風が吹き抜ける。
その冷たさに、張郃は思わず目を細めた。
――ここは……どこだ?
最後の記憶は、戦乱の渦の中であった。魏に仕え、幾多の戦場を渡り歩き、幾度となく死地を脱した。だが、結末は唐突に訪れた。戦場において命を落としたはずの己が、なぜか今、見知らぬ大地に立っている。
足下には柔らかな草が揺れ、遠くには深い森と山並みが連なっていた。だが、その光景は既視感を覚えさせる。戦場を渡った者の直感が告げていた。
――ここもまた、争いの地となる。
張郃は冷静に状況を確認した。腰に佩いていたはずの剣は消えていたが、体は若く、全盛期の力が漲っている。
まるで神が「再び戦え」と言っているかのようであった。
「……転生、か」
小さく呟くと、張郃は自嘲のように笑った。
張角らと同じく、この世に再び呼び戻されたのだろう。だが、彼はひとりきりであった。仲間も旗もない。
まず生き延びねばならぬ。
張郃は森へと足を踏み入れた。葉擦れの音に耳を澄ませ、鳥の鳴き声の途絶えた方角を警戒する。彼の戦場勘は鈍っていない。
案の定、茂みの奥から影が飛び出した。獣である。牙を剥き、鋭い爪を振るう。
張郃は身を翻した。
全盛期の体躯は俊敏であり、武の冴えも蘇っている。彼はその腕を掴み、体を捻って地に叩きつけた。呻き声を残して獣は息絶える。
「……剣が欲しいな」
張郃は倒れた獣の骨を拾い、簡易の槍を作ることにした。戦場を渡った者は、常に武器を求める。
数日の放浪が始まった。森で獣を狩り、川で水を得、夜は木の根に身を潜める。
その間、彼は考え続けた。
――もしや、他の武将達も転生しているのではないか。
――魏・呉・蜀の武将たちも……。
確信はなかったが、戦乱の匂いが近づいているのは分かる。張郃は一介の武人で終わるつもりはなかった。再び戦乱の渦に身を投じるのならば、この世界でも生き抜いてみせる。
やがて、森を抜けた彼の前に、小さな村が現れた。だが、その光景は惨憺たるものであった。家屋は焼かれ、人々は逃げ惑い、荒くれ者が剣を振るっている。盗賊であろう。
張郃は目を細めた。
「兵法は戦場のみならず、すべてに通ず……」
彼は茂みに潜み、盗賊たちの動きを観察した。人数は二十。まとまりはなく、好き勝手に略奪している。これならば、散らして各個撃破すれば勝機はある。
だが――武器がない。
張郃は静かに動き出した。まずは村外れで馬を奪い、乗っていた盗賊を絞め落とす。そいつの剣を奪い取り、血を拭う。
鋼の重みが掌に馴染む。久方ぶりの感覚に、張郃の口元が歪んだ。
「……ようやく戦える」
その夜、盗賊どもは恐怖に震えることとなる。
張郃は一人で影のように現れ、背後から首を刎ね、あるいは森へ誘い込んで仕留めた。戦場で鍛えた兵法と間合いの読みは、烏合の衆には過ぎた相手だった。
翌朝には、盗賊団は半数を失い、残りは逃げ散った。
村人たちは呆然と立ち尽くし、やがて一斉に頭を下げた。
「救っていただき、ありがとうございます!」
張郃は首を振る。
「勘違いするな。私は己の生を繋ぐために戦ったまでだ」
だが人々は彼を英雄と崇め、食料を差し出し、住む家を与えようとした。
張郃は迷った。兵を集め、ここを拠点にすることもできる。だが、今の自分にはまだ力が足りない。
彼は村を後にすることを選んだ。
「この地に平穏を与える者が現れるならば、それでよい。だが、いずれ大乱が始まる。そのときは……再び剣を執ろう」
張郃は空を仰いだ。
青く澄み渡る空。その先に、己と同じく転生したであろう宿敵や仲間たちがいるに違いない。
戦乱の予感に、張郃の血は熱く滾っていた。