霽月の夜   作:TriK

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実存的ゴーストノート

 私は今、泊っているホテルの前の道路にいる。しかれど、所狭しと並んでいる商店すべてに明かりはついておらず、シャッターは開いているのに辺りには誰もいない。静かだ。

 そこへヘッドライトを点灯させた白いワゴン車が高速で走って来て、私の目を前を通り過ぎた。

 走り去った後には、白い服に黒いズボンを穿いた死体があった。

 恐る恐る近づいてみると、青いボストンバッグの体には、A4コピー用紙に印刷された誰かの顔が貼られていた。中に何が入っているのか、私はそれを持ち上げようとしたが、重くて持ち上がらなかった。バッグの底の布からは、血液か脳漿か、サラサラとした淡い赤色の液体が染み出ている。匂いは刈ったばかりの芝生のような青々しさで、お腹が空きそうだ。

 ところで怖くなってきて、私は何かの亡骸を捨て置き、走って逃げた。

 横の線路にタイミングよくやって来た列車へ飛び移って、私は走る機関車の運転席まで行く。このまま目的地まで行ける、と安堵していると、同じ線路の後ろから手漕ぎトロッコに追い抜かされた。そのトロッコで必死に漕いでいたのは、青とピンクと赤の見覚えがありそうな人物で、追いつかなきゃと思ったと同時に、私は線路脇の道路を走っていた。どんどん離れていくトロッコ見て、もいいや、もう疲れたと思い、そこいらにある家の玄関を開けると、自宅のキッチンだった。

 目を閉じて、また開ければ、朝、昼、夕、夜と移り変わるが、外に見える天気は灼熱の雪だけで一貫していた。今いるキッチンを出ると、所々にペンキがぶちまけられた極彩色のライブハウスに出る。そこで、私が手を叩くとリビングに戻り、部屋に置かれた食卓としてのドラムセットのスネアには今日の昼ごはんが置かれていた。陶器の皿ごと肉の味がする黄色の葉を食すと、二階へ続く階段が目の前に現れた。

 登る。時に傾斜が直角を通り越していたが、いつも使っている道なので、それほどキツくない。

 最後の一段を上ると、そこは以前私が通っていた高校に似た教室だった。しかし辺りは暗く、机は散乱し、床は腐乱していた。一歩進めるたびにマシュマロを踏んでいるようなふわふわとした感覚がする。練習も宿題も選べない。しばらく何もない部屋を進むと、電灯に照らされた自販機が現れた。喉が渇いたので、コーラを買って飲んでみると、形容しがたい味に吐き戻してしまった。止まらない嘔吐を両手で止めようとするが、止まらなかった。

 諦めてしばらくじっとしていたら、私は町を見下ろしながら闊歩していた。足に掛かる障害物を蹴り飛ばして、コンクリート片を辺り一帯に広げる。そんな砂場の怪獣みたいな行動が楽しくて仕方ない。加えて、地面には所々赤いドット模様がついてて可愛い。その生地をまじまじと見たくて、顔を近くに寄せると、トラックの下敷きになって息絶えている人間の姿があった。

 自らの母親だった。

 

 伊地知虹夏は、そこで目が醒めた。

 体全体を覆う倦怠感と、目が乾燥によりしぱしぱするのが何とも不快だ。これでも今朝に比べたらよくなった方か……。

 体中から金属が軋むような音がする感覚を覚えながら、虹夏はベッドから体を起こす。窓の方を見ると、厚めのカーテンが閉められていて外の様子は分からなかったが、漏れている光から大体昼頃だろうと予想がついた。

「……具合はどう?」

 窓の外に思いを馳せていた虹夏に、突如、後ろから声が掛かった。振り返ると、

「うお、リ、リョウ……。びっくりさせないでよ、こっちは……体調が悪いんだからさ……ぁ」

「ごめん……」

「う、うん……。だいぶよくなったよ……」

 普段とは違い不自然に愚直な彼女の反応に、二人の間には微妙な空気が流れる。それに耐えられず虹夏は話を繋ごうとするが、風邪のせいで頭がぼおっとして何も浮かんでこない。強いて思いついたのはこれくらいだった。

「……ぼっちちゃんと喜多ちゃんは…………」

「――デートに行った。せっかくの沖縄だからって」

「え!? ごほっ、ごほっ!」

「嘘。本当は適当なスタジオ借りて練習しに行った」

「はぁ……。しょうもない、嘘、つかないでよ……」

 まだ熱っぽさが残る体には冗談はキツい。水でも飲んでまた寝てしまおう。

「ねぇ、水とかある? あと薬……」

「あるよ。あと、ゼリーとかもあるけど、食べる?」

「じゃあ、ちょうだい」

 リョウは近くのローテーブルに置いてあったコンビニのレジ袋から、五百ミリリットルの水と二つのパウチを取り出した。

「グレープフルーツ味と、パイナップル味、どっちがいい?」

「グレープフルーツ」

「ん。はいよ」

「あんがと」

 彼女から水とゼリー、それから風邪薬を受け取る。まだひんやりしていて気持ちがいい。

 手のひらに冷たさを感じながらゼリー飲料の口を開けて口に含み、中のゼリーを一口ずつ吸い込む。喉が痛くて飲み込めたものではなかったが、少しでも栄養を取らないと治るものも治らないので、気合で完食した。その後、カプセル型の薬を一錠、水で飲み、横になっていると、また眠気が襲ってきた。すぐに効き目も表れてくるだろう。

 意識が切れる前に気怠い体を必死に動かして、布団を掛け直す。話したいことがあるのに、もう思考が纏まらない。それでも少しずつ言葉を紡ぐ。

「ねぇ……さっき、何か夢見たんだけど……全然覚えてなくて……」

「うん、私もよくある」

「そう、だよね」

「うん。そういうもん」

「今日……ずっと、看ててくれたの?」

「うん。同じ部屋だしね」

「――――ごめんね」

「…………」

「こんな……頼りなくてバカなリーダーで……ごめんね。みんなを信じてあげられなくて、ごめんね……」

 

 

 再び虹夏が目を醒ますと部屋には誰もおらず、薄暗かった。

 今回は変な夢を見なかった。朝に飲んだ頓服がようやく効いてくれたおかげだろうか。今は頭に蔓延っていた病的な熱気が抜けた感じがする。完全に治ったわけではないだろうが、寛解程度にはなっていそうだ。

 虹夏は枕元に置いてあるスマホを手に取り、時間を確認する。時刻は大体十八時半であった。

 風邪なんて引いていなかったら、そもそも昨日海に行かなければ、きっと今頃はステージの上に立っていたのだろう。かけがえのない仲間と共に。

 悔しい。

 みっともない。

 情けない。

 惨め。

 そう強く思っていたら、涙が溢れてきた。

 ホテルにいるとはいえ、見知らぬ土地で一人という状況と、病床に臥している現状が追い打ちを掛けて、涙が止まらなかった。

 クマができるほど毎日寝れずに悩んだが、苦しいけど一番大切なもののためだから、と自分に言い聞かせていたのに、それを、ライブを、自分でぶち壊してしまった。これで終わりではないのは、知っているし分かっている。それに、もし失敗しても、みんなとならまたやり直せるはず。

 けれど――――。

 ベッドに横たわりながら、天井を見上げているのに塩辛い雫が零れ落ちる。いつか誰かを癒したあの歌は、今の私にとってはただの欺瞞でしかなかった。

 私がこれまで、そして、これからも苦心するであろう「バンド」というものは、差し詰め、長い荒野の道のりを走る自動車みたいなもので、途中で誰かが降車したり、乗車したりしながら、メンバーの総意によって定められた一つの目標、夢へと進んでいく運命共同体。さりとて、車内で誰がどこを向いていようと、どんな景色をその瞳に映していようと、行き先にはあまり関係ない。関係があるのは、運転手という名のリーダーだけだ。「運転手」は、その車の速度に限らず、ありとあらゆるパラメーターを左右している。ゆえに、ずっと前を向き続けなければいけない。さもないと、車が道を大きく逸れるだけでなく、時には道路脇の障害物でクラッシュしてしまう可能性すらある。

 このことを当然のように私は理解していたはず。なのに、私はずっと下を向き続けていた。周りのことも、みんなのことも見ようとはせず、ただひたすらに自分だけを見つめていた。

 知っていたさ。分かっていたさ。

 私が都に話した「危機」なんて、所詮、荒唐無稽で、独りよがりで、バカみたいな仮定の話だって。都がそれを信じて行動してくれたのは驚きの一言だけれど、あまつさえ郁代が期待に満ち溢れた目で提案してくれた全国ツアーを利用して、自分の願いだけを叶えようとしたんだ。何の疑いもせずについてきてくれるみんなの本当の気持ちを無視して。本当に――――――。

 バンドはみんなの夢を乗せているものだって、分かっていたはずなのに。それなのに――――。

「……ああ、私はバカだ。みんなと違って、私はずっと……子供のままだ……っ!」

 なんて独りよがりで、身勝手な人間なんだろうか。ナポレオンでもなんでもない、本当にどうしようもないただの「自分」に嫌気が差す。

 何がバンドのため、だ。みんながいるからこその結束バンドだし、伊地知虹夏であるはずなのに。無理を通して企画を進める私に、きっと話を信じてくれた都ですら辟易していただろう。

 今回はシングルが売れて、バンドの勢いも再び増しそうだったからまだよかった。

 でも、また同じような状況になったとして、その時も同じようになるなんて分からない。

 近頃、流行りと廃れのサイクルはどんどん短くなってる。今話題になっていることが、一ヵ月後も続いてるだなんて誰も保証できない――私たちを守るものは何もない。

 だからこそ、私はしっかりと「運転手」を努めなければならないのに、私が「私」のままでは、その責務を果たすことは恐らく無理だ。それは、自分が一番分かってる。なぜなら、自分があまりにも向こう見ずな「ガキ」なせいだから。

「でも……しょうがないじゃん……。私は、私以外にはなれない……」

 虹夏は自らを慰めるように、負の感情にまみれた言葉を放つ。その音は、暗がりが広がるこの部屋に響き渡り、心臓を射貫く矢となって返ってきた。

 痛い。まるで心の痛みが具現化したように体中が痛い。布団の中で体を抱いても収まらない。

 こんな辛い想いをするくらいなら、いっそのことすべて捨てて消えてしまえたら楽になれるのに。そう思った時、この痛みのせいか、それとも熱がぶり返したのか、幻聴のように記憶のどこかにあった遠い過去の残響が脳内になだれ込んできた。

『虹夏、夢はね、どんなに辛いときも、道を照らしてくれる光になるんだよ――――――』

『もう母さんの死から逃げたりしない―――。これからは支え合って生きていこう』

『あの子、母親を早くに亡くしたらしいわよ。かわいそうよね~』

『虹夏ちゃん、お母さんいないのにすごいね!』

『私、ライブハウスやることにしたから』

『父さんも、出すよ――この家を売って。それが俺にできるお前たちへの償いだ……』

『ついに明日だな』

『ギタリストとして、皆の大切な結束バンドを最高のバンドにすることです』

『ガチじゃないですよね』

『結果がダメだったら、皆バンドをやめるんじゃないかって不安になった』

『もっと.……たくさんの人に……結束バンドの曲……聞いて欲しかった!』

 ――――――――。

 ――――――――――。

 ――――――――――――。

 本当にいろんなことがあった。

 ガラスの破片のように私を傷つけるものもあれば、草原を走る風のように私を撫でてくれるものもある。

 こんな時に思い出すなんて、まるで走馬灯みたいで、もうすぐ死んでしまうのではないかと感じる。

 それもそれで悪くはない。

 いいものも悪いものも、まだ憶えている思い出なら、きっと大切な、それこそ「自分」を形成するようなもののはずで。それを最期に見返せたんだからいいんだ。

 でも、たぶん死ねない――――それは怖いから。

 そして、たぶん死なない――――それは、恐らく、ここは夢の中だから。

 もっとも、確かな理屈はない。私は、コマでもなんでも、自分の意識の所在を示すものを持っているわけではないのだから。しかし、敢えて理由を探そうとするなら、発熱した時は精神が不安定になって変な夢を見るのが通例であるから、だろうか。こんなに揺さぶられたことは今までで一度もなかった。

 ――いつの間にか涙は治まっていた。

 胸に残る痛みと、罪悪感、淀んだ感情のすべてはここにまだあるのに、一瞬でも夢だと思えたら、まるで今までが芝居だったのではないかと錯覚するほどパッと止まった。

 ほら、今に目が醒める。

 だって、これは明晰夢なんだから。

「全部ここに置いていけたらいいのにね……」

 境界面へと落ちながら浮上する「私」に、決して叶うことのない願いを掛ける。

 ここが夢であろうと、現実であろうと関係なく、すべては自我という組紐で結ばれているのだから、忘れることも、捨てることもできないのは分かっている。でも、願わずにはいられない。

 私の夢を叶えるために。

 今度こそ、みんなの夢を叶えるために。

 そして――。

 もう私から何も奪わせないために。

 ここが、これが、夢だけのものであると、信じないわけにはいかない。

 

 

 目が醒めた。

 頭の中はスッキリと空っぽで、清々しい目覚めである。

 熱は治まっていた。

 虹夏は体を起こして部屋を見渡す。もう朝を迎えたらしく、部屋の中は薄明で満ちていて、室内の空気が何だかひんやりしている。隣のベッドにはリョウが静かな寝息を立てて寝ていた。

 おぼろげながら思い出せる最後の記憶は、朝、みんなに熱が出てしまったことを告げた時に、無理矢理に寝かされたところで、信じがたいが、少なくとも丸一日は寝ていたことになる。

 虹夏は、寝ている間に乾いた喉を潤すため、ベッド脇に置いておいてあったペットボトルを手に取る。既に開いていたキャップを外して水を口に流し込みと、みるみる体に活気を取り戻してきて、今まで気になっていなかったことが気になってきた。

 隣で穏やかに眠っている彼女も、私が病気なことは知っているはず。それでも同じ部屋にいるということは、本当に看病でもしてくれていたのだろうか。

 ――――いや、山田リョウという人間に限ってそれはないか……。

 夢は夢、現実は現実だ。

「――にしても、静か過ぎる。今何時だ……」

 虹夏は枕元に置いてあるスマホを取りに行き、そのロック画面を見る。現在、朝の五時半だった。

 早過ぎてやることがない。

 外に散歩しに行くのも心配を掛けそうだし、このまま何もしないのも退屈だし、布団でオーチューブでも見ようか。いやでも、何かの拍子に熱がぶり返したら嫌だから止めておこう。

 逡巡した後、虹夏はもう一度ベッドに入った。熱を出して汗をしこたまかいていたようで、何とも言えない湿度が体を包む。改めて思えば、今着ているTシャツも汗臭い気がする……。

 よし、起きよう。シャワー浴びよう。着替えよう!

 

 

 五時間後、ホテルをチェックアウトした一行は、空港へ向かうバスの待ち時間をロビーで潰していた。ロビーから見える外は今日も暑そうで、事実、このロビーで無造作に流されているワイドショーの天気予報コーナーからは、真夏日の予報が出されていた。それでも沖縄の方が東京よりも涼しいらしく、これからその地獄へ帰る身からすれば憂鬱だ。病み上がりなのもなおさらである。

「熱治まって本当によかったです~! 心配したんですよ!」

「うん、うん」

 正面に座る郁代とひとりは、昨日とは打って変わって元気そうな虹夏に安堵し、リョウは、左手にあるカウチソファーで何事もなかったようにくつろぎながらスマホをいじっている。

 しかし、今は症状が出ていなくとも、うつってるのではと気が気ではない。もうこれ以上彼女たちに迷惑は掛けられない。

 それはさておき、ライブが中止になってしまって本当にファンのみんなには申し訳ないことをした。先程、電話で都にもこのことをこっぴどく怒られたところである。この歳になって怒られるようなことをしてしまうとは、リーダーとしても、人間としても本当に至らないところばかりで、今後はさらに気を引き締めなければ。反省は小手先の言葉よりも、行動で示さないと。

「――ところで、あの」

 虹夏の内省を郁代の声が遮った。

 柔らかい表情をしていたはずの彼女だが、今は神妙な顔つきで手をもじもじさせている。ひとりも何かを言いかけては口をパクパクしており、その先は出てきそうになかった。

「ん? どした?」

「え、ええと……昨日の夜、虹夏さん、泣いてませんでした……? 別に、盗み聞こうと思って聞いたんじゃないんです! 虹夏さん、晩ご飯どうするのかなって、訊きに行こうと思って部屋のドアをノックしようとしたら、聞こえてきて…………。私、心配なんです。虹夏さん、いっつも頑張ってるから……」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って!? 嘘!? 泣いてたの私!?」

「え、ええ……」

 郁代の心配そうな声には悪いが、そんな記憶はまったくないので、泣いていたなんて話はまさに耳に水だ。それなのにどうして、郁代もひとりもあっけにとられた顔をしているのだろう。まぁ確かに、夢でそんなことを見たような気はする。

「たぶん、悪い夢でも見てたんじゃないかな~。ほら、ネットミームじゃないけど、言うでしょ、風邪の時に見る夢って」

「うん、まぁそう言うなら……」

 郁代はまだ要領を得ないようで、曖昧な返事をする。そこで、リョウがこれまで閉じていた口をついに開けた。

「――とにかく、虹夏はもう頑張らなくていい。自分の体を休めることもリーダーに必要でしょ?」

「……そ、それはそうだけど、さ」

「何、その顔」

「いや、リョウってこんな優しいこと言えるんだなぁって」

「…………」

 リョウがここまで自分の気持ちを前面に出すのは珍しい。普段は寡黙な質であるから、余程のことがないと、こんな真面目なことは言わないのだ。ともすれば、彼女たちから見て、私は相当疲れて見えるのだろう。

「そ、そうです、虹夏ちゃん!」

 ひとりが突然大きな声を上げた。その大きさに、この場にいた他の利用客も一瞬だけ視線をこちらに向ける。それがまるで太陽であるかのように、彼女の顔は熟れたトマトのような赤に染まってしまう。さりとて、そこで話を止める気はないようで、少し間を開け、周囲の好奇の目が消えた後、ひとりは落ち着いて続きを話始めた。

「……えと、私が言いたいのは、虹夏ちゃんはもっと私たちを頼って欲しい、いや、頼って、ってことです。私もそう思ってますし、喜多ちゃんも、それに、口には出してないけど、リョウさんだってそう思ってるはずです」

「……」

 勝手に自分の気持ちが推し量られたことに、リョウは口を挟まない。

「そうですよ、虹夏さん。自分だけで全部背負おうとするなんて水臭いです。バンドは家族なんですから、みんなで一緒に頑張りましょう? 虹夏さんって、自分が思ってるより完璧じゃないんですから!」

「そうそう。地獄に落ちるのも一緒だし」

「うぐ……なんか諭されてる側に湧かないような感情が湧いてきたんだけど……。うん、ま、いいや、どっちもある意味ナチュラルボーンだもんね。しょうがないね」

 虹夏は諦めたように息を吐いた。だが、その息に乗る感情は軽いものに変わっていた。

「よーし! 早く東京に帰ろう! あー、ドラム叩きたくなってきた!」

「みんなでこれからもバンドを盛り上げていきましょうね!」

「頑張ります」

「うむ」

 それぞれ荷物を持ってホテルを飛び出し、空港に向かうバスの停留所へ跳ねる心のまま小走りで向かう。彼女らに降る雲は光り、根拠はないが賭け値もない前途への希望を祝福してくれている。

 夏は終わるが、春は終わらない。

 ――そう思っていた。

 季節は廻るもので、ただ一つの状態に固執することはない。それは何においても然り。私たちはそれを理論的な理屈でも、感情的な理屈でも知っているはずだ。

 それが自然というものなのだから……。

 

 

 

 九月十四日。

 福岡。

 時刻は午後十八時半を回っている。

 練りに練ったこのツアーの目玉の一つである、シデロスとの対バンが始まろうとしていた。

 天神のキャパ約千の箱には、観客たちが満員電車並みの人口密度になっていることを忘れて、結束バンドと一切合切何も知らない対バン相手の登場を待っている。

 開演前の客席には、結束バンドとシデロスの楽曲のインストを薄く流して匂わせてみてはいるが、この仕様に一体何人が気づくのだろうか、とステージ裏で準備をしている虹夏は、いたずらに引っかかってくれる人を待つ子供のように心を躍らせていた。

「よし、みんな手出して」

 そう虹夏に呼び掛けられたひとり、郁代、リョウ、そして今日だけはシデロスの面々――ギタボ兼リーダーの大槻ヨヨコ、ドラムの長谷川あくび、ギターの本城楓子、ベースの内田幽々――も左手を出した。そんな彼女たちは、お互いのバンドをイメージした――結束バンドはいつものバンドTより黒い服、シデロスは黄色、青、赤、ピンクのTシャツを着ている。

「た、た、楽しみですね……ぇ!」

「ふふ、ひとりちゃん、テンション可笑しくなってるわよ!」

「私なんかが、〝あの〟シデロスと、た、た、対バンだなんて……!」

 ひとりは緊張からジェットコースターのような気分でいるが、逆にそれがいつも通りのライブの延長線上だと感じさせてくれる。

「す、すごい乱高下ね……。わ、私まで緊張するじゃない、後藤ひとり!」

「え、ええ、えへへへぇ……!?」

 ひとりへ文句を言うヨヨコに、あくびが茶々を入れる。

「そういうヨヨコさんも大概じゃないっすか~? 今日も目がバキバキだったっすから」

「う、うっさいわね! しょうがないじゃない! 昨日もライブだったんだから!」

「ご、ごめんね!」

「あ、ちょ、そういう意味じゃ……」

「ふうかは、そんな風にいつも真面目なヨヨコちゃんがいいと思うけどなぁ」

「ゆゆは、ぼっちさんのすっごいやつ久しぶりに見れただけで満足です~」

 虹夏がバツが悪そうに謝り、狼狽えるヨヨコ。それにふうかと幽々が両方にフォローを入れる。

 そんな本番直前であることを忘れさせる緩慢な空気が体を包んで、逆にライブへの気力が高まってきた。負けていられない、いや、負けるわけにはいかない。私たちの夢にはまだ道半ばなのだから。

「――――よし、みんな! 頑張ろう! 楽しもう! せーの!」

「「お~!」」

 それぞれの声はライブ前の喧騒に消えていった。

 

 予定開演時間に始められたライブは、たった数曲終わっただけにも関わらず、ホームでする時のように盛り上がっていた。この時間でこの様子なら、彼女たちがステージに上がった時に観客たちはどうなってしまうのだろうか。虹夏は、荒波に揉まれる海中の海藻のように動く観衆の手を見て、安堵の一息をついた。

 安定したリード。安定したバッキング、ボーカル。安定したベース。そして、私のドラムも一ミリのズレもない。どっしり構えて、この「世界」を支配して、みんなを支えている。そうでなければいけない。失態を晒した沖縄から帰って来て、時間さえあればずっとドラムを叩き続けてきたのだ。

「みなさん、楽しんでますか~!」

 さらに二曲終え、郁代のマイクパートが始まった。彼女の呼び声に手で合図する観客たちは、みな楽しそうにしている。

「今日のライブはいつもと一味、いや、二味、三味も違います! というのもねー、今回はスペシャルゲストがいたり? いなかったり? しちゃうんですよね~。まぁみんな次の曲で誰だか分かっちゃうと思います!」

 郁代のアイコンタクトを合図にして照明が暗くなる。その暗がりに突如、一筋の光がステージの上に降り注いだ――その下にひとりが漆黒のパシフィカを持って佇んでいる。あまり前に出てこない彼女がスポットライトを浴びている状況に、ファンは目が離せないでいる空気――言うなれば、誰一人声を出すことを許さない絶対的なものを、虹夏はピリピリと肌で感じた。

 メンバーすらも固唾を飲んで見守る中、ひとりはハードロックの雰囲気を醸すリフを弾き、疾走し始めた。十六分に弾き刻むトレモロ、激しくスケールをアップダウンするスウィープ、ピックを持つ右手で引くタッピング、どれを取っても結束バンドのそれよりも大分激しい。明滅を繰り返すカラフルな光の雨に照らされながら、ひとりはアドリブ的なフレーズを終え、真のイントロへと入る――そのつんざくようなユニゾンチョーキングを嚆矢にして、虹夏も、郁代も、リョウも打ち鳴らし、掻き鳴らし始めた。音が完全に重なってコンマ数秒、観客席にどよめきが広がっている。その躁狂は、郁代が小さな息を吸って歌い始めた時に黄色い地鳴りへと変わった。

 ――――。

 アウトロのフィードバックノイズが消え去った後、会場は今日一番の喝采に包まれた。

「えっ!? 嘘!? 昨日ライブ行ってきたばかりなんだけど!?」

「これマジで言ってる……!?」

 そう口々に言うオーディエンスを見ると、今日という日のために頑張って準備した甲斐があったなと思わず笑みがこぼれてしまう。もしこの時に鏡を見たなら、きっと自分は百点満点のしたり顔をしていることだろう。目前にいるみんなも本当に嬉しそうにしている。大成功だ。

「それじゃあ、今日の対バン相手呼んじゃいますよ!」

 そう郁代がフロアに呼び掛けると事前の打ち合わせ通りに照明の演出が入る。その間に裏に待機しているシデロスと入れ替わった。

 下手側の舞台袖で水を飲んで呼吸を整える。額に浮かぶ大粒の汗をタオルで拭きながら、「とりあえずお疲れ~」と虹夏がメンバーに向けて言うが、それは背からの喜びと驚きに満ちた音圧にかき消されてしまった。

「昨日のライブは昨日のライブ、今日のライブは今日のライブ。どっちも死ぬほど盛り上げるから覚悟しなさい!」

 ヨヨコの開幕の狼煙が上がる。それに追従するようにメンバーの超絶技巧が光る。それこそまさに、ライブハウスがぶち壊れるぐらいの盛り上がりだ。

「すごい……」

 ひとりの口から自然と漏れ出る。その微かな言葉には、羨望と自信、そして卑下が混ざり込んで複雑な胸の内を表していた。

 ――でも、理解できてしまう。

 私たちだって文字通り死ぬほど頑張っているのに、彼女たちはそれ以上のパフォーマンスをしてくる。あまりにも高い壁過ぎるのだ。

 バンドマンなんてしていなければ分からなかったはずの違いが、少しだけ胸を痛ませる。

 薄々気づいてはいたけれど、シデロスというバンドは劇薬みたいなものだったのだ。本当なら鍵つきの棚に仕舞っておかないといけない――だが、私たちにもやれるという自信も与えてくれる薬理的な面もある。それは分かっているのだが……。

 だけど今は、彼女たちが少し眩しい。

 

 シデロスも自分たちの曲を数曲演奏した後、結束バンドの曲――『あのバンド』のメタルアレンジを披露した。彼女たちの音楽ジャンルに近いのもあるだろうが、脇から見ていても感じる、肉薄したヨヨコたちの息遣いが聞こえてくる様は、まるで、元から私たちの曲だけど? と言っているようで、私も含めたみんなが思わず感嘆の声を出してしまうぐらいだった。こんな感情は一般人が生涯でもってしても体感し得ないものだろう。ある種の役得ではある。

「さあ結束バンド戻ってきなさい!」

 ヨヨコが情熱的にステージからこちらに言っている。

 四人は彼女の呼び掛けに呼応するように、互いを見合わせて頷いた。そうして十数分ぶりにやって来たステージは、怒涛のパフォーマンスを受けた客席の沸騰状態が伝播して、こちらの気分まで高揚してくるぐらい熱いものに変わっていた。

「うおー、盛り上がってるね~」

「当たり前でしょ? 〝この〟シデロスがいるんだから」

 ヨヨコは、隣に立った虹夏へ胸を張って得意げに話す。

 この自信に満ち溢れた姿を見ていると、同じ大学に通っていた四年間、ずっと見続けた普段の姿が脳裏によぎって感心してしまう。彼女のような人でも、というのは些か失礼だが、人と交わることが苦手な人間であったとしても、心のありよう一つでこんなにも輝けるのだと。もはや感動と感服を超えて笑いが込み上げてくる。

「二人ともやりますよ!」

 郁代に呼び掛けられて、虹夏の顔に湧きかかっていた薄笑いが引っ込んだ。

「うーす、みなさんじゃあ予定通りでー」

 あくびの声に合わせてそれぞれのバンドメンバーが意気揚々と動き出す。ある者は裏に引っ込み、ある物は自らの楽器を構える。そうして、ステージ上には、ちょうどシデロスと結束バンドが半々という形のグループが残った。

 観客は、あまり例に見ない形式に驚きながらも、外側までせせり出てきた心の内に秘めた期待が身を震わせている。そして、それがドラムへ伝わり、ベースに伝わり、ギターとボーカルへ辿り着くと、ついに今夜限りの特別なライブが真に始まった――――。

 

 

「「お疲れ様~!」」

 ジョッキとグラス、そして楽し気な声が、料理がずらりと並んだテーブルの上を飛び交う。

 ライブを終え、シデロスと結束バンドの面々は呑みの席についていた。さすがに八人の大所帯ともなると予約した個室では少し窮屈だったが、都会の居酒屋なんてこんなものだ。ちなみに時刻はすでに午後十一時を回っている。世間的にはもう深夜。

「改めて……ごめん! 昨日も今日もライブで疲れてるはずなのに!」

 虹夏はビールを一口の飲んで喉を潤した後、目の前の席に座る彼女らへ言った。

 お互いに疲れているのは分かっていたが、同時にお互い忙しく時間が取れないため、打ち上げは今この時にやるしかなかったのだ。

「大丈夫よ。私たちも集まる時間なんてなかったからちょうどいいわ。――それよりも沖縄で体調崩したって聞いたわよ。そっちこそ大丈夫なわけ?」

「おかげさまでもうピンピン」

 流れるように自分のことを心配してくれるヨヨコに、少しばかり感動してしまった。久しくマネージャーとバンドメンバー以外と顔を合わせていなかったので、余計に優しい言葉にクラっとくる。

「何だか、おばあちゃんみたいな言い方ね……」

「それ思った」

 あははと心地よい笑いが弾け、和やかな空気のまま時間が過ぎ去っていく……。

 ――――。

 大体一時間後。頼んでいた料理はほとんど食べ終わり、惰性で飲んでいる頃。すっかりアルコールの雰囲気に染まった場は、幽々とふうかが話す、ヨヨコの面白いところだったり、優しいところだったりの話で埋まり尽くしていた。

「――それで、私のこと心配してくれて家まで来てくれたこととかあるんですよ~。正直、レアな霊とか連れて来てくれるんで、定期的に来て欲しいかも」

「ふうかの方も前に風邪引いたとき、ヨヨコちゃんがフルーツゼリーとか持ってきてくれたことあったなぁ~」

「優しいんですねぇ、大槻さぁ~ん」

 彼女らの話を聞き、郁代がねっとりとした口調でヨヨコに詰め寄る。

「え、ええ……そ、そうね……」

 てっきり、ヨヨコが照れて話は終わりかと思っていたが、酔った郁代を初めて見る彼女は、その異様さにアルコールが醒め、小声で虹夏に「どうしちゃったのよ、この子」と訊いてくる始末だった。普段のキラキラと溌剌した彼女をしか知らない人にはかなりの衝撃だっただろうことは想像に難くない。残念ながらこれが喜多郁代という人間なのだ……。

「……はぁ、もう二日酔いが来た気分だわ……」

 虹夏の諦めたような目線を見て、ヨヨコは頭を抱えて黙りこくってしまった。

「す、すみません、ちょっとお手洗いに……」

「――あ、私も。待ってぼっち」

「ちょっと! ぼっちちゃん! リョウ!」

 ひとりとリョウが「急に」トイレに向かうと言って部屋を後にする。おおよそ、この空気に絶えられなくなったのか、それとも、今日の郁代のターゲットが自分たちではないと確信して、今のうちに退散しようという魂胆だろう。答えがどちらにしろ、もう帰ってこない気がする。

 虹夏の予感が確信に変わるのにそう時間は掛からなかった。というのも、すぐにひとりから連絡があったのだ。今日はもう帰ります、と。

「はぁ……」

 まったく自由が過ぎる彼女らに頭を悩ませるばかりだ。これをどう伝えたものか……。

「何? あの二人帰っちゃったの?」

「うん」

 ヨヨコの核心を突く問いに、虹夏は誤魔化すことなく答えた。失礼なことだけど、どうせバレることなのだからいっそ、という気持ちと、長年の友人に対する甘えがそうさせた。だが、彼女からの反応は皆無だった。

「……ごめんね。忙しいところ来てもらったのに。後であの二人にはキツく言っておくから!」

「いや、そういうことじゃなくて……。早く帰れていいなって思っただけよ……」

 疲れを滲ませるヨヨコ。もちろんその原因はライブではなく、彼女の隣に座って呑んでいる郁代だ。その前にはもう何個もの空のジョッキが置かれている。これでも結束バンドだけで飲む時よりも加減している――つまり、余所行きであったのが怖い。ちなみに、もともとそこに座っていたあくびは、自分の隣――つまり、郁代が座っていた場所に移動していた。

「ども。大変っすね」

「そう、だね……」

「そんなことより、ライブの話よ、ライブの話!」

 すでに意識が朦朧としかけている郁代を後目に、ヨヨコはジョッキに残っていたハイボールを一気に煽る。抜けていた酔いを取り戻したようだ。

「あんたたち、本当に上手くなったわよね! 横で聴いてて悔しいぐらいだったわ。でも――」

「……でも?」

 虹夏は恐る恐る訊き返す。いくら長いつき合いとはいえ、今をときめく新進気鋭のアーティストの評価は、何だか世間から値踏みされている気分になって気もそぞろだ。

「――でも、何だか寂しいのよね~。何かが足りないというか……、この言い方は悪いかも知れないけれど、微妙に音を楽しめていない感じがしたのよねー」

「……そうだったかなぁ」

「まぁ、気のせいかも知れないから気にしないで」

 心して聞いたヨヨコの言葉は、自分の中では見当違いのものであった。今日のライブに関わらず、どのライブもお客さんは満足した顔で箱を後にしていた。それのどこが「楽しさ」に欠けたライブなのだろう。気のせいかもといっても、ほんの少しだけムッとした。

 私のその気分が表情に出ていたのか、楓子とあくびが虹夏をフォローする。

「お客さんみんなニコニコしてたから大丈夫だと思うなぁー」

「同じドラマーとして、大丈夫だって保証するっすよ」

「ありがと~! 頼れるのは二人だけだよ……!」

「わ、私が悪者みたいじゃない!」

 場に笑いが巻き起こった。

 笑い声に触発されてヨヨコに憑いているモノが騒ぎ出したのか、幽々が意味深長にニマニマし始めたり、ついに郁代が力尽きて倒れたり、本当に今日は忙しい一日だったが、宴もたけなわ、それも終わる気配がしてきた。

 ……。

「それじゃあ! 今日はお疲れ!」

「うん、お疲れー。そっちも頑張ってね~。――ちょっと喜多ちゃん、自分で立ってよー!」

「ばいば~い……! また飲もうね~!」

「さよ~なら~……あう、少女の生き血が足りない……」

「おつで~す。今度またー」

 店の前でシデロスの彼女らと分かれた。時々、肩に寄りかかっている郁代を肩に掛け直しながら、私たちが泊っているホテルへ帰る。

 ここから大体二、三百メートル歩かなくてはいけない……。なんてったって私がこんなことを。先に返ったあいつらが手伝ってくれればもっと楽になるのに、そもそもこんなになるまで彼女が飲まなければ! 「酒は飲んでも飲まれるな」の逆を実践されるのは……まったく!

 

 大変な思いをして郁代を彼女の部屋まで届ける――と言っても相部屋なので自分の部屋でもあるのだが。シデロスレベルだと各個人に部屋が割り当てられるのだろうか。大阪のふかふかのベッドが遠い昔のように感じる。少し鬱憤も込めて郁代を雑にベッドへ転がした。

「すうすう……」

 郁代は穏やかな寝息を立てて寝ている。その寝顔を見ていると少しどうでもよくなった。

「――しっかし」

 部屋に戻ってくれば疲れから自然に眠気が湧くかと思っていたが、一向に睡魔は襲ってこない。仕方ないので眠くなるまで外でも眺めるかと、虹夏は、備えつけの椅子を小さな窓の傍まで運び、静かに腰を落ち着けた。

「………………」

 窓外にある天神の街は、現在時刻深夜一時を過ぎても煌々とした明かりが各所で灯り、東京のそれと大差ない人の息吹を感じる。時々、ホテルの下の道を走っていく車の走行音が微かに聞こえるが、夜の疎外感と空虚感が胸に残るところまでよく似ているのが、もはや怖ろしい。

 ――自然と頭の中に、ある確信が湧いてきた。

 昨日のライブでヨヨコが感じていたことは恐らく本当だ。

 沖縄以降薄々気づいていた薄氷のような心許ないそれは、それは彼女の言葉によって実体を持ち、頭の中で闊歩し始めている。今回は彼女の発言が契機だったが、考えてみれば、確固たる考えに変わるのは時間の問題だっただろう。なぜなら、みんなと一番過ごして、一番近くで見ているのは自分なのだから。

 ――きっと、足りなかったんだ――――そう、自由に、自分のまま、音を楽しむ心が。

 後ろから見ていて、そう、思った。

 

 

 

 十月十八日。深夜二時。

 長野でのライブを終えた結束バンド一行は、宿代を浮かすため、ライブの撤収が終わるや否や下北沢へ車を走らせた。もう少しもすればスターリーに着くだろう。

 未だに夢で余韻に浸ることもある、あの福岡の対バンから早一ヵ月弱。鳥取、島根、福井、石川、富山のライブを順々にこなしているうちに過ぎたその時間は、あまりにも軽いものだった。無論、ライブパフォーマンスを軽んじたわけではなく、全力でやったがゆえに、だ。

 どの会場でも私たちが全力で演奏すると、ファンも全力で返してくれた。それはとても気持ちのいいことで、死ぬほど苦労したことへの報いには十分過ぎるほどだ。

 ただ一点。

 自分の内に存在する遺憾を除いて――。

「…………」

 車の中には一切の会話はない。なぜなら、彼女たちは疲れているだろうから、寝ていいよ、と向こうを出る前に言っておいたのだ。

 本当に静かだ。

 ……。

 右折左折を繰り返して、見覚えのある景色に飛び込んでいく。遠くにギラギラと照明を焚くカラオケが見えてきた。家から高架を挟んで向こう側にある店だ。

 ナビでもう直ぐ着くと知ってはいたが、実際近くにゴールを感じると、今日の疲労がどこかに行ってしまったような感覚を覚える。

 しかし、逸る気持ちを冷静にさせるのが、時々、街を歩いている千鳥足の酔っぱらいだ。

 轢いてしまわないように徐行――いつも私は酔っぱらいに頭を悩ませられているような……。

 ――――ようやく着いた。

 途中、休憩を挟んだが、大体四時間。よく頑張った私!

「みんな着いたから起きて~」

 虹夏は自宅マンション前の道路に車を停めた後、車内灯を点けて眠っている皆を起こす。

「……ふわぁ~」

「――ん、んん……」

「……うふぁ?」

 まだ寝足りないと欠伸をしたり、逆に、よく寝たと背伸びをしたり、はたまたジャーキングのように起きたりする、郁代、ひとり、リョウの三人。羨ましい気持ちを少しだけ恨めしさが超えていくが、ここはぐっと我慢した。早く彼女らと機材を家に押し込むことが先決だ。

「――――今日は泊りなんだから、荷物持って私んち上がってって。早く。私は車止めてくるから」

 虹夏がそう言葉を発すると、彼女たちは何やら血相を変えて荷物を運び出し、マンションのエントランスに消えていった。別にセリフに怒りを込めたつもりはまったくないのだが……。

 何はともあれ、車を近くの月極駐車場に停める。忘れ物がないか確認した後、ハンドルとタイヤに追加でロックを掛けた。どうもこの車種は盗難が多いらしい。念には念を入れたほうがいいだろう。

 ……。

 …………。

「これでよし」

 万全の対策を施して駐車場を後にする。

 ひんやりと言うには少々寒すぎる空気に身を委ねて、数百メートルの道を行く。見上げても見えない星に安堵を感じながら――一人、歩く。

 何もない。

 何も浮かんでこない。

 結局、私は何がしたかったのだろうか。

 道を行く虹夏の視界の端に、ほぼ満月の月がちらりとビルの隙間から見える。それは、こちらを蔑むような空虚な冷光を夜空から放っている。

 その眼差しに耐えられず虹夏は目を伏せるが、ふふ、と誰にも――それこそ自分にも聞こえないような笑い声が口から飛び出した。

「こんなに月は綺麗なのにね……」

 二、三メートル前のアスファルトに向かって、虹夏はポツリと零す。すると、つうと唇を伝うものがあった。

 これはいかにと、流れる液体を右手で触れ、街頭の下でまじまじと見る――それは、血、であった。

「……あ」

 鼻血だ。

 またこれか。

 近頃困ったことに、ただ鼻をかんだりしただけで鼻血が出る。

 虹夏は、疑問と困惑、そして鬱陶しさを左手に込めながら、ティッシュをパンツの左前ポケットから取り出す。血で汚れた右手をサッと拭いて小鼻をできるだけ強く抑えていると、しばらくして鼻血は止まった。念のため、半分にしたティッシュを丸めて左鼻に詰めておく。

「――――もしかして、私、近いうちに死ぬんかな? まさかね、ははは」

 虹夏は何の気なしに冗談を飛ばした。

 目の前にある奇妙さが、何の根拠もない奇妙さに圧倒されて消えていく――。

 帰ろ。

 そして、早く寝よう。

 

「ただいまー」

 虹夏は静かに自宅の鍵を開け、玄関へ入る。

 みんな眠そうだったし、星歌には、遅くなるから先に寝ていてと言っておいたので、恐らく自分を迎える人は誰もいないだろう――と考えて小声にしたのだが、

「お帰りなさーい」

と、廊下で一人片づけをしていた郁代が虹夏を出迎えた。

「あー、喜多ちゃんありがとー。後は私がやっておくから、先にお風呂でも入っててよ」

「いえ、先に虹夏さんが入ってください! 一番疲れているでしょうし。他の二人にも言ってありますから」

「そこまで言うなら、じゃあ、お先にいただきま~す」

 ということで、手短に準備を済ませてお風呂へ向かう。途中、リビングを通ったが、案の定ひとりとリョウの二人は覚醒と睡眠の間を行き来しているような状態だった。郁代も含めた彼女らのために、今日はさっさと済ませられるシャワーにしよう。

 脱衣室で適当に脱いで、洗濯物はかごに入れる。虹夏は、もしかしなくても、みんなの分も私が洗うのか……と、面倒くさい気分になりながら風呂場の扉を開けようとした――――――。

 

「……あ、れ……?」

 

 ――――世界が残像をたなびかせながら急に上に上がっていく。

 ――――世界が破れかぶれに反転していく。

 ――――世界が様相を保てずに崩れていく。

 

 キーンと耳鳴りが響き渡り、視界はどんどん砂嵐になって自分の所在が分からなくなる。

 ああ、そっか。

 そう、だよね。

 

 伊地知虹夏は――倒れた。

 

 

 ………………。

 …………………………。

 ……………………………………。

 目を醒ますと、そこは高校時代の教室だった。

 黒板も、机も椅子も、独特な空気感すらも当時のままで。

 夕暮れ時の誰もいない教室の中を、私はあてもなくグルグルと歩き回る。一歩一歩足を動かす度に、妙な焦燥感と高揚感が胸の中を埋め尽くしているのが感じ取れた。端的に言えば、青い懐かしさだろうか。

 しかし、すべてが記憶と一致したわけではない――教室は、窓の外から差し込む緊急車両の赤色灯でチカチカと規則性の下で照らされていた。

 在学中に大きな事件、事故は起きた記憶はない。だからおかしい。

 私が困惑で後ろのロッカーの前に立ち尽くしていると、背後の黒板の方から声が聞こえた。

『はぁ……。今日もスタ練行かなきゃ。こんなことしてる場合じゃないのに。今日の宿題……いくらなんでも出し過ぎでしょ』

 振り返ると、かつての自分が椅子に座りながらブツブツと文句を言っている。彼女は鞄に荷物を詰め込んでいる最中らしい。

 輪を掛けて困惑が体に広がる。まるで全身の細胞すべてがクエスチョンマークに置き換わってしまったように。

『――ね、「私」もそう思うでしょ?』

「――――――――――へ?」

 「私」は素っ頓狂な声を上げる。だけど、感覚にして数秒間、何も反応できなかった。まさか話し掛けられるなんて思いもしなかったのだ。

 彼女はそのまま椅子を立ち、ずいずいと「私」に詰め寄って来る。

『ね、「私」はさ、このまま「練習」に行かないで「宿題」をやるべきだと思う?』

「……ちょっと、言ってる意味が分からないんだけど……」

 そうだ。練習だか宿題だか知らないが、まったく事の次第が分からない。

『だーかーら、自分なんかよりもよっぽどすごいみんなの足を引っ張りに行くか、それとも離れる決意を固めるかって話だよ』

「は?」

 何も知らず、感覚も鈍い私の態度が気に入らなかったのか、目の前の彼女はどこか苛立っている。

 だが、誰だって自分と瓜二つのドッペルゲンガーに話し掛けられたら、感覚と理性が分離するのが普通であろう。半ば八つ当たりのように言われても、そこはどうしようもない。

 だからここで、際立った感情が湧くことはあり得ない。

 しかし私は、さも結末がとうに決まっているように話す、強情な彼女に嫌悪感を抱いた。

「……べ、別にみんなのためにやることをやるだけだよ。あと、結束バンドを好きでいてくれてる人のために。――というか、あなたは一体誰なの?」

『んー、「わたし」は「わたし」だよ? 「私」の中の「わたし」で、「私」の昔の「わたし」でもあって、「私」の未来の「わたし」とも言える――そして「私」が期待する「わたし」……かな』

「えっ……と?」

 「わたし」とやらの論理は螺旋のように繰り返して、まるで難解ななぞかけだ。さすがに一発で要領を得られなかった。

『簡単に言えば、「わたし」はあなたで、あなたは「私」ってこと』

 これでもまだ分かりにくいが、先程よりはかなりマシだ。最初からこう言えば――

『済む話だと思ったでしょ?』

 それは、「私」と「わたし」の同一性の証左か、考えていたことを取られてしまった。それに、本当だったでしょ? と「わたし」は「私」に目配せをしてくる。

 たとえ未来の「私」でもそんなには気取らない、ましてや過去はなおさらだ。実体のない邪悪なものが、人を簡単に操り人形にしているような、そんな反感が湧いてきた。

 仮に「わたし」の言っていたことが真だったとして、今のこの気持ちだってどうせ「わたし」に伝わっている。いっそのこと思う存分嫌な気分になってやろうか。

『あはは……そうかっかしないでよ。悪かった、「わたし」が悪かったから』

 はぁ……、と「私」の溜飲は下がった。

『――――んで、さっきの話に戻すけど、「私」はどう思ってるわけ?』

「どうって何も……バンドを続けるに決まってる。これからツアーの終盤なんだし」

『その体で?』

 はあ、と見せつけるように「わたし」は大きなため息をする。そして、こう続ける。

『「私」は今、倒れて救急車で運ばれてるんだよ? これのどこが健康だって言うの?』

 「わたし」への嫌悪感は今や無きも同然になり、ああ、教室が赤いのはそういうことか、とすんと胸に落ちた。いつでも空想というのは、妙である。

「……でも、そうだとしても、「私」はドラムを叩き続けなきゃいけない。みんなのために、バンドのために」

『たとえ……死んじゃったとしても?』

「たとえ死んだとしても」

 「私たち」の間を沈黙が埋める。「わたし」が「私」の考えに納得していないことは、火を見るよりも明らかだった。

「…………」

『――あっそういえば! ねぇ、この間の「夢」のこと、憶えてる?』

 「わたし」は窓辺へ歩きながら、まるで昨日ネットで見た面白い動画を友達に共有するが如く、「私」に問いかける。その足取りは、このギクシャクした雰囲気を楽しんでいるようで軽い。

「…………」

『だんまりかぁ……まぁ別にいいけど。本題は別だから』

 〝本題〟。その言葉にドキリとした。

 喉元に鋭利なナイフが当てられているような、ひんやりとした終わりの臭いに身震いがする。

 ――――今は、触れない、で。

『「私」がバンドをやる理由――ってなんだと思う?』

 朱と橙が交わる教室の中、黒いシルエットを身に纏った「わたし」は不敵に笑っている。

『それはね――――「家族」だよ』

 何の躊躇もなく、「わたし」は正鵠を射る単語を言い放った。

 ――――――――。

 「私たち」にはお母さんがいない。お母さんの記憶が少ない。

 だって、小さい頃に亡くなちゃったから。

 今住んでるマンションにだって、お父さんはいない。

 物心ついた時から、お姉ちゃんと「私たち」の二人だけ。

 それが「私たち」の世界の家族の姿だった。

 そうは言っても、色んなところで寂しい思いをして、お母さんに会いたくなることも多かった。

 高校生になって、その痛みもだいぶ和らいだと思っていたら、彼女たちが現れた。

 そんなもんなんだって思ってた世界が、実は違うってことが衝撃だった。

 別に、音楽は嫌いなのかーとか、そういうしょうもない話じゃなくて。

 一体全体、どれくらい救われたんだろうね、「私たち」。

 まさにヒーローだった。

 そして、そんな家族同然のバンドメンバーに〝本物〟を見たよね。

 だから、結束バンドが終わるかも知れないことを「確信」した時……、

この想いがますます強くなった。

 完璧な今を崩したくない。壊したくない。

 「私」には、すべてをかなぐり捨ててでも守りたい居場所だった。

 もう二度と悲しい思いを、しないために、させないために。

 それが今の真の「理由」――――――――。

『でもさ、倒れるぐらい疲れを溜めたりしてさ。それに、こんな風に……って、これは目覚めた後でお医者さんにでも聞いて。どうせ「わたし」が言ったところで信じてもらえないだろうから。――ともかく、満身創痍な「私」が彼女たちの助けに本当になれると思う?』

「それは……」

 「わたし」の問いが「私」の奥深くに沁み、答えが自ずと浮かび上がってくる――それは、無理だ。そんな状態で彼女たちを守ろうだなんて、まったくの無責任だ――と。

『でしょ? でも、何も〝する〟ことだけが、できることじゃないんだよ』

「え?」

『そこで最初の話に戻るんだけど……』

 「練習」と「宿題」――――。

『そうそれ! 私が聞いた意味、今なら分かるよね』

 「私」が……みんなの下を去る……?

 ――。

 ――――。

 ――――――だけど、そんなことは到底許せない。

 然れども、理由を話してしまったらもう後には戻れない、と根拠のない予感が警鐘を鳴らしている。なんとか、しないと……。

「――そ、それは……ダメだよ。それじゃ、「私」がやってきたことに意味がなくなる」

 苦しい言い訳だ。それを「わたし」も理解していて、鼻で笑って一蹴する。そして、もはや紙に書いてあることを読み上げているように「わたし」は「私」の淀んだ部分を代弁した。

『やってきたことの意味が失われるのが嫌なんじゃない。「私」はみんなを手放したくないだけ。「私たち」はどうしようもなく独りよがりだから、独り占めにしたいんだ。「私たち」を救ってくれた光を抱きしめて、何にも侵されないようにしたい』

「――――――――ほんとに、そうなんだ」

 感覚的に理解しがたいものだったが、やはり「わたし」には「私」のことなど明け透けなのだと、いまさらになって思い知った。星ごと破壊する兵器の前で、その星の中で逃げ回るのと同じようなもの。もう観念しよう。これで今ある何かが壊れたとしても、それは贖いのようなもので、あくまで受動的にことを静観するしかないのだから。

「――――うん……そうだよ。認めるよ」

 最初は、共犯者としてリョウに頼っていた部分も多かったけど、終いには誰にも頼らず自分で重荷を背負うようになった。信頼を置いていないわけではなくて、そうすれば、自分さえ苦しい思いをすれば、彼女たちのあの玉のような輝きを守り抜けると信じていたから。

 だから、彼女たちから僅かでも「楽しさ」が奪われたことに気づいた時、怖くてたまらなかった。苦しくて、悔しくて……死にそうだった。

 どうしてこんな必死になって頑張っているのに、運命はカタチを変わらせてしまうの、と嘆いた。

 …………。

 でも――考えてみれば――――何が原因で――――――?

 ――――あ。

 「私」の表情筋が口を開けた形のまま強張っている。

 そうだ……。

『そうだよ? いつから彼女たちからそれが無くなったか、忘れたなんて言わせないよ? 沖縄で「私たち」が高熱を出した時、「私」は存在を認めなかったあの夢で、泣いていたことを彼女たちに聞かれちゃったからだよ。その後、〝なぜか〟いつもだったら自分がやっていた仕事が減ったこと、気づいてたでしょ』

「――――」

 跋扈する恐怖が、目の前に横たわる現実を跳ね除けようと躍起になるが、糠に釘を打つように、

もう何の意味もなさない。

「みんなは、とんでもなく優しいから……、責任を感じた」

 思考の流れは、ある一点へと向かう。

「みんなは、とんでもなく強いから……、肩代わりを肩代わりしようとした」

 結末はもうすぐそこだ。何の力も要らない。

「――――――結果的に「私」がみんなを苦しめていた」

 バレればみんなならそうすると、心の底では分かっていたはずなのに。最初からみんなを頼っていれば、なんて甘い考えはもう遅い。

 身から出た錆だ。無理をし過ぎたせいだ。

 でも、過去には遡れない。

 少しでもマシな具合にするのは、皮肉にも「無意味」だけだ。

『――――』

 「わたし」はその結論に満足そうに笑うと。こうつけ足す。

『だから、結束バンドを離れるの。離れて……自分の無為を受け入れるの』

 距離的にも、関係的にも離れてしまえば、もう間近で彼女たちを触れ合うことはできないけれど、その絶対の神秘性は守られる。事柄というものは、自身がそれからどれだけ離れているかで綺麗さが決まるものだから。

 もう傷つかなくていい。もう彼女たちを傷つけなくていい。もう何も悩む必要なんてないんだ。

 彼女たちを本当に大切に思っているなら、何が最善なのかしっかり考えろ、「私」。

 教室が真の闇に落ちる。

 いつの間にか、赤色灯は止み、太陽は死んでいた。

『うん……もうすぐ目が醒めるはず。だから、然るべき時までに決心してね。後は「私」、いや、私の求める真善美に任せる。どうか大好きな、リョウと、ひとりちゃんと、喜多ちゃんに最善解を。「私たち」の背負う「結束」って銘は呪いみたいなものなんだからさ』

 

 

 ……………………………………。

 …………………………。

 ………………。

 自分の意識の与り知らない力が、私の瞼をゆっくりと開かせる。細く開いたその瞳が写すのは、無機質な白く知らない天井であった。清く身を裂くようなアルコール臭が鼻を掠め、頭にはきつく何かが巻かれている。

「…………」

「目、覚めたか」

 ぼやけた視界の隅に、自分と同じ髪色をした声の主――星歌の頭が映る。虹夏は虚空を見つめたまま、うん、とあごだけを動かして返事をした。

「だ、誰か呼んできます!」

「あ、ああ」

 慌てた明るい声が離れていく。たぶん、郁代のものだ。私が倒れた時に一番近くにいたはずだから、わざわざ救急車にも乗ってくれたのだろう。

 霞がかった思考と感覚が、正常に還ってくる。

 迷惑を掛けてしまった慙愧の念と、「わたし」と話した不思議な記憶が蘇る。

 断続的な夢と現実。連続的な意識。

 私が受けれるべき今はここにあるが、決心すべきことは自分の体から幽体離脱したようで、頭を支配するのは未練のみ。

 残念なことに、理性的で、利他的で、私より頼りがいがありそうな「わたし」には、なれない。

 彼女たちを巻き込んでしまうのは本当に申し訳ないけれど、離れたくないのだ。どうしても。

 ……。

 

 それからは実に涼やかに時間が流れていった。

 郁代に呼ばれて速足で来た医者に問診され、倒れる時に頭を打ったらしいので人生初のCTも撮った。あの巨大な生物に飲み込まれそうになる感覚は、たぶんこれからも忘れない。

 検査に次ぐ検査で、頭にぐるりと包帯を巻かれている感覚にも慣れつつある。夜に運び込まれて、朝に目が醒めて、それからずっとランチタイムが終わるぐらいまでずっと検査だったのだから当然とも言えるが。

 私がそんな風に看護師に連れられて病院内を練り歩いている間、星歌はずっとついてきてくれていた。同じようにつき添ってくれていた郁代は、私の家へ先に帰らせたらしい。なんでもひとりとリョウが家でずっとやきもきしているんだとか。可愛過ぎか? まるで犬みたいだ。終わったら早めに帰ってあげよう。心配掛けたのはこちらの落ち度だし。

 健康は得難いものだと改めて実感した。

 「次で最後ですから、もうひと踏ん張り頑張りましょう」と看護師に連れられて、ある一室に入る。

 しかしそこには、仰々しい機械もなければ、命を拒絶するような無機質さもなかった。

 あるのは、温かみのある人間らしい雰囲気だった。強いて言うなら、街外れの小さなカフェ。

 そこで一時間強、カウンセラー然とした人物とほぼ雑談をして過ごした。〝然〟と称したのは彼女が最後まで身分を明かさなかったからだ。

 何一つ不愉快なことはなかったのに、心の内がざわついていた――――。

 

 検査の結果をお知らせしますので、ご家族の方と一緒に来てください、と案内されて普通の診察室に星歌と共に向かう。

 長い廊下。

 腹の中を渦巻く「よくない予感」が、いよいよ心の岩礁を超えて口から外に出てきそうだ。

 虹夏は、清潔感のある白色の引き戸を開けて、医者の使っているデスク前のスツールにちょこんと座る。

「…………」

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。悪性新生物――いわゆるガンとかじゃありませんから」

 いつの間にか虹夏の顔に張りついていた緊張を読み取って、目の前の医者は早々にネタ晴らしをした。それでも顔色が明るくならない虹夏に、彼は前置きを飛ばして結果を言い始める。

 …………。

「――――と、まぁ過労ですね、倒れたのは。ただの過労だから大丈夫、と侮らないでください。過労も極まれば、命を落とすことに繋がります」

 ただの過労、と安堵し掛けていた虹夏の襟を正した医者。しかし話はそれで終わらなかった。

「次に話す内容が、この場にご家族を呼んだ理由です」

 一気に室内の緊張が高まる。当事者たる私はおろか、斜め右後ろに座っている星歌からも、ごくりと唾を飲み込む音がした。

「伊地知虹夏さん。カウンセリングの結果、あなたに強迫神経症と気分変調性障害に近い症状が見られました。厳密にはこれからの通院で明らかにしていくのですが、分かりやすいように言うと、鬱、です。しかしながら、軽度の、ということに留意をしてください」

 一言一句逃さず聞いた虹夏だったが、え? とか、さっきの「わたし」の話ってこれのことかとか、そういう人間らしい反応はまったくもってできなかった。ただ在る、ガラスのコップになったように、話という水が注がれ続けることを待っている。

「恐らくですが、過労もこの症状に起因すると思われます。ですので、伊地知虹夏さん――――」

 その次に言うことは予想がついた。人の命を救うことがとりあえずの医者の責務なのだから。

「三ヵ月程度、いえ、もしくはそれ以上の期間になるかも知れませんが、お仕事をお休みなさった方が賢明だと思います。ぜひご家族の方には――協力を――――」

 だろうと思った。

 自分にとっての普通の幸せを求めることすら満足にできないんだ……この世界は――――――。

 

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