七月十三日。
三日連続のライブを終え、丸一日休息を取った次の日。
喜多郁代は、結束バンドが所属するレーベルの会議室にいた。
窓から見下ろすビル群は、しとしとと降る雨に濡れていて、鈍色が上にも下にも無限に広がっている。そのモノクロが部屋の中にまで忍び込んできているのか、場は不自然にも静かで、まるで手術室から執刀医が出てくるのを待っているようだった。
今日は新曲の打ち合わせだけだと思っていたので、次はどんな曲かしら! とウキウキで洋服を選んで来たら度肝を抜かれた。どう見たってひとりも、虹夏も、リョウも、いつもの調子ではない。そういう「空気」に侵されたと感じるほどに。
郁代は恐る恐るテーブル奥の一つ空いていた席に座り、隣に座っていた虹夏へ疑問を投げかけた。
「あの~」
「どうしたの、喜多ちゃん」
「なんでこんなに静かなんです……か?」
「あー、司馬さん来れば分かるからちょっと待って」
「は、はい」
どうして黙っているのか聞けば、こんな感じに彼女がはぐらかしてくる。しょうがないと、郁代はスマホでイソスタを流し見ながら時間を潰すことにした。しかしどうしてか、たかが数分の待ち時間が長すぎるように感じる。焦りにも似た落ち着かなさが警鐘を鳴らしていた、今回は只事ではないと。
「みなさんお待たせしました」
三回のノックと共に入室し、壁に備えつけられているホワイトボードに近い席に座った都。彼女の風采からは、いいニュースも、悪いニュースもあるようには見えない。
「足物の悪い中ご足労いただきありがとうございます。京都、大阪、兵庫のライブ、お疲れさまでした。さて、さっそく本題に入りますが、この件は私がご説明するより、伊地知さんがなされた方が早いでしょう。ですから、よろしくお願いします」
「えっ、私がですか!?」
ええ……、と虹夏は心底苦しそうな顔をしながら、ホワイトボードの前に立った。そして開口一番――。
「ごめんなさい!」
彼女は、緩やかに結ばれたサイドテールを大きく揺らしながら頭を下げた。
突然の謝罪にこの場にいる全員が驚き過ぎて、頭を上げてくださいと、お決まりの文句を言うまでにラグがあった。
「えっとね、今のごめんなさいは二つのことに対してなの。一つ目は勝手にタイアップと新曲出すって決めたこと、二つ目はこれからのバンド活動が先行き不透明、というか、「危機」を招いてしまったこと……リーダーなのに」
一つ目のことは私自身も知っていたことだったから、話題に上がっても驚きもしなかった、けれども、二つ目のことに関しては初耳で、簡単に聞き流せるものではなかった。
「き、危機ってなんですか……?」
ひとりが恐る恐る虹夏に訊ねる。
「このままだとバンドがなくなるかも知れないってこと」
解答はこの重大さと比べ物にならないくらい、シンプルなものだった。しかし、彼女の話には続きがあった。
「――だから、Ameさんにお願いしたんだよ、曲を書いてくださいって。もちろん、「理由」は言ってないけどね。不本意って言い方は彼女に失礼過ぎるけど、バンドの現状を変えるには周りの人から力を借りるのもありなのかな……って思ったんだ。――――相談なしに決めてごめん、ぼっちちゃん、喜多ちゃん、殴るなら私を殴って! お願い!」
ずるい。そんなこと言われたら――。
「そんなこと言われたら、何も言えないじゃないですか……。いつもと違う曲、楽しみにしてます」
郁代に続いてひとりも「楽しみです」と言う。
もともと異論なんてない。ただもっと私を頼って欲しかっただけ。自分とは関係ないところで話が進むのが寂しかっただけ。だけど、大好きな居場所がなくなるのはもっと嫌だ。
「殴られないと気が済まないから、殴ってよー!」
「ええ……、じゃ、じゃあ、一発だけ……」
「し、失礼します!」
郁代とひとりは席から立ち上がり、机を挟んで正面にいる虹夏の元へ移動する。そして、目をぎゅっと瞑り、衝撃に備えているなんとも幼気な虹夏のおでこに、軽くデコピンを一発ずつ二人で打った。
「い……っ、たくない」
「虹夏ちゃんがいつもみんなのことを考えてたの、分かってたので」
優しい声でひとりが言った。その言葉に相槌を打つ。
「……あ、ありがとう、二人とも…………」
「……あれ? リョウさんは?」
リョウも私たちと同じように何も知らないのでは、と彼女に訊くと、一人椅子に座ったままのリョウは唐突に口笛を吹き始めた。
分かりやす過ぎて、逆に可愛い……。
まるで彼女の周りだけ、時空が往年のカートゥーンの世界になったようだった。
「リョウはね、私の『共犯者』なんだよ。つまり、このことを知ってたし、協力もしてた」
「あーね?」
数秒間口が空きっぱなしになって声が出た。反応に困る。
隣に立っているひとりも、何をすればいいのか、なんて反応をすればいいのか分からず、しどろもどろになっていた。
「あ!」
虹夏がいいこと思いついたという声を上げ、停滞した空気を突き破る。
「今度さ、リョウの奢りでみんなでご飯食べに行こうよ。ちょうどいいし、Ameさんとか誘ってさ」
これは禊だよ、と彼女は目で言う。
「それ、虹夏が言う?」
「言えることだよ~、だってみんなの前でしっかり謝ったんだから」
「うっ、虹夏だけだと思ってた……」
「ほらほら」
虹夏が促してやっと、リョウが重い腰を上げた。そして、郁代とひとりの前まで来る。
「――条件つきで、なんでもするので許してください」
「な、な、なんでもって言いました!?」
狼狽えているリョウの顔をまじまじと見ると、照れくささからだろうか、髪の中から少し見える耳がいつもより赤みを帯びている。
「――条件、つきだから」
こんな表情が見られると知っていたならカメラを回していたのに! いや、一度しか見ることができないからこその価値があるのかも……。
「じゃあリョウさん、今度、飲み物奢ってください」
「分かった。業スーでいい?」
「え?」
脳内でどうしようもない悩みごとを繰り返しているうちに、ひとりはリョウと約束を取りつけていた。それに続こうと郁代が口を開いた瞬間――。
「はい、円満に解決したところで、次にいってもよろしいですか」
そう都が打ち合わせの音頭を取り、すっかり忘れていた現実に連れ戻された。まったく、最初の緊張感溢れる空気はどこへと行ったのだろう。
「あっ! ひとつ訊いていいですか?」
重要なことを訊き忘れていた。絶対にこれを知っておいた方がすっきりする質問がある。
都は郁代のその投げかけに頷いて答えた。
「いつから……その、危うかったんですか? 確かに一番勢いがあった時よりは、お客さん減ってる気がしますけど……。結構キャパが大きかった大阪だって埋められましたし、予感なんて全然なかったので正直疑問ではあるんですよね……」
バンドメンバーで一番観客を見渡せる位置に立っている自分だからこそ感じた、違和感。SNS、MVのコメント欄、ライブの雰囲気――嵐が来ているなんて全く感じさせないほど、いつもと変わらない。
「これは虹夏さんの言い方が悪かったですかね。〝現時点で〟ではなく、一、二年後とかあるいはもっと先の話なんです。誤解を恐れずに言ってしまえば、可能性の話なんです、これは。というのも、おととしの夏前後からじわじわと人気が落ちてきていて……。今回の大阪は初めてのZeepいうこともあって、ご祝儀感覚でチケットを買ってくれたようですが、機材席なんかは開放してないですし、会場をフルで使ったわけでないんですよ。もちろん、みなさんがそのことを知らなかったのは……私と伊地知さんが渡す情報を渋っていたからですが――」
「そんなに前から……」
衝撃的な事実だった。自分たちが暢気に笑っている中、恐ろしい現実は音もなく這い寄って来ていたのだ。
虹夏は黙っていたことについて全力で手のひらを合わせて、ごめんと再び謝っている。
「――ということは……私が提案したこのツアーって、ものすごく負担が大きいんじゃないですか……?」
「ええ、まぁそうではあるのですが……せっかくの十周年ですし、注目を浴びるチャンスでもあるので、私が一肌脱ぎました。ジリ貧になっても困るので。でも実際、時間と共にバンドの人気が落ちるのは普通で、みなさんの場合はまだ全然――――」
「司馬さん! そんなことないよ。ない。ないに決まってるよね?」
「ええまあ、確かに芽を摘んでおくことは大事、ですね」
虹夏の気迫が一瞬だけ、いつも通りなら見られない強情さを秘めているものに変わった。それに都だけでなく、私たちも気圧された。
「…………えーっと?」
困惑が占める微妙な空気を正したのは都だった。
「とにかく、喜多さん、納得していただけましたか?」
「……は、はい!」
とりあえずは状況を飲み込んだとはいえ、急にやってきた目が醒めるような事柄に、どうも地に足をつけているまともな感覚はない。しかし、何が正しいか分からないとしても、今はがむしゃらに頑張るしかないことだけは唯一確かだ。
その決意はこの場に揃った全員が同じで、硬く柔らかい不可思議な糸が四人を結んでいた。
「では、話の続きをいたしましょうか」
厳かな空気の中、各自が重々しく足を動かし席に座り直す。「戦略会議」は再開された。そして、ようやく話のさわりに入る。
「今日、みなさんをお呼び立てしたのは新曲の打ち合わせのためです。もちろん「現状」をお伝えするためでもありましたが――」
それからの話はこうだった。
ライブの空白期間を利用して収録するため、スケージュールが詰まっており、早速だが来週にレコーディングをする、ということだと言う。
「――との予定なので、体力的に、時間的に厳しい部分が多々……いや、〝しか〟ないと思いますが何卒よろしくお願いします。あ、楽譜の方は山田さんから受け取ってください」
これで今後すべてを左右する会議が終わる。
果たして、本当に今までと同じように私たちは夢を追いかけ続けられるのか。それに――。
頭中に疑問符が古いインクの如く染みついて、黒く滲んでいる。
隣のひとりを見ると、彼女も自分と同じような思いを抱いているのが表情から見て取れた。
「あの……本当に、大丈夫なんですか?」
郁代の口から不安が自然に零れる。「決意」と「確証」はまったくの別物なのだ。
「何においても保証があることなど……、ある方がまったく貴重なものです。ですが、今私たちにできることではあります」
「……」
「――みなさん、一緒に頑張りましょう」
会議が終了した。
頭の中では様々な情報が十把一絡げになっている。整理しなければ、腹を括ることも何もできそうになさそうだ。そこで、今日はとりあえず早く家に帰ろうと、会議室から駅までの道中でみんなに視線を向けると、気持ちは同じだったようで、そのまま駅でそれぞれの家路についた。
レコード会社を出た途端に襲ってきた肌に纏わりつく生暖かい空気が、体表にある冷房の空気のベールが剥がし、じわじわと汗が出てきている。一刻も早く家に帰ってシャワーを浴びたい気持ちでいっぱいで、けれど、こんな状況じゃなくても帰りたかったかも知れないと思うと、少し可笑しかった。
家を出たときは太陽が煌々と照っている昼だったはずが、胃が重たくなる打ち合わせを終えると、額に油を浮かべた会社員たちが町を練り歩く時間になっている。その事実が、理解はできるが何をすればいいか分からない現状に対して、より一層の頭痛を引き起こしていた。
電車を乗り継いで二十分強、途中のコンビニで買った晩酌用の缶チューハイとミックスナッツをぶら提げて自宅に辿り着く。そのころには、あの場で感じていたグルーミーな胸懐もすっかり消え失せ、新曲への期待に挿げ替えられていた。
「ただいま~」
そう言いながらドアを開け、補助灯だけが点いている薄暗く涼しい玄関に足を踏み入れると、タタタと愛猫が飛び込んできた。普通なら自分が帰ってくるのを心待ちにしていた猫に、どうしようもなく愛おしさを覚えそうなものだが、「サクラ」の場合はどうせ、早くメシにしろ! といった具合だ。つき合いもそろそろ三年になるし、生活の一部になり過ぎて大きく心を動かされることはなくなった。無論、可愛いが過ぎるが。
「はいはーい、ご飯ね~」
そう口では言いつつも、とりあえず先に、買ってきたお酒を冷蔵庫に入れ、ナッツをダイニングテーブルに置く。その間、ずっと足にすり寄って来ていた彼女に、やっとご飯をあげると、カリカリと食べている姿が可愛くて可愛くて、猫を飼ってよかったと心底思う。自分一人だと寂しくてしょうがなかっただろうから。
四年か三年ほど前、大学を無事ストレートで卒業した私に、親からやっと一人暮らしの許可が出た。その許しに胸を躍らせながら、部屋を選び、引っ越しをし、ギターと歌の練習環境を整えていざ暮らそうとした時、胸にふとある感情が湧いた。それは「寂しい」だった。部屋は別に1LDKで広くはないし、自分の好きなもので囲まれて生活できるのに、だ。今になって考えてみれば、ひとりが一人暮らしを始めようかという時に、一緒に住まない? と聞いたのは、私の心の奥底にあったベクトルを無意識に感じ取ってのものだったかも知れない。さりとて、ルームシェアするから家を出て行くね、なんて言っても、心配性の母親にまかり通る話ではなかっただろうが。――そうして、何かいい方法はないかとみんなに訊いてみたところ、動物を飼うということだった。
「猫なんていいんじゃない?」
リョウの言う通りにしようかどうか、でもちゃんと最期まで見切れるのか自信がない……。一、二週間悩んだ末、初めて動物を飼う不安から素直にペットショップで用具一式と、灰色のアメリカンショートヘアのサクラをお迎えした。一目惚れだった。ちなみに名前は自分の誕生花から取った。
これは後で聞いた話だが、リョウは私に猫を飼わせてMVに出したかったらしい。なんでも猫とロックバンドの相性はいいからだそうだ。まだそんなことにはなっていないが、もしそうなったとしてもうちの猫ちゃんは世界一可愛いので何の問題もない。逆に、猫にしか集中できなくて、曲が耳に入らなくなるか心配になるぐらいだ。
そして、現在に至る。
「あー、これからどうなっちゃうんだろ……。別に音楽はどこでだってできるけど、さっ。――――それより、ここの家賃がヤバいかも……。そうね……、ひとりちゃんみたいにオーチューブでも始めちゃう? あとイソライ増やした方がいろいろいいわね……」
湯気が立ち込める風呂場に郁代の声が響く。
軽くシャワーで済ましてしまおうかとも考えたが、蒸し暑いからこそお湯に浸かろうと沸かしたのだ。バスソルトをガンガン入れて汗をかくことで、体形維持も兼ねている。世の中には風呂に毎日入らない人もいると聞くが、考えるだけで恐ろしい。入るか入らないかはその本人次第だけど。
郁代はゆっくりとお湯を手で掬いあげて、意味もなくちょろちょろと湯船に落とす。
「そろそろ一時間半……。そろそろ出ようかしら」
入り過ぎても毒なので、頃合いを見て切り上げることにした。
最後にシャワーを浴びて塩を落として、脱衣所へ上がる。風呂場の外に出ると、エアコンでしっかり冷やされた空気が肌を撫でて心地よかった。
全部猫のためにエアコンをつけっぱなしにして家を常に快適しているのだが、毎月の電気代の請求通知は見なかったことにしている。特に夏は――怖い怖い。
着替えて、髪を乾かして、美容液、乳液、保湿クリームの三種の神器を肌に塗りたくった後、リビングへ向かう。廊下のドアを開けると、すでにご飯を食べ終わり、床で眠そうにしているサクラが見えた。猫はいつも暢気で羨ましい。もしかしたら、彼女、彼らなりの重大問題を抱えているのかも、と思う時もあるけど。
一方で、目下この人間の悩みは、晩ご飯をどうするか、である。しかし問題というには浅はかで、答えはすぐに出た。
「ま、あり合わせでいっか!」
昨日なぜか大量に作ってしまったカレーと、パックご飯、冷蔵庫の野菜室にあったサラダのパックを皿に出して、完成!
誰かを家に上げてたり、誰かのために作るなら頑張れるが、自分のためのご飯は結構気合いがいるので、いつも簡単なものになってしまう。たださえ家事って面倒くさいからしょうがないよね! と自分を肯定している日々だ。皿洗いなんて、やってもメリットが感じられない。
「いただきまーす」
BGM代わりにテレビを点けて食べていると、なんだか聞き覚えのある声が耳に入って来た。
『あ、あ、あんたたち! 覚えてなさい!』
なんとシデロスの大槻ヨヨコが珍しくバラエティー番組で出ていたのだ。しかも、何かに負けたらしく、罰ゲームを受けながらメンバーに恨み節を言っている。その光景はなんとも微笑ましく、こちらまで、ふふ、と笑みがこぼれてしまうぐらいだった。
……とテレビに夢中になっていたら、今度はサクラが膝に乗ってきた。最近は泊りがけのライブ続きで星歌に預けている時間が長かったからか、昨日、彼女の家に引き取りに行った時から、私の隙を見計らっては甘えてきている。
「ほんとに可愛いでちゅねぇ、ちみは~!」
ただし、こうやってわしわし撫でようとすると逃げる。まあいいかと再び食事に戻る。
時々邪魔をされながら食べ終わると、同じタイミングでヨヨコたちが出演している番組も終わりらしく、最後にライブツアーの宣伝をしていった。
短くニュースとCMを挟んだのち、次には毎週欠かさず視聴しているドラマが始まった。医療と恋愛を組み合わせた、コンセプトとしてはさよくあるやつ。特段話が面白いわけではないし、かと言って、好きな俳優さんさが出演しているわけでもあるまいし、自分でもなぜ見ているか分からないドラマである。だからなのか、お酒と共に見るにはちょうどいい。
…………。………………。
画面の中で主人公の男性医師が、今まさに非業の死を遂げようとしているヒロインに、愛の言葉を並び立て、それにヒロインが応えて、二人は悲しいキスを交わす――。
「あー、分かんないけど、泣けてきた~」
私も大人になってしまったのか素面だと話全体の評価が先に来て泣けないのに、アルコールが入っていると雰囲気で楽しめるからなんだか泣ける。ある〝酒〟のマジックかも知れない。お酒だけに。
「――そう言えば私、恋愛ドラマとか映画とか大好きなのに、実際にしたことないわね……。どうしてかしら……」
ふと頭の中がクリアになって、なぜと疑問が降ってきた。
思い返せば、それでいっつもヘンな目で見られていた。絶対隠してるでしょ、と
「なんでなんだろ」
チューハイを一口、口に含みながら考える。指の先で袋の中のピーナッツをつついて遊んでいたら、答えの輪郭が見えた気がして、探し物をするように言葉を出してみた。
「私は……――――あ、そっか! 恋愛は恋愛だけど、「人」の恋愛を見るのが好きなのかも。でもそれだけだと……うーん…………。ねぇ、サクラちゃんは知ってる?」
そう呼び掛けてみると、にゃあ、とどちらとも取れる返事が返ってきた。
「考えたって無駄よねー、ってそろそろ寝る準備しなくちゃ」
いつの間にかドラマが終わり、もうすぐ午後十時を迎えようとしている。寝る前の長いルーティーンと睡眠時間を確保するには、今ぐらいから動かないといけないのだ。とりあえずこの疑問は、世間でいうところのテレビ番組をテレビで見る習慣と同じぐらい、埃を被せておこう。
そんなこんなで十一時にはベッドに入ることができた。
時間がないことは分かってはいるが、今日だけはこのまま眠らせて欲しい。新曲の練習は明日起きたらにしよう。
「おやすみー」
自分と同じ部屋にいるはずのサクラに声を掛けて、郁代は意識を眠りへと沈めた。
七月二十日。
梅雨も明け、来る香川の公演まであと四日の今日。これから二日に渡って新曲の収録が始まる。
「この日程って、司馬ちゃんも無茶言うよね~」
「彼女らは今ツアーを回っているので、これぐらいしか時間が取れなかったんです。分かってください。お金は払ってますから」
レコーディングエンジニアは都に軽い文句を言っている。「軽く」で済むのは様々な修羅場をくぐり抜けているためか、ただ単純に都と馬が合うのか……。今日も以前お世話になった時と同じように修羅場用のジャージ姿だ。きっとあのポケットには飴が入っているのだろう。
「ほんと、そうですよね~。司馬さんって効率重視的し過ぎてちょっと冷たいところ、ありますよね?」
「分かってくれるんだね、虹夏ちゃん……よよよ」
「はい、もう始めないと明日までに終わらないですよ」
都の冷静な一声で、緩んでいた空気が引き締まり現場が活発になった。
「結束バンドのみなさん、まずはドラムから録っちゃいますねー」
「じゃあ、私たちは別の部屋で練習してます!」
そう郁代は虹夏に声を掛け、皆が集まって話をしていたコントロールルームを出て行く。それにひとりも、リョウも「頑張って」と言い、同じように練習に向かう。隣のスタジオに入ってギターケースからギターを取り出していると、虹夏がドラムの音のチェックと、慣らしとして8ビートを刻んでいるのが壁掛けモニターで見えた。
「あー、緊張して来たー! 何回やっても慣れないわ! ねぇひとりちゃんは大丈夫なの~?」
「喜多ちゃん……、ゆゆゆ、揺らさないでください。あああ、ピックが」
ひとりの手から離れたピックが床に落ちる。それをリョウが拾う。
「ん」
「あ、ありがとう」
「郁代、ちょっと静かにしてくれる?」
「ご、ごめんなさい」
リョウの対応がいつも冷たい。彼女も自分と同じように緊張しているのだろうか。だけど、それも何か違うような……どちらかというと大阪の時と同じだ。こんな風にピリついている時は構わず距離を取って、放っておくのがいいと経験則が言っている――。
「あー私、これから歌の練習するので、別の部屋に使いますね」
「あ……喜多ちゃん……」
郁代はギターケースの中身だけを持ち去って、部屋を出てすぐ隣のスタジオに入る。暗がりに沈む部屋に電灯を灯すと、備えつけのドラムセットと、壁の一側面を覆う鏡が冷たい光を反射していた。自分一人で使うには広すぎる大きさだが、他の二人を気にすることなくのびのびと練習ができて、逆にいいかも知れない…………。
――なんて強がりは、リョウの言葉から香る、決していいものではない感情に触れた「自分」には通用しなかった。
いいものを作りたい、届けたいという熱い情熱と、恐ろしい現実に対する焦燥感がぶつかって、混ざり合って、混沌としている。そんな時に一人になれば、そのドブのように汚くて美しい想念が外へ噴出してくるのは自然なことであった。
「不安」――この言葉に尽きるものが、あの日はそこまで酷くなかったものが、一週間のうちに熟成されて、大きくなっていた。それが今、彼女の言葉に触発されて自分の口を塞いでしまっている。
私の愛する居場所を失ってしまうかも知れない。凡庸で味気ない自分を何も変えられないまま――自分が望む「何者」かになれないかも知れない。
「――――って! 違う違う! こんなことばっかり考えてると、いつか胞子になっちゃうわ! レコーディングに集中しましょう!」
アンプとマイクの準備をしてさっさと練習を始めよう。郁代は心の中に僅かな靄を抱えながらも、新曲のため、みんなのため、私のため、ギターと歌の練習を再開する。
コードをなぞりながら、歌声を五線譜に乗せると、渦巻いていた気分が落ち着いてきた。
――。
――――。
「……ん?」
完成度を高めることに没頭し過ぎて、どのくらい時間が経ったか分からなくなってきた頃、コンコンとドアのノック音が厚い音の中で微かに聞こえた。
「はーい」
「郁代、出番」
少なくとも虹夏の収録がひとまず終わったらしく、リョウが次の番である私を呼びに来たのだ。
「今行きまーす」
高校生のころに彼女から借り、そのまま買い取った水色のレスポール・ジュニアを抱えスタジオを出る。廊下に出ると、ドアの横に立っていたリョウが郁代に声を掛けてきた。
「――郁代、さっきは、その……ごめん。ちょっと気が立ってて……」
彼女は頭を書きながらバツが悪そうにしている。
「いえいえ! みんな緊張ぐらいしますから! ね?」
「……ありがとう」
「お互い、いい曲になるように頑張りましょう!」
「…………」
リョウも少しは気分がよくなったようでよかった。
ミキシング用機械がずらりと並ぶコントロールルームに再び入ると、今さっき終わったばかりのひとりに会った。
「お疲れさま」
「お疲れさま。が、頑張ってください」
郁代は、チラリと疲れを覗かせるひとりに応援されながらブースに入っていく。流し目に、ひとりがレコーディングの見学に来ていたAmeと会話をしている姿が目に入ったものの、今は歌い弾くことだけに集中しているので、知り合いだけど一応作詞作曲者なんだから挨拶しておこう、とは頭に沸かなかった。
「ふうー……」
一歩一歩静かに歩みを進め、部屋に置かれた一本のマイクの前に立つ。
今ここには、ギターと「自分」しか頼れるものがない。しかし、それだけだからこそ、「何者」になりたくなるんだ。
そう心の中で燻ぶっていた願望を思うと、音響のことを考えられているのであろう複雑に波打つ木目の壁、ギターにシールドを繋ぐ時のカチッという音、頭にヘッドホンをつけるとなくなる世界の音、その場のすべてが緊張をただの静謐に昇華させていった。
呼吸を整えて、力を抜いて――――大丈夫。
「――いけます」
エンジニアのOKサインが出、スタジオ内の赤いランプが点灯する。
ヘッドホンから何よりも頼りになるドラム、ベース、ギターの音が聞こえ始め、それに身を預けるように最初の一ストロークとブレスを決める。その「自信」に勢いづかせられた郁代にとって、BPMに支配された四分弱という有限の時間は、無限に終わらないひたすら楽しい時間のようだった。しかし、現実は儚いもので、気づいたときにはギターの残響が響き切っていた。
「はい! いいんではないでしょうか!」
ミスなし。一発だった。
自分の番が終わると、後は瞬きする暇もないぐらい早く終わった気がする。まだ明日もあるのに早くも手応えが熱っぽさに変わって、マネージャーの話が上の空になるぐらいぼおっとしてしまった。
虹夏の相も変わらず元気な声に呼び起こされる。
「喜多ちゃーん、聞いてる?」
「あ、聞いてます! 聞いてます!」
「明日は別バージョン録るので、またよろしくお願いします」
その業務連絡に、ひとりは「頑張ります……」と気合いと疲れを滲ませ、リョウも疲労を顔に浮かべていた。
「――では、確認も済んだことですし、そろそろ解散しましょう。お疲れさまでした。みなさんも、お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします」
そう自分たちに言った後、振り返って周りにも言う都に続いて、自分たちも口々に、しかし大きな声で告げる。
「お疲れ様でした!」
「お疲れさまでした~!」
「お、お疲れ様で、です!」
「お疲れ」
荷物を纏め、スタッフに、明日もよろしくお願いします、と挨拶しながら建物を出ていく一行。拳二つ分ぐらいの互いの間には、ぽつりぽつりと言葉が行き交いしていた。
「ねぇぼっちちゃん、Ameさんとは何話してたの? もう帰っちゃったみたいだけど」
「あんまり、大したことは話してないですよ。楽曲提供、驚いた? とか、そのくらい」
ふーん、とまた会話が途切れる。さすがに自分自身も疲れているので、黙ってしまう気持ちは分かる。しかし、みんなといる時は全力で楽しみたい。
「みなさん! これからご飯行きましょう!」
「いいね、奢って」
郁代の言葉に最初に反応したのはリョウだった。彼女は今日も今日とて金欠なのか、郁代にせびろうと肩にもたれかかる。首に少しかかる息がくすぐったい。
「キャー! いいですよ!」
「もうっ! 喜多ちゃんに甘えないの! それに喜多ちゃんも、リョウを甘やかさないの!」
虹夏がリョウと郁代の頭に優しいチョップを食らわす。
「――というか、リョウに前から言おうと思ってたけど、印税とかでお金だって結構入って来てるはずなのに、まだ金欠なの?」
「あー、それ? 新しいギターとベース買ってたら、いつもいつの間にかいなくなってるだけ。私はお金たちにどっか行っていい、なんて一言も言ってないのに」
「……ったくもう。今のうちからさ、老後のことを考えて貯金とかしておかないと大変なんだよ? 私たちもうすぐ三十なんだよ?! これから何があるか分かんないじゃん」
「あー聞こえない、聞こえない」
「虹夏さん、そんなこと聞きたくないです!」
リョウは両手で耳を押さえ、郁代も頭をブンブンと振って現実を振り落としている。
私たちのその姿を見て面白かったのか、ふふふ、と後ろからひとりの笑い声が聞こえた。それにつられて全員も失笑した。
くだらなく些細なことだが、同じ感情が仲間の中に流れていることに気づく時、心の底から温かい気持ちが湧いてくるものだ。
今宵の月はいつもより綺麗に見えた。
七月二十一日。収録二日目。
「なんだか、時間が経つの早い気がしないですか?」
まるでついさっきまで、昨日だったような気さえする。
「そりゃあ、集中してるからね~」
レコーディングの合間、スタジオで練習している虹夏と郁代の間に会話が流れる。
今日は、リョウが気になっている場所の録り直しや、それぞれのパートで小節単位の別バージョンを収録する日だ。そして、それが無事に終わったら、全員集まって演奏したいらしい。いわゆる、一発録りだ。それを件の配信シングルに入れてみたいと彼女が言っていた。
ところで今は、ミックスの加減が気になるリョウと、そのリョウに付き合わされているひとりの帰りを待っているところである。彼女らの気が済むまであといつまで掛かるのかは分からない――しかし、一発録りに備えるために休んでいる暇などなく、虹夏のドラムに合わせてバッキングの練習をしたり、歌の部分でタイミングが合わせづらい箇所のケアをしたりしている。
ふと部屋の備えつけの時計を見ると、この調整を始めてから実に二時間は経過していた。
「疲れたし、一旦休憩にしましょうよ」
とギターをスタンドに立てかけ、ポケットからスマホを取り出す。その瞳にイソスタのキラキラとした光景を映していると、郁代は、今朝に会った時から気になっていたことを思い出した。
「……あの~、虹夏さん、ちょっとこっち向いて」
「どうかした?」
虹夏はスネアを忙しなく叩く手を止め、怪訝そうな顔を郁代の方へ向けてくる。彼女の顔は、ちょうどよくスタジオの電灯が当たる位置に止まった。そのおかげで、私が感じていた彼女の変化を確かなものにした。
「目の下にクマ……かしら、見えるんですけど、大丈夫ですか?」
郁代は声に心配の色を乗せて話す。
「えー嘘っ! コンシーラーで隠しきれなかったか~」
「大事な時期なんですから、ちゃんと寝てくださいね~。夜更かしお寝坊、だめゼッタイですよ!」
「じゃあ今日は、八時に寝ちゃおうかなー」
笑い声が室内を埋める。しかし、お互いにレコーディングの待機中ということで気が立っており、柔らかな空気はすぐに萎んでしまった。
「――練習、再開しよっか」
「そうですね」
彼女は、私たちが現状を知ったタイミングよりもずっと前から、それを知り、いかにして乗り越えるかを考えてきた。だからこそ、「クマ」が示すことは思いのほか多いはずで……。
――私も、もっとみんなのことを支えられるように頑張ろう。
「虹夏さん! 私にできることがれば何でも言ってくださいね!」
「優しいねぇ、喜多ちゃんは〜 リョウなんかなんも言ってくれないんだよ~!」
「そういうぶっきらぼうなところも素敵じゃないですかー」
「愚痴言う相手間違えたわ」
レコーディングルームで重なり合う音の調和が、ポップさ、ロックさを融合させて、まるで、熟成されたウィスキーのような厚みのあるものになっている。その事実は、Ameの疑いようのない手腕を示すと共に、作曲回りを何も担当していない自分にも分かる高い壁であることが分かった。
「これで結束バンドさんの録り、終了です!」
しかし、一発録りの緊張感が、大変だった収録が終わった喜びへと変わっていくと、頭の端の方へ行ってしまった。
「お……お、終わったー」
虹夏は疲れた笑みを浮かべながら、スティックを持ったままの両手を上げている。
部屋の中も外も、お疲れさまでした、と互いを労う拍手で満たされ、演者もスタッフも関係なく、この場にいる人間のすべてが充足感と疲労感を味わっていた。この空気は好きだ。
「き、喜多ちゃん、こ、こ、これからツアーの打ち合わせだから早く、って虹夏ちゃんが」
そうひとりに伝令をお願いした彼女を目で探すと、早くも外にいた。
「……ふ~」
せっかくサウナでいうところの、「ととのう」状態になりかけていたのに、すぐに三日後のライブの話なんて、忙し過ぎて目が回りそうだ。
「じゃ、じゃ、じゃあ、き、喜多ちゃん、さ、先に行ってます、ね」
「――というか、なんでそんなな話し方なのよ」
なんだか昔を思い出す。
「あー、さ、さっきの演奏の興奮が冷めないというか、なんというか……、私たちもまだまだやれるんだなって感じ、です」
複雑かつ心惹かれる譜面ばかりに気を取られてたが、それについていける自分たちにも相当な実力があるということをすっかり忘れていた。これは大きな自負になる、と自覚した瞬間、芳しくない未来からそっと花の香りがした気がした。
郁代は感情を抑えきれずにひとりの肩へ飛びつく。
「ありがとっ! ひとりちゃん!」
「喜多ちゃん、お、重い……じゃなくて、ありがとう、ってなんですか」
「ありがとうは、ありがとうなのよ!」
そう、何気ない言葉へのお礼だ。
「二人とも、女子高生の休み時間みたいなことしていないで早く来て!」
「はーい!」
「――え、普通の人ってこんなことするもんなんですか……」
「リョウもだよ!」
昔の「ない」記憶にしょげているひとりは気にせず、虹夏はリョウがいまだに残っているブースにも聞こえるよう大きな声で言う。しかし、聞こえていないのか、リョウからは返事はない。
「……リョウさん?」
部屋のドアに一番近かった自分がブースを覗くと、黙ってベースに手を触れるリョウがいた。その様子はまるで黙祷のようで、有無を言わさぬ不思議な雰囲気があった。
しばらく眺めていくと、彼女は満足したのかすっと立ち上がって、背中越しに
「今行く」
とだけ言い、私の横をすり抜けて部屋を後にした。
「二人とも遅いよー」
「すみませーん、つい……」
「ごめん、それでラフミックスは?」
収録したものを軽く調整した音源を早く聞きたいらしく、リョウは珍しく催促している。
「今、やってくれてるって。その間に打ち合わせ」
――――。
虹夏は、みんなが疲れていることを考えてか、事実だけを淡々と並べた。しかし、疲労――それだけが理由ではないような……。普段なら別に気にしない人の心の機敏だが、どうにも自分の心の水面を波立たせている感覚がある。
郁代が口を開きかけた瞬間、見計らったように都が場を整えて話を始めた。
「――では、みなさん集まったことですし、今後の予定の確認を行いたいと思いますが、よろしいですか?」
各々「はい」と返事をすると、簡単に確認事項だけが都の口から述べられた――新曲は予定通り八月十四日に配信のみで一旦リリースすること。その際、オーチューブにリリックビデをアップすること。それから、次の香川公演を含む一連のライブは、岡山までまた新幹線で、それから特急で四国入りになるということ。一応車でも移動できるのだが、今回は時間がないためコストを度外視して時間の予定が立てやすい鉄道を利用するのだそうだ。
既に知らされていた情報ばかりだったが、記憶の補強になって助かった。これで安心だ。
「ラフミックスできたんで、確認してくださーい!」
今しがた連絡が済んだところで、リョウが心待ちにしていたものができたとエンジニアから呼び掛けがあった。
そして、言われるがままに三角の再生ボタンをクリックする――。
どっと一つの「世界」が押し寄せて来た。
明るさと暗さの中間を攻めるキャッチーなリードギターリフ、癖になるメロディーライン、細やかなテクニックが散りばめられたドラムとベース。驚くほどに綺麗に調整されたそれらは、結束バンドの曲でありながら、まったく馴染みのないバンドの曲のようで、初めてレコーディングしてミックスを聴いた時のような衝撃があった。
「……私たちの曲じゃないみたい」
「……はい」
「……私たちの曲じゃないみたい!」
「……はい!」
驚きが閾値を超えて静寂に転じた高揚感が、間を開けて戻ってきて虹夏が飛び切りの明るい声をあげる。郁代もそれにつられて歓喜の色を示した。
「それは、私たち「だけ」の曲じゃないから」
リョウがニヒルな言葉で水を差す。しかし、彼女本人を見ると口元から笑みがこぼれていた。
「…………」
ひとりは瞳を閉じ全感覚を聴覚に集中して、ただ曲に聴き入っている。
――――――。
――――――――――――。
全員が好きなように感情を滲ませ、好きなように音楽を楽しむ。その姿に、これがずっと続けばいいのに、と願わずにはいられない。
何か得体の知れない、けれどポジティブな衝動が、私の胸を突く。
楽しく作り上げたこの曲を早くみんなに届けたい。売れるとか、売れないとか、そういう即物的なものは一旦置いておいて、純粋に楽しんで欲しいし、私たちも楽しみたい。
あっでも、どうせリリースするならやっぱりたくさん売れた方がいいわね……、と心の中の現実的な「自分」は言っているが、そんなのは知らんぷりだ。
「絶対! 絶対に! たくさん聴いてもらえますよ!」
八月十八日。
例の曲がリリースされて四日経った今日。山田リョウは、歩き慣れた下北沢の街を闊歩していた。しかし「闊歩」と言えども、人を射殺す日光が突き刺してくるため、エアコンがしっかり効いているカフェへのピットインを繰り返している。とはいえ、こうも様々な店で飲み食いしていると、そろそろ体の芯ではく財布が冷えてきた。
これで最後にして家に帰ろう、そう心に決めて入った店で、リョウはヘッドフォンで自分たちの新曲を聴きながら、せめて料金分の涼しさを得るために居座っていた。
店内はシックな落ち着いた雰囲気で、ここで死んでもいいぐらい心地がいい。加えて、時々郁代のように「映え」を狙ってはしゃぎながら写真を撮っている若い女性の連れが、仕方なくうるさくも、どこか懐かしさと安らぎを感じさせる。
注文したアイスコーヒー一口飲むと、忙しかったここ数日の記憶が不意に頭の中に流れてきて、室内であるのに晴れやかな風が吹いてきた感覚に襲われた。
新幹線だろうが、電車だろうが、車であっても全員が集まると、自然と会話が起きて賑やかになる現在。遠い昔――おおよそ十二年ぐらい前なら鬱陶しく感じていたことだろうが、今はそれがないと違和感が全身を駆け抜けるようになってしまった。
この「十年」という重みは字面以上にある、ということだ。
「……変わったな、私」
ひょんなことから湧き出る追憶のぬるま湯に浸かっているリョウ。だが、店内に流れている軽やかな旋律のBGMを聴いて、はっとここに来た本来の目的を思い出した。
七月二十四日の香川を皮切りに四国を回り、今月十三日からの三連戦――岡山、広島、山口を回って帰ってきたばかりで、まったく体から疲れが抜けていないがこうして喧騒に身を置いているのは、ただ一つのためだった。
そう――新曲の反響である。
連日ライブが続いている時は、新曲の評判云々で精神を乱されないように見ていなかった。けれども、一足早く確認した都や郁代から、どんなメンションが返ってきているのかぐらいは薄っすら聞いている――色よいものであったと。
しかし、怖いものは怖い。
今までに何曲もリリースしてきたが、これほどまでに息が浅くなりそうなのは初めてだ。
それほど緊張するなら、みんなで集まって見ればいいじゃない、と思うかも知れないが、この自分の恐怖心に皆をつき合わせるのも面倒くさい。だから、誰かしらがいる下北のカフェに、暑い中わざわざ来たのだ。
リョウは息を呑みながら、遠目かつ薄目でスマホに映されたSNSの反応を見る。
「…………」
――――よかった、概ね良好なコメントだ。
次に、オーチューブにあげてあるリリックビデオのコメント欄を見る。
「…………ふぅ……」
リョウは両手を顔に当て、見上げた。
果たしてこちらも好感触。しかも再生回数がものすごいことになっている。大体一〇〇万再生を突破して、一時間当たりの再生回数は過去最高のものだった。
これで色々むしゃくしゃしてた心が、ある程度まで解放された。一番酷い時なんかは、ひとりと郁代に八つ当たりなんかして、最低だったなと本気で思う。もしかしたら知らず知らずのうちに虹夏にもしていたかもと考えると、なんだかいたたまれない。もし仮に、お詫びとして自分が所有しているギターとベースを何か寄越せと、彼女らに言われたら、素直にプレゼントできるぐらい悪く思っている。いや……、本当にできる、か?
――それはともかく本筋に戻るとして、この結果は、虹夏の戦略が成功した何よりの証左であった。
その戦略とは、大阪公演での「サプライズ」のこと。しかし、驚かせる対象だったのは、ファンではなく、ひとりと郁代である。
虹夏は、一世を風靡するAmeの曲なら絶対に売れると踏んでいたが、自分が編曲する前提だとしても彼女の曲は結束バンドそれと微妙に違うことを気にしていた。しかし、この一手を確実に差せれば、バンドの将来が明るくなる勝ち筋がハッキリしてくる。そこで虹夏は、発表、レコーディング、リリースの日程を限界まで詰めることで、ひとりと郁代から曲に対して深く考える時間を与えず、有無を言わさないようにしたのだ。その甲斐あってか、無事に『スターライト・スターダスト』を発表できたわけである。無論、あの二人のことだから取り越し苦労というやつだろうだが、摘める芽は摘んでおきたかったらしい。
バンドを思ったゆえの行動だとしても、少々やり過ぎだと感じるのは気のせいなのか。
そもそも、これで再興は叶うのだろうか。
そもそも、本当に今、結束バンドは危機的状況なのだろうか――――。
虹夏、昔はあんなんじゃなかったのに……。
大学で何か悪いことを学んで帰ってきたのは、郁代じゃなくて虹夏だった――なんて信じたくないけれど、今のところはそうだ。
「……でもまぁ、一応私も『共犯者』なわけだし、一旦飲み込んでおくか……」
虹夏の気持ちを理解できるし、私自身も利用できる手段はすべて使おうと思っていたから、彼女の相棒になった。
でも、今になっても自分の気持ちがどこに向いているか分からない。確証も不確かで。
後ろめたいことが一切なしにたくさん注目を浴びているのは、私たちのバンドにとっていいことであるはずなのに、簡単に「そうだ」と言えない自分がいるのだ。
「――――――はぁ……」
残り半分になったアイスコーヒーを啜る。口の中に広がる爽やかな苦味と酸味と、カップの中で鳴る氷の涼やかな音が、今の悶々とした気分をマシにさせた。
リョウは、とりあえずファンからの感想を読むかと、再びSNSを探す。そうして、コツコツと音を立てながらスマホをスクロールし続けていると、あるコメントでその手が止まった。
それは、いわれなき中傷などではなく、一般的には「好評」に含まれるコメントだった。
『今までの曲の中で、新曲が一番好きかも』
何気なく呟かれた、何の変哲もない一言。
例え書いた本人がそうだったとしても、今のリョウには強く突き刺さった。
そしてそれは、あやふやだったリョウのスタンスをついに明らかにした。
九月四日。午前十時半。
「うおおお!!! 海だあああ!!!」
他の三人を置いて小走りで砂浜に出た虹夏は、興奮をそのままに大声を上げる。
「虹夏さん待ってー!」
「あ、あ……」
「ぼっち、パラソル立てるから手伝って」
「あっはい!」
リョウは自分が持たされていたビーチパラソルとレジャーシートをひとりに渡し、自分は周りの様子を観察していた。
青い海、白い砂浜。おまけに天気は幸運に恵まれて晴れときた。海水浴の世間的なイメージ過ぎる光景だ。私は何でこんなところに来てしまったのだろう。テンプレと日差しに脳を焼かれそうだ。
ライブがある都合上、都市部で車を借りて、虹夏が一時間強運転し辿り着いたわけではあるのだが、その前提条件がありにせよ彼女は溌剌として、郁代はその無邪気さに驚きながらも心底楽しそうにしている。まったくどこからその元気が湧いてくるのか……。
「あの、リョウさん手伝って……」
――しかし、こんなことになる予想はできていた。このパーカーの下に着ている水着を虹夏に買わされた時から。あの時の彼女はここ一番で楽しそうにしていて、NOなんて言えるはずもなかった。
だから、日陰でサメ映画でも見るか……。
「リョウ! さん! 手伝って! ください!」
「うおっ、ぼっち。ごめんごめん」
ひとりの柄にもない大きな声は怒号にも似て、リョウを心の底から驚かせた。
「え、何? 怒ってる?」
「は、は、恥ずかしいだけです! 何か視線が集まってる気がして……ひいい!」
「自意識――」
――過剰。そう言う前に、リョウは一つの仮説に辿り着いた。
「ぼっちが「ポテンシャル」に溢れてるからじゃない? ほら」
リョウは自身の胸の前でジェスチャーをする。商業的価値の塊だ。
「セ――」
「セクハラ、で・す・よ? リョウさん――」
「ひっ!」
目の前でいそいそと傘を立てていたひとりが、自分の後ろを見て小さく悲鳴を上げた。声からして、恐らくいるのは郁代だ。彼女は、普段のキラキラとしたオーラではなく、ドロドロとした禍々しいそれを放っている。地雷を踏んでしまったきらいがある。
「――早く準備して遊びましょう、ね? ――それにしても……太陽が眩し過ぎて、この世界に秘密なんてないように思えるわよね。誰も悪いことはできないし、〝言えないし〟。そう、思わないかしら? せっかくバンドも上向きになってきて、司馬さんも遊んでいいって言ってくれたんだから、もっと楽しみましょうよ?」
そう郁代は意味ありげなことを言い残すと、虹夏がいる波打ち際に戻っていった。
「ふー、死ぬかと思った」
「はい」
「早く終わらすか」
「そ、そうしましょう、命のために」
圧を掛けられたひとりとリョウは、テキパキとやるべきことを終わらせた。
「もう遅いよ、二人とも! 今日の前乗りは司馬さんに無理言ったし、自費なんだから死ぬほど遊びつくさないと!」
実際、都の都合が合わなくて今回は同行していない。リモートで色々参加するようではあるが。
「はいはい」
別にカンカン照りのもとで遊ばなくたっていいとは思うが、過剰なまでの観光客がいることを承知して、自腹を切ることを承知して、そこまでして海に行きたがっていたことを考えると、無下にはできない。それに、バンドのためにずっと頑張っていたのは事実だし。
「みんなで写真撮りますよ~。集まって~」
「う、あ、わっ」
「わー」
狼狽えるひとりとリョウを引き寄せて、郁代はシャッターを切る。しっかり虹夏もピースをして画角に入っていた。
「……こ、これ、ネットにあげるんですか」
「ううん、あげないわ。水着って、ちょっとね。私だけならそこまで気にしないけど」
郁代の言葉を聞いたひとりは、ホッとした表情を浮かべた。
「喜多ちゃんにネットリテラシーが備わってくれて嬉しいです」
「……そうなのー……おほほほ」
ひとりは素直な感想を言ったつもりのようだが、郁代の表情はいかんともしがたく固まっていた。その様子を見て、リョウはふと現実に引き戻され、パラソルの元に帰りたくなってきた。
「ねぇ郁代。そのスマホ預かっておこうか?」
「え、あ、はい! いいんですか?」
「いいよ、どうせ映画観るだけだし、ついで」
「リョウさん優しい! 好きです!」
郁代のスマホを持って自分らの陣地へ帰るリョウ。どう足掻いたって誰かが荷物番をしなくてはいけないのだから、本当にちょうどいいのだ。
リョウは、シートに少し被っていた砂を払いのけて座ると、クーラーボックスから水分補給用にスポーツドリンクを一本、それからトートバッグからタブレット端末とワイヤレスイヤホンを出して、映画を観る準備を整えた。
映画のジャンルは予定していた通りサメ映画だ。初手五分ぐらいは平和なシーンが続いて、それから竜巻に乗ってサメが空から襲来する、いわゆる「B級」というやつなのだが、これが結構面白い。
――。
――――。
――――――――。
――――――――――――――――。
映画がいよいよ終盤だという時に、視界の端に誰かが近づいて来る影が映った。そして、そのまま自分の目の前に立ったと思うと、肩をトントンと叩いてくる。リョウは仕方なく片耳のイヤホンを外す。
「何?」
顔を上げると虹夏だった。逆光で姿はハッキリと見えないが、頭に生えている三角のくせ毛が如実で分かった。
「あっうん、もうお昼にしよう、って言いたかっただけ……」
虹夏はリョウの少し不機嫌な反応に面食らっている。
「あともう少しで映画が終わるから待ってて。今いいところ。空から降ってきたサメをチェーンソーで一刀両断に――」
「どんな映画ッ?!」
「……とにかく、あとちょっとだから」
「はいはい、分かったよ」
虹夏は仕方がないなあ、といった風に言う。自分のわがままを受け入れてもらえたので、終わる時刻までひとりと郁代とともに波で遊ぶだろうと思いきや、荷物を少しどかして隣に座ってきた。
「あー陽の光がないと大分涼しー。そうだ! 午後は私が荷物見てよっか? リョウも遊んできなよ!」
「えー、嫌」
何かと思えばこんな話だった。遠方のツアーと新曲リリースで疲れているから、あまり動きたくない。なんってったって、簡素なホテルとキャンプと銘打った車中泊が、代わる代わる訪れるのだから。これで疲労を感じない人がいたら、アスリートとかに転向した方がいいと思う。
「ほらほら、少しは体動かさないとブタになるぞー。海の豚で、イルカ……あれ? 全然悪くない気が……」
「……それより、ぼっちを休ませた方がいいと思う」
リョウは、正面のヘタって浮き輪で浮かんでいるひとりを指差した。
「確かに……」
彼女の様子はともかく、もうすぐ映画が終わりそうだ。エンドロールが流れる雰囲気がする。しかしまさか、一作目からいたおじさんがあっけなく喰われてしまうとは……。
「ねぇリョウ――」
虹夏が何か言葉を言いかけたその時、突如として砂浜に海から強烈な風が吹きつけた。リョウは咄嗟にパラソルが飛ばされないようにと、タブレットを持つ手の逆の手でその柄を握って押さえる。幸いにもシートも傘も、皆の荷物も飛ばされたりはしなかった。
「――――――やっぱり、なんでもない」
「そう」
口ごもる虹夏。そのトーンは海風のように湿り気を帯びていて、手を伸ばしても届かないどこか遠くへ行ってしまいそうな雰囲気すらもした。恐らく、言いかけたことはバンドかライブのことだ。しかし、この晴れやかな陽気を壊したくないのか、あるいは、残酷にも心のどこかでそう望んでいるのか、リョウが委細を聞くことはなかった。
虹夏は立ち上がり、小さく伸びをする。そして、こちらを振り返って、
「映画、終わったならみんなで海の家にご飯食べに行こ?」
リョウのタブレットに触れ、再生終了間際に現れる自動再生のバナーを消しながら言う。
「う、うん」
「喜多ちゃーん、ぼっちちゃーん! ご飯―!」
「はーい! ほら帰るわよー」
「ぶくぶくぶく……」
元気に返事をする郁代。ひとりは、岸部へ戻る郁代に使っていた浮き輪を急に押されて体勢を崩し、海水に顔の半分を埋めている。そんな彼女を郁代と駆けて行った虹夏が笑いながら支える。
さっきまでの虹夏が嘘みたいだ。それとも、あれが嘘だったのか。
真実を暴く白日の輝きは、本当に空に浮かんでいるのだろうか。
海の家で昼食を取り、少し休んだら泳いだりして午後を緩やかに過ごす。その間、虹夏は午前中に見せたように憂いを帯びることはなく、実に快闊で大きな笑い声を上げていた。ひとりが浜へ流れついた海藻を身に纏ってふざけたり、郁代や虹夏を砂に埋めたり、高校生の時とあまり変わっていないバカげたことをみんなで楽しんでいる。だが、そういう楽しい時間はあっという間に流れて、気づいたころには、夕立をもたらす黒く厚い雲が頭の上に覆いかぶさっていた。
「みんな早くホテルに帰るよー!」
虹夏がそう叫ぶが、その声は程なくして降ってきた豪雨にかき消されてしまう。幸いにも服は着替え終わっていたが、車へ戻るまでの間にびしょ濡れになってしまった。
「酷い雨でしたねー。あー前髪が……」
「うう、前がほとんど見えない……」
郁代とひとりは、車に入るなりずぶ濡れになった髪を嘆いている。おしゃれという面と、髪の多さゆえの弊害の面という点で両者は違えど、道端に捨てられた子犬やら子猫を彷彿とさせるほど濡れ鼠なのは間違いなかった。言わずもがな、自らもバケツの水をひっくり返して被ったように濡れている。
「喜多ちゃん、後ろのバッグからバスタオル全員分出してくんない?」
「ええと、これですか?」
郁代は後部座席の裏のトランクを覗き込みながらバッグが置かれている場所を指差すと、それに虹夏は、「んー? そうそう」、と後ろを振り返って肯定する。
彼女に言われた通り、郁代がバッグに手を伸ばし中を探ると、四枚のまだ使われていないバスタオルが入っていた。
「んー、よいしょっ! はい、これがリョウさんので……これとこれがひとりちゃんと虹夏さんの分!」
「ありがとー」
各々郁代からタオルを受け取ると、顔と髪を拭いて何とか帰れる体制を整える。
「海用に持って来たタオルとは別に、こんなに持ってきてるなんて、さすが虹夏さん!」
「ふっふ~ん! もっとみんな褒めてくれてもいいんだよ~?」
「あっありがとうございます!」
「褒めて遣わす」
虹夏はえっへんと胸を張りながら鼻を高くしている。
「あ~、褒められるの気持ち良過ぎる~! プロになってからは、できて当たり前だから全然褒められないからね! でも――……、こんなに濡らしちゃったら、レンタカー屋さんに怒られちゃうな、たぶん……。あと追加料金とか出ちゃうかも……。うぐぐ、お財布が痛い……」
「そんなことより、早く帰りましょう!」
「そんなことって……。まぁいいや、車も返さないとだしね」
虹夏は「はぁ……」とため息をつきながら、ボタンを押して車のエンジンを始動させる。後部座席もしっかりシートベルトを締めたことをミラーで確認して、アクセルをゆっくり踏む。
海水浴場近くの駐車場を出て県道に入っても雨の勢いは治まるところを知らず、ステージ演出のスモークのように道路が煙り、フロントガラスを忙しなくワイパーが動いていた。
驟雨なんて幾度となく見てきたけれど、どうしようもなく夏の終わりを印象づけるのはなぜだろうか。今後の作曲に使えるかも知れない、車の屋根を打ちつける雨のビートを聞いていたら、昼間の疲れがどっと押し寄せてきて身を任せそうになる。
リョウが瞼を閉じようとしたその時、
「あー! 寝ちゃダメ―! リョウ! こっちまで眠くなるでしょ!?」
運転手の大きな声で強制的に起こされた。思いもよらないその行動に肩をビクつかせてしまった。ついでに言えば、隣に座っているはずのひとりも身を大きく跳ねさせていた。大方、自分と同じだろう。
「ラジオ……いや、曲か……ううん」
どうせこちらの目が絶対に醒めてしまうやつを流すんでしょ、と考えていたのだが、結果は斜め上のものだった。
「喜多ちゃん! 何か歌って!」
「はーい! 分かりましたー!」
急に吹っ掛けられたにも関わらず、郁代は意気揚々と自分のスマホを車のスピーカーに繋いで曲を流し、歌い始めた。
JーPOP、KーPOP、それに当たり前ではあるがロックまで、実に幅広いジャンルを歌いこなしている。みんなでカラオケに行った時のような歌い方ではあるが、しっかりと曲の芯を捉えた、さすが我らがボーカルといったところだった。
本当に不本意であるが、眠気が醒めてしまった。
すると――
ぐうう……。
「ねぇ、今の誰―」
笑いながら郁代が反応する。ちょうど曲と曲の間だったために、予想より大きく響いてしまった。
「お腹空いた。なんか奢って」
「ちょっと、夕飯まで待てないの~?」
「リョウさん、ポケットの中にあったものですが、飴どうぞ」
「では、ありがたく……」
リョウは片手で礼をし、ひとりの手からピンク色をした飴の個包装を受け取る。早速袋を破り開け、口に入れると袋の見た目通り味はイチゴ味だった。
「はーい、それで満足したねー。あともうちょっとなんだから辛抱せい」
「ほい」
それから一行は、ホテルがある那覇に無事到着した。
もちろん、レンタカーはガソリンを満タンにして返した。虹夏は車内を雨で濡らしてしまったことにペナルティが課されるのではないかとヒヤヒヤしていたが、それは杞憂に終わった。なんでもこのくらい――雨が少し吹き込み、濡れた服で座席が湿った程度、では大丈夫なんだそうだ。中にはもっと酷い状態で返す人もいるらしい。
それはさておき、その日の夜は本当に楽しかった。自分自身はお酒が飲めない口なので、泡盛を飲むことはなかったが、沖縄料理は普段東京で食べているものより懐かしい味がした。別に出身がそうというわけでない。何かDNAの奥に隠された、ある種のイデア的なノスタルジックさが琴線に触れるのだ。
そこで、懐かしさを感じれば、懐かしい話をしたくなるのが人間というもの。宴会の肴には昔の話が多くあがった。
特に、雰囲気に当てられたひとりは、高校の時の客席ダイブを「黒歴史なんですけどね……えへへ」と言いながらも、さも武勇伝を語るかのように話している。
彼女を適当にあしらいながらも、これまでの足跡をホテルに帰るまでずっと、振り返っていた。
「じゃあ、明日のライブもよろしく~!」
「みんなでめひゃくひゃ盛り上げまひょう~!」
「「いえーい!」」
「い、いえーい」
「…………」
とにかく上機嫌で今日と別れた。
次の日――――――、
虹夏は三九・〇度の高熱を出した。
ライブは中止になった。