鈍色の雲が空を覆い、雷鳴が遠くで鳴り響いていた。
戦場は血と煙にまみれ、民草の悲鳴と兵の怒号が入り交じる。
その中心に立つのは、黄巾を巻いた道士――張角であった。
彼は己が信じる「太平の世」を夢見て、数万の信徒を率いて蜂起した。だが、現実は非情である。
官軍の波に押し潰され、仲間は倒れ、夢は潰えようとしていた。
張角自身の体も、剣に裂かれ、血が大地を赤く染めていた。
「……蒼天、すでに死す……黄天、まさに立つべし……」
掠れた声で呟きながら、彼は空を仰いだ。
しかしその瞳に映るのは勝利ではなく、敗北の影。
己の理想が、結局は官軍の刃に散らされるという無力な現実だった。
視界が闇に沈むその瞬間、不思議な声が彼の耳に届いた。
『――汝の志、未だ尽きず。ならば、新たなる天地にて試してみよ』
それが幻聴か神託か、張角には分からなかった。
ただ、次の瞬間には意識を手放していた。
◆
目を開けると、そこは戦場ではなかった。
澄み切った青空が広がり、風は清らかで、森のざわめきが耳を打つ。
張角は荒い呼吸を整え、身を起こした。己の体は傷一つなく、若々しい。
「……ここは、どこだ」
呟く彼の腕には、見覚えのない古びた書物が抱かれていた。
黄巾はそのまま頭に巻かれていたが、衣は異国風で、手触りは粗い布。
書物を開くと、そこには不可思議な文字列がびっしりと刻まれていた。
不思議なことに、その言葉の意味は自然と頭に流れ込んでくる。
火を操る術、水を呼ぶ呪文、雷を降らせる詠唱。
さらに「聖光」と呼ばれる癒やしの術までも。
張角は思わず手を掲げた。
「来たれ、天の力よ」
すると掌に光が宿り、柔らかな輝きが辺りを照らした。
まるで太平道の奇跡を凝縮したかのような力。
彼は愕然とし、次いで歓喜を覚えた。
「……これが、この世界の“道”か!」
◆
その時、森の奥から咆哮が響いた。
鋭い牙を持つ狼が五匹、音もなく忍び寄ってくる。
黄色い瞳が彼を獲物として捉え、牙を剥いた。
張角は笑みを浮かべた。
「かつて官軍の大軍に挑んだ我が、獣ごときに怯えるものか」
彼は詠唱を紡ぎ、掌を突き出す。
「――雷よ!」
轟音と共に、青白い稲妻が走った。
狼の群れは一瞬で薙ぎ払われ、黒焦げの臭いが漂う。
残った一匹は恐怖に震え、尻尾を巻いて森へと逃げ去った。
張角は勝利を確信し、空を仰いだ。
その胸には、新たな炎が宿っていた。
「この世界ならば……我が“黄天”を立てられるやもしれぬ」
かつて潰えた理想――民が飢えず、争いもなく、皆が安らぎを得られる太平の世。
それを築くために、今度こそ天命は自分に味方したのだ。
「蒼天すでに死す。黄天ここにあり!」
張角は再び歩き出す。
異世界に転生した大賢良師の物語が、今まさに幕を開けた。