霽月の夜   作:TriK

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あぶく、夢の水底

 十月二十日。

 虹夏が倒れてから数日。本来ならすでに次のライブの打ち合わせがとっくに終わっているはずなのだが、そんな話は露程にもなかった。

「虹夏ちゃん、大丈夫かな……」

 ひとりは一人、自宅のダイニングテーブルについている。

 何もないことをいいことに、どこかのぼっちなグルメおじさんよろしく、腹が減った、とぼちぼちベッドから抜け出すまで、後藤ひとりは自堕落にも昼過ぎまで布団に入っていた。

 消費期限が近い食パンを食べながら、昼過ぎの特に面白くないテレビを見る。オーチューブでもいいのだが、あっちはあっちでギター関連しかオススメに上がってこないので、無性に弾きたくなって食事時には向かないのだ。

 バラエティー番組も終盤になり、天気情報とニュースをアナウンサーが淡々と読み上げている。

「先月五日、新宿駅の山手線内回りのホームで面識のない男性を暴行した――――」

 九月五日……。

 あの日は虹夏が倒れた日だ。

 ひとりは、近々を丁寧に振り返った。

 

 ――――。

 ――――――――。

「……うっうっ……う、うあ……」

 晩ご飯をどうするか、虹夏へ尋ねに行ったものの、血相を変えて戻ってくることになった郁代。彼女に半ば引きづられながら当の本人の部屋前に来ると、虹夏が中で嗚咽交じりに泣いている声が聞こえた。いくら壁がそこまで厚くないそこそこのホテルだったとしても、廊下にいても聞こえるのはハッキリ言って異常だった。

「……え、ど、どう、どうすれば……?」

 ひとりは、ドアノブに手を掛けるか掛けまいか、ドアをノックするかするまいか、おどおどとその場で立ちつくしている。

「わ、私が声を掛けるわ!」

「いい、いい、放っておこう」

 覚悟を決めてノックしようとする郁代を、リョウは軽く手で制する。

「――私たちが部屋に入っていったところで何もできることはないでしょ。たぶん」

「それは……」

 入ってみないことには分からないじゃないですか、と郁代は反射的に言いかけたが、リョウの言葉を奥にあるものに瞬時に気づき、その言葉をグッと飲み込んだ。自分だけ話に置いてかれている。

「……ええと、喜多ちゃん?」

「そうね……、とりあえずご飯食べちゃいましょうか」

「ぐうー、ハラヘッタナー」

「じゃあ、そういうことだからひとりちゃん! 外に食べに行くわよ!」

 

「――ええと、沖縄まで来てカレーにするんですか? しかもチェーンのやつ?」

 ひとりは、郁代らの後ろを歩いているうちに辿り着いた店の前で、驚きと疑問が半々になった声を漏らした。

「リョウさんが食べたいって言うから仕方ないわ! そうですよね~?」

「うん。もう普通のご飯が食べたい」

 沖縄に着いてからまだ一回ぐらいしか〝らしい〟ものを食べてないのだが……。海に行った時は結局ただの醤油ラーメンにしてしまったし。

 そんな文句は喉の奥にしまって、一行は店の中に入った。

 沖縄だから特別仕様、ということもなく、東京の店舗と同じような内装で不思議と安心できた。虹夏が病床に臥しているという非日常においてはベストチョイスだったのかもと、さっさとボックス席に着いてお冷を飲んでいるリョウを見て思った。

 郁代に続き、ひとりも席に座る。そして、全員が注文し終わり、店員がテーブルを離れた瞬間、郁代が真剣な目でリョウに訊いた。

「で、なんか話あるんですよね、「共犯者」さん?」

 鋭い切り込みだった。リョウはその忌憚なき言葉にタジタジしている。その反応がひとりには意味が分からなかった。

 ただ、夕ご飯を食べに来たわけではない……?

「え? え? な、何の話ですか?」

「……はぁ、ひとりちゃんね、リョウさんは話があったからあんな薄情なことを言って、ホテルの外に連れ出してきたのよ」

「うぐっ……はくじょう……?」

 何かダメージを受けた時の声がした気が……。

 話が硬直したところでちょうどよく注文したカレーが運ばれてきた。

 郁代は野菜カレー、リョウはシーフードカレー、ひとりはハンバーグカレーにそれぞれ舌鼓を打つ。どこでも同じ味が食べられるのが、やはりチェーンの強みだな、と改めて感じた。

 誰かが話し始めるのを待っている。そんな少し重い空気の中、順調に皿の上のカレーは減っていく。

 ひとりは、その淀みつつある空気の一瞬の隙を突き、意を決して訊いてみた。

「……あの、それでさっきの話は……」

「それは、もちろん虹夏の話」

 てっきり先程のように郁代が質問に答えるものだと思っていた。しかし、彼女が口を開くより早く、ついに話を始める決心がついたのか、それともカレーを口に入れて心が落ち着いたのか、リョウが神妙な面持ちで本題を口にした。

「――虹夏、最近全然話してくれなくなった。バンドとかライブとか、前は結構してくれたんだけど」

「私とひとりちゃんをハブってた時とかですか?」

 郁代は水を一口飲みながら、淡々と話の腰を折る。そこに怒りや悲しみはなく、ただ、そう、であることを言っている。

「あれは虹夏も私も悪いと思ってるから、許して……ください」

「もちろん! そうよね、ひとりちゃん」

 それに、うんうん、とひとりも肯定の意を示す。

 リョウの顔に安堵の表情が浮かんだ。

「――それでなんだけど、虹夏、最近ヘンだと思わない? なんか疲れてるというか、余裕がないというか……」

「そう言われてみれば……確かにいっつも疲れてそうでしたよね。目の下にクマあったり」

「あっあと店長さんから、虹夏ちゃん、毎日狂ったようにドラムの練習してるって、聞きました」

 リョウの直感は正しかったことを示すように、虹夏の普段――一年から半年ほど前ならしていなかった行動がどんどん挙がってくる。

「やっぱり……」

「リョウさんは、虹夏ちゃんが今回体調崩したのは、それが原因だと思ってるんですか?」

「そう。あいつ、自分が背負えると思ってるもの、全部背負ってるから」

「…………」

「…………」

 リョウは、虹夏のことをいつも通りなら呼ばない呼び方で言い、歯噛みするように現状を語る。ひとりと郁代はその声を聞いて何も言えなくなった。

 覚えていた、ということは、気づいていた、ということ。

 つまり、本当は異変だと感じていたのにも関わらず、見て見ぬフリをしていた。

 違わない――それこそ「共犯者」だ。

 無論、誰が悪いとか、誰なら断罪できるかとか、そういう類の話ではないのは分かっているけれど、その単語を脳内に浮かべずにはいられなかった。

「だから――私、郁代とぼっちに協力して欲しいことがあるんだ」

 リョウはいつもの眠たげな表情ではなく、大きな光り輝くものを瞳に宿している。

 もはや、活気に溢れているはずの店内の煩雑な音は聞こえなかった。自分の拍動でさえ、聞こえなかった。

 ここだけ時空が切り取られてしまったかのような、断絶感。

 その重みを十二分に理解して、リョウは口を開いた。

「――虹夏がやってた仕事をできるだけ私たちでやりたいと思ってる。別に、全部できるとは思ってないけど、司馬さんに相談して、なんとか……虹夏の負担を減らしたい」

「……それ、司馬さんにもう話したの?」

 郁代の疑問はもっともだ。今日の彼女は中々鋭い。

 バンドの雑務の大半は都がやっており、虹夏はその中で自分でやった方が効率的なものだけを選んでやっていた。ともすれば、彼女に話を通さないことには大層なことも絵に描いた餅なのだ。仮にその餅が実体化したとしても、食べきれるかどうかは別問題だが……。

「まだ話してない、けど、たぶんイケる」

「……」

「……」

「………………分かってる。こんなのじゃ説得なんてできないって。でも、〝わたしたち〟は虹夏一人に負担を掛け過ぎた。もう手遅れかも知れないけど、今からでも何とかできないか頑張ってみたいんだ、私。それに、『スターライト』出した時に感じたんだ――このままみんなと見たことない景色を見るのは、きっと、楽しい。けれど、バンドを結成した日の高揚感はいつまで覚えてられるんだろう。忘れてしまった自分を想像すると、怖い、って。それは、本当になりたかった、貫き通したかった「自分」なのかって」

 そもそも、今の私は、ちゃんと「私」をしてるのかな、と小さく苦々しい気な声を彼女は漏らす。

 リョウの本心の吐露に、ひとりと郁代に言えることなどなかった。場を沈黙が支配する。もうカレーは冷めてしまったかも知れない。

「……」

「……」

「……」

 この重苦しい空気に、お水のお替りを注ぎに来てくれた店員の顔面は固かった。バイトの彼に同情する。私がその立場だったら――――いや、この想像は止めておこう。

 キンキンに冷えている水を飲んで一旦頭をリセットしようと、皆が同じタイミングでコップを手に取って口元に運ぶ。

 そのあまりのシンクロ具合に、ひとりは思わず笑みがこぼれてしまった。

 それは二人も同じで。空気が一気に弛緩した。

「……こほん、もう御託は並べない――私と一緒に頑張って欲しい」

 取り繕ったように話すリョウの顔には、少しだけ不安が翳っている。

 ――――。

「……そんなこと言わなくても、手伝います。一蓮托生、ですよね?」

「そんな顔しないでリョウさん! 私たちは同じ穴の狢なんですから!」

 ワザとか天然か、微妙に間違ったことわざの使い方をする郁代。

 ――いや、そうでもない、のか……? 虹夏に負債を押しつけた輩は他でもない私たちなのだから。

 ひとりは、降りかかる暗い思考を頭を振って振り払う。今からこうではどうするのだ。

「……郁代、ぼっち、ありがとう。これからも迷惑掛けるけど、よろしく」

 リョウはとりあえずの満足そうな顔を浮かべ、テーブルの反対側に座る私たちに右手を差し出してきた。

 ひとりは、その重みをしかと感じながら握る。

 郁代は、また二人だけで通じ合う感じ出してる、と不満げに頬を膨らませながら、その握手を上下から包み込むように手を重ねた。

「リョウさんのわがままは、全然っわがままだと思ってないので、どんどん私を頼ってくださいね!」

「うっ……!」

 ひとりは、郁代の異様にキラキラとした瞳と、手から伝わる燃えるような体温に目を背けたくなった。が、リョウに迷惑掛けてる意識があった驚きとで何とか相殺する。

「――――。うん。じゃあ、このカレー奢って」

「もちろん!」

「あ、ちょ、喜多ちゃん……虹夏ちゃんに……」

 怒られますよ、なんて言葉が出掛かったが、今日はなぜだかその先を言う気分にはなれなかった。そういう癖がついているからダメなのだ。

 ひとりは、皿の上に残っていたルゥとご飯を喉に流し込んだ。

 

 

 

「はぁ……」

「もう、ひとりちゃんこれからライブだっていうのに、どうしたのよ。ため息なんかついちゃって」

 そう、今は福岡のライブ前で、泊っているホテルから徒歩でライブハウスに向かっているところである。ちなみに虹夏は、シデロスのために一足早く会場へ向かった。

 すれ違う人々も、目に映る景色も、まるで豪華なシャンデリアのようにキラキラと輝き過ぎて、ひとりの心により一層のダメージを与えている。

「あ……いや、いかに自分が無力なのか、痛感して鬱々としてきたフェーズで……」

 なんでも――、

『――と言われましても、やれるお仕事はほぼないと思います……。伊地知さんの分までこちらが引き受けるのは承知しましたが』

と、三人が決意を固めた夜、善は急げと都に連絡をした返答がこれだったのだ。自分たちがこれまでいかに楽器だけをやってきたかを思い知らされた結果だった。

 これを思い出すと、胃がキリキリと痛む。気分が落ちる。

 もうどうしようもないのだ。過去には遡れないから。それが何より救いがなくて辛い。

「ひとりちゃんがそんなこというから、私もなんだか――。ほ、ほら、リョウさんを見習って普通に過ごしましょう!」

「…………」

「?」

 郁代が前をそろそろと歩くリョウの表情を覗き込むと、精根尽き果てたように生気のない顔をしていた。

「リ、リョウさん!? しっかりしてくださーい! ひとりちゃんみたいにならないで~!」

 郁代は、リョウの顔を優しくぺちんと平手で繰り返し叩いて、いつもの彼女を呼び起こそうとしている。しかし、彼女の努力虚しく、リョウの活気はなかなか戻ってこなかった。

 こんなふざけた光景だが――実はこれが初めてというわけではない。

 虹夏が病理に身をやつしてからというもの、ライブ前になるとあの衝撃と無念が心の奥底から呼び起こされ、金縛りのように心をきつく締めあげてこんな風になる。

 ただ虹夏への負い目だけがそうさせているわけではなく。自分の至らなさに、憎くらしさと恨めしさが降り積もって、嫌気が差すに至っているのだ。よしんば前者がないにしろ、私はギタースキル以外はへっぽこ同然なので、理想と現実に軋轢が生じるのは時間の問題だっただろう。

 人はよく、人生の慰めに「何かを始めるのに、いつかなんて関係ない」と華々しく語るが、それは趣味として、またそれに類するものとして、「何か」が持つ価値を残りの生において均等に分配した結果でしかない。実際のところ、「何か」を持つことに運命的な分岐を内包するものであったとすれば、その価値はその限りでなく、最も自らの内でそれの価値が高まる時――然るべき時に、然るべき物事がそれによって果たされる――に持っていなければ意味はなく、相対的に価値はゼロにも等しくなる。何事にもある種「適齢期」は存在するのだ。

 ひとりたちの胸の内を震わせているものは、これだった。

 すえた臭いがしそうなぐらい腐りかけた負の残心が、自分たちの気づかないところでステージにリンクしてしまっているかも知れない。

 ――かも知れない。そう、かも知れない。

 自分にできることがないというのは、こんなにも辛いことだった。そう……だった。

 十年という短くも長い旅路で、きっと忘れてしまっていたんだ。だって、楽し過ぎたから――。

 

 その後のライブは特に問題も起きることなく演奏できた。腐ってもプロなのだから当然と言えば当然であるが。シデロスの彼女らも満足してくれたようで何よりだ。

 しかし、ライブ以上に忘れられないことが一つある。

 人と接するのに疲れたから早いとこ帰ろう、とリョウが耳打ちしてきたので、ほいそれと提案に乗り、虹夏や郁代より一足早くホテルへ向かっていた時のことだ。

「ねぇ」

 少し前を歩いていたリョウが足を止めて、振り向きしなにひとりに呼びかけた。その声はひどく優しく、冷たい声だった。

「今日はコーラ飲まなくていいの? そこに自販機あるけど」

 リョウが指差したビルの脇には、青色の自販機が一台置かれていた。

「……あ、じゃあ、はい。買ってくるので先帰ってもいいですよ? それとも何か飲みますか?」

「いや、いい」

 いらない、というので、てっきり帰るのかと考えていたが、リョウは一行にその場所から動こうとはしなかった。まるで靴の裏が地面に縫いつけられてしまったよう。

「か、帰らないんですか?」

「うんまぁ、ぼっちを待ってる」

「そう、ですか……」

 年季が入っているのか、現金しか対応していないその自販機にポケットから出した硬貨を滑り込ませ、ボタンを押し、受け取り口からコーラを取る。その間ずっとひとりの脳内は、今日のリョウの異様さについて考える声で溢れていた。その疑念が確信へと結実する前に、さぁ帰りましょうか、とリョウの方へ向き直ると、ひとりは、自分の中にあった違和感が容量オーバーで外へ溢れ出てくる錯覚を見た。

 リョウが煙草を吸おうとしていたのだ。

「リョウさん、止めたんじゃないんですか? それ。虹夏ちゃんに怒られたからって。何年も前に」

 ひとりは彼女を諫めながら、自然と歩みが彼女の方へと進む。内心驚きでいっぱいだったが、言動は自分が考え得る限り落ち着いていた。

「うん、そう。最近色々あったから、つい、ね」

 彼女は咥えかけていたそれを箱に、左手に持っていたライターをズボンのポケットに戻した。どうやら吸う気が失せたらしい。

 健康に悪いからと、二十歳になって煙草に手を出したリョウを虹夏が叱った以来、彼女がその手の物を手にしている場面を見たことはなかった――。

「早く帰ろ、ぼっち」

「は、はい」

 ひとりがリョウの元へ辿り着く前に、彼女は一足早くホテルへ踵を返していた。それと、こうもつけ足した。

 ――安心して。今まで吸ってこなかったのは本当だから。ホテルに帰ったらこれも全部捨てるから。

「…………」

「…………」

 足取りは重い。

 たった数百メートル歩けばゴールなのに、それ以上歩かされているような感覚。

 いつからこうなってしまったのだろう。ひとりは苦し紛れに他のことを考える。

 そうだ――アレの答えを聞いてみよう。もともと私の中にない答えを。

「あの、リョウさん」

「――」

「リョウさんのバンドをやる理由って何ですか……? 答えたくなかったら、いい、ですけど」

 ひとりがリョウの答えを待って暫くしても、彼女は何も声を出さなかった。

 やっぱり言ってくれないか、と諦めて問いを取り下げようとした時、リョウが前触れもなく口を開いた。しかし、質問の回答ではなかった。彼女の視線はひとりへ、ではなく、遥か上空――宇宙へ向けられている。

「――今日は、星が綺麗だね」

 目を細めながらそう言うリョウに、ひとりもつられて空を見上げる。

 ――――しかし。

 ひとりには、星の一つすら見つけることはできなかった。

 ――――――――。

 ――――。

 

 ひとりの回顧はそこで終わりを迎えた。

 というのも、ロインに今後左右するような大事な連絡が来ていたからだ。

 ――今日の六時にいつものスタジオに集まって欲しい。

 虹夏からのものだった。

 現在、時刻は十五時少し前。二時間半後には家を出なければ。

 何でもいいから彼女の状況を知りたいと思っていたが、自身の心中を曇らせている渦中のその人から実際に連絡が来ると、口から心臓が出てしまいそうな気持ちになる。

 ……。

 …………。

 全然待てない。

 先ほどから一秒たりとも時計の針が進んでいないように思えて仕方がない。

「早過ぎるけど、もう出よう……」

 恐らく、二時間程度下北沢の街を徘徊する不審者が生まれることになるだろうが、逸る気持ちを落ち着かせるにはこれぐらいしかやることがないのだ。

 ひとりは一応ギターを引っ提げて、あの街へ向かった。

 

 

 午後十八時。

 ひとりはスタジオの扉の前に立っていた。

 散々下北沢を歩いて負を発散したはずなのに、どこか心ここにあらずなままで、身体的より精神的に疲れている。こんな状態で重大な話を聞けるのだろうか。今日はいつもと違う、それこそ破滅的で退廃的な雰囲気があると第六感が警めている。

「ひとりちゃんは入らないの?」

「うわぁ! ちょっと、後ろから話しかけないでください!」

「ごめんごめん、早く中に入ろ? 虹夏さんの話、ひとりちゃんも気になるでしょ?」

 うじうじしていたひとりを、後ろからやって来た郁代が風のように掻っ攫って行った。中では虹夏とリョウが普段の練習のように楽にしている。

 それが私には――嵐の前の静けさに思えた。

「お待たせしました~!」

「お、おはようございます」

「待ってたよー。話の前に軽くセッションしようよ、ね! いい?」

 虹夏はひとりと郁代、それからリョウへ視線を投げる。

「いいですね!」

「じゃあ準備します」

「うむ」

 ひとりと郁代は、背負っていたギターケースからギターを取り出し、シールドをギターに繋げる。郁代も自分と同じようにギターを持ってきていたのか――でも、スタジオに呼び出されたわけだから普通か……、そんな取るに足らない思考がひとりの中を駆け巡る。

 全国ツアーの興行中は各地のスタジオを使うことが多くなったため、道理としてこのスタジオを使う機会が減ったゆえに、ひとりは早くも懐かしさを感じていた。

「じゃあ、ワン、ツー、ワン、ツー、スリー、フォー!」

 虹夏の掛け声に合わせて演奏が始まる。

 ギターを弾いている間、ひとりを突き動かしていた強い感情、それは――楽しい、だった。ライブで弾いていた時に感じていたそれとは本質的に違う「楽しさ」が体を包んでいる。

 まるで夕暮れに沈む教室のような。

 まるで押し入れでの練習のような。

 ――――――。

 すでに過ぎ行った青春のように、セッションは胸にすっぱいものを残して終わってしまった。

「お疲れ~、久々にここで演るとなんか高校生に戻った感じがして、ちょっと懐かしくなっちゃった」

 そして、虹夏はくすぐったそうにはにかみながら、こう続けた。

「みんなと最後に演奏できて、本当によかった」

「そうですね…………え?」

 ひとりが一息遅れてその意味を頭で理解した時、一気に世界の音が遠のいたのを感じた。まるで、背後からバットで思い切り頭部を殴られたようで、眩暈のように視界がぐわんぐわんと揺れて、立っていられなくなりそうだった。

 何とか気を保つ。

 残像と砂嵐を侍らせて動く視野の端、郁代と虹夏が何かやりとりしているのが見えた。

 しかし、いかように耳を澄ましても何も意味ある音は拾えない。

 意識の漂う海の底から水面上の音を聞くようなそれは、聞こうとするその行為自体、月をすくうことと同義なのかと、ひとりは冷笑した。

 数秒か、数十秒か――しばらくした後、ようやく自分の脳機能のほとぼりが冷めてきた。

「……虹夏ちゃん、これ、どういうこと、ですか……?」

「うん、今日はその話があってみんなを呼んだんだ。とりあえず座ってくれる?」

 ひとり、そして郁代とリョウ、各々言いたいことはあるだろうが、まずは虹夏の話を聞いてから、とそれぞれ手直にあるスツールを引き寄せ、腰を落ち着けた。

「ありがと。じゃあ本題に入るね」

 虹夏は神妙な面持ちで話を始めた。

「まず、最近みんなに心配ばっかり掛けてることを謝らせて欲しい。ほんとにごめん。あとね、次の新潟公演なくなった。そんな簡単に公演飛ばしていいのかって思ったけど、司馬さんが体は資本だって言うから……。うん、…………――みんなもう気づいているかも知れないけど、私、病気、なんだ。心の。――アホくさいよね、一人で勝手に頑張って、一人で勝手に燃え尽きて、挙句の果てにみんなに迷惑を掛けてさ。でも、もう大丈夫。私にとってみんなはヒーローで、私は助けられてばっかりで、私はまだ何もみんなに返せてないけれど――いや、だから……」

 虹夏がここで言葉に詰まる。表情こそ歪ませることはなかったが、「だから……」と繰り返すばかりでその先が出てこない。

 ……。

 …………。

「………………はあ……ふう」

 自分の中から溢れ出てこようとする感情を鎮めるために、深呼吸をした虹夏。覚悟が決まったことをその瞳が物語っていた。

「私は、結束バンドを、抜けます。もう私はみんなに迷惑を掛けたくないから。みんなの足を引っ張りたくないから。せっかく掴んだかも知れない人気路線を、私のために諦めて欲しくないから。これからは一ファンとして死ぬまで応援するよ」

「そんな…………――――――」

「――――――」

 憑き物が取れたようにケロッとする虹夏とは対称的に、郁代は口を手で押さえて必死に何かを耐えている様子で、リョウは何も言わず俯いている。

 彼女が放った言葉がどれほど重いものだったのか、今このスタジオにおいては時間という概念が棄却され、先に行くことも前に戻ることもできない永遠が占めていた。

 しかし、そんな凍りついた状況でもひとりの中にある渦のうねりはとどまることを知らなかった。郁代が堪えているそれとはまったく異なる、自らを内側から巨大な衝動で突き上げ、動かし、掻き乱し、理性を壊す感情――。それは燎原の火が如く広がっていく。

「本当に、本当に虹夏ちゃんはそれでいいんですか?」

 声を発した本人ですら驚くぐらいの冷たい声。一瞬、別の誰かが部屋に入って来て勝手を言っているのではないかと疑った。

「うん、そう。もう変える気はないよ。あんなこと言っておいて信じてもらえるかは別だけど、あくまでも、みんなのため、じゃなくて、自分のために、だから。ぼっちちゃんも、喜多ちゃんも、そしてもちろんリョウも、気に病む必要はまったくないよ。これは私の意志で、私が勝手に――――」

 〝勝手〟。その言葉を聞いた瞬間、ひとりの中にある先鋭化された純粋な憤りは決壊した。

 楽しかった、悲しかった、悔しかった記憶――過去と未来のステンドグラスを、ハンマーで打ち砕かれたかのようだ。

「――――――ッ!」

 そんなこと言ってしまったら、もう元には戻れない、と必死に叫ぶ理性の声はすでに聞こえない。

「――今さら……っ、今さら勝手なんて言葉で片づけないで!」

 ひとりの絶叫に空気が完全に凍りついたのを感じた。

 それでも、もう押さえられない。もう止まれない。

「そもそも勝手? 勝手って何ですか!? 虹夏ちゃんはあの日、公園にいた私を勝手に拾って、バンドに加入させてくれて、私の……みんなの夢を切り拓いてくれた! 私も、私たちも、虹夏ちゃんと同じように勝手に物言って、勝手に動いて、みんなが思うままに、好きなままに、助け合って、慰め合って、並んだ影を後ろに落としてきたから、今があるんです! もう、勝手は普通なんです! こんな――こんな大事なことで……普通の理由出されても全然納得いかない! 全部全部独りで背負って、決めないでください! 本当は結束バンドやめたくないんですよね? 自分が、病気になった自分が、私たちの邪魔になると思ったから、ですよね? ―――――そんなわけない! 私たち全員、そんなこと思ってない! 私の気持ちを一方的に決めつけないで……。一体、虹夏ちゃんは何がしたいんですか? 教えてくださいよ! 死にたいんですか? なら、虹夏ちゃんが死ぬ時まで私たちは一緒にいます! それとも、地獄にでも行きたいんですか? それなら、私たちも一緒に行きます! 絶対に一人にはさせない! 夢は大事だけど、大切な大切なものだけど、虹夏ちゃんを代償にしてまで追いかけたいものじゃない! 虹夏ちゃんは何も分かってない! もっと私たちを信用してよ! もっと私たちに弱さを見せてよ! もっともっと私たちのダメなところを叱ってよ! 私は――私たちはここにいる。ずっとここにいます! でも怖いんですよ……。どんどん私の知らない虹夏ちゃんになっていくのが怖くて仕方ない……っ! 何を考えてるか知りたいけど、考えても分からないよ! ねぇ、虹夏ちゃん、私はどうすればよかった? どうすれば正解だった? ねぇ、教えて……教えてくださいよ!」

 怒濤の勢いで怒鳴り終えたひとりは大きく肩で息をしている。一方、さすがにここまでの反論がくるとは思わなかったのか、虹夏は目を大きく見開いたままそれで表情が止まっていた。

 郁代やリョウ、その他の情報はまったく頭に入ってこない。今は極端に視界が狭くなっている。

 感情の奔流に身を任せて言いたいことを全部言った。だが、ひとりの胸の中には依然として熱を持ったしこりがある。心臓の拍動を感じて時間の流れを感じている今この時でも、マグマだまりの中には続々と次の噴火に備えてそれが溜まっていっている。

 ひとりの心の蔵が86回燃えるような血潮を送り出した後、虹夏が口をゆっくりと開いた。まるで流れ出した時間の流れに抗う様だった。

「…………ありがとうね。私を気遣ってくれて」

 優しい顔してそう言う彼女に、ひとりは急に恥ずかしくなった。

 あんな表情をした彼女に何も言えることはない。あっとしても意味が無い。

 ごめん、とか、大丈夫、とかだったら、今すぐにでも殴りに行ってしまおうかと考えていた自分がバカらしくて、幼稚なままで、今すぐにでも殺してやりたかった。

 発散できない負の感情は、内向きにフラストレーションを溜めていく。

 後悔。快楽。自責。解放。諦観。快哉。

 ぐるぐるぐるぐる、巡り巡って、また戻る――――。

「ウザい! 全部ウザったい! もう、いい!」

 再び――今度は自らの極点に向かって、爆発した感情を止める術をひとりは知らなかった。このどうしようもない衝動を発散するには、大事なモノを壊すぐらいのカタルシスが必要で――――。

 ひとりは肩に掛けていたギターのストラップを乱暴に掴み、ただただ怒りに任せたひどく情けない力で、ギターを床に叩きつけた。

 ――――――――。

 見るも無残に折れたネック、べこべこにひしゃげたボディ、星のように散った部品が辺りを彩った。

 学生時代に初めて買った、何度もカスタマイズを繰り返した、自分だけのパシフィカは、これまでステージ上で放っていた輝きがまるでおとぎ話の中のものだったように、色を失った。

 むしゃくしゃして頭を掻きむしる。髪を留めていたゴムから毛束が次々に外れようとも気にならない。爪の間に血が滲むイメージが湧いてやっと止めた。

 しかし、どうしてもこの情動が収まらない。

「――――! ひとりちゃん!?」

 次の瞬間、ひとりは外へ飛び出していた。

 もう為す術がないことを知った体は、陰鬱としたここではなく外の空気を求めたのだ。

 ……。

 …………。

 階段を駆け上がり、人々が往来する道へ出る。

 すれ違う人にぶつかりながら、わけも分からず走り続ける。

 酷い眩暈に吐き気がする。

 熱っぽさに気持ちの悪い浮遊感がする。

 まるで殺人を犯して気がふれてしまった罪人のように、狂乱が鳴り止まない。

 ああ、嫌だ、嫌だ――。

 

「――――! ひとりちゃん!?」

 ひとりがスタジオを飛び出して行ってしまった。言いたいことを脇目も振らずに話して。

 しかしそれを見て、今、私――喜多郁代が感じている感情が何なのかが余計に分からなくなった。

 彼女が示したような――いや、そういう形でしか発散できなかった、「怒り」ではないのは明らかだとしても――この胃に鉄球を無理矢理押し込まれたような閉塞感は? 常に首を絞められているかのような窒息感と現実感のなさは?

 この気持ち、今まで生きてきて初めてだ。

 決してポジティブでもなく、だからといってネガティブでもなく。とにかく苦しさだけがある。

 困惑と解明の堂々巡りに墜ちそうになった時、床に転がっているギターだったものを見て、ふと我に返った――形ないものよりも、形あるものに手を伸ばして触れなければ、絶対に後悔すると。

「せ、先輩! わ、わ……私、ひとりちゃん追いかけます!」

 郁代はそう二人に声を掛けると、肩に掛けていたギターをスタンドに置いて、急ぎ足で繁華を目指した。

 とは言いつつも、ひとりがどこへ向かったのか、ぱっと思いつくところがない。

 辺りをキョロキョロと見回しても、あの桃色の靡く髪を見つけられない。

「ほんと、どこ行ったのよ、ひとりちゃん!」

 それは、ひとりが見つからない焦りと、自らの内にある複雑怪奇な気持ちを抑えるために自然と出た言葉だった。

 人々が行き交う道。

 野良猫さえいない、細く暗い路地裏。

 下北沢にある、ありとあらゆる道を小走りで駆け抜けていく。

 ――――彼女を見つけられなかったら、一体どうなってしまうのだろう。

 この考えたくもない恐怖だけが烙印のように脳みそに焼きついて、今の原動力になっている。

 がむしゃらに腕を動かし、肺の中の酸素を湯水が如く使う。だが、残量少ない酸素にどんどん脳の効率も下がって――。

「……あ。私たちの初めての――絶対そうよ」

 しかし、考えられる事柄が減ったおかげで一つの確信へと至れた。

 ……。

 予想通り、急いで向かった駐車場の片隅、電灯の真下から外れた場所に、ピンク色の小さく丸まった姿があった。

 今すぐ彼女に駆け寄って、背中をさすってあげたくなる衝動に駆られる。が、彼女に向かって伸ばした手は空を切った。

 明瞭な理由は分からない。

 ただ、私にその資格があるのか分からなかったのだ。

 郁代は、その空ぶった手を揉んでは、声を掛けようと口を開いては閉じ、近くに行ってまた離れて、を繰り返している。

 はっきり言って、今の私は不審以外の何物でもない。現に、駐車場を利用している人からじろじろと見られている。

 でも、そんな好奇の目を気にしている場合ではない。

 私は――……。

 分からない――あれ程まで昂った彼女の扱い方が。

 判らない――私と彼女の境界線が。

 解らない――私が感じている痛みの意味が。

「――――――」

 躊躇に躊躇を重ねて辺りをうろうろ歩き回る郁代に変わって、ついに堰を切ったのはひとりだった。

「喜多ちゃん、来てたんですね」

「え、ええ、まあ……」

「はぁ……」

 ひとりは長い溜息を空へと燻らす。憂鬱に沈んだそれは、煙に巻くようにして郁代の心中をかどわかす。

「私は、どうすればよかったと思います……? 私は……何を、間違ったと思います?」

「…………」

「に、虹夏ちゃんの言葉に過剰に反応して、人生で初めて人を怒鳴りつけて、あんなに大切にしてたギターまで壊して……どうして……っ……。この口が、この手が、この自分の全部が汚れているようの思えて嫌いで……。でも、どうしたって、私は私以外になれない……。限りがある無力な自分以外の何者でもない」

 ひとりは恨みがましく自身の体を強く抱き、苦しそうに顔を歪ませる。吐き出される息は、この世すべてを恨んでいるようで、反転、至らなさに打ち震える自分に鞭を打つようでもあった。

 関係のない人がこの光景を見たとしたら、痛まし過ぎて見ていられないと、目を逸らすだろう。

 だから、郁代にはそれができなかった。

「――ねぇ、喜多ちゃん。ここで一番初めのアー写撮ったの、まだ憶えてます?」

「もちろんよ……。その写真をひとりちゃんが家の押し入れに引くほど貼ってたのも覚えてるわ」

「そ、それは忘れてください……。――でも、忘れられないものも、いつか忘れちゃいますよ。だって、ほら――あの樹が書かれてた建物だって、なくなっちゃったんですから」

 ひとりが指を差した先には、見たところ築一、二年の真新しい建物が立っている。私たちがアーティスト写真を撮った時に使った「壁」はもっと古いものだったはずで。つまり、元のあれは立て壊されてしまった、ということだ。

 当然、壊されることが決定した時から知っていたが、ショックだったのを覚えている。

「昔を懐かしんだ誰かが、あの壁にも樹を描いたみたいですけど、全然、あれには心惹かれない。思い出補正ってやつかも知れないけど」

「そう、かもね……」

「――私はもっと早く、このことに気づく必要があったみたいなんです。今回のツアーも、新曲も、たとえそのすべてが虹夏ちゃんの狂……ううん、病気が原因だったとしても、それは私が虹夏ちゃんレベルにバンドを――結束バンドを想っていなかったってことなのかなって。きっと、とっても薄情なやつなんですよ、私は……」

「――それは絶対に違うわ!」

 ほぼ脊髄反射だった。私の中でそれは絶対に違うと、全身約三十七兆個すべての細胞が言っている。

「ひとりちゃんは、いつもいつも土壇場で私たちを助けてくれた。普段は変なところもたくさんあるけど、それも一つの味で、いっつも私たちやお客さんを楽しませてくれた。どんな時も一緒に過ごして、心から笑ってたのに、それのどこが薄情だって言うのよ。本物の薄情だったなら、今こんなところで縮こまってないでしょ?!」

「……そう、なのかな……そうだといいな……。でも、どうなんでしょうね。本気で音楽に向き合った結果、心を壊して病気になったり、自ら命を絶ったりした人なんてごまんといる。その人たちだって、死にたいから音楽をやってたわけじゃない。自分の好きなものとして音楽をやってたんですよ。もちろん、私だって、大好きです、音楽。でも、私は今ここで縮こまっている。ここで息をしている。それって、つまり――」

 彼女の続く言葉を聞いてしまったら、体が悲しみで満ち溢れてしまう気がして、郁代は咄嗟に彼女のブレスに割り込んだ。

「それ以上言わないで、ひとりちゃん。私、悲しくなってきちゃったわ。でも、好きなものとの向かい方なんて人それぞれでしょ? 別に、虹夏先輩がー、とか、亡くなられた人がー、とかの話じゃなくて。そもそも、自分が壊れたから完成するなんて、どう考えてもおかしいわ。それじゃ本末転倒じゃない。ひとりちゃんは今、そんなことを言ったのよ。ねぇほんとどうしちゃったの、ひとりちゃん。虹夏さんのせいで心が穏やかじゃないのは、私も一緒だけど、今日はいつもに増して変……よ」

 郁代は座っているひとりの頬を両手で挟み込み、強引に顔を上げさせた。

「――――!」

 彼女に当てがった手から伝わる、頬の冷たさ、目元のガサつき。彼女の瞳は様々な感情に沈んでいた。その蒼い瞳孔が暗く淀むほどに。

 息を呑む郁代の手を優しく払いのけて、すっと立ち上がるひとり。まるで、何か見られてはいけないものを焦って隠すような不自然さだった。

「……こんな私を探してくれてありがとうございました。もう私は大丈夫だから、もう帰って。それじゃ」

「ちょ、ちょっと、それじゃって、どこに行くのよ!」

「どこって、い、家ですけど……」

 郁代の剣幕にうろたえるひとり。その様子に少しだけ胸をなでおろす。

「ダメ、今日は私の家に泊って。今のひとりちゃんを一人にしたら、何をしでかすか分かったもんじゃないわ」

 それこそ、彼女が言ったように自らの破滅を以て、バンドへの愛を完成させるのかも知れない。そのくらい、目の前にいる彼女は危うさを孕んでいた。

「き、喜多ちゃんが考えてることはしないですよ……。だって、やっぱり死ぬのは怖いですし、それに私には、資格がない。はぁー、人間以外に生まれていれば楽だったのになぁ」

「……」

「それに、喜多ちゃんだって一人になる時間が必要じゃないですか?」

 ひとりは目線を足元のアスファルトに落としながら郁代に言う。

「それは……そう、だけど。でもほんとにいいの? 私、絶対に後悔しない?」

「――――うん……」

 それ以上、彼女から言葉はなかった。ひとりはチラッと郁代と目線を合わせ、さよなら、と言うとそのままスタスタとこの駐車場から出て行く。

「……あ!」

 郁代は去り行く彼女の背中を見て思い出したことがあった。ひとりが何事かと、こちらを振り返る。

「ひとりちゃん、あのギターどうするのよ。壊れちゃったけど」

「うん、あー、煮るなり焼くなり捨てるなり、もう自由にしてください」

「えっ」

「そういうことなんで、喜多ちゃんはこれからもみんなと笑って過ごして」

 呆気にとられる郁代を一人おいて、ひとりは下北沢の闇の中へ消えていった。

 

 

 

 それ以降、虹夏とひとりが練習に来ることはなかった。

 従って、ツアーの残りの興行は向こう三ヵ月分すべて中止になった。表向きでは、リーダーである虹夏の体調不良の回復に専念するためとあるが、それは「体」の問題だけだ。「心」の問題と、すっかり現実から姿を消してしまったひとりの問題は、解決できるかどうか分からない。

 公言した三ヵ月――それが結束バンドにとって一旦のタイムリミットになった。

 

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