五月二十九日。
あの決起集会から、実にひと月半が経過しようとしている。
その間、ひとりたち結束バンドは、神奈川、埼玉、千葉、群馬、栃木、茨城、と順調にツアーを進めていた。
各都市のライブハウスのキャパシティーはそれほど大きくないものばかりだったが、観客の熱量は超人気アーティストのそれに勝るとも劣らなかった。特にゴールデンウイーク中のライブは、裏で日本最大級の野外フェスが行われている最中こちらのライブに参加して来た猛者の集まりで、これまでのライブの中でも群を抜いて盛り上がっていた。
その時の残火を胸に、今は次のライブ会場がある山梨へ向かおうとしている。
午前十時。
「はい! みんな注目!」
虹夏の呼び声がスターリー前の道路に響き渡る。背にするは、メンバー全員で必死にお金を貯めて買ったバンだ。
「ギター積んだ?」
「はい!」
二人の声が重なる。
「ベースは?」
「だいじょうぶ」
こっちは眠そうな声だ。
「そして、もちろん! スネアとペダルとシンバル類とスティックはオッケー!」
四人の間に遠足のときの小学生のような、居ても立っても居られないそわそわ感が流れる。しかし、それと同時にプロとしての自負がほどよい緊張感を持たらしていた。
「よし……行くよ~!」
「ちょ、ちょっと! 大事なセリフでふざけないでください!」
虹夏の軽いからかいに、郁代の悲鳴にも似たツッコミが入る。その期待通りの反応に、にやにやと顔を口角を上げながら乗車していく一行。
そこへ上層階にあるマンション――つまり、虹夏の家から、眠たそうな顔を浮かべた虹夏と同じ髪色の女性が下りてきた。星歌だ。
「おう、お前らもう行く時間か。頑張れよー」
「……って、お姉ちゃん、私たちが行く時間だからわざわざ降りてきたんでしょ? 昨日も何回か確認してきたし」
虹夏がバックドアを開けて荷物の最終確認をしながら言う。
「るっせぇ」
ジャージ下のポケットに手を突っ込み、顔を背けながら反応する星歌。どうやら、まったく気にしてませんよ、という体はハリボテだったらしい。
「ほら行った、行った」
彼女は手をシッシッと払うようにして虹夏たちを急かす。照れ隠しだ。
「はーい」
虹夏はどこか嬉しそうにして運転席に乗り込み、エンジンを点ける。そして、窓を開けて、
「お姉ちゃん、いってきまーす!」
と、弾けるような笑顔で大きく手を振った。
「ああ、いってら」
一応、虹夏は自分が乗っている後部座席の方の窓も開けてくれたので、彼女と同じように……とはいかないが小さく手を振っておいた。星歌が妙に嬉しそうにしていたのが印象的だった。
スターリー前を出発した車は、だらりと流れる街並みをガラスのスクリーンに映しながら進む。だが、車内に流れている空気は楽しいものではなく、早くも眠たげなものに変わっていた。
その微睡みようといえば、郁代のはしゃぐ明るい声も走行音に悲しく消えていくほどだった。
「だから早く寝ろって言ったのに……」
そんな虹夏の嘆きは虚しく失せ、車は茶沢通りを走り、順調に環七通りを通り抜けていく。ところが、甲州街道へ合流した途端、道路情報を得るために流しておいたラジオから不穏な言葉が聞こえてきた。
『トラックと乗用車合わせて五台が絡む事故のため、首都高速4号新宿線から中央高速道路にかけて約二十キロの渋滞が発生しています』
「うげ」
静かな車内に虹夏の苦々しい声が響く。顔を拝まなくとも、どうしよう、なんて顔をしていることを容易に想像できる、そんな声だった。
「結構時間に余裕をもって出発しましたけど、大丈夫ですかね」
運転手である虹夏以外で、唯一意識がはっきりしている郁代だけがこの渋滞情報に反応している。他の二人――リョウとひとりは現実と夢の世界のキワに立っており、まともなリアクションは取れなくなっていた。
「待ってれば流れるから気長に待つかー。しっかし、二十キロとか……とんでもない渋滞に巻き込まれちゃったねー」
「ほんとそうですよね……。あっ、連絡とかした方がよくないですか?」
「あー……、ごめん喜多ちゃん、お願いしてもいい?」
「はい! 任せてください!」
郁代は輝く瞳でそう言うと、手早く今日のライブハウスや、自分らのマネージャーに連絡を取る。
その電話が一通り終わると、彼女の声で騒がしかった車内がまた走行音だけの静かな状態に戻った。どこか寂しさを感じる空気に、郁代はスマホよりも外を見たくなったのか、まだ小気味よく流れている景色を見つめていた。
「連絡ありがとね」
「……は、はい!」
虹夏が声を掛けると、間をおいて元気な返事が返ってくる。が、彼女の纏っている雰囲気は、普段のそれよりもどこか違った。
「どうかした?」
ルームミラー越しに虹夏は「らしく」ない郁代に声を掛ける。
「……あ、いえ、ほんとに全国ツアー回ってるんだなって、いまさらになって実感が湧いてきたというか……」
ぼおっとしているのか、はたまた別の問題なのか、どうも奥歯に物が挟まったような言い方をする郁代。アンニュイとは反対側に立っていそうな百戦錬磨のフロントマンの彼女に、虹夏は少しおちょくるようなニュアンスを含ませて話し掛けた。
「喜多ちゃん……もしかして、緊張してる?」
「――い、いえ! ちょっと感慨深かっただけで、不思議と緊張は全然。今すぐにでもお客さんに聴いてもらって、楽しんでもらいたいぐらい!」
車は首都高へ入る。電光掲示板がラジオで言っていた事故のことを知らせていた。
「そう言う虹夏さんは緊張しないんですか?」
「んー? さすがに今からはないけど、本番前はしてるかなぁ。ドラムに出たらヤバいから手や足に出ないだけで、いつも心臓はバクバクしてる」
「やっぱり」
「え!? 気づかれてたの!?」
郁代の発言に虹夏は驚きを隠せず、素っ頓狂な声を上げる。しかし、郁代の語る「衝撃の真実」はこれだけに止まらなかった。
「――というか、私だけじゃなくて、たぶんみんな気づいてると思いますよ! 円陣組む時にいっつも心臓バクバクなの手から伝わってますから! でも、それでいつも安心できるんですよねー!」
「自分より緊張している人を見ると、自分の緊張が薄くなるってやつか~」
もはやここまでくると、リーダーとしてのメンツはどうでもよくなったらしく、虹夏は、ははは、と乾いた笑い声と共に俗説を言うだけだった。
十数分後。
今日のライブのセトリとか、その打ち上げはしないだとか、そんな確認と軽い雑談を繰り返していたら、テールランプを光らしている車の列が見え始め、そして、秒針が半周もしない間に車が止まってしまった。
「捕まっちゃったねー」
「捕まりましたねー」
郁代がラジオか曲を流そうかと決めかけていた時、時々車を進めていた虹夏が、前触れもなく口を開いた。
「ね、喜多ちゃん、二人でしりとりしよう」
渋滞の暇つぶしに黙りこけてスマホを見るのは味気ないようだ。
「いいですね! やりましょう!」
もちろん郁代は、それに乗っかることにした。
「――じゃあ、『しりとり』の『り』からね!」
「えーと、『りんご』」
「『ゴリラ』」
「『ラッパ』」
「じゃあ『パンツ』!」
「キャーッ! 虹夏さんへんたーい!」
「別に変態じゃないから! 定番でしょ!?」
――。
――――。
「『ディストーション』。あっ……、『ん』がついちゃった」
「喜多ちゃんの負けー」
「ドラム用語ばっかり使ってズルいですよ~」
「そっちだって、ギター用語ばっかり使ってるじゃん!」
「じゃあ、もう一回。あと一回やりましょう!」
あれから数えること四回しりとりを繰り返し、渋滞部分を抜けるまでに二対三で郁代が勝った。やっとのことで、ゲームという名の内部抗争は幕を下ろす。
「――そういえば、ずっと気になってたんですけど」
順調に流れ始めた車列に身を任せる中、再び静かになった車内で初めに口を開いたのは郁代だった。それに運転席から虹夏が相槌を打つ。
「んー? もうしりとりは勘弁なんだけど……」
「しりとりはもうしませんよ! じゃなくて……この間の埼玉のライブは、私のバースデーライブでしたよね」
「そうだよー。盛り上がったよね~」
観客とメンバーが盛大に郁代の誕生日を祝ったのは記憶にも新しい。確かあの日のセトリは、明るめの曲が要所要所に詰め込まれ、最後の方で郁代のアコギによる弾き語りがあった、郁代のためのライブだった。ちなみに話題には挙げなかったが、今日のライブは虹夏のそれであったりする。
「グッズも結構売れてウハウハだった」
「だよねー。……って、リョウ! いつの間に起きたの!?」
幽霊のようにすうと出てきたリョウの気配に、思わず虹夏は首をすくめた。
「虹夏たちがしりとりしてた時から起きてた。耳栓忘れたから、うるさ過ぎて眠れなかった。あと、ぼっちも起きてるよ、たぶん」
そのリョウの言葉の真偽を確かめるために、ルームミラーと真隣からはひとりへ視線が注がれる。
リョウがこんなことを言わなければ……、と思いつつも観念して、ひとりは渋々声を上げた。
「……お、おはようございまーす」
「二人とも起きてたなら混ざればよかったのに。ね? 喜多ちゃん」
「そうよ! 今世紀で一番盛り上がったしりとりだったのに、すっごくもったいないわ!」
白熱した試合に身を投じていた二人は、それぞれ不満げな声を漏らしていた。
しかし、混ざれなかったひとりにも、ひとりなりの理由がある。それは――。
「あっいや、喜多ちゃんと虹夏ちゃんがあまりにも熱中していたので、入るタイミングがなかったというか……そもそも最初から寝れてないというか……」
「「あー」」
虹夏と郁代、両者の理解を示す声が決して広くはない車の中で響いた。
「……」
「……」
微妙な空気だ……。
「…………あっ、喜多ちゃんごめん、話の続きってなんだっけ」
「ええっと、ひとりちゃんだけツアーの中に誕生日ないんだなぁって」
郁代は、なんでないんですか? という詰問に近い疑問より、ただ不思議に思っている声で話す。
「あっそれ……」
ひとりはその郁代の言葉に思わず声が出た。実際のところ、すごく気にしていた部分だ。
四月の郁代や五月の虹夏は例に及ばず、九月のリョウもツアー中に誕生日が控えている。そのため、いずれもツアーの一公演兼バースデーライブの予定になっている……のだが、しかし、ひとりは二月生まれ。その日が来る頃にはツアーは終結を迎えている。
そういうライブをするのか、はたまたしないのか。
ツアーのあらましを聞かされた時から、これが毎日の悩みの元になっていた。
なんてったって、私みたいな日陰の者が他人に自らの誕生を祝ってもらうなど、それがどれだけ稀有なことか! もう嬉しい嬉しくないの枠を超えている。
やっとその悩みから解放されるときが来たのかと、ひとりは怖さと期待感に胃をそわそわさせながら虹夏の次の言葉を待った。
「あーそれね、いやぁー」
想定と違う声色。嫌な予感がする。
「ごめんなさい! 普通に日程ミスっちゃいました!」
「あ、あはは、あはははー……ですよね…………」
ひとりから上擦り乾いた笑いがこぼれた。
思いあがりも甚だしいと、過去の自分を殴りたい衝動に駆られる。
「あ、あーぼっちちゃん、た、た、誕生日会やろうね!!!」
「い、一緒に楽しみましょうね!!!」
計画を立てた張本人である虹夏と、この話題を振ってしまった郁代がひとりを一生懸命に慰める。
そのフォローがまた胸を抉るのが辛い。
「は、はい……」
ああ、来世では忘れられない人間になれたらいい、な。
そう切に願うひとりの意識は、そこで途絶えた。
「はっ!」
ひとりが、かの事実にショックを受けて失っていた意識を、再び取り戻した時には車外の景色はかなり変わって、壁とビル群に覆われた圧迫的なものから、開放感がある田舎的なものになっていた。普段、コンクリートジャングルに生息しているヒトとしては、この自然が溢れる光景には目を見張るものがある。
しかし、緑色が目に眩しいこの高速でも、何の問題も起きずに淡々と走り続けていると、渋滞による座り疲れから眠気が襲ってくるのは言うまでもなかった。
ひとりが、うつらうつらと船をこぎ始めそうになる中、隣の郁代の溌剌とした声で目が覚まされた。
「ねぇ、虹夏さん、次のサービスエリアにかわいいハンバーガーあるんですけど……。ちょうどいい時間ですし! 休憩した方がいいですし! お昼にしませんか?」
道路脇の案内標識を見て、タイミングを図ったように郁代が言う。
「虹夏さん運転疲れましたよね? ね? ね?」
「まぁね……。あーあ、免許ちゃんと〝誰か〟が取ってくれてればなぁー。ね、リョウ?」
「ふぁっ?!」
急に呼び起こされたリョウは気の抜けた声を車内に響かせた。
「はぁ……少しは私の気持ちを考えてよね、私が寝ちゃったら事故っちゃうんだから」
「助手」としての役割を果たせない彼女に、虹夏が少し文句を言う。
こんなやり取りがある度に、私が免許取っていればなぁ、と思うのだが、あんな閉鎖空間に教官というただの他人と二人きりなんて、コミュ障を極めている自分には到底無理なことを思い出しては、心の中で彼女らに謝っている。今の教習所は怒られないと言うけれど、そういう問題ではないことをどうか分かって欲しい。
「うむ、分かった」
「だからさー、みんなの大切な命を預かるせきに……え!? 免許取る気になったの?」
虹夏に限らずこの場にいるリョウ以外の全員が、彼女の言葉に驚きを隠せなかった。自ずと車内は静かになってカーラジオだけが取り残される。
奇しくも、道路情報で先程通り過ぎた事故のニュースを伝えていた。
「――うーむ……」
リョウはそれきり黙り込んで、うんともすんとも言わなくなってしまった。彼女がどんな結論を出すのか、それはすでに決定事項のようなもので、憶測という名の時間と共に事実に漸近していく空気が漂っていた。
「やっぱ、今のナシで」
虹夏は溜息こそ吐かなかったが、呆れ――というより落胆に近い色を背中から滲ませていた。
「ね、リョウ」
「……」
「もはや私が〝出す〟から、取ってきて。免許」
しばらくして――。
「着きましたね~!」
「渋滞なんかに引っかからなければ、今頃はもう現地に着いてたはずなのに……」
「お腹空いた」
「ま、眩しい……」
各々思っていることは違えど、談合坂サービスエリアに無事に到着した一行は、外へ出て小さく伸びをしたり、欠伸をしたりして気分をリセットしていた。
ひとりは頭を軽く動かして辺りを見回す。
周りに止まっている車やトラックのドライバーであろう人々は実に多種多様で、老若男女、職業問わず休息を求めて集まるここは、さながら、鳥にとっての止まり木であり、サバンナに棲む野生動物にとってのオアシスだった。空いているスペースを探すのが億劫になってしまうほど車が止まっていたのも頷ける。
「ほら、みんな行きますよー!」
郁代は、手を大きく振りながら軽い足取りで自分たちの少し前を行く。その足先は、様々な店舗が入る建物に向かっている。
「喜多ちゃんはいつも元気だねー」
額に薄っすらと汗を浮かべながら、虹夏はバッグから日傘を取り出して差すと、ひとりに向かって「入る?」と目で訊いてくれた。これ幸いと、日陰に入ると……。
「あの、リョウさん狭いです」
「いや、ぼっちこそ」
同時にリョウも日傘の恩恵に与ろうと下に入って来た。
「リョウのことは呼んでないでしょ」
「えー」
「ぼっちちゃんはね、暑いと溶けちゃうから仕方ないんだよ」
「えー」
「……ははは」
その理由に私はどんな反応をすればよかったのだろうか。
こんなやり取りをしていると、前から明るい声が聞こえた。
「みなさーん、こっち向いてくださーい!」
何事かと、皆で郁代のほうを見ると、パシャッと一枚、彼女の自撮りの中に入れられた。
撮り終わった彼女は満足そうな表情を浮かべている。
「イソスタ上げていいですか? いいですよね!」
忙しなくスマホを操作したかと思えば、次の瞬間には、
「どこに行きたいか聞くの忘れてました! どこに食べ行きたいですか?!」
と元気よく聞いてくるものだから、眩しくて仕方ない。二つの太陽に焼き尽くされて灰になってしまいそうだ。
「ちなみに、私のおすすめはハンバーガーです! イソスタでバズってて、テレビも取材に来たことあるんですよ!」
「あーじゃあ、私はラーメン食べてくるから」
「……えっと……」
リョウは堂々とおススメされたものを突っぱねていく。
「じゃあ私もそうしようかなー」
「に、虹夏さんまで……」
虹夏もリョウについて行き、この場には郁代とひとり、そして微妙な空気が残された。
「――ま、まぁ、みんなお昼ぐらいは好きに食べたいわよね!」
これは想定内だけどショックだと、郁代の顔は少し動揺して引きつっていた。
「ねぇ、ひとりちゃんはどうしたい?」
「え、あっはい」
あのやり取り後のこれはもはや誘導尋問だ。さりとて、「からあげが食べたい」だの、「ハンバーグが食べたい」だの、私の好きなものを食べると言ったって郁代は怒らないはず。だってもうどっちも大人なのだから。でも、空気をワザと読まなかった時を想像すると罪悪感が込み上げてくるし、何より郁代からのチクチクと体を刺す希望に満ちた視線が辛い、合わせられない。なんだかもう黒い笑顔なんじゃないかと思えてきた。
「わ、私は――……。私も喜多ちゃんと同じものにします」
「うん! じゃあ、行きましょ!」
郁代は、ぱあっと顔を綻ばせるのと同時にひとりの右手を掴み、そのままフードコートにある目的の店まで連れていく。
途中、「この店はね……」とか、「ロコモコが……」とか、断片的に聞き取ることができたが、ひとりは自分の歩く速さより、うんと早い彼女の歩きについて行くのが精一杯で類推なんてする余裕はなかった。
「ひとりちゃん、今日は全然並んでないわよ! ラッキーね!」
「は、はい……」
「ひとりちゃんは何食べたい?」
「あっは、はい」
そう言って郁代は、店の外に置いてある看板を指差す。看板にはこの店の全メニューが記載されているラミネート加工されたメニュー表が貼りつけられていた。
初めて訪れた店であるため、一瞬、注文の仕組みが分からず頭がパンクするかと思ったが、一呼吸おいて冷静になればさしたることはなかった。
それにしてもどれにしようか迷う。喉も乾いているから飲み物がつくセットで注文するにしろ、肉にするか、魚にするか。
悩んでいても埒が明かないので、ここはもう人に任せることにしよう。
「あー、喜多ちゃんと同じのでいいです。の、飲み物は……とりあえずコーラでお願いします」
「オッケー」
「わ、私は虹夏ちゃんたち探して来ますね」
「お願いするわ」
さて、虹夏とリョウを探さないと。
とりあえず、とバンドのグループにロインをしてみる。メッセージを送信した瞬間に既読がつき、すぐさま返信が来た――取った席はバーガーの店から離れていないらしい。頭を動かして辺りを見渡してみると、虹夏が手を大きく振ってくれているのが見えた。
ひとりは足早にその席へと向かう。
……にしても、サービスエリアのフードコートは、モールとかのそれに比べてなんだかワクワク感がすごい。言葉にするのは難しいけれど、強いて言うなら非日常感が強いからな気がする。自分は車の免許を持ってないし、持ってたとしても高速なんて怖すぎて乗れる気がしない。だからだ。
そう気持ちを言語化していたら、虹夏とリョウの元へ辿り着いた。
「喜多ちゃんはどうしたの?」
最初に声を掛けて来たのは虹夏だ。リョウはしおしおと覇気なさげに机に突っ伏している。
「今、私と喜多ちゃんの分の注文してくれてます。――それで……その……リョウさんはどうしたんですか?」
「あーリョウはね、お腹が空き過ぎて力が出ないんだよ。まるであれみたいにねー」
「確かに」
ひとりの脳内に、子供人気が高いことで定評のある、あんぱんのキャラクターが出てきた。例え、そんなヒーローになってもリョウは「面倒くさい」というだけで、自前で配るパンをすべて食べて配ったことにしてしまいそうだ。
リョウのお腹がぐうぐう音を立てる。
「う……」
「だから頼む前に言ったじゃん! 絶対時間かかるよーって」
「だって、食べたかったんだもん」
腕に顔をうずめながら話すリョウ。まるで幼子のようで、扱いに困る。
右往左往、どうしたらいいかひとりが迷っていると、
「まぁ、リョウのことなんか放っておいて、ぼっちちゃんは自分の分取ってきなよ」
喜多ちゃん待ってるんでしょ、と言ってくれたので、この場は虹夏に任せて郁代のもとへ帰ることにした。
「ねぇ虹夏、ここ、あんぱん名物らしいから買って来て」
「それ、反対側だから」
「そっか……」
そろそろ出来上がっているかも知れないと、ひとり足を速めて向かう。店の受け取り口と郁代が視界に入った時、ちょうど彼女がどう運ぼうか、どこに行けばいいのか困惑しているところだった。
「す、すみませーん!」
「もう……、このままここでひとりちゃんの分まで食べちゃおうかと思ったわ」
少し意地悪な冗談を言う郁代。でもたまに突拍子もないことを本当にするのが、「喜多郁代」という人間であるから、ジョークであっても背筋がほんのりヒヤッとした。
こっちひとりちゃんの分、とトレーを渡される。
「あっお金……」
「席行ってからでいい?」
「そ、そうですね」
自分の近くにお金にルーズなベーシストが二人もいるせいか、お金の貸し借りに敏感になってしまった。もうちょっと気楽に生きたいものだ。ちょっと嫌な変化かも知れない。
虹夏が取ってくれた席に向かって歩きながら、ひとりと郁代は適当におしゃべりを続けた。
「にしても、虹夏さんとリョウさんに何かあったの? 遅かったけど」
「ええと――」
かくかくしかじかまるまるうまうまと、理由を尋ねた郁代へ、先程のリョウの話をかいつまんで話す。それに郁代が目を輝かせる。
「――そんなことだったら私に言えば、いくらでも貢いであげるのに……って、あー! リョウさ~ん! 虹夏さ~ん!」
会話に花を咲かせていたのも束の間、隣に歩いていたはずの郁代は、テーブルで呼び出しベルが鳴るのを待っている二人を見つけた途端、話に聞く丸の内のOLが如く、速足でひとりを置き去って席に着いてしまった。
少しだけ傷心だ。まるで、マラソン大会で一緒に走ろうと約束したのに置いて行かれるやつみたいだ。私は小中学校時代に友達が……一人もいなかったのでそんな気分を味わったことはないけれど。
「ぼっちちゃんも早く座りなよー」
「はっはい」
「そういえば……二人とも私たちより早く注文しに行ったのにまだなんですね」
「もうすぐだと思うんだけどなぁー。さすがに私もお腹すいちゃったよ」
郁代の言葉に困ったように笑う虹夏。
ピピピ……。
噂をすれば影――なんてことわざ通り、ようやく呼び出しベルが鳴った。
「ほーら、リョウ! 取りに行くから起きて―!」
虹夏はテーブル越しに、寝ているリョウを揺さぶって起こそうとしているが中々起きない。
これでは埒が明かないと、虹夏は席を立ちあがり彼女の隣へ行くと、その手を掴んで立たせ、強制的に連れて行ってしまった。
去り際に
「あっ、ぼっちちゃんも、喜多ちゃんも、先食べてていいからね」
と言い残して。
「さぁひとりちゃん、虹夏さんの言葉に甘えて先に食べ始めちゃいましょ!」
「は、はい。いただきます」
「いただきまーす!」
まず最初にポテトを一本つまみ。次にコーラを一口。そうしてやっと、ひとりは、トレイの上に載っている手のひら大のバーガーの包み紙を開ける。中に入っていたのは、つやつやといい具合に焼かれたバンズに挟まれた、野菜、たっぷりとソースがかかっているパティのようなもの、それから目玉焼きだった。「月見」には時期がおかしいし、「てりやき」にしては匂いが違う。郁代にすべてを任せたので何も分からない。
「……ええっと、あの喜多ちゃん、これはなんですか?」
「えっとね、それはロコモコよ」
郁代は食前の儀式である写真を撮りながら教えてくれた。
確かに、以前テレビで見たことのある「ロコモコプレート」なるものの凝縮版といった感じがする。
彼女がこれを選んだ理由は――。
「あっ、確か喜多ちゃん好きなんでしたっけ」
「うん、そうなの。よく覚えてたわね! 映えるし美味しいし、好きなのよね~。……よしオッケー」
どうやら満足のいく写真を撮れたようだ。
「もしかして嫌だった?」
「い、い、いえ、そんなことはないです! ただ、初めて食べるものだったから」
外食に行っても専ら、好きなものを注文してしまうし、流行り「だった」ものとはいえ、キラキラしたものなんて自分には注文することすらできないので食べたことがなかった。
「絶対美味しいから食べてみて!」
郁代の圧のせいか、ハンバーガーを食べるという単純な行為が、エベレストを登頂することのように命を賭す危険なものに感じてしまう。
しかし、突き刺すような眩い視線を耐え抜き、恐る恐る食べてみると、
「おいしい……」
一度口に入れたら、食べる手が止まらなかった。
最初は小麦の香りがするバンズ。次にソースと肉の味が口いっぱいに広がるが、後からやってきたみずみずしい野菜や存在感のある目玉焼きが、濃い味の肉とソースに絡みついて完全な調和を起こす。まさにもう一口、もう一口と食べたくなる味だった。
郁代が好きな食べ物として挙げるのも納得だ。
「でしょ!」
私も食べよ、と嬉しそうにハンバーガーを頬張る郁代。一生懸命食べているようで、口元だけでなく頬にまでソースが撥ねていることに彼女は気づいていなかった。
「あっ、喜多ちゃん、ほっぺにソースついてます」
ひとりは自らの頬を指差して言う。
「え、え? どこどこ?」
「ええっと、もうちょい右の方……ああ、そっちじゃなくて……」
人に言葉で伝えるのはまったく難しい。
「じゃあ、もうひとりちゃんが拭いてよ」
「うん、あ、はい?」
はい、と渡された紙ナプキンを持ったまま、一瞬、硬直してしまった。だが、伝えるのが絶望的に下手だった自分の責任でもある。
「わ、分かりました」
座ったままだと拭けないので、少し腰を浮かして彼女の顔へ手を伸ばす。
「し、失礼します」
なるべく最小限の時間で拭った。
「はい、ありがと! ………ま、ひとりちゃんの方がすごいことになっているけどね」
郁代がスマホのインカメで自分の今の顔を見せてくれた。
食べること以外をかなぐり捨てた子供のように、ひとりの口の周りはソース塗れだった。憐れに思えるほど、人のことを言える立場ではなかった……。
「ねぇ、拭いたげようか?」
「じ、自分でできますよ」
「いいからいいから」
「は、はい」
なんだか楽しそうにしている彼女に一抹の不安を覚えるが、もう任せていいか、と観念して口元を明け渡した。
……。
拭くだけなのに随分と時間が取られた。
「できた!」
もうこれいたずらされたな、と思い至って郁代のスマホに映る自分を見ると、綺麗に猫のひげが描かれていた。
「はいそこー、食べ物で遊ばないー」
トレーにラーメンを載せて帰って来た虹夏からお咎めが飛んできた。後ろにはリョウの姿もある。
「お、お帰りなさい」
「お帰りなさい……。ははは……」
自分自身は被害者であるはずなのに、怒られるとバツが悪い。
「君たちね、もう大人なんだからね、もうそんなことからは卒業しないと」
ムスッとしながらそう言う虹夏はスマホでひとりの顔を撮る。
「虹夏さんだって楽しんでるじゃないですか。あと、その写真ください」
「喜多ちゃんだって、可愛いものは可愛いって思うでしょ? それと同じだよ。ロインで送るね」
「やっぱり虹夏さんも子供じゃないですか。ありがとうございます」
「…………」
「ねぇ、早く食べない?」
リョウのその一言で場が収まった。
「ふう……」
結構お腹いっぱいになった。ひとり以外の面々もちょうど食べ終わる。
顔のソースを拭き始めたときの郁代と虹夏、二人の残念そうな声は、ボイスメモに録音しておきたいほど面白かった。
「なんかリョウさんの方が豪華じゃなかったですか?」
「く、苦しい……」
「だから多いんじゃない? って言ったのに。腹八分目までだよ普通は」
「うう、虹夏ぁ……」
「弱ってる先輩もステキ!」
そういえば、こんな風に喋ってて大丈夫だったっけ……。
ひとりはポケットからスマホを少し取り出して時間を見る。すると時刻は一時前であった。十一時半前後にここへ着いたと考えると、悠長にもおしゃべりし過ぎていたらしい。
「あの、虹夏ちゃん、こんな時間ですけど大丈夫なんですか?」
ひとりは虹夏にスマホ画面を見せる。
「もうそんな時間!? 確かにそろそろ出て、現地入りしちゃった方がいいかも」
「そうですね!」
「……! は、はい……」
「現地」という言葉を聞いた瞬間から手がわなわなと震えている。なにしろ、今夜は初めての箱だから勝手が分からな過ぎるし、どんな雰囲気なのかも微塵も知らないのだ。
そんなひとりの様子を見て察した虹夏と郁代はフォローに回る。
「全然大丈夫だって! 下見にちゃんと行ったし。店長さんいい人だったよ」
「ほら、ひとりちゃん、虹夏さんを信じて! ごーふぁい!」
チアリーダーのように拳を突き上げる郁代。
「ひゃ、ひゃい!」
彼女が保証すると逆に心配になるのはどうしてだろうか。
「うっぷ、その前にお手洗いに……」
緊張と不安を抱えたまま同日の夜。
甲府のとある箱。キャパはスターリーより少し大きい三百人ぐらい。ありがたいことに観客はスタンディングでひしめき合っている。
「ふぅ……」
自分のこの胸より外からやってくる、ざわつきには何度ライブをしたって慣れない。
でも、開演と同時にギター、ベース、ドラム、それぞれの轟音をなぞれば、私は私のままギターヒーローになれる。普段はアングラな空気を纏っているであろうライブハウスの空気を、何者にも侵されない絶対的な「色」へと変えてやる。
音で自らの体と箱の中を満たしていく、この瞬間は何事にも代えがたくて、何より愛おしい。
虹夏、リョウ、郁代とアイコンタクトを取り、そして……、その胸の高鳴りを一気に弦にぶつけて掻き鳴らす。
結成当初だったら絶対にできなかったはずの即興も、今ではなんのその。
演奏が段々と激しくなっていくうちに観客のボルテージも上がっていく、歓声は地鳴りのようになっていく。
それが頂点に達したとき、郁代がマイクに叫んだ。
「今日は来てくれてありがとう! 最初から飛ばします! 『ギターと孤独と蒼い惑星』!」
悶々とした鬱憤を紙に書きつけたあの頃を思い出しながら、ディストーションを踏んづけて、ギターで空気を切りつける。
印象的なイントロからが終われば、拍手の大雨。
見えた夜空に渇望を叫び歌っても、真っ黒な空間に吸い込まれて虚無感が胸に落ちる。
それでも、私の声を聴けよ――!
何も先が見えない作詞に、個性を衝動的に書いた歌詞の気持ちは今でも変わらない。
というより、今の方が強い気もする。
日本だけでも自分よりギターが上手い人はいるし、いい歌詞書く人はいるし、いわゆる、カリスマだって、スターだっている。そんな群雄割拠の戦国時代に真っ向から挑むのだから、そうなるに決まっているのだ。
そんな思いをギターソロに込める。
丁寧に、そして荒く。一音、一掻きに魂を込めて奏でる。
みんなの願いを叶えてあげるために私ができることはこれしかないから。
「ありがとうございました! 『ギターと孤独と蒼い惑星』でした! 次の曲行きます!」
観客の歓声で床が揺れてる気がする。
だが、それに負けてやるものか、とゴリゴリ鼓膜を削る力強いパワーコードをライブハウスに轟かせる。
演者も観客も一体となってその波に乗ってライブを作り上げていく。
妄想の中では観客など、自分という偶像を崇める都合のいい人間でしかなかったのに、バンドを始めて、ライブをして、やっと観客もライブに必要なものだと気づかされた。
二度とない「今」を互いに噛み締める戦友なんだ。
「じゃあ、次の曲はガラッと雰囲気を変えて……――」
もしかしたら、生身のまま一緒に音楽を奏でて、その場で聴いてもらうが至上だと思う私は、この高度にインターネットが発展した現代では錆びついた鉄屑のような人間かも知れない。ネットから出てきた歌手やバンド、グループが、アリーナだったり、武道館だったりを埋めたことなんて枚挙に暇がないのだから。
でも、この距離感で色々なものを直接感じてしまったから、もう元には戻れない。
ああ、この光り輝く瞬間が永遠になればいいのに。
何度そう願ったか、具体的な回数なんて忘れてしまった。
――――。
――――――――。
「アンコール! アンコール! アンコール!」
地鳴りにも似た観客の声で我に返る。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていくとは言うが、気がついたら大体一時間半が経過しているのはあんまりじゃないか。
跳ねる心臓、浮足立つ心が、そう恨みがましく言っている。
こんな気持ちなんだから、ちょっとぐらい暴れても許してくれるだろう。
「じゃあ……」
郁代が何かを喋ろうとするのをギターで遮って、アンコールで演奏予定だった曲の即興ソロを掻き鳴らす。
台風に乱された初ライブのそれより、テクニカルに、されど轟音、凶暴、欲のままに。
最初は意表を突かれて言葉を失っていた郁代、虹夏、リョウだったが、意識が束ねられていく感覚が肌から伝わってくる。
それは何よりの「信頼」の証。
そして、つんざくようなチョーキングを響かせた後、それは完成した。
――四人でも、一人。
そんな言葉が似合うほど、いや、それでも足りないぐらいに呼吸、脈拍、何から何まで寸分狂わず一緒だった。
ドライブを感じて、疾走するメロディーライン。
閉じた心を歌ったはずなのに、なにゆえ、ここまで開放感が得られるのか。
分からないからこそ、ローズウッドの指板に指を叩きつけて音を出すしかない。それしかできない。
曲が終わるまでの三分三十四秒。
最高に生を感じた三分三十四秒。
終わった時に待っていたのは、強烈な消失感と静寂だった。
自分たちの荒い息しか聞こえるものがない。
だから心配になる。気持ちだけが先行し、曲が走り過ぎておかしなことになってしまったのだろうか、と。
「……やば……かった……」
最前列にいた観客が口元を抑えながらボソッと言ったその言葉が引き金となって、ライブハウスは狂ったような歓喜に包まれた。
「最高だったよ!」
「ありがとぉ!」
聴衆が口々に叫ぶ。
安堵感と共に、「ああ、私は今、最高に輝いているんだ。ロック、してるんだ」とその言葉が、ひとりの頭の中で繰り返し反響している。
その思いを喝采という雨で具現化したくて、左手でギターのネックを持ち、掲げた。
鍋で加熱され沸騰した水のように、彼らもまた沸き立つ。
この胸がそわそわしてたまらないこの感情は。今すぐにでも叫ばないと爆発してしまいそうなこの衝動は――!
掲げたギターのボディーを右手で支えながら、段々と口元に持っていく……。
かのジミ・ヘンドリックス――通称ジミヘンのように今度こそ!
「ねぇ、ひとりちゃん、それは止めておいた方がいいんじゃないかしら」
そう郁代に肩をポンと叩かれて言われた。声がマイクに拾われてライブハウスに響いている。
「だって、ほら――」
手が指し示すドラムの方を見ると、「絶対にやるな!」と強い思念を送っている虹夏の顔がハッキリと見えた。
「――――」
マズい。本当にやったら、ライブが終わった後にあばら骨の一本や二本を彼女に献上しなくてはならない気配がする。朗らかとした見た目に依らず、彼女は彼女の姉である星歌よろしく凶暴さ内に秘めているのだ。ここは素直に大人しくしておいたほうがよさそうだ。
この身の振り方を考えるひとりを見て、ファンは爆笑している。
恥ずかしい……。穴があったら入りたいし、完熟マンゴーがあったら被りたい……。
「ほらね、前に言ったことあったでしょ虹夏」
笑いがひとしきり終わったところで、リョウが左後ろを振り返って喋りかける。
「ん?」
「面白いこと言えなくても、人気が出たらファンが空気読んで笑ってくれるって」
「いやいやいやいや、そんなことないでしょ!?」
虹夏はドラムスティックを持ったままの右手の手のひらを「違う違う」と振っている。
「だよね? みんな?!」
虹夏が観客たちに訊くと、ちゃんと面白かったよ、と表すかのように上げている手をサムズアップにしたり、ゆらゆらと振っていた。
「だってさ、リョウ」
「……う、う。私たちも人気バンドになれたんだね」
「話聞いてた!?」
「こほん」
郁代が二人の会話を咳払いで区切る。
「今日は誰の誕生日でしたっけ? 最後の曲行きますよ!」
「そうだったそうだった。今日は私の誕生日ライブでした~」
会場から「虹夏ちゃんおめでとー!」と返ってきた。
「じゃあ、私の曲をやっちゃおうかな~!」
虹夏はそれに嬉しそうに応える。
「ぼっちちゃんは大丈夫そ?」
彼女の目はもう始めるよと語っている。
「なんでも、大丈夫です」
「頼もしいねぇ、うちのギターヒーローは」
「はい……!」
いまだに外でその名前を言われるとドキッとするが、数年前、やっとライブでの演奏がネットにあげている動画のように安定したことから公言したのだった。思い返せば、驚いている人が多かった中で、正体がひとりだと目星をつけていた人がチラホラと散見されたのが、何よりの驚きだったのを今でも鮮明に覚えている。
「やっぱり、そうなっちゃう感じです、よね~」
郁代の反応は、いかんともしがたい歯切れが悪い感じだ。
「郁代、言いたいことがあるなら、言った方がいい」
そんな彼女を見かねたのか、リョウが促す。
「えーと、これからやる曲、バッキングが大変だからなーって」
郁代は胸の前で両手を小さく振って、別に演奏したくないわけじゃないですよ! とつけ足す。
四人がそれぞれデモを持ち寄って作った曲の一つであり、これから演る曲――「UNITE」。
この曲は、虹夏の好きな音楽ジャンルである、メロディックハードコア――略称メロコアの激しい曲調を引き継いでいるのだ。BPMが二百弱と速いだけでなく、曲の途中でテンポが微妙に変化するので、バンドの曲全体を通して見てみても難度が高い。だから郁代は「大変」と評したのだろう。
「じゃあ、分かった」
スポットライトを背に話すリョウの瞳が怪しく光る。
それを見て、何をこれから言わんとし、何をこれからしようとするか、もう分かった。
まったく、捻くれている人だ。
でも、ワクワクする。胸が高鳴る。
「虹夏、ぼっち、準備して。最初にやるよ、UNITE」
「オッケー!」
「はい!」
「って、私の話聞いてました!?」
狼狽えながらも、「しょうがないですね」と郁代はそそくさとピックを持ち直してギターを構えている。
ひとりも、虹夏も準備はとうに終わった。
後は全員の息を揃えるだけ。
「だって――」
リョウが、近くの郁代に聞こえるか聞こえないか、そのくらいの微妙な声量で呟く。
「最高に楽しいじゃん」
ステージの下にいる誰も彼もが今か今かと黙りこけ、アンプから出るノイズだけが空間を満たしている。
ドラムスティックが刻む4カウントが期待感に圧迫されいる空気を解放した――。