何の変哲もない普通のラブコメ   作:ナオ3

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主人公に助けられたヒロインの可愛い心情回です!


白桜美怜

宇生優斗がアリバイ作りのために保健室へと向かう。

規則正しい足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。

 

完全に彼の気配が消え去った女子トイレの中に、私だけが取り残される。

世界から切り離されたかのような絶対的な静寂。

漂うのは、後処理に使った石鹸の清潔な香りと、記憶にこびりついた屈辱の残り香だけだった。

 

ゆっくりと、鉛のように重い体を動かす。

一歩、また一歩。赤子のように覚束ない足取りで鏡の前へたどり着いた。

 

 

「コレが……私?」

 

 

そこに映っていたのは、私の知る「白桜美怜」ではなかった。

 

頬は熟れた果実のように真っ赤に染まり、泣きじゃくったせいで蒼い瞳は充血し、宝石のような輝きはどこにもない。

いつもは陽光を受けて凛と輝く銀の髪も、今は大量の汗に濡れて束になり、額や首筋に無様に張り付いている。

整えられた髪型も、気高い表情も、すべて跡形もなく崩れ落ちていた。

 

そこにいるのは、学園中が憧れる氷の女王ではない。

高貴な財閥令嬢でも、誰よりも完璧であろうと己を律した理想像でもない。

 

――ただの少女だった。

 

高貴さも、誇りも、威厳も、何もかも剥ぎ取られた、ただの哀れな存在。

 

そのあまりの落差が、私自身の胸を容赦なく抉り取った。

氷の女王と呼ばれる自分の仮面が、音を立てて崩れ落ちていくのを、私ははっきりと感じていた。

 

完璧であること。

気高くあること。

氷のように冷静で、決して取り乱さないこと。

 

それこそが白桜美怜の存在理由であり、私が私であるための唯一の証明だった。

誰からも羨望され、誰の前でも隙を見せず、決して人間的な弱さなど露わにしない――その仮面を、私は何年もかけて磨き上げてきたのだ。

 

 

「……あれは、不可抗力」

 

 

鏡の中の自分に言い聞かせるように、か細い声が漏れる。

そうだ、仕方がなかった。

 

目を閉じていた彼が、あんな状況で思わず目を開けてしまうのは、ただの反射だ。

生き物として刻み込まれた、防衛本能にすぎない。

顔に何かを浴びせられたとき、人間は必ず確認しようとする。

それが清水であろうと、泥水であろうと、ましてや――あんな屈辱的なものならなおさら。

 

「見たくない」という意思よりも、「確認せねばならない」という本能が勝ってしまう。

それは理屈では止められない、誰にだって抗えない反射。

だから、彼に悪意などなかったことは分かっている。

 

 

「……悪いのは、私」

 

それは決して狙ったわけでも、彼を巻き込みたかったわけでもない。

そんな悪意などあるはずがない。

ただ――私の身体が、私の意思を裏切ったのだ。

 

彼が、ゆっくりと震える手でスカートとショーツを下ろした、その一瞬。

焦れに焦れて、もうどうにもならなかった身体は、私の意志を裏切るように勝手に反応した。

 

「ようやく出せる」――その瞬間。

 

一番近くにいた彼の顔面めがけて、無惨にも全てをぶちまけてしまったのだ。

私の意志ではない。止められるはずもない。

だが、どれほど理屈を並べようと、事実は覆らない。

制御も矜持もすべて吹き飛び、奔流となったものは容赦なく溢れ出す。

 

……どうしろと言うのだ。

あんな状況で、手際よく、冷静にやれと言う方がおかしい。

私自身だって、緊張で呼吸も乱れ、目を閉じるしかなかった。

まして彼は男子なのだ。女子の、それも令嬢の最も見せたくない場面を直視するなど、狂気の沙汰だ。

 

けれど――彼はやった。

震えながらも、最後まで逃げずに。

そして、あろうことか床に散らばった「惨状」の後始末まで……。

 

それを思い返すたび、胸が痛む。

羞恥と悔しさと、そして――説明のつかない黒い感情が。

 

 

「……そもそも」

 

 

原因を辿れば――。

 

昼食後、クラスメイトとのティータイムで、勧められるがまま高級ダージリンを何杯もおかわりしてしまった私の浅はかさ。

「白桜財閥の令嬢は紅茶の味が分かる」――そんな見栄を、心のどこかで張ってしまった。

本当は一杯で十分だったのに、断ることは「分からない」と言うことと同義だと思ってしまったのだ。

 

授業直前、化粧室へ向かおうとした時もそうだ。

教師に呼び止められ、質問を受けた。

本来なら「後ほど伺います」と言って駆け込めばよかった。

だが、氷の女王と呼ばれる私にとって、それは「職務を後回しにする怠慢」に映ってしまう。

完璧であるべき白桜美怜に、そんな不名誉は許されなかった。

 

そして何よりも――授業中。

下腹部に明確な違和感を覚えながらも、「体調が悪い」と告げて退室する勇気を持てなかった。

たったそれだけの簡単な言葉が、どうしても言えなかった。

クラスの誰もが自分を見ている気がした。

氷の女王が「お腹の具合」を理由に立ち上がる――その姿を想像しただけで、胸の奥に冷たい鉄槌が落ちるような屈辱を感じた。

 

だから私は選んだのだ。

自分の体よりも、見栄を。

自分の尊厳よりも、プライドを。

結果、最悪の形でそれらを失うことになった。

 

見栄が、私を裏切った。

プライドが、私を壊した。

 

 

「……全部、自業自得」

 

 

そうだ、全て私が招いたこと。

いくつもの小さな油断と、天を突くほどに高いプライドが積み重なった――当然の結果。

 

だから、彼に非はない。

 

むしろ、彼は助けてくれたのだ。

授業中、誰にも言えず孤立していた私に、たった一人で手を差し伸べてくれた。

廊下で立ちすくんだ私を肩で支え、倒れないように歩調を合わせ、女子トイレまで連れて行ってくれた。

 

そして、女子トイレの中まで付き添い――そしてスカートもショーツも下ろしてくれた。

その事実を、私自身が一番よく知っている。

 

……なぜ、そんな屈辱的な行為を彼に委ねてしまったの私?

 

……もう自力で脱ぐ余力すら残されていなかったから。

指先は震えて思うように力が入らず、膝は痙攣し、立っているのがやっと。

ほんの少しでも動けば全てが崩壊してしまう、そんな極限の状況だった。

 

本来なら、どんなことがあっても誰かに頼むなどあり得ない。

白桜美怜という仮面を被り続けるために、私は常に誇りを盾に生きてきた。

だが、あの瞬間ばかりは――その仮面を、自らの手で剥がしたのだ。

 

 

『……ぬ、がせて』

 

 

自分の声がまだ耳に残っている。

か細く、泣きじゃくった、惨めな声。

生まれて初めて他人に助けを乞うた瞬間だった。

プライドも体裁も、全て投げ捨てて。

 

彼は拒まなかった。

ため息をつくように「……わかった」と答え、その瞬間、胸の奥で何かが砕ける音がした。

 

そして彼は、震える指先で私のスカートへと手を伸ばした。

恐る恐るというより、ただ仕方なく、とでも言うように。

ショーツの縁に指がかかった時も、彼の顔に浮かんでいたのは欲望ではなかった。

羞恥や昂ぶりなどとは無縁の、ただの義務感。

 

そこには性的な関心の欠片もない。

男の欲望の熱がない。

ただ「やらざるを得ない作業」として処理された。

 

それが――惨めさを何倍にも増幅させた。

もし彼が獣のように目を血走らせ、卑しい欲望を剥き出しにしていたなら、私はまだ怒りで心を塗り潰せたかもしれない。

だが、彼は違った。

 

無関心。

必要だからやっただけ。

私を女として見たわけでもなく、ただ「人としての緊急事態を処理した」だけの冷たい手つき。

 

それが屈辱だった。

私は女であることすら否定された。

氷の女王である前に、一人の女としての価値さえも――彼の目には映っていなかった。

 

思い返せば――あの男は、私を女として意識したことが一度もなかった。

他の生徒たちが羨望と憧憬と畏怖を入り混ぜた視線を向けてくる中で、彼だけは違った。

嘲り、苛立ち、そして時には呆れすら混じった目。

 

それが、どうしてか今になって突き刺さってくる。

 

私はこれまで、他人に興味を持ったことなどなかった。

誰が私を好きだろうと、誰が妬もうと、誰が私を憎もうと――どうでもよかった。

私にとって大事なのは「白桜美怜」という仮面を完璧に演じ切ることだけだったから。

 

けれど。

 

彼は私を「氷の女王」でも「財閥の令嬢」でもなく、ただの「厄介な隣席の女」としか見ていなかった。

そして今日――私はその事実を嫌でも突きつけられたのだ。

 

羞恥に頬を染める私を前にしても、彼は怯えと嫌悪と義務感しか浮かべなかった。

「女」としてではなく、「危険物」としてしか扱われなかった。

 

 

「悔しい」

 

 

胸の奥で、どうしようもなく煮えたぎる感情が生まれていた。

私は生まれて初めて、誰かに「女として見られていない」ことが、こんなにも屈辱で、こんなにも悔しいものだと知った。

 

気にするはずがない他人の目線。

けれど今は違う。

彼がどう思っているのか、そればかりが頭から離れない。

気になって気になって仕方がない。

 

羞恥と惨めさが波のように押し寄せ、全身を焼き尽くす。

 

忘れたくても忘れられない。

忘れてはならない。

 

だけど、彼に責任転嫁して逃げることはプライドが許さなかった。

公衆の面前で粗相をしてしまうより遥かにマシだ。

そう、自分に言い聞かせるしかなかった。

だが――救われたのは体裁だけ。

私の内側に刻まれた傷は、もう誰にも癒せない。

 

 

「……見られた」

 

 

ぽつりと呟く。

 

問題は、誰が悪いかではない。

「見られてしまった」という事実そのものが、私を蝕んでいく。

 

――弱い自分。

氷の女王と呼ばれ、常に毅然としていなければならない私が、あの時は震えて縋りつくしかなかった。

泣き虫の少女のように、頼ることしかできない無力な姿を。

 

――汚れた自分。

清潔で高貴であるべき白桜財閥の令嬢が、下半身の制御一つ満足にできず、汗と涙と羞恥にまみれた惨めな姿を。

 

――泣きじゃくる自分。

誰にも涙を見せないと決めていたはずなのに、止めようのない嗚咽を晒した。

頬を濡らす涙はプライドを侵食し、女王の仮面を剥ぎ取ってしまった。

 

――粗相する自分。

決して人前で晒してはならない、最も卑しい行為。

自らの意志ではなく、生理の限界に屈して垂れ流してしまう姿を。

 

完璧な仮面の下に厳重に封じ込め、決して誰の目にも触れさせなかったはずの全てを――あの男は、見てしまったのだ。

 

 

「見られた、見られた、見られた……!!!」

 

 

鏡を睨みつける。

情けない女が憎い。

そして、その女の奥底を覗き込んだあの男が。

 

ふつふつと、黒い感情が煮え立つ。

理屈では分かっている。

あれは不可抗力であり、彼に落ち度など一つもなかった。

むしろ助けてくれた。

冷静な部分は必死にそう訴えている。

 

――だが、心は従わない。

 

これは怒り。

これは憎悪。

そして、どうしようもなく――逆恨み。

 

本来なら、私が彼を恨む筋合いなどない。

助けてもらった立場であり、感謝すべき相手。

頭ではそれを理解しているのに、胸の奥底から滾るように溢れ出すのは「恨み」の感情だった。

 

 

(違う、分かってる……分かってるのに……!)

 

 

冷静な理性が必死に否定する。

「彼は悪くない」と。

だが、その声は黒い炎にかき消される。

 

――なぜ見た?

――なぜ知ってしまった?

――なぜ、私の聖域に踏み込んだ?

 

逆恨みだ。

分かっている。

百も承知だ。

 

けれど、この胸を焼き尽くす感情に、名をつけるならそれしかない。

彼を憎まずにはいられない。

彼を呪わずにはいられない。

 

それほどまでに「見られた」という事実が、私の存在を脅かしていた。

 

 

「ゆるせないゆるせないゆるさない!!!」

 

 

脳裏に蘇る。

彼が最後に残した言葉――

 

 

『忘れるよ』

 

 

その一言は、耳から入って消えたはずなのに、頭蓋の奥で延々と反響している。

鐘の音のように、いや、呪詛のように。

忘れろ、と。

なかったことにしてやる、と。

見てしまったものを、聞いてしまった声を、感じてしまった惨めさを――無かったことにして、ただ一人で日常へ帰ろうとしている。

 

 

「ふざけるな!!!」

 

 

絶叫が喉から迸り、反射的に洗面台へ拳を叩きつけた。

硬質な衝撃音がトイレ全体に木霊し、骨が軋む痛みが手首を走る。だが、そんなものは心の痛みに比べれば取るに足らない。

 

 

――忘れる?

 

 

白桜美怜。

日本五大財閥の令嬢であり、学園の誰もが憧れ、羨望し、恐れる存在。

 

美しいと讃えられる顔も、完璧と呼ばれる立ち居振る舞いも、

全てを捨てて縋った私の姿さえも。

 

彼にとっては、取るに足らない出来事。

わざわざ記憶に留めるほどの価値もない、ただの汚点に過ぎなかったのだ。

 

――つまり

 

「私のあの惨め極まりない姿が……記憶に残す価値すらないっていうの!?」

 

 

羞恥心が、怒りに転じる。

あの男は、何も考えず「優しさ」のつもりで言ったのだろう。

だが私にはそれが、致命的な侮辱にしか響かなかった。

 

私が、命を削るほどのプライドを賭けて守ろうとした聖域を。

その奥底で晒してしまった、女として最も見せたくなかった醜態を。

彼は、忘れると言った。

 

 

――つまり、それはこういうことだ。

 

 

「お前には、価値がない」

 

 

胸の奥に突き立つ。

今まで誰からも向けられたことのない種類の否定。

 

 

「記憶に残す必要もない」

 

 

あの涙も、震えも、弱さも、すべて取るに足らないと切り捨てられる。

私が死ぬほどの屈辱を味わった瞬間を、彼はゴミのように処理しようとしている。

 

 

「どうでもいい」

 

 

――突きつけられた現実。

私という存在そのものが、あの男にとってはその程度だった。

どれほど誇りを傷つけられても、泣き叫んでも、彼の中では「取るに足らぬ出来事」でしかない。

 

まるで、私の存在そのものを否定されたように感じた。

 

私が自らの世界の崩壊に震え、泣き叫んでいるその瞬間を――彼はあっさりと「無かったこと」にするのだ。

 

だからこそ、私は怒り狂う。

許せない。

あんなに惨めな自分を見せたのに、それすら「記憶に残す価値もない」と切り捨てられるなんて。

ガンッ、と硬質な音が響き、手首に骨が軋むような鋭い痛みが走った。

だがそんなもの、今の心の痛みに比べれば取るに足らない。

 

 

「私は、一生忘れられないのに!」

 

 

あの時の屈辱も。

鼻腔をついた臭いも。

耳に焼き付いた音も。

滴る汗と涙と嗚咽も。

そして、粗相する自分の惨めな姿も。

 

――全部。

 

私の網膜に。

私の鼓膜に。

私の肌に。

そして何より、魂にまで刻み付けられてしまった。

 

それは決して消えない。

一生涯、私の中で膿み続ける傷だ。

死ぬまで消えることのない、永遠の烙印。

 

なのに――彼だけは忘れる?

 

 

「そんなこと、許されると思ってるの?」

 

 

私だけが苦しむのか。

私だけがこの傷を背負い続けるのか。

 

冗談じゃない。

 

 

「……ゆるさない」

 

 

ゆるすはずがない。

あの男にだけ平穏が許されるなんて、耐えられるものか。

 

その瞬間、私の中で怒りは確かな形を得た。

逆恨み。理不尽。分かっている。

それでも、この炎は止められない。

 

鏡の中の瞳に、昏く粘つく光が宿る。

 

 

「絶対に、忘れさせない」

 

 

吐き出された声は、もはや自分のものとは思えないほど冷たく震えていた。

 

あなただけ日常に帰すことは許さない。

私の地獄を見物しておいて、記憶の彼方へ葬り去るなんて――そんな身勝手が罷り通るはずがない。

 

 

「何度でも、見せてやるわ」

 

 

そうだ。忘れさせないためには、思い出させ続ければいい。

一度だけでは足りない。

二度でも足りない。

何度でも見せてやる。

 

あの光景を――屈辱にまみれた私の姿を。

あの匂いを――決して香水では誤魔化せない生々しい臭いを。

あの絶望を――涙で溺れるように泣きじゃくる惨めさを。

 

そして今日、あの男にだけ晒してしまった「女の最も恥ずべき姿」を――何度でも焼き付けてやろう。

 

 

「何度でも、あなたの脳に、心に、魂に刻み込んであげる」

 

 

薄れる暇など与えない。

呼吸をするたびに思い出すように。

眠るたびに夢に見るように。

未来永劫、あの男が私を忘れられぬように。

 

忘れるなんて言わせない。

忘れたと口にすることすら出来ぬよう、徹底的に刻み込んでやる。

 

 

「同じ地獄まで引きずり下ろす」

 

 

そうだ。

これは復讐だ。

私を見下ろした瞬間、あなたはもう安全圏にはいない。

私が落ちた場所に、あなたも必ず連れて行く。

二人で同じ泥に沈み、同じ腐臭を吸い込み、同じ絶望に身を浸すのだ。

 

――それが、白桜美怜の決定。

逃れることなど、絶対に許されない。

 

 

「宇生優斗」

 

 

怒りの嵐が過ぎ去った後、思考は冷徹さを増し、すべて優斗へと収束する。

 

 

 

「宇生優斗」

 

 

鏡を見つめる。

そこに映る女の唇が、ゆっくりと、だが確実に動く。

 

 

「宇生優斗」

 

 

獲物の名を確かめるように。

所有の刻印を押すように。

 

 

「――今回のお礼として、私をあげる」

 

 

それは慈悲のようでいて、呪詛のようでもあった。

甘美な響きの裏に潜むのは、所有と支配の意思。

 

これは礼儀。

私を救った報酬として、白桜美怜という、この世で最も価値ある存在を与えてやる。

 

金が欲しければ稼いであげよう。

権力が欲しければ与えよう。

お前が欲するもの全てを、私は与えてあげる。

 

そして――。

 

男を知らぬこの身体を、貴方に使わせてやる。

私の肌を、私の髪を、私の声を、あらゆる感覚を――全て貴方のために差し出してやる。

 

体の隅々まで奉仕しよう。

どれほどはしたない姿でも、貴方にだけはさらしてあげる。

この世の誰も知らない、白桜美怜という存在の最奥を。

 

その欲望を、全て私が受け止めてやる。

何度でも。

 

――そうだ。

 

自分を一切「女」として見なかった唯一の男に。

私は女であることを、思い知らせてやる。

私を欲しがらせ、私に溺れさせ、二度と離れられないように。

 

私は宇生優斗だけの奴隷になる。

令嬢でも氷の女王でもない。

ただ一人の男に縛られ、囚われ、奉仕する存在として。

 

だが、それは決して屈服ではない。

報酬を与えるという体裁のもとに、彼を絡め取り、縛り上げ、逃げ場のない檻へ閉じ込めるための甘言だ。

 

――私の所有者になった時点で、彼はもう自由ではいられない。

 

唇の端がゆっくりと上がる。

それは慈愛にも似て、同時に呪詛にも似た笑みだった。

 

 

「そして――」

 

 

鏡の中の私が、愉しげに、恍惚とさえ言える笑みで目を細める。

 

 

「私の醜態を見た恨みとして、あなたの全てを奪う」

 

 

その言葉は、甘美で残酷な響きを帯びていた。

囁きのトーンはまるで恋の告白のようでありながら、突きつけられた意味は死刑宣告そのもの。

優しく包み込むようでいて、逃げ場を与えぬ縛鎖。

 

これは復讐。

あの時、私の聖域に土足で踏み込み、決して他人に晒すはずのなかった姿を目にした――その罪は万死に値する。

だからこそ、私は罰を与える。

 

あなたは私に溺れなさい。

私に依存しなさい。

私に染まりなさい。

決して抗えない鎖で繋ぎ、自由を奪って、私だけのものにしてあげる。

 

――安心して。

捨てたりなんかしない。

いいえ、むしろ「捨ててあげない」。

どれほど腐ろうと、醜くなろうと、堕落して泥に沈もうと――私はあなたを愛してあげる。

愛という名の呪いで、あなたを一生、縛り続けてあげるのだから。

 

あなたの人生を。

あなたの未来を。

あなたの人間関係を。

そして、あなたの心を。

 

全部、私に差し出しなさい。

 

日常を奪い、安らぎを奪い、孤独すら与えず。

あなたの時間も、思考も、存在そのものも。

一分一秒、すべて私に支配されるのだ。

 

これは罰。

これは呪い。

これは救済。

 

私という存在を背負ったまま、あなたは生き続けるしかない。

それこそが、宇生優斗の新しい運命。

 

感謝と恨み。

報酬と代償。

 

私はその両方をあなたに与える。

同時に、その両方をあなたから奪う。

 

甘美な祝福と、底無しの呪詛。

栄誉と、地獄。

 

――それが、私の世界に足を踏み入れてしまった者に与えられる唯一の運命。

抗うことなど許されない。

逃げる道など最初から存在しない。

 

鏡に映る自分の姿を見つめながら、私は唇をゆっくりと歪めた。

頬は赤く、蒼い瞳は潤み、吐息は熱い。

今の私は「氷の女王」からかけ離れていた。

 

そして――気づいてしまった。

胸の奥で、下腹部で、言いようのない熱が脈打っている。

快楽。

性欲。

そんな下賤な感情は私には縁がないはずだった。

白桜財閥の令嬢として生きる私は、欲など超越し、完璧で、冷徹であるはずだった。

 

けれど。

 

初めて、私は快楽を知った。

それを呼び覚ましたのは、どんなに美辞麗句を並べ立てても覆せない現実。

――あの男。

私を一切「女」として見なかった、唯一の存在。

 

――だからこそ、私は欲情する。

 

私を「女」として否定した男に、女として見られたい。

私を「危険物」としか見なかった男を、逆に欲望で絡め取りたい。

この屈辱と惨めさの中で芽生えた熱は、やがて狂気じみた執着へと変わっていく。

 

鏡の中の女は、もう氷の女王ではない。

ただ、一人の女。

ただ、一人の、優斗を欲する雌。

 

私は唇を濡らし、所有の証を刻み込むように――囁いた。

 

「――優斗」

 

その名を呼ぶだけで、体の奥底に快楽が走った。

こんな感覚、知らなかった。

だがもう知ってしまった。

私の身体は、魂は、心は、彼に縛られてしまった。

 

呪いの杭。

所有の烙印。

二度と逃れられない楔。

 

もう決まったのだ。

宇生優斗は、白桜美怜という名の牢獄から、生涯出ることは叶わない。




孤高のお嬢様が尊厳を自業自得で失い、自分以外に執着するものを見つけてしまうシチュが見てぇという思いを込めて書きました!
優斗くんなんて比較にもならない程プライドの塊です美怜さん。
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