「私たち、ずっといっしょだよ!」
その約束を、今でも覚えている。
「ああ、ずっといっしょだ」
汚泥の中でさえ、忘れたことはなかった。
鳴り止まない砲声に、気がおかしくなりそうでも。地雷原の中を、及び腰で進んでいても。腹に銃弾を喰らって、野戦病院の中で苦しんでいるときも。折れた足を引きずって、仲間の死体を持ち帰るときも。体に入り込んだ砲弾片を麻酔もなしに摘出されたときも。
塹壕病で壊死した足を軽い調子で切られたとき。
砲声に気を違えた仲間に目を斬られたとき。
摩耗した砲身のせいで飛んできた味方の砲弾に、腕を吹き飛ばされたとき。
片時も忘れたことはなかった、はずなんだ。
けれど、けれども。
──じゃあなんで、あの時そう言った彼女の顔が、今になって思い出せないのだろうか。
「久しぶり、だね」
「お前もか」
久しぶりに会った幼馴染には、足がなかった。
車椅子の車輪を動かして、彼女は遅々とこちらに近づいてくる。
声をかけられて初めて、忘れたと思っていた幼馴染の顔を思い出した。だから、脊髄反射で言い返してからしばらく固まってしまったのだ。
再び、彼女に目を向ける。痩せていながら白く綺麗な顔に、白髪の入り混じる黒髪。女性用の軍服はなかったのか、若干オーバーサイズな上着に裾から先の足が見えないズボンという、なんとも女らしくない格好。ただそれでも、彼女のことを見た瞬間に思い出した。
昔のことと、忘れていたはずの約束を。
「……君も、なんだ」
言われて、自分の体を見た。
だが、視界は左半分が欠けている。上半身を見れば、右腕は二の腕から先がなく、下半身を見れば左足が太ももから先がない。
幼馴染と俺。お互い、とても大きなものをなくしたらしかった。
「車椅子押してやる。どうせ行き先は同じだしな」
「うん。ありがとう」
先程降りた列車を背に、俺はそそくさと彼女の車椅子を押して歩き始めた。この駅のホームには、ろくな思い出がない。それはお互い、いやそれどころかここにいる軍人全員がそうだ。戦場に行く列車に乗る場所で、同時に帰ってくる場所だからだ。
……そう、帰ってきたんだ。
「カウンセリング、早く終わるといいな」
「そうだね……」
戦争が始まって、終わった。運良く生き残った俺達は、戦場から帰還して今ここにいる。五体満足とはいかなかったけれど。
祖国は、戦争に勝ったらしい。戦勝国の軍人のくせに自分はこんなだから、正直勝敗の意識はなかった。だってそうだろう。今や英雄と持て囃される軍人が、なんだってどいつも酷い顔をしているのか。
だからカウンセリングというのは、きっと正しい処置なのだろう。
俺達のような傷痍軍人は、帰国後のカウンセリングが義務付けられている。自分では、そんなもの必要ないと思っているけれど。
「……義足とか、貰えたりすんのかな」
「どうだろうね。でも高いんでしょ、ああいうのって」
今は松葉杖で体を支えている。杖を使って歩くのにも、もうずいぶん慣れた。一人で歩けるし、こうして車椅子を押しながら移動もできる。ない方の腕で器用に杖を動かしながら、ある方で車椅子を押す。ほら、なんてことはない。
ただそれでも足が戻るのなら、義足だって欲しかった。義手だってそう。なくなったのが利き手の方だから、食事とかにも苦労する。
彼女もそれは同じのはずだ。
「足、大丈夫か?」
「……聞く?」
「聞く」
ふっ、とお互いに吹き出した。なんだ、昔と変わらないじゃないか。昔も、こうして笑い合ったものだ。ただ話題がこんななのが、少し残念だが。
彼女はない自分の足を撫でるように手を動かし、そして空を切った。
「大丈夫な人は、車椅子なんか使わないよ」
「それもそうだな。これからの生活も大変だろう」
車椅子があるとはいえ、足がないとかなり行動の幅は狭められる。それに、もともと小柄な上に足のない彼女だ。高いところには手が届かないし、ベッドに横になるのも一苦労だろう。……これから、どうやって生活していくのだろうか。
ふいに、彼女が訝しげに自分の方を見上げているのに気がついた。
「どうかしたか?」
「……いや、君がそれを言うのか、って思って」
なるほど。いやだが、これまで大してそこに不便を感じたことはない。戦場にいれば、怪我で野戦病院のベッドで寝たきりになることは何度もあった。このなりになってからは、ずっとベッドの上だったのだ。リハビリ以外で苦労を感じることは少なかった、と思う。
「お前や他の奴らに比べたら、なんてことはないさ。だいたい、目も腕も足も、まだ残ってるじゃないか。不便とか、そんなのは……」
会話の途中、返答に集中したせいか、ない方の腕で支えていた松葉杖を取り落とした。
それなりに難しい車椅子を押しながらの歩行のリズムを崩したせいで、つまずいて尻もちをついてしまった。こうなると、足と腕が一本しかない自分は立ち上がるのが難しい。
「強がりはよくないよ。……ほら、手を貸してあげるから」
「……ごめん」
俺が転び、必然的に止まった彼女は車椅子を回頭させてこちらに手を差し出した。だが俺は、彼女の足がないのを正面から見て、手を取るのを躊躇してしまった。誰が、両足のない車椅子に座る少女の手を、そうやすやすと取れるのだろうか。
自分のことを顧みない言葉だが、今の彼女はあまりにも痛ましく、哀れだ。
「君が手を伸ばしてくれないと、私は手を取れないんだけどなあ」
彼女は俺を見下ろしながら、薄く微笑んだ。俺は億劫になりながら、ない方の腕を差し出した。
彼女は一瞬目をぱちくりとさせ、伸ばした手は固まった。
「……そっちなんだ?」
「ない方の腕じゃ杖が掴めないからな」
今度は彼女が及び腰になりながら、俺のまだ残っている上腕を掴んで、引いた。杖を使い、その弾みでなんとか立ち上がる。
「悪かったな、付き合わせて」
「どういたしまして。……難儀な体だね、私たち」
彼女は俺の腕を掴んだまま、寂しそうにそう言った。
「この身一つ帰ってきただけ、ずっとマシさ」
「……そうだね。戦争から戻ってきた人は、生身の人は少なくて、骨になった人は多いから」
ああ、確かにそうだ。いったいどれだけの遺族が、戦死した人間の遺骨を見ることができたろうか。手のひらにおさまるだけの骨片を、包みにくるんで渡された親が、どれだけいただろうか。
「だからね、あなたが帰ってきてくれて嬉しいの」
「……なぜ、そう女房のような言い方をするんだ?お前だって、帰りを待たれる側の人間じゃないか」
俺がそう言うと、彼女は顔を悲痛に歪めてから俯かせる。俺はその仕草が心底不思議で、いったい自分の言葉におかしな点があったかと、吐いた言葉を振り返った。だが、当然何もわからなかった。
「……そう、そうだよね。私、帰ってきたんだよね」
「本当に、どうしたんだ?」
彼女はまるで一世一代の決断でも覚悟したように、深く息を吸って、吐いた。正面からこちらを見据え、何度か口をパクパクさせると、おもむろに彼女は話しだす。
「あのね、お父さんとお母さんね、もういないの」
「……は」
さっきから、ずっとおかしかった。彼女は、いったい何を言っているんだ。
「ずっと前に、手紙で知ったの。殺されたって」
「……それは、誰に?」
彼女は、言うことを一瞬ためらったらしかった。一度閉口し、自分で病院の方へ進み始める。俺はその背中を、ふらつく足で追った。
「療養中の傷痍軍人が、PTSDを発症して街の人に無差別に切りかかって、それに巻き込まれて……二人とも」
彼女は今、何を思っているのだろうか。あるいは、その話を手紙で知ったとき、何を思っただろうか。その胸に抱いているのは、怒りだろうか、悲しみだろうか。あるいは、虚しさだろうか。
「その軍人はね、耳が聞こえなかったらしいの。必死になだめる二人の声も聞こえなくて、やっちゃったんだってさ」
語る彼女の口調は、どこか他人事だった。朝新聞で見たニュースを喋るような、そんな適当な話し方。だがそれを責める気にも、俺はならなかった。彼女が人でなしでないとする勝手な解釈は、いくらでもできたからだ。
誰も彼女の悲しみを理解することはできないし、ともすれば喜びも理解できない。そういった諦めが、頭の片隅で主張していた。
「二人のお葬式はね、親戚の人がやってくれたらしくてさ。家も、そのまま残ってて。遺産もあるから、しばらくは大丈夫って、手紙に」
彼女の顔はこちらからは見えない。だがその声色は、やはり少し寂しそうだった。
「……なんだかすっごく、蚊帳の外みたい」
俺には、彼女に掛けられる言葉などない気がした。
ああ、一体誰に彼女の孤独を埋められるというのか。どこの優男が、彼女を生に縛り付けられようか。家族もなしに、若い彼女がどうして生きていけようか。
「置いてかれたようで、それがとても悲しいの」
何を言うべきか、俺はそれをずっと模索していた。だがこの期に及んでまだ慰めようとしている自分に、酷く腹が立つ。それでも、何か言うべきだと思った。何か、何か伝えなきゃいけない言葉が、あると信じていた。
「なあ──」
「──ほら、着いたよ」
絞り出した声を、遮られて。ようやく、目的の病院の目の前にいることに気づいた。
彼女は一人、車椅子を動かして中に入っていく。その項垂れるような彼女の背中を見ていると、なぜだろう、酷く泣きそうになった。
「足を切除してから、どれくらい経ったかね?」
そのとても酷薄な問いに、なんと言うべきか戸惑ってしまう。少しの逡巡の後、記憶から答えを捻り出した。
「……半年ぐらい前、ですかね」
「ふむ。じゃあその腕は?」
立て続けに、医師から無遠慮な質問が投げかけられる。思い出したくもない過去の記憶を叩き起こし、なんとか答えた。
「えっと、一年くらい……だと思います」
「左眼は?」
「……だいたい10ヶ月です」
なんなのだ、これは。
これが、カウンセリング?問診とも言えない、ただの詰問じゃないか。一体何の意味があるのだ。
「それだけ経っているのなら、心的外傷も大してないだろう。なに、君のような人間はいくらでもいる。安心して社会に出るといい」
「……」
これに何の意味があるのかはわからない。だが、さっさと診療を終わらせたいという意思だけははっきりと伝わってきた。
こんな体裁だけのカウンセリングが、いったい誰のためにあるのか。今も列を作る、カウンセリング待ちの軍人のためだとでも言うのか。
「適当に向精神薬を出しておくから、書いてある通りに服用してくれ」
腸が、煮えくり返るようだった。過去のことを思い出したことも、それをエスカレートさせていた。
戦場にもこんな風な医師がいたのだ。酷薄で、医者のくせに人の命など屑以下だとでも言うような人間が。そいつらに、いったい何人の兵士が足を切られ、腕を切られ、モルヒネもなく痛みに苦しんだか。そのくせあいつらは、自分は職務を全うしているだけだと言う。
敵の兵士なんかより、よっぽど憎たらしい。
「……あんたらは」
「ん?」
「あんたらはいつまで戦争やってるんだ……?」
それが、なんとか絞り出した悪態だった。
医者はおかしな奴でも見るような目で、同時に侮蔑の色が籠っていた。そんな奴の目が、俺のフラストレーションを加速させる。
「……あんたら医者はいつだってそうだ。冷酷で、人間性なんてまるでありやしない!ただ面倒を理由に、鎮痛剤を渋る非人間的な奴らさ!」
「君ね──」
医者の言葉は、そこから聞こえなくなった。憎悪を吐き散らすのに執心して、周りなどまるで見えなくなったからだ。
「あんたらは根っからそうなんだろうよ!だってそうだろう?戦争は終わったってのに、あんたらはまだ必要のない非情を兼ね備えてるんだからな!」
「──」
「なあ、教えてくれよ。なんだってあんたらはそんなにクソなんだ?人の心ってやつは、母親に教えてもらわなかったのか?それとも、端からそんなもの持てないほどのクズだったのか?」
ないはずの右手を幻視して、手を叩いて笑った。
「この国に、あんたら以上の売国奴もいないだろうよ!」
それでも腹の虫は治らなくて、とうとうその医者の顔を殴ってしまった。馬乗りになって、何事か叫ぶ医者の顔を何度も何度も殴った。そいつの顔は歪んでも、怒りに何一つ変化はなかった。
「謝れ!あんたらのせいで死んでいった兵士たちに!四肢を切って、目を潰して、口を縫い付けて謝りやがれ!」
「──!」
「足のない奴に!腕のない奴に!目を失くした奴に!骨も残らなかった奴に!」
激情のままに振るう拳は、重くて、けれど何の想いもない、怒り任せの拳だった。
吐き出していた言葉は、いつしかただの咆哮になっていて。それでも、憎しみのままに殴るのだけはやめなかった。
「──!」
「────!」
突然に、今度は俺が頭をガツンと殴られた気がした。いや、気がしたのではなく、本当に殴られたらしい。スッ、と冷えていく頭に、周囲の声も聞こえ始めた。意識も朧げに、何人かの人が駆けつけているのが見えた。
「──こいつを早く連れ出せ!」
そして、複数人に体を持ち上げられてドアの向こうに放り投げられた。腕と足を一本ずつ失っている自分の体は存外に軽かったらしく、簡単に吹き飛んだ。病院の壁に体を打ちつけ、罵倒されながら痛みに悶える。
「頭のイカれた人殺しめ!ここから出てけ!」
浴びせられたその言葉から逃げるように走り出そうとして、やっぱり足と腕がないから転んでしまった。その後も、何度も何度も立ち上がろうとしては、体を地面に落とした。それが酷く惨めで、泣き出しそうなほどだったのだ。
試行回数が2桁になるくらいの時に、どこからか手が差し出された。彼女の手だった。
「大丈夫?」
「……ああ、平気だよ」
先程とは違い、今度は彼女の手を取るのに過度に躊躇うことはなかった。ただそれでも、誰かの手がなければ立ち上がれない自分が、情けなかった。
「……ねえ」
「なんだ?」
「ずっと見てたよ、君のこと」
……それは、少し恥ずかしいな。さっきも周囲の目はあったが、それでも彼女に見られるというのは、俺にとっていっそう恥だった。
「君は大丈夫と言うだろうけれど、やっぱり一人は大変だよ」
「……俺には、家族がいるよ」
配慮に欠けた発言だということは、当然わかっていた。それでも彼女を肯定してしまうことに、どこか抵抗があったのだ。
彼女は悲しそうな顔をしながら、言った。
「ねえ、いっしょに暮らさない?」
彼女の言葉を理解するのに、一瞬の時間を要した。いっしょに暮らす、彼女は確かにそう言ったらしい。
「普通の家族と暮らすのは、きっと辛いよ。私たちは、もう普通には戻れないから」
頭のイカれた人殺し。先程浴びせられた、そんな罵倒が頭をよぎる。
普通の人間といることが難しいのは、ああ、ついさっき痛感したよ。
「……普通って何なんだろうな。ついこの前まで、普通の人間だったはずなのに」
「わからない。けど、過去には戻れないってことだけは、はっきりしてるよ」
……ああ、自分にとって、過去がどれほど重要だったか。未来なんて、考える暇もなかったから。思い起こすだけの過去が、どれだけ大きな拠り所だったか。
それでも戦争ですり減っていく過去の思い出に、どれほど自分を捨ててきただろう。今となっては、過去も未来も、自分にはどちらもないのだ。
「……お前の家に行こう。そこで、お前の言う通りいっしょに暮らそう。そしたらきっと、普通じゃない者同士、見えてくるものもあるさ」
「……ありがとう」
彼女は短く、俺の言葉にそう答えた。大して変わらぬ彼女の顔を見るに、もはや俺の了承はわかりきったものだったのだろうか。彼女はそれ程、俺のことを理解しているのだろうか。数年ぶりの再会であっても。
「私たち、きっと二人なら生きていけるよ。物乞いとしてお椀を掲げることもなければ、誰に後ろ指を指されるわけでもない。そんな生活を、きっと手に入れられる」
彼女のその確信が、いったいどこから来ているのかはわからない。ただ、俺もその言葉を信じたくなったのだ。論拠のない、その言葉を。
「さあ、私の車椅子を押して?大事なことは、いっしょに生活してから考えようよ」
「……ああ」
俺は、車椅子を押して病院の外に向かっていく。彼女の車椅子を押す身でありながら、同時に俺は車椅子を支えにする身でもあった。まさしく今のこの状態は、これから続いていくだろう互恵関係を表しているようだ。
ああ、外に広がっているのは、今や希望だけだろうか。早くも浮かれて、盲目的になりそうな自分がいる。ただ希望があるというのは嘘ではないという、夢見にも似た確信があった。
──ただその希望の中にあって、彼女の名前だけが、唯一思い出せずにいるのだ。
その事実から今は目を逸らして、俺と彼女は進んでいく。惨めな体を、夕日の元に晒しながら。