霽月の夜   作:TriK

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おわりへ伸びる道のはじまり

 

 虹夏の病状と相談しながら練習を重ねる日々。

 自分の技量をさらに高めようと日夜ギターを弾き続ける日々。

 それは全部が楽しいものではなかった。だが、全部が苦しいものでもなかった。

 終わりを自分たちで決めたからこそ得られた、最高純度の四人の生活は、今後の人生で何が起ころうと絶対に言い切れるほど、忘れがたいもので、幸せなものだった。

 色々なことを話した。

 わだかまっていたこと、感じていたこと、考えていたこと、抱えていた秘密。

 その過程で驚きも恥ずかしさも感じたが、それを遥かに上回る心の充実があった。

 道路の側溝に溜まっていたヘドロを綺麗に掃除するように、語らう時は流れて、清浄な水が流れ始める。やがてその水は集まり、川になり、海へと帰りつくだろう。

 だから、私はただ奔流に身を任せるだけだ。何をしても、どこにいっても、どんな風になっても、私は私以外に何者でもないのだから。

 息をしている。息をして、これからも彼女らとの線を交わらせていく。

 それでいい。それが私の真実――金輪際輝き続ける後藤ひとりの夜伽星だ。

 運命や奇跡が似合わないからこそ、自分の足で愚直に歩き、進み続けよう。

 これこそが「自由」よりも自由な自由だ。

 

 二月二十一日。午後三時。

 心と心が混ざり合った十二月から年を跨ぎ、ついにこの日がやってきた。しかしながら、下北沢駅からライブハウスへと向かう途中、傘越しに見上げた空は青みがかった鉛色と、天気はあいにくの雨。けれど極論、台風レベルの雨とか、都内の交通網が全ストップするような積雪がない限り、このくらいの悪天候は、私にとってもちょうどいい天気だった。

 ひとりは、慣れに慣れ親しんだ道を歩いて、夢へ地下へ続く階段を下る。ビニール傘を壁際のスタンドに立たせ、スターリーのドアの前で深く大きな息を吐く。

 そして、重いドアのハンドルに手を掛けた――。

 けれど、この腕に私たちが歩んできた十年の重みが掛かっているわけで。腕が思うように動かない。

「早く入らないの? ぼっち。寒い」

「ひっ! リョウさん、私が感傷に浸っていたのが分からなかったんですか……?」

 ひとりは目線もやらず、階段の上から声を掛けてきたリョウに小言を言う。これではせっかく気持ちが高まっていたのが台無しである。まぁこれはこれで――だが。

「ごめんねーぼっちちゃん。リョウが面白いけど早く入ろうって。でも私も早く入りたいかも……」

「……あ、虹夏ちゃん」

 虹夏はとっとっと、と軽やかに階段を下ってくる。

「大丈夫なんですか、体調は」

「先生がくれた薬がすごく効いてね。今日もそれ飲んだから大丈夫。それに今日が近づいてくる度に症状が改善してって、先生に驚かれたぐらいなんだから~。まさに〝劇的〟なんだって」

「――虹夏ちゃんがそう言うならいいですけど……。無理はしないでください。気持ちって音に出やすい――だから、楽しむことが一番大事、なんですよね?」

 ひとりはすでに身体の糧になった、遥か昔に「誰か」からもらった言葉を反芻する。

「うふふ、ありがと。もしも何かあったら頼りにしてるよ~」

「う、うん――」

 私にとって嬉し過ぎることをいいながら、虹夏は笑いながらひとりの代わりに鉄扉を開けた。

「郁代がもういるらしいから」

「うわあっ! 耳の近くで話しかけないでください! 今日はイタズラが多いですよ」

「たまにはいいでしょ。こういうの」

 幽霊のように驚かしてきたリョウに体をビクッと跳ねさせながら、ひとりも虹夏に続いてスターリーへと足を踏み入れる。すぐに懐かしささえ感じるいつも通りの空気が、私を出迎えてくれた。考えてみれば――去年はツアーで全国を駆け巡っていたから、ここに来るのもライブをするのも四月以来ということになる。この寂寥感を慰めてくれる雰囲気に、嘘偽り誇大なくこの場所が私にとって第二の実家なのだな、と強く実感した。

 ひとりたちが階段を下りて行き、フロアに出ると、すでに郁代がモップ掛けを始めていた。彼女は、私たちが数十秒前まで雨に濡れられていたことなど気にもせず、その姿を見るや否や、さながら文化祭の出し物を準備している女子高生のように嬉しい悲鳴を上げた。

「みなさんも早く手伝ってください! このままだと時間までに終わりません!」

「ごめんごめん! 今やるから。リョウは喜多ちゃんとやっといて、私はトイレ掃除してくるね」

「了解」

「えーと……私は?」

 続々と開店準備が始まるなか、一人手持ち無沙汰なひとりがおどおどと歩き回っていると、

「あー、ぼっちちゃんはこっちな」

と両手に買い物袋を提げて階段を下りてきた星歌に呼ばれた。今しがたスーパーで仕入れをしてきたところらしい。ともすれば、だ。

「今日はたくさん来るんだろ? だから買い足しておいたんだ。あとはよろしく頼む」

 星歌はそう言うと、虹夏が掃除に向かったお手洗いへ足を向けた。

 ひとりが彼女から任された仕事は、キッチンとは名ばかりのドリンクを作る小さいシンクとその周りの掃除、それから在庫の補充と個数の最終チェックだった。

 ――そういえば、私の初バイトはここでお客さんにドリンクを作ったり手渡す係だったっけ。

 思い出された記憶の中の自分とは違い、ひとりはやるべき仕事を淡々と済ませる――流しの水垢を落とし、トニックウォーターがちゃんと出るか確認し、在庫の数を数えた。一通りし終わったころには、ちょうど皆も掃除を終えていた。

「よし、掃除はおしまいね!」

 次は合わせですよ! と、郁代が拳を突き上げる。

「今日の喜多ちゃんはすごくテンション高いですね……!」

「ええ! それはもちろん、私たちだけのお祭りみたいなものだもの!」

「そうだね」

 虹夏は郁代の物言いに、うんうんと頷き、今この時にここへ立てていること――そんな単純だが得難いことにしみじみと喜びを感じているようだった。リョウもまんざらでもない表情で腕を組み目を閉じている。

「じゃあリハやっちゃおうか――と、言いたいところなんだけど……ちょっと休憩にしない? 昨日から緊張してて疲れててさ」

 しかし、いくら虹夏の病状がよくなってきたと言っても、とはいえ、というところで、彼女は壁際に立て掛けてあったパイプ椅子を広げて座った。

「じゃあ私も休みます!」

「わ、私も……」

「元々そのつもりだった」

 開演までの残り二時間三十分。本来なら心臓の鼓動が早まって、息も浅くなり始める時間帯だが、今は考えられないほど心中が穏やかである。

 

 しばしの休息を後、楽器・音響・照明の調整とリハを終えた四人。開場の時間を迎え、郁代は受付へ、ひとりと虹夏、そしてリョウはドリンク係を務めている。自分たちの始まりをなぞるように。

 誰が言い始めたわけでもなく、なぜだろう自然と「バイト」することを願っていた。果たして郷愁からか、惜別からか、私たちには分からぬ真実だ。

 たった一つ。言えることがあるとすれば。

 ――生きているお互いの気持ちを感じたいから。

 いつだって、息をして、目に光があるのなら……、切り離せない糸を強く握れる「今」を大切にするべきなんだ。

「ご注文はいかがなさいますか?」

「な、何よ、よそよそしくして……。人がどれだけ――!」

 ひとりたちがカウンターで、今か今かとゲストの到来を待ちわびていると、初めに来たのはヨヨコたち、シデロスの面々だった。

「ヨヨコ先輩、虹夏さんのこと心配し過ぎて毎日目がバキバキだったんすよ」

「ええそうよ! あなたたち急に活動休止するって聞いた時からね! ところで体の方は……?」

 定石通り入ったあくびの茶々に、ヨヨコは開き直って物言う。途中で、自分は今病人に接しているのだ、と感じたらしく、鮮やかな声はどんどん声が小さくなっていった。

「大変ご心配をおかけしました――ってこれからも多分すごくかけるけど……。よろしくね?」

「ふん、早くメニューを見せなさい。じゃないと、ちゅ、注文できないじゃない」

 何かしらの王道を行っている反応だ、ひとりはそう思いながら彼女たちにラミネートのメニューを渡した。

「なんですかこれ~」

「さすが本城さん、お目が高いですねー。本日限定で結束バンドをイメージしたドリンクを出させてもらってるんです」

 メニュー表の右端に載せておいた楓子が気づいたそれは、いわゆるコラボドリンクと呼ばれているものだ。ちなみに、バイト時代に恵恋奈が考えてくれていた案の一部を今回使わせてもらった。

「じゃあ~、色が綺麗だから虹夏ちゃんのにするね~。はーちゃんはどうする?」

「ふーちゃんがそれを選んだんっすよね……」

 あくびは数秒押し黙って考えた後、「じゃあ、私は山田さんのでー」と注文した。

「これ、私も頼まないといけない流れ……?」

 いざ自分が注文する番が回ってきて、ヨヨコは露骨に狼狽えていた。恐らく彼女は気づいてしまったのだろう――このコラボドリンクは実はそこまで美味しくないということを。

 彼女は訝しみながら、カウンターの奥で見切れるように立っているひとりに訊いた。

「後藤ひとり、このあなたの「ひとりのあっあっ目が泳いじゃういちごオレ」って本当に美味しいの?」

「えっ、あっはい。すっごく、美味しいんじゃないでしょうか……。涙がでちゃうぐらい」

「そうなの? じゃあそれでいいわ。不味かったらただじゃおかないから」

「……は、はい」

 ヨヨコは中々怖いことを言ってくれるし、リョウは後ろからぽんと肩に手を置いて「ドンマイ」みたいな顔をするし、散々だ。

「ヨヨコ先輩はチャレンジャーっすねー。さすが!」

「おだてったって何も出ないわよ!」

「じゃあ幽々は、〝少女の生き血〟で」

「なっ――!」

「はーい、ブラッディメアリーですねー。たぶんこれ注文してくれるかなーって思って載せておいた甲斐がありました」

 これまでの流れを断ち切って普通にカクテルを頼んだ幽々を、ヨヨコは妬ましく見つめている。が、彼女はふっと鼻で笑い飛ばして矛を収めた。

 …………。

「お、お待たせしました」

 ひとりができ上ったものをヨヨコたちに手渡すと、彼女らは手早く捌けていった。しかしその途中で、ヨヨコは一度だけ振り返って、こう言った。

「〝頑張れ〟なんて、安っぽい言葉は言わない。だって、あなたたちはもう頑張っているんでしょう? それじゃ、ステージを楽しみにしてるわ」

 

 次にやってきたのは、猫々と恵恋奈だった。彼女らは、カシスオレンジとスクリュードライバーをオーダーすると、纏っていた深長な雰囲気を打ち破って、いつもの調子で話し始めた。

「先輩方、こんな場に私まで呼んでくださってありがとうございます! あの人たちって、シデロス、の人ですよね!? 初めて生で見ました!」

「この空間、全員顔が良過ぎて……ッ! グランドスラム――! 呼んでくれてありがとうございます! 家宝にします!」

 懐かしい騒がしさ――しかし、全力で場を盛り上げようとする空々しさが彼女らの声にはあった。彼女たちも色々あって変わったんだなと、ひとりはウォッカとオレンジジュースを混ぜながら思う。

 でも、今は分からないフリだ。

「どうやったら家宝にできるか分からないけど……。感謝するならリョウにしてよね。リョウが大山さんと日向さんも呼んであげようって言い出したんだから」

 そうだったんですか?! と猫々と恵恋奈は同時にキッチン脇の壁に寄り掛かっているリョウに視線をやった。

「……お礼、ってことだから――」

 リョウは彼女たちが向けた意識を受け止め切れず、そっぽを向いてしまった。

「ほーんと、リョウは素直じゃないね」

 虹夏は、こりゃだめだとジェスチャーをする。

「というか、さっきから気になってたんですけど、リョウ先輩は何も手伝いしなくていいんですか? その……ずっと虹夏先輩が接客して、ヒッピー先輩がドリンク作って……」

 猫々は含みがある言い方で、私たちに問い掛けてきた。きっと、いや、恐らく――虹夏が病気なら、その分を肩代わりしてあげるのが普通なのではないかと、遠回しに詰問しているのだ。

 確かになぜそうなっているのだろう。答えはない――しかし、それが答えなんだ。

「いいんだよ。これで……。みんなが私のことを心配してくれるのはありがたいけど、これは私が望んだこと。味わってるって言ったらちょっと違うけど、楽しんでるの。最後、をね」

 だから気にしないで、と虹夏はハッキリと言った。

「………………」

「………………」

 踊り場の郁代とお客さんの声、それから、少し離れた場所で談笑しているシデロスの声だけが聞こえる。きっと昔のままだったらこんなことにはならなかっただろう。

 ――でも、私たちは今にしか生きれないから仕方ないね。

「……あ、あっ、できました」

「ありがとうございます! ヒッピー先輩!」

「ありがとうございまーす」

 二人は楽しみにしてまーす! と言い残して離れていった。

 

 その後にやってきたのは、クリムトの夜――Ameとボーカルのワラビだった。せっかくだからと二人とも招待したのだ。白と黒で綺麗に染め分けられた髪の彼女――ワラビとはかなり久々に会う。

「あっギターヒーローさん……」

「あっAmeちゃん……」

 カウンター越しにひとりとAmeの目が合う。私も彼女のこのまま動く気配がない。

 どうしよう、気まず過ぎる。前に通話した時は私の精神状態がすこぶる悪かったから、ヘンなイメージを持たれてないか心配で、何より、そもそも雑談できるような才能も能力もない……。私が話しかけられたのだから虹夏に助けを求めるのは違うし、リョウはキラキラオーラ全開のワラビに恐れをなしていつの間にかフェードアウトしてるし。

「ん? どうした?」

 ここで結果として助け船を出してくれたのは、常に自分の好奇心で動いているワラビだった。

「あっもしかしてあれ? 以心伝心ってやつ? ちょーかっこいいじゃん! いいな~、ウチもAmeちゃんとソウルメイト? にまぢなりたーい!」

「結構長いつき合いだと思うんですけど、違うんですか?」

 虹夏がワラビの言葉に反応した。

「まぁAmeちゃんの性格的にね。そこがかわいいんだけどさ!」

「ちゅ、ちゅ、注文いいですか……っ!」

 この空気に耐えられなくなったのか、Ameはコーラを頼んで流れを正す。続いてワラビがジンバックを注文。これでひとりは仕事に取り掛かることができた。

「でもいつも元気なイメージだった虹夏ちゃんがねー……」

「ち、ちょっと、ワラビさん……」

「まっそういうこともあるよね。生きてたらさ。ウチも夜一人だとそんな気分になるときあるし――」

 ワラビはそれ以上言葉を続けなかった。励ましの言葉も、慰めの言葉も言わず、ただそこにある事実に寄り添っていた。ひとりは言葉にすることが難しいこのアンニュイな空気に、身が引き締まる思いでできたドリンクをカウンターに置く。

「ええっと、できました……」

「あんがと!」

「あ、ありがとうございます! えっと……後藤ひとりさん……」

「な、何か問題でも、あ、ありましたか?!」

 ドリンクに虫が入ってた? それとも、頼まれたものと違うものを渡してしまった?

 ひとりは自らに落ち度があったのかとあたふたするが、一方、私を呼び止めたAmeは言い淀むばかりで、答え合わせがまったくできない。

「…………。やっぱり、なんでもないです」

 ひとりの心情を表すかのように、虹夏が体をガクンとさせる。なんだか肩透かしを食らった気分だ。

 

 続いてやってきたのはシクハックのメンバー。

「お久しぶりです、志麻さん、イライザさん」

「ああ、久しぶり」

「お久しぶりデス!」

 志麻とイライザは口ではそう言いながらも、目線は私たちから見て右、彼女たちから見て左をずっと見ていた。何かあるんだろうか、と気になって皆で覗き込んでみると、そこには――――。

「ど、どうも。こ、この度は色々お騒がせしました……。腹を切って詫びます……」

 きくりが立っていた。

 ひとりの頭の中はすぐにクエスチョンマークでいっぱいになる。あの夜に虹夏から話を聞く限りでは、退院するとはいえ家で療養する毎日で外にはあまり出てこれない、ましてやライブハウスなんかには、というイメージだったのだが……。

「あー! ごめん、このこと話すの忘れてたよ。ライブのことで頭が満杯になってたから」

「え、ええっと……、別に大病を患ったからって、楽しいことをできなくなるわけじゃない……んです。それに……、君たちの演奏――楽しみにしてたから」

 絶句した。それも、私が私の認識に対して。

 ……………………。

「まあいいじゃないか、廣井。向こうにも色々事情があるんだからさ」

 自分が来るとは思われていなかった事実に少しだけショックを受けていたきくりの肩を、志麻はポンポンと窘めるように叩く。

「それよりも、後が詰まるから飲み物頼まないと」

「ワタシはジンジャーエール!」

「そうだな……、私はオレンジジュースで」

「んと、ええっと、じゃあ、りんごジュースで……お願いします」

「は、はい!」

 ひとりはプラスチック製のカップを三つ取り出し、一つにはクリアな黄金色を、一つには鮮やかな支子色を、一つには温かな雄黄色を、それぞれこぽこぽと注く。液体に寄り添うように張りつく光の流れを見ていると、まぁそうだよな、なんて心の中で呟いては寂しくなった。

「そう言えばお姉ちゃんにはもう会いました?」

 ひとりが自らの職責を果たす中、虹夏たちの会話は勝手に進んでいく。

「会いましたヨ! 外で掃除してまシタ!」

「廣井を見て二度見していたよ。笑っちゃいけないけど、完璧なリアクションだった」

「ぜ、全然連絡しなかったのは、わ、私が、わ、悪いけど……。で、出かけられるようになったら、自分で言いたかった、から……。色々……」

「じゃあ……、ここに来たってことは……、〝治った〟ってことですか?」

 リョウがきくりに質問を投げ掛ける。

 きくりは少しの間考えたのち、簡易的にではあるが丁寧に答えてくれた。

「……あっ、まだ退院しただけって、感じです。これから五年間何もなかったら……一応、治癒ってことらしい、です……。だから、まだまだ――……」

 きくりは、今日だって髪がまだまだ生え揃ってないからウィッグだし……、とつけ足す。だが、そう言う彼女の顔は少しだけ晴れやかに笑っていた。

「…………」

 彼女の微笑にどこまで突っ込んでもいいものか――まるで話すこと自体に禁制の則を布かれたかのように、リョウは自分が広げた話にも関わらずケリをつけられないでいた。

「ええっと……、ジンジャーエールとオレンジジュース、それとリンゴジュースでよかったですか?」

 ひとりはその隙間に差し込むように注文を復唱しながら、既に注ぎ終わっていたカップをカウンターに並べる。私自身、会話のいい切れ目を探していたから、ウィンウィンではなかろうか。

「ありがとうございマス!」

「あ、ありがとう……ぼっちちゃん」

「ありがとう。それじゃあ、積もる話はまた今度にしようか」

 志麻がそう言うと、三人はフロアの方へ足先を変えた。

 程なくして、シデロス、とりわけヨヨコの大声が箱の中に響き渡った。きっと、測ったら飛行機の騒音と同じぐらいのデシベルが出ていたことに違いない。

 

 ライブハウスの落ち着いた雰囲気はどこへやら、会場は一般的な同窓会のような懐かしさを孕む空気になってきた。ひとりたちが雑談をして次の客を待っていると、やって来たのはひとり、リョウ、郁代それぞれの家族だった。人数もさることながら、この面子が一堂に会するのは初めて見た。なんだか背筋が伸びるし、変な汗が出る。

「おー! ひとり! ライブ盛り上げに来たぞー! あと誕生日おめでとう!」

「元気そうでお母さん安心したわ~。ちゃんとご飯は食べてる? しっかり毎日八時間睡眠取ってる? それと誕生日おめでとう~」

「なんだかんだで、お姉ちゃんが普通に働いているところって、初めて見るかも。あっ、あと誕生日おめでとう」

「――――ひ、久しぶり、みんな。――一応言っておくけど、もう二十八歳です……」

 私はもう大人なんだから大声で祝わなくても、と言いたかったのだが、悲しいかな、真意はきちんと伝わらず、周りのリョウと郁代の父母からもおめでとうコールが飛んできた。

 私が招待したはずなのに、こうして顔をつき合わせてみると、ちょっとだけ後悔の念を抱いた。

「でも、勢ぞろいなんて珍しいですね」

 虹夏は珍しいこともあるもんだと、不思議そうに声を出す。

「さっきそこでバッタリ会ってね。ほら、君たちも、俺もそうだけど、日常生活であまり見かけない色合いの髪だからさ、すぐピンときちゃって」

 理由は分からないがとてもセンシティブなネタでありそうなそれを、父はあははと笑い飛ばしていた。我が父ながら、豪胆なのか無神経なのか……。

「ま、いいや、そういうことで……。それで――ご注文は何にしますか?」

 ひとりが覇気のない声で、本来この場所で為されるべきことを促すと、メニューを一目見るなり三人ともコーラに決めた。私が取るに足らない会話で消費した時間を取り戻すため、待ってくれている人を早く捌くため、ひとりが急いで体の向きをくるりと変えると、会話を聞き了解を得ていたリョウが注いでくれていた。

「何? 鳩が豆鉄砲を食らったよう顔して」

「い、いえ。どうも」

 ひとりは青に秘める藍に感謝しながら、家族に手渡した。

 

 リョウから受け取り、ひとりが渡す。そして「ありがとう。楽しみにしてる」と言われる――このシーケンスをこなす。実に安定した効率的な動き。

 ――――――だが。

 私の家族にはまるで動物園の折の中を見る目で観察され続け、郁代の母にはなんだか見定めるような視線を当てられ、リョウの両親にプロが使うようなカメラを回されているし、正直心の中はてんやわんやのしっちゃかめっちゃかだ。今日は「アレ」をやってみたいんだと、みんなに伝えた手前、それはかなりマズい。普段のライブとは比べものにならない緊張が、獲物のにおいを嗅ぎつけた猛獣のように背後からにじり寄ってきているのを感じる。

 ――落ち着け……。まだ当分先だ。

 気を紛らわせるために、リョウが用意している間、その手隙の時間に虹夏やリョウの表情を盗み見れば、彼女たちは彼女たちの色の笑顔を浮かべているのが分かって――。

「どしたのぼっちちゃん」

「いや、楽しそうで悲しそうで、なんかいいなって……思いまして……」

「悲しいことはいいことなの?」

 虹夏はひとりの方は向かず、前を向いたまま訊く。

「無表情より、無理な表情より、ずっといいと思います、私は――」

「…………」

 消極的ではなく、積極的でもない。私はただ、在るがままの存在を受け入れているだけ。

 もし心一つの在り方で、私という存在の在り方が変わるのなら。もし愛という千変万化の不確かさの名の下で、その陰に在る感情が私に色彩を与えているのなら。

 本質、「在る」ことは何よりも尊ぶべきで、素晴らしいことであるはずだ。

 虚しくなるほど広い世界の、苦しくなるほど狭い「世界」なんだから、私はそう信じたい。

「そうかもね――」

 ひとりは虹夏の小さな呟きにこくんと頷いた。完全に分かってもらうのは難しいけれど、幾億分の一でも理解してくれたら嬉しいなと思う。

 

「今日は楽しんでってください!」

 虹夏がこのフェーズの最後のお客――リョウの母にドリンクを渡して、やっと流れが止まった。参加してくれる人数を考えると、まだまだ人が来ることは明白だが、この一旦の休憩がどれほど大切か。バイトしてた時の自分があり得ないほどスゴ過ぎる。

「あれれ~? 私だけ仲間はずれにして楽しんでる人たちが見えるわね~」

 赤く元気で甘い声がカウンターの外から降り、ひとりが顔を音鳴る方へ向けると、予想通りの人物が立っていた。私は少し戯れのような反意を含ませて、その声に応える。

「――で、でも、それは喜多ちゃんが自分で……」

「本当にそうですよね……。私の出番少な過ぎますし……、結束バンド被害者の会でも結成しませんか、喜多さん……」

「え、ええ……?」

 期待していた郁代の反応は届かず困惑を極める私の言葉に、一緒の階上から戻ってきたPAが覆い被さるようにトンチキな話を吹っ掛けてきた。そして、畳掛けて、それに自分も乗っからんとする、ヒールとパンプスのタイトな音が近づいてこう言った。

「結束バンド被害者の会……? いいですね。私も一枚噛ませてもらいましょう」

「マネージャー――その仕事は、アーティストを一番近くで見守るだけでなく、よき理解者でありながら、一番のファンでならなければならない。マネージャーがアーティストを支えるように、アーティストもまたマネージャーを支える、連理の関係なのだ……。――――って、毎回飲み屋で愚痴聞かせられる身にもなってよね!」

「あっ、司馬さんと、ぽいずんさん」

 颯爽とこの場にやって来たのは、いまさら何の注釈も必要ない都と、ある意味私たちが上を目指すきっかけをくれた音楽ライターの〝ぽいずん♡やみ〟だった。

「ごめんなさい、もうその名前はちょっと……。黒歴史を思い出して吐き気がするんですよ……。普通に佐藤でも、愛子でも、なんでも構わないので、それだけは、それだけは――――!」

 確かに彼女――愛子の恰好は、記憶の中の地雷系からモノトーン系のライターらしい服装に変わっていた。ひとりは黒歴史を持つ同類ができて、こちら側へようこそ……、と少しほくそ笑む。

「というか佐藤さん、適当なことは言わないでください。私のマネージャーとしての威信が失墜してしまいます」

「そんなのとっくにないのと同じよ! 部屋は汚いし、部屋は汚いし、部屋は汚いし!」

 そうなんですか? と、都は強い念を込めた視線を私たちに向けてくる。

「い、いえ、そんなことは――」

「そんなことないと思います!」

 ひとりとリョウは沈黙し、虹夏は言い淀むなか、郁代だけはハッキリとした声で断定した。そんな彼女に都は期待に満ちているような目線を送っている。

「都さんは、お部屋は汚いかもですけど、優しいし、何より私たちのことをちゃんと考えて行動してくれてるんですから!」

「…………そうですね」

 都は何の感情もない乾いた肯定だけを響かせた。

「はいはい、もうそこらへんにしといてあげてー」

 虹夏に制されても、フォローしたつもりの郁代はきょとんとした顔をしている。今日も今日とて彼女のエンジンは全開である。

「あの~、そろそろ準備の時間ですよ~」

「そうだね、じゃあみんな行こうか」

 今日もありがとうございます、PAさん。いえいえ~。虹夏たちは気さくなやり取りをしていたが、もう目つきは仕事場でのそれだった。

「うむ」

「はい!」

「はい」

 惜しむらくは、招待した全員を私たち自身で迎え入れられなかったことだが、郁代のポジションは星歌が代わり、私と虹夏、リョウの仕事はバイト経験者の猫々と恵恋奈が引き継いだ。リョウは代打の二人への報酬として、私たち全員のサインが入った色紙を渡しては、将来は一億の値打ちになるから大事にしてね、なんて言っている。

「……はぁ」

 バックヤードへ向かう皆の背中を追いかけるひとりは、一人溜息をついた。しかし、憂いに満ちたそれではなく、期待や緊張、そういう私を突き動かす衝動たちが、沸騰した水が薬缶の穴から霧状になって飛び出てきたものと同じだ。

 不思議だ。何もかもが不思議だ。

 

 本番八分前。前室。

 虹夏がステージに繋がるドアを少しだけ開けて、お客さんの様子を窺う。自分たちがバイトまがいのことをしていた時には来ていなかった、ファン一号・二号、虹夏の父親、ライブハウス新宿フォルトの店長、それからレコーディングでお世話になった人たちも来ていた。恐れ多くも、何らかの特別な力がはたらいてここに集められたのだとしか思えない、異様さに招待したこちら側が面を食らう。

 そんなゲストはそれぞれ開演までの間思い思いに過ごしていて、歓談に勤しんでいた――――。

 

「ねぇねぇAmeちゃん。今日はAmeちゃんが作った曲やってくれるかな?」

 ワラビはまだ誰もいないステージの方へ体を向けながら、隣にいるAmeにちょっとした期待も含めて疑問を投げかける。当然知るはずもないと知りながら。しかし、想像とは違う答えが返ってきた。

「き、今日のセトリには絶対に『スターライト』は入ってません。うん、絶対に。――だ、だって、私がそうお願いしたから……」

「それは――どうして?」

 錠前と鍵のように答えたら聞かれることは明白だった。にも関わらず、Ameは数秒の間言い淀み、中々答えをくれようとはしない。それを見て、いつものようにワラビが「ごめん、変なこと訊いたね」と折れようとした時、Ameはその口を開いた。

「け、結束バンドさんには結束バンドさんだけの歩んで来た道があって、それは私にも、私たちにも、私、私たちなりの道があって。だ、だからまだ『スターライト』は馴染んでないかなって思ったんです。で、でも、お願いもしました――いつの日か相応しいと思えるようになったら、絶対大切な場面で演奏してって」

「そっか」

「はっはい」

 口では聞き分けよく了承を述べるAmeも、チラリと見えた目元には一筋縄ではいかない感情を滲ませている。そんなAmeを見て、ワラビはいつもの調子で笑いながら彼女の脇腹を小突き、言った。

「じゃあ、ウチらもこーゆーのやる?」

「……。まだ早い、ですよ」

 Ameは、私たちはまだまだ先に行くんですから、と注釈し、しっとりと口角を上げた。

 

「はじめまして。いつも虹夏と星歌の二人の娘の父です」

 虹夏の父はペコリと、ひとりとリョウと郁代の家族へ頭を下げた。

「こちらこそはじめまして! 本当にこちらこそ、ですよ。高校時代に虹夏ちゃんにバンドに誘われてから、毎日うちのひとりは楽しそうに過ごしてましたから。中学はあれだけつまらなそうに過ごしてたのに」

 ひとりの父は、持ち前の空元気さで場を和ませようと言葉を並べている。それに、それぞれの家族が自分の娘のエピソードをつけ加えては、話を弾ませ。スマホから幼少期の写真なんかを発掘して、見合っては「かわいい~」と互いに言っている。

 そこで不意に虹夏の父は、何かのフラッシュバックと溢れるばかりの感謝の念が湧き出したらしく、急に深く深く頭を下げて他の家族を驚かしていた。

「普段は大阪の方にいることが多く、大切な時にいつも隣にいられない不甲斐ない父親ですが、これからも娘たちをよろしくお願いします」

「ほらほら顔を上げてくださいよ、伊地知さん」

「今日はあの子たちの演奏を楽しみに来たんですよね」

 そう答えるのは郁代の父母だ。

「たくさん虹夏ちゃんの雄姿を目に焼きつけましょう!」

「それに写真も!」

 そう答えるのはリョウの父母だ。

「今は私たちが父だとか、母だとか、親だとか、そういう固定観念っていうんですか? 忘れてただのファンになりましょう」

「ええ、そうね」

「私もそう思う。ね、虹夏ちゃんのお父さんも、そう思うよね?」

 ふたりの不躾な物言いか、それ以上の身体を包む温さに出会ったのか、虹夏の父は顔をハッとした表情と共に上げ、実に不器用な笑顔で笑ってこう言った。

「ありがとう。本当に、ありがとう……」

 

「ねぇあんたは、ああいうのを聞いて、どう思う?」

 フォルトの店長――吉田銀次郎は、ドリンクを時折飲みながら何もせず静かに開演を待つきくりに問い掛けた。付き合いが長いゆえに知っていることも多ければ、感づくことも多いのは至極当然。

「…………」

 しかし、きくりは沈黙を答えにする。

「なーに、まだ両親のことに踏ん切りがついてないの?」

「――――。……んー、いや。そういうことじゃない。私だってさすがに分かってるよ、今を生きれているのは親のおかげだってさ。でも、いまさらどう向き合えばいいか……」

「そりゃあ、〝らしく〟じゃない?」

 銀次郎は、きくりの切実な戸惑いの響きに対してあっけらかんと言葉を返した。彼のハキハキとした声がきくりの空気を飲み込む。

「それ、できたら苦労しないやつだよね。ぎ、銀ちゃん……」

「それはそうねぇ。でも、あんたがバンドやり始めた理由って、自分を変えたいから、なのよね? 何よ、驚いた顔して。言われなくても分かるわよ、あんたみたいに今の自分を変えたくて音楽に飛び込んだヤツをどれほど見てきたと思ってんの。……ま、だから、関係も、考え方も、変わってしまったのは仕方のないこと――いいとこどりなんて相当運のいい人しかできないもの。それよりも、変わりたくて変わり続けた自分を褒めなさい」

 ずっと自分を認められないのは苦しいことよ、と銀次郎は言う。

「――つまり、自分らしく……ってことですか?」

「そそ、腐っても血の繋がった親子なんでしょ。始めは何話せばいいか分からないかも知れないけど、一言二言言葉を交わすことなんて、きっと自然にできちゃうわよ。全部そこから始めればいいの」

 銀次郎は笑顔でそう言うと、きくりの肩を軽くポンと叩いた。手から伝わるエールに彼女は一瞬顔をこわばらせたが、氷解するように元の状態に戻って、店長への感謝と自分への決意を込めた言の葉を震わせた。

「頑張ります」

 

「すみませーん、カシオレください」

 次子がワンドリンクを注文しようと、カウンターに立ち寄ると見慣れない人物が二人、番をしていた。一人は、ラーメン屋でもないのに、「カシオレ一丁!」と威勢のいい声を上げる茶髪で、もう一人は、綺麗な黒髪が特徴的だが、どこか人間としてタガが外れているように思える人だった。

 しかしどこか引っかかりを覚えて、作業中の二人に声を掛けた。

「ん? もしかしてさ、二人って喜多の知り合いだったりする?」

「そうです! 映え先輩には高校の時からお世話になってます!」

「えれもでーす」

 次子は、「映え先輩」という郁代にとってこれ以上ない適当なあだ名に、笑いを禁じ得なかったが、グッと我慢をして次の話題を口に出す。

「私も喜多と同じで秀華高出身なんだけど、もしかして同じだったりする?」

「本当ですか?! 先輩、お疲れ様です! 自分、大山猫々って言います!」

「大山、ね。よろー」

 次子は猫々の語威に多少の息苦しさを自覚しながら、流れとして目線をもう一人の方へ向けた。

「あー、私は日向恵恋奈っていいまーす。出身は全然関係ないところですけど~」

「日向、ね。うん、覚えたわ」

 高校時代の話や、ここでのバイトのエピソード。ドリンクを渡されるまでの間、三人はなんでもない雑談で時間を満たす。話の途中で思わず知った、もっと早く来れば結束バンドメンバーが店番していた事実に、次子は少しだけ後悔した。

「でもまぁ、喜多……それに後藤も、そんな感じだったら大丈夫か……」

 唐突な次子の独り言に頭の上に疑問符を浮かべる恵恋奈に、右手を顔の前で振り「大丈夫大丈夫、こっちの話」とフォローを入れる。ここらで頼んでいたカシオレも来たことで、彼女はカウンターから離れようと爪先の向きを変えたところ、あの「映え先輩」がやりそうなことを思いついた。

「ねぇ、写真撮らない? 〝邂逅〟記念でさ」

「えー、えれはポーズどうしよう~。ええっと……はい、決まりました。これで!」

「じゃあ自分はこれ!」

「おっけー」

 次子はさっと出したスマホのインカメを構えて、「はい、チーズ」との掛け声と共に二枚撮った。その写真を確認した彼女の表情は、口角がぴくぴくと動き、ついには耐え切れずに吹き出した。

「あはははは! いやあ、ごめんごめん、全然面白いところがないのが逆に面白くて。これ、喜多と後藤に送ろ」

「ちょ、ちょっと待ってください! 推しぴに送るなんて、えれ聞いてないんですけど~?!」

「いいじゃないですか!」

 ライブハウスに、恵恋奈の嬉しさを帯びた悲鳴が響き渡った。

 

「結束バンドの最後のライブは、本当に賑やかねぇ。ライブじゃないみたい」

「最後にはしませんよ」

 後方の壁に寄り掛かりながら一人呟いた愛子に、都は優しく軽く、そして重い言葉を掛けて近づいた。愛子は一種の観念の下、溜息をつく。

「はいはい悪かったわね。私だって、ファンの一人なんだから、そう思ってるわよ」

「それを聞いて安心しました」

 都も愛子の隣の壁に寄り掛かる。

「何? あの子たちに行ってあげないわけ」

「……そんな野暮なことはしませんよ。きっと誰も立ち入らない方がいいはずです」

 彼女たちだけの「世界」が広がっているでしょうから、と都は嬉しそうに寂しそうに言う。その表情を見て愛子は、怪訝なフリをして訊いた。

「そんな顔するぐらいなら、最初からもっとやりようはあったんじゃないの?」

「まあ、そうですね。私がもっと上手く立ち回っていれば、こうはならなかったでしょう。でも、見てしまったから、魅せられてしまったから。私はこの「楽しい日々」を何度繰り返したとしても、上手にはできないでしょうね」

 今度こそ都は悲しい表情をした。愛子も口を閉じて、目を伏せる。

「――私は、途中から、いえ、もしかしたら最初から、伊地知さんにどこか違う切羽詰まった感覚を覚えていたのかも知れません。でも、結果はこの通りです」

「…………」

「私もあなたも知っているでしょう――担当したバンドの解散だったり、掲載予定の記事が飛ばされたり、夢見て入った業界はままならない現実だけが転がっていて、何度苦しい思いをしてきたか。それでも、信じる心を、期待する心を止められないのが私たち人間じゃないですか――このライブが成功したらもっと有名にならせてあげられる。この記事がもっと多くの人の目に触れればこの気持ちを遍く届けられる。明日は今日よりももっといい日になる。だからこそ、伊地知さんが私を信用して話してくれた時、私もそれに応えたいと思ったのです。仮に――たとえ、結果が満足のいくものでなかったとしても、遺憾の残す結末になったとしても、一人の人間として、向けられた信じる心には報いたい。……そうは思いませんか」

 話終わった後、都はドリンクをずずっと一気に飲み干し、プラスチックゴミに仕立て上げた。彼女はそのカップの口を懐かしむように親指でなぞり、今の感情を言葉にしないよう耐えていた。愛子は、そんな彼女と自身に面倒くさい嫌気が差してポツリと言う。

「ほんと、私たちはいつの間に気持ちに理由が欲しくなっちゃったんでしょうね……」

「ええ……。大人というものは本当に嫌なものです」

 そう嘆いた後、都は手近にあったゴミ箱に空のカップを捨てた。そして、開き直った。

「今日はどうせ……、私、泣いてしまうのでその時はハンカチ貸してください。持ってくるの忘れたので」

「はぁ……。分かったわよ。二枚持ってきて正解だったわ」

 ――――。

 

 ステージへと繋がる扉をひとりはそっと閉める。

 まるでお重に入ったおせちみたいだと、ひとりは思った。

 ここにいる人は、結束バンドのライブのお作法を知っている人も、知らない人もいる。ライブのノリ方だって違うだろう。本を正せば、家族、友人、仲間、戦友――私と、私たちとの関係値がまったく異なる人々が、今この瞬間に集っている。私たちのケジメをつけるこの門出のために、集まってくれている。しょっぱいものの隣に甘いものがあったり、冷たいものがあれば温かいものがあったり――やっぱりそうなのだ。

「よかった~。お客さんのみんながちゃんと来てくれて。来てくれなかったらどうしようかと思ってたよ。最初のライブみたいにさ」

「あー、あれか」

 リョウは空を見つめながら記憶の海に釣り針を落とし、当たりを引こうとしているが……、魚影が掛かる前に諦めてしまった。

「もう、リョウさん、伝説の台風ライブのこと忘れちゃったんですか?!」

「憶えてる、憶えてる」

「絶対に憶えてないやつじゃん」

 リョウと郁代、虹夏はケラケラと笑いながら話をしているところに、水を差すようにロインの通知音が二回鳴った。ひとりと郁代宛てに次子からのメッセージだ。

『後藤久しぶり。さっき撮った写真あげる』

 文面はこれで、続いて送られてきていた写真は、カウンターを任せていた猫々と恵恋奈と一緒に記憶とあまり変わらない彼女が写っている、如何ともし難い統一感のないものだった。それよりも、同窓生の次子が来てくれたのかと、嬉しくなった。彼女には色々お世話になったのだ……。

 ということは、だ。郁代にも同じようなものが送られてきているのだろう。

「喜多ちゃんは、ささささんからなんて?」

「うーん、それは……ないしょ」

 郁代は小悪魔的に笑みを浮かべる。そして、彼女に写真を送りたいので、一緒に撮っても? と訊いてきた。もちろん、異論などなく、郁代が右手に持つスマホの画面内に収まる範囲に三人がそろりと集まった。

「ひとりちゃんは、もうちょっとこっちね……」

「あっはい」

「よし! みなさんいいですかー? はい、チーズ!」

 撮れた写真を満足そうに眺めた郁代は、ポンと送信音をさせて次子へ写真を送る。

 結局内容は教えてくれなかったな、なんて思っていたら、その画面を点けたまま後ろ手に手を組んで虹夏やリョウとまた話を始めるものだから、ちょうど彼女の後ろにいたひとりは文字の判別ができる程度トーク画面が見えてしまった。果たして読み取れたのは、送ったばかりの文章だけであったが。

その内容は――

『大好きのために!』

だけであった。

 私には、この真意は分からない。けれど、これは彼女なりの回答――なんじゃないかとふと思う。突き詰めていけば、彼女と私の根っこには同じものがあるのだから、そうだ。

「ん? どうしたのひとりちゃん」

「なんでも」

 ひとりは、優しく小さな太陽のような声で返事をした。ワンテンポ遅れてやってきた、柄にもない声を出した自分への恥に耳まで赤く染まる。

 ――まったく、私はすぐに調子に乗るんだから……。

 その熱が冷めるに従ってひとりは至極冷静になり――視界が急に広角レンズで見たような、すべてを一歩引いた景色なった。談笑する彼女たちの顔が遠くにあるように感じる。

 …………。

 今着ている黒いロゴパーカーも、今日で終いなんだろうか。

 笑い顔にしたって、いつかと全然違う。

 彼女たちの感情も、私が感じている感情も、全部の全部が今だけのもので、どう足掻いたって取り戻すことなんてできない。

 私は――――――――!

 ひとりは気づかぬ間に、涙を流していた。自分にも含む感情の成分が分からない、涙を。

「ぼっちちゃん。今日で終わりになってしないから――一生涯続けるんだから」

「だから、涙を拭いて? ね?」

 「誰か」のために、虹夏は決意を滲ませ、郁代は撫でるように言葉を紡ぐ。リョウは黙って私の肩に手を乗せて、その迸る体温を伝えてくる。その熱い血潮を伝えてくる。

 ひとりは、目から流れ出る極彩繚乱かつ無色透明、混沌とした純粋な思いを服の袖で一生懸命に拭き、出掛かっていた鼻水を勢いよく吸う。

「今は、泣いてません……」

 ふふ、と虹夏と郁代が笑う。

「ぼっちちゃんは面白いね。じゃあ、今ここで言っておくよ――私は今日泣かない。私は――みんなに頑張れって言われたくないから。それが今は一番悔しいから。」

 郁代は、私は泣いちゃうかも、と虹夏に軽く返す。私は内心、そんな軽々しく扱っていい話題なのかとヒヤッとしたが、何が虹夏の琴線に触れたのか、彼女は今日一番の大きな声で笑い転げていた。そんな彼女にリョウは脳天に優しくチョップを食らわせている。

「……ふう。よし、そろそろあれやろうか」

 知らぬ間に、壁掛け時計は本番三分前を指していた。

「左手出して」

 厳かにかつ躍動する心を忘れず、四人が作る円の中心で左手を重ね合わせる。そこで虹夏は言うべきことを思い出したらしく、おもむろに口を開いた。三人は真剣な面持ちで聞く。

「あっそうだ。みんなに廣井さんの言葉を伝えるね。私が病院で廣井さんと会ってた時のやつなんだけど――お互い子供のまま頑張ろう、だって。ちなみに解釈は自由らしいから。私たちも子供みたいにバカやって、笑っちゃおう。――――よし!」

 虹夏が体が膨れ上がるぐらい大きく息を吸う――。

「頑張ろう!」

 また息を吸う――――。

「楽しもう!」

 そして息を吸う――――――。

「せーの!」

「「「「おー!」」」」

 

 ステージへの扉を開け放ち、一歩一歩、右足左足、一定のリズムを靴で刻んでいく。

 頭の中はもうまっさらだった。私は、生まれたての赤子のような純白の思考回路を彷徨う。その中で一つの答えを求める声が頻りに響いていた。

 ――私のバンドをやる理由は、一体なんだろうか。

 私の、私だけの旅の起点だ。

 思い返す、思い起こす。ループループにRe:Re:…………。

 

 ――――――。

 人間は「自由」の刑に処されている、いつか誰かが言っていた。

 確かに、有形無形関係なく滅びるこの「自由」な世界は虚しいものだ。目に触れる、手に触れる、心に触れるすべては時間と共に崩れ続けて果ての無へと至る。実際に私たちを取り巻くすべては日々変わり続けて、元の姿には絶対に戻らない。けれども、こんな世界に生まれ、生きているからこそ、自分で選択をし続け、前へと進み続けるこの自由が、どれほど辛いものだったとしても「私」を惹引し続ける。

 だから、結んだ手がいつか切れたとしても、繋いだ線がいつか途切れたとしても。

 繋ぎ直そうとする強い自由意志がありさえすれば、抗えるはずだ。

 それでも、星も、宇宙も、人間も、いつか必ずすべてを持って消え去る「自由」な最期が来るのは分かっている――ならば、私が悩みもがくことに意味はないのか。この苦しみは無駄なものなのか。

 いや、それは違う……。――そもそも、それを問題と思うこと自体がナンセンスなのだ。

 ただ至る「世界」で唯一存在できるのは、この上なく自由な「私」だけ。諸「問題」は私の道で笑う花だと――。たとえ「自由」の渦中にあることを知らなかったとして、のうのうと生きることも、対峙して挑むことも、喜悦も、悲哀も、嫉妬も、慶賀も、それらすべては「私」の足元に転がっている、誰にも否定されないさせない努力と感情――いずれ路肩の花になるものであることに変わりないと信じている。

 それゆえに、道の終わりの目的地――世界の巨視的な視点において果たされるべき意味は何もなく、「世界」の微視的な視点にあっても為さなければならない意味は何もない。

 「私」――それは根源の核として形骸と猜疑を跳ね除けて、過程における「私たち」が想う、無常な世界と悲嘆の「世界」に、永遠の「意味」を与えるもの。

 有「意味」は、非「自由」。

 ――一つの「世界」が生まれる時、「世界」のすべてが結集する演者と観客を定る制約の光の中で、私たちは有限の無限を見る。

 スターリー。ステージ。ライブ。

 ――それは、日常と非日常の間隙であり、過去と未来の狭間でもある。

 私が今まで経験したこと、見てきたこと、聞いてきたこと、全部が詰まってる。悲しいことも苦しいこともあったけれど、それでも楽しかったって思えるような記憶が。

 だから今、やっと、分かった――私は、私が感じてきた感情を、みんなと経験してきた感情に、意味を与えたい。無意味になんて堕としたくない。

 つまるところ――――本当に私は、心から純潔無比な『永遠』が欲しいんだ。

 立ち止まって何かが来ることを待つのではなく、今の場所に辿り着いた私たちの在り方に報いるように、変わることを受け入れ、終わることのない私たちの「楽しい旅路」をひたすら続けたい。

 きっと永遠なんてロクなものじゃないって分かってるけれど、ただ一途に褪せない色と消えない物語を手に入れたいと思ってしまう。仮に「世界」の寿命を超えるものを「永遠」と呼ぶのなら、「音楽」は十中八九それに違わないはずで――だから私は、あらゆる感情と意味を保存し続けられる「音楽」をしたい。生み出し続けられるバンドをやっていきたい。

 大好きなものは、ずっと大好きでいたいから。あの言葉たちを覚えていたいから。

 カルマのように私は彼女たちに出逢ってしまったから、もう……どうしようもないんだ!

 

 ひとりは、ステージ上の自分の立ち位置に辿り着くまで、奇妙なほどゆっくり流れる時間の中でずっと「私」が鳴り響いているのを、もはや楽しんでいた。虹夏に「まさかぼっちちゃんが、ね……。緊張しないの?」と尋ねられた時も、緊張の二字はそれに上塗りされ、まったくと表現していいほど効いていなかった。

 呼吸は浅いが、全身に酸素は行き渡っており、視界も広い。ちょっとこの体調を恨めしく感じてしまうぐらいだ。

 スタンドからギターを取る。

 いつも通りならパシフィカのネックを握っているところだが、去年のあの一件以来修理に出したままであるので、今日はまったく違う新しいギターだ。

 すべての始まりと、すべての終わりには――――やっぱりこれじゃないと。

 ――レスポール・カスタム。

 艶やかで黒々しいボディ。まだ瑞々しい音。

 父の年季の入ったカスタムとは違ってこれはこれでいい。大枚はたいて買ってよかった。

「――――ふう……」

 ひとりは「新しくて古い」ギターのチューニングと足元のエフェクターボードを軽く確認して、深く息を吐き出した。スポットライトに強く照らされて眩しい。

 私はどうしてここにいるのだろう――ひとりは前触れもなく強烈な浮遊感に襲われた。まるでこの世界からはみ出してしまったかのように。それでも、ひとりは光に手をかざして手の甲の朱を見、そして口角を世界の誰にも気づかれないぐらいだけ上げる。

 

 私たちは、終わるには早過ぎるから。まだ遠い、濃紺色の空を望ませて。

 『孤高』。『親愛』。『結束』。『永遠』。

 私たちは十年という歳月を共に過ごしたが、それぞれまったく違う考えを背負って、それぞれがしたいことのために日々生きている。私たちは決して同じ人間ではないなど、白日の下に曝すに及ばないこと。けれど、心に刻み決めた道があるから、茨に塗れた前途多難な明日へと、私たちは同じ人間のままどこまでも永く歩いて行ける。

 はぁ……なんて美しいんだろう。なんて素晴らしいんだろう。私になった過去と、私になる未来全部が嘘みたいに輝いて見える。未だかつて、こんなにも私が私であったことに感動した試しはない。反転、変わりたい変われない面倒くさい「私」はやっと私になれたんだって分かる。

 繋いで束ねて結ばれた、賛美されて然るべき美しさ――みんなにもらった言葉を、私の中にある決意と祈りを――私は不完全で不安定で、それでいて完璧な一対の翼へと仕立て、今、私、アンダーグラウンドから、光の中へ羽ばたくのだ。きっと雨雲を突き抜けた先には星月があって、私たちがいずれ超克しなくてはならないすべてが広がっているはずだ。

 

 ――バンドを組み、様々な人たちに出会い、ひとりでは今まで見えてこなかった景色が広がっている。スティックが一曲目へのカウントを刻み、結束バンド四人の最終ライブが今始まる――。

 

 虹夏のエイトビートが打ち鳴らされ、次にリョウのベースがずっしりとフロア全体に重圧を掛ける。その中で郁代はスタンドマイクに向かって大きく口を開けた。

「今日は来てくれてありがとう! 私たちにとっても、みんなにとっても忘れられないライブにしようと思います!」

 彼女も演奏に加わる。綺麗なカッティングがとても耳に気持ちがいい。

 さぁ次は私の番だ。最初と同じように、私は最後の一ピース。私たちが全員集まって、縁を繋いだお客さんがいて、その中でギターを弾けるなんて、これを楽しいと言わずして何を楽しいとするのだろう!

 ひとりは頭を空っぽにし、もはや弦を叩くようにしてピックを振り下ろした。

 ネックに指を縦横無尽に這わせて編み出されるそれは、内心を示すかのように激しく、混沌として、この場の空気を一気に変える――仲間うちの集まりから、プロのライブへと。

 皆は満足したようにその凶暴な旋律に笑って、徐々にボルテージを高めていく――――。

 あの時も、同じように考えていた。

 ――私がバンドをやる理由について。

 どうだろうか。私は、若かりし私が満足できる答えを出せただろうか。

 でもどう理屈をこねたって、結局はみんなとちやほやされたいだけ、かもな。本当に。

 フィードバックノイズの甲高い音が箱を駆け巡った後、曲は始まった。

 『月並みに輝け』

 ライブをやりたいと言って、それをみんなが認めてくれた時から、私はずっとセトリを考えていた。そうして、今までにリリースしてきた曲を改めてスクリーニングしたのだが、それはもう不自然なほど自然にこの曲は私の心を離さなかった。

 始まりの私と終わりの私が、真実という名のイコールで結ばれていた。

 粒が揃った音を飼い慣らし、一滴また一滴と雫が水面に落ちるようにハーモニクスが響く。

 過去の自分と共鳴するが如く深く息を吐いて、そして、曲の勢いは増していく。

 痛みに始まり、切望し、希望を幻視する。

 「ヒーロー」は無名の頃を懐かしみ、透明な者は「ヒーロー」へ憧れを寄せる。

 それでも、回帰を望む私たちでも、肉体が時間と空間に縛られているからこそ、心と魂だけはそれを超えて永遠に臨むことができる。

 楽しく自由に、私と私たちで、夜空の一番高いところに座る月以上に輝きたいんだ。

 幾重にもコードと渦巻く感情を重ね合わせた約四分は、瞬く間に過ぎ去った――。

 残響が消え、照明が通常の白色に戻ると、リードとして弾き狂っていたひとりをはじめとして、虹夏もリョウも郁代も、肩で呼吸をしているのが露わになった。

 引き潮のように静けさを得たステージで、ひとりは目線を指板から外して前を向く。

 目に入る限りの全員――もちろん他の三人も、充足した顔をしていた。私も顔の筋肉が勝手に動いて笑顔にしていることだろう。まだ始まったばかりとはいえ、この「おせち」みたいなみんなに楽しんでもらえて何よりだ。楽しんでもらえるのか考え過ぎて、楽しいはずの今日に憂鬱を感じていたのは、事実あることだから。

「改めまして~、結束バンドです! ええまあ、言わなくても分かると思いますけど!」

 郁代は、全員知り合いだと調子が狂うわ! と気恥ずかしそうに右手で顔をパタパタと扇いでいた。この中々お目に掛かることのできない表情を逃すまいと、最前列の一号、二号はカメラで一瞬を切り取る。

「せっかく撮るなら、かわいく撮ってね!」

「あーそうだそうだ、今日は撮影オッケーにしてるんで、皆さん自由に撮ってください」

 郁代の天真爛漫な物言いで思い出したのか、虹夏が客席に向かって今日だけの特別ルールをお知らせする。せっかくだから、みんなの視点から見た私たちの記録を残してみたいんだと。あとでひっそりとネットの記事にもなるらしい。写真や動画――それらは私とは縁遠いもので普段は無意識的に忌避することが多かった――が、みんなとの写真、欲しくないと言ったら一生刑務所から出てこれないぐらいの大ウソつきになってしまう。

「………………ん?」

 一人物思いに耽るひとりはある光景に現実に戻された。

 プロのカメラマンである一号と二号よりも一回り大きいカメラを構えるリョウの父と、よっしゃー! と拳を突き上げ意気揚々とビデオカメラを回す自らの父……。圧倒的そういうことじゃない感。

「はい! 皆さんカメラの準備が整ったみたいなので――」

 郁代がリョウに向かって目線を送る。

「〝あれ〟持ってきて」

 リョウはまるで裕福な氏族が手を叩いて使用人を呼ぶように、「何か」を呼び寄せた。して、ステージの下までやって来たのは猫々と恵恋奈の二人だった。彼女らの両手は蝋燭が立てられたホールケーキを支えていた。

「リョウさん! 人使い荒いです!」

「これ終わったら、感謝のサイン書きしてくださいね――ッ!」

 リョウは、はいはいと軽くあしらい、ベースをスタンドに置いた。それに続いて虹夏もスティックを、郁代もギターを置いた。そして、フロアへと降りる。

「ほら、ひとりちゃんも早く早く!」

「あっ、はっはい!」

 郁代に促され、ひとりも彼女たちと同じようにステージから降りる。

 このライブの日程が決まった時に、約束だからライブで誕生日を祝ってあげるね、と虹夏から聞いてはいたが、まさかこんな序盤にやってしまうとは思わなんだ。この流れを初めて聞いた時は驚いた。もっと後半にやるものとばかり考えていた。

「はーい! 皆さんご唱和お願いしまーす!」

 星歌が黒子のようにサッとチャッカマンで数本の蝋燭に火を灯すと、郁代が音頭を取ってハッピーバースデートゥーユーと、微妙に足並みの揃わない歌を歌ってくれた。

 締めにひとりが蝋燭に息を吹きかける――――。

「あ、ありがとうございます」

「ぼっちちゃんは、何かお願いごとした?」

「ええっと……、世界平和? ――嘘です嘘、いや嘘じゃないけど。私のお願いごとは……使い切れない莫大なお金が転がり込んできますように、です。ええと、あっいや、パッと思いついたのがそれだったので……」

 一同に笑いが巻き起こる。

 ああなんで本当のこと言っちゃうかな、私は。恥ずかしい……。

「ぼっちちゃんらしいね」

「ぼっち、それが叶ったら私が欲しいものを好きなだけ買ってくれていいよ」

「なんで私が――リョウさんの欲しいものを?」

 止まぬ騒めきの中、ここで郁代がパンパンと手を叩いて、皆の視線を集めた。

「はーい、みなさん写真撮りますよ~! 一号さんと二号さん、よろしくお願いしますね!」

 呼び掛けられたカメラマンの二人は、ステージ上に三脚を立ててカメラをそこにセットしている。大阪のライブには来られなかった二号なんかは、「やっと結束バンドさんに会えた……」と歓喜の涙に湿らした声で心を漏らしながら。

 程なくして、カメラと会場のセッティングが完了する。

「みなさん、タイマー十秒で撮りますのでよろしくお願いします! はい!」

 ピッとカメラからタイマー開始の合図が鳴ると、一号と二号は急いでステージを降りて画角に収まる場所へとやって来た。そして、十秒後――。

 眩しいフラッシュと共に、パシャッとシャッターが閉じられた音が響いた。

 綺麗に画に収まるようひしめき合っている集合体にとって、笑顔かつ目をしっかり開けながら十秒間は待つことは重労働であったらしく、写真にOKが出た瞬間、得も言われぬ弛緩した空気になった。

 ケーキも下げられ、この場は終わりのようだ。

「みなさん、ご協力ありがとうございました~! まだまだライブは続きます!」

 ちょっとだけ待っててください、と郁代が観客へ声を掛け、結束バンドは再びステージに上がる。

 軽い確認だけして、四人は互いに見合わせた。肌から再度息が整っていくのが感じられる。

 その高まりで、阿吽の呼吸のように照明が暗くなり、合わせて期待感から聴衆も静かになった。

 私は暗がりで、思った。そして呼吸をした。

 ――私が放つ音が「世界」を作る。

 ――みんなの放つ音が「世界」を作る。

 ひとりは、スイッチはリアのままエフェクターを踏み、一弦を鳴らし、手早くゼロにしていたボリュームを上げていく。絶妙なビブラートの最中、ワンテンポ走るようにドラムが打ち鳴らされ、その後にベースとバッキング、そして郁代の歌声が入った。

 愛すべき今日という日。

 無駄にするのも、かけがえのないものにするのも、すべてがココロの行方次第。

 誰も干渉できない、私だけの秘密基地。私たちだけの秘密基地。

 明日もきっと帰りつく。

 埋めるは、みんなの楽し気な声。撫でるは、みんなの楽し気な音。

 赦された場所で、私は一体何を夢に見る?

 静かな落ちサビにパノラマは燦々と輝いて、それぞれの楽器が波状にまた自我を出した。ベースは目立ちたがり、歌声はさらに伸びやかに。ドラムはハイハットのペダルに力が入り、ギターは軽く早く気持ちよく。

 アウトロ後六小節の空白を埋めるように鳴る、残響はどこまでも懐かしい匂いがした。

 しかし、それだけで演奏が止むことはなかった。シームレスに次の曲へ繋がる。

 チャキっとしたシンバルの音がくさびとなって、新たなテクスチャーがステージの床からせせり出てフロアまでエキセントリックな三原色が染め上げていく。

 初めは、夕焼け。

 私の嬉しい、楽しい、さみしいの感情が混ざり合って、一生このままでいたくなる。

 私の手を引いてくれた彼女たちと、一生同じ景色を見ていたんだ。

 ああ、いつまでも忘れてなんてやりたくない。

 終わりは、朝焼け。

 私の苦しい、悔しい、虚しいの感情が溶け合って、濁ってゆく……。

 ポツリポツリと降って湧く、惜別の感傷が、逢瀬の真蹟が――パレットから跳ねて灰色の私の頬に。

 ああ、いつか忘れてしまったら、また互いを刻みに行けばいいのだろう?

 これはきっと「私」じゃない。

 それでもこれは、きっと私なんだ。

 決意は声に、迷いはギターに響かせ乗せて。

 過去の私の想いを乗せたギターリフで、今締める。

 地球を回る振動のように、この曲がこの和音が地を震わし、どこか遠くに届けばいいなといつも思っている――。

 スポットライトの明滅が止まり光の膜が上がって、演者と観客の時が再び交わった。

「はい、二曲――『ひみつ基地』と『僕と三原色』を続けてお届けしました。いかかでしたか?」

 郁代は、スタンドマイクに語り掛けるように話す。特にメンバーの家族が反応してくれた。

 以前のライブは専ら虹夏と郁代のダブルMCだったが、今回は負担の軽減を目して通して郁代が話し続ける構成になっている。ひとりとリョウはというと……、言わぬが花というやつだ。

 つまるところ、郁代の発言は他全員の想いと結ばれているということである。

「――とまぁケーキとかあってイマイチ実感は湧かないんですが……まだ三曲目、なんですよねー。ですが、これが最後のMCパートです! これから先はノンストップなので、ここで話したいことを話し切りたいなーと思ってます」

 彼女はこほんと軽く咳払いをし、360度ぐるりと見渡した。ステージもフロアも関係なく。

 そしてはにかんだ。

「うん、まずは〝ありがとう〟。それに尽きるわね! リョウさんも虹夏さんもひとりちゃんも、それからお母さんにお父さんも……。これ以上は時間の関係で割愛させてもらうけど、今日この場にいる人全員、一人一人の顔も名前もちゃんと憶えてるから。……やっぱり、この世に生まれ落ちることもなければ、今ここには立てていないし、楽器を握っていなくても立っていない。なんなら、焚きつけられていなければ、いまだに私たちは仲良しクラブを続けていたかも知れない。それはそれで羨ましさがないわけじゃないけれど、ここにいる「みんな」と歩めたから、こんなにも美しくて失ってしまうことが怖くてたまらない「今」を味わえてるんだって、今は感じてます。だから、今日は私たちの歌で綺麗にラッピングをして、感謝の気持ちをあなたに届けるからキチンと受け取ってね!」

 郁代は、右手を前に突き出して高らかに叫ぶ。彼女の両親の比重が多い歓声が返ってきた。

 ひとりは目だけを動かして自らの家族へと視線を向ける。すると、ちょうどよく母がこちらを見つめていて、微笑み返してくれた。面映ゆい。けれど、温かかった。

「じゃあ、虹夏さん、みなさんに言っておきたいことがあるんですよね?」

 郁代が後ろを振り返って、虹夏と顔を突き合わせる。黄色い髪が「うん」と揺れた。

 虹夏は、ドラムセットの左に置かれたコーラス用のマイクへ顔を突き出して、小さく息を吸う。

「私が言いたいのは、一つだけです。それも喜多ちゃんに先言われちゃったけど……。今日はこんなにも調子がよさそうに見えると思うんですけど――実際そうなんですが、反動があるって感じてて、根拠はないですけど。しかもたぶん大きいやつ。……きっとその期間、私はたくさんの人に、たくさんの迷惑を掛けると思う、何もかもに手がつかなくて嫌な思いをさせると思う。でも、簡単に私のことを諦めてくれないのが「みんな」なんだよね。――だから、先に言っておきます……ありがとう。私今、めっちゃ幸せです!」

 彼女は今日一番の大声を出して、その胸中に秘めた想いを発出した。満足そうな表情を浮かべ、アイコンタクトでマイクの主を郁代へ返す。

「うん……、こちらこそ。本当なら、ひとりちゃんとリョウさんにも一言欲しい……んですが、時間も押してるので、端折ります!」

 観客――私の家族とリョウの両親の残念そうな声が大きく聞こえる。それと同時に私の心の中には安堵の柔らかな風が流れていた。言いたいことはパフォーマンスで伝えるので、それで手打ちにして欲しい。

「はい! それで、そろそろ次の曲に入ろうと思うんですが、その前に! 声出しお願いします! 恥ずかしいかも知れないけど、今は忘れて! 全力で!」

 郁代は顔を紅潮させて、太陽のように目を輝かせる。そして、胸がはち切れんばかりに大きく息を吸った。

 マイクを使わず、声を張り上げる――。

「最後までついてきてくれますかー!」

 挿げ替えることのできない「みんな」も、気恥ずかしさが残る声を上げる。

「まだまだ! 全力で楽しんでくれますか~!」

 恥ずかしさが抜けてきて、強固な感情が耳に届く。

「最後に、結束バンドのこと、これからも愛してくれますか~!」

 郁代の魂からの渇望に呼応するよう、ライブが始まって以来一番大きな声が噴き出した。

 その気持ちは、私の身体を今突き貫いて目を離せなくさせる。

 この高揚感を私は知っている――毎回ライブで感じていたことだ。

 でも私は分からない――一線を画す、なんだこの悲しさは。なんだこの愛しさは。

 別に知らない感情ではないし、味わったことのある感情だ。だけど、見知らぬ色をしていた。

「よ~し! 次の曲! 『僕、今、アンダーグラウンドから』!」

 ひとりの戸惑いは他所に、ライブは四曲目に突入する。

 まばらなクラップを超えて、歌詞に合わせたレスポールを鳴らすと、心はずっと正直になった。

 あの日観た、ヒカリみたいに光りたくて。泥臭く煌めいたここに身を投げたんだ。

 私は今、「僕だけの願いごと」をまた見つけたよ。

 私は「私」に投げ掛ける。けれど答えも応えも、要りやしない。

 ――きっとそれは、「私たち」だから。

 俯く私を愛してくれた「君」は、シンコペーションみたいに背中も押してくれた。行く先を知らない流れ星を、その瞳の中に導いて。

 世界のハウリングをぶち抜く、耳を引き裂くボリュームと、気持ちを代弁するゲインのつまみ。

 すべては、それだけで、いいんだ。あとは私が奏でて結ぶから。

 ――――――。

 スイッチングの尻切れトンボを感じさせないまま、白黒市松模様の舞台は異なる痛みへ切り替わる。

 スポットライトが雷の瞬光のように瞬いて、プツリと消える。そして、郁代の――

「『光の中へ』!」

との掛け声と共に、一気にステージが白く照らされた。

 ひとりは子気味良く六弦を弾いて、イントロを刻んでいく。

 四人で始まって、少しだけ一人で、また四人に戻る。

 ドラムとベースに支えられながら、突っかかるようなリードを弾いて、考えた。

 一つの終わりが一つの「世界」の終わりなら、一つの「世界」の始まりは一体何を示すのだろう。

 偶然性の一致。必然性の放置。

 この嘘みたいな奇跡の「世界」の始まりは、恐らく誰にも同じ意義はない。

 スネアドラムが叩かれる。ベースを弾く右手人差し指と中指が踊る。鮮やかにコードと声が響いてく。

 そして、私の爪弾くギター。

 言葉にしてしまったら、意味が霧散してしまう。

 駆けずり回って手に入れた理想も。脳みそかき混ぜ浮かんだ幻想も。

 きっともっとずっと先へ――今を延ばす私たちの日々は一概にして脆く儚いのだ。

 円環のように、日常が非日常へ、非日常が日常へ。

 廻るすべての光の中で、声を重ね合う。

 どこまでも――……。

 世に出されている曲の範疇はすでに終えたものの、まだ止まりたくないと四人は叩き掻き鳴らす。やがて諦めたように困り笑顔で顔を見合わせると、ジャーンとそこで打ち止めた。

 拍手が巻き起こる。郁代は言葉を発さず微笑みだけで気持ちを返す。

 この空気が冷めやらぬうちにと、彼女は少しだけ振り返って虹夏に合図を送った。ひとりもそれに合わせて、ある種のトラウマを払拭するように二弦ペグを確認する。

 ひとり、虹夏、リョウ、郁代――四人は輪になって拍動を合わせる。そして、虹夏のスティックカウントを以て六曲目が始まった。

 ファンキーさを含みながらも、大人な音楽にはなり切れなかった青いメロディー。

 刻々と進む時間の中で、あんなに遠くの「星」が眩しい。

 でも、「過去」から届いて、「今」で光って、「未来」へ進む――まるで私たちみたいだ。

 存在意味を探して走って、幾星霜。もう離せない離したくない星座線。

 今でも私は私が嫌いなまま――それでも、「君」が切なる願いに笑顔をくれた。だから……、どうしようもなく月の光が悲しく見えてしまう。そして同時に愛おしい。

 あの文化祭のアクシデントポイントを乗り越えて、ひとりはギターソロに入る。

 音階を駆け上がって、星々に手を伸ばす。昔とは違ってちゃんと届いたかな。

 何事もなく、ソロが終わる。

 ひとりは、ライブハウスの天井を見上げた。

 そこにある照明の光が散乱して、まるで誰かが手を広げて私を待っているように見える。そんな風に感じていたら、声が聞こえた。「私」の声だ。

 ――――――――――?

 私はそれに笑って返す――私は私で愛してもらうさ、と。

 静かな深夜、外に出た時のように、澄み渡る空の暗さに目が慣れて星が瞬き出した瞬間。私もまた彼女たちと合奏する。色とりどりの恒星光放って、ひとりの中の意志がより固くなる。

 曲の終わりは、まるでプラネタリウムショーの終わりのように綺麗で切なかった。

 舞台に降る光がてらてらと、指板から指を離さない私たちを照らす。

 消えゆく音に合わせて、鈍く青く暗い光に会場が包まれていく――最中、シンバルの最後の振動も微かに逝って、通常のライブではありえないぐらい静かになった。

 数秒、数十秒、はたまた数分。

 この「世界」にいる人々の時間感覚が狂い始める頃、

郁代が密かに持ち替えたアコースティックギターの三和音を鳴らして、暗闇に寄り添うように優しく歌い始めた。

 眩いスッポトライトが彼女だけを光の下に曝し出す。

 置いていかないで――息も絶え絶えにそう願っていた少女は、急かされ十年だけ歳を取った。

 汚れて見えた青春時代は、今では綺麗なものに見える。

 それはたぶん、時空的にも、心情的にも、私が過去の私と離れているからだ。

 遠くにあるものは、綺麗に見えるもの――一番と二番、私と「あなた」の距離と同じように。

 だから、きっと味わった苦痛もいつかは宝石のような、眩い記憶に変わるはずなんだ。

 でも、私は「今」だけに執着している。そしてこれからも心を預けていくに違いない。

 四重にも掛けたディレイのこだま。私の感情を鏡のように反射して、心がふやかされていく。

 今、この瞬間、この刹那――「あなた」は何を考えて、何を感じているんだろう。

 分かりたいけど、分からない。分からないけど、分かたれない。

 これこそが、私のクロノスタシス。

 これから夜が終わって、暴力的な朝が来る。そして、息もできない昼を巡って、また夜へ。

 ギターを弾いて、バンドを鳴らして、「あなた」の音色で、いつだってあの日々に帰れる。

 アコギの爽やかな音色を聞いて――。

 ベースの捻くれた優しい音色を聞いて――。

 ドラムの頼もしい音色を聞いて――。

 私の好きだと言ってもらえた音色を聞いて――。

 諦めきれなさをねっとりとしたギターに込めて、これから私は私の時計の針を掴んで待つ。

「『秒針少女』、でした」

 曲が掠れ消えた後、郁代が繊細に曲名を告げる。静けさの中には鼻をすする音が混じり、チラリと一瞬だけ目をフロアにやれば、夕焼けのようなライトに照らし出され、ぬらりと頬を濡らしている人もいるように見えた。

 ひとりは息を呑む。

 一つは、人々が咲かせる感情の花に。

 一つは、これを生み出すことのできる、ライブと音楽の偉大さに。

 一つは、フラッグシップとして、フロントマンとして、これを担う重責に。

 不確定で不安定な、沸き立つ空間。

 喧騒にあらず、静寂にあらず――ついに時が来た。

 ライブハウスにいる全員が見つめる中、ステージの上で郁代とひとりの立ち位置が入れ替わる。

 二人の間に言葉も応援もない。もちろん四人の間にも。

 観客の心配する気持ちが、どよめきを通じてステージライトの下へ届けられる。

 これまで一度も立ったことのない場所に立ったひとり。だが、自分の緊張、他者の心配、そういうものは心を動かすに足りなかった。

 ただ、私の心を満たして、体を突き動かすのは――、

――憧れ。

 といえば恰好がつくが、実のところ緊張を通り越して何も感じなくなっただけではある。

 それでも、それは本当のことだ。

 私があの日夢想したのは――?

 いつもやった妄想のアリーナライブは――?

 誰が、どこで、何を、していたんだ。

 後生の頼み、私にはできない、なんて一度だけ忘れさせて欲しい。

 それに――それに、だ。

 私はみんなに伝えたい。伝えたいことがある。

 ギターだけじゃなくて、この声で、この身体で。

 「ヒーロー」たちの気持ちに、愛に、応えるには、報いるには、逆立ちしたって足りないんだ。だから、だから……。

 ひとりははマイクの前に立って、真っ直ぐ観客を見つめて、振り返って、笑顔のみんなを見つめて。

 私は、それら瞳に尋常じゃないほどの高揚と興奮を覚えた。胸が高鳴るほどの未知の感情が、内側から湧いて出て溺れてしまいそうになる。

 知らなかった――ここから見える景色はこんなにも広いのだと。

 ひとりはその感動を伝えたくて、これまでの感謝を伝えたくて、息を吸って口を開いては掠れた音が出て閉じて、口をパクパク逡巡して。それでもやっぱり……でもやめて。

 ひとりは自分の不甲斐なさをひしひしと感じて、結局止めた。そういうことを伝えたくてこの場所に立ちたかったんだから、そうすればいいだけだ。リョウと郁代にスパルタな手ほどきを受けて、今日この一夜を迎えたことを思い出せ。

 ひとりは無言で後ろを向いて、虹夏に視線を送る――もう始めよう、と。

 選曲は……、あまり悩まなかった。

 高校時代の暮れにひっそりと出したEPの中の一曲。それ以外には収録されていない幽霊曲。サブスクにも出してないし、聞く機会はほとんどない曲。

 ファンのみんなは、いつかライブで歌ったり、サブスクで聞けるようになることを期待していたけれど、三人に対する引け目や私の羞恥心が耐え切れなかった。

 今だって私の歌声に価値なんてないと思ってる。聞くに堪えない醜悪な歌声だと思ってる。

 それでも、渦巻く暖かで寂しい感情の前では――それも手段に過ぎない。

「『夢を束ねて』」

 虹夏が茜色に染まるステージにカンカンカンとスティックの音を響かせて、私がイントロを弾く。

 手は震えず、口はわななかず、声はすっと。

 ひとりはブレスをして、初めてその歌声を衆目に晒した。

 一秒一秒、一小節一小節、心の正鵠射るよう進んでく――…………。

 十年前から今日まで、いつも私は、「明日」が来なければいいのにって思ってた。

 ギターと「夢」がないと満足に生きられないくせに、最近なんか酷いぐらいに見失って苦しんで、手が届かない願いだけが私の心臓を動かしてた。

 情けない私に、「今」が続く限り、音をなぞって身を預けて微笑む権利があったらいいな。

 振り絞っても出ない歌詞。寝食忘れて鳴らす音符。

 その苦しみも喜びも、花のように咲いてしまったから、私は期待してしまったんだ。

 ――変わらないでいて、なんて。

 壊れた夢と傷ついた心。夕焼けに染まったあの憧憬が慰めてはくれるけど、いつかは露と消えてしまう。だから土台無理だってことは知っていた。

 けれど……、けれど、変われない私が花束作って、「あなた」に届けるから、さ。

 三連符とシャッフルじゃ隠し切れない弾む気持ち。どうしたって、隣同士いつかまた信じてる。

 私は……直接言えるほど大人じゃないから、こうして歌にして。

 ずっと、ずっと、ずっと……。

 手を引いて引かれて、身を任せ任せられ。

 零れ落ちた星屑の歌を紡いで、線で繋いで、束ねよう?

 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずーーーっと……!

 本当に、本当に「あなた」と出逢えて、よかった!

 ――――――。

 ――――――――――――。

 ――――――――――――――――――――――――。

 朱色が闇に溶けていくように、ひとりの歌声、みんなの楽器が空気に混ざって見分けがつかなくなる。

 一瞬の無音。そしてやってきた万雷。

 ひとりはあまりの音圧に、意識がいつも通りのそれに戻されそうになった。小さく頭を振ってその思考を自分と切り離す。

 まだ、この私にとってありえない状態を止めるわけにはいかないんだ。

 私は、うるさいぐらいに頭の中を駆け回る逸る感情と、全身を流れ巡るマグマのような血液を感じて。出せる最高の色を滲ませて。ポップノイズもリップノイズも気にせずに、マイクへ立ち向かう。

「私は、口下手で、言いたいことなんて全然言えた試しはないけど――聞いてください――」

 家族も、友達も、仲間も――この「世界」にいる全員が、輝きを増す恒星から目が離せず押し黙る。

 今自分がどんな顔をしているのかまったく分からない。

 笑っているか。強張っているか。泣いているのか。それとも全部か。

 ああ、なんて愛しい。

 私はこの美しい「世界」を愛したい。

 私はこの美しい世界に愛されたい。

「はあ…………」

 ひとりは嘆息を漏らす。

 右を見て、左を見て、後ろを見て、前を見て、精一杯の笑顔で。

「私の、私たちの、結束バンドの、決意を――結束力を!」

 大きく息を吸って――、

「新曲! 『かみのけ座α星B』!」

 終わりは始まり。

 結束バンドのラストトラックが走り出した――――。

 

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