俺が彼女の願いにどう答えるべきか、いや、俺の答えは決まっているはずなのに言いよどんでいたその時、トレセン学園の外の方角からタッタッと軽やかな足音が聞こえてきた。
振り返ると、赤褐色の髪色をしたトレセン学園の体操着を着た生徒がランニングから帰ってきたところだった。
汗ばんだ額を拭いながら、こちらに気づいて足を止める。
「あれ?マヤノと……誰?」
その少女の視線が俺に向けられた。学園では普段見かけない人間だからか少し、警戒色のある視線だった。
「あ、テイオーちゃん! 」
彼女ーーマヤノと呼ばれた少女が快活に声を上げる。
「やっほー、マヤノ。……その人は?」
テイオーと呼ばれた少女は、俺をじっと見つめる。小さい声で「この人どこかで……」と呟いているのが聞こえた。
俺には覚えがないが、彼女には何か引っかかるものがあったようだ。
またしても質問に言いよどんでいると、マヤノが俺が答えるよりも早く喋りだす。
「この人はー、マヤのトレーナーちゃん!」
マヤノが突然、そう言い放つ。
「ちょっと待て、俺はまだーー
「えー!? トレーナー!?」
テイオーの目が丸くなる。否定の言葉は彼女の驚きの声にかき消された。
彼女の視線が再び俺に向けられる。今度はより慎重な目つきで。
「学園にこんな人いたっけなー……。でもどこかで……」
テイオーはむむむむ、と唸って何かを考えている。
「だから俺はーー
再び否定しようとしたその時、マヤノが俺の袖を引っ張った。
「ほんとだよ!。だって、さっきとてーーーも大人でロマンティックな熱い告白されたんだから!もうハネムーン、て感じの」
「えーー……」
おい、その馬鹿っぽい文字の羅列はなんだ。そんなことした覚えは微塵もない。
その子も少し呆れてるじゃないか。見ろこのジト目を。例えるならーーそう、チベットスナギツネような顔だ。
「マヤノ……、またテキトーな事言ってるでしょー」
テイオーが呆れたような声を出す。
「テキトーじゃないもん。『お前にしかない良さがある』って言われたの!」
「それ告白じゃないじゃん……マヤノ、キミ本当におかしいよー」
テイオーは額に手を当てて、やれやれといった表情を見せた。だが、すぐに表情を引き締めて俺の方を向く。
「まあ、マヤノがそんなに言うなら……でもね、キミ」
テイオーが一歩前に出た。小柄な体格だが、その眼差しは真剣そのものだ。
「マヤノはちょっと変わってるところもあるけど、ボクの大切な友達なんだ。だから……もしキミがマヤノを傷つけるようなことしたら、ボクが許さないからね」
威嚇しているようだが、それだけ彼女のことを大切な友達だと想っているのが表情からも、言葉からも汲み取れた。
だからこそ、俺もちゃんと言わなければならない。
「だから、俺はトレーナーはもうやめるんだって言ってるだろ」
少し、語気が強くなる。テイオーは驚いていてーーマヤノはそんな俺を見ても怯む事なく、再び喋り始めた。
「じゃあね、条件つけちゃう!」
突然のマヤの提案に、俺とテイオーは驚いた。
「マヤの怪我はすぐに治るよ。お医者さんも言ってたもん。だから......」
「来年のメイクデビューまで一緒にトレーニングして、もしマヤが負けちゃったら、その時はトレーナー辞めちゃっていいよ」
「マヤノ......」
テイオーが心配そうにマヤを見る。
「でも、もしマヤが勝てたら......その時は、キミもトレーナー辞めるのやめて。約束して」
マヤの瞳が真剣だった。自分の未来を賭けてまで、俺を引き止めようとしている。
何がそこまで、彼女を動かしているのかは俺には全く分からなかった。
「なんでだ?……どうしてそこまでーー
俺の問いに、マヤは少し困ったような顔をした。
「えーっと……なんでだろ?」
首を傾げて考え込む。テイオーも興味深そうに彼女を見つめている。
「マヤもよくわからないの。でも、さっきキミと話してた時、すごくわくわくしちゃった」
彼女はとても澄んだ目で、俺を見つめる。
「それに、キミが『やめちゃう』って言った時、なんだかすごく寂しい気持ちになっちゃったの。まだお友達にもなってないのに、変でしょ?」
そう言って少し照れたように笑う。
「でもね、マヤの直感なんだけど……キミとなら、今まで知らなかった楽しいことがいっぱい見つかりそう」
彼女の瞳はとてもキラキラと輝いている。
「トレーニングも、レースも、きっと今とは全然違うものになりそうな予感がするの。なんて言うか……運命?」
「うんめい……」
テイオーが小さく呟く。
「そう!運命の出会いだったんだよ、きっと!だから、キミには諦めてほしくないの」
俺はあの子のことを思い出す。二人三脚で、一つ一つ積み重ねていった日々。あの時は確かに、楽しかった。夢に向かって進んでいる実感があった。
そして、確かに『運命』なんだと。思ってた。絶対夢が叶うって。
「......本当に、それでいいのか?」
俺の声は、さっきよりも静かだった。
「うん!マヤは後悔しないよ」
マヤが力強く頷く。
俺は深く息を吸った。もしかしたら、また同じ過ちを繰り返すかもしれない。でも......もしかしたら、今度は違うかもしれない。
少なくとも、このまま逃げ出して後悔するよりはーー
「……わかった」
俺はゆっくりと頷いた。
「メイクデビューまで、おま……マヤノのトレーナーをやる。ただし、約束だからな。負けたら、俺は本当にトレーナーを辞める」
「やったー!」
「マヤ、トレーナーできたよ!テイオーちゃん!」
「マヤノ......本当にそれでいいの?」
テイオーはまだ心配そうだったが、マヤの嬉しそうな顔を見て、小さく微笑んだ。
「まあ、マヤノが決めたことだし.....ボクも応援するよ。詳しいことは分からないけどね」
それからしばらく、マヤノは興奮して色々なことを喋り続けていた。どんなレースに出たいかということとか。とにかく、走るのを楽しみにしていてしょうがないのが見て取れた。
俺はその様子をただ眺めていた。彼女の純粋な喜びようを見ていても、自分が正しい選択をしたのかどうか、まだ確信は持てなかった。
でも、少なくとも大きく間違った選択ではないような気がしている。
「あ、そうだ!トレーナーちゃんのお名前、まだ聞いてなかった」
マヤノが突然気づいたように手を叩く。
「......まあ、これから長い付き合いになるなら当然か」
俺は苦笑いを浮かべながら、自分の名前を告げた。
彼女は『マヤノトップガン』と、そう名乗った。
「よろしくね、トレーナーちゃん!」
マヤノ満面の笑みで手を差し出してくる。なんだお前、結局名前は呼ばないんじゃないか、と思った事は無粋である。
俺はその手を握り返した。小さくて、でも意外にしっかりとした手だった。
「こちらこそ、よろしく」
これから進む道がどんな道になるかは分からないが、せめて彼女の満足する結末に向かって俺は必死に努力しよう。そう、彼女の幸せを願った気持ちは、紛れもなく本当の気持ちだった。