妖精の国にかの浮遊大陸が出現したその日、未来へと続く歯車が一つ外れた。
部品の欠けた歯車はだんだんと狂い出し、やがて決定的な「変化」を生み出していく。
――その歪んだふたつの歯車を繋ぎとめる存在がなかったら、の話ではあるが。
とある日の夜。夕食前の時間帯。
俺は今日の探索を済ませ、第76層の街【アークソフィア】で拠点代わりにしている宿の一室のベットに腰掛けていた。
手が空中を彷徨う。あるときは素早く、またあるときは滑らかに、ときにはじっくりと。そうやって指を動かすたびに、目の前で様々な画面が引っ張り出され、しまい込まれていった。
今日の手に入れたアイテムの整理とスキル熟練度の確認だ。三年近くも続ければこんな些細なことまで形式化してくる。
と、ここで部屋の入り口のドアがノックされた。同時に「キリトくーん。みんな集まったよー」という声がドア越しにかけられる。
「はいはい。今行く」
メニュー画面を開き、よいしょっと立ち上がって伸びをひとつ。もうこんな時間か……。
「部屋にいるからねー」という声を聴き流しながら、俺はいつものコートを装備した。これから話すことを、もう一度頭の中で反芻する。
今日の夕飯はいつもとは一味もふた味も違う雰囲気になるだろう。よしっと意気込んで、俺はドアを開けた。
季節は冬。とは言ってもそれは外の世界の話であって、仮想世界にいる俺たちにはその感覚は薄いのだが。
このゲームに閉じ込められてから三度目のクリスマスも過ぎ、あっという間に2025年を迎えてしまった。結局今回もまた、年末らしい日々を過ごすことは出来なかった。
2025年1月4日。現在の攻略組の最前線は第79層。俺たちのゴールはまだまだ遠い。
「さて、と。今日集まってもらったのは他でもない。ちょっと話したいことがあるんだ」
俺が話を切り出したのは、宿の隣室であるアスナの部屋だった。テーブルには水の入ったコップがよっつ置かれている。
「ちょっとじゃなくてかなり大事なことなんだロ? この店の主人まで呼び出すなんて相当のことだゼ」
俺の第一声にすかさず割り込んできたのはこのゲームの情報屋『鼠のアルゴ』だ。灰色のローブを身に纏い、頬の猫髭の落書きがトレードマークの幼げな顔をこちらに向けてにやりと笑みを浮かべている。
「……ガラでもないのは自覚してるさ」と目をそらしながら言うと、そのくりっとした瞳をきらりと光らせた……気がした。
「そうそウ。キー坊が相談ことなんて滅多にないんダ。期待してるゼ」
「そうだぞキリト。この時間帯は稼ぎ時なんだ。酒場を早めに閉めて付き合ってやってることに感謝しろよ」
アルゴに重ねて俺に言ってくるのは、この部屋の下で酒場とアイテム屋を経営しているエギルだ。筋肉隆々のごつい身体にワイシャツ一枚というのは見ていてシュールだった。ただ無理を言って呼び出したのは本当なので頭が上がらない。
二人の目線にたじたじになっていると、「二人とも。キリト君をからかいすぎよ」「パパをこまらせちゃダメなんですから!」と助け船がやってきてくれた。
振り返ると、そこには真っ白なワンピースに身を包んだ黒髪の幼い女の子――ユイと、エプロンを身につけ、はしばみ色の髪を揺らした少女――アスナがそれぞれお盆をもって立っていた。
テーブルに次々と料理が置かれていく。おにぎりに一口サイズのから揚げなど。話しながら食べるのに問題ないものを選んでくれたみたいだ。
「アスナ……」と俺が情けない声で助けを求めると、しょうがないとでも言うようなため息をついて席に着いた。まんざらでもなさそうな彼女にアルゴがまた冷やかしを言おうとしていたので、慌てて口を開く。
「と、とにかく。料理も来たことだし本題に入ろう。食べながらでいいから聞いてほしい」
俺の言葉に、テーブルを囲む五人(ユイはアスナの膝の上に座っている)は各々無言で頷いた。アルゴは早速メモ帳とペンを取り出している。料理を食べながらでいいって言ったんだがな……。
まあ話さないことには始まらない。俺はこの集会の理由となった出来事について語り始めた。
「――ってことは、キー坊が見つけたその『ホロウ・エリア』ってのはオレっちたちには見つけられないト。そういうことでいいのカ?」
「ああ。転移門を使ってる人にそれとなく聞いてみたんだが、今のとこ俺しか見つけられてないからほぼ確定だと思う」
俺の話が終わったあと、確かめるように質問したアルゴは俺の返答を聞いてふむ、と考え込んだ。やはりにわかには信じられないことらしい。
テーブルに置いてあった料理はほぼなくなっている。随分と長い間話し込んでしまったみたいだ。
「……確認させてもらうが、キー坊はその謎の転移先のことを知ってから二カ月の間まだそこには一度も行ったことがなイ、どんなところかさえ分からないってのは本当のことなんだナ?」
「本当だ。全く見当もつかない。そこがフィールドなのか圏内なのかすら、な」
「二か月前ってのは……やっぱりあの事件のあとカ」
難しげな顔で尋ねたアルゴに、無言で頷いて肯定を返す。隣のアスナが少し辛そうな顔をした。すまないアスナ。思い出したくないはずなのに。
二か月前、俺は第75層のフロアボスの部屋でこのゲームの管理者である茅場明彦と一対一の決闘を行い、それに勝利した。
一言で言ってもピンと来ないかもしれないが……とにかく、その決闘は俺の命とプレイヤー全員の解放を賭けた偽りのない事実であったことは、俺が身をもって実感している。
しかし、その勝負に勝利した直後、茅場明彦だったアバター「ヒースクリフ」は真っ白な閃光と共に消え去ってしまった。彼が死んでしまったのかどうかすら分からないまま、俺たちはボス部屋に取り残された。
結局その後プレイヤーが解放されるなんてことはなく、俺たちは重苦しい雰囲気のまま75層への階段を登ったのだ。
「じゃあその『ホロウ・エリア』ってのもバグで出てきた行先の一つなんじゃねーか?」
黙りこくったアルゴの代わりに質問したのはエギルだ。俺は「たぶんな」と言って頷いた。
苦難はそれだけに終わらなかった。75層に上ってこの街に着いてから、大量のシステム不具合が発生したのだ。
75層以下で手に入れたアイテムや武器のほとんどが文字化けして使い物にならなくなった。重ねて、スキル熟練度までがロスト、低下していることが明らかになる。ステータスや防具に異常がなかった分まだましというべきか。
それだけでも大変なのにさらに深刻な問題は続いた。ボス部屋階段と街の転移門がバグって75層以下に行けなくなったのだ。
これは大変な騒ぎとなった。75層から下の層へと戻る手段が実質無くなってしまったのだから。気付くのが遅れたため、観光目的で訪れた人や、75層での事件を耳にして駆けつけた人を含む多くの低レベルプレイヤーが75層に閉じ込められてしまった。
これもまた、メッセージやアイテムのやり取り程度ならできたのでまだよかった。下の層と完全に連絡が取れなくなってしまっていたら、おそらく攻略組は崩壊していただろう。
俺が『ホロウ・エリア』のことを知ったのもそのころだ。エギルの言っていることは正しい。
「ただ、そこがどんな場所なのかだいたいの見積もりは立ててるつもりだ。ユイ。説明お願いしていいか?」
「はい、パパ!」
俺のお願いにユイは元気に手を上げて返事をした。辛そうな顔をしていたアスナの顔がふっと和らぐ。
そうだよな。混乱続きの絶望の中にも救いはあった。この子が再び俺たちの前に姿を現してくれたとき、どんなに救われたことか。俺もアスナもユイがいてくれたから頑張れたと言っていい。
目の前の少女はそんな俺たち二人の内心を知ってか知らずか、はきはきとした口調で説明を始める。
「私の過去のカーディナルメモリを検索したところ、『ホロウ・エリア』と推測される領域を見つけることができました。テストエリアと呼ばれる場所で、アインクラッド実装前のスキルやアイテムなどのテスト使用を目的として作られたフィールドだと考えられます」
「じゃあ、実験場みたいなとこなのカ?」
「はい。ただ実験場とは言っても実際のアインクラッドのフィールドと同程度かそれ以上のクオリティであると思われます」
「しかし、そこでテストをするのは運営側の人間なんだろう? だとしたらもうお払い箱じゃないのか」
「はい。正式サービス開始後の設定ではそうなる手筈でしたが、なんらかの理由で今も残っているようです。これがマスターの命令によるものかカーディナルの自己判断によるものかは判別できませんでした」
まあ転移門からの行先として指定されているのだから、そこが存在していることだけは確実だ。
ユイの説明が一段落したあと、少しの間をおいて俺が再び喋ろうとした――直前に、アルゴが「なるほド」と呟いた。
「つまり、キー坊はそこに行ってみたいんだナ。だからオレっちとエギルを呼んだわけダ」
「なっ……。キリト、本当か!?」
意味深に口角を持ち上げるアルゴと、驚愕を浮かべて席を立つエギル。流石は情報屋アルゴだ。贔屓にしてるだけあって俺の性格をばっちり掴まれている。
エギルの反応はもっともだろう。正気の沙汰じゃないことは俺も分かっている。ユイの説明で予想は出来てるとはいえ、得体がしれないことに変わりはないのだから。
「止めておけ。そこが未知のフィールドだってことは認めるがリスクが高すぎる……!」
「いや、すまないが止める気はない。俺だけしか行くことができないってのは何かしらの理由があるはずだ。それを突き止めないことには気が済まないんだ」
「……もしもダ。キー坊がそこに行ったきり戻ってこなかったとして後に残された攻略組がどうなるかは分かってるナ?」
「……ああ」
俺の返事に「おいっ、キリト!」とエギルが声を荒げるが、「まあまア」とアルゴが彼を手で制した。
「どうせ引き留めてもこうなったキー坊はとめられねーヨ。エギルも分かるだロ?」
「――どうしてこいつはこうも面倒なことに巻き込まれるんだ」
「冗談言えるなら一安心ダ。……さて、キー坊。本題はここからなんだナ」
アルゴの問いかけに、俺はゆっくりと首肯した。そして、今まで一度も言葉を発していないアスナに目配せする。
俺の一番の理解者であり、最愛の人物でもあるアスナは俺のコンタクトに小さく頷いてくれた。……ありがとう。
「……アルゴの言う通りだ。……実は、ホロウエリアに行けるのは俺一人だけじゃない」
その言葉にエギルは苦虫を噛み潰したような顔をし、アルゴはあーあと天を仰いだ。流石は長い付き合いの二人だ。察するのが早い。
「わかっタ。話が読めたゾ。アーちゃんがここにいたのはそういうことカ」
「――はい。アルゴさんの予想通りです。ホロウエリアに同時に行くことができるのは二人まで。私はキリト君に同行してホロウエリアへと向かいます」
アスナの第一声は、きっぱりとした決意表明だった。気迫がこもっているように感じるのは気のせいか。
謎の転移先に関して、俺はアスナとユイにだけは全てを打ち明けている。迷い事があったら相談するという一般的には当たり前のことを、愛する人は教えてくれた。
二人で悩み、ユイと一緒に調べて、何日も相談し合って出した結論。決して変わることはないだろう。
「攻略組の実質ツートップがいきなり失踪カ……どこも大騒ぎになるナ」
「悪夢でも見てる気分だ……」
アルゴは呆れとか驚きを吹っ切ったような苦笑いを浮かべている。エギルは余程ショックを受けたのかテーブルに肘をついて項垂れていた。
二人の様子を見るに、もう説得する気はないらしい。アスナの宣誓はそれだけの威力を持っていた。
「……俺とアスナが一時的にでも攻略組を離れるってことの重大さは理解してるつもりだ。だから今まで相談するのを控えていた……すまない」
「まあ、ここ最近やっと状況が落ち着いてきたもんナ。攻略ペースもやっともとに戻り始めタ」
「二十日間以上かかった第76層と第77層攻略の反省を生かして、各ギルドは人員増強を図っています。私たちが動けるのは、この時期しかないんです」
アスナの説明に、俺も深く頷く。そうだ、行動を起こすには今しかない。
団長ヒースクリフの正体判明と失踪によって、攻略ギルド血盟騎士団は実質空中分解してしまった。他の攻略ギルドも第75層フロアボス戦で受けた損害が大きく、75層以下の層への移動ができなくなったことも相成って攻略ペースは過去類を見ないほどに落ち込んだのだ。
しかし攻略組は強かだった。挫けることなくコツコツと攻略を続け、28人という少数でフロアボスに挑み死者なく勝利した。皆よくリタイアせずに踏ん張ってくれたと思う。
あれから二カ月、上層はやっと仮初の平穏を取り戻した。逆に言えば俺たちが自由に動けなくなるのも時間の問題ということだ。
エギルが顔を上げて、成り行きを見守る方針に切り替えたのか腕組みをして目を閉じた。ごめんなエギル。今度何か奢ろう。
少しの沈黙のあと、アルゴが苦笑いを悪戯っぽい笑みにかえて口を開く。
「……キー坊がそうやって正直に話してくれたけいいサ。昔はふらっといなくなってはオレっちやアーちゃんを泣かせてたんだから成長したもんダ」
「ママを泣かせていたんですか? もう、だめですよパパ」
「い、いやまてユイ。俺はアルゴを泣かせた覚えはないぞ? アスナは……その、申し訳ないです」
「あレ? そんなことを言っちゃうのかなキー坊。まったくつれないナ。中層じゃ夜な夜なおねーさんがあいてしてあげたって言うのにサ」
「ふーん? 本当なのキーリトくん?」
「ご、誤解だ! アルゴも根も葉もないこと言わないでくれないかっ!?」
アスナは冗談交じりなのが分かる(が、十分怖い)……ユイが、ユイの屈託のない目線が痛い!
俺の必死の苦言に対し、アルゴは「にゃはははは」と笑って取り合おうともしない。こいつにはいつもやられっぱなしだ。俺は頭を抱えた。
「しかたないナ。正直に話したお情けとしてこの情報は売らないことにしとくヨ。無論、口止め料はいただくゼ?」
「……ああ、助かる」
「ただ、情報操作はしないからナ。リズっちやクラインには話さないのカ?」
「それについてはまた明日、個人的にお話しに行くつもりです。お二人には、詳しい話を聞いてもらいたくて」
「分かっタ。オレっちはそれでいイ。が、エギルがなんか話したいことがあるみたいだゾ?」
俺とアスナが揃って顔を向けると、エギルは少し居心地悪そうな顔をしたが、すぐに表情を引き締めた。
「俺ももうお前らは止めん。ただ、行くからにはきっちりと戻ってきやがれ。もし黒鉄宮に名前が刻まれたなんてなったら承知しないからな」
「……当たり前だ。俺たちは絶対に戻ってくるさ。こんなところでくたばるのはまっぴらごめんだ」
「心配しないでください。キリト君のことは私がしっかり見ておきますから」
「私も応援してます。パパ、ママ!」
アスナの『君のことは自分が守る』宣言に恐縮していると、「お熱いねえお二人さんハ」と口笛交じりにアルゴがからかい、「毎日それを見てる俺の身にもなってみろ……」とエギルが嘆く。
たった五人の夜の会談は、こうしてお開きになったのだった。
その頃、第79層【アイオトル】のフィールドにて
「さて、もう一狩り、って……ん? あそこにいるのは……女プレイヤーか? 名前は……ストレア、か。聞いたことねえな……」
「――――!」
「――は? 気付くのかよこの距離で。まいったな……」
「ねえ、そこのキミ。アタシに何か用? それともナンパかな?」
「別にー。こんなところに一人で籠ってる物好きに声をかける気はねえよ。珍しかったから見てただけだ」
「うわ、ひっどいなあ。キミだって今までそこに居たんでしょ?」
「まあそうだが……お前自分の性別分かってんのか?」
「女の子だけどそれが? ……あっそうか、心配してくれてるんだ。ひょっとして助けてくれるの?」
「冗談。お前よく見たらキリトたちのグループに混じってた奴じゃねえか。あいつらとは関わり合いになりたくねーんだよ」
「へえ、どうして?」
「お前ら全員あの黒の剣士様にぞっこんなくせして仲いいとか訳分かんねえ関係になってるからだろうが」
「あ、わかった。嫉妬してるんだ!」
「うるせ。身持ちが固い奴にナンパなんてしねえってことだ」
「今アタシはフリーなんだけどな~?」
「――ほう? お前、初対面の見知らぬ男を誘うと来たか。残念だが受けは悪いぜ」
「ううん。キミだったらいいかなって。ね、元血盟騎士団員さん?」
「……ちっ、一方的に知ってやがったのかよ」
「アナタもさっきアタシの名前勝手に見てたでしょ? お互い様だよ!」
「はぁ、つまり俺は狩りの効率化に利用されると。気が進まねえな……」
「まあまあそんなこと言わずにさ~。じゃ、あのリザードマンの相手お願いね!」
「しかも早速だるい仕事任せやがって……。……今晩だけだぞ」
「お、その言い方意味深だねえ。で、名前はなんていうの?」
「うるせえっつってんだろ。んなもんアイコン見りゃ分かる話じゃねえか……シーヴェだ。シーヴェ」
「ふふっ。なんだかんだで教えてくれるんだ。よろしくね。シーヴェ」
「――はぁ、つくづく癇に障る……ぐだぐだ言ってねえで行くぞっ!」
「りょうかあい!」
【用語・設定説明】
・アークソフィア
第76層の街。レンガ造りの落ち着いた感じのおしゃれな街並みである。主要な場所として転移門前、中央広場、商店通りの三か所があり、昼夜を問わずたくさんの人で賑わっている。
・エギルの店
アークソフィアの中央広場のメインストリートに構えられたエギルの新しい店。
二階建てになっていて一階はエギルの経営する酒場、二階は宿屋である。が、二階の宿泊部屋のほとんどはキリトたちが拠点として居座ってしまっているので、実質宿屋としての機能は失われている。