七月八日。
時刻は午前九時。
後藤ひとりは、聞き慣れたスマホのアラームに嫌々起こされる。
眠気で霞む頭で止めて、ぼおっとしているうちにスヌーズ機能でもう一度鳴る。
「はいはい、今、止めるから……」
完全に目が覚めてしまった。
まったく、起き立ての余韻を味わう風情がない。いや、本来期待されているものとしては最高のパフォーマンスなのだが。
そんなくだらない文句を言いながら、ひとりはベッド脇の窓の遮光カーテンを開ける。
夏の日差しが一気に部屋に入って来て、瞳孔が痛い。
家にいる時は常にエアコンで気温と湿度が一定になっていたり、窓が二重窓になっていたりするので、特に不快な暑さは感じないが、目下の世界は今日も暑そうだ。確か、今日も猛暑日なんだっけ。嫌だ嫌だ、今日は明日からのライブのために前乗りしないといけないのに。
全国ツアーの進捗としては、東海地方を制覇し終わったところで、近畿地方は明日から三日連続の京都、大阪、兵庫のライブで無事コンプリートの予定だ。
そのうち、大阪はあのZeppだ。初めてだ。夢に見ていた場所だ。なんとありがたいことに二千数百席分のチケットは完売しているらしい。
明日の京都もゲストでシクハックを呼ぶことが公表されているからか、かなり前に売り切れている。
だがら安心、というわけにはいかず、当日お客さんがちゃんと入ってくれるのか、そもそも満足させられる演奏ができるのか、心配で昨日は睡眠薬を飲んだくらいだった。そうでもしないと眠れなかった。ホームシックではないが、家族と一緒に暮らしたままだったら少しはマシだったのかな、そう考えてしまう。
とりあえずご飯食べて、したくはない家事もしなくては。出発は十一時だから全然余裕はある。
ひとりはリビングとの間仕切りになっているパネルを横に開け、キッチンへ向かう。
思えばここへ引っ越してきたときは、戦々恐々と希望が入り乱れていたな、と六年前の記憶が蘇る。
一人暮らしは掃除、洗濯、炊事、暮らしていくために必要なことすべてをこなさなければいけないのが面倒ではあるが、そのデメリットを超えて、このミュージシャン専用マンションというものはなかなかどうして心地がよかった。作業用の部屋なんてロマンそのものだ。
当初、郁代とのシェアハウス案も上がったような気がするが、二人住むには少し狭いのと、自分が郁代の生活についていけない未来が見えたので、丁重にお断りさせてもらった。
そんなこんなで今に至る。
今日はなんだか昔のことを振り返りたくなる日だ。夢の地に立てる節目の前だからかも知れない。
寝ている間に乾いた喉を潤そうと、冷蔵庫を開けて水を取り出すところで、一昨日まで家に泊っていた虹夏と郁代が置いて行ってくれた作り置きが二つあったことを思い出した。今日から家を空けるから、今食べておかないと。
彼女らの手料理が入ったタッパーを取り出して中を見ると、片方はミネストローネで、もう一方は鱈のピザ風焼きだった。
早速レンジにかける。温め終わるまでの間に箸やら飲み物を用意して、残りの二十秒ぐらいはオレンジ色に染まった庫内を見ていた。
「いたただきます」
文明の利器により、熱々になったスープとパンを口に運ぶ、焼くのが面倒くさかったので食パンは生のままであるが、美味しい。その次に食べた魚も美味しかった。
優しい味のスープは虹夏の作ったもので、自分の好みな味――ありていに言えば子供っぽい味になっているのは郁代のだろうか。普段は手の込んだ料理を食べる機会などないのでありがたい。
温かな家庭料理に舌鼓を打ちながら気兼ねなく点けたテレビは、もう昼前のワイドショーが始まっており、これ以上ゆっくりしていたら集合時刻に間に合わなくなってしまうことをひとりに告げていた。
「はぁ……やるか……」
寝間着にしていた古いバンドTとジャージ下を適当に洗濯機に放り込んで、洗濯完了までの間に皿洗いと風呂洗いを済ませる。ちょうど終わった洗濯物をリビングの掃き出し窓のカーテンレールに引っ掛けておく。
あっという間にもう十時過ぎだ。
もっと早く起きておけば、なんて文句は意味が無い。だから言わない。
「あーそうだ、まだこれがあったんだ」
家事に手がいっぱいで忘れかけていた。外に出るのだからマシな服を選んで、マシなメイクをしなくては……。まったく面倒くさいの一言に尽きる。
顔を洗って、歯を磨いて、外行きの服に着替えて、少しだけメイクもして、最後に髪を整える。
出掛ける日の朝のルーティーンはこんなところだ。
郁代に「ひとりちゃんもメイクした方がいいわよ! 道具もあげるから!」なんて言われなかったら、一生しなかった気がする。精々、お風呂の後の化粧水と乳液止まりだ。
午前十一時。
家から駅まで大体十分。吉祥寺駅から東京駅まで約三十分。
多少の鉄道の遅延があろうとも、十二時の集合には到着できそうである。
ガスの元栓を締めて、窓を確認して、テレビとエアコンを切って――よし、準備完了。
ギターとトランクを持って、
「行ってきます」
ひとりは、いつもより力強い声でそう言って鍵を閉めた。
東京駅の待ち合わせ場所――新幹線の改札前に着くと、見覚えのある青髪の彼女が柱に寄りかかりながら、ヘッドフォンで音楽を聴いているのが見えた。だが、顔までは見えない。
だから、話し掛けるか迷ってしまう。
いやいや、待ち合わせなんだから話し掛けなきゃダメじゃん、とどこかの黄色髪の彼女は言いそうではあるが、もし人違いだったら、と考えてしまって声を掛けるにも相当な勇気が必要なのだ。やはり、待ち合わせは苦手だ。
話しかける? 話しかけない?
それとも他のみんなが来てからにする?
「ねぇひとりちゃん、こんなところで何してるの?」
「ひゃっ!」
些細な問題を深く考え込んで郁代と虹夏が来たことに気づかず、ひとりは情けない声を上げた。
「……お、お、脅かさないでください!」
「別にそんなつもりはなかったわよ~!」
彼女らの方と振り返ると、郁代は角張った形の白いビニール袋を提げていた。
「あーこれ? 新幹線で食べようと思ってるお弁当よ。さっきそこで買ってきたの」
「でも、ぼっちちゃんはどうせ朝、私たちが作った料理食べて来てるだろうからいらなかったかな?」
あれ、量が多かったでしょ、虹夏が言う。
「い、いえ、多かったなんてことは……。とっても、とーっても美味しかったです」
ひとりは手を大きく振るジェスチャーも交えて伝えた。
「ならよかった」
「やっぱり食べてくれる人がいると作り甲斐ありますよね!」
「そうそう、最近、お姉ちゃんなんか全然料理の感想言ってくれないんだから」
利便性がいいという理由で、高校、大学を卒業しても虹夏が星歌のマンションを出ることはなかったのだが、姉妹とはいえど二人だけでこれだけ一緒に暮らしていれば、倦怠期の夫婦のような愚痴や不満が噴出するのだろう。
ちなみに郁代は、メジャーデビューが決まったあたりから目黒での一人暮らしを満喫している。人生のキラキラ度が桁違い過ぎる。
「じゃあ、次は私に作ってよ」
近くで話していればさすがに気づくということで、〝リョウだと思われていた〟リョウが会話に混ざってきた。
「えー嫌だよ。リョウ、いいもんばっかり食べてるんだから、比べられちゃうじゃん」
「では私が、誠心誠意、命を込めて――」
「郁代のはなんかいいや」
「なんでですか!?」
リョウが言い放った言葉に、郁代が驚いて固まっている。
「別にいいでしょ。喜多ちゃんの料理美味しいんだから。ね?」
ひとりは虹夏に同意を求められて、遠目でも分かりそうなほど大きく何度も頷いた。
「いや、私は老後の味を知りたいだけだから」
「まさか私に一生面倒見ろと……?」
リョウは、うん、と頷く。
「いいですね! 一生一緒にバンドしましょうよ!」
ショックから気を取り直した郁代から、ポジティブオーラを周囲に解き放たれる。
ひとりは、すっかり歳を取ってよぼよぼになったみんなを想像してみた。
『今の若者は音楽を消費している。ちゃちなダンスの添え物にしおって!』
郁代と虹夏は穏やかな老後そう過ぎて、逆にリョウの想像しか頭に出てこなかった。でも、これ――今とあまり変わらないな……。
「老人ホームとかでもセッションしちゃう?」
「ホームのロックヒーロー間違いなしですね!」
郁代と虹夏が楽し気に自分たちの未来を夢想する。話を聞く分には自分の想像と同じそうだ。
それにしても、ロックヒーローか……。
オーディエンスは、おじいちゃんおばあちゃんしか――いや、同年代だろうから……あり、なのか?
「普通にドラムがうるさいっていう苦情が来るオチだと思う」
「ヤメて! 冷静に考えてみたら――みたいなこと言わないでよ!」
そんな話は聞きたくないと、虹夏が両耳を手で塞ぎながらリョウに文句を言う。
幸せで満ち足りた、これもある種の痴話喧嘩な気がするのは、自分の気のせいではないはずだ。
「それでさ――」
「そうなんですか!? 初めて知りました――」
「この間、今回用にエフェクターボード組み直したんですけど――」
「そのボードいい……」
虹夏や郁代だけでなく、ひとりとリョウも時間を忘れて歓談に勤しむ。
そんな中、ふと時間のことを思い出してスマホを確認した郁代は、驚きの表情を浮かべ、次の瞬間、それは血の気が引いたものに変わった。
「あ、あ、あの……私たちが乗る新幹線、あと十分ぐらいで出ちゃうんですけど……?」
郁代がスマホのロック画面に表示されている時刻をこちらへと見せてくれる。その彼女の口元はわなわなと震えていた。
それを見て、理解して、全身から力が抜けた感覚を覚える。
ヤ、ヤバい。これ逃したら――。
ふらっと倒れそうになる不甲斐ないひとりを、
「走るよ、ぼっち」
「あっ! あー、ぼっちちゃんのトランクは私が持つね!」
と、リョウは手を引き、虹夏には荷物を運んでもらい、最高速で改札を抜けてホームへと向かう。
「み、みなさん……あ、と五分、です!」
郁代が走りながらタイムリミットまでの時間を伝えてくれる。
――――――。
体力勝負のバンド活動を十年続けているとはいえ、もともと運動不足気味の郁代以外の面々は息が続かず、もう口がきけなかった。はぁはぁ、という息の音さえ、もはや誰のものか判別する術はない。分かるわけがない。今は列車に乗ることしか頭にない。
しかし、走ることで精いっぱいだったはずの体は、次第に呼吸が楽に、周囲のことがよく見えるようになっていく。子供連れの家族。スーツを着込む男性、女性。どこの国だか分からない外国人。何かのツアーのフラッグを持つ人もいる。これがいわゆるランナーズハイというやつか。私なんかが言うのはおこがましいけれど。
それらをアドレナリンがみなぎる私で追い抜いて、駆け抜けて、目指す。
大の大人四人が集まって何やっているんだ、と自分の中の「自分」が笑う。
そして、それにつられて私も笑う。満面の笑みを溢す。
でも、それは私だけではなく、みんなも同じで。
ほんと――バカだ。
死に物狂いで足を動かし、ホームのもうすぐ発車することを告げるアナウンスが聞こえる距離までやってこれた。
だが、疲労が溜まり、身体を動かすエネルギーも切れかけているひとりは、既に足がおぼつかなくなっていた。左脳を追い越して心だけで走っている。
それでも、なんとか体に残っている味噌っかすみたいな力を振り絞って、
――――なんとか間に合わせた。
皆がぜぇはぁぜぇはぁ、と乗車口になだれ込む中、後ろで定刻通りにドアが閉まる。
「間に、あ、った、ね……はぁはぁ」
「ギリギリ、セーフ」
「……っは、はあ、はあ……」
「早く、席、に移動、しないと……邪魔に、なっちゃう……」
ここにいる全員が息も絶え絶えにして話しているため、何を言っているのか全然聞こえない。
それが面白くて、バカらしくて、笑えてきた。
「うふふふ」
顔を見合わせて笑う。もちろん、他の乗客に迷惑にならない程度で。
全員大人になったはずなのに、まるで子供から成長していない。
「あの、お客様、お席についていただけると……他のお客様のご迷惑になりますので……」
「は~い、すみません~」
乗務員のもっともな注意に従って、息を整えながら自分たちの席へと向かった。
自分たちの席は進行方向と真逆。歩いても歩いても、相対的にその場で止まっているように見える様は、まるでランニングマシンみたいだ。窓外の東京の景色がゆっくり移動している。
「はいここ! 私たちの席!」
しばらく通路を行ったところで、虹夏が両手を使って教えてくれた。
「この二席と、一個隣の二席ね」
「こっちって富士山見える方でしたっけ?」
「そうだよー」
郁代が虹夏にそう訊いているのを聞いて、新幹線に乗るのはこれが初めてではないし、ましてや彼女みたいに写真を撮りたいわけではないが、心がウキウキしてきた。
「じゃあ、ぼっちちゃんとリョウ、喜多ちゃんと私っていう並びで。リョウ、別に富士山とか興味ないでしょ?」
「その時、たぶん寝てる」
「それでい?」
ひとりの感情の動きを感じ取ったのか、虹夏がひとりと郁代に訊いてくる。
「は、はい」
「虹夏さん、ありがとう~!」
そして、それぞれがそれぞれの席に座った。指定席であるから、購入した自分の座席に本来座るべきだが、仲間うちということでご愛嬌だ。
全員が棚に荷物を上げ終わったところで郁代が、
「じゃあ、席を回転させてみんなでお昼にしましょう!」
と自分と虹夏の座席を回転させながら言い、元々は別々だったはずの席があっという間にボックス席に変化を遂げた。
リョウは静かに過ごしたいとあまり気乗りしてはいなかったが、ひとりが気がついた時には既に座っているあたりリョウらしい。
そんな彼女に倣って自分たちも座って、ライブがどうだとか、はたまたここのご飯が美味しかっただとか、くだらないことも、そうでないことも一纏めにしておしゃべりを続けた。
まるで修学旅行みたいだ。
となると、アレを持ってきて正解だったと言える。
「あ、あの……」
「あっ、ひとりちゃんも食べるのね?!」
ひとりは弁当を配っている最中だった郁代に声を掛けたのだが、彼女の声は驚きに満ちていた。
大方、朝も結構食べたはずなのに、まだ食べるのね、といったところだろうか。そういう意味ではないのだが、とにかくひとりは彼女が差し出した黒色の容器を受け取った。
「あ、ありがとうございます」
渡された弁当は、ひょろっとはみ出た紐を引くと加熱されるタイプの牛タン弁当だった。糸を引っ張るだけで魔法のようにご飯が温まる仕組みに子供心がくすぐられる。
的確にこの弁当を選ぶとは、十年間という月日は人の心を透かすのに足り得る時間なのだなぁ、と笑顔を浮かべながらお弁当の蓋を開けている彼女らを見て思う。
「……って、そうじゃない、そうじゃない」
こんなセンチな気持ちになりたいわけじゃなかった。
「ん? どした、ぼっちちゃん」
弁当を膝に置いたまま呆然と座っていたひとりの急なつぶやきに、虹夏が反応する。
「……え、あっ、そうだ……えっと――た、食べ終わったら、みんなでトランプしませんか? 大富豪? 大貧民? を……」
きちんと言えたは言えたのだが……、自分があまりにも挙動不審な言い方してしまって、恥ずかしさで顔を伏せたくなった。
…………。
ひとりには数分にも感じられる空白。その停滞した時間の流れを元に戻してくれたのは虹夏だった。
「いいね。やろうやろう!」
「なんだか修学旅行みたいですね~」
その言葉にひとりは胸をなで下ろす。
しかし郁代の反応がトリガーとなって話題は修学旅行になってしまった。
黒歴史が混じる、ひとりと郁代が京都の話は――聞かなかったことにしよう。昔だったら、コンプレックスを刺激されて自分を嘆いていただろうが、私だってもう大人なんだし、この特別な雰囲気に絆されてだいたいのことは許容できる、はず。
それにしても、こうして食事をするのは久しぶりだ。してないうちに一世紀ぐらい経ってるのではなかろうか。
不思議な感覚だ。
「ひとりちゃん起きて! もう大阪よ!」
「…………ふぁあ……もうそんなですか……」
食事、トランプ、富士山、おしゃべり、昼寝。
あっという間の約二時間半だった。
「上にあげてた荷物忘れないでねー」
「重い……虹夏持って」
「これでも先に運んでおいてもらったんだから少しは頑張れ!」
『次は新大阪――』
車内アナウンスが聞こえた。
もうすぐ新幹線でのゆったりとした時間は終わりを告げる。
その前にこれから始まってしまう色々に覚悟を決めなければ。
駅のホームに降り立った瞬間から始まるのだ。リミット数時間の大阪弾丸旅行という阿呆な計画が。
なんでも、郁代がこれから三日間は時間がないから前乗り日に観光したいと、この旅行プランを立てたらしい。これを昨日聞かされた時は目玉が飛び出るかと思った。私たちもう若くないんだから体力持たないよ、と。
「……はあ」
「どうしたのひとりちゃん、ため息なんかついちゃって、これから楽しいことが目白押しなのよ!」
郁代は興奮からいつもより声のトーンが高く、瞳孔も気持ち大きくなっている気がする。企画を立てた張本人は元気が有り余っている様子で何よりだ。
心底羨ましいとひとりは思った。
「まずはホテルにチェックインだからね! いいね? 特に喜多ちゃん!」
「はーい!」
さあ、新幹線のドアが開いてしまう。否応なしに始まってしまう。
ひとりはこれから来る未来に戦々恐々しつつも、心の隅にあるワクワクを抑えることはしなかった。
「おふとん……最、高…………」
過酷な旅行を終えてホテルの自室に返ってきたひとりは、部屋に入ったと同時に電気も点けずベッドに倒れ込んだ。いつもより豪奢な寝心地に天国かと思う。
とにもかくにも、とことん疲れた。
こんなに状態なのに明日のライブは大丈夫なんだろうかと思わずにはいられない。
楽しくなかったかと言えば、嘘なのだが、いい意味でも悪い意味でも本当に酷いプランだった。
大阪城を見たかと思えば、次は通天閣、道頓堀、そして最後に粉ものをたらふく食べる――若さ溢れる高校生が修学旅行で立てるような、自らの体力にかまけた無茶苦茶なものだったのだ。しかも、郁代のルーズなタイムスケジュールのせいで、都との大阪公演に向けた大切な打ち合わせに、普通に遅れるわ、怒られるわで、こんなダメな大人たちでごめんなさいと、猛省することとなった。
でも――――。
寝返りを打って仰向けになる。暗すぎて天井は見えない。
「でも、めっちゃ楽しかったな……」
しかし、ひとりの体はそんな余韻など露知らず、誤魔化しきれない気怠さが意識を朦朧とさせる。
ああ、疲れすぎて何も考えられない。思考が纏まらない。
ずっと頭の中で音が、言葉が、風景が、ぐるぐると無秩序に回っている感じだ。
まぁいいか、シャワーは朝に浴びればいい。それよりも今は、この眠気に身を委ねた方が絶対幸せになれる。
そう確信し、自然の流れに身を任せようとした時――。
ピロンとロインの通知が鳴った。
普段なら面倒くさいので起きたら確認すればいいと考えてしまうのだが、この通知音は判別のために変えておいたバンドの連絡用グループだけの音だった。ツアー中なこともあり、何か重要連絡かも知れないので内容を把握しなければ。
「はぁー」
ひとりはもう少しで寝られそうだったのにと、恨みがましい溜息をつきながら、枕元に置いてあるスマホに手を伸ばし、ロインを確認する。
すると送り主は都であった。
『【業務連絡】 明日のSICK HACKとの対バンですが、先方からメンバーの体調不良により出演を辞退したい旨の連絡があったため、明日は結束バンドのみのライブになります。チケットの返金などについては既にこちらで対応しているので安心してください。明日からのライブ楽しみにしています。』
眠気が飛ぶぐらいには重要な話だった。
そして意識が覚醒した後にやってきたのは、でもなんで? という疑問だった。
恐らく体調を崩したのは――――きくりだ。それはなんとなくわかる。
というのも、四月に会った時、きくり何かを隠している節があったからだ。喉が痛いだけなら、ただ喉が痛いと言えばいいだけの話。自分の中には嘘をつく理由は見つからない。
それにきくり以外のメンバー――ドラムスの岩下志麻とギターの清水イライザは、前者はしっかり者で、後者も彼女より酷い生活を送っていることはないだろうから。
無論、確証はないので、類推、邪推の域を出ないものであるが、彼女のことが少し心配だ。
それでも、明日からの三連戦に向けて体を休ませないと。
ひとりは「了解しました」とだけ連絡用ロインに書き残し、深い夢の世界へと旅立っていった。
「す、すいません! 寝坊しました!」
ひとりは、カフェテリアでビュッフェ形式の朝食に舌鼓を打っている三人の元へ慌てて駆け寄る。
大声を上げたせいで周りにいる親子連れや、サラリーマンから視線が一瞬ひとりに集まった。今の自分の恰好は事情を知らない人が見ても、寝坊したことが分かるくらい髪は乱れ、いわゆる寝落ちをしてしまったため服も昨日のままだった。
朝八時半集合のところを朝九時になって起きた時は、本当に無我夢中で、集合場所に行くことだけが自分の体を動かしていたから、他すべてのことは後回しだったのだ。
「おはよーって、ぼっちちゃん昨日の服のまんまじゃん! 髪もすごいことになってるし……」
「ひとりちゃん、その感じだとシャワーとかも……」
虹夏と郁代が掛けてくれた言葉の隅々から「呆れ」、「驚き」、そして一ミリの「忌避感」を感じた。
「す、す、すみません!」
本当に申し訳が立たない。
今日やらなければいけないことは、しっかり今日やらなければならない、といまさら肝に銘じても遅いが、起きてしまったことはどうしようもない。私が言える立場ではないのは百も承知だが。
「…………」
リョウがヘッドフォンをつけながらタブレットで何かの作業を黙々として、遅れてきたひとりに対して一言も発しないのが怖い。
「リ、リョウさん……」
「……ん?」
ひとりはリョウの肩をちょんと指先でつついて横から話しかけた。けれど返ってきたのはいつもより明らかに険しい目つきだった。
「……!」
声にならない恐怖に近い驚きがひとりの体を電流のように流れる。
「ご、ごめんね~ぼっちちゃん。なんかリョウ、朝起きてきたときからこんな感じでさー。別に体調的に機嫌が悪くなりそうなことはないはずなんだけどなぁ……。まあ分からないや」
虹夏が小声でひとりに耳打ちした。
彼女からは何も情報を得られなかったが、寡黙でちゃらんぽらんなリョウであっても生きているのだから悩み事の一つや二つあるだろうと、ひとりの中で気持ちが落ち着いた。いつも作詞で悩みもがいているからこその共感が大きい。
「とりあえず、部屋に戻ってシャワーと着替えしてきたら?」
「は、はい!」
郁代にそう言われて、ひとりは年甲斐もなく全速力で部屋に戻る。
「十時には本当に出ちゃうからそれまでに全部終わらせてね!」
背中で虹夏がそう言うのを聞いた。
早く、早くしないと――!
ひとりが全力で諸々を済まし、ギターや小物を持って再びカフェテリアに降りた時、出発までのタイムリミットは三十分を切っていた。
せっかくの朝食も胃袋に栄養を詰めるだけの作業に成り下がってしまい、自己管理がなっていない自分の至らなさに起因するもので嘆くに嘆けなかった。
まぁ、明日も明後日もこのホテルだから、と自分を言い聞かせる。
「ひとりちゃん、これ美味しかったわよ!」
「これも食べてみてよ~」
「ぼっち、ついでにコーヒー取ってきて」
「…………」
それにしてもだ。時間が差し迫っているのにもかかわらず、この人たちときたら緊張感がなさ過ぎてこっちが心配になる。
「い、今、食べてるんで!」
口の中が空くタイミングがないように食べ進める。残された時間は少ない。
クロワッサンを口に放り込み、バターの風味が鼻腔を掠める前にコーンスープを流し入れ、まだ皿に残っているベーコンとスクランブルエッグを口に押し込む――欲張ってこんなに取るんじゃなかったと後悔しても後の祭りだ。
それでもなんとかして、気合いで食べ切ることができた。
「よーし、ぼっちちゃんも食べ終わって、準備できたことだし出発しよう!」
虹夏が元気よく号令を掛ける。
「はい!」
「ん」
「ふぁい」
一人はワクワクした声で、一人は考え事に耽っている声で、一人は満腹に喘ぐ声で、三者三様な返事をして席を立った。
「今日は昼からスタジオで明日のリハ、夜は京都でライブだよ。昨日司馬さんから連絡があった通り、シクハックのみなさんは来られないみたいだけど、大阪の前哨戦、私たちで盛り上げよう!」
ホテルのラウンジとロビーを横目に、エントランスに向かいながら虹夏が今日の予定の確認をする。
…………。
ライブのこともそうだが、リハーサルで緊張から失敗でもしたら、と考えると心がざわざわして仕方ない。本番で失敗しないためのものではあるが、できることなら一回も失敗をしたくない。
「ねぇ、ひとりちゃん」
ホテルを出て地下鉄の駅に移動するまでの徒歩の時間。少し前をギターケースを揺らしながら歩いていた郁代が、おもむろに後ろのホテルを振り返ってから話し掛けてきた。
「なんですか」
「私たちが泊ってるホテル、昨日夜来た時には気づかなかったけど、面白い形してるわよ!」
そう言いながら彼女の指先の方向――ホテルの上部を見ると、穏やかな波の形のようなガラス張りの建物が、元からあったホテルの上に空から落ちてきたみたいにあった。
「そういえば……このホテルいろんな施設が入ってるらしいですね」
確か一回のロビーにその紹介があった気がする。
もっとも、話題に上げただけで私たちの宿泊プランで施設を使えるかはどうか分からない。だが仮に利用できたとして――だ。
「らしいわね! 私たちは忙しすぎてそんな余裕ないと思うけど、機会があったらスパとか行ってみたいわ~」
「それ分かる~。最近、昔に比べて肌の質が悪くなったというか、化粧のノリが悪くなったというか……」
「分かります……」
途中で会話に混ざってきた虹夏と郁代の話が想像以上に盛り上がっている。会話には参加したいが、自分が明るくない話であるため場を沈黙させてしまう未来しか見えない。
「それにさー、だ・れ・か・に、もうお肌がつやつやじゃないとか言われたし」
「それ最悪ですね! 言ったの誰ですか!? 私が殴ってきます!」
郁代はまったく腰の入っていない正拳突きを披露しながら、そう言った。
それに虹夏は苦笑いをしている。
悲しいことに、彼女は飲みの席での自らの発言をまったく覚えていないらしい。よくニュースで聞く、酒に酔っていて覚えていない、というやつか……。
「え? 私、何か変なこと言いました!?」
「いや、まぁねー……」
「もうすぐ駅だけど」
開かずの踏切を渡る絶妙な感覚で、リョウは盛り上がっていた話の隙間に切り込む。
「――――――」
彼女の口数がいつにも増して少ない……、気がする。それに朝のあの態度。彼女が何を抱えているのか、何を悩んでいるのか――踏み込み過ぎるのも嫌がるだろうから、ただ事態を静観するしかないのが後味が悪い。
「うん、ありがとリョウ」
「えーと、ここから梅田ですよね……あー結構すぐなんですね。十分ぐらい」
虹夏と郁代もリョウの変化に気づいたのか、先程までの活発な雰囲気を抑えて、声色に彼女を慮る気持ちが混ぜていた。
「別に気、使わなくていいから。まだちょっと予想できなくて安心できないだけ」
彼女は「何」かを明言しなかったが、それは十中八九――。
「ライブ絶対、ぜっっったい、成功させましょうね! 友情、努力、勝利です!」
「う……っ!」
確かに、結束力と努力とライブの成功は大事なのだが、そのワード三種にすると身震いがする。もはやアレルギーの原因物質に違いない。
「……う、うん。暑苦しいけど、頑張ろう」
リョウは笑い顔すらしなかったが、纏っていた空気は今朝より幾分か柔らかくなった。
「さぁリョウもちょっと元気出たみたいだし――リハのスタジオに早く行こう!」
――などと、意気揚々に電車に乗ったのはいいものの、さすがは梅田駅。東京の新宿駅に勝るとも劣らない迷宮具合と人の多さ。気を抜いた瞬間にみんなと離れてしまった。
「ぼっち、こっちだよ」
「す、すいません。私が不甲斐ないばかりに……」
「いや、大丈夫、私も同じだから。虹夏たち見失ったから。連絡はしたし、スタジオのところ行けばなんとかなるんじゃん? 知らんけど」
「はあ……、きっとそうですね」
リョウのその言葉は不安というか、なんというかだ。
長年バンドをやってきた仲間として、そしてそれ以前に一人の友達として、彼女のことを信用していないわけではないが、そう、信用していないわけじゃないが、こと迷子においては高校の時の未確認ライオットで前科があるので、完全には身を預けてはいけない、と心の奥底で感じている。
一体いつになったらゴールへ辿り着けるのか……。まさか死ぬまでこのままだったりして。
「リョウさん、骨は頼みました――――」
ひとりは重大事件のように考えていたが、場所が駅からさほど離れていないところであったがために、十分弱で全員揃うことができた。先にホテルを出立していたマネージャーの都もそこにいる。
自分がバカ過ぎて記憶を消去したい――!
「おっと、結構早かったですね、山田さん、後藤さん。みんなであなたたちがいつ来るか賭けをしていたんですよ。おかげで、虹夏さんに飲み物一本驕ることになってしまいました」
「ごちそうまさでーす」
「私も奢りだ……」
肩を落とす郁代。虹夏の一人勝ちのようだ。
「あ、あの、もうリハするんですよね……」
「え、ええ、そうです。もう準備はできてるので、大まかな合わせも兼ねて行きましょう」
ひとりの催促に都が目を丸くしながら答えて、先頭を歩いてビルの中に入って行く。
「うぅ、なんか緊張してきたかも」
エレベーターホールでエレベーターを待っている時、郁代が誰に聞かせるわけでもなく言った。
最近はライブも含めて、人の話をよく聞かない傍若無人ぶりに拍車が掛かって、どんな時でも「喜多郁代」だったのだが、さすがに今回はそんな彼女でも身がすくむらしい。
普段のひとりなら、勝手に親近感を感じていそうだが、今はそんな小さい親近感すら感じ取る余裕がない。しかし、余裕がないからこそ、先程は柄にもなく場の空気を急かす言葉を出せたのだ。早くスタジオに入るだけ練習ができるから。
とは言いつつも、練習をいくら積み上げたところで安心できるわけではないことも知っている。それどころか、練習したらした分だけ不安が膨張していくかも知れない。でも、だからと言って、諦めて練習することを止めることはできない。
それは、ギターを弾くこと以外に考えなくていいから、という理由の他に、努力をしてきた者だけが、それが泡沫に帰ってしまう恐怖を感じて緊張することができると思っているからだ。
言わば、恐怖は権利そのものであり、緊張とは努力の証なのだ。面倒くさいことに。
ひとりが脳内で気取ったくだらない表論文を書けるぐらい場は静かで、こんな緊張感が張り詰めた空気だからか、ポーンというエレベーターの到着音が異常に大きく聞こえた。
そそくさとブースに入り、各々がそれぞれの楽器のチューニングをして準備を整える。
「そういえば――」
郁代が目線はペグに合わせたまま話し始めた。
「――リョウさん、集合してから一言も話してないですよね? ね? ね?」
虹夏とひとりに目線を投げて確証を得ようとしている。
「まぁ、リョウはこう見えてめちゃくちゃ緊張するタイプじゃん昔から」
郁代は、確かにそうでした、と相槌を打つ。ひとりも頷く。
「でも安心してよ、どうせベース弾き始めたら元に戻るから。――というか喜多ちゃん、こんな一度弾いたフレーズをそれっぽくしか再現できない変態ベーシストよりも私のことを心配して!」
「変態ベーシスト」のくだりのところから、リョウの背中がなんだか嬉しそうだ。
「虹夏さんは頼れるみんなのリーダーなので大丈夫ですよね? 頑張ってください!」
「リョウのとの扱いの差で風邪引いちゃうかも、私……」
虹夏は、自分の肩を抱いてぶるぶると悪寒に震える病人のマネをし、郁代と冗談を笑い合う。それはまるで荒漠に萌える新緑のように眩しかった。
「ふう……。思いっきり笑ったらなんか緊張解れたかも――よし! やろう!」
その言葉、目つきで、ガラリとこの場の空気が変わって引き締まる。
それまで鳴っていた放課後の吹奏楽部のような無秩序なチューニング音はピタッと止み、代わりに秩序が成る前の予兆に満ち満ちた混沌で空間が埋まる。
それを真っ直ぐ切り裂くように、きらりと光るスティックカウントが放たれた。
――――――。
――――――――――――。
薄暗い会場にはBGMが流され、これからライブが始まるという雰囲気が醸成されている。
ここ大阪のライブハウスは、一階席も二階席も合計二千五百人強の人で埋め尽くされ、その場にいる全員が、今か今かとメンバーがステージの上に現れるのを待っている。
その期待が、その眼差しが、自分たちの双肩にのしかかり、まだ裏手の控室にいるにも関わらず息もままならない。座っているのに足がそわそわして落ち着きがない。膨れ上がった不安を、ギターのフレットに指を這わせて抑え込もうとしても、高温に熱された石に水を一滴落とすように意味をなすことはなかった。
それは私以外も同じで、虹夏も、郁代も、リョウも、最後の練習にも関わらず身が入っていない。どこか上の空である。
体の中を支配する拍動の音。その音が一つ、また一つと鳴るたびに本番までのカウントダウンが進んで行っているのを感じて、もうおかしくなりそうだ。
救いがあるとすれば、リハとゲネプロが特に問題なく終了できたこと、そして、前哨戦であった昨日の京都でのライブが上手くいったことだ。
シクハックの出演が取りやめになったと、ネットで通知した後でもライブは盛況だった。終わった後に聞いた話だが、払い戻されたチケットの枚数は二ケタに届かないぐらいだったと言う。
それが何を意味するかを考えた時――心が震えた。
シクハック目当てで来たファンも、結束バンドのことを愛するとまではいかないとしても、好きでいてくれているのだと。
新宿フォルトでのオープニングアクト――アウェーライブから、ここまで来たのだと。
マッチの炎のように小さい気づきだが、その事実は先の見えない暗がりの中で自分を温かく照らしている。
暗がりで、地下深くで、暮らしてきた私には十分な明るさだ。
なら――。
「虹夏ちゃん、リョウさん、喜多ちゃん……」
名前を呼ばれた三人は表情の裏に緊張を携えたまま、静かに呼び声の方を向く。
ひとりは、自分を椅子に押しつける緊張感を引き剥がしながら立ち上がり、気恥ずかしさを振り払って話し始めた。
「わ、私たちは、ず、ず、ずっと今日まで、い、一緒にやってきました――」
晴れ渡る日も、大雨の日も、厚い雲が覆う日も、雪の日だって、練習にライブにバイトに明け暮れた。
先の見えない真っ暗な未来に、降り注ぐスポットライトがあることを信じて進み続けた。
それは自分たちの夢を叶えたいから。
だけど、ここに立てるようになった今でも、自分の願いが叶ったかどうかなんて分からない。
――でも、そんなことは関係ない。
だって、音楽が好きだから。
だって、ライブが好きだから。
だって、結束バンドが――――――。
だから……この気持ちを今日は全部ぶつけませんか……?
不安も緊張も消えてはくれないけれど、私たちの「結束力」見せましょう。
――――――――――――――。
「言われなくても」
「まさか、ぼっちちゃんに励まされる日が来るなんてね」
「うん、ありがとう……ひとりちゃん……」
「ちょ、ちょっと喜多ちゃん、泣かないでください! 本番まだ始まってませんよ!」
「あー、上向かなきゃ……」
郁代は涙がメイクを乱さないように、気配が収まるまで上を向きながら、手で顔を仰いでいる。
張り詰めていた暗いものが、一歩一歩歩いて行くための燃料に変わっていく気配がする。
不安が気概に変わり切った時、スタッフがノックと共に、
「結束バンドさん、よろしくお願いします」
と呼び掛けてきた。
「よし!」
今日一番の気合が入った声を放ちながら、虹夏が席を立つ。併せてリョウと郁代も腰を上げる。
ひとりには、彼女らの一挙手一投足すべてが過去の重さを背負っているように、輝いて見えた。
「いつもの、やるよ!」
「はい!」
無言で全員が左手を重ね合わせ、円陣を組む。
「頑張ろう! 楽しもう! せーの!」
「「おー!!!」」
黒いTシャツに身を包んだ四人が、白い廊下を上手に向かって歩いて行く。
途中には簡単なケータリングがあったり、何かを運んでいたであろう台車が畳まれて壁に立てかけてあったり、普段では見ない光景と見慣れた光景が共存している。
「みなさん! 開演前の写真一枚撮りますので、こちら向いてください!」
すれ違うスタッフが皆、会釈をしながら忙しく動き回っている最中、呼び掛けてきたのは、
「おー! 一号さん!」
そう、ひとり――いや、結束バンドのファン一号である。
彼女は映像系を大学で専攻し卒業後、ファン二号とともに小さなスタジオを開設し、ミュージックビデオの映像制作やライブの撮影を請け負っていた。縁もあり、結束バンドはよくお世話になっている。
「あれ? 二号さんは?」
「彼女は、今日は家でデスクワークです! 三日前に撮ったやつの編集で。今日のライブの担当は大激戦のじゃんけんで決めたんですよ! 今頃はふて寝してたりするかもですね~」
勝者である一号はあっけらかんとした態度で語る。
「あはは、それは……大変だね」
少し返答に困る言葉に、虹夏は乾いた笑いを漏らした。
「――ま、撮っちゃうんで、みなさん好きなポーズでも取って下さい!」
写真に手慣れた郁代は、自分を一番よく見せるポーズをすぐさま取る。それに続いて虹夏も簡単にピースを、リョウは壁にもたれかかって腕を組む。そんな中、ひとりはどうすればいいか分からずおどおどしていたら、郁代がひとりを引き寄せ、写真の構図的にちょうどよい場所に置いてくれた。そしてすぐさま、一眼レフ特有の少し厚みのあるシャッター音が鳴る。
「……はい! 大丈夫です! 今日のライブ、最高にかっこいい写真撮っちゃいますから楽しみにしててください!」
撮影したものを確認したのち、一号はそう言った。
ひとりのガチガチになっていた体がやっと和らぐ。やはり写真はいつまで経っても苦手だ。
「では~」
カメラを背負い直しながら彼女は去って行った。
「いろんな人が、私たちのために忙しくしてくれてるんだね」
「はい……」
一号が一足早く舞台袖へ消えた後、辺りは熱気が溢れる観客席とは裏腹に、忙しく人が出払った人気のしない静かなものであった。それこそ、ここに今立っているのは私たちだけだ。
この廊下にある情報量が一気に減ったことを自覚した瞬間、波が勢いよく引いていき海底が露出していくような感覚に襲われ、すべてが幻想だと言わんばかりに、眼前の景色がゆっくりと流れていく。
喧騒が遠雷のように轟き、ふわふわと身体は軽い。
これまでに味わったことのない感覚。
不安と緊張が何かしらの閾値を突破したのか、もう何も感じない。
それどころか、「後藤ひとり」という人間柄にそぐわず、スポットライトを浴びたくて仕方なかった。
「ひとりちゃん、今日はなんかずっと笑顔ね」
隣を歩いていた郁代がそう言うと、前を言っていた虹夏とリョウも振り返り、
「確かに~」
「ぼっち、ヘンな草でも食べた?」
と彼女たちも要らない力がすっと抜けた顔で笑う。
「今日はみんな変ですよ~」
郁代の声は明るい。
大した言葉を交わさなくても、心が繋がっている――そう感じる。
その空気に酔いしれながら、僅かな光しかない舞台袖へと辿り着く。
そこで待っていたのはマネージャーの都だった。
「みなさん、緊張されていると思っていたのですが……、大丈夫そうですね」
都はライトで照らしながらメンバー全員の身だしなみを確認した後、念を送るように背中をパンと両手で叩く。
「成功を、祈っています」
「――――――――行って来ます」
そして、四色の彼女らはこの世界を生き抜くための「武器」を持って、光の中へ飛び出していった。
自分らが舞台の上を確かな一歩を以て進むたびに、観客は湧き上がる。
上から光が雨粒のように降ってくる。
ふやかされた心のビートと、彼らの波長が同期していく。
演奏はまだ始まっていないのに、うねりを伴う大きなグルーヴが、ひとりの頭の先から足先まで満たしていた。言葉では言い表せないこの快感をさらに鋭敏、そして高めるために、無言をしてこの場の空気を熟成させる――段々と歓声が静まり、裏で感じでいたそれよりも巨大な期待に変わっていくのを肌で感じ取れた。
永遠にも、刹那にも思える時間。
たおやかな水が今まさにダムの堤体を超えて決壊しようとする時、郁代の伸びやかな声がホールに響き渡り、ついにライブが始まった。
「今日は来てくれてありがとう! 初めてのZeppライブ、みんなも盛り上がってくれると嬉しいです! まずは一曲目!」
歓声やクラップも含めたこの場すべての音が混ざり合い、溶け合い、複雑な構造を作り上げる。
ひとりもそれに応えるように、サビでありったけの速さを以ってギターを掻き鳴らした。
それはまるで、世界の上に新しく「世界」の誕生を宣言したかのように、非現実的な感動と輪郭のハッキリとした感傷がある――。
自分は天才なんだと思い込んでいた日もあった。そして、それが打ち砕かれた日もあった。
もう戻れない。
無垢で、無瑕なあの頃には。
痛みに歯を食いしばり、ゆっくりでも歩き続ければ、この頭上、数千数億光年にある星のように、広大な宇宙にとってありふれた凡庸でもあっても、存在証明――光り続ければ、いつかは誰かに見つけてもらえる……。
――私はそう信じたい。
しかし、そんな自分の中の希望的観測を、どうせ自分にはできっこないから無駄な足掻きだと、嘲笑う気持ちも否定はできない。
けれど、今日に至るまでやってきたことは正しかった。
今この瞬間、ライブを作り上げているすべてが証明だ――!
この場において月よりも輝いた後は、青春の劣等感を叫び通す。
痛みと躓きに共感し、首を縦に振って笑える者しかいない箱。
サビの歌詞に呼応して観客の叫ぶ声が、耳に嵌めているイヤモニを貫通してくる。
高揚感が体を、空気の温度を上げて暑いし、篤い。
横目に映る郁代とリョウは、アドレナリンが体を浸しているようで、顔は上気し、いつも以上に目が大きく開かれ、全身で喜びを体現するようにリズムと共に揺れている。そして、背中から感じるバスドラムの腹の底に響く熱を帯びた音と音圧は、虹夏の気持ちを代弁していた。
私は猫背のまま終わりまで突っ走る。
四人がジャカジャカと無造作に叩き掻き鳴らして曲を終わらせると、体の細胞の中にある余韻が抜けきらないうちに、大歓声がひとりたちを迎えた。
「こんばんはー! 結束バンドです!」
「みなさん、楽しんでますか~」
虹夏と郁代のMCパートが始まった。
彼女たちの言葉に、手や言葉で観客はリアクションを示す。
「あ~、ほんとはここでもっと話さないといけないんだけど――」
尺の都合でね、と虹夏が小声でつけ足すとどっと笑いが起こった。
「なんかもう、次の曲がやりたくて、話そうと思って考えてきたこと全部忘れました。ので! 早速だけど次の曲!」
その言葉に続けて郁代が言う。
「では私は、マイクをリョウさんに明け渡すとしますか」
足元に広がるシールドを気にしながら、リョウと郁代が場所を交換する。
――――――――。
静寂。
歓声ではなく、息を呑む音が実際に聞こえそうな静寂が場を支配していた。それは展開が読めないからではなく、結束バンドではひとりが作詞を担当したものは例外として、作詞した本人が歌うことになっていることを、ファンであるなら知っているからだ。
つまり――。
「よろしく」
リョウがマイクにそう言うと、声にもならない悲鳴が観客から聞こえてきた。そして、私のか三人のか、額から零れ落ちた汗の雫がステージの床に弾ける瞬間に、真後ろにいる虹夏との視線が交錯して、寸分の狂いもなく演奏が始まった。
彼女のカラーである青色の照明が、マスロック然としたイントロに合わせて動き回る。
彼女自身の複雑さとひねくれさを表すような変拍子。包み込むような白昼夢。
まさに浮世離れ。リョウのための歌。私がフロントマンまでやるとバンドが崩壊すると豪語していたのは、あながち嘘ではないのだろうと、いつも隣で思う。
そして――二曲目。
虹夏とリョウが織りなす複雑なリズムと、ひとりの難解なギター、そして、それを支える郁代のバッキングが鳴り響き、すべてリョウの真っ直ぐな歌声をより遠くへ響かせている。
この曲を聴くたびに、ひとりの脳裏には、前にいたバンドは青臭いけど、真っ直ぐで好きな歌詞だったといつか言っていたことが思い返される。やりたいことだけをやる、書きたいことだけを書く、弾きたい曲を作る、気怠さとは真反対の真摯さで、彼女は自分を貫き通しているのだ。
――だから今、彼女の表情は明るくて、輝いているのだ。
そんなリョウの奥で、笑顔を振り撒きながら楽しそうにギターを弾く郁代。
最中に目を盗んで彼女へ横目をやると、既に楽しい気持ちだったはずの気分は、さらに高揚して青天井に楽しく嬉しくなってきた。それくらい楽しくて仕方ない。
頼もしい彼女らに合わせ、ロジカルなリフを弾き、音を預ける。
いつしかリョウの想いと決意は、美しさと侘しさを同居させたモルフォ蝶のような青い蝶となって、抑圧された虫かごから飛んで行っていた……。
それから、マイクはまた郁代へと渡り、一曲また一曲、着々とライブが進んでいく。
もはや自分のものではないように思える高ぶりを抱きながら、恒星を繋ぐように列車で巡り、ギターの歪み音に心を寄せる。理解など端からする気もないすべてに自分を語る資格はないと言い、激しい自分と静なる自分、重なる自分にまた戸惑う。
郁代の圧倒的な歌唱力で踏破していく山々。もし感情がそのまま具現化しようものなら、圧死してしまいそうなぐらい気持ちがこもっている。
ある有名な歌手が、歌う時はお客さんが気持ちを乗せる分として、感情を一定以上は込めないようにしている、と言っていたのを聞いたことがあるが、今日の郁代は、いつものが百だとしたら、百二十パーセント、自分のすべてを全力でぶつけていた。
プロとしては美しくない歌い方かも知れないが、心に響く、それこそ、心の奥底にある光が当たらない部分まで照らせそうな声は、ロックそのものを体現しているといっても過言ではない。少なくとも自分はそう感じている。
その空気感――言うなれば「私たちの世界」をそっくりそのまま次のボーカル、虹夏へと繋ぐ。
歌い出しから、彼女の明るくエネルギッシュな魅力が、はち切れんばかりに飛び出した。
ドラムを叩きながら歌うという、難易度の高いことをやってのけなければいけないため、リハーサルの時にほんの僅かリズムが乱してしまったこともあったが、そんなポイントは初めからなかったと思えるぐらいスムーズに超えていく。
十何メートルの巨大な波を簡単そうに滑るサーファーのように、虹夏は、会場の、自分の、感情の高ぶりの波に乗って、音と一つになっている。
そして、自身に満ちた顔で、あの〝バッキングが大変な曲〟へ突入していく。
先程までの青春の儚さを帯びた曲から一転、二つ打ちドラムの激しい曲調へと変貌を遂げ、会場のボルテージが突沸した。
虹夏の歌声はまるで光煌めく矢のようで、光陰より速く飛んで過去から真空パックされたそのままの気持ちを届ける。希望と、期待と、痛みと、苦しみ――彼女自身の青く若い感情の全部が、夜空を吹く風のように冷たくて暖かい。
自分の好きなようにギターを弾いていても、後ろから迫り飲み込んでくる純然たる黄色。それに、抗うように、委ねるように、譜面を共に駆けて行く。
幾重にも会場を巡った残響が耳から消えていった頃には、視界に映るすべてのものが黄色一色に染められていた。
フロントマンたる郁代のカリスマで、虹夏の感情的かつ精緻なビートで、リョウのアグレッシブなベースラインで、そして、ひとりの叫ぶようなリードギターで、この会場は何を言っても、何をしても、無条件で盛り上がってしまいそうな――狂気、洗脳、という言葉は強すぎるが、勝るとも劣らないぐらい、彼女たちの「世界」が完成していた。
昔に書いた歌詞をこんな大勢の前で歌われるのは、正直言って恥ずかしい。が、この雰囲気なら自分のちっぽけな心情のことなど忘れられる。
ギターを錨にして、荒れ狂う感情の海に留まって、波に船体を揺られ揉まれながらも叫び続ける。
その理想に全身全霊で挑み続けていたら、開演から二時間弱が経っていた。
虹夏や郁代がしゃべり倒す暇な時間を使って、予定では――、とひとりがこの後の流れを考えていたら、虹夏の神妙そうな声がスピーカーを通して聞こえてきた。音響設備の出力が強すぎて、虹夏本人の声は後ろからは聞こえない。
「ここで残念なお知らせがあります」
この言葉で一瞬にして、客席の纏う空気が百八十度変わった。
「実はこのライブ――」
この場にいる全員が言葉の続きを、固唾を飲んで見守っている。
「もう終わりなんですよね~」
何を言い出すかと思えば、だった。
その虹夏の明るい声で、一気に観客の心の緊張が弛緩したのを肌で感じた。まるで、コントでボケに対して、皆でズッコケる、そんな感じだった。
「――でも、次のお知らせは、本当にとっておきだよ!」
「……な?!」
そんな話打ち合わせで聞いてない……!
マイクが自分の手元にないことをいいことに、思わず声を漏らしたひとりは、眉に困惑を湛えながら他のメンバーを見る――リョウは平然としていたが、郁代の横顔からは自分と同じように戸惑いの表情が薄っすら浮かんでいた。
まさか、四月の飲み会で彼女が言っていた「びっくりするような企画」とはこのことでは――?
ひとりの推察の答え合わせは虹夏の次の言葉でなされた。
「なんと! 新曲の大型タイアップ決まりましたー! パチパチパチパチ~! どことは言えないけど、ぶどう味とかオレンジ味の炭酸を作ってるとこだなんて言えないけど! 新商品のタイアップ決まりましたー! 大事なことなので二回言います!」
会場が「おめでとう!」と、拍手と大喝采に包まれる。
虹夏はさんざめく観客から一旦目を離し、ひとりと郁代にこれが例のことであると目配せしてきた。
そのアイコンタクトですべてを飲み込んだのか、つい数秒前までひとりと同じように目を丸くしていた郁代は、空気を読み切った満面の笑みではしゃいでいた。
タイアップの告知で霞んでしまっているが、実質、新曲の告知でもあるのだ。
群衆の祝賀気分と、背負うには大き過ぎる期待に諭されて、あのリョウですら淡い笑みを浮かべながら拍手をしていた。
それに倣って自分も手を叩く。
でも――――なんだろう、この気持ちは……。嬉しいことのはずなのに。
……。
…………。
耳をつんざくほどに世界の音が鳴り響いている。
ひとりは右後ろで弾けるような笑顔を浮かべている虹夏を見た。
「では! みなさんお待ちかねの曲名発表ですっ!」
虹夏自らドラムロールをし、さらに熱気を高めていく。
「じゃん! 『スターライト・スターダスト』っです! 作詞作曲はAmeさんです! そして、八月十四日に配信開始です!」
ファンたちの拍手や歓声、指笛に混じって、「Ameとかすご!」だとか、「めっちゃ楽しみ!」だとか、好意的なメンションが返ってきていた。
対バンもしたことがある彼女のユニット――クリムトの夜は、ワラビがマイクを握り、曲はすべてAmeが手掛ける、ネットを起点とするアーティストだ。今や新曲を出す度に、必ずと言っていいほど楽曲の総合チャート一位を取る、不動の表現者となっている。
どのメディアを見ていても彼女たちの曲を耳にする日は多い。
作詞者、作曲者として出世街道を突き進んでいるそんな彼女だが、初めて直に会った時から自分と同じタイプの人間だと感じていた。
俯いている自分、逃げている自分が嫌いで嫌で仕方なくて――自分を変えてくて毎日抗っている。
誰にも理解されず、終わりも見えず、ただただ辟易するような孤独な戦争。
それを彼女もしていたのだ。
だからこそ、友達になれた。
そう思うと、先程まで感じていた胸の痛みは鈍くになった気がする。巻き起こる地響きにも似た轟音、その中で。
しかしそれと同時に突然やってきた、レコーディングも何もしていない焦りと不安は一旦置いておいておこう。これからの地獄の日々を今だけは忘れさせて欲しい……。
「よし! 誰にも言われてないけど、アンコール行っきまーす!」
唐突な虹夏の掛け声に、裏方が急に忙しく動き始めたのを視界の外から感じるが、すぐに足元にある液晶パネルにゴーサインが出る。
それを見て、ひとりたちは演奏の準備に入る。
際立って染められた暖色的なあらゆる感情は空間を満たし、膨張し、破裂しそうだ。
お客さんたちの感情、演奏する私たちの感情――それらは一つの大きな奔流となって狂喜乱舞している。その迸る川から少しでも不純物を生み出したくなくて、今宵を余すことなく完全燃焼させたくて、ギター、ドラムスティック、ベース――それぞれが手にしているものに力が入る。
皆の願いは同じだ。
そして、郁代が小さく息を吸った。
「みんな、今日は来てくれてありがとう。こんな楽しくて最高なライブにできて、ほんとはもう泣きそうなんだけど、今は止めておきます。ほら、可愛い女の子には素敵な笑顔が似合うでしょ? はい、そこ笑わない! まぁね、そんな冗談はさておき、笑顔で終わった方が絶対いいのは本当で。だからみんなも! 体の中にあるエネルギー全部使って! 笑顔になって! 最後まで一緒に楽しみましょうね!」
その言葉通り、郁代は太陽のような笑顔を浮かべている。そしてきっと私たちもそう。
「ラスト二曲連続で! 『ギターと孤独と蒼い惑星』と『光の中へ』!」
「あー、楽し過ぎたけど、疲れ……た」
正子。つまり、午前零時。
閉演から四時間ほど度経っているが、ようやく一息つくことができた。
会場から撤収し、ホテルに帰って来た後も、明日の用意と打ち合わせ、それから、軽い打ち上げをしていたら、こんな時間になっていたのだ。
「あ、いつものやらないと……」
ひとりは、大阪に来た初日のようにベッドにうつ伏せになっていたところだったが、身体に鞭打って無理矢理起こし、この階の端にあったはずの自販機を目指す。
人気のない廊下を進む。
途中にある虹夏、リョウの部屋はもう静かになっており、失った分の体力回復に努めていることが窺えた。それを想像するだけでこちらまで眠くなってくる。
「ふわぁ……」
自分の中で、そんなルーティーンなんか明日でもいいじゃないかと、悪魔が囁いているが、矜持を守る体力がまだ少しだけ残っているので、目をこすりながら、欠伸を噛み殺しながら歩く。
だが、郁代の部屋の前を通った時、耳を疑ってすっかり目が冴えてしまった。
なんと、彼女は歌っているのだ。
ライブでかなりの時間歌っていたのに、また歌っているのだ。
大きな音ではないが、漏れ出てくる郁代の声。何万回も聞いたそれなのだから聞き間違えるはずがない。
ははは……。
何をも言えない乾いた笑い声が心の内に響いた。
明日、言っておいてあげよう。
そんな風に考えていたら、いつの間にか自販機の前に辿り着いていた。
「うっ……」
ここまで来たのはもちろん儀式的にコーラを飲むためなのだが、明らかに小さいボトルなのに価格はそこらのコンビニで買うよりも高く、財布の痛みが声となってひとりの口から出てしまった。
「最近なんでも高いなぁ……」
どこへ向けるでもない言葉を迷惑にならない程度の声量で言いながら、ボタンを押して、スマホをICカードリーダーにかざす。
ピッ、と購入完了の合図が鳴り、商品が落ちてくる。
「……えっ、ちょ……。。はあ……めんどくさい」
だが不運にも、下手なところに落ちてしまったため、取り出すのに苦戦を強いられた。仮に今が昼間で、後ろに人が並んでいたり、衆人環視の中であったら顔が真っ赤になっていたに違いない。夜の深みに感謝だ。
無事にボトルを取り出したひとりは。指先から伝わる冷たい感触を楽しみながら近くの一人掛けの椅子に座る。お尻の形に合わせて座面のクッションが歪んだ。
………………んー、やっぱり何か違う。
部屋のものもそうだったが、ここまで「座り心地のいい椅子」であると逆に落ち着かない。ツアーでいつも泊まるような安い宿の方が肌に合う、庶民的な自分が恨めしい。
――プシュ。
人っ子一人いない廊下にペットボトルのキャップを開ける音が響く。
虚しくもその音はカーペットや壁紙に吸い込まれてしまい、何も残ることはないが、この空白は文字通り〝昨日のことのように〟思い出すライブの記憶が埋めてくれた。
今思うと、あれは嘘だったのではないか。
あんなに心奪われる光景は夢なのではないか。
そんな風に強く思ってしまうほど、忘れられない、忘れたくない、素晴らしいものだった。
ひとりは背もたれに寄りかかりながら天を仰ぎ見る。
「はぁ……、でも、やっぱり――……」
よく分からなかった。
「分からない」というのは、自分がバンドを続けていく理由のこと。
最近は場数を踏んできたからか、ライブ中でも冷静に物事を考えられるようになってきたのだが、それでも基本的には彼女たちとライブしていることが「楽しい」という気持ちが頭を埋め尽くしているため、いつかの夜から今日の夜まで、本質的な「自分が向いている方向」には気づくことができていないのだ。
「はぁ……」
「どうしたのよ、ため息なんかついちゃって。幸せが逃げちゃうわよ」
視線を前に戻すと郁代がいた。
手にはスマホだけ握られていて、彼女も飲み物を買いに来たらしい。
「なんかいつもの癖です。深夜って、そういう気分になる時――あ、喜多ちゃんはないかも知れないけど……」
「そーかもね」
郁代は、ひとりが話しているうちにこの場に来た目的を果たすべく、自販機の前に移動していた。背中越しに返す声は、何を買うか迷っているらしく、どこか投げやりだった。
「ね、ひとりちゃんはいつも通り?」
「はい」
ひとりはボトルの口に唇を当てながら答える。息が当たって、ぼあっと笛のような音が鳴った。
「じゃあ、私もコーラにしようかなー」
そう彼女が言い終わる前に、自販機からガコンと商品が取り出されるのを待っている合図が聞こえた。そして、中身が濃褐色の液体に満たされたボトルとすんなり手にして、ひとりの隣の席へ座ってきた。
お互い顔を見合わせることなく、ただ前を向いて座る。
「あ~終わっちゃったー」
「まだツアーは終わってませんけどね」
「なんか全部終わっちゃ気がするけど、そうなのよねー」
郁代の伸ばした足が視界の端に映る。
彼女がどんな表情を浮かべているのかについては、自分の前髪に隠れて見ることはできないが、足先を少しバタつかせているので、どんな感情をしているのかは分かった。
余韻が二人の間を埋めているせいで、キャップを開ける音、中で弾ける炭酸の音――そういうものがよく目立つ。
空調の穏やかな微風が流れる空間で、ひとりは言っておいた方がいいことを思い出した。
「あの、喜多ちゃん、さっき部屋で歌ってましたよね……。外まで聞こえてたんで……」
「んぐ!? ぷはっ……ごほっ、ごほっ!」
「き、気をつけてください……!」
きっと彼女は知らなかったのであろうと、驚いたゆえの咳が物語っていた。
その咳がようやく収まり、次に口を開いた郁代からは、
「そ、そうなの?! 全然気づかなかったわ。自分の中では小声で歌ってたつもりだったから」
と、予想通りの言葉が返ってきた。
「今日ライブやってて気づいたこととか、こうした方がよかったかもって考えてたら眠れなくて……迷惑だったわよね、ごめんなさい」
「い、い、いえ、喜多ちゃんを責めるつもりじゃないので……あ、頭上げてください」
郁代は礼儀正しくも、へそをひとりの方へ向けながら頭を下げていた。
「――私はそんな喜多ちゃんが羨ましい、というより眩しいだけだから……」
「私が……?」
頭を上げた彼女の顔に浮かんでいたのは「怪訝」。
「そうです。そういう、いい意味でヘンに真面目なところとか、私にはないものをたくさん持ってるのが……。たまに感じちゃうんですよね、喜多ちゃんは本当にここにいていいのかなって。どこでもやっていけそうな雰囲気がするから……あはは、ほんといまさらですよね!」
肌に纏わりついて気持ち悪い夏夜の空気のように、ドロッとしたひとりの思いが吐露される。
だが、そんな卑屈な考えを郁代は笑いながら一蹴した。
「そんなわけないでしょ。ここは私にとって、世界で一ば……んではないかも知れないけど、とっても、とっっっても大事にしてる居場所なんだから」
「い、一番じゃないんですか……?!」
「嘘、嘘、一番、一番よ」
「ふふ」
「ふふふ」
杞憂をしていた自分に対してか、十年来の戦友に対してか、岩の割れ目からそっと花が咲くように温かな笑みがこぼれる。ひとりはそれに満足を覚えた。
「大きいライブが終わったからかしら、なんだか今日はセンチメンタルな気分になっちゃうわね、お互い」
「はい」
「じゃあ……」
郁代はそう言うと、ひとりの方へ腕を伸ばして飲みかけのペットボトルボトルを出してきた。その意志を汲み取って、ひとりも郁代の方へボトルを向ける。
「さっきの〝お酒が飲めない〟打ち上げでもう一回したけど、はい――」
「「乾杯」」
プラスチックのくぐもったパッとしない音がした。
「ふわぁ……」
忘れていた眠気が一気に襲い掛かってきた。一刻も早くベッドで目を閉じたい……。
ひとりは残り少ないコーラを一気に飲み干し、席を立とうとすると、郁代が声を上げた。
「あ、ひとりちゃんに会ったら言おうと思っていたこと忘れてたわ」
それほど重要な話でなかったら、すぐに部屋に戻ればいいや、と部屋へ誘おうと強く手を引いている睡魔を突っぱねて、ひとりは浮いた腰を再び席へとつける。
「ねぇひとりちゃん、あのこと知ってた? ほら楽曲提供の話」
ひとりが夢の世界へ旅立てるのはまだ先になりそうだ。なにしろ、自分も気になっていた話題なのだから聞かない選択肢は存在しない。
「いえ……。四月の決起集会の時に虹夏ちゃんが『企画考えてる』って言ってたのを聞いたぐらいです」
「やっぱそうよね~。私もあの日の次の日に虹夏さんから、『驚くようなことがあるかもー!』ってロインが来たくらいで、他はなぁんにも。ま、とりあえずはこのまま最高のライブをし続けて、それから新曲のレコーディングもして……、ふわぁ……頑張りまひょうね」
郁代は生欠伸をしながら話している。自分とは違って郁代のような体力がある人であっても、さすがにたくさん動いた日の深夜一時近くでは、疲れが袖を引きベッドへ誘おうとしてくるようだ。
「――もう寝ましょ……明日、というか今日もあるし……」
抗えない睡魔に身を預けるらしく、彼女はいつの間にか飲み干していたコーラの空の容器を手にゆっくりと席を立つ。
偶然始まったブレイクタイムはここでお開きだ。ひとりも立ちがる。
「私たちに驚いて欲しかったのは分かるんだけど、なんか釈然としないというか、いつもの虹夏さんらしくないというか……ね。――はい、それ持っててあげる」
「あ、ありがと」
郁代に空のペットボトルを手渡すと、彼女の手によってそれは専用のゴミ箱を吸い込まれていった。その光景を見送ってから、ひとりと郁代、各個人の部屋がある方向へ歩き出す。
部屋まで辿り着く間、彼女は水底から上がってくる泡のような言葉を紡ぎ合わせていた。
「大きいことが……私たちが知らないところで勝手に進んでたってことが……別に私のこととか、ひとりちゃんのことを蔑ろにされたとは思わないけど……。ほら虹夏さんもバンドのためを思ってやってるわけだし……。――でも、こう……もっと私たちに相談して欲しかったというか…………ね、ひとりちゃん……」
同意を求めて郁代がひとりに話を振る。
それにひとりは首を縦に振る。
「……」
「……」
これ以上の会話はなかった。お互いに眠すぎてもう脳が回らない。
そうこうしているうちに部屋のドアの前に辿り着いていた。
「ふわぁ、まあいいや、おやすみーひとりちゃん。また朝に……」
「おやすみなはい……」
郁代と別れて自分の部屋に入った時から、それ以降の記憶はすっかりなかった。