6時間目。教室は、異様なほどに静まり返っていた。
聞こえるのは先生の声と、ペンの走る音だけ。
「そ、そう……ここが……ぐぅ! テストに、出るから……」
前に立つのは、23歳の新米教師――三村朱実。
ピチピチの新人で、普段は真面目で丁寧、板書も綺麗で人気の先生だ。
……のはずが。
今日は違った。
顔色は死人のように青白く、額からは滝のように脂汗が流れ落ちている。
声は震え、胃痛を堪えるように身体を折り曲げながら授業を続けていた。
(お、おい……大丈夫か、先生……?)
俺は心の中で突っ込む。
だが、それ以上に衝撃的だったのは、教師の手元。
震える手で電子ペンを握りしめ、パネルに必死で文字を書き込んでいるのだが――
(コンクリートの上で干からびたミミズみたいな文字だ……)
ぐにゃぐにゃに歪んだ字が、背後の大型パネルに拡大され、教室中に晒されていく。
普段は楷書体かってくらいに整った美文字を書く先生が、今日は誤字脱字だらけ。
しかも、震えで線が波打っている。
「せ、世界史の……ああ、あの……ぐぅぅ」
苦悶の声を噛み殺しながら必死に説明を続ける先生。
だが板書に気を取られたクラスは、誰もがハラハラと固唾を飲んで見守るしかない。
まるで葬式会場だ。
(お、おい……空気重すぎんだろ……)
そんな中――。
白桜美怜は、優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、その蒼い瞳に宿っているのは情念と狂気。
氷の女王が、普段ならクールに退屈そうに受けている授業で――今日は微笑んでいる。
(空気が、空気がマジで重い……! 本当に質量あるんじゃねぇか!?)
美怜の周囲から放たれる異様な圧。
それはカリスマを超え、もはや怨念や呪詛に近い何かだった。
その空気が、教室全体をじわじわと満たしていく。
「は、はあ、はぁ、はぎゅう!?」
前に立つ三村先生は、生徒の顔を見ないわけにはいかない性格だった。
親身で一生懸命、真面目すぎるほど真面目な人。
だから――どうしても、美怜の顔を見てしまう。
その瞬間、先生のSAN値がごっそり削られた。
「……あっ」
視線の先にあるのは、俺をじっと見つめる美怜の横顔。
先生は見てはいけないものを見てしまったのだ。
(ちょっ、先生!? 死ぬぞ、それは!)
案の定、先生は命懸けの形相で授業を続け始めた。
声は震え、汗は滝のよう、手はガタガタ。
再びパネルに文字を書く。
俺は目を疑った。
(おい……なんだその歴史は……!?)
そこに浮かんでいたのは、誰も知らない異世界史。
「織田信長が……ええと、モンゴル帝国を打倒して……ローマ王朝を築き……」
(あああああ! SANチェック失敗して歴史が歪んでるぅぅ!!)
日本史と世界史がごちゃ混ぜになったカオスが展開される。
「足利尊氏がアメリカ独立戦争を指導」とか「卑弥呼がナポレオンを討伐」とか、訳のわからん歴史。
だが――誰も突っ込めない。
クラス全員、異様な空気に押し潰されて声が出せないのだ。
(クソッ……三村先生の正気度はもうゼロだ……!)
やがて6限目終了のチャイムが鳴る。
末期患者のように震える手で、最後に大パネルへ書き込んだのは――
「すべてわすれて」
ガタガタの字でそう書くと同時に――
「ごふぅ……!」
先生はお腹を押さえ、机に突っ伏して崩れ落ちた。
「先生が倒れたぞ!!」
「担架! 担架持ってこい!」
「俺は内線で保健室に連絡する!」
「女子は先生の服を緩めてやれ!」
「私がやる!」
「私も!」
教室は一気に騒然となる。
だが――。
白桜美怜は、ただ俺を見つめていた。
(こ、こいつ……!)
教師が倒れたことに、まるで気付いていない。
いや、気付いていないんじゃない。
気付こうとしていない。
俺しか見ていないのだ。
教師を介抱する親友・圭介が必死の形相で叫ぶ。
「優斗ぉ!!」
「頼むからそこを動かないでくれぇぇ!!」
別の男子が俺に懇願する。
「宇生、白桜さんを刺激するな!」
女子も怯えながら囁く。
「ていうか……白桜さん、全然こっちに気づいてない? 宇生君しか見えてないの!?」
(……終わった)
俺は悟った。
6限目最大の犠牲者は、三村先生でもなくクラス全員でもない。
――俺だ。
倒れた三村先生を担架で運び出すため、クラスメイトたちは総出で動き始める。
圭介も、他の連中も、誰一人として俺を振り返らなかった。
……気がつけば、教室に残されたのは俺と白桜美怜。
(あの薄情者共……!)
俺は机を握りしめ、心の中で絶叫した。
なんで俺だけを置いて逃げる!?
誰だって分かるだろ! 危険度ナンバーワンの蛇が、今この瞬間、俺を真っ直ぐ見つめてるってことぐらい!
(何て素晴らしい判断能力だ、忌々しい!)
蛇に睨まれた蛙を見捨てる勇気。あれは英断だ。
だが、それをされている側の俺からすれば、ただただ地獄だ。
(氷の女王にも見習わせてぇよ……!)
あの女にほんの少しでもクラスメイト並みの判断力があれば――あの惨劇は防げていたんだ。
だが、プライドだの見栄だのにしがみつき、結果として俺を巻き込んだ。
結局、俺は爆弾処理班として最前線に立たされ――いや、もういい。
思い出すだけで胃液がこみ上げてくる。
白桜美怜の蒼い瞳が、じっと俺を射抜いている。
無言で、動かず、ただ俺を見ている。
このままでは、延々と視線に絡め取られる。
だから俺は、仕方なく口を開いた。
「……おい、授業は終わったぞ」
わざとぶっきらぼうに言った。
すると美怜は、初めて気づいたように小さく瞬きした。
「あら。いつの間に終わったの?」
(本当にマジで気づいてなかった!?)
俺は思わず机を殴りそうになった。
さっきまでの授業、先生がSAN値ゼロで異世界史を展開してたの、全部スルーかよ!?
何見てたんだよ……いや、知ってる。俺だ。
ずっと俺だけを見てやがったんだろ。
「ふー……」
俺は一度息を吐き、胸を押さえる。
(落ち着け俺、落ち着け……!)
平常心、平常心だ。
ここで取り乱せば、美怜の思うツボだ。
「二人だけになってる」
美怜が微笑みながら口にする。
「そうだな……」
答えた瞬間、胸の奥がぐらぐらと煮えたぎった。
(畜生! なんでコイツと二人っきりにするんだよ!!)
クラスメイト共め……!
お前らの誰かが残っていれば、この緊張状態は回避できたんだ!
俺の恨み節をよそに、美怜はさらに口を開いた。
「いつもと違う」
「……ああっ?」
「乱暴な口調ね」
その言葉に、俺の中でプツンと何かが切れた。
「……見栄張るのは辞めにしたんだよ」
睨みつけながら吐き捨てる。
「特にお前に対してはな……!」
そうだ。コイツさえ、見栄を張らなければ。
あんな惨劇は起きなかったんだ。
美怜は、穏やかな笑みを崩さない。
「ふふ。そうね」
「見栄で大変な目にあったもの」
「ね?」
――その瞬間、俺の中で理性が吹き飛びそうになった。
(このアマぁぁぁぁ!!)
なんで笑うんだよ!
なんでそんな優しい顔で言えるんだよ!
(俺の心は、テメェのせいでずぶ濡れなんだぞ!!)
惨劇が、脳裏に鮮明に蘇る。
顔にへばりついた生ぬるい感覚。
鼻を突いた刺激臭。
舌に広がった忌々しい味。
耳に残った水音。
そして――目に焼き付いてしまった、美怜の痴態。
「うぼぇぇぇ……!」
思わず口を押さえ、机に突っ伏す俺。
えづきながらも、必死に耐える。
吐いたら負けだ。全てが終わる。
その俺の姿を、美怜はじっと見て――口元をゆるめた。
笑ったのだ。
嬉しそうに、楽しそうに、俺の苦しみを糧にするように。
(……なんて笑顔だ……)
あのいけ好かない、済まし顔が恋しく思えるほどに。
笑顔の美怜は――俺にとっては、氷の女王以上の悪魔だった。
二人だけの緊張感に胃が破裂しそうになっていた、その瞬間――
ふと背後から柔らかい感触。
(……ん? な、なんだこの……!?)
後ろから伸びてきた白く細い腕が、俺の胸の前で絡みつく。
高級な香の匂いがふわりと漂う。下品さは一切ない。
普通なら誰だって「いい匂い……」と夢心地になるところだろう。
だが俺にとっては――忌々しい悪臭だ。
(こ、これは!)
振り返った俺の視界に、絶世の美少女の顔が飛び込んできた。
黒い髪。透き通るような白い肌。彫刻のように整った顔立ち。
華奢な体躯は折れてしまいそうなほど儚く、長い睫毛に縁取られた瞳は、どこか幻想的ですらある。
……見た目だけは、な。
中身を知らなければ、「物語に出てくる理想の姫」とでも称えたくなるだろう。
だが俺は知っている。いや、嫌というほど思い知らされてきた。
この人形めいた顔の裏にあるのは、感情が薄いのか、常識が欠落しているのか――
「オモロイ事になってるね〜」
口を開けばコレだ。
「優斗〜何が起きたか教えてよ〜」
俺は即座に振り払った。
「テメェに話すことなど何もねぇよ、華音!」
そう、こいつは――紅峰華音(あかみね・かのん)。
日本五大財閥の一つ、紅峰財閥のお嬢様だ。
そう、白桜美怜と同格の「もう一人の令嬢」。
不幸にも縁が出来てしまった。
俺は未だに納得がいかない。
何故だ。3年に進級した時、クラス替えで「華音と別クラス」になった時は、心の底から小躍りしたというのに。
よりによって――代わりに俺の隣に座ったのが白桜美怜だなんて。
(あの時の喜びを返せ! 運命のクソ野郎!)
華音は俺の顔を覗き込み、目を丸くした。
「うわ、見栄っ張り優斗のペルソナが剥がれてる!?」
(……ああ、そうだよ!)
その通りだ。
俺の優等生の仮面は、さっきまでの惨劇で木っ端微塵に砕かれた。
原因は――隣に立つ、この氷の女王。
華音の視線が、美怜に移る。
「おお、すっげぇ……!」
なんかヤベェものを見たような声をあげやがった。
美怜は涼しい笑みを浮かべ、俺に問いかける。
「優斗君、その人は?」
呆れ果てた声が、自然と口から漏れた。
「お前、紅峰の令嬢の事を知らんのかよ?」
「一応同学年だぞ、コイツ」
同じ大財閥の令嬢を知らないとは……どれだけ他人に興味がないんだ、この女は。
いくら白桜のお嬢様でも、社交くらいはしろよ!
美怜は細めた目で華音を見た。
「へえ、あなたが紅峰の」
興味なさそうな声。
だが次の瞬間、声のトーンが変わった。
「それで――その紅峰さんとやらと、関係は?」
(……は? な、何故そこが気になってんだよ!?)
同じ大財閥の令嬢だぞ!?
普通なら「どこの家柄か」とか「何でここに居るのか」とか聞くはずだろ!?
なんで俺との関係が気になる!?
華音は――にやりと笑った。
「ふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっ」
「長えよ!!!」
思わずツッコんだ。
華音は胸を張り、堂々と宣言する。
「僕は、優斗の大親友! 紅峰華音!!!」
「誰がだ! イマジナリーフレンド以下だろ!!」
そう、存在すら認めたくない。
俺はこんなのと友達になった覚えはない!
だが華音は照れたように頬を染め、両手を頬に当てて言った。
「んも〜、友達が嫌なら、いつでも恋人になってもいいのに〜」
「やめろ! 悍ましい!! 宇宙人とお付き合いした方がマシだ!!」
ガチで悍ましい。
俺は本気で思う。コイツと恋人になるくらいなら、グレイ型宇宙人と夫婦になる方がマシだと。
華音は感心したように俺を見つめる。
「優斗ってばマジで言ってる。紅峰財閥の令嬢で美少女な僕に、こんなこと言えるの優斗だけだよ」
「なんで嬉しそうなんだ! マゾかよ、救えねぇ!」
俺が吐き捨てると――華音は恍惚の表情を浮かべた。
(怖えええ!!)
その瞬間、横から冷気が流れ込んできた。
白桜美怜だ。
「仲、良いのね?」
空気が、一瞬で凍り付く。
「そうだよ〜。1年と2年でクラスメイトだったんだ」
華音がにこやかに答える。
その瞬間、俺の脳裏に――忌々しき一年生時の記憶が蘇る。
――紅峰華音との出会いを。
俺がこの学園で最初に出会ってしまった、五大財閥の令嬢。始まりの糞女。
そこから雪崩のように転がり落ちて、気づけば白桜美怜でコンプリート。
五大財閥フルコース。豪華すぎる地獄のディナー。
(……ふざけんな、誰が頼んだこんなフルコース!)
俺は本気で、ド◯えもんからタイムマシンを強奪したい衝動に駆られる。
そして過去の俺の胸ぐらを掴んで、血反吐を吐くほどの声でこう叫ぶのだ。
――「白桜学園に入学するな!」
――「五大財閥の雌畜生共に関わるな!」
――「普通の学校で普通の優等生として過ごせ!」
(糞女の世話係は、世界で活躍するより絶対に過酷だぞ……!!)
そう、世界の舞台で戦うのと違い、俺には退路がない。
教室という密室。
財閥令嬢という絶対権力。
逃げ場のない舞台で俺は、日々、生き残るために命を削っているのだ。
他にも三人の令嬢ヒロインが居ます、やったね!