シャーレのオフィス、太陽が沈んでからもう数時間も経った辺り、夜はだいぶ更けていた。当番生徒も既に帰らせており、オフィスには私一人しかいない。静まり返った部屋の中はキーボート打つ音にペンを走らせる音、電卓の打鍵音だけが響いていた。
あと二時間で施設がシャットダウンする以上、書類は早く片付けておきたいところ。しかし作業内容が単純なデータ入力ばかりで退屈さにふらりふらりと頭が揺れてしまう。眠気覚ましも兼ねてブラックコーヒーを少し含んでも覚醒する感覚は訪れない。
「ん~……」
立ち上がってストレッチや背伸びをしてみるも、それでもまだ眠気が取れない。なんとか根性で作業を終わらせようとキーボードを叩き続けるものの、やはり睡魔の方が勝ってしまう。諦めて椅子に深く腰掛け直した直後、誰かの手が私の目を覆ってきた。
「だーれだ?」
「んー、カズサ……?」
「あれ? わかるんだ」
振り返ってみるとトリニティの制服を着た猫耳の少女の姿があった。カズサと知り合ってからは友達感覚で接してきてくれるようになったけど、なんというか、距離感の詰め方が独特なのだ。こんな夜中でもお構いなしにシャーレへ訪れては私と一緒に居ようとするし、今みたいに驚かせてきたりする。なんというか、飼ったことは無いけど猫っぽい子だと思う。こっちからはほどほどに距離をとって、近づいてきたら適度に相手してあげる感じ。
「たまたま外歩いてたらさ、シャーレの電気が点いてて、もしかしたら先生いるのかなと思って入ってみたんだけど……眠そうにしてるね」
「うん……。ちょっと仕事終わらなくてね」
「そっか。疲れてるみたいだけど、大丈夫? 無理しない方がいいよ」
「ん~……ありがと……」
「ありがと、じゃなくて。普段から夜遅くまで仕事しちゃダメでしょ? せっかく肌ケアの方法教えてあげたのにまた荒れちゃうよ? ちゃんと寝ないと」
「うへぇ、それはわかってるけど……」
カズサは一歩踏んで、私の机の上を覗き込んだ。
「で、どんな仕事が残ってるの?」
「紙のデータをパソコンに入力する作業なんだけど、単純作業だから余計に眠くなっちゃってね」
回転イスを机の方に直して、紙の束を見せながら答える。
「ふーん。それなら私が手伝おうか?」
「ん~……お願い、しよっかな」
甘えるのはどうかなとは思ったけど、今集中できてない状況で仕事したって効率悪いだけだし、ここは素直に手を借りることにした。
「任せて。で、先生はどうしよっか?」
「カズサの隣で座って、半目で画面見ておこうかな」
「半目って、何それ。まあいいよ」
カズサと一緒に席に着こうとすると、彼女が待てと言わんばかりに私を制した。
「その前に、先生は何かシャキッとする飲み物とか飲む? コーラとか、エナジードリンクが置いてあったと思うけど」
「エナジードリンクはトロピカルピンク?」
「ううん、妖怪MAXだったはず」
「あー、それはダメ。飲んじゃうと心臓がバクバクしちゃうから」
「じゃあコーラにしとく?」
「そうしようかな」
カズサは冷蔵庫を開けて『カズサ』の名前が付けられたコーラ缶二本を取り出した。一本を私の方に差し出してくるので受け取ろうとしたら……。
「ひぃん!?」
冷たい缶が頬にくっついて変な声が出てしまった。
「ふふっ、先生目覚ました?」
「もう!」
私は少しだけ怒ったふりをして、差し出されたコーラを受け取った。そしてプルタブを起こして浴びるように喉へと流し込む。炭酸の刺激が口内を刺激し、ひりひりと甘さのダブルパンチに舌がショック状態だ。でもこの感覚がドラッグのようにクセになる。
「ん……ふぅ」
カズサも両手で缶を持ち上げながらゴクゴクと飲んでいる。
「先生もアイス食べる? ふらっと無人コンビニ行った時に買っておいたアイスがあってね」
「いいよそんな気を使わなくて」
「遠慮しないで。バニラ好き?」
「普通に好きだよ」
次にカップのバニラアイスと小さいスプーンを持ってきた。次に受け取ったらふたを開けて食べ始める。小さなスプーンがカチカチのバニラをすくって口に運ぶ。
「おいしい」
「甘いね。本当はチーズケーキとか買おうかなーって思ったんだけど、先生が好きなのか分からなかったからやめにしたんだよね」
「そう? 普通に大好きだよ? レッドウィンター名物の一口サイズのチーズケーキとか大好きなんだけどなかなか食べる機会ないんだよね……」
「あ、知ってる! 絶品だよねー。さて、早く終わらせちゃおっか」
こうしてアイスを食べながら作業を再開した。やり方を軽く教えて、カズサが書類見ながらキーボードを打つというスタイルになった。キーボードを打つ彼女の指はきごちない感じで、人差し指でキーボードを見ながら打っていた。慣れるまで時間がかかりそうだと思いつつ、スプーンでバニラをすくった。
それから眠たくなるほどの沈黙が流れ出した。鼻歌歌うカズサの声に、ローテンポなキーボードの音、ときどき書類がめくれる音だけが響いた。またふらりふらりと頭を揺らしていると、彼女の声が聞こえてきた。
「寝ちゃっていいよ? 出来たら起こすからさ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ甘えることにした。背もたれに体重をかけて目を瞑ると、すぐに意識は朦朧としていく。完全に眠ったわけではないけど、何もしたくないような怠惰感に包まれていた。
「へえ~、昔はこんなところにお店があったんだ……。ちょっと面白いかも」
カズサの独り言を聞こえる。恐らく書類に書かれていた内容なのかなとぼんやりしていた。
「……返事しなくていいけどさ、先生。この前一緒に化粧品とか買いに行ったじゃん?」
急に話しかけられてびっくりしたけど、私は黙って聞いていた。
「で、その後一緒にメイクして遊んでみたんだけどね、先生って穏やかそうに見えて意外とシュッと雰囲気がシャープな目元してたんだねって思ったんだ。別にいいとか悪いとかじゃなくて、ただ単純にそんな感じだったなって思って。コーデとか次第ではかっこいい先生とかになれそうだよね、なんて思ったんだ」
特に意識したことがないから分からない。化粧だって、軽い程度しかしたことないし。
「で、肌ケアについて教えてあげてるとき、顔洗いしてあげたりしたじゃん。泡立てネットでもこもこの泡を作って、それで顔を洗うやつ。ついでにシャンプーもしてあげたんだっけ、美容院とかでやるような感じで。その時の先生、凄く気持ちよさそうにしててさ、ふにゃふにゃな表情で可愛かったんだね。指先で頭皮をグニグニすると気持ちよかったのか、トロトロで甘えたような声出してて……。思わず笑っちゃったけど、なんか可愛いなって思ってたんだ」
改めて聞かされると恥ずかしいものがある。確かにあの時、私は変な気分になっていた気がする。そこからカズサの独り言は止まって、再びキーボードを打つ音だけが聞こえるようになった。時々書類をめくる音も聞こえてくる。
「……あと三枚、よし」
仕事のほうも順調なようだった。ある程度進んだところで、隣の席で身を乗り出す音が聞こえてきた。
「寝てる? ……まあ、疲れてたみたいだしね。かわいい顔、撮っちゃお」
カシャッとスマホのシャッターを切る音がした。目が覚めていたのなら、こらと怒ったり、恥ずかくて目を逸らしたりしていただろうが、今の私は全てがまあいいかと思えてしまうほど眠たかった。瞼を開けることさえ億劫なので、この件は不問とする。後でどれくらい面倒くさいことになるかだって分かっているはずなのに。
そして時間が経った。キーボードの打鍵音が止まり、「ふぅ、終わったかな」という声が聞こえた。どうやら仕事が終わったらしい。
「せーんせ。……寝汗かいてる?」
カズサの声が少し近くなったと思ったら、たぶん下敷きらしきもので仰ぐ音がしてきた。小さな風が頬に当たって気持ちいい。それにしてもカズサとの距離が近いのだろうか、吐息が耳元にかかってくすぐったい。
「先生の髪サラサラだよね……。触っても怒らないし……」
指先で髪を撫でられる感覚があった。そのままゆっくりと手櫛のように優しく撫でられて、私の頭はカズサの手の動きに合わせて揺れる。その動きに合わせるように意識もまた微睡んでいく。
「先生、起きてー? 寝るならしっかり自分のベッドに戻ってからにしてよー」
今度は身体を揺すられた。でもそれはさっきまでと違って強くない。まるで赤ちゃんを起こすような優しい揺らし方だった。
「無防備に寝ちゃって。私以外だったら、襲われちゃうよ……?」
距離を詰められたのか、声がかなりくすぐったいところまで近づいてきた。
「……ふぅーっ」
「ん……カズサ?」
耳に生暖かい空気を吹きかけられ、私は目を覚ました。
「あ、起きたね。おはようございます」
「うん、おはよ……」
「終わったよ、帰る支度しよ?」
「ん〜、ありがとうねカズサ」
今日のノルマが終わったので、荷物をまとめて帰る支度をする。バニラアイスは既に解けていたからカップを持ち上げて全部飲み干してゴミ箱に投げ捨てる。二人で建物を出たところでカズサが私に聞いてきた。
「ねえ先生、今から先生の家に行ってもいい?」
「え? なんでまた急に……」
「いいじゃん、今日は誰かいるの?」
「いないけど……。着替えとかはどうするの? 私のとはサイズ合わないでしょ」
「大丈夫、服はちゃんと持ってきてるから」
「用意周到だね。……まあいっか」
そう言って駅に向かって二人で歩き出した。ちなみにカズサから家で何かされるということは一切なく、ただ私の家に上がり込んではゲームしたり、雑談したりしてた。
次はイチカです