光明教の聖騎士団を退けた夜。
焚き火のはぜる音が、夜の静寂に規則正しく溶け込んでいた。黒々とした荒野の空には、星々が無数に散りばめられ、燃えさしの火花が天へ昇っていくたびに、まるで神々のきらめきと交わるように消えていく。
張角は疲弊した体を横たえ、瞼を閉じた。戦場を駆け抜け、信徒たちを率い、異世界の武装集団と対峙した余韻がまだ血潮のように全身を駆け巡っていたが、次第にその鼓動も静まり、意識は深い眠りの淵へと落ちていく。
──そして夢の中。
あの“虚無の空間”が再び彼の前に広がっていた。
何もない。上下も左右も、遠近すらも定かではない。ただ暗い霧がたゆたい、果てのない深淵に自らが浮かんでいるかのようであった。地もなく、天もなく、声すら吸い込まれるような虚無。
張角は手を見下ろす。そこにあるのは確かに自分の手。しかし輪郭は淡く滲み、霧のように透けていた。まるで魂だけが抜き取られ、存在そのものが宙に漂っているような感覚。
「……ここは、どこだ」
掠れた声で呟いたその瞬間、虚無の空気を破るように、軽やかな声が響き渡った。
「はじめまして。私は神です」
朗らかで、人間の笑みを帯びたような声。その場に似つかわしくないほど明るく、張角の耳に届いた。振り返ると、光の衣をまとった存在が宙に浮かんでいた。輪郭は確かに人に似ているが、完全には定まらない。光と霧が交じり合い、時折、その姿は男にも女にも見えた。
張角は眉をひそめ、重々しく口を開く。
「神、だと?」
「うん。君はもう死んでいる」
光の存在は、肩を竦めてまるで雑談のように続けた。
「本来は病で死ぬ予定だったんだけどね、ちょっとした手違いで戦死扱いになっちゃったんだ。予定よりずっと早くね」
「……病ではなく戦か。なるほど、我が命すら乱れるとは」
張角はわずかに苦笑を浮かべた。天命は定められたものでありながら、そこにすら齟齬が生じる。人の世の混沌を象徴するかのような皮肉な運命。
「だからお詫びだよ」
神は人懐っこい笑みを浮かべ、軽く片手を振った。
「君を剣と魔法の世界に転生させる。好きな望みをひとつだけ叶えてあげよう。力でも地位でも、あるいは富でも……ね」
虚無に反響するその声は甘美だった。だが張角は瞑目し、静かに答えた。
「我が願いは一つ。我ひとりのためにあらず。民を導き、太平の世を築く。そのための力を欲す」
一呼吸置き、さらに続ける。
「できることなら……太平道の同志たちをも、共に転生させて欲しい」
光の存在は一瞬黙した。虚無の空間がさらに重く沈むように感じられた。やがて小さくため息をつくと、肩をすくめ、どこかおどけたように言った。
「まあいいや。張っぽい名前の武将呼んどくよ。張宝、張遼、張飛……あとは時代とか関係なく、適当にピックアップしておいたから。まあ細かいことは気にしなくていいだろう?」
その言葉は、まるでひとりごとのように軽く投げ捨てられた。
「……何を……」
張角が問い返そうとした瞬間、視界は唐突に真っ白に染まった。霧も、虚無も、光も、一瞬で呑み込まれるように消え失せた。
──そして目を覚ます。
そこは荒野の天幕の中。粗末な布の隙間から差し込む月明かりが、地面の砂を白く照らしていた。焚き火の燃え残りがかすかに赤い光を放ち、外からは信徒たちの祈りの声が夜風に乗って響いてくる。
「……太平の道を求める者たちが、この世界にも集まってきているか」
張角は焚き火を見つめ、静かに呟いた。夢の中で交わされた神との対話は幻ではない。確かに、その“戯言”めいた約束が現実へと繋がりつつあるのを感じ取っていた。
民は必ず集う。道を求め、平和を望む心は、世界が違えど同じだ。
そして己は再び旗を掲げ、同志を導く。
「太平道の志は、この世においても不滅なり」
張角は深く頷き、焚き火に手をかざした。火は小さくはぜ、再び力強く燃え上がる。
それはまるで、神の戯れから生まれた新たな運命を象徴する炎であった。