アビドスの6人目   作:____―--

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【ノア】レイン

 D.Uシラトリ区に向かう電車の中、私は釣り革にしがみつくように両手に力を入れて立っていた。

 今日は本当に色々振り回された。ミレニアムに行って、ゲヘナへ行って、トリニティへも行って……。今までにないくらいの仕事量で、移動中にも書類仕事を片付けていた。そのせいか、立っているのもしんどくなるくらい身体が重たい。電車の窓から見える景色は灰色の曇り空で、低気圧のせいで体調が悪いのかとも思ってしまう。

 

 とにかく、身体を揺らされながら自分の体調と仕事をどうするかで頭がいっぱいだった。残っている仕事を今やれるか、あとどれくらい残っているか。ああ、頭が回らない。これはもうダメだ。

 

 隣に立っている今日の当番。セミナーの書記、生塩ノアに小声で声をかける。

 

「ノア……ちょっといい?」

 

「はい、なんでしょう」

 

 彼女は私の声に気づいて、私の方へ顔を向けた。

 

「ごめん、今日の仕事はここまでにしよう。ちょっと体調が優れないから。今日はもう帰って大丈夫」

 

「わかりました。……あの、大丈夫ですか? お顔が優れないようですが」

 

「途中で駅降りて、家に帰ろうと思う。ノアも気をつけて帰ってね」

 

「……いえ、私も一緒に降ります。先生を一人にするなんてできません」

 

「でも……」

 

「大丈夫です。ミレニアム行きのバスに間に合えばいいので」

 

「……わかった。じゃあ、お願いしてもいい?」

 

「はい!」

 

 ノアが微笑んでくれたので、私は安心して電車の揺れに身を任せることにした。しばらくして駅に着き、ノアと一緒に電車を降りるとタクシーで家まで帰る。エレベーターに乗り、家の鍵を開けてノアを招き入れると、Yシャツを雑に脱ぎ捨ててすぐにベッドに潜り込んだ。

 

「先生、大丈夫ですか?」

 

ノアが心配そうな声で聞いてくるので、私は軽く手を挙げて大丈夫と合図する。

 

「ちょっと横になるだけだから」

 

「……近くのコンビニで何か買ってきますね。欲しいものはありますか?」

 

「栄養ゼリー……」

 

「わかりました。すぐ戻ります」

 

ノアはそう言うと部屋を出て行った。見送ると目を瞑る。しかしすぐ意識が落ちる感覚はなくて、ただ目を瞑ることしか出来なかった。

 

 ときどき目を開けてカーテンの隙間から見える灰色の空を眺めると、窓に水滴が一滴垂れて、それがガラスを伝うように下に流れて行く。雨だ。ノアが傘を持っているか心配だけど、こんな身体を動かして外に行けるかと言われたら、それは無理だ。

 

 しばらくそのままぼーっとしていると、家のドアが開く音がした。

 

「先生、戻りました」

 

 ノアがコンビニの袋を下げて帰ってきたようだ。私はベッドから身体を起こして、彼女を迎える。

 

「おかえり。雨、大丈夫だった?」

 

「ちょっと濡れてしまい……。タオル、貸していただけないですか?」

 

「うん。ちょっと待ってて」

 

 私は棚からタオルを出してノアに渡すと彼女は濡れた髪を拭く。

 

「あと……タイツも濡れてしまって。このままだと蒸れてしまうので脱いでもいいですか?」

 

「洗濯機と乾燥機あるからノアが帰る時間にもよるけどしっかり乾かして返せるよ。どうする?」

 

「では、お願いしていいですか?」

 

「うん。ネットに入れて洗濯するね」

 

 ノアはタイツを脱いでいくのを横目にスポーツドリンク手にとって蓋を回す。少しに口に含んでごくりとゆっくり飲むと、冷たいスポーツドリンクが喉を通って胃に落ちるのを感じた。

 

「先生は気にならないのですか?」

 

「何が?」

 

「私がタイツを脱いでいることについてです」

 

「ああ……ごめん。デリカシーがなかったね」

 

「いえ、そうではなく、あまり興味無いのですね」

 

「まあ……うん」

 

 ノアはタイツを脱いで裸足にスリッパを履いている格好になる。タイツを渡されるとネットにいれて洗濯機にセットし、スイッチを押した。その時、ノアは使っている洗剤や柔軟剤をじっと見つめて手帳にメモをしていた。

 

「どうしたの?」

 

「先生が使っている洗剤と柔軟剤をメモしていました。今度、同じものを使ってみようかと。そうすれば先生と同じ香りになれるかなと思いまして♪」

 

「そっか。……妙なこだわりだね」

 

 スポーツドリンクを枕のそばに置いて、再び横に寝転ぶ。ノアはベッドのすぐ横にある椅子に腰掛け、私をじっと見つめては手帳にメモをしていた。

 

「眠れないのですか?」

 

「みたい。眠れる時はすんなり眠れるんだけど」

 

 窓越しに雨音が聞こえてきて、じっくりと雨の音を聴く。窓ガラスに当たって細かく小さな音になった雨粒が、ぽたぽたと流れ落ちていく。

 

「先生は……雨はお好きですか?」

 

「気分によるけど、今は好きかな。降ってる昼、ラジオもつけずに車を運転してると、雨の音を聴きながらぼーっとできるんだよね。土砂降りは視界が悪くなって怖いけど、しとしと降る雨なら平気」

 

「そうなんですね。私も、雨の音は好きです。落ち着くので」

 

 ノアは椅子から立ち上がると、私の寝室を歩き回り本棚の本を眺めてはメモに何かを書いていた。

 

「戦術書、銃火器の本、学園の歴史書、三年生カリキュラムの参考書……。ここには……まあ、ライトノベル、恋愛小説、雑誌……」

 

「生徒に勧められて買った本も結構あるからね」

 

「ちなみに……えっちな本はあったりしますか?」

 

「あるけど、隠してあるよ。見たいの? 生徒と一緒にこっそり買った本もあるけど」

 

 身体を起こそうとすると彼女が手で制して、またベッドに身体を預けた。

 

「いえ、安静にしててください。……その反応を見るに、あまり関心がなさそうですね」

 

「まあ、そうだね。興味ないわけじゃないけど」

 

 次にノアはCD棚の前に立って、CDを一枚ずつ取り出してはタイトルとジャケットを眺めていた。

 

「先生は音楽はお好きなのですね。……意地悪な質問を一つしてもよろしいですか?」

 

「うん」

 

「なぜCDを買うのでしょうか? 今ではサブスクリプション、動画サイトなどで音楽を聴くことができます。なのに、なぜCDを買うのでしょうか?」

 

「うーん……。確かにそうだけど、物理で何かが欲しいからかな。音楽を聴く為、ディスクをセットする手間をかけることに意味があるのかも。音質とかサービス終了によるデータの喪失とか、そういうのはあまり気にしてなくて……。ただ夜一人、歌詞カードを見ながら音楽を聴いて、ときどきアーティストの写真をじっと眺める。そんな時間が好き」

 

「なるほど……」

 

 雨音が籠る空間の中に、ペンが紙の上を踊る音が響いている。ノアは手帳に私の言葉をメモしているようだ。

 

「先生はこんなに趣味が多彩だったのですね。ユウカちゃんから聞きました。最初は先生の家が殺風景で生活感がないと。でも今は棚いっぱいに本やCDが並んでいて……。この空間は先生の好きなもので溢れているのですね」

 

「殺風景……。そうだね。先生になりたての頃は本当に何もなかったね」

 

「最初に来た時と今とで、何が変わったのでしょうか」

 

 その質問に私はじっくりと考えてみた。目を覆うように片腕を目にのせて、雨音を聞きながら。

 

「……最初は、狭い世界しか知らなかった。でも色んな人と関わっていろんな世界を知って……。最初の頃よりもはるかに広い世界を見ることができた。だからかな」

 

「ふむふむ……。では先生」

 

ノアが手帳を閉じて、私の目を覆う腕をそっと外す。

 

「今の先生は……どんな世界を見ているのですか?」

 

「……そうだね」

 

 私は目を瞑る。雨粒が窓に当たる音、遠くで車が水たまりを踏む音、そしてノアの呼吸の音を聞きながら。自分の見ている世界を言葉にする。

 

「まずは夜の雪原。湖は凍り、その上を一匹狼が歩く。狼は空を見上げると、緑色の魂のパレードが流れていくのをじっと眺める。そして狼は遠吠えをするんだ」

 

「狼はなぜ遠吠えをするのですか?」

 

「わからない。でも、なんとなく……私はここにいると誰かに伝えているんだと思う」

 

 ノアの回答は沈黙だった。私の言葉をしっかり咀嚼しているのだろうか。しばらく経ってようやくノアが言葉を紡いだ。

 

「とても……乾いた世界ですね」

 

「ぱっとイメージしたのがそれだったから」

 

 しばらくして、ノアが思いついたように立ち上がると体温計を持ってきて私に手渡した。

 

「体温計です。測ってください」

 

「……ありがとう」

 

私は体温計を脇にはさむと、ノアがベッドの近くの椅子に座る。そしてまた手帳にメモを書き始めた。しばらく沈黙の時間が続いたあと、ピピッという電子音が鳴って体温計を取り出すと……三七度二分だった。

 

「微熱ですね……」

 

 彼女は袋の中から冷感シートを取り出してくる。

 

「貼りますね」

 

「うん」

 

 前髪全てをヘアバンドで上げて額に冷感シートを貼る。冷たい触感に思わず身体がびくっと動いた。

 

「どうですか?」

 

「大丈夫だよ」

 

 ノアの指先はすこし冷たかった。雨に奪われた熱がまだ戻ってきていないのだろうか。

 

「先生、まだ辛いですか?」

 

「ううん……だいぶ楽になったよ。あとは寝ればたぶん……」

 

「食事は摂れますか? 無理はしてほしくはありませんが」

 

「うん……。少しなら」

 

「わかりました。お粥を作ってきます。キッチンを使わせていただきますね」

 

「うん、ありがとう」

 

 ちょっとして、台所からいろんな音が聴こえてくる。お米をとぐ音、水を鍋に入れる音、野菜を切る音、鍋で何かを煮込む音に、卵を割る音。窓を打つ雫の音と混ざって、心地よい音として私の耳に届いていた。しばらくしてノアがお盆にお粥の入った小鍋とレンゲ、そしてスポーツドリンクを乗せて寝室に戻ってきた。

 

「ごめん、ノア。わがまま言っていいかな。冷蔵庫にしょうがのチューブがあるから小さじ一杯くらいを入れてくれる?」

 

「わかりました。ちょっと待ってくださいね」

 

 ノアは小さじにしょうがを入れて混ぜると再び持ってくる。レンゲを取ろうとすると、ノアがそれを取り上げた。

 

「大丈夫ですよ。私が食べさせてあげますから♪」

 

「そっか。ちょっと冷ましてからね」

 

「はい♪」

 

 ノアはレンゲでお粥をすくうと、息を吹きかけて冷ます。そしてそれを私の口に運んだ。

 

「熱いので気をつけてくださいね」

 

 私は頷いて口を開けると、口の中に塩気のある風味が広がっていくのを感じる。もぐもぐと咀嚼すると優しい味に心が落ち着いた。

 

「美味しいですか?」

 

「うん」

 

 ノアは私の反応を見て満足そうに微笑むと、次の一口を運んでくれる。

 

「はい、あーん」

 

「あーん……。なんか、変な感じだね」

 

「そうですか? 私は先生の世話を焼けて楽しいですよ♪」

 

 やがて全部食べ終わると、彼女は満足そうに微笑む。

 

「よく頑張りましたね♪ お利口さんです♪」

 

「子ども扱いしないの」

 

「ふふ、すみません♪ でも、これで安心です。あとはゆっくり休んでください」

 

 ノアはお盆を片付けて寝室から出ていった。しばらくするとようやく眠気がやってきて、私はベッドに身体を預けて目を瞑る。雨はまだ降り続いており、いつの間にか灰色の空から暗闇のカーテンが降りていた。夜もかなりきている頃。

 

 ノアは帰らないのだろうか。もう大丈夫だから、先に帰ってもいいよ。そう伝えようと思ったが、いつのまにか私のパジャマを着たノアが私のそばで座っていた。

 

「ごめんなさい、先生。嘘をつきました」

 

「え……?」

 

「実はバス、既に最終便が行ってしまっていて……。なのでお邪魔しますね」

 

 ベッドにもう一人分の体重がかかり、毛布の中にノアが入ってくる。ウェーブキャットの枕を抱きしめる私の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめてきた。

 

「ノアは、悪い子だね」

 

「はい……。悪い子です」

 

ノアの体温と鼓動が伝わってきて。でもそれは嫌な感じではなくて、むしろ心地よかった。私は人の温もりを欲しがっていたのだと、何回も誰かと共にしてようやくわかった。

 

 意識が落ちるのに時間は必要なかった。ノアに抱かれたまま、私は深い眠りに落ちていく。

 

――

 

 朝起きると雨は止んでいて、カーテンの隙間から朝日が差し込み部屋の中を照らしていた。

 

 身体を起こしてみると、昨日のような重さは感じられなかった。私はベッドから降りて立ち上がって軽く伸びをして、リビングへ向かうとノアが机と向き合い、何か書き物をしていた。

 

「おはようございます、先生」

 

ノアは私に気づくと挨拶をした。私もそれに返してキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して口に含む。

 

「体調の方はどうですか?」

 

「ばっちりだよ。ありがとうね、いつか埋め合わせはするよ」

 

「いえ、先生の世話を焼けて嬉しかったです。それに……ちょっと楽しかったので♪」

 

「弱い私を見てゾクゾクしちゃうの?」

 

「そんな趣味はありませんよ。ただ、先生の意外な一面が見れて嬉しかっただけですから」

 

「そっか。……ノアって意地悪だよね。でも、嫌な気持ちにはならない」

 

「それは褒め言葉として受け取っても?」

 

「悪口、かもね」

 

 ノアはくすっと笑うと、手帳をパタンと閉じて立ち上がる。

 

「では先生、昨日はシャワー浴びていませんでしたし、今からでも浴びてはいかがですか?」

 

「そうしよっかな。でも狭いから一緒はダメだよ?」

 

「はーい♪」

 

 ノアの言葉を後ろに脱衣所で服を脱ぎ捨てて鏡を見てみると、私の顔はだいぶ血色が良くなっていた。そして目につきにくい場所に、侵食されたような灰色のようなあざができているのを見つけた。

 

 きっと、アセンションを使いすぎた代償が身体に現れているのだろうと。




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