霽月の夜   作:TriK

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四分三十三秒

 

 人間は「自由」の刑に処されている。

 その「自由」が、有形無形関係なく滅びるこの世界でどれほど辛いことなのか、知らずにのうのうと生きているすべての人が羨ましく、そして妬ましく思う。

 結んだ手はいつか切れる。

 繋いだ線はいつか途切れる。

 悠久の星でさえ、無限の宇宙でさえ、いつか必ず泡沫の影となる。

 そして、今日か明日か明後日か、はたまた遠くか、有限である人間もいつか必ず死ぬ。

 自由意志による自由選択が許された無常なる現代において、私たちを支えるものは神であれ理論であれ、もはや形骸化した。

 数字は悪意に汚染され、言葉はもとより頼りない。

 常に存在の根源は、自らのナカにある。

 ゆえに、一つのモノがその命を終える時、一つの「世界」もまた終わりを迎えるという。

 仮にそれが、恐ろしくも尊大なメタファーだとしても、それもまた「自由」の範疇だ。

 

 

 

 十一月二十日。午前八時過ぎ。天気は晴れ。

 山田リョウは京王線特急に揺られていた。

 ただ風のように気の向くまま電車に乗りたかったのではなく、ふと山に登ってみたくなったのだ。なので、自宅から向かいやすく、初心者におあつらえ向きの高尾山に行ってみようと、今に至る。

 しかし、ただの山と侮るなかれ。富士山の十倍以上の年間登山客数を誇るこの山はコンスタントに人が多い。それに加え、列車に乗車するまですっかり忘れていたが、今は紅葉シーズン真っただ中かつ、今日は土曜日のため、乗り合わせた人の数が尋常じゃなかった。

 来る時期を間違えたと、心の中で小さく舌打ちをする。

 そんなリョウが身に纏っている装備は、本気のそれだった。高尾山に行くと同居の両親へ一言言ったら、翌朝――つまり今日の朝に渡された新品のトレッキングシューズとリュックサック、そして帽子、ついでにストックなんかも持たされたのだ。いくら何でもやりすぎだと思っていたが、周りを見るとわりかし皆がそうであった。不思議な世界である。

 して、人の群れから何とか取れた角席で、じっと人混みの酷い気分を耐え凌いでいると、揺りかごのような心地いい揺れが、リョウを夢へと誘った――――。

 

「喜多ちゃん行っちゃったけど、リョウは行かなくていいの?」

 虹夏がよいしょとひとりのパシフィカの破片を拾い集めながら、いまだに椅子から腰が離れないリョウへ声を掛ける。その声色はこの上なく自然で、彼女が心を患っているなんてにわかには信じられない。

「…………」

「何も答えてくれないかぁ……」

 彼女はギターの欠片を一ヵ所に集め終わると、ドラム付きの椅子ではなく、ひとりか郁代が座っていた丸椅子へ足を向けた。

「……もう……ドラムのところには座らないわけ?」

 弱々しく懇願する声。自分で情けないことを言っているのは感じている。もう私たちと同じ道を歩くことは困難だって、頭では分かっているのに止められなかった。

「…………そう、かも知れない。お医者さんから言われてるんだよ、症状が改善するまでは極力叩くのを避けてくださいって。今日だって、みんなにお別れを……いや、私のわがままで最後に一緒に演奏したかったから、無理言って頼み込んで来たんだよ。絶対後でやんわり注意されるやつ……だよね」

 けらけらと軽く笑う虹夏。

 無駄に希望的観測をしている自分が嫌になりそうだ。

「――実はね、私の病気は、強迫神経症と気分変調性障害っていうやつのミックスみたいなんだけど、特に二番目の気が強くて、しかもそれが厄介なやつだっていうね……。調べたら人によるみたいだけど、二、三年単位で軽い鬱状態が続くらしくてさ。ほんと参っちゃうよ。……まぁまだ詳しく検査したわけでもないから確定、ってわけではないんだけど……、お医者さんが言うには似た症状が出てるんだって。――だからさ、無理なんだ。いつ治るか分からない私の病気にみんなをつき合わせられないよ」

 虹夏は諦めたように語る。その様子がリョウには、これまで私たちが歩んできた過去に対する侮辱に思えて、腹の底からムカッときた。さりとて、この場からいなくなってしまったピンクの彼女のように感情をぶちまけるわけにもいかないと、理性のオブラートに包む。

「――私は……、いや――。これだけ一緒にやってきて、最近なんか『共犯者』呼ばわりしたりして。結束バンドのリーダーとしての矜持はどこに行っちゃったの」

「『共犯者』の件は私も悪かったと思ってる、調子乗ってた。だってリョウと何かするのすごくワクワクしたから……。でも……、でもさ。私がいなくたってリョウの夢――自分のやりたい音楽を貫くことはできるでしょ? 今の時代は、自分で自分の音楽を発信できる時代だし」

「それだよ。虹夏は全然分かってない」

 少し怒気を含ませてしまった言葉に、虹夏は眉を下げ申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね、私はとんだ分からず屋みたい。リョウもぼっちちゃんも怒らせて……」

「――私は、この結束バンドで「私」を貫きたいんだよ、絶対。私がいて、ぼっちがいて、郁代がいて、虹夏もいる、そんな完璧なバンドで私は夢を叶えたいんだ。他の誰でもなく、他のどの場所でもなく、このメンバーで、この場所で。それが私の夢で、私のバンドをやる理由――」

 そうだ、それこそが私の「無」――「自分」の本心だ。

 『孤高』とは一人で為すものではなく、「私たち」で為すものなんだから。

 この十年という時間は、彼女らの存在を必要不可欠なものにしてしまった。原初の細胞は必要なかったとしても、現在のあらゆる動植物はミトコンドリアなしでは生命を維持することが不可能になってしまったように、私もまた彼女たちを必要としている。

 とっくに、彼女らの一部は私の全部になっていたのだ。

 だから現実感は遠くて、ただ綺麗なものとしか視界に映らなくて。

 だから変わっていってしまうことへ、恐怖にも似た不安を覚えた。

「――だから虹夏を許せない。許すことなんて到底できやしない」

「いいよ。私のこと嫌いになっても」

「えっ――」

「許さなくていい。むしろ怒っていいし、怨んでいい。その権利がリョウにはある」

 彼女は私の目の前で晴れやかに笑う。まるで嵐の後の薄明光線のよう。

 事の重大さと釣り合わない、実にあっさりとした諦観の答えだった。

「なに――それ……」

 リョウの中に赤紫色の液体が広がる。それは順々に消化器を侵し、血管を侵し、喉元を締めあげる。

 溜飲が下がったとかそういうレベルではない。

 私自身が彼女の心臓に拳銃の銃口を押し当て、その撃鉄を下ろしたような寒々しさがある。

「でも嬉しかった。リョウの本心が聞けて。だっていつも恥ずかしがって言ってくれないんだもん」

 虹夏は本当に幸せそうに笑う。

 本心を隠さず言えば、虹夏だって踏みとどまってくれるだろうと高を括っていたのは誰だ。

 昔から虹夏に面倒くさいことを押しつけていたのは誰だ。

 虹夏を助けてあげられなかったのは誰だ。

 ――全部自分だ……。

 リョウは、もう彼女と目を合わすことなどできなかった。

「喜多ちゃんはまだ帰ってきてないけど、今日はあんまりスタジオ借りてないからもう撤収しようか」

「うん」

「ぼっちちゃんのギターはリョウが持ち帰ってよ。リョウ直すの得意でしょ。まぁこれを直せるかって話になると別だと思うけど。喜多ちゃんのは私の家で預かっておくから」

「うん」

 うん……。うん……。うん…………―――――。

 

「――ふぇっ」

 リョウが目を醒ますと、ちょうど次は高尾山口だと言うアナウンスが流れていた。我ながらいいタイミングである。

 程なくして到着した木調のホームへ人々がぞろぞろと出て行く。リョウは人混みからワザと遅れて電車から降りた。人々の呼気で汚れた肺を洗い流すように大きく息を吸う。冷たい空気だったこともあって、体中の穴という穴から眠気がすっ飛んでいった。

 ホームから見えるなんてことない山に登ろうにも、まずは改札を出るところから始めなくてはいけない。そうリョウが階段に足先を向けた途端、リョウは思わず動きを止めてしまった。

 人。人。とにかく人だらけだったのだ。

 登山服やただのパーカーに身を包んだ有象無象のミックスベジタブルは、排水溝に流れる水のように改札へと繋がる階段に吸い込まれている。

「はぁ……」

 自分で行こうと決意したにも関わらず、今胸の中にあるのは憂鬱以外の色はなかった。

 階段を下り、お手洗いの長蛇の列を通り過ぎ、やっとの思いで改札を抜ける。しかし、試練はこれで終わりでなかった。昼ご飯は現地調達しようと思っていたのだが、同じ考えのやつらが駅のコンビニを埋め尽くしていたのだ。フェスでも区画整理されているからこんなには混んではいない。

「……しくったな……」

 家から持ってくるか、下北駅で先に買っておけばよかった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 リョウが人混みに突入する決心を固めたその時――、懐かしくもあまり聞きたいものではなかった声に呼び掛けられた。

「あれ?! もしかして、無口先輩ですか!」

「えー! 嘘~! キャー! 本物の顔……ッ、良すぎるッ! よっビジュオリンピックメダリスト! しゅきしゅき、しゅきぴ~」

「――げっ」

 リョウが声の主を確かめようと振り返ると、そこにはスターリーでバイトしていた時の後輩――大山猫々と日向恵恋奈が立っていた。二人は昔とあまり変わってないらしい。猫々は相変わらずの犬っぽい茶っこい髪の毛で、恵恋奈も綺麗な黒髪のままだった。

「久しぶり。じゃあ私は帰るので。間違って終点まで来ちゃったので。さよなら」

 元々苦手だった彼女らに体が危険信号を発している。人の数がすさまじく登る気も失せてきたこともあるので、ここは一旦退却が安牌だ。

 リョウは踵を――返せなかった。右肩をガシッと猫々に掴まれたのだ。

「あーちょ、ちょっとどこに行くんですか! その恰好して間違ったはさすがに嘘ですよね!?」

「あの~せっかくなのでぇ、えれたちと一緒に登りませんか?」

「…………」

 言われてみれば、この二人も山登りの服装をしている。どうせ逃げられないんだから、腹を括ろう。

「――いいよ」

「やったー! じゃあ決まりですね! ところで先輩、さっきは何なされてたんですか? そこら辺をうろちょろしてましたけど!」

「うんいや、昼ごはん買おうと思って……」

 まさか逡巡の時から見られていたなんて、こっぱずかしい。恵恋奈は恵恋奈で、「えれ、推しと推しのスポット巡れるなんて、運良過ぎて今日が命日かも……!」などと宣わっているし……。この先が思いやられる。

「そういえば、虹夏先輩もそうだし、映えせんぱいとかヒッピー先輩とかいないんですね?」

「…………」

 なんとなく一人で山行きたくなった、とでも言ってしまえば済む話なのに、「自分」がそれを拒否して口が開くことはなかった。いや、開けなかった。

「あー、なんか聞いちゃいけなかったですか……。すいません!」

「もう猫々ちゃん、早くしないと人で見えなくなっちゃいます~!」

 恵恋奈は、ぞろぞろと流れる人の川を横目にその場で足踏みを踏んで猫々を急かし、分かった分かったと猫々は歩き出した。一緒に行くと言った手前、リョウも彼女たちについて行く。

 駅の真正面にはトリックアートの美術館か何かがあったが、今回の目的ではないのでスルー。綺麗に整備された風情ある川を眺めながら、一行は脇道に入る。次第に多くなっていく観光客向けの店の数に、〝自然〟と流れる金のにおいを感じたりした。

「……ねぇ気になったんだけど、どうしてその組み合わせ?」

 リョウは前を行く猫々と恵恋奈に疑問を投げかけた。彼女たちの接点と言えば、スターリーでのバイトや、いつぞやかの星歌の誕生日ライブのために組んだツーピースバンド『エレ&ネネ』ぐらいで、よくは知らないが、趣味ではかち合うところはない気がするのだ。

「やっぱり気になっちゃいますかー?」

「これはウチらがまだぴちぴちの新卒だったころの話です……――」

「それ、話長い?」

 猫々の仰々しい語り口調が壮大な物語の序章のそれだ。このままでは山頂から帰って来てもまだ話を聞かされている可能性がある。

「ええ~、いいじゃないですか! ここで会ったが百年目ですよ、無口先輩!」

 私に拒否権はなかった。

 あと、大学通ってたんだ。

 ――――。

「……それでですね、ウチ、新卒で初めて入った会社で営業やってて、いやぁ自分がエネルギッシュ過ぎたんだと思うんですけど、お客様を傷つける明るさは直した方がいいよ、ってやんわり教育係兼上司に注意されて……。その場では耐えたんですけど、後から考えてみると、自分を曲げてまで働きたいとこかってなって、ヒッピー先輩のロック魂を見習えって。結局、その会社入って三ヵ月で辞めちゃいました! 辞表出した時の上司の怒りとか悲しみとか、ほんとにいろんな感情がぐちゃぐちゃになったあの顔は、今でも夢に見たりしますよ~!」

 ほんと困っちゃいますよねー、と猫々はつけ足す。一般企業に勤めるだけでも自分にはエベレスト登頂同じぐらい難しい――つまり無理なことであるのに、大した胆力だ。辞められた上司に同情する。

 それはそうと、もうすぐケーブルカー乗り場だ。話を聞くのに夢中で忘れかけていた。大半の人々が向かっている駅舎のような建物に向かわなくてはいけないが、しかし、猫々と恵恋奈は右に曲がって得体の知れない急な坂へ向かっていく。

「ケーブルカー、あっちだけど」

 リョウは右手人差し指で乗り駅の方を差す。

「リョウさん、今日は一号路なんですからこっちですよ~。あ……ッ! ここ推しが歩いてた場所ッ! すう……はぁー。すう……はぁー。ああ、アクスタ! ああ。ぬい撮りも~」

 一しきり喚いたかと思うと、彼女は道路脇に移動して、背負っていたリュックサックからグッズを取り出し、人目も憚らずはしゃぎ倒している。

「もう分かったと思うんですけど、今日は恵恋奈の推し活で高尾山来たんですよ! ということで、まだまだ先は長いですし、先輩のためにウチの昔話の続きといきましょう……!」

 写真撮影を気が済むまでする恵恋奈を待ってから、緑暗色の坂へ足を踏み入れた。舗装されているからか想像よりは歩きやすい。思ったよりひんやりするので、ちゃんとした上着を持ってきたのは正解だった。

「――で、退職したウチはなんとか次の仕事――って今の職場! に就職できて、今度は営業じゃなくて事務ですけど、ウチがウチのままでいられるのでなんかいいです」

「でもそれって、君たちが仲良くしてることに関係なくない?」

「それが、ちょー大ありなんですよ~。なんと! 猫々ちゃんは同じ会社の同期なんです~。 しかもデスクも隣りで。入社して会社行ってみたら、そうなっててビックリでした」

 リョウは、自分の目が意図せず大きく開いたことを感じた。今日イチの驚きだ。

「昔馴染みだったし、流れで恵恋奈の推し活手伝ってるうちになんか仲良くなりました! あはは! 先輩知ってます? 推し活って結構体力使うんすよ! 聖地巡礼ってやつに行けば一日中歩き歩き回るし、いまだにやる意味が分かんないんですけど、本人不在の誕生日会をすれば、すげえ数の飾りつけをしなくちゃならなくて、めっちゃ運動になります!」

「猫々ちゃん、あれは宗教なの。儀式なの。推しは神なの。誕生日は、その尊き御顔を持ってこの世界に降臨してくれたことに感謝し、崇め奉る日なの。分かりましたか~?」

「うーん、つまり、すげぇリスペクト?」

「もう、それでいいです……」

 カラカラと笑う彼女らに、リョウはやっぱりこの二人とは根本的に合わないと思ったが、それと同時に好きなことで心から笑っていられるその姿に眩しさを覚えた。

 なぜなら――私がどう足掻いたってもう手に入らないものだから。

 一陣の風が吹き、木々が揺れる。木漏れ見る空には、パレットの上で絵筆に轢かれた絵の具のように、雲が細長くたなびいていた。

「……あっ、えれの昔話も聞きたいですよね? そーだと思いました~!」

「言ってないけど」

 恵恋奈はリョウの返事を待たずに勢い込んでいる。類は友を呼ぶ。これは彼女の相方の時点で察してはいたので問題はないが、今は腰の方が大変になりつつある。まだ休むほどではないが、この勾配に音を上げている。運動不足が祟ったな……。

「――って、タイホの話ちゃんと聞いてます~?」

「あーはいはい……へ?」

「私が働いてたコンカフェ、ストーカーとかも全然なくて、ほんとにお客さんいい人ばっかりで、このままできる限りここで働きたいかもーとか、えれ思ってたら、なんか店が法律に引っかかってたらしくて、急に店長逮捕&店終了のお知らせで大変だったんです~! それで、色々頑張ったら今のところにぃ」

 私と違う人間が過ぎて掴みどころないと思っていた彼女だが、彼女の過去は想像していた内容の百倍ぐらい現実的な話だった。昔は、自分だけは特別で他の人とは違うんだと自負していただけに、ただの一辺倒だと自覚した今、ちゃんと頑張ってきた彼女たちが遥か遠くの人に思える。肺の中に水が溜まったみたいだ。

 結構登ってきたのか、山際から陽が射すようになってきた。先程までいた駅周辺がよく見える。しかし、それでも道にはまだまだ終わりが見えない。そもそも見えないどころか、スイッチバックするように道が続いているため、終わりがあることすら疑わしかった。

「先輩、そろそろ休みますか?」

「弱ってる姿も、かわいい、しゅき」

 坂の折り返しにある休憩スペースを前にして、猫々はぜえはあ喘いでいるリョウに声を掛けた。当の彼女らには息の乱れの一つもない。

「そう、させて、もらう……」

 

 リョウは巡礼のハードさを身に刻みながら、時々休みを挟んで登っていく。膝と腰の痛み、加えて、今回の登山の契機となった、恵恋奈の推しの地下アイドル話を延々と耳にぶち込まれながら登る二重苦。酸欠で意識が飛ぶかと思った。それでもストックを使っているので幾分かマシなのだろう。

 おおよそ普通の人間がここを通ると考えられていないであろう、急な坂を登り終えると、これまでの行程が嘘だったかのように道がなだらかになった。

 それもそのはずで、ケーブルカーの駅がここにあるらしく、ぞろぞろと麓からやってきた人が自分らが歩いている道に合流してきた。苦労も知らないのが妬ましいような、蔑みたいような、逆にこちらが誇らしくなるような――混濁した気分がまるで濁流のように体内を駆け巡る。

「――――っと終わりましたねー!」

「うん、楽勝、だった。さすが私」

 猫々はよいしょと体を伸ばしている。

 もうここが山頂でいいのではないだろうか。そんな充足感に包まれている。今。

「まだ聖地巡礼は終わってませんよ~! ほら、えれのしゅきぴのために頑張ってください」

「えー、やだ」

「きゃー! 拗ねてるところかわちいい……ッ!」

 リョウは、本気でそう思っているどうしようもない恵恋奈へ心の中で溜息をつく。こっちは島根だか鳥取だかで、二十七歳のバースデーライブをやったのだ。アラサーを捕まえてかわいい、とか……。

「はぁ……。疲れ……、る……」

 死んだ目をしながら恵恋奈に視線を向ける。リョウには彼女の輪郭に何かが被って見えた。

 遠い景色。

 ――――――。

 彼女のこの無敵具合に、少しだけ赤髪の面影を重ねてしまった自分を恥じた。情けない。

 どうかしたんすか、との問いに、なんでもないと答える。すると、猫々は妙案を思いついたのか、したり顔で言った。

「じゃあ、うち! 先輩をおんぶしますよ!」

「……は?」

「だから、おんぶです! おんぶ! 先輩疲れてるんですよね?!」

 まだまだエネルギーが余っているらしく、満面の笑みを浮かべられる猫々は、自分の荷物は前面に移し背をリョウに向けてしゃがむ。ここに乗れということだろう。しかし、しかし――だ。

「――いや、大丈夫。元気になったから」

「そーならよかったですね!」

「…………」

 

 山頂までの残りの道は幼稚園児でも歩けるレベルなので、もう楽だった。澄み渡る空、鮮やかな紅葉。悶々としていた、もしくは川を堰き止めていた瓦礫が消えてなくなったような気さえ起きた。

 しかし、いかんせん人が多すぎる。ボトルネック的な箇所があるのか、人の流れが鈍く、それが長いのだ。あの坂たちを必死に登っていた時の方がスムーズに進めていたとは、これいかに。加えて、山道脇の店からの美味しそうな食べ物の匂いが襲い掛かってくる。何度高尾山の下草の味を確かめようかと思ったことか。お金もそんなに持っていないし、奢ってくれる人も貸してくれる人も――。

「やーっと、お店見えてきた……」

「お店?」

 体力を使い果たしたリョウは、気に掛かった恵恋奈の言葉をオウムのように反復する。

「あー、恵恋奈がこの先にあるらしい店で予約取ってくれてるらしいんです。たしか、バーベキューだった気がします!」

 そうか、もうお昼の時間なのか。足を動かすことに必死過ぎて気づかなかった。確かに言われてみれば太陽の位置もそんな具合だ。ただ、手元に昼ご飯になりそうなものは一つもない。朝、駅で調達しようとした時に彼女らに声を掛けられ、そのまま流れに流されてここまで登ってきてしまったのだ。この人の多さは、山頂付近に売店があったとしても恐らく買えないだろう。どうしたものか……、たかるぐらいしか選択肢がない。

「もしかして先輩昼メシ買えなかったですか。ウチらが話しかけちゃったから」

「あ――リョウさんも一緒に食べますか? あと一人分お店になんとか頼んでみます」

 ああ、なんとできた後輩たちだろう! 靴でも何でも舐めてもあげてもいい気分だ。

「ご相伴に与らせていただきます。大山様、日向様。代金の方は――――出世払いでお願いします」

「あはは! 先輩って冗談面白かったんですね! もう十分出世してるじゃないですかー」

「…………」

「――えーと、マジですか」

「マジです」

 当然本気だ。おにぎり二個と五百ミリの飲み物一本、それから家に帰る分ぐらいしか手持ちがない。

「こ、これが……ッ! 虹夏さんがいつも見ている景色……ッ! はあー! こちらこそごちそうさまでした――。思う存分お食べになってください」

「?」

 何はともあれ、問題なく胃袋を満たせそうでよかった。

 

 午前十一時。一行は件の店でのんびりと肉を焼いていた。

 昼にするには少し早い時間だが、恵恋奈は登山客が多いことを見越してこの時間に予約を入れていたらしい。時間をずらしたとはいえ、昭和を彷彿とさせる店内にはざっと百人程度がすでにいた。その誰もが私たちと同じように食事に勤しんでいる。人間皆一緒だ。

 ――。

 ――――。

 窓外、眼下に望むは遥か東京の街並み。

 少しお酒を入れて話に花を咲かせる彼女らの声が、今は遠い。

 疲労と食欲と眠気の狭間で、今日ここに来た理由が見え隠れしている。その衝動に身を任せて全部話してしまったらどれだけ――楽なんだろう。

 そんなことを考えては、咀嚼とは関係なく、時折口をパクパクさせたりしている自分に笑いが込み上げてくる。

 私はそんなやつだよな。そう、誰かに――――。

 もう、ここまで来たんだからもう楽になってもいいだろう? そう、「自分」に問いかける。

 ……。

 返事はない。つまり、いい、ということにしよう。

「ねぇ、どっちでもいいから少しだけ、それ、もらってもいい?」

 リョウは猫々と恵恋奈の手元の置かれているビールを指して言う。

 私は下戸だ。それは自覚している。

 それでも、その力を借りなければ――諦めからやってきた決意が鈍る。輪を掛けて心がくすむ。

「先輩お酒弱いって喜多先輩から聞いたんですけど、本当にいいんですね」

「うん、いいよ。これは〝けじめ〟だから」

 リョウが漂わせているデカダンスな雰囲気に合わせ、猫々は対峙するように真摯さを以て返す。恵恋奈も酔いが醒めたようにしゃんと座っている。まるで、これが本来の目的とでもいうような真剣さだ。

 さすがに飲みかけはアレなので新しいの頼みますね、と猫々が注文してくれた真新しいビール――細やかな泡と黄金色の液体が綺麗に分かたれている五百ミリグラスを、リョウはまじまじと見つめる。

 ゴクリ……。

 喉を鳴らす。

 そして、ついに口に含んだ。

「…………苦い。やっぱり美味しくない」

 抱いた感想はそれだけだった。たった一口、二口だったが強烈なインパクトだった。口の中にはまだビールが晴れずに残っている。……そういえば、郁代もよくお酒を私に無理矢理飲ませてきたんだった。立派なハラスメントではあったが。とはいえ、「やっぱり」と懐かしさを感じるのは、いい思い出になっていたからなんだろう――。

 身体の中心から湧き立った温かく澄んだ水の緩やかなカーテンが、頭に向かってせり上がってくる。この感覚は酔いだ。

 だが、いつも感じるそれよりも穏やかで心地がいい。これくらいだったら、まぁいいか。

 リョウは手に取ったグラスを机に戻す。

 ふぅ…………。

 外の憂いなき穏やかな世界を横目に、私は小さく息を吸い込んで吐き出した。吐息は灰色の雲になって私の心を包む。

「今日、なんでここに来たかって言うと――もう全部どうでもよくなったから。知ってる? 高尾山って富士山よりも遭難する人が多いんだって。その実、大半が大事にはなってないのは分かってたけど、私もその一人になってどこかに消えてしまえたら…………って思ってた。もう死んでもいいと思ってたんだ」

 細かいところは省いてバンドの現状を話し。私の心中を伝えられる限り話し。リョウは机の上で遊ばせている指を見ながら話した。

 泥水をすくい上げて、泥だけをこそぎ落として、その中から、千金に値する光り輝くたからものを見つけるように。きっと藪から棒だけど、聞いていて欲しい。

 私は話し続けた。

 それは単純な感情の発露というより、荷物整理のバイトを淡々とこなすのと似ている。

「この世には、やらなくちゃいけないことで溢れてる。だから、自分の運命を自分で決められるのはほんの一握りの幸運な人間だけができることで、やりたいことで悩むのはこの上ない贅沢なことだと分かってる」

 でも、私はそういう運に恵まれた人間じゃない。現実が何より証明している。

 恐らくはただの、一人でいたいくせに、一人でいると死んでしまう、まったくもって意味不明な生物だ。面倒くさいヤツだ。

「だから……だからでいいのかな? だからこそ君たち二人が羨ましく感じるし、妬ましく感じるし、少しだけ……未来を感じる。どんなに大変だろうと、どんなに苦しかろうと、まぁ人生は続くしなぁって。…………――――はい、終わり。オチはないよ」

 リョウが話し終えると、まるで干潮のように音がなくなっていた三人のテーブルに喧騒が戻ってきた。その騒がしさを吸って吐いて周りから体温を取り戻す。

 数秒間の空白を挟む。

「…………結束バンドの全国ツアーが虹夏さんの体調不良で今中止してるっていうのは聞いてましたけど、まさかそんなことになってるなんて……言葉にならないってこのことを言うんですね。あの……、こんな話題でこんなこと言っていいのか分かんないけど、リョウさんにそんな風に思われてたなんて、えれ、かなり嬉しいです」

「そういうもん?」

「そうゆーもんですよ! だって、リョウ先輩ってメジャーなアーティストでなんですよ!? そんな一般人からしたら雲の上にいる人に、羨ましいだなんて……。もっと他の人だったら嫌味に聞こえるかもしれないですけど!」

 先輩はそんな人じゃないって知ってますから、と猫々はつけ足す。

「そっか」

 人の感覚は分からないものだ。でも、理解できるものではある。

「あ……あと言ってなかったんですけど……えれの大変だった時、結束バンドの『月並み』にめちゃくちゃ応援されたんです……。――だからリョウさんは、えれのしゅきぴでヒーローなんです」

「……そんな先輩なら、大丈夫ですよ!」

「そう、かもね」

 自分が作った歌が誰かの助けになるとは考えても見なかった。

 私は、ずっと昔から無気力という流れに身を任せて生きてきた人間だった。楽器の努力こそしてきたが、それ以外は元来備わっていた限られたものだけに頼っていたのだ。だから必要な時には役立たずで、周りに迷惑をかけてばかり。私が誰か――とりわけ彼女たちにしてあげれたことなんて万に一つもないと思っていた。だけど、こうして私たちの音楽で救われたって言ってくれる人がいて、こんな私でも誰かにしてあげられることがあったんだと、爪先から這い上がってくる震えに心が喜んでいる。なら、実は私が気づいてないだけで――――。

 私がこんなことを考える日がくるなんて。

 ふっ、とリョウが鼻で笑う。

 だが、決して嘲るためのものではなく、十年分の積み重ねが、純粋な笑いが、身体の中からぽつぽつと湧いては自然に漏れ出てしまっただけ。

 ――――これでよかったんだ。これで。

 ぐぅ…………。

「話したら腹減った。なんかないの?」

 リョウの視線が金網に向けられる。感謝すべきことに、自分が話している間にも彼女たちが肉や野菜を焦げないようにしてれたおかげで焦げの一つも見つからない。これならまだまだ焼けそうだ。

「よーし! じゃんじゃん焼きましょう!」

「リョウさーん、えれに食べてるところたくさん見せてください~!」

「――う、うむ」

 今はどんな心のこもった言葉よりも、歳月の重荷を背負っていない軽薄な彼女らのワザとらしい無責任な肯定と無神経なセリフがありがたかった。

 

 リョウは胃袋が満杯になるまでバーベキューを堪能した。

 途中で自分が口をつけたビールは、人様に迷惑をかけないようそれ以上飲まず、酒が強いと豪語していた恵恋奈に代わりに飲み干してもらった。どうせ代金は彼女持ちなのだからあまり変わらないだろう。

 長居は無用。三人は店を後にする。

 人々が長蛇の列になって並ぶ脇を悠然と通り過ぎる時、リョウには、ビュッフェには予約は要らないがバーベキューには要予約、と伝えるパネルが見えたような気がした。

「先輩! お腹いっぱいですけど、これから山頂ですよ!」

「あ……そうだった……」

 もう帰りたい。帰って今すぐ作曲したい。ベースだって弾きたい。

 衝動的な欲求が、ドンと私を下から押し上げてくる。ここ最近味わってなかった感覚だ。

 しかし、乗りかかった船ではある。最後までつき合ってこそ真に目覚めがいいものになるはず。

 ひとまずリョウは浮足立つ心を地面に縫いつけて、左足を一歩、踏み出した。

 

 

 

 午後七時。

 デスクの明かりだけが慣れ親しんだ部屋を埋めている。

 リョウは床に直に座りながらギターとベースを使ってコードを積み上げていた。家に帰って来てから、脇目も振らずに音楽に打ち込んでいる。

 ルーズリーフに書いては消して、埋まったら新しい紙にして、ゴミができたら破り捨てて。自分を中心にしたミステリーサークルができあがりつつある。

 それは、初めて音楽に触れた衝撃、初めてバンドを組んだ期待、初めて袂を分かった悲哀がないまぜになって昇華した、純度百パーセントの音を楽しむ心。

 これが曲として完成して、世に送り出されて、評価されるかは、一切において関係がない。

 楽しい。楽しい。楽しい!

 これが今の「自分」の中にあるすべてだった。

 ――。

 ――――。

 ――――――――。

 今日という日に体感したもの全部が色鮮やかに脳裏に焼きついている。

 電車から頂上に至るまで人だらけでうんざりしたけど。

 散々坂を歩かされて、明日――というかもう足が筋肉痛気味だけれど。

 その割には紅葉以外の景色はそうでもなかったけれども。

 視界と感覚をまるっと一変させるほどの何かがあった。

 それは偏に、猫々と恵恋奈が私のどうしようもない言葉に対して、薄い同情心を浮かべず、理解できないからと笑わず、自分のできる範囲でしっかり受け止めてくれたから。彼女らへの評価を変えてやらないと割に合わないな。

 しかし、山に登ると人生観が変わるとはよく聞くが、富士山とか海外の山とかではなく、まさか高尾山程度の標高でそうなってしまうとは。つくづく安い女だ、私は。

 ……………………ふふっ。

「――――――」

 アイデアが溢れて止まらず部屋を速足で歩き回る。私は今だけ海遊するマグロだ。

 マグロ――魚なら結末は誰かに獲られて死ぬのだろう。分かり切った清々しい運命だ。

 だけど、泳ぐことは止めない。この世に生まれた以上、止めることはできないから。

 …………!

 私はふと、リスクを払って水面から飛び出し、夜空を眺めたくなる衝動に駆られた。

 ドクンと心臓が跳ねて、呼吸が浅くなる。目の前がチカチカする――。

 水の外は、鏡の外は、まったくの未知の世界だ。何が待っているか分かったもんじゃない。

 在るのが破滅だけなら、それは能動的な自殺だ。

 だから迷いを感じるのは酷く自然なこと。

 「一生ここにいてもいいんじゃない? どうせ最後にはみんな死ぬんだから」、と誰かが言う。

 「いいじゃん! 一緒に行こうよ。四人でさ」、と誰かが言う。

 ――でもそれ以上に、胸の高鳴りが止まない。

 自分はお気楽な人間だから、楽しいと思える方を選ぶだけ……。

 私は……。

 片方の手を取る。さらに、もう片方の手も取る。

 そして、水膜の全反射の向こう――もとい閉ざされたカーテンを左右に開け放った。

 瞬間、身体を透かす強風が私に吹き荒れた。同時に無限の色彩が目を射し、輝かせる。

 閉ざされていた、ヒカリノムコウ。

 息を呑む……ヒマすらない。

 私の後ろからやってきて、私の周りで渦になって、私の手の届かない遥か宇宙へ流れていく。ハッキリとしていた気がした足跡は、吹き飛ばされてぐちゃぐちゃになった。色とりどりの砂粒が笑う。

 星座はおろか、星も満足に見えない、されど煌めいて見える黒々とした海を、草木も眠る岸部から眺める。

 カミが風に弄ばれる。

 ――私は自由だ。

 罪刑などない。

 私はこの「世界」で一番正しいんだ。

 呆れるほど無力で、悲しくなるほど有限なのも、私が私であるからだ。

 自分を救えるのは自分しかいない――救「世」主は私自身。

 ヨットの帆のように風に向かって大きく手を広げる。

 全力で私を感じる。めいいっぱい私を愛する。

 今度こそ作ってやろう――永久不滅の「神話」を。絶対不可侵な「聖域」を。

 愛すべき閉じた『孤高』がゆえに、穢されることのない――開いた『孤高』を。

 私が私であるために。「自分」が「自分」であるために。みんながみんなであるために。

 空にある月の欠片に――私は祈る。

 無意味に身を窶すことなく、しかし、目を逸らすことなく。

 すべての美と善意と努力が嘲笑われることなく祝福される世界を――私は願う。

 光と色を手のひらですくって、両手で大事に包んで離さない。

 すぐに、分からないことを分からないままに、見えないようにしてくれる闇が訪れた。

 ――私がいい夜にするんだ。

 いつか感じた想いが頭の中でリフレインする。

 いや違う。

 私にも、虹夏にも、郁代にも、ひとりにも、限りはある。だから――――。

 いつか本物の朝が地平線から顔出すまで、空の片隅で重なり合っていよう。初めの一声をあげた私たちなら、きっとバラバラになっても綺麗でいられるから。

 朝が来たって歌っていよう。きっと昼間の世界でもお互いを見つけられるから。

 私と彼女らの願いと理想を全部――――叶えるために。

 さよならだけの人生で、笑って最期を迎えられるように。

 手の中に落ちた光の欠片を――私は信じる。

 

 

 

 日づけ変わって前日、午後八時半。新宿のとあるじゃぶじゃぶ屋。

 喜多郁代は中学以来の友人――佐々木次子と鍋を囲っていた。

「喜多ぁー、スマホばっかいじってないでこれ手伝ってよー」

 次子は鍋汁に野菜を入れたりしてコンディションを整えている。野菜の量が多いので一人でやる作業にしては荷が重いらしい。

「ごめんごめんさっつー、大山さん……ってバイト時代の後輩ね、からDM来てて返してた」

 もう料理の写真は撮ったので、邪魔にならないように鞄にしまっておく。せっかくの料理と店のいい雰囲気が台無しだ。

「――ってかそれ、前に職場のオッサンと飲みに行かされた時にやったらめっちゃ怒られたわー。ちゃんと目の前に人いるんだから、そっちを見なさいってね。マジでだるかった~」

「お疲れ様」

 誰もが自分にはない悩みがあるんだものね、としんみりしていたら、次子からある種無難な話題が飛んできた。

「そういえば、最近どう?」

「うーん、ぼちぼち……かな?」

「後藤は何してんの?」

「うーん、ぼちぼち……かな?」

「ふーん」

 今の私には鋭すぎる刃を郁代は適当にあしらって、柑橘系の汁に豚肉を浸し頃合いになったら口に運ぶ。肉のうまみが詰まった脂身が、口の中にこれでもかというぐらい溶け出して、それがまた酸味ともいい具合で、食べ進める箸が止まらない。

「さっつー、これほんとに美味しいわよ!」

「ちょ、ちょっと喜多、ウチの分も残してよ」

「あっ美味し過ぎて、つい……」

 郁代は一旦箸を置いて、レモンサワーで口の中をリセットした。ちなみに、すでに次子はかなり酔っている。その証拠に言葉遣いがいつもより荒い。一方の私も……。今日は気をつけよう。

「まぁ、いいけどさ」

 彼女もまた一回箸を置く。

「――でも忘れないでくれよな。今日の飲み会、何食べるかも、店も、ぜぇ~んぶウチがセッティングしたんだから。それにアーティスト様を気遣って個室なんて予約しちゃってさ~」

「いやぁ、ありがとね。本当なら誘ったこっちがやるべきなんだけど」

 ここ一ヵ月あんまりやろうって意志が湧かなかったんだよね、と心の中でつけ足す。

「前に一緒に飲んだのは……だいたいおととしの夏ぶり、ぐらい? 久しぶり過ぎて、喜多からロイン来た時マルチかと思ったわ。あ、ダジャレじゃないから今の」

「しないわよ、そんなこと……」

 軽快に次子は笑う。その様子を見ているとざわついた心の中が何だか落ち着いてくる。

 週一になってしまったスタ練でリョウと二人でいても、彼女は輪を掛けて最低限のことしか言わないし、笑わないし、下ばかり向いて自分と目が合わないし。家に帰っても一人きりで話す相手もいないし、もしサクラを飼っていなかったら孤独感に圧し潰されてしまっていたのだろう。ぶわっと全身に寒気が走って鳥肌が立つ。純粋な恐怖だ。

「でも今日の飲み、ただウチとしゃべりにきただけじゃないんでしょ。さすがに知ってるよー、結束バンドのこと。だってウチ、喜多たちのことちゃんと応援してるし。ファンクラブ会員だし」

「もしかして、さっつーってば名探偵? あと、会員でいてくれてほんとありがと~!」

 いいよいいよと次子は手を顔の前で振る。

「それで……どうしたん?」

「あっ、うん――」

 ――。

 ――――。

 あの日、ひとりは絶対に私は後悔しないと言った。

 しかしなんだ、その日から彼女は私の前から姿を消した。

 やっぱり――、とネットニュースを血眼で見てしまったし、心配から彼女の自宅マンションまで行ったこともある。

 結果から言えば、彼女の生存は確認できた。

 それは彼女がまだオーチューブに弾いてみた動画を上げ続けているからだ。

 私たちが出会う前、ずっと昔からの習慣――ついにそれだけが彼女の存在証明になってしまった。かつての輝きも、あの日の怒りすらも、もう彼女の内から直に垣間見ることは叶わない。

 しかし、事態はこれほどまでに悪化の一途を辿っているのに、すべてが暗闇でどこに行こうが行きつく壁も崖もない――駐車場の時と同じまま。手探りか諦めるか、どちらにしてもにっちもさっちもいかない事実だけが、私の目下に横たわっては見つめ返してくる。

 もう、何者かになりたいとか、そういう話じゃなくなってしまった。

 唯一救いがあるとすれば、リョウが立ち直ってくれそうだということ。

 千切れてしまったビーズブレスレットの玉を一つ拾っただけに過ぎないが、心は幾分か楽になった。

 無論、虹夏にもひとりにも毎日ロインで他愛ない話を送っては、首の皮一枚の繋がりを保とうとしている――のだが、返事はない。まるで私の努力が無駄だと言われているように感じる。

 私が日々擦り減っていく。

 いつか適当に流していたテレビで終末医療のドキュメンタリーが放送されていたのを思い出す。

 話してしまえば簡単に楽になれるだろうけれども、こんな話は誰にもできない。

 込み入った事情があるし、なにより両親にも友達にも心配を掛けてしまう。

 リョウにはそう仕向けておいて、自分はそれができないなんてまったくとんだ笑い話だ。

「――でも、ウチには話そうと思ったんでしょ? どうしてか知らないけど」

「まぁね、そうなんだけど……。頑張ったんだよ、私……。褒めて?」

「はいはい、えらいえらーい」

「…………。続けるわね。」

 ……。

 私はどんな時でも笑って過ごしてきた。けれどそれは――笑顔は幸せを呼ぶおまじないだと、すべてを優しく包んでくれるものだと信じていたからだ。

 だが、それは自分を縛る呪いだったのかも知れないと最近思う。いつも適当に笑ってやり過ごしてヘラヘラしてるだけなんじゃないか、だから私はみんなのことを助けてあげられないんだと。

 いくらみんなのことが、バンドのことが――大好きで愛しいと言っても、それは口に出された言葉以上のものではなくて、ただの自分自身に対するリップサービスに過ぎない気がするのだ。その言葉を耳で聞いて安心しているだけの、ズルいやつ。

 いつからこんな人間になってしまったのだろう。

 根拠のない自信に酔って、宙の光を幻視していた。

 今となっては、私がした行動が、私が発した言葉が、全部間違ってて見当違いで――――。

 ずっと後悔だ。

「――うん。分かった。喜多がすごーく悩んでるのは分かった。でも、それって意味あると思う?」

「えっ、ええ、それはどう、かしら……。うじうじ悩んでいる暇があったら行動した方がいいのは分かってるけど……」

「そうそう。ほらほら、もっと飲めって」

 次子の言葉に郁代は当惑した。だが間をおいて考えてみると、その戸惑いは虫が良過ぎるものだと思い直した。なぜなら彼女なら私の欲しい言葉をくれると、一方的に期待していただけだから。予想していたものと現実が違うからといって怒る――世間ではそれをわがままと言う。

 凝り固まってしまってた思考を冷却するため、追加で注文したファジーネーブルを呑む。数年前にチックトックで流行っていた同名の曲から知ったものであるがこれが結構おいしい。でも、今日は全然酔えない。どうしても気分がそっちへ向かない。

 代わりに野菜でも食べようかと鍋横に置いた皿を見ると、肉も野菜も残り少なくなっていた。

「さっつー、これ全部入れちゃっていい?」

「あ……あ、うん。喜多がいいなら」

「オッケー、分かった」

 残りの食材を一気に入れてコトコトと煮る。緑はさらに明るい緑になり、ピンクは次第に灰色に近づいていく。

「――喜多ってさ恋愛したことある?」

 もう食べ頃だという時、次子はジョッキを片手に宙を見つめながらポツリと言った。

「えっ?」

 話に脈絡がなさ過ぎて、郁代の汁から肉を肉を取り出す手が意図せず止まる。

「だから、れ・ん・あ・い、だよ。そういうドラマとか映画好きでしょ?」

「ええ……」

 汗を掻いているグラスがカランと鳴く。

「…………その様子じゃ、したことないみたいだね。それとも――」

「い、いや、私バンドマンだし。アイドルみたいに恋愛禁止とかないわよ」

 確かにそうだったわ、と次子は笑う。

「別に興味ないわけじゃないんだけどねぇー」

「いい人が見つからないってやつ?」

「まあそんなところよ」

「ふーん」

 次子は意味ありげに吐息を吐く。その瞳はまるで私の心の奥底まで見通しているような鋭さがあって、無意識的に身体を守ろうと身をよじってしまった。

「なに? 私が喜多を取って食おうとでも? あー、ここから一番近いホテルはどこだっけなー」

「も、もう! からかわないでよ!」

「まあまあ。代わりと言ってもなんなんだが、私が恋愛の極意を教えてあげよう~」

 よく分からない講座が始まった。

 ――。

「私が思うに、恋愛ってのはお互いの自己愛でお互いを殴り合うことだと思うんよ」

「な、なんだか物騒な話ね……」

 私がそういう色恋沙汰に感じている――

「キラキラしたイメージとは大違い、でしょ? 実際はそんなもん。だって人と人が交わったら当たり前だけどそこに二つの考え方があるわけで……。でも、みんな少なからず自分の考えに自信を持っているから、意見が同じじゃなかった時にはぶつかる。だから互いにHPを減らし合って、一番根気があったやつが勝つことになる。会話とか擦り合わせとか、つまりそういうことじゃん? 恋愛だってそう。感情だけじゃどうしようもならないところを殴り合って均して、妥協点を探していくのが大事なのよ」

「……はあ」

 暴力的な結論に落ち着くかと思いきや、かなり的を射ている視点だった。もしかしたら、ただ私が彼女の持論に絆されているだけなのかも、と少し疑うけれど。

「さっつーの恋愛観は分かったけど、それが私とどう関係あるのかしら」

「簡単な話、喜多には体力――まぁ、自己愛が足りないってこと」

 目が点になる。郁代は唖然として声も出なかった。

 ――私は自分を愛せてない?

 そんなことはない、はず……だ。自分が大好き――と言うと語弊がありそうだが、それなりに自分のことを大事にしているつもりだったし、イソスタだって、チックトックだって、私は思い切り楽しめているのに。以前、ひとりがボソッと言ったことがあるのだ。そういうのを楽しめるほど、私は自分が好きじゃないと。なら――本来ありえない。

「さっき、いい人がいないからって言ってたけど、恋したい人は結構自分から動いてるよ。今はマッチングとか普通だしさ」

「で、でも、私にはバンドが――」

「バンドに集中してるから恋愛できないなら、バンドマンは一生結婚できない? ――なわけ。バンドマンこそ手が早そうじゃん。喜多はね、自分から逃げてるだけなんだよ。だから恋愛するだけの自己愛が全然ない。どう? 図星?」

「…………」

 こちらの視界が揺らぐほどまったくの正論だ。何も言い返せない。

 彼女は気持ち険しい顔をしながら、言う。

「少し厳しいこと言うけど、中学校で喜多に会ってからずっと味気のないやつだなって思ってたよ。いっつも周りに合わせるし、なんか自分がないやつだなって。ノリはいいし、明るくて楽しいやつだけど芯がない感じあった」

「なっ――――――!」

 黙って言いたいことを言わせておけば、とんでもないことを言ってきた。彼女は続ける。

「――だからこそ聞きたい、喜多はなんでバンドやってるの? もう空中分解しそうなのに、なんでまだしがみついてるの? いったい喜多を突き動かしているものはなに?」

「――――――――」

 私がバンドをやる理由――――。

 凡庸な自分を変えたい、凡庸に囚われない何者かになりたい――のはずだった。

 私は今、何がしたいのだろう。

 抗うように強いて私の理由を言うなら、やはり「普通」の克服なのだろうけれど、それはどこまでいったら終わるのか。誰も答えられない問いで、叶えられない願いだ。

 それに……毎日死にそうになりながら、みんなを繋ぎ合わせている理由も自分の中ではあやふやだ。諦めてしまえばすべてが楽になるのに、そうはしていない。

 加えて、私を動かすもの――私の核――私のアイデンティティー……。

 虹夏には病気にまでなってしまうほどの情熱が、リョウには卓越した演奏技術と自分を貫く気力が、ひとりには比類なきギターの技術がある。

 じゃあ、私には? 私には何がある?

 歌? ――私より上手い人はたくさんいるだろう。

 ギター? ――身近にもっと上手い人がいる。

 顔? ――モデルさんには到底勝てない。

 プロポーション? ――言わずもがなだ。

 ――――――。

 現実を改めて直視してみれば、他人に誇れる自慢も、これだけは譲れないことも、自分を形成している考えも見つからなかった。悲しくも、「特別」に執着していたこと考えれば至極真っ当な答えだ。

 まるで私は風に揺れる幽霊草のような人間――。

 つまりそういうことだ。彼女は、確固なアイデンティティ―があるということは、曲がりなりにも自分を愛することに繋がると言いたいのだ。そして、自分を愛せる奴は恋愛だってできる、と。だから私にあんなこと――自己愛がない、なんてヒドイことを言ったんだ。

 ――自分のことを好きになれない人間でも、人のことを好きになれる、わけがない。中途半端な思いと関係。きっとそこに生まれるのは優しい感情ではなく、苛烈で痛々しい依存だ。

 悔しいが確かにそう考えればそう――としか表すことができなかった。

 表裏一体の「理由」と「核」を探すための鍵は、今も私の中には見つけることができずにいる。もしくは、持っていた鍵をとても深い隙間に落としてしまったみたい。

「……………………」

「――ごめん、変なこと訊いたし、言った」

 ちょっと酔い過ぎてたみたい、と次子は謝った。

「べ、別に謝ることないって! 私の悩みは解決しなかったけど、その取っ掛かりみたいのはあったし。うん……、今はまだ答えられないけど、いつか必ず答えるわ」

「そう……ならよかった。……――んーもう、喜多大好き~!」

 次子がハイテンションで言ったかと思えば、机の反対側からドタドタとはいはいでこちらまでやって来て、郁代に抱きついてきた。

「うわっ! もう飲み過ぎよ~」

 自分の首元に掛かる彼女の呼気からは濃い酒臭がする。それもそのはずで、私が話している間もずっと飲みながら聞いてくれていたのだ。空になったグラスはすでに店員が回収してくれたが、瞬時に思い出せるだけで大きめのグラス四杯分は飲んでいる気がする。

「ウチはずっと喜多のこと応援してるからさ、絶対味方だがらさ、とりあえず死なないぐらいに頑張ってな~」

「うん、頑張るわ」

「――正直、喜多がバンド始めた時嬉しかったよ。なんかやりたいことあったのかなーって。やりたいことがあるのは、本当はすごいことなんだよ。私も世間の奴も、生活のために無軌道に仕事してるだけなんだから、やりたいことなんてあるようでないんだよ。だからさっきのウチの言葉を気にしても、気にしなくても喜多はずっと喜多だから」

「ありがと、そう言ってもらえただけで嬉しい……ちょっと元気出た」

「…………」

「……ん?」

 次子が郁代にしがみついたまま離れないし、動きもしない。もしかして寝てしまったのか、と恐る恐る声を掛ける。

「おーい、さっつー……寝ちゃったの?」

「…………よし! 肉食べよう、肉!」

 次子はそう言いながら飛び起き、自分の席に戻っていった。早速その手には箸と取り皿がある。あまりの突然さに、ビックリして心臓が止まってしまったかと思った。

「……っ、うん、もう残り全部入れちゃってるから食べて食べてー」

「それじゃあ遠慮なく……。――――分かってたけど、うん、もう硬いわ。これいつ入れたー?」

「あ……、もう十何分ぐらい経ってる……かも?」

 彼女が自身の恋愛観について熱く語る前に投入したはずだから、そのくらいだろう。野菜は溶けかかり、肉が硬くなってしまった。最後は美味しいお肉を食べて締めたかったが、もう一皿はもう――。

「さすがに……もうお腹いっぱいか~」

「そうねー」

 郁代と次子は顔を見合わせる。

「ちゃんと食べ切りますか~」

「ちゃんと食べ切りますか」

 二人は〝もう一皿〟は無理でも、〝もう一杯〟はイケると再びビールを注文し、本日二回目の乾杯をした。今度はアルコールが心地よい温かさをもたらしてくれた。

 

 

 郁代は、何か柔らかいものに顔を踏まれている感覚に意識を呼び起こされる。

「…………う……」

 目を開けると自分の身体の上を愛猫が闊歩している最中だった。全身の感覚がまだ眠りから目覚めていないなか、こんな風にサクラが歩き回る原因を考える――。

 もしかして……。

 ベッド……ではなくソファから身体を起こして辺りを見回すと、部屋の時計は昼の十二時を回っていた。ドレープカーテンを閉め忘れたリビングの窓からはレースを透いて光が差している。

「あれ……私? いつの間に帰ってきたの……? イテテ……」

 二日酔いもしてるし、まったく記憶にない。最後のそれは……次子と残りの具材を食べ切っていたところで……。それから……締めにパフェに行って――――。

「ヤバいわね……記憶飛んでるわ」

 久々に失敗してしまった。いつもは何だかんだで誰かが止めてくれていたから、ここまでにはならなかった。

 大分というか、かなり気は楽になった。のだが、これにかこつけてお酒を飲み過ぎてはよくない。

 にゃーと足元でサクラが鳴いている。

「あーごめんねぇ、今ごはん用意するから」

 慌てて彼女の水とご飯を用意する。ついでに台所で水道水をコップ二杯飲んだ。

 今気づいたが服もメイクも全部昨日のままになっている。せっかく毎日気を使っているのに! それに無事に家に帰ってきたからといって私が何もやらかしていない証明にはならない。もう悲鳴でも上げたい気分だ。

 恐る恐るスマホのロックを解除して、通知センターを細目で見る。

 来ていた通知は、イソスタとロインだけだった。どちらも普段通りな感じ。そっと胸を撫で下ろす。

 とりあえずまずはお風呂に入ろう。

 ――――――。

 ――――――――――――。

「ふう、さっぱりした~」

 お風呂を出てルーティーンを済ませた郁代は、どかっとソファに深く腰掛けた。

「さてと」

 通知の内容に目を通しますか……。

 ……。

 イソスタは投稿への反応だけ。もののついでに昨日のしゃぶしゃぶをストーリーに上げておこう。

 ロインは……次子とリョウから来ていた。

 まずは虹夏とひとりそれぞれに「おはよう」と送ってから、次子からのロインを読んだ。

『昨日はマジでごめん! 喜多にめっちゃ失礼なこと言った気がする! 記憶なくて分かんないけど!』

 ふふっと笑いがこぼれる。彼女も私も記憶があやふやになるまで飲んでいたのが愛おしい。

「気にしないでね! それに私も記憶が全然ないから! また飲みいこ」

 文章と明るいスタンプが送られるのを見送って、トークタブに戻る。そこにはまるでこちらに睨みを利かせる門番のように、未読メッセージを知らせる赤いバッジが待っていた。

 リョウのものだ。

 何が書かれているか想像ができない。

 できれば未来を期待できるような内容が書かれていることを願って、郁代は彼女とのトーク画面を開いた。

『今日の夜六時、いつものスタジオに来れない? 新しい曲できたから聞いて欲しくて』

 郁代は目をぱちくりとさせて、固まった。そして醒めるような思いをする。

 現実らしくて一番現実らしくない――なぜなら、あまりに「いつも通り」だ。

 もう見れないのかもな、と心の中で諦めていた言葉がそこにあった。今ここに。

 息が止まりかけて全身がどくどくと心臓の拍動で痛い。深呼吸で息を整える。

 ――――午後六時……まだ余裕がある時間だ。

 二日酔いでも何とか昼に起きれてよかった。もし行けなかったらと考えると背筋がゾッとした。

 リョウへ返信しようと再度画面に目を落とすと、メッセージには続きがあった。

『郁代も司馬さんから後で聞くと思うけど、今月末にバンドの進退を決めるって』

 〝進退〟。その言葉に納得する自分もいれば、受け入れられない自分もいる。

 しかしプロとしてステージに立つ以上、白黒はっきりさせなければいけないのは当たり前のことだ。

 ――――――――。

 大切な仲間がどうにかなっている時に、詮ないことなど万に一つもない。

 郁代はポツリ「了解です! 新曲楽しみです!」とだけ返信して、一週間と少し先の未来に思いを馳せた。

 

 

 

 十一月十一日。

 微睡みの淵で朝日が私――伊地知虹夏を力ずくでを起こす。

 仕方なく目を開ける。

 何の変哲もない、いつも通りの天井が私を見下ろしていた。

 枕元のスマホは午前七時を映し出している。

 今日も浅い眠りだった。生温い海の砂浜でずっとくるぶしまで波に浸かっているような感じの毎日だ。病名を告げられたその日から、それがまるで毒薬だったかのように身体を蝕んでいっている。これが世に言うプラシーボ効果か。薬理も何もかも違うが。

 ズンと重い身体を引き摺ってベッドを降りる。

 ひとまずはトイレへ行こう。

 生理的欲求に見舞われるたびに、本質としての体と実存としての心は、必ずしも同じ方向を向くわけではないのだな、と案外冷静に受け止めている。

「ああ、虹夏おはよう。今日は早いな」

 廊下に出ると星歌が眠そうな顔を浮かべつつ、掃除シートつきワイパーで掃除しているところだった。今年はツアーで虹夏が外出することが多かったため、彼女ができる範囲の家事を任せていた。そしてそれは、ツアーの残りがすべてなくなった今でも続いている。

「お姉ちゃんも早いじゃん」

「それはまあな、今日は病院の日、だろ」

「あ……うん」

「今日もついて行った方が、いいか……?」

「いや大丈夫、今日はいつもよりは調子いいから」

「分かった、了解」

 歯切れの悪い会話を終えて、お手洗いで用を足す。

 私が倒れた日からずっとこうだ。考え得る限りいい方向に考えれば、恐らく星歌は私をどう扱えばいいか分からないだけで、本当は力になってあげたい――のかも知れない。面と向かって言うのは気恥ずかしい彼女のことだから、真相は闇の中。

 虹夏は大きく息を吸って、魂さえも抜け落ちそうなほど深く吐き出す。

 鍵を掛けてしまえば、ここの一畳がまるごと私の世界だ。バチカン市国よりも小さい私だけの国だ。何人たりとも深呼吸に溜息が混ざっていたなんて分からない。

 押し入れの中を好んでいた彼女も、こんな気持ちだったのだろうか。

 …………静かに虚空を見つめて、数分。さすがにこれ以上星歌に心配を掛けさせるのは本望ではないので、虹夏は個室を出た。

 リビングでぼおっとしながら朝食を取る。

 朝食と言っても大層なものではなく、ヨーグルトだけ、とか、バナナだけ、とかだ。今日も適当に済ませて外出の準備をする。

 病院のない日は自分の調子に合わせて、バンドの帳簿関係の残り作業をして過ごしている。みんなに迷惑を掛けないよう立つ瀬を濁さないようにしないと。たまに、ドラムを叩かなくてならない強烈な衝動が襲うが、上手くつき合っているつもりだ。

「それじゃあ、行ってきます」

「気をつけてな」

 午前九時半前。虹夏は家を出た。

 身体を適度に動かすことも大切だと担当医師に教えられたので、ここから病院までだいたい三十分の道のりを徒歩で行く。目的の病院はいわゆる大病院と分類されるもので、本来なら大病院は紹介状が必要なのだが、ありがたいことに緊急搬送後の検査を担当した心療内科の先生が発行してくれた。

 温暖化が原因なのか、まだまだ冬の気候にならない十一月の空気を感じながら人混みをすり抜け、一人アスファルトの道に鈍い足音を響かせる。

 楽しい気分はない。かといって、悲しい気分でもない。

 無感情――という感情だった。

 それと特筆すべき条項として、身体のあちこちが痛くなる時がある。話に聞くに心と連動しているんだとか。

「…………」

 何も考えないで歩いていれば、三十分の距離なんて取るに足らない。虹夏は、視界に聳え立つ病棟に圧倒され身を縮めながら中に入った。

 ――――。

 ――――――――。

 診察は約四十分で終わった。

 日常の様々な面でこれからもアドバイスするので、一緒に頑張っていきましょう、とのことだ。

「分かってたけど、ね――。ははっ」

 一週間に一度のペースでここに来ているが、毎回ものの見事に期待を打ち破れられている。それももう三回目だ。自分がいかに未練たらたらの意気地なしか、嘲り気味に笑ってしまった。

 ――しかし。

「どこだここ……」

 大きな窓の近くにテーブルと椅子が何脚かある場所。

 取りつく島もない考えを巡らせながら院内を歩いていたら、見知らぬ場所に辿り着いてしまった。特に職員から注意は受けていないので立ち入ってもいい場所らしいが、これでは帰るに帰れない。

「あ……」

 院内図を探す虹夏の背中に、何某から意識のベクトルが向けられる。

 その声の主を確かめようと振り返ると、そこには患者衣を羽織り頭にニット帽を被った自分と同じぐらいの背丈の女性がいた。

 知り合いに入院している人がいるなんて聞いた試しがないし、彼女は目線を横に逸らしているため、真意も読み取れない。

 容姿にも見覚えがないはず――ん?

 彼女の紫紺色の瞳を見た瞬間、指数関数的な速度の増加を以て疑問の波紋が頭の中に広がった。無意識的に記憶をサルベージする。そしてそれは、一点――一つの答えへと交錯した。

「え……、もしかして、廣井さん……?」

「あっ、うん、そう……です」

 この白い廊下で出会ったのは、シクハックの名物ベーシスト兼ボーカルの廣井きくりだった。

 最後に会ったのが春の飲み会で、最後に動向を把握したのは私たちの京都ライブの一日前だったはず。あの時は体調不良としか聞かされていなかったけど、まさかこんなことになっているとは……。

 きくりはどこか落ち着かない様子で、身体をもじもじとさせる。

「……」

「……」

 入院患者らしいので当然飲酒はしていないと頭で分かっていたが、いつもの感覚からへべれけな彼女を思い浮かべていただけに面喰ってしまった。そういえば素面だと誰かみたいに暗くなるんだっけ。

 お互いが何かを言いかけて止める。ラリーのように続いている。

 気まずさだけがスカイツリーよりも高く積み上がっていく。

 この場所にいるということは何かあったと言っているようなもので、果たしてそれに触れていいものなのか。目の前の人物に至っては、身に纏っているすべてがすべてを物語っているのだ。好奇心と心配と遠慮と、会話の代価に自分のことを話したくない拒絶が、地層のように何層にも折り重なって口を締めつける。

「あ、やっぱり、気になりますか……? これ」

 自身の視線を彼女の頭に注ぎ過ぎたのか、きくりは噛み合わせの悪いギアのような沈黙を破って、恐る恐るニット帽を指先でちょいとつまみながら訊いてきた。

「あ、うん……。教えてくれるなら――」

 虹夏の答えを聞いたきくりは、感覚にして十秒間逡巡し、うん、と頷き、何の因果か、会話にはちょうどいい背もたれつきの椅子に、テーブルを挟んで向かい合う形で二人は腰を下ろした。

「――な、何から話せばいいかな……あ、あの対バンはすっぽかして誠に申し訳ございませんでした」

 話初めて早々に頭を深く下げるきくり。確かにこれまで散々迷惑を被ってきたけど、これは責められるべき理由ではない。

「頭上げてください。あの時は体調が悪かったんですよね? それはしょうがないじゃないですか」

「う、うん、そうなんだけど……い、いえ、寛大なお心遣いに、か、感謝します。あ、あの日は、私泊ってた宿で、ぶ、ぶっ倒れまして……。その後に運ばれた病院ですぐにでも精密検査した方がって言われて――い、色々検査したら……」

 その先の言葉が中々出てこないきくり。虹夏は促すことなく静かに待つ。

「――――――――ガ、ガン、でした。喉の」

 彼女の出で立ちからそれとなく当たりをつけていたが、その単語を彼女の口から聞いた瞬間、声にならない悲鳴が自分の奥底から出ていた。

 ボーカルの商売道具である――――喉。なんて惨い。

「べ、別に憐れむ必要はないよ……これは自業自得……。体に悪いことを分かっておきながら普段からお酒ばっかり飲んで、喉に生きていて感じたことのない違和感を感じても、痰に血が混ざっても、目を背けて飲み続けたんだから……。お、お医者さんに訊いたら、ライブとかで普段から喉を酷使していたから、初めにポリープってやつができて、それがどんどん悪化して最終的にガンになった……んだって。もちろん、お酒が悪さしてたのは、そう」

「だから、自業自得……」

 きくりは頷く。自らの生活習慣が自らの生活を破壊した、と。

「……も、申し訳ないことに、は、話はまだ続きがあって……。この帽子、本当は外したくないんだけど――」

 そう言って頭に乗っていたニット帽をずらし外す――。

 虹夏は言葉を失った。

 あったはずの臙脂色の髪の毛が綺麗に抜け落ちていたのだ。

「……手術するほどじゃないし、一応私はボーカルやらせてもらってるし、治療は抗がん剤と放射線でってことになったんですけど……。あ、あのですね、これはですね、全員が全員髪の毛が抜けるわけじゃなくて、体質とか薬の種類とか、人によって副作用の強さが違うみたいで……。わ、私は合わなかったタイプみたいです……」

 きくりはそう言うと手早く帽子を被って、それを隠した。どうしてか彼女の顔には薄ら笑いが浮かんでいる。

 ――知っていた。聞いたこともあった。

 ガンの治療にあたって髪の毛が抜けてしまう人もいると。

 だからなんだ、私程度の人間では彼女に掛けられる言葉なんぞ持ち合わせていない。そもそも資格を持ち合わせていたとしても、病の只中にいる彼女に対してなんて声を掛ければいいのか。

 ガンという事実とその光景が衝撃を伴って脳裏に焼き、今まさに虹夏の心臓をぐぐぐと掴み潰さんとしている。根本としてきくり自身の行動がその患いの出発点としても、私の病気がいかに幸せか恥ずかしくなった。

「で、でも、悪いことばっかりじゃないんです。私普段からお金なくて食生活乱れまくってたし、マズいって聞いてた病院食が美味しく感じて。体重も前に比べたら増えたし……あはは。――……あっ……いえ、なんでもないです」

 きくりの病状がどうであれ、私の病状がどうであれ、それはやはり体の異常であることから逃れられないわけで――。彼女に対していたたまれない思いを抱いていたとしても、それは彼女には何も関係ないことだ。だから、クスッと笑える気の利いた一言でも掛けられればよかったのに。

「あ、あの……」

 きくりが俯き加減に虹夏を見る。

「せ、先輩は元気にしてますか?」

「う、うん。毎日元気に店長やってるよ」

「そ、そうですか……。他のみんなは元気してますか?」

「――――うん」

「……ええと、あの……。に……、違う違う……伊地知虹夏さんは、どうして、ここに……? あっ、言いたくないなら、別にいいです」

「虹夏でいいですよ」

「じゃあ、虹夏さん……で」

 やっぱりきたか……、と虹夏は頭の中で呟く。

 きくりは自分の身に起きたことを隠さず教えてくれた。どんな理由があるにせよ、今まで私たちの誰にも言ってこなかったことから、それはとても勇気のいる行動だったことは想像に難くない。けれど、私にはそんな強さはない。全部嘘だと信じていたいままだ。

 だから――――。

 虹夏は芝居がかったぎこちない動きで辺りを見回し、運よくあった壁掛け時計を見て、言う。

「あっもうこんな時間。ご、ごめんなさい。早く帰らないとお姉ちゃんが心配するので……」

「あっ、そ、そうですね。おお、お引止めしてしまって、す、すみません……」

 失礼しますと席を立つ虹夏。その腹の内は自らの不甲斐なさに打ち震えていた。

 心拍数が上がる。息が浅くなる。

 嘘をついた罪悪感が自分を罰している。

 虹夏の体はそれ以上動かなかった。

 戸惑いと焦りがアドレナリンに変わり、皮膚表層の血管が閉まっていく感覚を覚える。おまけにきくりからの心配を含んだ視線に声を上げられなくなる。

 不自然な程、汗を掻き、額にじわっと油が滲む。

 意識が途切れる――寸前で、虹夏の口が自ずから開いた。

「――代わりに、来週もここに来ていいですか?」

 きくりの目が大きく開かれ、パッと顔が華やいだ。

「い、いいんですか……? なら、来週もここで」

 その微笑みを見た刹那、自傷感情に似た何かに摺り砕かれようとしていた体は元の状態に戻った。その隙を逃さず、きくりと別れた。

 

 帰り道。ずっと考えていた。

 ――来週。

 その言葉の「意味」について。

 もちろん、分かり切った言葉本来の意味ではない。

 今の私にとって、未来の意味はあまりに空虚で論ずるだけ無意味に等しいもの。

 それを理性で解った上で、「わたし」は「来週」と言った。

 一秒先の未来も分からない人間は、常に人生の崖っぷちにいて、いつ死ぬのかも分からない。死が身に降りかかるのは一秒後かも知れないし、明日かも知れないし、一週間後かもしれないし、はたまた遠い未来かも知れない。まるで二時間サスペンスドラマで、犯人が東尋坊の先っぽで刑事たちに追い詰められているようなものだ。バミリの一つ、間違えればすべてが泡に帰ってしまうのが人生だ。

 だからこそ、「来週」という言葉には重みがある。

 無為を受け入れろと迫ったのは「わたし」だが、今日、助けてくれたのも「わたし」だ。

 かのドッペルゲンガーは一体……私の何、なんだろう?

 

 

 一週間後の十八日。

 薄ら気分が悪い日々でも良い悪いを繰り返して、また、診察の日になった。

 毎日自分の想像を上回ってくる体の怠さに喘ぎつつも、必死に過ごしていたら、憂慮なく「来週」になったのは面白かった。今週一面白かった。

 きくりが入院していることは結局誰も言っていない。彼女自身が話していないということは、それは彼女が望んでいないことかも知れないからだ。

 中々関係が改善しない、しかし悪化もしない星歌を残して、今日も徒歩で病院へ向かう。

 最近はスターリーのPAが家に出入りするようになって、賑やかさと言えば聞こえはいいが、騒々しさが増している。大方、星歌が私にもっと話をして欲しいとPAも呼んでいるのだろう。雑談するだけでも心理的な負荷が軽くなるから、それはそれでいいのだが――。あまつさえ体調が悪いのに家事の仕事を増やさないで欲しい。

 

 定石通りになってきた診察を終え、聞き馴染みがでてきた結果を聞いて、先週したきくりとの約束を果たすためにあの休憩スペースに足を運ぶ。

 きくりは先週と同じ場所にちょこんと座っていた。様子は特段変わりない。

「――お、おはようございますー。ここいいですか?」

「おっ、お、おはようございます。ど、どうぞ……」

 形式じみたやり取りを経て、虹夏も先週と同じ椅子に腰を落ち着ける。

「…………」

「…………」

「あはは……」

 青い沈黙の川が、きくりと虹夏、二人の間に流れている。対岸へ渡るにはどうしたものか、と愛想笑いで誤魔化すも、当たり前のようにまったく効き目はなかった。

 天気の話題でも振ってみようかと考えていた時、きくりが口を開いた。

「そ、それにしてもこの病院、綺麗ですよねー」

「それ私も思います。――入院するにも結構かかりそう……って、廣井さんどこからお金盗んだんですか?」

「し、ししし、心外です……! これは、その……」

 きくりが言い淀みながらも話を続けてくれる。彼女がワザと蒔いた会話の種を上手く拾えたみたいだ。

「――両親のです」

「へぇ~、ご両親は結構廣井さん思い? なんですね」

 何気に、彼女の口から親の話が出てきたのはこれが初めてな気がする。

「私思いというか……ちょっと過保護というか……。とにかく昔から厳しい人たちで。そんなんだから私はつまんない人間になったんだと思って、喧嘩別れみたいに家出て、憧れてたバンド組んで、つまらなくない人生を目指したんですけど――まぁ、そのきっかけになった人たちです。今だって会っても全然話が弾まないし、気まずくて……」

 きくりの家族の話を聞いて、虹夏は脳裏に自身の亡くなった母親を偲ぶ。自分の母は彼女とは違ったタイプだった。星歌の夢を応援していたし、そんな星歌に不満を漏らす私に夢の素晴らしさを語って聞かせてくれた。もし今この時まで生きていたとしたら、どんな姿で、どんな言葉を私にくれたのだろう。

「――で、でも、少しだけ、ほんの少しだけ、感謝できるようになりました……。大病を患うと人生観が変わるとか言うし、そのせいなのかも、です」

 そう言うと、きくりは優しく笑った。

「――――――」

 しばし、静寂。

 私も、彼女も、相手が話し出すのを待っている。やがて、諦めたようにきくりがまた話し始めた。たぶんドン引きすると思います、と前置きを言って。

 きくりは大きく息を吸う。

「じ、実は私、死のうと思ってたんです。ガンだって判った時」

 虹夏の反応を探るように区切る。驚きこそすれ、忌避は示していないと判断したのか、続ける。

「――罰だと思いました。分断や対立、戦争や紛争、それに貧困に過疎化、日々あらゆる問題が起きているのに関わらず、それ見て見ぬフリして蓋をして、自分だけ音楽で救われて生きていた罰だって。――主語が大き過ぎると思いますよね……? それは私自身思いました。人類全体の問題をたった一人のせいにしてしまっているのと同じ、ですから……。でも、それは私にとって楽なことだったんです」

「――楽?」

「そ、そうです、楽です――虹夏さんは理解できないかもですけど。ありとあらゆる問題を自分が原因だとしてしまえば、わけの分からないものも、一旦は自分の手のひらにやってくる――そうすれば、すべてが自分のものとして知ったかぶりができる。一度受け入れてしまえば後は全部自分を肯定してくれる材料になるだけ。……だって、全部「根本」に自分があるものなんだから、それが「ある」だけで私が「ある」ようになるんですよ。だから、自分が「ない」ことになれば、それも「ない」ことになる。私が私でなくなること、それは世界の私に対する復讐で、私ができる罪への贖罪――――」

「…………」

 見事なまでの暴論だった。しかし、虹夏には理解ができる部分もあった。もし今日が鬱症状が強い日だったら、完全にころっと堕ちていたに違いない。

 自身の認識における「世界」では、自分が神であり、人間であり、すべての事物の原因でもある。事実、「本物」はあまりに底が深く暗闇だらけで一寸先も見渡せない。幼稚的と頭では理解しておきながら、そういったミニチュアサイズの箱庭で独りほくそ笑むことは、やはり手が届く「楽」だ。

「……それに……」

「それに?」

「それに……こんな変な理由――い、言い訳じゃなくて、本音を言えば……絶望したんですよ、現実に。高々ステージ2だからとか、完治の確率は高いとか、そんなことまったく関係なくて――だって、喉、ですよ……。いくら〝高い〟って言ったって百パーセント元通りになる保証はどこにもないし、もし今の方法で治らなくて、手術になって失敗するかもしれない――たとえそれが成功したって、もしかしたら永遠に元の声を失う可能性もゼロじゃない。今まで積み上げてきたものが全部崩れ去ったように思えて――。もし声を失ったとしたら、もうボーカルは絶望的で……。そもそも私なんかの席はもうなくなってるかも知れない。あったはずの席を必死に探してる惨めな姿を人に見られるぐらいなら……潔く死んだ方が私にとっては生きることよりも遥かにマシな選択だった。だから私、始めは治療を拒否してました。六畳一間の家に帰って、喉の違和感も現実も忘れるために布団に蹲りながら強い酒をしこたま飲んで、原因不明の悪寒と高熱が出ても引きこもって、穏やかに死ぬのはきっと無理だけど……ってずっとその日を心待ちにしてました。――でも来なかった」

 悔しそうな、恥ずかしそうな表情を浮かべる彼女。今は後者の方が前に出ているように思う。

「今でもはっきり思い出せる……。あの日は確か、すごいゲリラ豪雨があって、針みたいに刺す雨で窓は壊れる寸前の音を出すわ、雨漏りはするわ、雷で家が振動するわで、死ぬなら今日みたいな日がいいなとばかり考えてた日で。家の近くに雷が落ちて……その光が目に焼きついた時、ああ死ぬ、そう確信したんですけどね。その矢先――いきなり、ドアがほとんど蹴破る勢い開けられて、髪も服もずぶ濡れになった志麻とイライザが部屋に入って来て。何やってんだお前! このままじゃ死んじゃいますヨ! 先に廣井だけ幽霊になんな! って言って、その言葉で思わず笑っちゃいました。あー、そういえば私にはこんな人いたなーとか、なんか私たちのバンドの曲タイみたいなこと言ってんなーとか――。それから、私は外で待ってた両親の車で病院に運ばれて、色々あってこうなりました」

 きくりは、ほらと両手を横に軽く広げる。

「今も、志麻さんとイライザさんは来てるんですか?」

「うん、ちょうど昨日。雑談しただけです、けど……」

 昨日のことを思い出したのか、くすりと笑う彼女に、虹夏は疑問を感じざる負えなかった。恐らく――というか絶対に、今語ったこと以上に苦しみを味わってきたはずなのに、どうしてそんな顔ができるか、理解に苦しむ。

「答えられる範囲でいいんですけど――、あんなに塞ぎ込んでた廣井さんが、なんで治療しようと思うようになったんですか……?」

 虹夏は言葉を選ぶように丁寧に訊いた。口に出してやっとそれが不思議に思っていたことだったことに気づく。彼女と私は、似ているところ以上に見ている景色が違うから、体中を流れる無色透明と錯覚している液体を取り出し、陽の下に晒して初めて色形が目に見える。

「うーん……たぶん、周りの人のおかげです。生きたい、生きていたいと思えるようになったのは。きっとそう」

 窓から遠くの景色を見ながら話すきくり。その様子はまるで誰かを諭しているようであった。それから彼女は、恥ずかしさを隠すように指遊びをして、話を続ける。

「人は――産まれたいと端から一度も言ってないのに、この雑居房みたいな世界に産み落とされて、産まれた理由も、生きていく理由も知らされずに走らされる。そしてその終わりは突然にやってくる。壊れたおもちゃが捨てられるように、無情に、非情に、不条理に。無意味に産まれて、無意味に生きて、無意味に死ぬ――それこそが人生の全部。すべて死ぬために生まれてきた人の手は、介入できないモノ。――だって、人は弱すぎるから。為せず果たせずなことだらけで、生きることは死ぬことよりも苦しくて狂ってる。理性は邪魔で、感情も邪魔で、いっそのこと獣かロボットに生まれた方が幸せだと思う。でも――いくら苦しいとしても、その時しか見えないものが、感じられないものが、得られない感情があることも知ってる――いや、教えてくれる人たちがいた。もらったものは、いつかちゃんと返さないと、でしょう? 借金みたいに……。だから私は――生きてるんです」

「……………………」

「順調にいけば……ちょうど一ヵ月後が退院、なんです。変えられないこともたくさんあるけど、応援してくれたら嬉しい……です。こんな私のためにすみません……」

 虹夏にはきくりが浮かべている表情が分からなかった――厳密に言えば、見えなかった。なぜなら、彼女の顔を見ないように視線を下に下げ続けているから。

 ――だって、私が惨め過ぎる。

 普通の人にとって彼女のそれが小さな灯だとしても、今の私には眩し過ぎる。浅瀬の魚のようには光に目が慣れていないし、深海の魚のようには目が退化していない、中途半端な私には。

「ごめんなさい……」

 そう言って、虹夏はその場から逃げた。驚き、そして自分に非があると思ったきくりが言った「ごごご、ごめんなさい!」という痛いほどの言葉は聞こえなかった。

 

 

 二十五日。

 私は同じようにまた、診察を受けた。

 しかし、きくりと話していたあの場所には足を向けなかった。

 

 

 十二月二日。

 星歌とPAの改善していく家事スキルとは裏腹に、今週は今まで一番調子が悪かった。

 毎日ベッドから起き上がるのが億劫で、病院に言って今週の診察は取りやめてもらった。

 それに先月末には、結束バンドのこれからを話し合う会が自宅リビングであった。――と言ったら難しいように聞こえるが、自分の胸の内で決めていたことをまたリョウと郁代と、今回は都にも話すだけの会だ。聞くところによれば、ひとりにも色々あるみたいだが、彼女のことを考えている正直余裕はない――本当に私はダメな人間だ。

 何を言われたって、私は結束バンドを抜ける心づもり――。

 虹夏は後ろ手で勢いよくドアを閉めた。

 誰も――惨めで、可哀そうで、痛々しくて、頼りない私の姿なんか見たくないに決まっている。

 郁代もリョウも、ひとりみたいに怒ってくれれば楽なのに。

 この世の全員が、私を嫌いになって、呪ってくれれば楽なのに。

 バタンという乱暴な音はずっと反響していた。

 

 九日。

 ――――――――。

 ―――――――――――――――。

 

 十六日――――。

 もう直ぐ橙の光が落ちる景色。その前で、私は――――――。

 耳を掠める風が、うるさい。

 

 

 

 巻き戻って、十一月二十八日。

 喜多郁代は、進退を決するため虹夏の家のリビングにいた。

 次子と飲んだあの日から十日経つが、これだと言える答えはいまだに見つからない――それでも、雲のようなふわふわとしたそれは感じ取れている。

 だから今は心の赴くままに、私は私のしたいことをするしかない。いつの日か納得できるまで。

 約束の時間になり、都が議長然として口を開く。

「……そうですか、後藤さんは来ませんか……。仕方ありません、始めましょう」

 同席するは、郁代、虹夏、リョウ、都、そして居合わせた星歌だ。ひとりにも連絡はしたが、都の言葉通り顔を見せることはなかった。

「本当ならもっと早い時期にやるべきだったのですが、色々立て込んでまして――ライブ中止に伴う違約金の話に、タイアップ先の企業さんとの話し合い、それから伊地知さんと後藤さんのこともあるので……。とにかく、私が処理しますので、皆さんは心配せず普通に過ごして下されば、それでよろしいかと」

 郁代もリョウも虹夏も、ありがとうございますと神妙に頭を下げる。彼女らの顔は伺えないのでハッキリとしたことは言えないが、都へ向ける感情は感謝よりも謝罪の念が多かった――少なくとも私はそうだ。自由過ぎる私たちがいつも振り回してしまっているし、その尻拭いもしてもらっている……。ちょっと頭が上がりそうにない。

「あの……早速なんですけど……。虹夏さん、本当に、結束バンド――辞めちゃうんですか? 私たちみんな虹夏さんが治るまで待っていてもいいって思ってるんですよ」

 みんな――私やひとりについては語るまでもないが、リョウが練習の度に見ているこっちが寂しくなるような目線は――――目は口程に物を言う。ことに違いはないはずだ。

「みんなの気持ちは嬉しい。でも――何を言われても、私の決意は変わらないよ」

「考え直す気は一ミリもない、の……?」

「そう何度も言ってるつもりだけど?」

 冷淡な声。拒絶する声。そこにいるのは私の知っている虹夏と重なり合わない影。

「……それじゃあ、もう――」

 郁代の震える声は部屋の壁に吸い込まれていく。無音室が如く静けさで氾濫している。加えて、外は雨降りで日光が射さないせいか部屋が暗い。ちゃんと電灯をつけているのに、だ。

 寒さも覚える。

「私は……抜ける。みんなの時間は貴重なんだから――。バンドでメンバーが脱退って不思議な話じゃないでしょ? そうですよね?」

「ええ、まあ。多々ある話、ですね……」

 話を振られた都は、出された煎茶を啜りながら答える。あくまで事実として。

 悔しい限りだが、私自身もそういう話を見聞きしたことがある。バンドで一生食っていくと言って高校を中退までした人が辞めた話だとか、業界に身を置いている以上、思い出そうとすれば枚挙に暇がない。

「私も抜けた質出しな」

 テーブルから少し離れた位置にあるソファから星歌がぽつりと言う。こっちは引き留める気で来ているのに、それはちょっと一言余計だ……。

「店長さんはもう虹夏さんのドラム聴きたくないんですか……」

 彼女の方へ振り返って郁代は、ほんの少しだけ怒りを混ぜた声で言う。他人に期待をするからこうなるのだと学んだはずなのに、こればっかりは抑えられなかった。六秒間も待てない。

「聴きたいよ――でも、もう叩かない、ってなってもいい。私もギター弾いてないからな。私はお前たちのバンドのメンバーじゃないし、極論どっちでもいい。虹夏が幸せだと思う方なら」

「お姉ちゃん……」

「ま、ま、まぁ……そうじゃなかったら母さんに顔向けできないってことだ」

 星歌は耳まで真っ赤にしてそう言った後、そっぽを向いてしまった。

 郁代は言葉を失った。砂上の楼閣が崩れ去るように、あっけなく頭の中がまっさらになった。

 そんなことを言われたら何も言えない――――。

 本日何度目かの沈黙が辺りを覆う。今話し始めるということは、この重苦しい空気を発言者がすべて背負うということと同義で、誰も自ら進んでファーストペンギンにはなろうとしないのだ。

「……」

「……」

「……」

「……」

「――本当に、バンドを抜けることが――ここで叩くことを諦めることが、虹夏の幸せなの?」

 この場所に来てから一言も話していなかったリョウが堰を切った。空白を破り、淡々と虹夏に疑義を投げかける。実に鋭く射貫いた一撃に、私の祈りも乗せる。

「――――。――そうだよ」

 郁代には虹夏の瞳の輝きが一瞬揺らいだように見えた。リョウも意味ありげな息を漏らしている。

 取りつく島、光明、そういうものが見えて、胸の中に焦燥感に似た希望が埋め尽くしたかと思ったら、

「ごめん、今日はもう体調が……。悪いけど帰って――。もう来なくてもいいよ。私のことは忘れて」

と、虹夏は駆け出すように自室へと帰り、バタンとドアを強く閉ざしてしまった。

「――――待――――っ!」

 郁代が彼女へ伸ばした右腕は空を切る。冷たい空気に当てられた指先の毛細血管から、血液が凍って、全身のみならず心まで動かせなくなりそうだった。

 虹夏はハッキリと言った――もう来なくてもいい、と。それすなわち、もう来ないで。

 病で毎日余裕がないことは容易に想像ができる。それでも彼女は、優しさを捨てきれずにいたから遠回しな表現をしたのだ。だから余計に心にのしかかる。

 本当は絶対に嫌だけど――今は私のことを嫌いになってくれた方が数億倍、楽だった。

 郁代は、もう二度と自分の目の前では開かない予感がする、まるで鋼鉄製の分厚く重い扉を穴が開くほど見つめる。その奥には、インテリアの変遷まで知っている部屋がある。だがその記憶は、油絵のようにリアリティーに富んだ質感を得ながらも、次元に束縛されてこちらからは眺めることしかできない。餅は餅、虎は虎だ。

「…………」

 影送りのように焼きついた光景から我に返る。

 よし、ポジティブに考えよう。自分の努力だけではどうしようもない時こそ、そうするべきだ。

 ――あれを逆に考えれば、彼女の心をわずかながらでも動かしたということ。だから後はやりよう次第で彼女を苦しみから救えるかも知れない――と考えるのは、楽観を超えて愚かだろうか……。

「あ、なんかごめん……。私が余計なこと言ったせいに」

 星歌が申し訳なさそうに謝る。

「でも、お前たちは偉いよ」

「え?」

「殴り合いの喧嘩にならなかったんだから」

「そんなことしませんよ!? とりあえず、今は……」

 〝偉い〟の閾値が低すぎる……。

 場に合わせたかのような落ち着いた雰囲気を今日は纏っている彼女だが、中身はいつも通りで安心した。病気というものは、当人もそうだが、その近しい人も辛いのだ。

「喜多ちゃんってたまに怖いこと言うよな……」

「そうですか?」

「――お手柔らかに、な。これは体験談」

 しませんけどね、そんなケンカ! と郁代がツッコむと、場を取り仕切っていた都が話を区切った。

「……はい。虹夏さんがもう参加する気がなさそうな以上、私たちがここにいてもご迷惑でしょうから、場所を移しましょう」

 都はそう言って、リョウと郁代に目配せをし、席を立ち上がる。それに合わせて、全員席を立った。

「お茶、ご馳走様でした。大変美味しかったです」

「ご丁寧にありがとうございます。是非またいらしてください」

「ええ、今度は明るい話題の時にでも」

 普段ぬるま湯にも似た環境で過ごしているせいか、形式ばった都と星歌のやり取りに、これが本物の社会人かぁ、と圧倒された。特に星歌もあんなこと言えるんだと驚いた。

「な、なんだよお前ら。そんな珍しい生き物を見るような目で私を見ないでくれ!」

 星歌は恥ずかしがりながら目を釣り目にして肩を震わせている。

「はーい、ご馳走様でした」

「……ん」

 執拗に彼女をおちょくっても得られるものは何もないので、郁代は都を見習ってお礼を言ってみた。リョウは会釈で済ませる。

「はいはい」

 虹夏のことを慮り、さらなる長居は無用と、リビングを背にして一行はぞろぞろと玄関へ向かう。その途中で、リョウが振り返り、虹夏の自室がある方へ目を向けた。時が停まってしまったかに誤認する数秒間の沈黙を経て、小さく口を開き、

「――――私は、信じてるから」

と、蚊の鳴く声で言った。

 彼女の背後をついて歩いてたけれどほとんど聞こえなかった、その音――確証をなぎ倒す純粋な想いの塊に、郁代は息が詰まった。私はここにいていいのだろうか、半端な自分で果たしていいのだろうか――彼女の歩くスピードと私の歩くスピードの違いに気づかされた。磨き上げた決意の鋭さと硬さが違う。

「どうかした?」

「えっ、い、いえ、なんでもないです」

 ぼおっと彼女を見つめてしまっていたのか、怪訝そうに訊かれ、咄嗟に誤魔化す。反射的なその受け答えは、まさに白々しさの塊で郁代は脳内で苦笑する。

「そう」

 …………。

「今日はわざわざ家まで来てもらってご苦労だったな。虹夏のことは私が見てるから、安心してくれ」

 玄関で都とリョウに続いて靴を履いている時に、頭の上から星歌の声が掛かった。郁代はしゃんとしてからそれに応える。

「私たちも色々頑張ります」

 自分の中にあった霧がなんだか渦まで巻き始めた会議は、ここでお開きになった。

 

 話し終わらなかった話の続きをするために、ちょうどいい場所を求めて下北沢をうろつく郁代、リョウ、都の三人。ところが私たちとは違い、都にはアテがあったようで、明確な意志を持って歩みを進めている。ここは口出しせずについて行ってみよう……。

「――――って、どうしてマックなんですか?」

 てっきりオシャレなカフェに連れて行ってくれるんだと思ってました、と郁代がつけ足す。

 今は郁代たちがいるのは、下北沢南口商店街ゲート横のファストフード店で、外の様子が見える二階窓際カウンター席だ。雨である今日は、人々の傘の色がアスファルトによく映えていた。

「……どうしてって、それは、お腹が空いてるからです」

 都はそう言うとエビフィレオバーガーを頬張る。

「はんばーがーっふぇおいふぃでひゅよね」

「ちゃんともぐもぐごっくんしてから喋ってください!」

 口の中に入っている分を飲み込んで、ドリンクで脂分を洗い流した都は、

「喜多さんと山田さんは何も食べなくて良かったんですか?」

と訊いてきた。

 都が視線を投げた郁代の前には、Mサイズの蓋つき紙コップ一つが置かれている。中身はホットミルクティーだ。確かに時刻はもう十三時過ぎで、普通なら空腹を感じているはず――なのだが、あの話し合いの後では飲み物ぐらいしか喉を通りそうにない。

「ちょっとお腹空いてなくて……」

「なるほど」

 リョウについては――。

「今日、スマホ家に忘れた。いつも電子だからお金ない」

「では、それは?」

 都が指差した先にはSサイズの紙コップ――恐らく中身はコーヒーが置かれている。魔法みたいに何もないところから出てきたわけでもあるまいし、注文のシステム的に無銭飲食はできないので不思議に思うのも分かる、というか私自身も思っている。

「なんか着てる上着のポケットに小銭が入ってた」

 あー、と納得した声が都と郁代から漏れ出る。運と姑息に塗れたリョウらしいエピソードだった。とはいえ、運も実力の内。さすがね!

 そんな感じに談笑していたら、いつの間にか都のトレーはくしゃくしゃになった紙ごみが二つ置かれていた。そろそろ本題に入るかな、と郁代は気構える。

「――それで本題ですが……。そうですね……、お二人はこのバンドをどうしたいと考えてますか?」

「それは……、やっぱりみんなでバンドし続けたいです」

 発した言葉とは反対に、郁代の心中ではその願いは正しいものなのかと疑心暗鬼になっていた。リョウの同意も耳を綺麗に通り抜けて、何の感情も頭の中に生み出さなかった。

 虹夏は私たちの負担になるからバンドを辞めたがっていて、ひとりは――端的に言えば虹夏の脱退を反対していて、私とリョウもひとりの意見と概ね同じ。

 しかし、改めて考えてみると細部がまったく違う。

 ひとりは、虹夏がここまでならざるを得なかった自分の行動への後悔と、虹夏が取る行動に怒っている。一方リョウは、後悔そのものよりも、全員が欠けていない完全体としての結束バンドに強くこだわっているように感じる。

 なら私の意見の根底にあるものは?

 これはあの日の問いのリフレイン。つまり答えを見つけられているわけもなく。

 私はみんなと合わせるのが得意だから――いつか思った「私」は、今の「私」には痛々しく思える。

 その在り方、その理想――何も繋ぎ止められていない私には、目に映るすべてを遍く照らすギラギラとした太陽であり、自らへの大きな期待そのものだから。

 そもそも何かと何かを繋げることは傲慢そのものなのだ。同じものならまだしも、形も色も何もかもも違うものを一纏めにするのは、繋げる者のエゴでしかない。

 星座の起源のように自分が「そう見たいもの」を作る過程だ。

 そしてそれには、痛みを伴う。

 私にその覚悟があるのか――。

「マネージャーとしても、個人としても、私は皆さんがバラバラになってしまうのは反対です」

「それはどうして……ですか?」

 郁代は恐る恐る聞く。

「まずマネージャーの立場からの意見ですが、ハッキリ言ってそっちの方が……儲かるんです。結成から長い年月が経っているのに一人もメンバーが欠けていないバンドを見てどう思いますか? 多かれ少なかれ好感を持てますよね? つまりそれだけで好感度が自然発生するんです。そして好感度は、より多くの人を惹きつける種になります。なので、結果的に売れることに繋がります。……続いて個人としての意見――の前に、私がレーベルにお誘いした理由をお話しますが。未成熟ながらもあの頃から技巧面、音楽面には光るものがあった、ということに加えて、私はあなたたちの仲の良さに惹かれたのがきっかけです。マネージャーとして申し上げたものと重複しますが、やはり私も一人の人間ですから、みなさんが楽しそうにしているところを見ると、応援したくなりますし、愛着も湧くというものです。もちろん、皆さんの卓越したスキルと繊細な音楽センスあってのものだということは言うまでもありません」

 つまるところ商業的な視点でも主観的な視点でも、私たちに求められてる、そして、私たちのセールスポイントは、仲睦まじさに尽きる側面が大きいということだろう。初めてのオーディション前に星歌に言われた、「仲良しごっこ」がまさか強みになる日が来ているとは思わなかった。

 だが、脱退するしないで揉めている時に言われても、苦しいだけだ。胸がきつく締まって痛い。

 少しノンデリカシー。

「司馬さん、何かいい案ありませんか?」

 郁代は嫌な気分させられた仕返しとして都に難題を吹っ掛けてみた。距離の近い私たちですら、虹夏との軋轢やひとりの失踪に対する解決案の〝か〟の字すら思いつかないのだから、難題中の難題だ。

 しかし、すでに塾考してきたのか、あまり時間を置かずにさらりと答えが返ってきた。

「伊地知さんについては彼女の病状が改善するまで待つしかないと思いますが、後藤さんの方でしたら――Ameさんに頼んでみるのはいかかがでしょうか」

 

 

 その日の夜、郁代は自宅リビングのダイニングテーブルで唸りながらノートと向き合っていた。必死に書いては消しを繰り返しているのは、自分の今の気持ちと、私がひとりや虹夏、リョウに向けている気持ちだ。スマホのメモに書き連ねるよりも、手で書いた方が整理できるかもと思い、帰りしなに買ったA4ノートに書き殴っている。

 ――なぜ、私は彼女らにこだわっているのか。

 この疑問を解くことによって「心の問い」に雪だるま式に終止符を打てる気がするのだ。

「……ふう、一旦休んだ方がいいかしら」

 郁代は背もたれに体重を掛けながら手を上に伸ばす。緊張していた肩と首が幾許かスッキリした。そのタイミングでサクラが膝の上に転がり込んできた。

「かまってほちいのかしら?」

 いつもは作業の途中でも「遊べ」と邪魔しにくるサクラだが、今日はどうしてかこうしてキリのいいタイミングでやってきた。心まで溶けてしまいそうな温さが心地いいし、どうしようもなくかわいい。癒しだ。

 郁代は彼女の背中を優しく滑らかに撫でる。

「ねこちゃんって人の気持ちが分かるのかしら。ねー?」

 そう視線で訊いても、サクラはゴロゴロと喉を鳴らして、気持ちよさそうに目を瞑っている。

 ロックバンドと猫が相性がいいのは、こういう孤独に寄り添うところがあるからかも知れない。

 ……しかし集中力が途切れると、昼間に都から提示された案が頭の中で反芻される。

 正直、あれは博打だった。

 都が言うには、ひとりがメンバーからのアプローチに応じてくれないなら、まず彼女に親交があるAmeにどうにか話だけでもしてもらい、塞ぎ込んだ心の扉を緩め、最後にメンバーの私たちがとどめを決める、ということらしい。

 実際に人と話をするだけでも悩み事は薄くなるものだが、その効果は人によるし、話をする人間との関係値も大事なファクターで、果たしてこの状況が良くなるかはまったくの不透明で。それから根本的な問題として、Ameと都がストレイビート時代からの見知った仲とはいえ、忙しい身である彼女が「お願い」を聞いてくれるのか、聞いてくれたとしてもひとりは応えてくれるのか、ひとりにいい影響があるのか、そして私たちとまた顔を合わせてくれるのか――。

「――――あーもう、ぜっんぜん、わかんないわ~!」

 内向きに溜まりつつあった力を振り払うように郁代は声を上げる。その大きな声に驚いたサクラの体がビクッと跳ね、机に置いてたマグカップを倒してしまった。中身がテーブルの上へ広がる。

「あっ! 大丈夫、サクラちゃん?!」

 郁代は逃げていった彼女を追いかけて抱きかかえると、その体に火傷がないか隈なく見て回った。淹れてから時間が経っていたので大丈夫だと思うが、大事があってはいけない。

「ふう、よかった、何事もないみたい……」

 焦った。幸いなことに、コーヒーの一滴もかかっていなかった。さすが猫の運動神経。

 安心して机に戻る――。

「あっ……」

 こぼれたコーヒーで傍のノートが茶黒く染まってしまっていた。とてもじゃないが読めそうにない。数時間に渡って取り組んできただけに残念に思う気持ちが強かったが、それ以上にサクラのためなら……という気持ちが勝る。

 行き詰っていたし、そろそろ潮時、ね…………。

 机の上をふきんで拭いて、浸ったノートは綺麗に残っている部分だけ残して後は全部ゴミ箱に入れた。なんだかとても清々した。

 机の上に置かれていたノートがさっぱりなくなった部屋を、愛猫がスタスタ歩く。一見、目的も何も無いように見えるが、彼女にも彼女なりの目的があって、悩みというものがあるのだろう――。

「………………」

 ――ふと、月が見たくなった。

 特に論理的な理由はない。感情的な理由もない。

 ただ、猫のように気ままに。

 郁代は窓辺に行ってカーテンを開く。しかし、月は見当たらない。ベランダに出てみても同じだ。

 もう沈んでしまったのだろうか――スマホの天気予報を確認すると、今日は新月であった。

「……ぷっ」

 まさかの〝ツキ〟のなさに郁代は失笑した。当たり前だがこの時期の寒気は体に堪えるので、大人しく部屋に戻ろう。

 掃き出し窓をガラッと開けて、温かな空間へ足を踏み入れる。外の冷たい空気が室内の暖かな空気と混ざり合い、エアコンが唸り声と共に出力を上げている。

 ――。

 ――――。

 午後十時。

 いつもなら眠気がやってくるのだが、今日はまったくだ。

 椅子に座って、何も考えず、ただ時が過ぎるのを待つ。

 時々近くに寄ってきたサクラを撫でたり、眠そうに大きく欠伸をする彼女を眺めたり、最近の私を取り巻く喧騒さを考えれば、ありえないほどの安逸と静寂の時間。

 心象が瞬く間に白に塗り替わり、リセットされた――つまり、郁代は突然素に戻った。

 どうして私は、悩んでたんだっけ。急にどうでもいい気がしてきた。

「――というか、理由ってなによ……。そんなの最初から――…………」

 「何者」になりたかったのは――。

 みんなで何かを成し遂げることに憧れていたのは――。

 この十年間みんなとずっと走り続けてきたのは――。

 自分の「凡庸」を嫌悪していたからじゃない――――。

 私が私のことを、もっとずっと、心から、好きになりたかったからだ――――。

「……決まっていたんだわ」

 次子の言う「自己愛」がないのも当たり前。だって、それを手に入れるために、私はバンドを始めたんだから。

 ……………………。

 私のバンドをやる理由も、私が彼女らにこだわる理由も、私のアイデンティティも――。

 結局は、全部、全部……何かを好きになるためだった。

 私が私になるために――。

 ――今までよりももっと私を好きになりたい。

 ――今までよりももっとみんなを好きになりたい。

 自己、他者、共感――愛他に親愛。

 そういうものが私の根源――――きっとそう。

 愛はすべてを繋いで、結び束ねるもの。

 儚い人の人生で、愛は悲しい、哀しい、カナシイ。でも、愛しい、美しい、かなしい。

 やっぱり笑顔は、誇張なしに幸せを呼ぶおまじないだ。愛すべき感情をより綺麗に魅せてくれるから。そしてそれは、周りの人にも波及できる。

 しかし、たとえそれが正しいことだったとしても、虹夏とひとりを助けたい、救ってあげたいなんて……驕りが過ぎた。私は自分一人のことですら完全に理解ができない、ただの喜多郁代なのだから。せいぜいできても、自分の柔らかいところで彼女たちのトゲを受け止め、共に苦痛を味わうぐらい。

 それでも、彼女たちを少しでも楽にしてあげたい、なんて心の声は聞き分かっている。

 だから私は、虹夏とひとり――彼女たちが自分を信じてあげられないなら、私がその分まで彼女たちを信じる。彼女たちが自分を認められないのなら、私がその分まで彼女たちを認めてあげる。そうして、彼女たちがこれまでやってきたことは何一つ間違ってないって、無理矢理にでも、強引にでも、絶対に伝えないといけない。

 エゴだ、押しつけだ。だが、それが正解だ。

 愛のままにわがままに、私はみんなを抱きしめる。

 それってすごく――

「――……ロック、よね?」

 月明かりのない今夜、郁代の煌々とした眼光が世界で一番輝いていた。

 

 

 

 十二月七日。午後一時二十五分。

 あの日から一ヵ月と十七日目。

 薄明りの中、後藤ひとりは、テレビ台に置いてある小さな卓上カレンダーに今日もバツ印をつける。これは昨日の分だが、きっと明日も同じことをする羽目になるのだろう。

 できなかった烙印。謝れなかった罰。

 もう合わせる顔なんて持ってない。

 バツを書いていくたびに心に深く後悔がのしかかって、得体の知れない恐怖に襲われる。それはどこまでも追いかけてきて、凍った手枷と武骨な絞縄を私に嵌めてはニタニタと笑っている。

 チャット型のAIに「この気持ちはなに?」尋ねてみたら、「心が疲れているサイン。自分を労わって」と言われた。ふん、と思わず鼻で笑ってしまった。こんな私にまともに接するなんて……。これより馬鹿げた話がこの世界に存在するなら紹介して欲しい。

 彼女が病気で参ってるって、責任なんてこれっぽっちもないのに申し訳なさそうな顔して話をしてくれたのに、癇癪のように、追い打ちのように激情をぶつけた外道に掛ける温情があるなら、もっと別なことに回した方が世界はよくなる。

 重ねて、抑えきれない気持ちを走って解かそうとしたり、心配して来てくれてた郁代に嘘を言ったり。後悔と評したが、やはりあまりに身勝手が過ぎるだろう。犯罪を犯した者が怖くなって出頭するのと同じだ。なら、最初からやらなければよかった話じゃないか、と。

 どれもこれも、私が「理由」という意志を固めないまま、のらりくらりと生きてきたせいだ。もし私が向くべき方向を決めていたのなら、虹夏にだって、郁代にだって、それにリョウにだって、もう少しうまく立ち回れたはずなんだ。

 ひとりはカレンダーを元の位置に戻して、冷蔵庫へ向かう。水と食べ物を探す。

 しかし、眠気で足元がふらつき、テーブルの角に左足の小指をぶつけてしまった。あまりの痛みにひとりは悶絶し、また、ちょうど起きたばかりのとろとろとした微睡みが醒める。

 最近は睡眠を摂る時間も、その長さもまちまちで、昨日と今日、今日と明日がグラデーションのように地続きになっていて、常に夢の中にいる感覚だった。だが、この一撃がそれを吹き飛ばしてしまい、目覚めた意識は、山ほどのやらなければいけないことを一気にフラッシュバックさせる。気分が沈む。

 左足を右足で庇い、跳ねながらやってきた冷蔵庫の中身は、空だった。水の一本もない。

「……また、ウーバーか」

 喉の渇きは水道水で始末をつけられるが、空腹はそうはいかない。仕方がないので配達だ。

 適当なものをスマホで注文し、三十分後に来るらしい配達員を床に寝そべりながら待つ。どうでもいいが、部屋の窓には遮光カーテンがぴっちり閉められているので、外が晴れなのか、雨なのか見当もつかない。それに、日光の光がカーテンレール上部からしか入ってこないので、かなり暗い。寝てなんかいたら、また眠ってしまいそうである。最初こそ配達員に迷惑が掛からないよう、いつでも応答できるようにしていたのだが、慣れなのかこの状態にあってもあまり気にならなくなった。

 ピンポンと時間通り来たハンバーガーを受け取る。今日は気持ち多めにチップをあげた。

 人との繋がりがなくても、ネットさえあれば家に籠れてしまうこの時代。

 おかしくなったら、おかしくなりっぱなし。面倒くさくもあり、心地よくもあり。

 注文したスパムバーガーセットを完食し、包み紙をくしゃくしゃに纏めてゴミ箱へ投げ入れる。

 腹が膨れたら、自然と身体がギターが置いてある収録部屋に向かった。

 今ある収入源は、印税とオーチューブにあげている動画の収益だけで、両者とも利益比率は同じぐらいだ。しかし昔は夢のように思った印税だって、私たちがこのまま袂を分かつ結果になれば徐々に減っていくのは避けられない。だからなのか、ここ一カ月、ご飯を買ったら動画収録をしてしまう。

 本当におかしいことだ。

 何もかもが分からないくせに、命を繋ごうとする本能だけは一丁前で。しかも薄気味悪いことに、収録する曲の約半分ぐらいが結束バンドで。

 本当におかしいことなんだ。

 ――――そういうところが……そういうところが、やっぱり大嫌いだ。

 部屋に入り、電気をつける。すると、最初に目に入ったのは壁際に置いてあるギターラックだった。一本だけ入りそうな隙間が、今は空いている。

 いまだに形を成すことなく頭の中を浮遊している、苛立ちそのものだ。

 ……………………。

 仕方なく、隣に収納している白のフライングVを手に取り、ストラップに頭を通して肩に掛けた。

 途端に、感情が猛る。

 ひとりは、茶色でおにぎり型の厚さ0・8ミリのピックを無造作に指でつまむと――、

体の奥底で、感じる、怒りか、何か、負の感情を、ギター、に、ぶつ、けた――――。

 高速で刻む――刻む――刻む――。

 残像が見えるほどのトリルで、左中指が熱い。

 おまけに、十六分のライトハンドで、右中指も熱を持っている。

 ――――――。

 肩で息をするような激し過ぎるウォーミングアップが終わったと同時に、鈍い音立てて二弦が切れた。

「……これで何回目?」

 ひとりは隠しきれない不愉快さを、切れて生気を失った弦に当てる。やたら消耗が激しいのか一週間に一度のペースで弦交換しているのだ。安弦ならまだしも、まったくエリクサーの長寿命が聞いて呆れる。

 ひとりは慣れた手つきでボディとネックの指紋汚れを拭き取り、六本の弦を交換する。

 最後にチューニングして完了……とその前に、スマホから新着メッセージを知らせるロインの音が鳴った。

 どうせまた郁代――去る日から毎日欠かさず連絡を寄越してくる、彼女からのものだと予想したが、想像していた人物とは違う人物からだった。

 Ameだった。

『すみませんが、今からビデオ通話してもよろしいでしょうか』

 ご丁寧にミーティングIDとパスコードも添えられている。

 …………?

 ………………?

「……っえ、い、い、今から……っ?!」

 揉み消せず燻ぶっていた感情が一気に吹き飛んで、ひとりは目の前の事態に必死に頭を動かす。

 彼女とは何度かビデオ通話したことあるけれど、それでも心の準備が整ってない――!

 何か反応しなければ失礼――。いや、郁代のメッセージを全無視しておいていまさら一つも二つも大差ない――。でも、距離感が違うし――。親しかったら何してもいいのか――。それは――。

 最終的に埒が明かない思考の螺旋を経て、ひとりはミーティングルームに入室した。

 パッと切り替わった画面には、いつも通りパーカーを着て、フードを被ったAmeが待っていた。

 お互いの顔が見えた瞬間、何かしゃべらないと、と両方が必死に口をパクパクさせるが、その努力は虚しく何も音が聞こえることなかった。それもそのはず、オーディオに接続されていなかったのである。

 顔と耳が熱い。ひとまず、ひとりはマウスを動かして音声に接続した。

『…………』

「…………」

『ひゃっ、もう繋がってたんですか……。す、すみません……っ!』

「こ、こっちも、すみません……」

『…………』

「…………」

 彼女と最後に話したのは『スターライト』を収録した時だったか。何を話せば――。

『きょ、今日は。天気がいいですね!』

「……ごめん、最近外見てなくて……あっ――。」

 せっかく彼女が話を振ってくれたのに、自分で会話の芽を摘んでしまった。相変わらずの会話の下手さに自分が嫌になる。

『――ごめん』

「えっ、そんな謝るほどのことじゃないよ」

 私と会話して盛り上がらない人は山ほどいるのだから、全然気に病むことなんてない。

『ち、違う。たぶんだけど、ギターヒーロ―さんが考えてることじゃない、です。私が謝りたいのは、曲のこと……。う、噂で聞いたんだ。け、結束バンド、最近大変なことになってるって……。そ、そ、そうなっちゃったのは、私が曲を提供してからだったから――私が、げげ、原因な気がして……』

 ひとりにとって、そんなこともあったなぐらいのできごとだっただけに、ただ単純に考え過ぎなだけだと思ったが、虹夏があの頃から思い詰めつつあったとしたら――と想像してしまった。でも、それはAmeには関係ないこと。海に泳ぐ魚が山の木々を知らないことと同じだ。

「い、一旦落ち着いて、あ、Ameさん。謝ることなんてひとつもないよ。Ameさんが提供してくれた曲はすごくいい曲だったし、わ、私たちも気に入ってる。たとえ虹夏ちゃんが――あっ」

 ひとりは思わず手を口に当てる。その動きは必要以上の情報を相手に渡してしまう悪手だが、今はその名前に敏感になり過ぎていて無意識のうちだった。ただ今は、相手が親交のあるAmeだということに感謝して話を続けよう。

「う、うんまぁ……。もし、虹夏ちゃんの状況を知らなかったことに後ろめたさを感じてるなら、それは……メイワクってやつ、だよ。これは絶対に私たちだけの問題で、後ろめたさに苦しくなるべきなのは、私、なんだから。――Ameさんが背負うべきなのは、クリムトファンの、たくさんの人の笑顔でしょ」

『…………』

 画面の中の彼女は何も言わず、動きもしない。しかし瞬きが見えるのでフリーズではないのは確か。

 恐らく……友達とはいえ、遥か上のアーティストがわざわざ心配してくれていたのに、突き放すようなことを言ってしまったからきっと怒っているんだ――。ひとりはそう静かに悟る。

 だが突如として、Ameが口を開いた。しかも内容は話していたことには関係なくて。

『――ギターヒーローさんは、「ヒーロー」ってなんだと思いますか?』

「……う、うーん…………。ゲームとか映画みたいに、世界を救う人とか……あと、「ギターヒーロー」の元の意味みたいな、みんなの憧れの人とか、かな……」

 ひとりは記憶と知識の点と線をゆっくり結ぶ。

 考えられるのはこれぐらいだ。一般的な意味合いはともかく、だって「ギターヒーロー」なんて名前をチャンネルにつけたのは、みんなに認められたかったから、のはずだから。

『じゃ、じゃあ! わ、私にとって、ギターヒーロ―さん――は、ヒーローですね!』

「――え?」

 ひとりの口から驚きと疑問に満ちた声――現実と現状と認識、その他諸々の祖語が生み出した軋んだ音が出る。同時に、ノイズに塗れた古いフィルムの中で、黄色の影が言っていたことが思い起こされた――…………。

『ま、前にも言った気がするけど――ギターヒーローさんの動画があったから、私はまた音楽やろうって思えた。七光りが――とかじゃなくて、私が好きなことを好きなようにやろうって。ギターヒーローさんが現実で頑張ってたから、私も頑張ろうと思えて、ここまでこれた。ずっと憧れの存在だった――今だって』

「…………」

 ――憧れ。

 そう言われて、本来なら宇宙にだって飛んでいけそうなぐらい嬉しいはずなのに。「ありがとう」と言う前の息継ぎすら出てこない。それどころか、自分が段々と青ざめていくのを感じた。

 だって、私の全部は、すべて他人の消えない足跡でしかない。

「……私は全然、ヒーローなんかじゃない。本当に。……こんな私よりも、みんなの方が、これまで会ってきた人たち全員の方が、ずっとすごいよ。私を産んでくれた。私を育ててくれた。私を姉にしてくれた。私にギターを貸しくれた。私をバンドに入れてくれた。私でもできるバイトをくれた。私に大切な言葉をくれた。私を支えてくれた。私のバンド活動の次なる一歩を歩ませてくれた。私を先輩にしてくれた。私をメジャーデビューさせてくれた。そして、私をヒーローにしてくれた……――。ギターの実力は確かに自分で頑張ったものだけど、それでも、ほとんどのことは全部他の人がやってくれたんだ。だから私は、全然ヒーローじゃなくて、空っぽで、本当にヒーローなのは私の周りの人たち、だよ……」

 ひとりが重ね重ね言葉を紡いだ後、音という概念がこの世界からなくなってしまったかのように、静寂が訪れた。画面の向こうのAmeは心底悲しそうにしていて、自分の胸の内に潜んでいた真の実を話しただけなのに、まるでこちらが悪いことをしたみたいだ。

『…………』

「…………」

『――――うん』

 Ameが何か了解する相槌を打つ。

「きっと、幻め――」

『――何があっても、ギターヒーローさんは私のヒーローです。もし本当に「ヒーローにしてもらった」としても、ヒーローであることには変わらない。だってそれは――自分が光っていることに気づかない星に、「光ってるよ」って教えただけだから――! だから関係ない、です……』

 次第にしぼんでいく声とは真逆に、前髪からチラリと覗く彼女の瞳はキラキラと輝いたままだった。穢れを知っても、恐れを知っても、ただ真っ直ぐに「憧れ」を見つめるその瞳孔は、子供のような青色巨星を間近で見たように鮮烈で、今すぐ言葉にするのは不可能だが、冷や水を顔面に浴びせられた気分になった。

「――あ、ありがとう」

 愕然とさせられたひとりは、パブロフの犬のようにその単語を口にした。

 でも、彼女の言う通りなのかも知れない。物事はある一面だけで構成されているわけではないから。私がそう思ったとしても、他の人はそう思わないかも知れない。その逆も然りだ。

 でも…………。

 一喜一憂。跳ねる心と萎む心を感じるひとり。それはただ、自分が救いようのない独りよがりであることを示しているようにも感じた。

 結局は、足跡とか、現在地とか、これから歩む道とか、自分の人生に意味があるかないかの話まで、そんなものは浮遊する藻みたいなもので、固着する岩がないから水の流れるままに彷徨っているだけ。

 流されて、流されて、流される。

 そこに残るは、悲観的な「自由」だけだ。

 拠り所はなく、すべては結びつかず、当たり前のように持っていた「意味」は、その「意味」を果たさなくなり、霧散する。

 ……私は、「自由」。されど君も、「自由」。だから何――?

「…………」

 ひとりは歯噛みする。

 ――――私は、そう思っちゃいけないんだ。子供みたいな私には。

 新曲発表の時に感じた違和感――嫉妬――しょうもない罪深い感情を抱いた私なんだから。

『……ど、どうしました……? ももも、もしかして! 私、また変なことをっ!? すみません! すみません! ヤ、ヤバい! 人気アーティストの不仲説で、ええ、炎上する――っ! ネットで何も知らないクソどもから、ボロクソに書かれるんだ……。全員くたばっちまえばいいのに……』

「あ、あの……。わ、私は大丈夫だから……」

 まるでジェットコースターに同乗した人が自分よりも怖がっているのを見て怖くなくなるように、ひとりはAmeの突拍子もない妄想に触れて元の位置まで戻ってきた。

 前から思ってたけど、この人発想豊かな人なんだよな……。

『……よ、よかったー』

 彼女は本気で胸のつかえが下りたようで、言葉の尾尻の息には疲労感が混ざっていた。

「それで――今日、こうして通話したかったのは、何か理由があるんじゃないのかな?」

 ひとりは先輩らしく優しく問いかけてみた。核心を突いただろう、と思った。が、Ameはきょとんとした顔のままで、一切の動揺を見せなかった。

『べ、別に、大した理由なんてありません……。ただ、ただ、ギターヒーローさんとお話したかっただけで……。す、すいません』

「――――。う、ううん、大丈夫」

 今の気持ちを三文字で表せば「   」だ。何よりも単純で、人間の基本的感情四種のうちの頭。

 だけど――、やっぱり――――、それは――――――、ダメだ。

『も、もしよければ……今日の夜一緒に、ご、ご飯食べませんか? もも、もちろん、今みたいにカメラ繋いでって感じですけど……』

 私も外に出る気力がないので……、とつけ足す。

「ええっと……」

 どうするんだ、後藤ひとり。

 「私」は一体何をしたい――――否、何をしなければならない。

「……ええっと――」

 迷いだけが「世界」を埋め、周りの空気は白く煙り、思考は脳みその外へ出て行く。手足の感覚はなく、真っ当に頭だけで生命を保っている錯視を観る。無駄な考えのトリアージをすることなく、脳幹から直接発声器官に命令が下るよう。自分が息を吸う音も、血を巡らす音も、口をわなわなと震わす感覚も、身体の奥底から「無意識」に息吹が送られる感覚も――私にはない。

「――あー、うん……いいよ」

 …………。

 ……………………。

 ――――――――――――――――。

 

 

 十二月九日。

 ひとりは目を醒ます。リビングの硬い床で寝ていたせいか、色々な箇所が痛むし、寒い。外から差し込むわずかな明かりだけが、私と部屋の輪郭を存在させている。

「――今、何時だ……って、どうでもいいか……」

 ひとりはポツリと漏らした。その目はここではないどこか遠くを見つめている。

 Ameとのビデオ通話とリモート食事会から丸二日経った――。

 だが、生活に特段の変化――挙げるとすれば、急に気分が晴れやかになったり、みんなに会いに行く気分になったり、そういう「正常」な心の動きへメトロノームの指針のように戻ることはなかった。強いてひとりがやったことと言えば、四六時中ギターを触ることで、いつもと変わらない生活があるかのように見せかけていただけだった。

 つまり、進んでそれをやるよう「願った」はわけではない。今はそうしていないと、身体のあちこちに入ったヒビが広がって、バラバラになってしまいそうに感じて、怖いのだ。いくら私自身が身勝手極まりない人間だとしても、なにも恣意的ではない。

 辛うじて私を繋ぎ止めているギター。それは今現在の私にとって、生活とイコールで結べるもの。

 ……しかし、ギターを拠り所にする奴にしては、ギターの扱いが惨過ぎる、酷過ぎる。言葉の限りを尽くしても、この程度を正確に言い表し、克明に非難することは不可能だ。

 命より重いものをあんなにあっさり、感情だけでその価値を奪ってしまったなんて――――。

 いまさらになって、いや、今だからこそ、得体の知れない自罰感情が膨れ上がってきている。

 亡くなったギターのことを考える度に、手は震えて、額に汗がびっしょりで、世界から自分の繰り返す浅い呼吸音だけが「世界」に取り残される。

 ――こんな、こんな……決意も通せず、約束は果たせず、大事なところはいつも他人に丸投げで、こんな年齢になってまで子供っぽくて……。

 ……バカみたいだ。……馬鹿みたいだ。……莫迦みたいだ。

 憎たらしい、恨めしい、大嫌い。

 私の中にはどこまでいっても暗く深い伽藍堂――――。

 「未来」から「昨日」を捨てられない。「昨日」から「今」を捨ててしまいたい。

 逆さに流れる清流で、私は有機的無機的な「汚れ」をまき散らす。ああ。

「…………っ!」

 前触れもなくひとりのスマホが鳴った。最近聞くことのなかった音に、ひとりの体が大きく跳ねる。専用の通知音を設定しておいた結束バンドのロインに、メッセージが送られたことを指していた。

 ひとりはゴクリと生唾を飲み込んだ。

 正式に虹夏が抜けることになったのか。返事のない私が脱退させられるのか。それとも――。

 期待と希望と諦観と絶望とが折衝し合い、荒れ狂う冬のベーリング海峡の高波ように一切をなぎ倒す。死に物狂いで手すりに掴まっても、船ごと転覆して冷海に投げ出されてしまうぐらいに。

 静謐。

 ロック画面に表示されたメッセージは――――郁代だ。

『来週十六日、午後三時、江の島の弁天橋で待ってる』

 フラッシュバック。

 ――。

 ――――。

「――――――絶対に……行ってなんか……」

 

 

 

 十二月十六日。午前五時半を少し過ぎた頃。

 目が覚めた喜多郁代は、ベッドの上で小さく伸びをした。ベッド脇に脱いでおいたスリッパに足を収めてから立ち上がる。

 いつものように窓のカーテンを開けるが、朝日はおろか薄明すらない暗闇があるだけだった。

「あっそっか、まだ夜なのね」

 昨日はとびきり気合を入れて夜の八時には寝てしまったものだから、アラーム前の五時台なんかに起きて、こんな景色を観れているのかと、少し感嘆する。

 夜――なのだが、明らかに「夜」より明かりが少ない。眠らない街の一番暗い時間。不思議な感覚。

 ライブのための早起きは抜きにして、こんなに早く起きたのは一体いつぶりだろう。

 郁代は鏡の前で髪を梳かしながら考える。

 中高は部活には入ってなかったし、大学時代も同じように部活にもサークルにも入っていたことがないので、用事があって早起きするのは――、高校時代の修学旅行ぶり……。

 だからか、なんだか胸がそわそわする。少なくとも同じ非日常感として。

 気分が乗ったので、軽く掃除機をかけて丁寧に朝食を作っていると、段々と空が明るくなってきた。

 光が透った空気はより鋭く澄んで、新しい命の予感をさせる。

「今日はいいことがある気がするわね~」

 郁代はいつの間にか起きていたサクラに話しかける。彼女は眠そうに大あくびをして答えた。

 こんなに朝早くに起こしてしまって、お猫様には申し訳ないことをした。それでも今日だけは許して欲しい。

 郁代のその気持ちが伝わったのか、サクラはこれ以上不満げな態度を見せなかった。

 サクラと自分にご飯をあげて、待ち合わせに備えて準備を始める。

 実際の集合時間は昼の三時だが、下北沢でリョウと合流してから虹夏を拾い、そしてそのまま片瀬江ノ島駅まで電車向かう予定なのだ。集合場所がわざわざ江の島なのは、ゆかりがあるという理由の他に、例えば下北に集合だと言ってひとりが来てくれるとは到底思えなかったからで。一方、虹夏は今日病院に行くと星歌から聞いている――ので、帰って来たところを確実に捕まえられそうだと踏んだためだ。

 強引だと思う。でも、彼女らだって散々好き勝手やってきたのだ。今度はこっちの番なだけ。恨みっこなし、痛み分けだ。

 病気のことは――分かってる。いや、分かっているなんておこがましい。

 でも――……諦めないから、私は。諦め切れないから、私は。

 昨日には、ギターを弾くために明日にでも外してしまうだろうネイルをやってもらったし、完璧なコンディションにしたかったらからエステにだって行ったし、今の時期にピッタリな可愛い服だって靴だって買ったし、今日着ていくものも選んだし、美容室にも行ったし――――誰が何と言おうと、一番好きな私で、虹夏とひとりを迎えに行くんだ。

 ともして出発する準備が整った。しかし、いまだ時刻は午前十時。

 かなり時間を掛けて出掛ける準備を進めていた感覚だったが、そもそも早く起き過ぎたようだった。

「とりあえず、もう出ようかしら」

 窓の戸締りとガスの元栓を確認してから、郁代はサクラに、バイバイと暫しの別れを告げる。

「…………」

 普段なら鳴き声の一つや二つをあげる彼女だが、今日だけはやけに殊勝な態度で澄ましている。おまけに撫でさせてくれた。

 これが猫流の応援なのかな、と身体にすうと沁み込むように合点がいくと、その軽やかな体躯が急に深みを増して頼もしくなった。

「――いってきます!」

 ガチャッと境界線を分けるように扉に錠を掛ける。不意に、頑張れよ、と聞こえた気がした。

 

 郁代は下北沢に着いた後、正午前後まで街をブラブラして時間を潰し、一足先に江の島へ走って行ってしまいそうな気持ちを落ち着けた。入ったカフェの店員さんから「かわいい」と服を褒めてもらって気分がいい。

 さてと、まずはリョウとの待ち合わせに駅の改札脇に向かおう。それで虹夏の家に突入だ。

 星歌から聞いた話では――虹夏は、木曜の午前に受診して、ちょうど昼頃に帰宅、それから昼ご飯を食べるのがルーティーンらしい。なので、今は家にいるはず。

 商店街の人の流れに逆らって駅に向かうと、リョウが柱にもたれながらすでに待っていた。目を閉じて何かに集中するように佇む彼女の周りには、虫食い穴のように空白ができて、人混みの中遠くからでも一目瞭然だった。

 郁代は小走りで駆け寄る。気配に気づいたのか彼女が目を開けた。

「お待たせしました~!」

「私も今来たところ」

 リョウは定型文を告げながら、まじまじと郁代の全身を見る。

「な、なにか、変ですか……?」

「いや、気合入ってるなって」

「――――! も、もっと褒めてください!」

 どこかの店員よりも、彼女から褒められた方が幾億倍も嬉しい。

「はいはい」

 そう、リョウは手で郁代をあしらい、駅前ロータリーの右奥に向かって歩き出した。それに郁代も歩調を合わせる。

 雲一つない晴れに加えて、北風が少し寒いぐらいの冬のお出かけ日和。多くの若者がさんざめいている。その街中、熱したガラスを冷水にぶち込んだようなテンションで、郁代は右を歩くリョウに問いかけた。

「リョウさん。今日、ひとりちゃん来てくれると思います?」

 スーパーの角を曲がって劇場の通りに入る。

「分からない。でも来て欲しいとは思ってる」

 誠実な答えだ。

「…………」

「…………」

 二人の間にはこれ以上会話はなかった――というより必要なかった。

 今日を迎えるまでは不安に駆られて、喉元まで酸っぱいものが上がってくる感覚がしていたのだが、今は不思議と平常心で、言葉では表現できないもので満たされている。

 自販機がある狭い道を直進して、スターリーへと続く地下への階段を後目に、上に付随するマンションのエントランスにやってきた。

 私よりも先にインターフォンの前に立ったリョウが、呼吸をするように虹夏の部屋番号を押す。十秒も立たないうちに星歌が応対した。しかし――

『あ、喜多ちゃんたちか……』

 部屋にいる虹夏を呼ぶわけでもなく、星歌はそう言った後、考え事をしているのか何も言わなくなってしまった。

「あの、どうされましたか?」

 思案を巡らせている彼女の微かな息がマイク越しに聞こえる。直感的に切迫しているよう思えた。

『な、なぁお前ら、虹夏、見かけてない? ここに来るまでで。虹夏のやつ、普段ならもう帰って来てるはずなんだけど、全然帰ってこなくて……』

 必死に落ち着き払っている風を装っているが、もはや隠し通すことは不可能なほど焦燥感に駆られた訊き方だった。非日常へのアラートが彼女を逸らせている。

 当然、郁代とリョウも、声にも表情にも表れない驚きと不可知への焦りに襲われた。だが、そうなってしまったものは仕方がないと、刹那にして心を決め、自ずと導き出された次の行動のシミュレーションを頭の中で行った。

「店長さん! 入れ違いになったら嫌なので、店長さんはとりあえず家で待っててください! 私、駅のあっち側を探してきます! リョウさんは駅の――」

「こっち側でしょ、了解」

「じゃあ、三十分後にまたスターリーの前で!」

 リョウは大きく頷いた後、小走りで駆け出して行った。郁代も星歌に「よろしくお願いします!」と一声掛けた後、今の靴で出せ得る限りのスピードで再び下北の街へ繰り出した。

 

 ――。

 高架をくぐり、交差点を一つ二つと通り抜け、五差路でまた駅の方へ。

 ――――。

「一筋縄で行くとは、思って、なかった、けど……!」

 まさかいなくなってしまうなんて――。このまま彼女が消えてなくなってしまったら……。

 悪い思いつきを突き放すように郁代は探し回った。

 ――――――。

 タコの足のように複雑に伸びる交差点を超え。

 ――――――――。

 数多のカレー屋を見向きもせずに。

 ――――――――――。

 先日も来たファストフード店を右に曲がって。

 ――――――――――――。

 まるで床を掃除するロボットのように、虱潰しに輝く喜色を見つけようとした。

 ――――――――――――――。

 しかし、虹夏を見つけられないまま三十分が過ぎた。残念ながらタイムアップだ。

 もしかしたら……、と期待を捨てられない自分に今は酔いながら、スターリー前へ戻る。もちろん――そんな虚しい言葉は言いたくないが――帰り道にも彼女の影も形もなかった。

 

 スターリー前の道には、星歌がいても立ってもいられない様子で、郁代たちの帰りを待っていた。そこへリョウもちょうど帰ってくる。しかし、彼女の元にも虹夏の姿はなかった。表情も芳しいものではない。

「…………」

「…………」

「…………」

 どうだった? と、分かり切ったことを訊く言葉は誰からも出なかった。

 頭の中が真っ白になる。落ち着こうにも落ち着けない。

 どうする? どうしよう? 何をすれば?

 郁代は暴れる自分の脳みそをいなすように、頬を両手のひらでパンッと叩く。機械を叩いて直すような乱暴なものだが、焦っている今、これが一番効く気がしている。

「――よし」

 小声を発し、耳で聞いて、まだ前を見ている自己の存在を確かめる。

 何が何でもどうにか――……。

 がむしゃらに最速で頭を回す。高校入試でも大学入試でもこんなに働かせてない。

 ――警察は……? 頼んだってすぐには動いてくれないだろう。最終手段、今はまだ早い。

 ――虹夏のスマホの位置情報は? 彼女はスマホに位置情報共有アプリを入れていなかった。

 ――ロインは? さっき走り回っている時にした。電話もした。音沙汰はなかった。

 ――このまま探し回る? 当てもなく彷徨ったって見つかるわけない。

 ――――――? ――――――。

 ――――――! ――――――…………。

 糸くずの塊から糸を一本一本分別するように、藁にも縋る思いで浮かんだアイデアを選別する作業。

 足りない頭で考えたことが、まるで印を押されて否決箱に入れられた書類のように、足りない頭の中で捨てられていく。

 もう何も思いつかない! 思いつかない……。

 自分の呼吸音と世界の騒々しさが一つに溶け合って増幅の一途を辿る。「キワ」は波が絶えず打ちつける浜辺のように曖昧で、自分の輪郭がゆらゆらと揺らいでいる気がした。

「――郁代、時間は大丈夫なの?」

「……えっ」

 リョウの平静を保った声で現実に引き戻された。郁代は急いで時間を確認する。

 時刻は十三時過ぎ。

 十二時半にここへきて、三十分間虹夏を探した結果の至極当然な時刻。しかし、それが何を意味するか――。

「――あっ! ひとりちゃん!」

 ひとりとの待ち合わせに指定したのはここから遥か彼方の橋の上。下北沢から片瀬江ノ島まで、小田急線を使ってよくて一時間弱掛かるのだ。人身事故なんかで遅延させられて遅れるようなことがあれば目も当てられない。今すぐにでも出発しないと。

 一方的に送りつけたとはいえ、もし彼女との約束を破ってしまったら――彼女が何を感じて、どう行動するか……。考えただけでも怖くて寒くて、血の気が引いた。

「リリリ、リョウさん! わ、私、今から出ます! 虹夏さんのことはお願いしますね!」

 リョウの返事も待たず、郁代は一目散に駆け出した。彼女が気づかせてくれたのだから、こうなるのも織り込み済みだろう。

 ――――――。

 この道を一時間前に通った時には、こんなことになるなんて考えもしなかった。

 余裕を持った計画を立てられない自分の能力と、可愛いからと履いてきたローヒールのブーツの走りにくさたるやに、苦悶の表情を浮かべざるを得ない。

 奇跡的に捻挫はしなかったものの、地下のホームに辿り着いた時にはもう息も絶え絶えであった。

「次は……もう、ちょっと、ゆっくり、したいわね……」

 郁代は荒いでいる息を歩いている人から隠すようにベンチに座る。息が整うまでの間、ホームの電光掲示板をしげしげと見ると、次に止まる電車は江ノ島線直通の快速急行らしく、路線検索をすれば終点まで大体一時間で到着するようだ。まったく土壇場で運に恵まれている。

 リョウに一報入れてから、郁代はふうと長い息を吐く。

 後は……待つだけだ。

 電車に乗ってしまう以上、虹夏を直接探すことはできないし、ここで焦っても何も変わらない。

 すべてを信じて、待つ、だけだ。

 定刻通りやって来るであろう動く鉄の箱に乗り、江の島に繋がる橋まで行き、ひとりが約束通りやってくるまで。

 

 

 自分が時間を教えたからだが、郁代が行ってしまった。

 彼女が残していった残り香に、心が無限に広がるコンクリートの平原が如く平らになる。冬の寒さが一段と強まったように感じた。

 風のようにいなくなった彼女に、困惑も忘れて星歌が呆然と立ち尽くす中、山田リョウは、街行く人々の視線など眼中なく思案に耽った。

 ――とりあえず郁代を送り出したが、彼女は無事ひとりの元へ辿り着いてくれるだろうか。

 ――虹夏はどこへと消えてしまったのだろうか。

 ――今、私に、何ができるだろうか。

 ――――…………。

 立ち止まることが今一番の落手だと頭では理解してはいるのだが、未知に触れ、その暗闇の先に光があると信じること――それがこれほどまでに難しいことだったのかと畏怖で考えが固まっていた。

 その脳の凝固は、星歌がリョウの肩に触れるまで続いた。

「――おい、大丈夫か」

「……あ、うん…………」

「――喜多ちゃんは走っていちゃったけど……リョウは、どうする? お前も行くのか……? な、なぁ警察に、虹夏のことを相談しに行った方がいいのかな」

 リョウが振り向いた先にあったのは、心配を通り越して感情がぐちゃぐちゃになり顔が強張っている星歌だった。

「――――――!」

 忘れていた、いや、思い込んでいた。

 今まで無意識的に自分たちだけが苦しさを味わっていたと考えていた――だが、それは半分の事実。

 虹夏が「普通」から「普通でない」状態になった時、一体どれほどの孤立感を味わったことだろう。

 人に話せない。人に相談できない。

 だって、この世界は、その状態を誰しもが理解できて寄り添える、強い世界じゃない。

 それでも、来る日も来る日も彼女に向き合ってきたのは、星歌は強くたゆまず信じているから。

 リョウはいたたまれなさに心臓をキュッと締め上げられて、視界がぐらついた。

「リョウはもぼっちちゃんのところに行きなよ。後は私とPAに任せて。そう――」

 ――いつもみたいに、大丈夫だから。

 彼女の声は終始優しいものだった。しかし、最後の言葉が胸に刺さって抜けない。私が彼女の中に見た虚像が、これまでの恨みをぶつけてきたように感じて。

 これは全部「自由」の結果。

 私の「自由」。彼女の「自由」。誰かの「自由」。

 私は私の「世界」では絶対的に正しい。でも、他者の「世界」と交わった世界では?

「はぁ……」

 リョウは自らを呪うような息をこぼす。そして、こう続けた――

「私が探す」

「――え……」

「私が探すから!」

 たとえ「自由」の一側面が苦しみそのもので、それを如実に味わい続ける運命だとしても、私は私の道を貫く。

 それが私の「無」。未知と不可知の霧に閉ざされた、森を抜けた先にある月光だ。

 

 皮肉にも星歌をスターリーで開店前作業をしていたPAに預けて、リョウは下北の街へ走り出した。

 電車で移動されていたらお手上げなので、そうなっていないよう願うのみ。当ては……あるにはあるのだ。それも、彼女が彼女のままであるならに限るが……。

 走っていては埒が明かないので駅前で電動アシストつき自転車をレンタルする。それにいざ乗り込もうという時、郁代からロインが来た。

『さっきは急に行っちゃってごめんなさい! 虹夏さんが見つかるように全力で祈ってます! 見つかったら一緒に江の島に来てください!』

 既読がついたことは見えるだろうから返信はせず、リョウはパンツのポケットに押し込む。

 彼女は彼女の、私は私のやれることをやるだけだ。

 サドルに跨り、ペダルを踏み出す――。

 

 まずは虹夏が通っているという病院までの道を確認していく。

 店、車、歩行者、自転車、路地の先、病院の敷地、探せる範囲の院内――いない。

 ペダルは軽いが、これだけでかなり体力を使ってしまった。

 リョウはなけなしのお金で飲み物を買い、生気を取り戻す。

「――よし、まだ大丈夫。まだイケる」

 帰り道も同じように探しながら、次は結束バンドとゆかりがある箇所を見て回る。

 階段、駐車場、商店街、居酒屋、公園、あの壁があった場所――いない。

 まさかここにも見当たらないとは……。予想が大外れした。

 残る候補はあと二つ。

 今の時間が午後二時だということを鑑みるに、もう約束には間に合わない。それに自分の体力も限界に近い。高尾山を麓から登ったから余裕だろう――そう考えていた自分を殴りたくなる。

 不幸なことに、二つの場所はそれなりに離れている。

 もし次の場所で見つからなかったら、今日中に私が虹夏を探し出すことは不可能に違いない。

 どちらへ向かうか悩むと同時に、その時間で少しでも体を休める。

 ――秀華高か、下高か……。

 二者択一。答えは一つ。

「…………ふっ」

 私自身と彼女の面倒くささに辟易し、苦笑しながら、リョウは答えを心に決めた。

 ――これで終わりということは何もない!

 

 

 午前十一時半。

 病院からの帰り道、伊地知虹夏――「私」は「わたし」から問い掛けられた。

『今日も廣井さんに合わなかったけどいいの?』

「いいんだよ、あの人は――。あの人は自分で未来を選べる人間なんだから」

 彼女の「また来週」という言葉から、逃げて逃げて逃げ続けて……分かった理由がある。

「私は私の未来を信じられない、信じる権利なんてない。だから、廣井さんとは相容れないし、彼女の未来に後悔を残して欲しくないから、何か「起こす」前に手を切ったの。分かってて聞く?」

『大事なことだよ。「私」に「わたし」が見えるようになった理由に繋がるんだから』

 「私」は驚いて歩みを止めた。

 「わたし」は「私」と初めて会話したあの夢から、「私」の視界の中で実体を持ち始め、最近では話題に上がった病院での「出来事」の際など、本質的私自身にも影響を及ぼすようになっている。気にならないはずがない。まさにエサであっても、それ自体に抗う方策はないのだから。

『まだ語るには早いかな~』

「あっそう」

 へらへらと笑う「わたし」に、「私」は素っ気ない返事をしてまた歩き出す。その方向は駅、それから家の方向とは異なり始めている。

『結局、そうなっちゃうんだ。「わたし」だって私の一部なの忘れてるよね?』

「そうするのが一番だって、今は思ってる。一蓮托生、一蓮托生」

『今は、なんだ』

「――――」

 …………。

 ……………………。

 私は無言で歩き続ける。

 答えのない永い途で、徒労だと知りながら答えを求め続ける愚者のように。

 すべてに見覚えがある街――空の色も、アスファルトの色も、すれ違う人の笑顔も、幾度となくみんなと見てきた。でも、私の視線の届かないどこか遠くの国のモノであって欲しかった。あらゆるものに目が移って足の進みが鈍る。

『きっと今頃、リョウと喜多ちゃん、それにお姉ちゃんが「わたしたち」のことを探し回ってるかもよ。今日は江の島に行くってロインで言ってたから。私も連れ出そうって迎えに来てるよ、たぶん』

「分かってる。分かってて逃げてるんだから」

『一応自覚あるんだ』

「はぁ……」

『はいはい、「あそこ」につくまでは黙ってるから』

 その宣言通り「わたし」は静かになった。

 …………。

 無駄な思考を挟まなくてよくなったためか、始まりの「過去」の地へすぐに到着した。

 そう、東京都立下北沢高等学校――通称、下高に。

 

 虹夏は事務室で入校証を受け取って首に掛ける。事務室のガラス越しに見える壁掛け時計の針はちょうど二時を指していて、三日前にダメ元で取りつけた見学の予告時間ピッタリだった。

 外履きを来客者用の下駄箱に入れ、玄関框の上に置かれたラタン風のかごから、組み合わされたスリッパを取り出して片足ずつ履く。こんな年齢になってから母校へ来ることになるとは、人の生の因果はまったく分からない――そんな感想が思い浮かんだ。

 向こうの話では手隙の教師が学校を案内してくれるらしいが、五分過ぎてもやってこなかったので勝手に見て回ってしまおう。本当はダメなのだろうが、教室を避けていればそこまで問題にならないはずだ……。

 パタパタとスリッパ特有の足音を鳴らしながら誰もいない廊下を進む。不思議な静けさに今は授業中――だと思っていたがそれもどうやら違うらしく、過去の記憶を引っ張り出して考えると、恐らく今頃は期末テストだったような気がする。生徒がいないタイミングだから許可が下りたのか。

 ――――――。

 背徳感と異物感をひしひしと味わいながら、特別教室の前を通る。

 音楽室に美術室、在学中は何とも思っていなかったが、改めて来てみると懐かしく感じた。ライブハウスでの思い出の方が多いと思っていただけに、少し驚く。

 教室付近にまで足を伸ばした時、ちょうど五時限目の終わりを告げるチャイムが鳴ったが、大勢が動く気配はしなかった。予想は当たっていたみたいだ。

 夢にも見たあの教室の前を通り、階上、階上、階上へ――登る。

 最近の学校では極めて特殊な場所へ繋がる階段であるのに、埃の一つもなかった。それは――昔と同じようにあの場所を利用する生徒がまだいるという、最高の状況証拠に他ならず、かの景色をもう一度眺められる期待で胸が破裂しそうだった。

 ――――――――。

 ――――――――――――――――。

 最後の扉には、運のいいことに鍵が掛かっていなかった。

 ドアノブをゆっくりと回す――――光が見えた。

 ――屋上。

 普通の学校はそもそも閉鎖されている場合が多い場所。高いフェンスに囲まれた聖域。

 そして――元を辿れば結束バンドが始まった地。あの時はリョウと私の二人だけだったけど。

 膨れ上がっていた期待感など、まるで足元にも届かない――ついぞ目にすれば様々な感情が入り乱れて打ち消し合い、ゼロになってしまった。

 もう少しもすれば橙の光が落ちる景色。頭が空に満たされ、目に映るものがただのモノに感じる。

 虹夏はフェンスまで進み、その金網を強く握った。ガシャンとそれがたわむ音がする。限らず、ここは風の音もうるさい。

 瞬きをしたコンマ数秒――再び瞼をあげた時にはフェンスの向こうに「わたし」が立っていた。ギリギリ落ちない淵にいる。

『どう? 見たいものは見れた?』

 「わたし」はそう言うと、まるで小学生の下校のように、校舎の縁を両手でバランスを取りながら移動し始めた。

「ひやひやするから、こっちに戻ってきなよ」

 真に命がないとはいえ、目の前で自分と同じ顔をした人物が転落したら寝覚めが悪い。しかし「わたし」は聞く耳を持たなかった。

「――――」

 「私」も「わたし」の動きに合わせて、屋上をぐるりと一周する。

『ねぇ、「わたし」に対する印象を答えてよ』

 唐突に尋ねられた。素直な感想を口にする。

「ドッペルゲンガーなのに、「私」のことを殺さないんだ、って感じ」

『それだけ?!』

「それだけ」

 お話の世界でしか見聞きしないことなのだから、感想なんて大して浮かばないものだろう――と半ば冷笑的に考えていたが、これまで過ごして来て感じた矛盾があったのを思い出した。

「そういえば、「私」は「わたし」のことを最初は利他的な人だなって思ってたけど、この間の病院では私と「私」のために動いてくれて、ちょっとよく分かんなかくなった」

 だって常に理性で利他的に動くのなら、もっと他に手があったはずだ。例えば、病院でおかしくなったことをダシにして、みんなからさらに距離を取るだとか。「わたし」が言った、無為を受け入れることを成就させたいのなら、あまりにも目的地までの道がぐちゃぐちゃしている。

『いい目のつけどころだねぇー。じゃあネタ晴らし時間だ~! って言ってもアレだけどね』

 「わたし」はそう言うと、やっとフェンスを透り抜けて内にやって来た。「私」と正面から向き合う。

 軽い口上だったために、内容もそんな感じなんだろうと勝手に値踏みをしていたが、温度感に困惑するぐらい「わたし」は急に神妙な空気を纏って話し始めた。

『「私」はさ――魂の存在って信じる? まぁ信じてなくても話は進むけど。――とにかく、魂という実体のない便利な物質があったとして、その周りを包んでいるのが心、ガラスみたいな心でね。それは生まれた時は傷一つない玉みたいなものだけど、生長するにつれて傷がつき、それが広がり、交わった人の数だけ割れ目ができるの。それを外側から見ると魂が歪んで見える。それも一つのピースごと別々にね。逆も同じ。欠片は一つ一つ、大きさ、厚み、重み、が違って。だから自身と人とのつき合い方がそれぞれ違うんだ。それで……少し話はズレるけど、この構造を踏まえて、人間同士交わった時にどんなことが起きると思う? 答えはいいや。正解は、「歪む」。魂と魂の間に二枚の歪んだガラス片が挟まることで、人間の核通し最初は喜怒哀楽みたいな簡単な感情を向け合っていたのに、歪んで変わってしまうんだよ。「期待」ってやつに。極端な話、殺人行為だって、相手に死んで欲しいという「外側への期待」か、殺してしまいたいという「内側への期待」でしょ。だから人間は期待をしてしまうことから逃れられない、そう思うの「わたし」は。――んで話を戻すけど、「わたし」が「私」に言ったこと、したことは、本当はどうだった? 心から望んでいたことだったんじゃない? そうしなきゃって思っていたことの背中を押したのは誰だった?「私」は「わたし」のことを自我が分裂した存在だって考えてるみたいだけど、実際のところまったく違うよ。「わたし」は私がそうありたいと思う「期待」そのものなんだ――これは初めて会った時にも言ったと思うけどさ。私が思い詰めに詰めて、自分の内側を見過ぎた結果、みんなを想う気持ちと願いが歪んだ期待に変わってしまって、それが……「わたし」になったんだよ。ぼっちちゃんみたいにもっとポエミーに言えば、「わたし」はガラスで屈折した光――ってところかな? あっそうそう、私の過去を懐かしむ気持ちが「わたし」を高校生の姿させたのであって、この歳になっても制服を着たいからじゃないからね! 名誉のために言っておくけど』

 「わたし」は「私」に語り聞かせるように雄弁に語り終えた。簡単に飲み込めるものではなかったが、飲み込めないなりに疑問が浮かんできた。

「本当にそれが真実だったとして、じゃあ「私」ってどういう存在なの?」

 想定済みの質問にニヤニヤとする「わたし」。いい質問だね、とだけ言う。

『――そうだね……、「現状」って言ったら一番近いかな。自分の至らなさに嘆いてる私そのもの』

「…………なら、「私」に変わって「わたし」が私になった方がよくない? 「わたし」は私のなりたい姿――みたいなものだし」

『それには同意できないね』

 はっきりとした口調で「わたし」は「私」の提案を跳ね除けた。

「……「わたし」がそう思ったって、最後に残るのは――二人に一つ。そうなんでしょ?」

『――――。――本当ならこんな風に「期待」と「現状」、「まだ訪れていないもの」と「今あるもの」で、相性は最悪なんだけど……。今まで仲良くやれてきた――どうしてだろうねぇ?』

 癪に障るようなワザとらしい口調。完全に「わたし」の手口だ。乗せられないよう、「私」は白々しく咳払いをし、落ち着きを払って「わたし」に訊き返す。

「……どうしてなんですか?」

『簡単なことだよ、私が「現状」に期待してるから――そして、それ以上に「私」は救われたいと思ってるから』

「――――そんなこと思ってない……。「私」は救われちゃいけない人間だよ」

『め、面倒くせぇ……。「私」ってすごい面倒くさい人間だと自分で思わない?』

 「私」は強制的に冷たく、悲観的な思考に切り替える。そうでもしないと――――。

『だって未練たらたらじゃん。今日だって、いろんな思い出が詰まってる下北を見て回ってから、下高まで懲りずに来てさ。本当はダメだって判ってるのに、勝手に校内を探索して、屋上にまで登って来て。はっきり言って拗らせ過ぎでしょ』

「――う、うるさいな! こっちはこっちで必死に悩んでるの知ってるでしょ!」

 「私」は、あ、と口を大きく広げて固まる。私は無にしかなれないと思っていたのに……。

『うん、それは知ってるよ。よく知ってる。だから「わたし」が――』

 「わたし」は「私」で、「私」は「わたし」。

 「私」は「わたし」で、「わたし」は「私」。

 ――救ってあげるよ。

「――?」

 あまりに優しい声に脳がバグを吐いて、思考が止まる。そして、瞬きをした次の瞬間――

去る過去を封じ込めた遺影のように、優しく笑う母が目の前に立っていた。

『こんなに大きくなったんだね、虹夏』

 ありえない……。ありえないことは理解している。

 でも、目が離せない。

 脳が見せた幻覚だと、もう一度母親に会いたいという「期待」が見せた虚構だと――解っている、のに。

「――うん。お酒だって飲めるようになったんだよ……。お母さん」

『そう……。一緒に飲みたかったなぁー』

「――――」

 今度は目を合わせられなくなった。「もしも」を考えてしまったから。

 もし――母が生きていたら、一体どんな人生になっていたのだろうか。

『悲しんでくれるのは、嬉しいよ虹夏。――でも……お母さんがいなくなってしまったからこそ、できたこともあったでしょう?』

「それは――――」

 認めることを憚られるが、そうだ……。

 母親が亡くなったから、星歌の眼差しが家族に向くことになったし、私がドラムを始めることになった。そして、ドラムがあったからみんなに出逢えた――。

 どれもこれも今の私を作る、取り返しのつかないもの。

「――でも、それでも……! それでも……、もっと一緒にいたかった……っ!」

『ごめんなさい――お母さんには、それしか言えない。虹夏を残して逝ってしまってごめんね』

「……そう、じゃない…………」

 そんな言葉が聞きたかったわけじゃない……。でも、それを「私」は「期待」しているの?

「分からない。分からないよ――。私が今、何が欲しいだなんて……」

『――そうだよね……分からないことだらけよね。お母さんだってね、あれで人生が終わってしまうなんて、思わなかった。でも、悪いことばっかりじゃなかったよ。お買い物も、洗濯も、なーんにも家事やらないで虹夏と星歌……あと、お父さんのことも、好きなだけ見守れたし』

 茶目っ気を込めて母は言う。

 天真爛漫――そんな言葉が似合う母に対して、「私」は何と返せばいいのだろう。何を言えば正解なのだろう。真っ直ぐ母の瞳を見つめ返しても、答えはどこにもない。あるのは星のようなきらめきだけ。

「――――――」

 「私」が黙りこくっていると、母が「大丈夫」と優しく抱きしめてくれた――いや、実体がないのだから、抱きしめるなんて幻肢痛みたいなもの。だけど、とにかく無上なる温かさが身体を包んだ。

『分からないときは立ち止まってもいいの。頑張った人には、頑張った分だけご褒美が必要でしょう? 「救われたい」、そう思うことはすごく自然なことなの。誰も虹夏のことを責める人はいないわ。お母さんも、星歌も、お友達も』

「……みんなのこと、知ってるの?」

 虹夏は、母の胸の中で子供のように訊いた。

『それはもちろんよ。だって、ずっと見守ってたって言ったじゃない』

「それも、そうだね……」

 お湯に浸かり続けた肌のように、心がふやかされていく。

『お母さんね、死んでから気づいたことがあるの――「生きる」こと自体には意味がないって。でも、「生きていく」ことには意味があるって。ただ歩くよりも、道端の花を数えながら歩いた方がずっと楽しいでしょ? それと同じだなぁって思った』

 まだ生きてるうちに気づけたら、もっと違う結末だったのかも知れないけど、とつけ足す母。生きてたらなんて寂しいこと――――。

『……お母さんも虹夏も、いろんな人からたくさんの贈り物――そうねぇ、喜びとか悲しみとか、懐かしくて綺麗な思い出だとか、そういう胸の真ん中で重みがあって温もりをくれるもの、をもらってる。それに値段なんてつけられないけれど、その価値は、必死に前に進みながらでも小さな花に小さな幸せを感じられるからあるもので、今まで残してきた足跡全部に意味があるからなんだよ?』

 母が何を伝えようとしているのか、理性じゃなくて心で分かり始めてきた。そして、この言説が「私」の中にある何に対しての回答なのかも。

「――だから私は空っぽなんかじゃないって、こと?」

 母は、そうだよ、という代わりに「私」を包む腕にもう少しだけ力を込めた。

 「私」の「期待」が一体何なのか、今なら分かる。言葉にできる。

 ――ああ私はただ母のように、誰よりも近い人――「家族」を愛したかった、愛されたかった。

 たとえ、大人になり切れなかったとしても。

 たとえ、虚しさに苛まれたとしても。

 たとえ、自らの信念――『結束』にがんじがらめになっても。

 それだけ、な気がする。

『そうそう、心の声をしっかり耳を傾けて、心のままに進んで。もう少し虹夏は周りに「期待」してもいいと思う。虹夏だって、お母さんだって、人間誰一人完璧な人なんていないんだから、できないことはできないって、周りに「期待」してもいいの。もちろん、ちゃんと努力をした後でね。最初から投げ出すのはダメ』

「――うん」

『虹夏は昔から……ほんと、いい子だね』

 母はそう言うと、「私」を抱きしめていた腕を緩め、手を「私」の肩に置いた。

『ほら、そんな顔しないの。お母さんは、もう虹夏は虹夏だけの「星」を見つけたってこと知ってるよ? なら、どんな時でも道に迷わないはず――だって虹夏が歩いた場所が道になるんだから。――でもたまに、どうしようもない真っ暗な夜だってきっとあるでしょう。そういう時は、お母さんが虹夏のために途を照らすから。いつまでも変わらず空を見上げてね? 約束だよ?』

「……じゃあ、ゆびきりげんまん、する」

 「私」は幼稚園児に戻ったかのように、頬を膨らませ不満を露わにし、小指を母へと向けた。それに母は笑いながら小指を出して、組み合わせる。

『「ゆびきりげんまん、うそついたら針千本飲ーます! 指切った!」』

 母も「私」も、二度目の永訣を惜しんでいるのか、この不思議な余韻に浸っているのか、ただ心地い風が流れるばかり。「私」が口を開くまでの数十秒間、大地はゆっくり回っていた。

「これって、全部私の頭の中でのこと、だよね?」

『そう――でもだからと言って、悲しいことじゃないと思うなぁお母さん。だって、虹夏の心の中にお母さんがちゃんといるってことなんだから。これ以上嬉しいことはないわ』

 それもそうか、と「私」の胸にすんと落ちて、ふふ、と笑いがこぼれた。

『この世のすべてはいずれ終わって、変わり続けていく。その時、もしかしたら虹夏の「世界」を丸ごと変えてしまうことがこれから起きるかも……ううん、もう……起きてたね。…………でも大丈夫――ほんの少しでも前へと進もうとすることは、全部正しくて、全部美しいことだから。安心して自分の望みを言って』

 友達なんか困らしちゃいなさい、と母はつけ足す。少し乱暴な考えに、私と星歌に流れているルーツを見つけて嬉しくなった。

「「私」が今、したいことは――。みんなにして欲しいことは――……」

『だめだめだめだめ! それは、みんなに会ってから言って、ね?』

「う、うん……」

 母は「私」から目を離すと、屋上の景色を眩しそうに見ている。娘の成長を実感している本当の愛母のようで、ハリボテだと分かっていても――やっぱりだ。

「ねぇお母さん」

『んー?』

「お母さんがいつも見守ってる場所から、私たちのこと光って見える?」

『さあ、それはどうでしょう?』

 海外のドラマみたいにおどけて答える母。このやり取りで「私」は悟ってしまった。

「もう――――なんでしょ」

『そう――――時間だね』

「……これからも頑張るよ。きっと、私は私で、みんなはみんなでいた方が絶対に楽しいから」

『うん。ちゃんと毎日ご飯を食べて、睡眠をとって、たまの息抜きもするんだよ』

「ちゃあんと覚えとく」

 最後の言葉を言いたくない。言いたくない。

 でも、言えることは、幸せなんだって、私は知ってる。だから――。

「さようなら。お母さん。私はお母さんの子供になれて幸せだったよ」

『私も虹夏のお母さんになれて最高だった――――だから、いきなさい』

 母は母らしくはにかみながら、私の心臓の上あたりを、とん、と押して、瞬きのうちに消えていった。もう「わたし」の声すら聞こえなくなった。

 だけど、不思議と聞こえていた時より、私は独りじゃない気がした。

 

 

 屋上に繋がるドアの隙間から差し込む光を見つけて、山田リョウは一息に階段を駆け上がった。階段だらけの我らが学び舎に、ふくらはぎがもう限界に達しようとしているが、関係ない。直感が告げているのだ――扉を開ければ虹夏がいると。

 リョウがクリーム色に塗装された重い金属の扉を開けると、何も、そして、誰もいないところで虹夏が独りでにに後ろへ倒れそうになっているところだった。急いで駆け寄ってその体を支える。

「――やっと……、見つけた」

「……え? リョウ、なの? 本物? 幻じゃなくて」

 虹夏は感謝の一つも言わずに、リョウの顔や肩をぺたぺたと触りたくってくる。これだけ苦労して、心配して探し回ったのに――と少なからず憤りが湧いたが、すぐに溜飲が下がった。なんと表現すれば正しいのか――まるで湿気を吸っていた布団を天日干ししたかのように、彼女が纏う空気感が前に会った時とは比べ物にならないほど軽くなってたのだ。無論、気分を病んでしまう以前には戻り切れてはいない。だとしても、大きな一歩だった。眉が開く思いだ。

「本物だよ。ほら立って」

「……あ、うん。ありがとう」

 リョウは虹夏の手を取って、立ち上がらせる。

「でも、よく分かったね。私が下高にいるって。誰にも行き先は伝えてなかったのに」

「はあ……。い・ち・お・う、長い付き合いだから。あと店長、こっちが心配になるぐらい虹夏のこと心配してた。い・ち・お・う、伝えておく」

 リョウは、彼女に家族の話題を出したらまた気が沈んでしまう、そんな気がしていた。昔から触れていいのか分からないセンシティブな領域だったし、彼女自身もそれに執着している節があったと思ったから。しかし。

「そうだね。悪かったと思ってる。もちろん、リョウにも、喜多ちゃんにも、ぼっちちゃんにも」

「――う、うん」

 私が何かしなくても大丈夫だったんだ――そう考えてしまって少し寂しくなる。いいことなはずなのに。調子が狂う。

「ねぇリョウ、なんか私を連れて行きたい場所があるんでしょ? 早く連れてってよ」

 その場所とはひとりとの待ち合わせ場所のことだろう。郁代と相談さえしたが、いざ彼女と相対してみると、そんなに遠くに行って体に支障は出ないのだろうか、と過る。私は医者にならなかったから分からないけれど。

 無理してない? というリョウの念押しも込めた問い掛けに、虹夏は淡として「全然」と答える。

「なら――……。なら、校門のところに自転車停めてあるから、それで駅行こう」

 リョウは「下」とジェスチャーを交えて話し、それに虹夏は「りょうかーい」と返す。

 かなり迷ったが、自分の範疇でできることをする――それが一番私らしいというものだろう。連れ出すと決めた以上、途中で星歌には連絡を入れないといけない。

 …………。

 事務室で入校証を返す際、規則ではダメだったようだが親切にも貸してくれた事務の人に、こっぴどく叱られた。一般的なことから、今の学校事情に至るまで網羅的に怒られた。そして最後には、「命に係わることだから許しましたけど。次はないですよ」と釘を刺される始末である。

 そんな〝次〟には二度と会いたくないな……、とリョウと虹夏は校舎を出た。

「虹夏は、なんでここに来たの?」

 自転車へ向かう途中、リョウはふと虹夏に訊く。こちらとて予想した中にあった場所ではあるから、完全とはいかずともそれなりの理由は分かる。だが、彼女の口から直接聞く、これが肝要なのだ。それだけが、彼女の真ん中に触れることができる。

「――たぶん……いや、それは言い訳か……。私はただ結束バンドの最初の景色をもう一度見たかっただけ、だと思う。リョウは覚えてる? 私がリョウにベースやってって頼んだ日のこと。今日はあの日みたいに曇りじゃないし、私たちも立派に大人な年齢になっちゃったけどさ。……悲しいんだ全部が。足を伸ばせば届く場所だけど、決して手を伸ばしても手に入らない」

 私はずっと私のままなのに笑えるよね、と虹夏は影のない笑顔で言った。

「そうだね」

 人生そういうことばかりだとリョウは肯定する。頭ごなしでなく、言葉としての強度を持って。

 彼女の話を受け止めていたら、無造作に止められた自転車に辿り着いていた。

 まずはバッテリーの残量を確認する。もし電源がつかなかった場合、それはただの枷に変貌してしまう……。

「まだ結構ある……うん」

 リョウが手短に確認作業を終えて顔を上げると、虹夏が何とも物欲しげな瞳でこちらを見ていた。

「ね、お願いがあるんだけど!」

「嫌」

「まだ何も言ってないじゃん」

「虹夏重いから無理。誰かさんのせいで、こっちはもうへとへと」

「うぐ……っ」

 痛いところを突かれたと口ごもる虹夏を後目に、リョウは自転車の鍵を差し込んでスタンドを上げる。そして、そのまま押してタイヤを転がした。しかし、どうしてレンタルサイクルでママチャリ……。そんなんだから虹夏に荷台を狙われる。

「ちょっと、ちょっと」

 置いてかれそうになった虹夏が速足で追いついてきた。

「虹夏は店長に連絡入れといて。私は郁代にしとくから」

「…………」

 虹夏は何も言わず、自転車をちゃらちゃらと転がす音だけが耳に取れる音像としてある。仮に、テレビでこのレベルの空白が生まれてしまったら、即刻放送事故とネットで騒がれる長さ。リョウが横に歩く彼女の方をチラリと盗み見た時、その時やっと「頑張る」と一言だけ呟いた――――。

 さて、私も郁代に虹夏を見つけた旨を連絡しなければいけない。彼女もかなり虹夏のことを案じていたから、きっと喜んでくれるだろう。

 ……。

『虹夏見つけた。今からそっちに行く。もうぼっちには会えた?』

 メッセージを打って送って、再び前を見て、そしてまたスマホに目を落としたら、もう郁代から返事が返ってきていた。

『虹夏さん無事で本当によかったです!』

 彼女なら瞬時に反応しそうだと思っていたので、あまり速さには驚きはしなかった。が、その次の内容にリョウの口から自然に「マジか」と、驚きというより一難去ってまた一難を嘆く声が漏れた。

『乗ってた電車で人身事故が起きちゃったらしくて、まだ神奈川入ってすぐぐらいです……』

 画面左上の現在時刻を見る。

 ――十四時二十八分。

 もう絶望的だ。

『ぼっちには連絡した?』

『一応個チャにしましたけど、ひとりちゃん、最近既読つけてくれてなくて、見てくれたか分からないです』

 そういえば練習の時に言っていた気がする。これでは、行ってもいないかも知れない――生きてるか死んでるかの話で済んでいるシュレーディンガ―の猫以下のお話だ。後藤ひとりという猫は、箱にすら入っていないのかも知れないのだから。

『もうすぐ降りられるらしいので、降ります』

 既読をつけつつ、リョウはSNSで人身事故について検索を掛ける。

 場所は相模大野駅。どうやら今から大体四十五分前にことは起こったようだ。ちょうど自転車で疾走していた頃だから、私が知らなかったのも無理はない。

『どうします? 一旦相模大野集合で、タクシー飛ばしますか?』

 それはそこまで無事に行けるなら、の話。事故でダイヤが乱れている路線では現実的でない。

 どうしたものかと空を仰ぐ。

 きっと私たち同じ空を見ているのに――――。

「……あ」

「どうかした?」

「――いや別に」

 思いついてしまった。私にとって痛すぎる代償込みだが――そんなことを喚いている場合じゃない。

 リョウは腹を括る。

『私がタクシーでそこまで迎えに行くから。それでそのまま江の島まで行こう』

『お金大丈夫ですか?』

『あとで払ってください。お願いします』

『そうだと思ってました!』

 …………。

 ――となれば、善は急げだ。機は二度とこない。

「虹夏、乗って」

「いいの? さっきはあんなに嫌がってたのに」

「時間がないから、早くして」

 リョウはサドルに跨り、交通法規はなんのその二人乗り状態で爆走する。

 前言撤回、ママチャリでよかった。

 

 

 人身事故の騒々冷めやらぬ駅のコンコースで、喜多郁代は壁に寄りかかりながらリョウと虹夏の到着を待つ。地図アプリで下北沢駅からここまでのルート検索したら、だいたい四十分弱は待たないといけないみたいだ。私が最後にメッセージを送ってから、すでに二十分が経過している。彼女たちは無事にタクシーを拾えただろうか。抱える心配事が多過ぎて、イソスタを繰る指もやる気がない。

「やめやめ。イソスタを見てる気分じゃないわ」

 郁代はスマホを鞄にしまい、ただぼおっとして別の形で時間を浪費することにした。

 ――改札の前で心底困った顔をして駅員に尋ねる人。

 ――銀行のATMに並ぶ大勢の人。

 ――何を急いで通り過ぎる人。

 ――駅のポスター、チラシ、デジタルサイネージ。

 私たちにとっては今日は大事な日だけれど、他の人にとっては日常の中の一日に過ぎない。当たり前の事実を見て、郁代の気分は焦りから落ち着きへと変わった。

 落ち着いて、と「世界」にそう言われている気がした。

 柔らかな乳白色の電灯に身を預け、深呼吸する。

 ――――今はすぐ近くの未来のために考えましょう。

 例えば、虹夏やひとりに会った時に何を言えばいいかとか、「わからなかった」ことに曲がりなりにもケリをつけるということだとか。

 しかし、答えはとうに心の奥底に埋まっていて、シンプルを体現している。

 「私」、だ。

 より正確に言えば、「私」という人間性の内に「答え」があるのなら――何をしたって、どう考えたって「答え」は「私」について回る。傍若無人に私をしていれば、自ずと成る、ということだ。

 当たり前の蓋然的なものだが、すべてを分かった上で行動する人が果たしてどれほどいるか。一つ一つの物事に番のような答えは必要ない。ただ「ある」と分かれば、「ある」のだ。

 単純で純粋な感情ほど、より強く人間を動かす――それを理解していてあえて言葉にするならば――私は、虹夏も、ひとりも、リョウも、私も、そしてバンドも――好きだから。より好きになりたいから――という気づきそのままの結論になる。

 でも、細やかにわかった方がきっと嬉しいに違いない。

「はぁ……、私ってめんどくさ……。ひとりちゃんのせいでヘンに考える癖がついちゃったわね……」

 とにもかくにも、笑ってさえいればいい。笑っていれば、おまじないパワーでなんとかなる……!

 そろそろリョウたちが来る頃かと思い、時間を確認すると大して時間は進んでいなかった。とはいえ、約束の午後三時はもう過ぎていた。

「やっば、ひとりちゃんにフォロー入れなきゃ」

 して、時間に遅れてごめんなさい、とか、これからみんなで行くからもう少し待って欲しい、とか、もうやることはないと思っていたスタ爆を送ってみたが、やはり既読すらつかなかった。最後の連続通知で読んでくれないのは、相当な気がする。私だけでも先に行った方がよかったかな、と腹にずんと響く後悔――だけど、もう選択の猶予は過ぎ去っている。今はただじっと待つのみ。

 ――。

 ――――。

 ――――――――。

 駅の時計の長針が半を指そうという頃、リョウからロインが来た。

『もう直ぐそっちに着くけど、どこにいる?』

『中央改札前にいますけど、移動した方がいいですか?』

『大丈夫。迎えに行くから』

 迎えに行くから……迎えに行くから……迎えに行くから……。

「――はっ。危ない危ない。気を失いかけてたわ……」

 いつもカッコいいけど、今日の彼女は一味も二味も違う――。重みがあるけど羽みたいに軽い覚悟がある。それだけバンド――延いては、私たちのことを大切に想ってくれていること感じて素直に嬉しい。

 五分後。リョウが虹夏と共に南口からやって来たのが見えた。

 郁代は満面の笑みを浮かべて、大きく手を振る。

 虹夏とどう会話するか何度もシミュレートしたぐらい、内心いささかも穏やかではなかったが、遠くに見える豆粒大の彼女を一目見て、何があったか見当もつかないもののそれが杞憂だったということを知った。

「虹夏さ~ん!」

 郁代は虹夏に駆け寄ると、勢いよく抱きついた。郁代は気にも留めなかったが、あまりの勢いに虹夏は「うぐっ」と鈍い呻き声をあげる。

「き、喜多ちゃん……く、苦しい……」

「ご、ごめんなさい! 虹夏さんに会えたから、つい嬉しくなっちゃって……」

 郁代は慌てて虹夏の身体を離す。彼女の言葉の抑揚、ニュアンス、声色――それらから察するに、私が包み込む必要もなく、彼女は自分のトゲを小さくしてしまえたみたいだった。寂しさはもしかしたらあるのかも知れないけれど――よくなってくれたのなら、それが一番の幸せだ。

「私――虹夏さんがただここにいること、それだけのことが本当に……本当に嬉しいです」

 言うべきことは他にもあったはずで、考えてきたことはこれよりも多いはずで。それでも、胸を突いて口から飛び出したものは、あまりにも単純で混ざり気がなくて小さい子供でも持っている、人として根底にある色――それだった。

「……ごめ――ううん、こう言った方がいいよね……。ありがとう――私のことを気に掛けてくれて、私のことを想ってくれて。ずっと、もうずっと、前を見る資格なんて私にはもうないと思ってた。だから、喜多ちゃん――それからリョウが、諦めずに私のことを探し回ってくれたことが、同じように嬉しかった」

 さっきタクシーの中でリョウから聞いたんだけどね、と虹夏はこそばゆいようにつけ足す。その顔を見て郁代は少しだけ得意になりたくなった。

「……ううん、虹夏さんのためにやったことじゃない――って言ったらアレですけど、私がそうしたかったから、そうしたんです」

 心のままに動いただけ――後出しじゃんけんみたいなこじつけだが、私が好きな私になる、その終着点に辿り着くためには絶対に避けては通れない中継駅で、少なくとも間違ってはいないはずだ。

 虹夏は目を丸くして驚いた表情を浮かべるが、それもすぐに嬉しそうな恥ずかしそうな、微妙なニュアンスが混ざり合った笑顔に変わる。

 これが、いかなる誰かに指図されたわけでもなく、彼女と私たちの努力の先にしか生まれることのなかった情景だとすると、これ以上綺麗な景色を私は今後望むことができるのだろうか、と私は怖くなる。悪辣か慈悲か、先へと進み続ける私たちの目には目隠しが巻かれていて、手元すら満足に見えない日々の連続なのだ、無理もないけれど。だが、心配する必要はない。そう、例えば今のように。

「ほら、ぼっちのところに行くんでしょ。タクシー待たせてるんだから早く行くよ、郁代」

「ちょ、ちょっと! 大人しく歩くので、私の名前で遊ばないでください!」

「なーに、リョウ、やきもちでも妬いちゃった? ハグしてあげよっか?」

 虹夏はリョウに向かって手を横に大きく広げる。しかし、リョウは悩む素振りも見せずに、余計な時間はないから、とスタスタ元来た道を戻り始めた。それに郁代と虹夏は速足で追いつく。

「はいはい、私が悪かったって」

「ん」

「早く行きましょ」

 流れる人々の日常の一部をすり抜けて、一行は無言で近くで待ってもらっているというタクシーへ向かう。まだ日が落ちる時間ではないが、外のデッキに出ると風の冷たさに体がぶるっと震えた。

 私たちを待っていてくれた車に乗り込む。

 運転手の方からサービス、と受け取った三百五十ミリペットボトルの温かいお茶は、一口含めば身体の中に小さい火が灯ったようだった。

「……ふう」

 郁代は助手席で誰にも聞こえない嘆息を漏らす。もっとも、きっと未来はあたたかいものだと、今は信じるしか術はない。

 ――――待っててね。

 

 

 少し前。午後二時五十五分。

 集合場所は、江の島・弁天橋。

 普段ライブに出る時は邪魔だからと頭の後ろで一つ結びにしている髪を、無造作に風に弄ばせパラパラと一本一本の意志に依らせる。

 後藤ひとりは、橋の欄干に寄り掛かって目下に騒めく海を見ていた。少し先に見える防波堤には、何を待っているのかかなりの数のカモメが停まっては鳴いている。

 私の「世界」には、何もない。

 風に合わせて揺れる海面に、貼りつくような眩い光。信じていればこの身すら焼き尽くしてくれそうで、実際そう願っている。

「たこせん、まだあるかな~」

「あー、あのタコをツートンの力でなんちゃらするやつだっけ?」

「それを言うなら、二トンだし、なんなら一トンの力でプレスするやつだし」

 後ろの歩道を私と同じぐらいの年齢の観光客が、あはは、と友人と笑い合いながら通り過ぎていく。

 この場所ではよく見られる景色。私も高校一年の夏休み最終日に彼女らに連れられて来たことがあるから、私以外は「何の変哲もない」ことが分かる。

 絶えることのない人の流れ。

 自異類的。被排斥的。

 まるで賞を何度も取り評価されてきた古いフィルムを、ゴミに塗れながら画面が割れたスマホで見るような不甲斐なさと虚しさ。それから――自分はこの世界の住人ではないこと実感する。

 しかし、その孤独は私が欲していたもので、私の視点から見れば苦しさはあれど、悲しくはない――何せ、あの日から体現するように世俗から距離を取っていた。

 「    」――――。

 …………!

 久しく聞いていなかったコエに、ひとりの瞳は大きく開かれる。

 私の身体の中でのたうち回っている「私」が、和解の墓を突き破って内側から邪な感情を投げ掛けてきたのだ。驚かないなど無理に等しい。思えば、この間のビデオ通話の時もそうだった。

 願ってはいけない。思ってもいけない。考えてもいけない。

 そう心に決めて、縫いつけて、私をなるべき私に変えたはずだ。誰にも迷惑を掛けないように。だから、すでに存在を亡くした「私」というドッペルゲンガーがいまさら這い出てくる意味が分からない。私はこれで――満ち足りてるんだ。私は「私」を認めない。

 柔らかいものを心から取り除いて硬いものだけで心を覆った時、ひとりは遠雷のように響き轟く「世界」の溜息を聞いた気がした。

 

 午後三時。

 彼女から知らされた規定の時間。

 結論を端的に述べれば、ひとりの元へ誰も来ることはなかった。

 約束を反故にされ、裏切られた――そう考える自分より、どこかほっとしている自分がいる。

 もしかして彼女らは私へ連絡を寄越しているのかも知れないが、当の本人はスマホを家に置いて来たから事実は確かめられない。いや――「なぜ」を考えれば、私はこうなることを見越して望んで置いてきたに違いない。

 私はズルいやつだから。

 私は他人の影に潜む怪物だから。

 記憶と何も変わらない世界で、私は独り変わってしまった。

 何もかもが変わりゆくことを知っていて、私は独り変われなかった。

 想像しうる最高の結果との軋轢、ただそれだけだ。

 

 午後三時二十二分。

 かなり日が傾いて、私の顔を照らす反射光の強さが増してきた。あと一時間もしないうちに夜が訪れる。金沢八景でも見たことがある色だ。

 ――何故、私はまだ留まっているのだろう。

 誠実に考えれば、彼女らがもうこないことは分かっているのに、何が足を地面に固定する?

 ――何故、私はここに来たのだろう。

 愚直に考えれば、彼女らの幸せを真に祈るならこんな私はふさわしくない――それを分かっているのに、いかようが足を動かした?

 夢遊病患者のようにここへ流れついてから、ずっと考えていたことだ。その答えがなんにせよ、皮肉にも辿り着いたやるべき行動が「明るかった星」と同じものになるとは、私もどこか病気なんだろう。正直そっちの方が気が楽だ。本気で悩んでいる人には悪いが――人によって見える景色は違う。

 私が求める答えは不思議と近くにある気がする――――聞きたくないコエに。

 だからまだ――――。

 海から陸へと吹く風が強くなってきた。目は乾燥しようものだが、ならない。

 

 午後三時四十六分

 ……それは「タノシイ」ことでしょう?

 ……それは「ウレシイ」ことでしょう?

 ……それは「ウラヤマシイ」ことでしょう?

 吹き荒ぶ強風に混じっていよいよコエがくっきりと聞こえ始めた。

 ――認めたくない。

 それを見つけ出して日の元に晒すことは、同時に今の私の破滅と共にあることが必至であり、賽の河原のような虚しい永久を手に入れるだけになってしまう。

 ――私はまだ、失いたくない。

 止めどない時間の奔流に削られて宝石となった、比類なき言葉、感情。一種の偶像として、心の中で絶対的な占有権を持っているそれを手放すことなどできない。

 それは一つの「世界」の終焉だ。

 

 午後三時五十九分。

 ……それは「楽しい」ことに違いない。

 ……それは「嬉しい」ことに違いない。

 ……それは「羨ましい」ことに違いない。

 今日の朝から薄くしていた頭痛が輪を掛けて酷くなる。気持ちが悪くなる。

 もうこのコエが何を言いたいかは痛いほど解った。

 このコエの主は、傲慢にも過去の禍根に蓋をして、自分の魂のベクトルに従えと言っているのだ。

 内の「私」――これが私の人間性だとしたら、これが私の感情だとしたら――今すぐに海の藻屑にしてやりたい。私という存在に、誰かに救われて然るべきものは一切ないのだから。「運命」、「宿命」、そんなキラキラと輝いて見えるものと同じように、過ぎたものだ。

 

 午後四時十分三十九秒。

 …………………………………………。

 …………………………………………。

 …………………………………………。

 人間性、それから感情、この惨いことにも人を人たらしめるものは簡単には捨てられない――なら、最初からなかったらよかったのに。

 知ることは知的体としての本質。生きることは生命体としての本能。ゆえに、人は知ることと生きることから一生逃れることはできない。その二つの源が存在するからこそ、人は人たる所以である想像力を手に入れ、起こりうるすべてのことに喘ぎながらも、人と交わることをやめられない。

 だからこそ、この苦しみも悲しみも葛藤も、全部全部「人」のせいだ。

 でも――――。

 ……自責を極限にまで至れば、彼女たちを救えるとでも思った?

 ……「人」を捨てれば、自分を救えるとでも思った?

 ――そんな都合のいいことがあるわけない。私に直視するだけの勇気なんてない。

 私がこの世界に生まれ落ちた時から宙への道は絶たれている。私はどこまでいっても誰かの紛い物で、二番煎じで、脇役で、陰であり続ける。三原色の搾りカスだ。

 生きることがこんなにも苦しいと知っていたら、産まれたいとは思わなかった。

 世界は美しい――「世界」は汚れている。

 「ヒーロー」は美しい――「私」は穢れている。

「終わりにしよう……。陽が落ちたら」

 ひとりは何の感情も抱かず口から音を出す。人も動物も、応えてはくれない孤独な音。

 朝は回帰、夕は離別。

 過去も未来も、記憶も夢想も、すべては手に入らない青い芝生――諦めないなんて空虚な嘘は止めて、切り捨てられない人間性を、諦めることで別れを告げよう。

 それで、終わり。それでいいんだ。

 

 午後四時二十八分二十秒。

 人の生は、終わりがあらかじめ決められた一編の物語だ。

 一枚一枚ページをめくるごとに新たなことが書き込まれ、最終的に一つの本が完成する。ゆえに、生まれたばかりの稚児には白紙のページがたくさんあるが、寿命を迎えつつある老人には白紙のページは残り少ない。中には、ページを繰る途中で、それ以降のページを破り捨てたり、それ以前のページを燃やしたりする人もいる。しかしそれは、別に人の埒外というわけではない。極めて遵奉的な本来人間に備わっている自由意志のなせる業として選択肢にあるだけだ。

 すべての物事に終わりがあるこの世界で、自らの終わりを恣意的に選べるのは人間のみ。つまり、これも「高尚」な人間性の賜物のはずだが、人々はこれを嫌い、蔑み、徹底的に認めようとはしない。

 それはなぜか。「諦められない」からだ。

 すべての現在価値――生、生活、家族、友人、恋人、身分、役職、金、権力……挙げていけばキリがないそういうものに固執しているからだ。本質価値はゼロだというのに、だ。

 さりとて、端から固執することを否定する気は毛頭ない。

 だから「私」も自由で、「君」も自由。

 分かり合えることはないだろうが、干渉し合うこともない。実に円満な空だ。

 …………。

「……きっとそうなんだろうね――――」

 ひとりは自嘲気味に笑い、ポケットから折れ皺のついた一枚の写真を取り出す。

 以前ここへ彼女らと来た時に撮った写真だ。私以外はいい顔で写っている。

 もう間もなく陽が落ちるという時に、私は何をやっているのだろう……。

 時間だけは知れるようにそこらの百円ショップで買った腕時計を見ながら、ただ思う。

 「私」はもう諦めたのか、その声は聞こえない。もう少し説得してくれれば絆されていたかも知れないのに……もしかしたら、だが。

「はぁ……」

 ひとりは盛大に歎息をつく。茨の腕で私を抱き締める。

 ……。

 「私」が私として、ずっと彼女らの元へ帰りたいと思っていたことは知っていた。十年来の心地よいつき合いを、簡単に諦めることなんてできない――そういうことで。

 だがしかし、それはいささか虫が良過ぎる話だ。

 私がどんなに馬鹿者で、無力で、貪欲で、意気地なしで、厚かましいか、分かっているはずなのに。

 自分すらも騙せない理屈、感情で、半端な自分を取り繕うのは、何より彼女らへの侮辱だ。

 ――今までに何を成せた? 何も為せてはいないだろう!

 すぐ自惚れて、舞い上がっては、要らないことして「ヒーロー」たちに迷惑掛けて……。私がしたのは、いない方がマシなことだけだ。それに、得手不得手があるとはいえ、自分は無力だって嘆いた後にも、私は何も行動を起こそうとはしなかった。子供みたいに駄々をこねて、平気で嘘を吐いて。私は悲劇のヒロインにでもなったつもりだったのか? 万年モブの癖に。気持ち悪くて胃の中身が逆流してくる。

 こんな奴に諦めない資格も、信じる権利もあるわけない。

 嫌いだ、後藤ひとり。お前なんか世界で一番大嫌いだ!

 私なんかに……私なんかに、出逢ってくれなければよかったんだ! そうすれば、彼女たちももっと違う人生を歩めたはずだ。私一人がいなくなっても世界は大して変わらないのだから、絶対にそうだ。偶然が生んだ必然――なんて甘くて苦い。私が味わうべきものではなかった。

 こんな人間の風上にも置けない奴でも、私はとことん私のままで、変われない昨日と今と未来がこれからも続く――だから、要らない人間の「世界」の盤上ごとひっくり返してしまえばいいんだ。

 私という存在の無在化。

 どこか遠くへ、誰も知らない遠くへ行ってしまえ。

 ひとりはそう願うと、手にしていた写真を手放した。風に乗って視界の外へ運ばれて行く。

 終わりだ。もう落陽の時間だ。

「さようなら。私のすべて――……」

 あとは水が低きに流れるように、あるべき「最高のバンド」になるはずだ。

 ……。

 …………。

 しかし、唯一あってはならないことが起きてしまった。

「――――っと。ほら、落とし物よ?」

 ヒビが入って壊れかけた「世界」に、天衣無縫、完全無欠の三人が現れたのだ。

 

 

 午後四時二十三分。

 一行を乗せたタクシーは無事に片瀬江ノ島駅に辿り着いた。事態は一刻を争うため、リョウがタクシー代約二万円を一括で支払った。後で自分の分は払えと目で言っている。

「ありがとうございましたー!」

 車から降りながら、喜多郁代に続けて、虹夏とリョウもお礼を言う。下北沢からここまでとなるとかなりの距離だ。気持ち的にはお礼を言っても足りないぐらいだった。

 運転手は助手席の窓を開け、「友達、まだ待ってるといいね」とだけ言い残すと颯爽とこの場を後にした。郁代はその黒い車体が見えなくなるまで頭を下げていた。

「さ、ひとりちゃんを迎えに行きましょう!」

「おー!」

「うん」

 私も虹夏もリョウも、晴れやかに笑っている。

「じゃあ、走りますよ! 時間ないので!」

「おっけー」

 リョウの「足が攣る……!」という悲鳴を置き去りにして、郁代は出せる全速力で地面を蹴る。慣れない靴でこんな無茶をするものだから、恐らく靴擦れを起こしている痛みがあるが、治る傷なんて安いものだ。心の傷は一生つき合うことになるのだから。

 空の端に朱色を少し残して紺色が仰ぐ視界を埋め尽くす。優しく光る街灯に見守られながら、歩行者の間を通り抜けて橋を渡る。一つ向こうの橋に走っている車より速く走っている感覚。それにしても、今日はかなり海からの風が強い。そして、冷たい。この中を待たせてしまって、本当に申し訳ない。いまさら言い訳はしない。

 交番裏で地下道に入り、また地上に出る。また一段と空が単色になっていくのを五感で感じて、焦りが身体を支配する。

 道の両脇にある燈籠の龍の彫刻には目もくれない。遠くに見える江の島の灯台のイルミネーションにも心を奪われない。普段なら足を止めてしまっていた。しかし、今はそれよりも大事なことがある。

 島へ向かうカップルや仲間内の集まりが、まるで壁のように行く手を阻む。楽しい気持ちは分かるが、今は、今だけは広がって歩かないで。

 何かのダンジョンみたいに体を横にしたり、横にステップを踏んだり。公衆トイレの少し先、『江ノ島』と書かれた碑を目の当たりにできるところまで駆けて、足を止めた。

 橋の真ん中、ちょうど海と砂浜の境目辺りに微かなピンクのシルエットが見えたのだ。虹夏とリョウも彼女に気づいたらしく、小さく「あ……」、と声を漏らしている。

 彼女は約束を守ってくれた……。しかもこんな時間まで――。

 不安が得も言われぬ喜びへと変わる。

 この喜びを彼女へ伝えるため、私たちが来ることを信じて待っていた彼女に報いるため、先程よりもスピードをさらに上げて走る。しかし、彼女まであと三十メートルそこいらというところで、星空へ手を伸ばす虚ろな巨木のように郁代は立ち止まってしまった。

「ど、どうした!? 急に止まらないで……よ……」

 急ブレーキをかけた郁代に、虹夏とリョウが追突事故を起こす。だが、彼女たちも彼女の姿を見て、思わず言葉に詰まるようだった――。

 Ameから聞いた通り、ご飯だけは食べているようで体形は最後に会った時と大きな変化はないものの、他が酷かった。最近は結んでいることの方が多かった髪は、高校生の時のように結ばれておらず、それもボサボサパサパサ。服も見覚えのある上下ピンクのジャージ一枚で、おおよそこの冬の風の日にする格好ではないことは火を見るよりも明らか。そして、極めつけはオーラ。橋の欄干に突っ伏す彼女からは、いわゆる浮浪者のような近づくことを躊躇わせる雰囲気が滲み出ていて、傍を通る観光客も彼女の間合い――一メートルぐらい距離を取っているのだ。彼女自身がブラックホールになってしまったかのように、周囲の空間を淀み切った空気で歪曲している。あの反光的な渦に飲まれてしまったら、それはもう……、「なくなってしまう」だろう。

 郁代たちが立ち竦んでいると、後ろから声を掛けられた。声の主は制服姿の警察官だった。

「君たち、あの人の知り合い? ……ああ、私はあそこの交番の警官でね、日ごろのパトロールの一環として、有り体に言ってしまえば「変な人」に声を掛けているのだが……。彼女は昼の十二時ぐらいからあそこにいて、職質掛けてもただ「友達を待ってる」としか答えないし。強制的に連れて行こうとしてもねぇ、ほら、今の時代はあれでしょ? すぐSNSで拡散されちゃうでしょ? そういうの困るんだよね。だから、彼女が何をしでかしても大丈夫なように見守ってあげてたんだよ。君たちが、その「友達」なら早く行ってあげてよ」

 ――――は?

 制服姿のこれの話を聞いて、郁代の頭中は不快感でいっぱいになった。後ろの二人からも声には出していないが相当な怒りを感じる――それも昂る方ではなく、冷める方の。

 これは私たちにフレンドリーに接しようとしているのか、不思議な言葉の使い方をするのだが、トイレの嫌な臭いが単純な香りだけでは消せないように、威圧感と軽蔑感、そして惰性感は、気持ちの悪くなるほど腐った眼光から見て取れる。

 早く行って欲しいなら、私の、私たちの、邪魔をしないで。

 それにしたって何が「しでかしても」だ? 何かが起こった後では遅い! しかし悔しいことに、これが連れて行かなかった結果に今の状況がある。無駄な正しさが癪に障る。

 郁代は「私はオトナ」と自信に暗示を掛けてから口を開いた。

「ご迷惑をお掛けしました! あとは私たちに任せてください! それと……、早く私たちの視界から消えてください。目障りです。分かってくれましたか?」

 これは心底不快そうな顔をして小さく舌打ちをし、「これ」から「それ」に、「それ」から「あれ」になった。

 顔も声も笑いながら、オブラートに包まず冷たいことを言う――なかなかスッキリした。後ろの二人も晴れやかな顔をしていた。

 さて……。

 ちょうど人が捌けて周りには誰もいない――〝よにんぼっち〟の世界で、郁代、虹夏、リョウは目と鼻の先にいる彼女と対峙する。彼女は手元に意識を向けていてまだこちらに気づいていない。

 最後に別れた駐車場と同じ、私は街灯に射され、彼女は暗闇に射されている。

 みてくれとしてこの状況が似ていたとしても、あの時の自分とは違う、もう迷わない。

 分かった――あれ程まで昂った彼女の扱い方が=根っこは私と同じなんだ。

 判かった――私と彼女の境界線が=いつの間にか溶けていた。

 解かった――私が感じている痛みの意味が=ただ「あなた」が大好きなんだ。

 自分から踏み出せなかった一歩を、今度は一人ではなく三人で踏み出す。

 一歩、また一歩。近づいていく。

 さっきは聞き流したが、正午からここで待っていただなんて尋常じゃない。もしそれが私たちに文句を言うためだったとしても、来ると信じて待っていたということには疑う余地もなく――それは根源的に同質で、私と私たちが返さないといけない、何よりも尊くて重い、愛そのものだ。

 触れられなかった影、届かなかった光――私たちの「ヒーロー」と――――

きっとまた、心を重ね合わせられる。

 言葉を尽くして、意を尽くして、心を尽くして、魂を尽くして、愛を尽くして、全身全霊なら。

 …………?

 ふと吹いた強い風。

 彼女は、見計らったように手に持っていた紙から手を離した。しかし、それは海の方へ行くことなく、運命の導きか、ジャンプすれば届きそうなところに流れてきた。

 郁代は思い切り跳んで、見事掴み取る。その目立つ動きが視界に入ったのか、ついに彼女がこちらを向いた。その目は驚きと喜びと悲しみと落胆と……、数えきれないほどの色で染まっていた。

「――――っと。ほら、落とし物よ? ひとりちゃん。それと……待っててくれてありがとう」

「ごめんねー、遅れちゃって。夜になっちゃったし……」

「久しぶり、ぼっち」

 郁代、虹夏、リョウが口々に声を掛ける。が、このセリフをどれだけタクシーの中で必死に考え抜いたのかを露ほどにも知らないひとりは、すぐに鬱向いてしまい、私たちの声が聞こえる度に肩を震わせるのみだった。まるで冷雨の中捨てられた子犬のよう。悲しく、そして寂しくなる。

 一体何がここまで彼女を痛めつけたのか……。いやしかし、分かっている。

 それは、自分自身に他ならない。

 結局のところ、私たちと彼女は同じ「世界」という陥落に住まう貉に過ぎないのだ。

 ――だから、いまさらなのよ…………。

 

 

 後藤ひとりが三人の声を聞いた時、その「欲しかった」周波数が自分の骨という骨に共振して意識を揺るがすほどの眩暈がした。しかし、彼女らを見てハッキリした。何が自分の欲望なのかを。

 もう隠したり偽ったり、しない、できない。

 ――私はただ、昔と同じままみんなと過ごして生きたいだけだ。同じ景色を見ていたいだけだ。

 だから……夢が叶ったか分からない――認めたくないから。だって、夢が叶わなければずっと一緒いられるんでしょ?

 だから……現実が崩れる時に抗った――許せなかったから。だって、壊れてしまったらもう元には戻れないでしょ?

 だから……嫌なことから逃げた――信じれなかったから。だって、心にも思わなければ存在しないことと同じでしょ?

 でも、「して」しまったから、ここへ来てしまった。

 本当にみっともない。終わりが受け入れられないクソガキと同じじゃないか。やっぱり結論として、私がいなくなった方が丸く収まる、はずだ。こうして虹夏も平気な顔をしてここにいるのだから。

 私はお荷物なんだ。私は廃棄物なんだ。とにかく、この凶暴性と二面性が――憎い。

「………………」

 ――さようなら。

 この一言だけをキッパリと伝えればすべてに方がつくのに、私の身体は口を開くどころか、彼女たちに目線を合わせようともしなかった。

 そうして沈黙を貫いているひとりに、郁代がにじり寄ってきた。

「――――――――きちゃ、だめ……っ!」

 声として相手に聞こえているかどうか分からない、掠れた音がひとりの体から出る。まるで壊れかけ建物が出す軋音。

 私が私でなくなる――――!

 ひとりの心の叫びとは裏腹に、郁代は彼女が手を伸ばせば私に触れられる距離まで近づいてきた。

 頭が咄嗟に危険を察知したのか、体感時間が無限にも引き延ばされる。

 終わらない。

 終わらないよね。

 終わらないで。

 ――――。

 ――――――――。

 見つめ合った床と同化してしまったと錯覚するほどの、永久の時と対称性を破ったのは郁代だった。

「…………え?」

 郁代は、ひとりの体を優しく丁寧にその腕で包み込んだ。彼女と触れ合った部分から「生きた」体温が伝わってくる。

 なにも、ことば、が、でない。

 

 

 私は、タクシー内で虹夏とリョウに、任せてください、と言った。

 伝えなきゃいけないものをちゃんと伝える、と誓った。

 彼女たちが私に託してくれた信頼と、みんなへの愛を以て、喜多郁代は確かな一歩を積み重ねる。

 正直、大見得を切った割には、何をすればいいのか全く分かっていなかった。今日初めてひとりを見た時、今までのように姑息な立ち回りをしていいのか、自信がなくなったから。でも、人間、簡単に私を辞められないもので、ここまで来てしまった。

 少し笑みがこぼれる。あとは自由にやってみよう。

 ……………………。

 手を伸ばせば彼女に手が届く距離。

 個体のような、液体のような、気体のような、三重に重なる想いが自然と腕にこもる。

 気がつけば、ひとりを抱き寄せていた。

「…………え?」

 反応に乏しかった彼女も思わず声を上げている。

「…………体、冷たいわね」

 触れた彼女の身体は海風ですっかり凍え切って、驚くほど冷たい。服の感触からして、本当にあの頃よく着ていたような薄手のジャージらしい。この冬の日に。

 このままでは十中八九死んでしまう。郁代は件の警察官の顔を思い出して体が熱くなった。皮肉にも、あれが私の中で薪として役に立ったからこそ、よりひとりを温められるのだから、鼻で笑ってしまいそう。

 それはともかく――――。

「…………」

「……今日はごめんね。時間通りに来れなくて。色々言い訳したいけど、遅れちゃったのは事実だからしないでおくわね。――それと、私たちのことを信じて待っててくれてありがとう。本当に嬉しかった……。さっきも言ったけど、大事なことだから何度でも言うから」

「…………」

 ひとりは何も答えず、依然として彼女の感じていることは推し量れない。しかし、私を拒絶しようとする意志はすでに消えてなくなっていた。

 続ける。

「たぶんだけど、ひとりちゃんは、自分のことを認めることも信じることもできなくなった。そうなんでしょ? ひとりちゃんはずっと昔から、私たちとバンドのことを心から愛してくれてたから、虹夏さんが勇気を出して言ってくれたことを認められなかった自分のことを、後悔してる。それに――虹夏さんのために私たちは何もできなかったこともあるわよね……。あれは――……私も後悔してるわ。……でもね、だからっていまさら「分かる」なんて言葉は言わない。きっと今のひとりちゃんに必要なのは「同情」じゃないはずだから。だってそうじゃない、もし本当に自分を投げ捨てたければ、私のロインだってブロックできたし、お金だってあるんだからどこか遠くにだって行けたわよね? でもしなかった。それはつまり……、「自分」が諦められないことを信じていたから、よね?」

 郁代は、ひとりが今何を必要としているか必死に理解しようと、私自身が感じたことを口を突いた順に包み隠さず言う。

 心の奥に無断で立ち入るような物言いに彼女が怒ってしまったとしても、何もないよりはすこぶるマシだ。私に対して感情を見せてくれただけで、今は嬉しいとさえ思う。それでも、これだけ言ってもひとりは応えてはくれないだろうなと、頭のどこかでは思っていて。それが堪らなく悔しい。

「…………そんな……」

 郁代の心臓が跳ねる。ひとりのしわがれた声が右耳に届く。

「…………分かったような口を……」

「――――――。――――うん。そうよね」

 ひとりの声を聞けて、どんどん心が柔らかくなる。丸くなる。

 でも、感情的にならず。しかし、理性的にもならず。

 理性から出た感情で、感情から出た理性で、どっちつかず愛しい私で、私は伝える。

「もしひとりちゃんが、こんな私のことを気に食わないのなら――いいよ嫌いになっても。寂しいけれど、私はそれで構わない。でも、一つだけ覚えてて欲しい。それは――あなたが消えると、私は悲しいってことよ。何が悪くて何が正しいとか、何を信じて何を信じないとか、そういう掛け値のある思いじゃなくて、ただ純粋に……そう純粋に、あなたを想った感情で、そう想うの」

「――――――――――」

「だからね……笑って?」

「――――――――――!」

「まだ見たい景色があるんでしょ。私たちが終わるまで、私と私たちは絶対にあなたを裏切らないから。あなたの過去と未来も絶対にあなたを裏切らないから。だから――――苦しいときは苦しい笑顔を、寂しいときは寂しい笑顔を、悔しいときは悔しい笑顔を、悲しいときは悲しい笑顔を、虚しいときは虚しい笑顔を――――私に見せて?」

 

 

 抱き締められた時は、心を動かすものかと意固地になった。

 「決めつけ」られた時は、私は私でありたいと願った。

 今日この時が来るまで、「運命」や「奇跡」が似合う人間になりたかったと僻んでいた。

 でも、どうだ……。

 ――だから……笑って?

 その言葉を聞いた時、私は何を思った? 何を感じた?

 冷たい気持ちでも、温かい気持ちでもない。かといって、明るい気持ちでも、暗い気持ちでもない。胸の内にしっかりとあるがその実体はなく、限りなく重いものでありながら羽のように軽い。一つを見つめていれば全体を見ることとなり、私を見ればあなたを見ることになる。

 それを私は知っている。

 いつも向けられてばかりだったが、知っている。

 いつも渇望してばかりだったから、知っている。

 ――――愛、というものだ。

 一般的には「好き」と同列に軽々しく語られるが、それは表層的な意味合いしか掬えていない。その実、暗くて明るくて、まるでブラックホールとホワイトホールのような関係性で、すべての出発駅であり、すべての終着駅だ。

 極彩色の感情、意識、モノ。

 果たして私が持ってしまってもいいものだろうか。自信がないし、資格がないように思える。本来それはもっと聖人君子が持つもので、私なんかには身に余るものだ。

「――――私に見せて?」

「……………………」

 …………………………………………。

 ……………………………………………………………………………………。

 地球が回り続けて太陽に飲み込まれてしまいそうなぐらいの時間が過ぎ、郁代はひとりの体を抱き留めていた手を離した。大方、私が何も答えない木偶の坊だからつき合い切れなくなったのだろう。そう思っていた。

「――――ふぐ……っ!」

 突如、頬を両側から手でサンドされ、ひとりは強制的に視線を上げさせられる。目の前には手の主である郁代、彼女の頭の左右には少し下がったところにいるリョウと虹夏が見える。

 彼女たちはみな、見守るような柔らかい視線で私のことを見ていて、それが逆に心のヒビに入り込んで沁みる。いっそのこと蔑むような目であったならば、気持ちは幾分か楽だった。まともに目を合わせることができない。してはいけない。

 頭が固定されてもまだ視線を下げようとするひとりに、郁代は優しくも芯のある声で言う。

「私の――私たちの目を見て。「後藤ひとり」。――あなたは、どうしてここまで来たの?」

「――どうして、って……」

 叱咤されているわけではないと頭では理解していたのだが、郁代の声には凄みがあって、ひとりは意識的に目線を合わせてしまった。

 吸い込まれる。迷い込む。一体私はどこにいるのだろう。

 郁代、リョウ、虹夏――彼女らの瞳の中にはどれにも星が瞬いていて、銀河があって、宇宙があった。起源と終焉の揺籃。すべてがあって、すべては見つけられない場所――自然と畏れを抱く。不思議と愛しさを抱く。

 その親愛、その孤峻、その陽光が――眩しい。

 身を穿つ光がガラスの心を突き抜けて、存在ゆえの根源――魂に届く。

 「世界」に亀裂が入る。

 分からない。このまま壊れてしまったら、どこか「私」が欠けてしまう気がする。そして、その欠片が喉に突き刺さり血を吐き出すことになる。痛いのは嫌いだ。

 でも、知りもしない「私」は、両手を広げてそれを待っている。嫌うのを嫌だと言っている。

 ――――どこか欠けてしまうなんて、いまさらじゃないか。私は昔っからそうじゃないか。

 ああ、そうだ……そうだった。

 刹那にも満たない須臾の間、無色透明の撫でるような風がひとりの体に吹く。それは、身体の中を通り抜けると遮っていた砂煙を流して、「視界」をクリアにする。

 星屑のような砂塵が綺麗に掃かれた後、現れたのは無数の足跡。大小は様々、靴もバラバラ。整然とした足跡もあれば、混迷を極めた足跡もある。時として曲がったり直ったり、ぐねぐねとしているが、しかし、鳥瞰すればそれらは一本の線上にのみ存在し、その先に「私」が立っている。たくさんの「私」の向かう先に、「私」が立っている。

 息を吸おうが吐こうが、変わらず「私」はその先端にいるのだ。

 自分という人間は「誰か」の虚像だと感じてしまったのは、たくさんの人が「私」に足跡を残してくれたのは、それは――愛に満ちた感情を「私」に向けてくれたから。その感情に応え、心に刻んだ「私」がいるから。

 中でも、今目の前にいる彼女たちはずっとトクベツで、かけがえのない私の「ヒーロー」。「私」と「彼女」に境界線なんてない。大洋に落ちた水滴がもう見つからないように、砂漠に混ざった砂粒がもう探せないように。彼女たちはとっくに――「私」の一部になっていたんだ。

 始まりは偶然や必然に頼ったものだったかも知れない。けれど、もう違う。

 私と、郁代と、リョウと、虹夏と、それぞれの喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、痛み、苦しみを覚えて、消せない傷を互いに残したから――「私」は今の私になれた。

 何かを成せたから私になったんじゃないし、ずっと昔に世界を「世界」が塗りつぶしたその時から「私」は私だったことを知っているから、私は「私」を拒絶しない、否定しない、排斥しない。

 ゆえに、認めよう。許そう。信じよう。

 私がそれをしなかったら、裏切らないと言ってくれた人たちへの裏切りだから。

 だって――――…………やっぱり、みんなのことが大好きだから!

 もし本当に、世界は誰かの主演映画の上映真っ最中だとしても。

 もし本当に、ビッグリップのように繋がり合えない「虚無的な自由」が待っているとしても。

 もし本当に、人間は自分自身が作り上げる以外のものではないのなら。

 善性、悪性――空虚な人の二元論の壁を取っ払って、後に残った「永遠」を胸に、星を目指し続け、不完全で美しい私を抱き締める限り――

私のすべては、私だけのものだ。

 傲慢さや幼稚さすらもそう。歪みも正しさも、紛れもないありのままの後藤ひとりに変わりない。

 ――だから……、

私は、たくさんの私たちが残した足跡の上で受け入れよう――――、

……これが、私の「道」だと。

 

「どうしてって……、それは私が……、私が、みんなと『永遠』を刻んでいきたいから――」

 

 ――――――――「世界」が割れた。

 

 私の頬から手を離した郁代は、少し下がって、笑顔ですいと左手を差し出す。リョウと虹夏も、私に向かって左手を差し出す。今この瞬間まで二人の声は一編たりとも聞いていないが、その表情から何を想ってくれているかは明白だった。

 一瞬の逡巡。私の心の中に徒のような、気の迷いが流れる。

 だがそれは、太陽の下で点ける、明るさ最小のスマホの画面と同じだった。

 

 ――――私は、彼女たちの手を掴んだ。

 

 

 

 誰が示し合わせたわけでもなく、四人は手を繋いだ。

 歩いていく。

 駆けていく。

 まるでディストーションとディレイがかかったギターの音色。耳元で何度も反響しこだまを繰り返しては、ぬるりと温かい空気が指先を絡め、肌を撫で、体に沁みる。

 「寒いでしょ」と、途中で郁代に買ってもらったダウンを着て、私たちは色々なところを回った。

 自然と足が向いた江の島のイルミネーション。その帰りに適当に入ったラーメン屋。

 何度も使った駅。幾度も通った道。

 あの日の公園。いつかのステージ――――。

 とてもじゃないが、一息に懐かしむことなどできないぐらい、私たちの足跡が残っていた。

 ほら、そこにも。あそこにも。ここにも。

 私たちは様々な場所に行って、一人では抱えきれない量の思い出を残してきた。それは、虹掛かる空の麓を目指した私たちの――幾夜も大勢の手のひらの先にある光の中に立ってきた私たちへの、存在証明。

 現状は渇望に。渇望は願いに。願いは星に。星は星座に。星座は神話に。神話は永遠に。

 果たして物語の果てで、私たちを待っていてくれているものは何だろうか。

 ただ一人前の自由を手に心の赴くままに迎えた終点は、いかような景色を見せてくれるのだろうか。

 昔考えてみたけれど、やっぱり今も分からない。結局。

 だから、進もう。

 速くても遅くても、大きくても小さくても、一歩ずつ。一歩ずつ。

 どんな時でも、どんなところでも、私たちの足跡は後ろに伸びて前には道ができるから。いつか旅の終わりに、私が私で、私たちが私たちであった最高の理由を理解できるまで。

 

 同日午後十一時十分。

 思い出が残る地を江の島からの帰路で順々に見てきた、私たち四人は、船が港に帰りつくように下北沢に戻ってきていた。ここでも色々な場所を見て回った結果、時刻は深夜を指している。

 青天井に楽しかった。四人でいることがこんなに楽しいことだったなんて忘れてしまっていた。

 大人なのにバカみたいなことをして。子供みたいにバカみたいなことで笑って。

 この時期だし東京だからより一層北風が寒かったけれど、繋いだ諸手は温かったりして。

 でも、空気感が以前とまったく違った。嬉しいような、恥ずかしいような、悲しいような、悔しいような……、そんな感情を肌と耳と目で感じる度に私は目を伏せるのだ。この十年――特にここ数カ月で私たちは変わってしまったのだと。

 だから何となく言えなかった。人間として大事なことを。

「ねぇ、今日はうちに泊まっていくでしょ?」

 ヴィレヴァン前の道路で、虹夏が確認という体で皆に訊いてきた。

 彼女に負担になるのではないか、と慮ったが、もう無力でありたくなかったから、ひとりは「うん」と答えた。郁代とリョウも同じようなタイミングで同じことを答える。

「分かった」

「――あの、ちょっと虹夏さんちに帰る前に寄りたいところあるんですけど……、いいですか?」

 一日が終わってしまう寂しさが空気に混じって、肺から全身を冷えつつある中、郁代は前触れもなく三人に訊いた。

 虹夏、リョウ、ひとりと順々に合わせられた視線から直に気持ちが伝わってくる。きっとこんな状態になってから、ずっと行きたがっていたのだろうな、と純粋に感じた。

 答えは一つだった。

 色よい返事をもらえた郁代は、ぱあっと笑顔を咲かせ、手を引いて味わうように歩き始めた。

 

「喜多ちゃんが来たかったのって、ここだったのかー」

「……懐かしい」

「――――――」

 五分ぐらい歩いてやって来たのは、二十四時間何円で停められる駐車場。それも――私たちの初めてのアー写の背景、「なくなってしまった」ラクガキがあった建物に面する、駐車場だ。

 そして、私が虹夏に激高したあの日に逃げ出してきた場所でもある。

「写真撮りましょうよ。私たちの記念に」

 深夜ということで声を抑え気味に話す郁代。それがまた、しっとりとした気持ちに溢れていて、今までのことの後ろめたさとかより、わけない恥ずかしさに耳が熱くなった気がした。

「ハイチーズ」

 今回は三脚なんかないので、郁代のスマホで四人をきっちり収めた自撮りを撮った。もちろん背景は新しい「樹」である。

 郁代は撮った写真を確認して満足すると、結束バンドのロイングループにその写真を送った。

「……なんか半目気味に写ってすみません……。心霊写真みたい……」

「写真撮るんだったら、もっとちゃんとした服を着ればよかったな」

「ぼっち、今度MV作る時これやろう」

「え?」

「みなさん、可愛く写ってるじゃないですか。リョウさんの澄ました顔とか最高です」

 四人は壁に寄り掛かりながらしゃがんで、写真の感想を口々に言い合った。電灯の少なさから互いの顔をハッキリとは拝めない。

「……ふう、満足。今日は。こうしてまた、みんなと笑い合えて」

 郁代の言葉に、「うん」と吐息にも似た、この四人にしか聞こえない微かな音で応えた。

「ねぇ、みなさんは、〝イフ〟ってあったらいいなって思います?」

 つまり、〝もしも〟ってことです、と郁代はつけ足す。

 ――もしも……。

 昔はいつも考えていた。妄想が範疇に入るのなら、だが。……でも、彼女が聞きたいのはそういうことじゃない。

 例えば、そもそも私たちが出逢わなかったら、とか。

 「過去の全部が私を作っているから、イフはいらないかな」って言えたらどれだけいいか。やっぱり後悔ばかりだから人生。いくら「自分」を受け入れられたって、「後藤ひとり」としての人間的な弱さとか醜さとかは、まったくと言っていいほど変わっていないのだから。

 でも今は信じたいと思う。

 大嫌いな人間の一番の美点――信じること。それができないほど名折れてはいない。

 だから私の答えは――。

「私は……」

「今は言わなくていいわ、ひとりちゃん。リョウさん、虹夏さんも。今は私の答えを聞いて欲しい」

 郁代は身体の中の空気をすべて換えるような深い息をついて、明かるい声で話し始めた。

「私は、イフがあってもいいし。なくてもいい。――って思ってる」

 リョウが優しく笑いながら「なにそれ」とツッコむ。

「あはは、ズルいのは分かってるわ。でもそうだといいなって、ここ最近思ったの。もしもの話って、どこか救いがあるように感じてしまうけれど、それは今の私を否定することになるし、ないはないで、あまりに現実には救いがなさすぎるし。じゃあどっちがいいの――じゃあどっちもでもいいかなって。どちらにしたって、さ、地球が何回回ったって、さ……、私たちは運命みたいに出逢ってさ、どうせバンド組んでるんだろうから。絶対にそうよね。「救い」とか「報い」とか、人と人との関係ってそればっかりじゃないけど、私はみんなと出逢えて、人生でこれ以上はないだろうって確信できるほど嬉しい。――あ、そういう意味じゃ、唯一要らないイフは、「みんなと出逢わない」もしも、ね」

 言い終わると、郁代はすたっと立ち上がった。

「ごめんなさい。私だけ話しちゃって。もう夜も遅いですし、早く帰りましょうか」

「そそ、そうだね。あーでも、その前にコンビニ寄らない? なんか無性におでんが食べたい気分で」

「いいですね!」

 他愛のない話に花を咲かせながら、一行は元来た道を戻って青色と白色が目印のコンビニを目指す。その間ずっと、郁代が話して聞かせてくれた想いが、ある種の時限爆弾のように頭の中でカチカチと音を立てて、話の腰を折られた私の気持ちをおかしくさせていた。

 しかし、そのまま話を言い出せずにコンビニに到着した。

 飲み物とおでんの具材を適当に見繕って、購入。お金は全額自分が支払った。これがせめてもの罪滅ぼしになればと思ったのだが、リョウ以外は申し訳なさそうにしていた。リョウ以外は。

「ぼっちが買ってくれるなら、もっと頼めばよかった。はい」

「あっはい、どうも」

 コンビニ前の道路の柵を腰掛代わりにして、おでんを回し食べする。ほふほふと具材を口に入れた後の白い息すらも美味しい。

「いっぱい食べたかったら自分で払いなよ、って一応ツッコんでおくけど、でも今日ばっかりはリョウを完全に否定できないね……。だってもうリョウは――一文無しになっちゃったから、ね」

 虹夏は、手で包み持っている温かい緑茶の液面の揺れを見ながら、しっぽりと言う。

「ついになったんですか? どうぞ」

「そうなのよひとりちゃん。あっ、ウィンナー食べていい?」

「あっうん……」

 この場の当本人を除いた皆が、浪費家バンドマンの末路とこれからに思いを馳せて、自然と場が静かになった。堰を切ったのはもちろんリョウで、もち巾着を頬張りながらやんわりと訂正した。

「――――タクシー代。楽器ぐらい高いかと思ってたから、意外とまだ残ってる、とだけ言っとく」

「タクシー、って、もしかして……」

 ひとりの疑問が確信へと変わる前に、郁代が事の成り行きを話してくれた。

「……色々あったけど、簡潔に言うとね、ひとりちゃんを迎えに行くために下北から江の島までタクシーで移動したのよ。その代金をリョウさんが立て替えて払ってくれたってわけなの」

「そう……だったんですか」

 自分が思っていたよりもずっと、私はみんなに迷惑を掛けていた。いたたまれない。仮にその代金も私が払ったとしても、本質はモノではなくココロにあるから解決はできないのがまた――。

「……じゃあ今度」

 リョウの声がひとりの負の思考を遮る。

「今度――私たちとまたセッションしてくれる?」

 この瞬間、ひとりのまったく新しい「世界」から生命が消えた。この四人を除いて。

 営みの痕跡を残しながら、誰も彼もがいなくなってしまった。確かこんな事件があったような。

「…………」

 前のコンビニの中――とりわけ無機質な様相と時計だけを見ているから、隣の彼女らの表情は窺い知れない。だから、分かった。

 これが、江の島からここまで引きずった、言えなかった言うべきことを、言うタイミングなのだと。

「――ありがとう。それと、ごめんなさい。こんな面倒くさい私に向き合ってくれて、とてもじゃないけど感謝じゃ足りない。それに、虹夏ちゃん、あの時は怒鳴ってごめんなさい。虹夏ちゃんだって苦しかったはずだって、分かってたはずだったのに……」

「あんなに大切にしてたギターだって壊しちゃったしね」

「…………」

 虹夏は感情が見えない声で追い打ちを掛けてきた。でも、これも甘んじて受け入れなければ。私にはそうする責務がある。

「正直びっくりしたというか、ショックだったというか。でも、同じくらい嬉しかった、と今では思ってる。だって、それくらいの熱量で私と向き合ってくれてたってことでしょ?」

 曲がりなりにもさ、と虹夏はつけ足す。

「だから、私も言うよ――ありがとう。それと、ごめんね」

 私が足りない頭で言葉を咀嚼するのに十分な時間が過ぎた後、郁代も続ける。

「ひとりちゃん、私も、ありがとうとごめん、だよ。リョウさんもですよね?」

「うん、そう。だから、お返しなんてそんなものでいいんだ」

 ひとりは真っ黒な空を見上げた。コンビニの電灯のせいで何も見えないが、もしかしたら今視点の先にはオリオン座が輝いているのかも知れない。

 恐らく日本で一番見つけやすくて、知られている星座。

 いつか私たちと思える日が来る。

「……うん。ありがとう」

 たった五文字。されど五文字。ひとりは心に深く刻み込んだ。

「――まぁ、私も大概なお願いをこれからするから、あんまり気にしないで」

 虹夏が深呼吸して自分の心拍数を抑えている。基本、私よりも肝が据わっている彼女がそうなるのだから、かなりのことなのだろう。隙を見ておでんを食べていたリョウも思わず手を止める。郁代、リョウ、そして私の視線が虹夏に集まる。

 嫌だったら嫌って言ってねと、前置きをしてから、虹夏は願いを口にした。

「前に私は結束バンドを抜けるって言ったけど、あれ、なしにしたいんだ。本当はいつまでもみんなと一緒にバンドやってたい。だから……。だから、私の病気が完全に治るまでの間、みんなには待ってて欲しい。――ええっと、つまりね、結束バンドを無期限の活動休止にしたい……、じゃなくて、してもいい、です、か――――?」

 空白。

 驚きも何もない、ただの空白がひとりの目の前に広がった。そして、それを銀幕に見立てて走馬灯のように記憶がありありと映し出される。その映画を観終わって、自分の胸の内に残った感情は――頼ってくれて嬉しい、ただ一つだった。

 リョウと郁代は笑顔を見せて、是とする。そして、

「分かった。いいですよ。もちろん」

ひとりも虹夏が自らのすべてを賭けて願ったものを受け入れた。彼女の目を見て応えた。最初からこれが酷く道理だったのだ、いまさら疑問に思ことなどない。

 だけど、紆余曲折あったんだから、少しぐらいわがままを言っても許される、よね?

「でも、一つ。難しいかも知れないけど、一つ。無理を言ってもいいですか?」

「うん」

「最後に……ライブしたいです。みんなで」

 ――やってみたいことがあるんです。

 虹夏は困ったような嬉しそうな顔をして、十数秒迷った末、「分かった」と一言だけ言った。

「それにしてもライブかー」

「すごく久しぶりな気がしますね。でもすっごく楽しみ。今から待ちきれないわ!」

「……うん、それは私も同じ」

 口に出すのが憚られただけで、二人も気持ちは一緒だったらしい。いじらしい気分になる。

「ライブ。ライブ。そうだねー、ライブ。まずは司馬さんに相談しないとか。あと、今後の活動についての報告。許してくれるかな……」

「大丈夫ですよ! 怒られるとしてもみんなで一緒に、ですよ!」

「そうだね。赤信号みんなで渡れば怖くない」

 仕方ないとはいえ、怒られるのは憂鬱だ……。ひとりは再び視線をコンビニの方へ戻す。

 時刻はもうすぐ日を跨ぐ頃。午後十一時五十七分。

「まぁその話は一旦置いておこうよ。それより、さっきから気になってたんだけど……。なんで下戸なのに、リョウは温かいカップ酒で、ぼっちちゃんはコークハイ買ったの? それに喜多ちゃんは、お酒じゃなくてホットミルクティーだし」

 割とどうでもいい話題な気がするが、虹夏は気になったらしく怪訝そうな様子だ。

「でも、リョウは分かるよ。〝っぽい〟からでしょ」

「カップ酒はベーシストのアイコンみたいなものだから」

 図星だったようで、リョウは思い切り開き直っていた。だがその後で、飲めないからあげる、と郁代に渡していた。郁代は郁代でとても喜んでいる。さも棚から牡丹餅。

「私は普通に今飲みたいの選んだ感じです。って、あーやっぱ日本酒サイコーですね! おでんと合うわ~!」

「あはは……」

 ひとりは盛り上がる三人を思考の隅に置いて、一人何もない夜空を見ていた。

 もう「今日」が終わるんだ。「今日」が「昨日」になって、「明日」が「今日」になって。私は大事なことも忘れていって、あったべき形の変化を許容してしまう。それは時間の摂理だけれど、私は全部欲しくなってしまう。

 今となっては形骸化してしまったように感じる「夢」があったから、ここまで生き長らえてきたわけだけど、「夢」があったから終わりがあるのを知ってしまった。それが堪らなく悔しい。でも、嬉しくもあったりして。

 物語の新しいページでも、人生のまっさらなキャンバスでも、忘れないように思いの丈を書き殴れるのはいつも初めの一掻きだから。

 いつまでも「次」はあると、教えてもらった。彼女たちに。

「ぼっちちゃんはそれでよかったの?」

「無理しなくても私が飲むわよ~」

「おでん、また奢って。美味しかった」

 ふふふ。

 私を苛んでいた黒い霧は綺麗に晴れたわけではないし、なんだか元の鞘に収まっただけような気がするが、私はこれでよかったのだと思わせてくれる。

 だから、気恥ずかしいけど、やっぱりさっきの郁代の質問に答えたいと思う。

「いいんです、これで。この、スリーファイブオーエムエル缶のコークハイで」

 カシュとプルトップを開けて、一口だけ口に含む。駄菓子みたいなコーラと木の味がした。

「あ……、やっぱり喜多ちゃんあげます」

「ありがと~」

 ひとりは口の中に残る独特な味を紛らわせようと、再びコンビニの中を覗いて時計を見る。ガックンガックンと不器用に秒針が今日を明日にしようとしていた。

「あの……クロノスタシスって知ってます?」

「知ってるよ」

「知ってるわ」

「知ってる」

 ひとりの問い掛けに間髪入れず三人が同時にそう答えた。あまりの速さに面食らってしまう。

「あ、ありがとう、ございます」

「時計の針が止まって見える現象のこと、でしょ? 分かってるよ。もちろん、「言葉」の意味もね」

 ふう――。息を吸って吐くだけじゃだめだろう。後藤ひとり。

 私は自分を叱咤して、「意味」を理解してくれた彼女らの胸を借りるつもりで続きを言う。

「……それが、私の答えです。喜多ちゃん。私は、イフなんていらない。私は、もしもなんていらない。私は、ただ、ずっと終わらないの「今」だけが欲しいから」

 ひとりは息継ぎも忘れて、必死に伝えた。話し終わると体が空気を求め、肩で大きく息を吸う結果となった。しかし、ひとりのその努力に見合わず、横にいるはず三人からは何も反応はなかった。

 心配になって「答えの提出先」を向く……。

「――ありがとね、ひとりちゃん。答えは半分同じで半分違ったけれど、気持ちはまるっきり同じで、ちょっとビックリしちゃった。嬉しい」

 私と同じですよね? と郁代は空を見上げながら、もう二人へ声を飛ばす。

「うん」

 虹夏とリョウの声が重なる。

「……」

 彼女たちの優しさに溢れた声を聞いていると、やっぱり私は、あるものねだりのないものねだりで、欲張りな人間なんだなと、改めて感じる。

 だからこそ、彼女たちがより一層愛おしい。

 だからこそ、虹夏とリョウと郁代の三人が、狂おしいほど好きだ。大好きだ。

「うん」

「うん!」

「うん」

「うん」

 誰が言い出したか、その後私たちは飽きるまで「うん」と言い続けた。そして、笑い転げた。

「あー面白い……。ふう……さ、もう遅いし帰ろうか」

 虹夏はそう言うと、柵を離れてすぐそこの自宅に向かって歩き出した。

「うん。さっきから結構眠い。に……、いや、いく……、違うな、ぼっち送ってー」

「え? え、あ、はい」

「別に私でもいいじゃないですか~」

 感傷に浸る暇がない。でも、この慌ただしさこそ私たち、かな。

 光の下を離れて、闇を行って、また光に戻る。

 時刻はもう夜の底を叩いただろうが、私の気持ちはまだまだ沈んでいけそうだ。決して額面通りの悪い意味ではなく、より感情に身を任せてもいいと思えるようになったという意味で。

 さあ、「今」になった「明日」は私たちに何を見せてくれるのか――――。

 虹夏の自宅マンションのエントランスに入る前、おもむろに彼女が空を見上げて微笑んだ。

「私、新しい夢ができたんだ。――それはね、本当に私たちがおばあちゃんになっても、バンドをしていようって夢が」

 彼女が真っ白な織物のような夢を語り終わった時、四人の間に一陣の風が吹いた。しかし、その風が寒さをもたらすことはなかった。まるで、誰かが――それも私たちを心から思っている誰かの眼差しのように、温かな風だった。

 今、空は晴れ渡っている。

 

 

 

 その日の夜は、それぞれが内に抱えていたものを共有して、たくさんの感情をやり取りした。会おうとしなかった期間、それぞれが何を想って、どんな行動をしたか、彼女らの口から直接聞いただけでも同じ苦しみを味わえ、そして分かち合えた。

 十八日には虹夏はきくりに会いに行き退院を祝福できた。それから、ちょっとした助言ももらえた。

 二十日には都に活動休止したい旨を伝え、それが持ち帰られたのち了承され、二十八日に「無期限活動休止」を発表した。理由として、最初は公表を拒んでいた虹夏の鬱も合わせて。

「私は、もう自分にも、みんなにも、誰にも嘘を吐きたくないから。それに誰かの応援になるかも知れないでしょ」

と決心したらしい。

 さて、ツアーもといライブの方だか、野音は二月から予定通り工事に入るため使用できず、この場所でライブすることは二周目へお預けになった。とはいえ、虹夏の体調のことを考えると、許可が下りたとしても恐らくはここで演ることはなかったであろう。

 その代わりツアー最後のライブは、関係者という名の友人たちを集めた内輪のクローズドライブへと形を変えた。

 場所は――スターリー。

 開催日は奇しくもひとりの誕生日である、翌年二月二十一日となった。

 

 それからの時は流れるように過ぎて、いくつもの「明日」が「昨日」になった。

 そして――――。

 

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