四月十日。
夜。路地。
建物と建物の間。往来がある通りと通りの間。
春の訪れを告げるかのように、柔らかい微風が電柱の足元の名も知らぬ植物の葉を揺らしている。近頃は神経を尖らせて鼻を利かせれば、遠くで咲く花の香りだって嗅げそうなほどだ。
いくら駅周辺の再開発が進んで、ロータリーができようが、どれほど旧線路跡に新しい店舗が続々と開こうが、まだこの街――下北沢は、サブカルチャー特有のごった煮のような汚さと、夢を追いかける人たちの活気で今日も賑わっている。あちらこちらから人の話し声が聞こえてくる。
そんな中、一人自動販売機の前に佇んでいると、さっきまで全身で感じていた熱気と、高揚状態から平常状態に戻ったとき特有の疲労感が手伝って、全身がふわふわと浮世離れした感覚になっていることに気づいた。例えるなら、海に浸かったその日の夜、布団に入った後にまだ波に揺さぶられているような体感を得ることに近い。
そういう残渣的なものによって歪められた気分には、冷蔵のために駆動している自販機のモーター音が、さもドリンクを買って欲しいとせがむ声のように聞こえるし、そして何より、既に鳴り終わったはずのギターの轟音は、「世界」の境目をより一層層引き立てているように思えた。
後藤ひとり。
二十五歳。
戻ることのない時間に背を押され、高校生だった彼女は、いつの間にか世間から見れば大人と呼べる年齢になっていた。思い描いていた明るい人間にはなれず、暗い性格はまだまだ改善の余地しかない。ただひたすらにギターを極める日々だけがずっと目の前にある。
それが現実だ。
つまるところ、中身はまったく変わっていない。
ギターが好きで、人づき合いは苦手な人間――まさに、三つ子の魂なんとやら、である。
それゆえに、バンドマンという職業柄、「知人」は多いが、自信を持って「友達」と呼べるほど人物はほんの一握りしかいない。それでも、その数人と自分なりに濃密な時間を大切にしてきた。
その最たる例が高校のときに組んだバンド――『結束バンド』のメンバーたちだ。
それももう今年で結成から十年が経つ。人生が百年だと仮定しても、その十分の一だ。
家族でもない、恋人でもない人物に、自分の人生の一部を捧げ合う関係――バンドというものはつくづく不思議なものだ。
そんな感嘆に浸りながら、ひとりは慣れた手つきでポケットから硬貨を取り出し、機械に滑り込ませる。
一瞬、何を買おうか迷ったが、自分のルーティーンを思い出してボタンを押した。
ガタン。その音を合図にカバーを上げ、赤いラベルが特徴的な炭酸飲料を取り出す。
後ろに誰も並んでいないことをいいことに、その場でキャップを開けると、子気味よい炭酸が噴く音がした。口に入れれば、いつもと変わらぬ味がひとりを安心させる。
いつからだったか、ライブ終わりはいつも決まってコーラを飲むようにしているのだ。
それは、昔から他の飲み物よりも好きだったということもあるが、一番の理由はペットボトルが受け取り口に落ちる音で、いつもあの原点に立ち返れる点にある。
――ぼっちちゃんはさ、なんでバンドしてんのかなって。
そう疑問を投げかけてきた黄髪の少女の言葉が、ライブが盛り上がった日も、失敗を感じた日でも、どんなときでも思い起こされる。
しかし、
十年に渡ってバンドを続けて来た、私だけの私のための理由――。
肝要なことなのだが、それはいまだにハッキリとしない。
いや、今だからこそかも知れない。
褒められたい、認められたい、そういった承認欲求的、自己顕示的な願望は、もう既にある程度は叶っているから、余計に分からなくなる。
なぜならそう――私たちは既にメジャーデビューを果たしているのだ。
きっかけは遡ること約八年前、自分が高三だったときに参加したコンテスト――『未確認ライオット』だ。
そのときも、初めて参加した前年と同じく優勝を逃したのだが、同じ「優勝できなかった」でもまったく意味合いが違い、ライブ審査を勝ち進み、フェスの舞台へ立つことができたのだ。今までの活動の規模のことを考えたら、十分と言えるほどの爪痕をステージに残すことができた。
その甲斐あってか、ライブをやる度、新曲を出す度に活動に拍車が掛かっていき、気づいたときにはメジャーレーベルの門扉をくぐっていた。
思い返すと、あの頃はやることなすことすべてが順風満帆で、逆に怖かった。
初心を忘れないようにしようと、日々思い続けてなければ、きっと今頃は、価値もよく分からず全身ブランド物の衣服で身を包む成金野郎になっていたことだろう。
インディーズだろうが、メジャーだろうが、自分たちが納得のいく音楽を作り続けることは揺るがない――そうそれぞれが想い続けているからこそ、今でも心の内に潜む「自分」は息をし続けられているのだ。
なら、何が理由なんだろうか。
有名になってちやほやされることは、もう叶ってしまった。
暗くてじめじめしている自分を変えることは、恐らくもう叶わない。
もちろん、それが諦め切れる、もしくは満たされ切るほどあるかと言えば、嘘になるし、本当は自分でも他人でも呆れるほどそれらを叶えたいと、心の奥底では思ってる。けれど、いや、だから――。
一体、何が私の正解なんだと思う?
自分自身に問いかける。冷たい風に問いかける。果てはボトルの中でパチパチ言う炭酸に訊いてみても、もちろん答えなんて帰って来やしなかった。
――やりたいからやっている。
――音楽が好きだから。
――これしか私にはないから。
浮かんでは弾け消える理由たち。
確かに、どれも正しい。が、どれも何か違う。
そうじゃないと心が叫んでいるのだ。
さらに細かく言えば、自分ではこれでいいはずなのに、あと一味足りない――そんなもどかしさが体中を侵している。
この世のすべての感情と行動に絶対的な理由は必要ない、と思うけれど、せめて言葉にできるものがなければ、いつの日か歩みを止めなければならないときが来るかも知れない。
そんな根拠はどこにもない恐ろしい想像のせいなのか、単に春の夜風が寒かっただけなのか、ひとりは身体をぶるっと震わせる。
結局、何も解決しなかったどころか、不安がより大きくなっただけだった。
気を取り直して自分が夜に溶けないように、今後の目標を何の気なしに口に出してみる。
「……うーん……大きい場所でライブ、とか?」
以前に妄想した中で達成していないのはこのあたりだろうか。
箱で言えば、武道館に、スーパーアリーナ、あと、Zeppなんかもまだ公演したことがない。野外フェスではジャムに、ロッキン、それぞれの日中ステージには一回出させてもらったことはあったけど、大トリなんぞ夢のまた夢だ。その一回というのも数年前ではあるし。努力だけでなんとかできる問題ではないから、具体的な予定なんてものは立てられやしないが、いつかあの夕日の中で私たちの歌を届けてみたい。強くそう思う。何万人もの人が私たちの歌を聞くためだけに、あの巨大な群衆をかき分けて来るのだと想像すると、足がすくむような、ゾクゾクするような。
「えへへ……」
「――いやいや、フェスじゃないけど、全国ツアーなんだから、実質大きい箱みたいなものでしょ、ぼっちちゃん! 実際、動員も合計したら結構いくし。というか、初めてなんだよ! 私たちにとって全都道府県を回るツアーは。あと、Zeppでやるのも!」
「あっ、え? に、虹夏ちゃん、すすす、すみません」
考え事に耽っていたひとりの隣に、いつの間にか結束バンドのドラムス兼リーダーである伊地知虹夏が来ていた。彼女はライブ終わりの今でも疲れの一切が見えず、その黄色い髪の毛のようにエネルギッシュなオーラを放っていた。
彼女も喉が渇いたのだろうか。そう、コーラが口の中が跳ねる感覚を楽しんでいると、この後に予定が入ってることを思い出した。つまり虹夏は、この愚かにも悠長に飲み物を買い、飲んでいるひとりを、呼びに来たということだろう。
「……す、すみません、もうみんな行っちゃいました? ――あ……」
彼女への申し訳ない気分で胸をいっぱいにしていると、ふとあることに気づいた。
奇しくも、初めてのオーディション前――己の根源部分の情景と同じ場所、同じ構図になっているのだ。
「何にした?」
「――――。あっ、コーラです」
「ぼっちちゃんはいつも通り、と。じゃあ私は……うーん、やっぱりお水でいいや」
そう虹夏は言いながら、三百五十ミリペットボトルのものを買い、一気に飲み干す。
「ぷ……っは~」
さながら、冷えたビールを一気に体に流し込んでいるようだった。
ひとりはその様子を、残り少ない中身を飲みながら見る。
彼女はあの頃から何も変わっていない。もちろん、年相応になるようにサイドテールの位置を少し下げたり、服装も大人らしいものに変わったりしているが、心根はずっと真っ直ぐだ。
だからこそ、聞きたくなったことがある。
「――虹夏ちゃんは、夢、叶ったと思いますか?」
そんな少し恥ずかしくなる質問も、「ぼっちちゃん、酔ってる?」なんて笑いながら彼女は答えてくれた。
「――うーん、叶って……ないかな」
「――――」
意外だ。
虹夏の姉、伊地知星歌が経営するライブハウスであり、私たち結束バンドのホーム――スターリーだって今の方がずっと繁盛しているし、有名な気がする。
「あっ、なんか意外って顔してるね。ま、それもそうか。昔に比べたら、確かに今の方が人気あるし」
五年前ぐらいにアニメのおかげでバンドブームが再燃したしね、とつけ加える。
「……でもね、やっぱりそんなんじゃ足りないんだよ。……前に言ったことあったっけ? スターリーって名前は天国に行ったお母さんにも見えるぐらいに輝こうって意味があるって――だからさ、全然足りないんだよ」
虹夏が隣にいるひとりを見てくる。自販機の光で丸く光る彼女の瞳から、彼女自身の願いと、まだそれに手が届かない歯痒さが伝わってくる。
「…………あ、あ、あとは、まだ武道館できてないしね! あはは、私って、結構欲深いのかもね?! ぼ、ぼっちちゃんはどう?」
虹夏は、少し重くなった空気を払拭するように声の調子を上げて問い返してきた。
「私は――叶ったと思います…………でも」
「でも?」
優しい促す彼女の瞳に甘えて、慎重に言葉を探しながら続ける。
「――でも、やっぱり分からないんです。みんなの結束バンドを最高にする、そんな昔の気持ちをちゃんと形にできているのか……」
自分のため、というよりはみんなのためのバンドをやる理由。
自らの外にある理由だから、よく見えないし、自分一人の自己満足で収まる話ではない。
それに、私も、みんなも、周囲の環境も、常に流動していて同じ状態に留まらず、「最高」のカタチは、時間と場所が変わっていくにつれて同じように変容していってしまう。
だから、分からない。
夢の一部始終は暗闇でのみ起こる。光が見えた時――つまり、果てに辿り着いたとしても、そこから見える景色が想像していたものと同じなんて保証はどこにもないのだ。
「…………ぼっちちゃんはよくやってくれてるよ。自信を持って――って言ってもぼっちちゃんは無理なんだろうけど、結束バンドがここまでこれたのは確実にぼっちちゃんのおかげでもあるんだよ? それだけは覚えていて欲しいな。――さ! みんな待ってるから、ライブの反省会兼、ツアーの開幕式兼、打ち上げに行くよ!」
そう言って、ゴミ箱に空のペットボトルを捨て、自分を導くために前を歩く虹夏。
その背中にひとりは小さく呟く。
「……ありがとう」
何に対する感謝なのかは説明することはとても難しい。だけども、そう言わないといけない気がした。
「ん? 何か言った?」
「いえ、なんでもないです。早く行きましょうか」
見上げる東京の夜空は狭い。
星もなければ、月もここからは見えない。
世の中分からないものだらけだ。
赤子から背が伸びるにつれ視界が広がり、自分がどんどん偉くなっていく気がする。けれど実際は、大人になればなった分だけ足元が見えなくなって、子供ときには簡単に捨てられていたどうでもいい事柄ばかりに足を掬われるようになるだけ。たとえそれがごく小さなものであったとしても、種として胸中で育ち、いつしか悩みの木へと成長する。そして、その生い茂る葉に邪魔をされて、濃紺色の空も望めない。
だけど、それでも、今は楽しもう……。俯く自分にならあまり関係ない問題だと思うから。
それが「後藤ひとり」のしたいこと。
機械の箱のちっぽけな光が下北沢を照らしている。
「お~ぼっちちゃんたち、遅いよお~。もう飲み始めちゃってるよ~」
飲み屋の引き戸を開けると、店主の「いらっしゃいませ」の掛け声よりも早く、出来上がった酔っ払いの声が響いた。
「お、お姉さん……」
そこにいたのは、サイケデリック・ロック系バンド『SICK HACK』の名物ベーシスト、廣井きくりだった。
嫌なことを考えないようにするために常日頃アルコールを摂取し続けている彼女は、今日もその臙脂色の髪の毛を幸せそうに揺らしている。
「お姉ちゃーん! 何でこの人いるの!」
虹夏が戸口から非難の声を上げる。
すると星歌が座敷の方からひょっこり顔を出してきて、虹夏の言葉に答えた。
「あ~ごめん、虹夏。私も気をつけていたんだが、いつの間にか混ざり込んでて……ほんと野良猫みたいなやつだよ……」
「はぁ……――」
虹夏は頭に手を当て、深く神妙な溜息をつく。
「あっ! 虹夏さ~ん!」
「そうだ……もう一人いたんだった……」
「来たなら早く一緒に呑みましょうよ~」
星歌の隣に並んで顔を出し、そう声を掛けて来たのは、我らがギター・ボーカル担当の喜多郁代だ。
キラキラとした赤い髪の彼女もまた、きくりと同じように出来上っていて言葉の端に締まりがない。
そんな郁代だが、高校を卒業したあたりから、もっと距離を縮めたいということで虹夏への呼び方が変わり、「さん」づけになった。今では、ベースの山田リョウへの呼び方もそうなっている。思えば、郁代が最初に先輩呼びを止めたときは、リョウが少しショックを受けていたのが懐かしい。虹夏に倣って「私のことも自由に呼んでいいから」と言っていたのは彼女自身なのに。
そのリョウはというと、店に入って来たときから姿を探しているが見つからず、とりあえずひとりは、郁代に声を掛けた。
「あのー、リョウさんはどちらに……」
「あ~、ひとりちゃ~ん!」
「うっ……」
香水やカクテルの果汁の香りに紛れていても分かるアルコールのにおい。既に相当量を飲んでいるらしい。ライブ終わりに一旦別れてから、そこまで時間は掛かっていないはずなのに……。
「き、喜多ちゃん……の、飲み過ぎですよ」
「え~いいじゃない。あ! ひとりちゃんも一緒に呑もうよ~。でも、ひとりちゃんはお酒ダメなんだっけ~。でも、ま、いっか~」
「いやいやいやいや、全然よくないから! いつもみんなが酔い潰れて寝た後に、誰が介抱してると思ってるの!?」
「あーははは……」
実に耳の痛い話である。
甘酒で酔ってしまうほど下戸な私だが、なんだかんだ飲み会の度に郁代にお酒を飲まされてぶっ倒れているのだ。とはいえ、最近では耐性がついてきたような、そうでないような感じではあるが。
それに郁代も郁代だ。意識が切れるその瞬間までさっきと同じような悪質なムーブをし続けるのだから、介抱役の虹夏のことを考えるといたたまれなくなる。
一体、これに至るまで郁代に何があったのかは分からない。だが、ネットで見聞きしたことがある――大学生は飲み会する生き物なのだと。つまり、そういうことなのだ。郁代は顔が整っていることに加えて、コミュニケーション力も桁違いなので、よく合コンなるものに誘われたのだろう。実際、二日酔いで機嫌が悪そうな日はいくらかあった。それでも、彼氏ができたとか、夜明けのコーヒーを楽しんだとか、そういう一度聞いたらひとりが一歩距離を取りたくなってしまうような、浮ついた話をこれまで一切聞いたことないのが不思議だ。
「そういえば、リョウはー?」
そう言いながら、虹夏は茶色ばかりの店内で独特の空気を孕む青色を探す。
しかし、星歌も、きくりも言葉を発しないばかりか、目すらも合わせようとしない。郁代に至ってはピースなんて決めている始末である。
もしかして――。
虹夏の後について行き、彼女らが座っている座席がパッと見えたとき、その予感は的中した。
「――って、もう寝てるし!」
虹夏はなぜこんな状況になっているか考える間もなく、睨むように郁代の方をじろっと見る。視線には「き・た・ちゃ・ん? これはどういうことかな?」という圧が込められていた。
その目力に臆せず郁代は言葉を返す。
「え~、だって、リョウさん、私のお酒が飲めないって言うんですよ~。虹夏さんに言われてるからって~」
「ぐぬぬ…………――――」
歯を食いしばり、拳を力を入れて握る虹夏。噴火前の活火山が起こす小さな地震のように、この居酒屋の空気が震えている。
そしてそれは、瞬きの間に噴出した。
「喜多ちゃん! 今日はもうお酒禁止!」
「え~そんなぁ……。酷いですよ、せぇんぱぁい……」
「そんなこと言ったってね――」
ここ近年でよく見る光景が、今日もまた始まった。
以前はリョウだけに説教しておけばよかったのに、郁代がお酒を飲める年齢になってからは、そちらにも小言を言わなければいけなくなり、彼女の気苦労は絶えなそうである。が、しかし同情する立場にない自分には、労いの言葉を掛けることすら憚られて、いつも微妙な気持ちにさせられている。
「――昔みたいに優しくて、可愛くて、お肌がとぅるんとぅるんな、いじちせぇんぱいにもどってくださいよ~…………」
「あ?」
郁代は説教の合間にそう言い残して、虹夏の怒りはどこへやらと、次の瞬間には意識は途切れ、座敷に大の字に寝転がっていた。まるでプツンと機械の電源か切れたかのようだった。
「寝ましたね」
「寝たな」
「喜多ちゃん、今日は早いね~」
三者三葉な言葉がこの場を埋める中、虹夏はまた深く長い溜息をついている。
「はぁ…………―――――――」
「な、なぁ、ぼっちちゃん」
触らぬ神に祟りなしよろしく、星歌が虹夏を刺激しないようにひとりに話し掛けてきた。
「あいつ、どんどん酷くなってないか?」
もちろん「あいつ」というのは、郁代のことである。
「はい……」
「二十歳だった時は可愛げがある飲み方だったよなー」
頷く以外の選択肢がない。
今日という日の夜は長そうだ、と静かに寝息を立てて眠るリョウと郁代を見てそう思った。
「……にしても、結束バンドが全国ツアーか……」
ちょうど宴会開始から一時間が経った頃、お猪口を片手に星歌がしみじみと口に言う。
「ほんとそうですよねー」
後から合流したスターリーのPAも同じく感慨深そうにしていた。
PAにはバンド結成当初からお世話になっているが、いまだに素性も本名もよく分からない。分かっているのは、いつも黒色の服を身に纏っていることぐらいだ。
ちなみに、通常寝込んでしまった客が出たなら、店を半強制的に追い出されそうなものだが、そこは今日の微妙な客の入りと、常連としての配慮がはたらいているだけである。何せこの店は、忘れもしない台風ライブの打ち上げに連れて行ってもらった店なのだ。
そんな思い出深い居酒屋で、リョウも郁代も寝息を立て、虹夏は怒りながらぐびぐびビールと枝豆を食らっている。皆の想像もしていなかった成長に、呆れとか心配を超えていつも面白さが上回る。そして同時に、少しだけセンチメンタルになる。
ひとりはこの寂しい気持ちを払拭しようと、オレンジジュースと唐揚げを時々口に運んでは周りの会話に耳を傾けていた。
「最初は高校生でしたもんね……。それに比べて私たちは……毎年毎年、老化が加速していって……。先月だって、韓国行ってヒアルロン酸注射してきたのに、ね……。いくらお金を掛けても、これ以上お肌はよくならない…………辛い……」
「――そ、そうだな…………。わ、私も今日は虹夏にこれでお酒はおしまいだって言われてるんだ、もう四十路だから健康には今まで以上に気をつけないとって……酒だけが癒しだったのに…………はぁ……」
「と、歳の話なんてしないでください……病んじゃいます……」
星歌とPAの会話はすぐに哀愁に満ちたものに変わってしまった。
時の流れの無常さは、分からないわけではないどころか、日々実感している。
私たちがバンドを組んだ当時は、幼稚園に通っていた妹のふたりも、今では中学生だし、オーチューブに上げている結束バンドのMVのコメント欄だってそうだ。
『これがオープニングだったアニメ懐かしい』
『2027年でも聴いてる人!』
世間ではもう、昔流行った曲、昔流行ったバンドにカテゴライズされているらしい。
最初にこのコメントを読んだ時は、なんとも思わなかったのだが、思い出したらジリジリと心の奥が痛くなってきた。
分かってる。分かってるさ。
ここ数年の曲は、どれもこれもイマイチな結果で、ヒットした、バズったものはないって。アニメのオープニング、エンディングを筆頭に、ミニシアターの映画、ウェブ番組のオープニング、そして、テレビCM。タイアップさせてもらった曲は何曲もあるけど、大半はSNSの反応は鈍く、アニメのオープニングなんかはその放映クールが終われば話題に上がることなんてなかった。そんなことだから、どんどん風化していって過去のものだと思われる。
数百万回再生を動画一つで取れた時に、みんなで喜び合ったことを昨日のように憶えている。しかし、その実感は公園の砂場で誰かが作った砂の城を見るものに近かった。
気分を戻そうとしていたのに、逆にさらに下がってしまう結果になってしまった。
「「「はぁ……」」」
「あーもう、お姉ちゃん! それに、ぼっちちゃん、PAさんまで! しょうがないから一杯、一杯だけだからね、お姉ちゃん!」
暗く淀みつつある空気に堪え兼ねて虹夏からの恩情が施された。
「ありがとうございます……虹夏様……」
そう言って星歌は追加のお酒を注文し、テーブルへ運ばれてきたビールを顔を綻ばせながら呑んでいる。
幸せそうだ。
とはいっても、言わずもがな。私は飲めない人間であるため、その幸せを享受することはできない。
「あっ、ぼっちちゃんは、たくさんおつまみでも食べててよ」
「あっはい」
飲み会は楽しそうだなぁ、と思えていた時期はもう遠い昔のことなのだ。
郁代が残したハイカラなおつまみからミックスナッツまで、テーブルにあったありとあらゆる酒の肴を食べている。これがアニメかゲームだったら、きっと私は大食いキャラのレッテルを張られてしまうんじゃないかというぐらいに、ずっと食べている。なんだか、居酒屋でフードファイトをさせられている気分になってきた。
そんなひとりのことは露知らず、虹夏も混ざっての会話はどんどん進んでいく。
「――って言うか、お前たちのツアータイトルなんだよ!」
大声でそう話すのは星歌だ。
先程追加で摂取したアルコールがだいぶ回り、上機嫌になっているらしい。
「『結束バンド津々浦々ライブの旅~次の第一村人はお前だ!~』って! あはははは!」
「リ、リョウが決めたの!」
きっと、前日にでもダーツで旅先を決める番組を見たのだろう――「いいタイトルが思いついた」とか言って、ニマニマしながらこれにしていた気がする。郁代と、私――イエスマンが二人もいれば、多数決に従って否が応でもそうなってしまうのだから、虹夏には悪いことをしたと思ってる。少しだけ。
「あ! 起きた、リョウ!」
突然虹夏が声を上げた。
それを聞いてひとりは、リョウが寝ていたところを見る。すると、彼女がちょうどむくりと体を起こしているところだった。だが、虹夏のただならぬ気配を感じて、その山はすぐにその高さを失った。どうやら狸寝入りを決め込む腹積もりらしい。
感覚はさながら野生動物。しかし、虹夏の前ではすでに捕食者の牙に体を貫かれているのと同じ。動物から食べ物に成り下がったもののようになせる術はなかった。
「リョウ……リョウ? おはよ? 起きて? おはよう。おはようございます。起きろ」
「――はい!」
虹夏の語勢に、リョウはバネの如く勢いよく飛び起きた。その額には薄っすら汗が浮かんでいる。
「この度は大変申し訳ございませんでした」
リョウは正座に直り、綺麗に手で三角形をついて謝った。
家柄が見えるような美しい所作だったが、あくまでも平坦に読み上げたそれからは、反省の色も、悪びれた様子も見えなかった。むしろ、この状況を何も理解していないという表現の方が正しそうだ。
「……何に対して謝ってるのかな?」
優しい声で問いかける虹夏。だが、その笑顔の仮面の裏には恐ろしいものがある。
「……えーと――……ほら、いろいろ…………?」
言い淀むリョウ。
どうやら、本当に今の状況を分かっていなかったらしい。彼女のことだ、大方、適当に謝っても、虹夏は許してくれるだろうとでも思っているのだろう。
「……はぁ、次はちゃんとした名前考えてね」
「――――」
リョウの視線が少しだけ下に落ちた。
時間にしてみれば、一秒にも満たないぐらい。だからこそというのか、その間がフレットの際を押さえることに失敗した時のビリビリとした音のように思えて、ひとりはどうしても気になった。
その真意を訊ねようと、彼女に視線を投げかけてみる――。
「あ、いや、そのことだったか、と思って」
けれども、掴みどころのない言葉だけが返ってきた。
「……」
「やっぱり、分かってなかった」
虹夏はあっけらかんとしているリョウに呆れ、ジョッキに四分の一ほど残っていたビールを一気にあおり、「同じのもう一つくださーい」と追加で店員に注文する。しばらくして来たそのおかわりも、リョウの態度が余程神経に触ったのか、一気に半分ぐらいまで飲んでしまった。その証拠に、ビールの泡の地層がまだ一つしかできていない。
「そんなに飲んで大丈夫か? お前ももう四捨五入したら三十歳だろ」
「るっさいな」
そう言いたくなる星歌の気持ちも分かる。が、そう言った彼女へカウンターとばかりに虹夏は「お姉ちゃん、飲み過ぎ。おしまいね」と一蹴していた。伊地知家のヒエラルキーだ……。
「は、はい……」
茹でられた青菜のようにしゅんとなる星歌。しかし、その表情が数秒の内に別のものに変わる。
言うなれば――疑念。
「……ってか、おい、廣井。お前、今日、最初に飲んだだけで、全然飲んでなくないか?」
それにPAも続く。
「あー、確かに。そーですよね」
「そうそう、いつもは『ごちそうさまで~す』とか言ってバンバン呑んでるのに。……だからって奢るわけじゃないけどな」
「い、いやぁ~、この前のライブでぇ喉使いすぎちゃってぇ~。喉痛めてるんだったってさっき気づいてさ~。ほんと、嫌になっちゃうよねぇ~」
えへへと頭を掻きながら訳を話すきくり。喉がイガイガするから、今日はいつもより量を抑えている、と本人は言っている。
あのきくりが……?
この場で彼女の言葉を聞いていた全員がそう思った。
「ま、まぁ、リョウちゃんも起きたことだし、ライブの話しよ?! ね? ね?」
「喜多ちゃんはまだ寝てるがな」
狼狽えているきくりが何かを隠していることは明らか。だが、これ以上追及しても暖簾に腕押しのような会話になるだけで、続けるのは正直に言って空気が悪くなっていく一方……。
ライブツアーの初っ端から嫌な空気にしたくない。
ひとりは静かに小さく息を吸い込んだ。
「こ、こ、今回のツアーって、に、日程どうでしたっけ……」
きくりの誘導に乗ったとはいえ、我ながら下手くそ極まりない話の逸らし方に呆れる。でも、これで少しでも雰囲気が変わってくれれば。それでもダメなら必殺の一発芸を……。
「……」
「……」
「……」
「……――はぁ……ぼっちちゃん、下手過ぎ」
虹夏の笑い声が沈黙を破った。そのケラケラとした明るい声に、冷たい空気でキリキリ痛むところだった胃が救われた。
「それで、リョウさ、今回のライブってどんな感じだっけ?」
「え、それは虹夏が……」
説明すればいいじゃん、という声は、彼女の隣から突き刺さってくる無言の笑顔に消されてしまった。
それをいいことに、虹夏はリョウへ畳掛ける。
「リョウ? 喜多ちゃんにお酒を飲まされたっていっても、今日は何もしてないでしょ」
「ワタシ、キョウ、ベース、ガンバッタ。ソレニ――」
頭痛いし、とつけ足すリョウ。二日酔いがもう来たらしい。
そんな彼女に虹夏は口撃の手を緩めない。
「じゃあ、働かざるもの食うべからず――」
「はいはいはいはい……」
食べ物を人質に取られたところで、やっとやる気になったようだ。
今までのことを思い返してみれば、雑草に限らず何か食べていることが多かったような……。
自分の生活の細かいことすら上手く逆手に取ってしまうのだから、出会ったころならいざ知らず、もう虹夏には言葉で勝てないだろうと思う。無論、ギターの上手さなら負けることはないだろうが。
「……えー、今回のツアーは、今日のスターリーを初日として、全都道府県を回り、最後は日比谷公園大音楽堂――野音でやります。ちなみに、野音は日本で最初の……――」
「はいはいそこまでー。シュバらなくていいから」
「でも、来年の二月には改修工事が始まって今の姿じゃなくなるし、滑り込みでライブできるんだから、知っておいてもよくない?」
「よくない。話始めるとさ、いっつも長いじゃんリョウ!」
リョウが目を輝かせながら、向かいに座っているひとりにうんちくを語り始める前に、虹夏が止めに入った。無理矢理話を遮られたリョウは不満そうだ。
その反応を無視して虹夏は話につけ足す。
「ツアーはそんな感じに回っていく予定。場所が遠いところは、ね、お金的に、一週間に何公演かあるけど、途中で休みを挟んだりするし、なんてったって沖縄公演は九月とはいえ実質夏だし! 海とか入れちゃうかな~。年明けに終わる予定」
「なるほど」
「んで、京都と福岡公演はなんと、対バンでーす! ですよね?」
そう言って、虹夏はきくりに目を向ける。
「――ん? あっ、そ、そうそう! 京都ではよろしくね~」
聞くに、シクハックも公演数は自分らほどではないが、全国を回る行程を組んでいるらしい。しかもチケットは既に完売しているとか。
彼女らのバンドは、きくりがレーベルの手に余る行動ばかりすることから、まだメジャーデビューは果たせていない。それでもなおこうしてツアーを回れてしまうのは、偏に彼女らのカリスマ性と、技量と、人気に依るのだろう。
どの面においても、いつも結束バンドの遥か上をいっている気がするのは、きっと嘘ではない。
最初にライブを観させてもらったときから、いや、一緒に路上ライブをしたときから憧れだ。
……ん? 「京都は」?
ひとりの頭の中で、引っかかった言葉が反響する。シクハックと共演することは知っていたが、こちらは何も聞かされていない。
「――じゃあ、福岡の相手は誰なんですか?」
「えーっとね……これはシークレットなんだけど……、なんだけど……、ほんとは言っちゃダメなんだけど……やっぱ、ダ――」
「『SIDEROS』だよ」
「あー! それは言っちゃダメでしょ、リョウ!」
「だって、虹夏が言いたそうにしてたから」
シデロスとは、大槻ヨヨコ率いるメタルバンドで、妥協しない姿勢と圧倒的なカリスマ性が見るもの全てを惹きつけて止まず、破竹の勢いで日本のロックシーンを席巻しているアーティストだ。今一番活きがいいと言っても過言ではない。
そんな月とスッポンのような関係の結束バンドとシデロスだが、実はお互いがインディーズのときから親交がある。それに加えて、虹夏とヨヨコが大学の学友であったことが、今回の対バンが実現できた大きな要因だろうか。
というか、どうしてこんな大事なことを教えてくれなかったんだ?
もしかして自分だけハブられてる? なんて悪い妄想をしながら、怖いもの見たさで理由を聞いてみる。
「でっでも、なんで、私にも内緒だったんですか?」
「いやいや、ぼっちちゃんに言ってなかったのは、別にいじわるじゃなくてね、驚かしたかったんだよ。あと、単純に最近決まった、ってのもある」
ひとりの気持ちを瞬時に読み取って、虹夏はすぐにフォローに回る。
「だから言わないでって言ったのに! 後でまとめて言うつもりだったのにさー」「ごめん」。そんな小声でのやり取りが続いて聞こえてきた。自分の考え過ぎな性分が、余計なことをしてしまったみたいだ。
「ま、まぁ、シデロスとの対バンが秘密だったのは、私たちがライブする前日には彼女たちのドームライブがあるからだよ。もし、先に相手を発表しておいたら、ドームに外れた人たちが私たちのライブになだれ込んで、本当に観たい人が来れなくなるかも知れないからって、大槻さんが配慮してくれて……」
「なるほど。なんだか〝らしい〟ですね」
一見すれば、「私たちの方が人気でごめんね」という煽りに聞こえるかもしれないが、これがヨヨコの人間性だ。自分たちの立ち位置をしっかりと把握して、驕らず、卑下せず、常に上を見続ける。もしかしたら、本当に彼女の目標であるアメリカのフェスの大トリを飾る日がやって来るかも知れない。
「――そう、だからシークレット。それに、絶対お客さんも喜んでくれるしね!」
「そ、そうですね!」
シデロスが目の前に急に現れて狂喜乱舞する観客が目に浮かぶ。自分たちより人気があるバンドを呼ぶ抵抗感を蔑ろにしてでも、なおリターンを感じる。お客さんが喜んでくれればそれでいいのだ。
「…………」
「あっ、そうだ」
星歌が口を開く。
「最終日の野音、私たちも行くからな。首を洗って待っておけよ」
突然何を言い出すかと思えば、今じゃもうレッドデータブックに載っている絶滅危惧種よりも珍しい、ヤンキーみたいな言葉だった。
「楽しみにしてまーす」
「お姉ちゃん、いつも一言余計なんだから……。PAさんは、より成長した私たちを待っててね!」
「私には何もないのか……」
笑う虹夏の口元には、ほんの少しの緊張が浮かんでいた。
それも仕方ない。私なんか話の仔細を聞いた時から、産まれたての小鹿のように足がガクガクしてしょうがないのだから。
それに頑張り過ぎると空回りすることを、彼女自身で理解しているからこその不安もあるのだろう。
「――あーそうそう、まだびっくりするような企画がある予定だけど、それはまた今度ね」
「……へ?」
虹夏からひとりに返ってきたものは、弱音などではなく爆弾発言だった。神妙な面持ちだったゆえに意表を突かれる。
「シデロス」の件も知っていたリョウ。ともすると、自分とは違ってこのことについてもすでに知っているのだろうか。そう思って彼女の方を見るが、恣意か偶然かちょうど反対を向いていて顔はよく見えなかった。
しかし十年という月日は伊達ではない、その反応で分かってしまった。
恐らく、彼女は知っている。
そして、自身もその企画とやらに積極的に関わっているということを。
――一体、虹夏とリョウは何を考えているのだろう。分かりたくても分からない。
悩んでも仕方のない疑問について考え込んでいたら、酒に酔って寝ていた郁代が目を醒ました。
「……ん……虹夏さん……私、寝てましたか……?」
「喜多ちゃん、おはよ……」
今日イチ虹夏を悩ませていた種が目覚めたことで緊張の糸が切れたのか、先程まで見せていた口元のこわばりはなくなったが、その声と表情は疲労感に溢れるものに変わっていた。
「おはようございます……あっ、リョウさん起きたんですね!」
「…………あ、うん……イテテ……郁代の声、頭に響く…………」
リョウは、郁代の甲高く大きな声に刺激されて頭痛に頭を抑えている。とりあえず水を飲んではいるが、痛みは治まっていないようだ。
「あー、なんか寝たら、またお腹空いて来ちゃいましたー! 店員さーん!」
「き、喜多ちゃん!? まだ飲むんですか!?」
「だって、全然飲み足りないんだもの!」
その言葉に笑い声を上げる星歌。
「あはは! 喜多ちゃん、酒豪過ぎるだろ!」
「大声出すの止めて、頭、痛い」
「自由だな」
この宴会は、店員が申し訳なさそうに閉店を告げる時まで続いた。
終わってしまうことが惜しいこの夜を、これからも続けていけたらいいな……。