がひっくり返りそうなほどの吐き気。

頭の中で「優等生の俺」と「実際に跪いている俺」の乖離が激しすぎて、内臓が悲鳴をあげている。

 

普段なら誰もが憧れる高貴な令嬢を前にして、普通の男ならドキドキする場面かもしれない。

だが俺には毒でしかなかった。

手のひらに伝わる生地の感触が、冷たく湿った罪悪感として指先にまとわりつく。

自分で自分を変質者と断罪したくなる。

 

 

(俺は今日で人生終わりだ……)

 

 

目を閉じていても、脳裏に自分の惨めな格好が鮮明に浮かぶ。

その滑稽さ、卑小さに圧し潰され、俺は嗚咽を飲み込むしかなかった。

心臓は爆音のように鳴り響き、喉奥から胃液がせり上がりそうだ。

だが、ここで逃げたら全てが終わる。俺の優等生イメージは灰燼に帰す。

 

 

(これ以上は直視できない。この光景を誰かに見られたら、俺は間違いなく死ぬ)

 

 

便座に座る白桜美怜――氷の女王の仮面を剥ぎ取られ、羞恥と絶望に顔を歪めた姿。

俺の眼前に広がるその惨状は、どんな地獄絵図よりも破壊力があった。

これを目撃した誰かに知られたら、俺の社会的生命は即死だ。

 

 

(誰かに殺されるんじゃない。自分で自分の人生に幕を引く)

 

 

そう、他人の手を借りるまでもない。

誰かに刺される必要も、殴られる必要もない。

恥ずかしさの重みに耐えきれず、自分から幕を引くだろう。

学校を辞めるとか、家に引きこもるとか、そんな生ぬるい話じゃない。

存在そのものを消し去りたくなる。

 

それほどまでに、今の状況は「優等生・宇生優斗」の生涯最大の地雷だった。

 

覚悟を決める。

俺は優等生。

人助けをしているのだ。

これは医療行為のようなものだ。そうだ、きっとそうだ。

 

 

(頑張れ、俺。俺は優等生だ!……いや、優等生であることは何の関係があるんだ?)

 

 

脳内で、冷静な自分が即座にツッコミを入れてきた。

――たしかにその通りだ。

優等生かどうかなんて、この状況に一ミリも関係ない。

スカートやショーツを脱がせるのに「模範的態度」とか「先生からの信頼度」とか一切役に立たない。

 

うるさい。黙れ。今は何かにすがりたい気分なんだ。

そうでもしなければ、俺の精神はこの場で爆散する。

「優等生である俺」という根拠のない鎧を着込んで、何とか自分を正気の淵に繋ぎ止めているだけだ。

 

 

(いいんだ……これは医療行為! 人助け! 優等生の模範的行動! そう思い込めばいいんだ!)

 

 

必死に自分を洗脳する。

理性が崩壊しかけた精神に、優等生という名のガムテープを無理やり貼り付けて延命していた。

 

永遠に続くかのように感じられる、ほんの数十秒。

全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、時が止まったかのような圧迫感。

 

そして――ついに。

 

 

(よっしゃあああ! ミッションコンプリート!!)

 

 

俺は心の中で雄叫びを上げた。

やり遂げた。

この人生最大にして最悪のミッションを、俺はついに完遂したのだ。

 

思い返せば――廊下で爆弾を抱えて歩いたあの時間ですら、まだマシだった。

女子トイレの個室という密閉空間、目の前に氷の女王が涙に濡れて座っているという異常状況。

誤魔化す余地も、逃げ道も、気休めすらも存在しなかった。

 

まさに「人間の尊厳」と「社会的死」の二択を迫られる究極の任務。

爆弾処理班なんて生ぬるい。

これはもう、精神の首を刎ねにくる処刑レベルだ。

 

 

――それを俺はやり遂げた。

 

 

もう、ここに用は無い。

一刻も早く、この禁断の聖域から脱出しなければ。

俺は安堵のため息をつき、立ち上がって個室から出ようとした、その刹那――

 

 

 

 

――ぷっしゃあああああああああ!!

 

 

 

 

「ぐあああああああああ!!??」

 

 

顔に――ぶっかけられた。

ぬるくて、生温かくて、肌を這う感触だけで脳髄が痺れる。

 

鼻を突く異臭が、まるで毒ガスのように一瞬で脳天を直撃する。

肺が焼ける。呼吸すら拒絶される。

 

口に入り込んだ液体が、逃げ場なく舌に広がる。

塩気とも苦味ともつかない、形容不可能な味。

「味覚」という感覚器官を殺しにきているとしか思えなかった。

 

五感すべてが同時に悲鳴をあげた。

視覚は刺激に焼かれ、嗅覚は崩壊し、味覚は絶望を覚え、聴覚は頭の中で警報を鳴らし続け、触覚は全身に鳥肌を走らせる。

 

あまりの衝撃に、俺の脳は――本能的に、強制シャットダウンを選び始めていた。

意識を切らなければ、生き延びられない。

そんな原始的な防衛反応が、全身を貫いていった。

 

だが、パニックに陥った俺は――やってはいけない行為をしてしまった。

決して開けてはならない禁断の扉。

そう、目を――開けてしまったのだ。

 

そして、見てしまった。

 

白桜美怜の顔。

真っ赤に染まった頬はまるで熟れすぎたトマトのようで、氷の女王の面影は微塵もなかった。

幼子のように歪んだ表情。

耐えきれぬ羞恥と絶望に押し潰され、蒼い瞳から涙が堰を切ったように溢れ出し、頬を濡らしていた。

 

――あまりにも無防備で、あまりにも人間らしい姿。

それが逆に、氷の女王という偶像を徹底的に崩壊させていた。

 

そして、俺の視線は自然と――下へ。

 

 

(あ、ああああああああああああああああああ!!!!)

 

 

心臓が破裂しそうなほど暴れ、脳は必死に「無かったことにしろ」と赤信号を点滅させ続ける。

だが、一度焼き付いた光景は二度と消えない。

 

これはもう拷問だ。精神的リンチだ。

全人類の歴史から抹消したい大惨事が、俺一人の記憶にだけ濃厚に刻み込まれたのだ。

 

生温い液体が顔にまとわりつく。

 

脳が拒否反応を起こし、正体を理解することを拒もうとした。

だが――五感は残酷だ。

臭い、温度、粘度、舌に残る不快な感触。

それらすべてが揃った時、俺は直感してしまった。

 

 

(……これ、まさか……)

 

 

言葉にした瞬間、二度と戻れない。

全身の血が凍りつき、胃が逆流しそうになる。

 

喉奥から吐き気が突き上げてくる。

心臓がバクバクと暴れ、脳裏で警報が鳴り響いた。

 

俺の人生史において、絶対に刻み込まれてはならない汚点を、俺は知ってしまったのだ。

 

 

(うわあああああああああああああ!!!!)

 

 

俺は心の中で断末魔を上げ、優等生としての誇りも尊厳も全て吹き飛ばされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5限目と6限目の間の短い休憩時間。

俺は戦場と化したあの教室へと帰還した。

 

ガラリ、と扉を開いた瞬間、耳を刺すような喧騒が全身を包み込む。

鉛筆が走る音。机を移動する音。誰かの笑い声。

そのどれもが、昨日までは「平和で、完璧で、計算され尽くした日常」の一部だった。

 

だが、今の俺には――それらは別世界の出来事にしか見えなかった。

まるで分厚いガラス一枚を隔て、水槽の中から外の景色を覗き込んでいるかのような、どうしようもない隔絶感。

俺はもう、あちら側には戻れない。

魂が、穢されてしまったのだから。

 

亡霊のように足を引きずり、自分の席に向かう。

視線を合わせる気力もない。

 

その俺の異様な雰囲気に、親友である田所圭介が真っ先に気づいた。

椅子から身を乗り出し、心配そうな顔で近づいてくる。

 

 

「優斗、大丈夫か?」

 

 

圭介の目がまじまじと俺の顔を覗き込み、すぐに眉をひそめる。

 

 

「その……保健室に行く前より、顔色悪いぞ?」

 

 

当たり前だ。

保健室に行く前は、これから起こるかもしれない惨劇に怯えていただけだった。

だが今は違う。

その惨劇を、見て、聞いて、嗅いで、触れて、味わってしまった後なのだ。

五感フルコンプリートの地獄体験を経た人間の顔色が、良いわけがない。

 

だが、俺は優等生。

心配をかけてはいけない。

俺は顔の筋肉を総動員して、必死に完璧な「優等生スマイル」を形作ろうとした。

 

……が。

頬は引き攣り、口角は思うように上がらず、ただ乾いた笑いが空気を切り裂いた。

 

 

「はっはっはっは、圭介。何を言っているんだ。俺は元気一杯だぜ!」

 

「優斗ぉ!?」

 

 

圭介の本気で怯えたような叫び声が教室に木霊した。

それが合図のように、教室中の視線が一斉に俺へと突き刺さる。

 

見栄っ張り優斗の仮面――完璧に砕け散った。

それをクラスの全員が悟った。

 

 

「おい、見ろよ……優斗が壊れたぁ!?」

 

「ヤベエ、マジかよ……明日は槍どころか、隕石が落ちてきても不思議じゃねぇぞ!」

 

「宇生君……なんだか、この世の地獄という地獄を全て味わってきたみたいな顔してる……」

 

 

ざわめきが、まるで火が燃え広がるように教室を満たしていく。

 

ああ、そうだ。俺は見栄っ張りだ。

完璧な自分を演じ、優越感に浸ることでしか存在を保てなかった道化だ。

だが今日、俺は「見栄」が引き起こした本物の大惨事を知ってしまった。

 

圭介が肩を掴み、激しく揺さぶる。

 

 

「どうしちまったんだよ、優斗!! しっかりしろ!」

 

 

俺はその心配を振り払うように、ニヒルな笑みを浮かべた。

もう、そんな演技すら必要ない。

壊れた仮面の下から漏れるのは、ただ乾いた達観。

 

俺は天を仰ぎ、張り付いた笑みを崩しながら、声を漏らした。

 

 

「……理解っちまったのさ、見栄を張ることの、愚かさにな」

 

 

その言葉はただの負け惜しみでも冗談でもなかった。

あの個室で俺が味わったものは、見栄の果てに待つ地獄そのものだった。

プライドに縛られ、引くに引けず、守るべき仮面を砕かれた時――人間はここまで惨めになれる。

 

俺は見た。

氷の女王の仮面を剥いだ弱さを。

俺は知った。

「完璧」という幻想がどれほど脆く、醜く崩れるのかを。

 

そして悟った。

それは何も白桜美怜に限った話ではない。

人間は皆、程度の差こそあれ「見栄」という鎧にすがり、張りぼての仮面を貼り付けて生きている。

俺もそうだった。

優等生という偶像に縋り、自分を保とうとしてきた。

 

だが――それは所詮、砂上の楼閣。

ちょっとしたきっかけで、あっけなく崩れる。

その下にあるのはただの生々しい弱さで、誰もが目を背けたくなる惨めな本性だ。

 

 

(……ああ、そうか。これが世界の真理ってやつか……)

 

 

見栄を張ることは愚かだ。

それは一瞬だけ自分を大きく見せてくれるが、崩れた時に生じる惨状は取り返しがつかない。

 

――そう、俺は今、世界の真理に触れてしまったのだ。

 

 

その瞬間――ガラリ、と教室の前のドアが開いた。

 

そこに立っていたのは、白桜美怜。

俺の人生を地獄の底に叩き落とした張本人。

 

だが、彼女の姿を見た瞬間、俺は再び戦慄した。

先ほどまでの弱々しい姿はどこにもなく、背筋を伸ばし、完璧な姿勢で教室に入ってくる。

顔色はむしろ血色が良く、銀髪は光を受けて輝き、蒼い瞳は澄み切っている。

氷の女王。

……いや、それ以上に神々しい存在感すら纏っていた。

 

そして、その瞳は真っ直ぐに俺を射抜いていた。

 

教室中が息を呑む。

氷の女王と、仮面の壊れた優等生。

二人の間に流れる空気を、誰もが固唾を呑んで見守った。

 

美怜は優雅な足取りで俺の席までやってきて、静かに立ち止まる。

次の瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。

 

彼女は、その完璧な唇の端をわずかに持ち上げた。

 

笑った。

白桜美怜が、笑ったのだ。

 

 

「さっきはありがとう、優斗君」

 

 

その一言は爆弾だった。

俺の心臓が恐怖に跳ね上がり、肩がビクリと震える。

圭介は呆然と口を開け、言葉を失っていた。

教室全体が静寂に支配される。

 

氷の女王が。

あの白桜美怜が。

笑顔で、俺に礼を言った? しかも下の名前で?

 

誰もが理解不能の現実に凍りつく。

 

 

「さっき優斗くんが保健室に行ったのは、私の為なの」

 

 

ざわっ――と教室が揺れた。

 

 

「な、なんだよこれ……」

 

「白桜さんが……普通に微笑んでる……?」

 

「……空気が凍ってる……」

 

 

美怜は構わず続ける。

 

 

「ふふふ、見栄を張ってる私の為に、ね」

 

 

その声音は柔らかかった。

だが、俺にははっきりと聞こえた。

そこに込められた含み。狡猾さ。残酷さ。

誰にも悟られぬように微笑みを浮かべながら、俺にだけ突き刺さる鋭い刃。

 

――悪魔。

俺は悟った。

 

この女は氷の女王でもなければ、ただの財閥令嬢でもない。

もっと根本的に、人の理を逸脱した存在だ。

俺の五感を焼き尽くしたあの地獄を、たった一言の「見栄」で塗り替えてしまった。

その瞬間から教室に流れる空気が変わったのを、俺は肌で感じ取った。

 

宇生優斗。

氷の女王を守り抜いた騎士。

美怜が勝手に作り上げた“物語”の中で、俺はそう定義づけられてしまったのだ。

 

呪いだ。

美怜が紡いだこの言葉の真実を知るのは、この場で俺と彼女だけ。

だからこそ逃げられない。

この秘密を共有した時点で、俺はもう彼女の支配下に組み込まれてしまったのだ。

 

クラスメイトたちはざわめくことすらできず、ただ息を詰めて二人を見守っている。

誰一人、核心に触れようとしない。

その理由は単純だ。

全員の本能が告げている。

 

――これはヤバい。

 

ただの男女の関係じゃない。

ただの偶然でもない。

氷の女王と優等生の間で交わされた“何か”は、決して触れてはいけない領域にある。

 

 

「白桜さん……今、めちゃくちゃ綺麗なのに……怖い」

 

「宇生の顔……死人みたいじゃん」

 

「ヤバいよ……これ、絶対普通じゃない」

 

 

誰もが薄々感じている。

この笑顔、この言葉の裏には何かがあると。

だが一歩でも踏み込めば、自分が破滅すると本能が告げているのだ。

だから全員が固まっている。

 

そして――無情にチャイムが鳴り響いた。

教室の空気を震わせる高音が、まるで地獄の鐘に聞こえる。

 

6限目が始まる。

 

俺は悟った。

――逃げ場は、もうない。




窮地を救われたヒロインが主人公にデレるのは普通ですよね!
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