追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第28話 王種③

 ◆

 

 その日の依頼は倉庫の荷物整理であった。シャールとセフィラは同じ依頼を受けた。まあ、受け持つ内容は異なるのだが。

 

 街の南区画にある穀物商の倉庫が依頼主で、商いの繁忙期を前に在庫の棚卸しを手伝ってほしいという内容である。報酬は銅貨四十枚。二人で分ければ一人二十枚。決して高額ではないが半日仕事としては悪くない。

 

 シャールは重い穀物袋を肩に担ぎながら、倉庫の奥へと運んでいく。積み上げられた袋の山を整理し、番号札を付け直し、帳簿と照合する。単純作業ではあるが体力と根気を要する仕事だ。

 

 セフィラは帳簿係を任されていた。商人が読み上げる数字を書き留め、実際の在庫と突き合わせていく。数字の扱いには慣れている。公爵令嬢として家門の財務を学んだ経験が役に立っていた。

 

「ふむ、なかなか正確だな。あんた、どこかで帳簿の付け方を習ったのかい」

 

 穀物商の主人が感心したように言った。

 

「少々心得がございますの」

 

 セフィラは曖昧に微笑んで答えた。

 

 昼を告げる鐘が鳴る頃には作業の大半は終わっていた。主人は満足げに報酬を支払い、また何かあれば頼むと言って二人を送り出す。

 

 ギルドへ戻る道すがら、シャールはふと気づいた。

 

「リッキーを見かけないな」

 

 その言葉にセフィラが顔を上げる。

 

「そういえば……ここ最近、お会いしておりませんわね」

 

 リッキー。あの痩せぎすの少年のことである。シャールを「兄貴」と慕い、何かと付いて回っていた駆け出しの冒険者だ。ヴァンスやトト、ミランといった仲間たちと共に安宿で共同生活を送りながら、日々の依頼をこなしていたはずであった。

 

 思い返してみれば、ここ四日ほど彼の姿を見ていない。ギルドの広間でもすれ違った記憶がなく、依頼の現場で顔を合わせることもなかった。

 

「体調でも崩したのだろうか」

 

 シャールの呟きに、セフィラが小さく頷く。

 

「心配ですわね」

 

 その日の午後、シャールは別の依頼を受けに行った際、ギルドの広間でヴァンスの姿を見つけた。赤毛の少年は仲間たちと共に依頼の木札を物色しているところであった。

 

「よう、兄貴」

 

 声をかけられたシャールはヴァンスの傍に歩み寄る。

 

「リッキーはどうした。ここ最近見かけないが」

 

 その問いに、ヴァンスの表情がわずかに曇った。

 

「ああ、あいつは……」

 

 言いにくそうに視線を泳がせてから、ヴァンスは声を潜めた。

 

「具合が悪いんすよ。熱が出ちまって、寝込んでる」

 

「熱か」

 

「へい。三日前から動けなくなって。トトが看病してるんすけど」

 

 シャールの眉が寄った。三日も寝込んでいるというのは穏やかではない。

 

「医者には診せたのか」

 

 その問いに、ヴァンスは苦い顔をした。

 

「それが……」

 

 言葉を濁す様子を見て、シャールは察した。

 

「金がないのか」

 

「……へい」

 

 ヴァンスが項垂れるように頷いた。

 

「医者っつっても銀貨十枚はくだらないって言われて。俺らにはとても」

 

 銀貨十枚。新人冒険者にとっては大金である。シャールとセフィラであっても、一週間分の依頼報酬に相当する額だ。リッキーたちのような駆け出しならば、二週間以上の稼ぎを叩かなければ捻出できまい。

 

「場所は分かるか。見舞いに行きたい」

 

「へ?」

 

 シャールの申し出に、ヴァンスは目を丸くした。

 

「いや、その、ありがてえっすけど……」

 

「何か問題があるか」

 

「問題っつうか……まあ、見てもらった方が早いか」

 

 ヴァンスは歯切れ悪くそう言った。その表情にはどこか言いにくそうな様子がある。何かを隠しているような、あるいは何かを言い出せずにいるような、そういった含みが感じられた。

 

 その日の依頼を終えた後、シャールはセフィラを伴ってリッキーたちの宿へと向かった。

 

 ◆

 

 リッキーたちが泊まっている宿は「朝霧の鐘亭」よりもさらに安価な、街の端にある古びた建物であった。看板には「鉄鉢亭」とあるがその文字すらもう半分以上剥げ落ちている。壁は黒ずみ、窓枠は歪み、全体として長年の風雨に晒されてくたびれ果てた印象を与えていた。

 

 四人は三階の相部屋に泊まっている。ヴァンスの案内で狭い階段を上がり、廊下の突き当たりにある部屋の扉を開けた。

 

 そこは六畳ほどの狭い空間であった。粗末な寝台が四つ詰め込まれ、壁際には荷物が雑然と積まれている。窓は小さく、日中であっても薄暗い。空気は淀んでおり、どこか饐えたような匂いが漂っていた。

 

 寝台の一つにリッキーが横たわっていた。

 

 その傍らに小柄な影が座っている。トトだ。彼女──いや、この時点でシャールはまだそれを知らないのだが──は手桶を抱え、布を絞りながらリッキーの額を拭っていた。

 

「お、シャルの兄貴」

 

 リッキーが弱々しく笑った。

 

「わざわざ来てくれたんすか」

 

 その顔色は青白く、額には脂汗が滲んでいる。目の下には隈が浮かび、頬はこけているように見えた。明らかに消耗している。

 

「具合はどうだ」

 

 シャールが寝台の傍に膝をつくと、リッキーは照れたように視線を逸らした。

 

「大したことないっすよ。ちょっと熱っぽくて、疲れが出たんすかね。寝てりゃ治ると思うんすけど」

 

 その声は掠れており、言葉の端々に息切れの気配がある。とても「大したことない」という状態には見えなかった。

 

「三日も寝込んでいるのに大したことないはないだろう」

 

 シャールの言葉に、リッキーは苦笑した。

 

「まあ、そうっすね……」

 

 セフィラが傍らに歩み寄り、リッキーの手を取った。

 

「熱がありますわね。かなり高い」

 

 その手は確かに熱を持っていた。額に触れてみれば、なおさらである。

 

「医者に診せなさい」

 

 セフィラの声には有無を言わせぬ響きがあった。だがリッキーは困ったような顔をするばかりで返事をしない。代わりにヴァンスが口を開いた。

 

「さっきも言った通り、金がねえんすよ。医者なんてとても」

 

「この状態で放っておくつもりですの?」

 

「放っておくわけじゃねえっす。トトが看病してるし、解熱の薬草も買ってきた。それで様子を見てるんすけど……」

 

 ヴァンスの声には焦りと無力感が滲んでいた。彼とて仲間を見捨てるつもりはないのだろう。だが手段がないのである。

 

 シャールはリッキーの様子を観察していた。

 

 彼は汗をかなりかいている。着ている襤褸のシャツは汗で身体に張り付き、見るからに不快そうだった。

 

「汗を拭いた方がいい。シャツを脱いで、身体を清めろ」

 

 シャールはそう言いながら、懐から真新しい布を取り出した。依頼の作業用に持ち歩いているものである。

 

「え、いや、それは」

 

 リッキーが慌てた様子で身じろぎした。

 

「大丈夫っす、そんな、自分でできるんで」

 

「できる状態には見えん。いいから脱げ」

 

 シャールは遠慮なくリッキーのシャツの裾に手をかけた。

 

 その瞬間、リッキーの反応が激しくなった。

 

「や、やめてくださいっ」

 

 弱っているとは思えぬ強さでシャールの手を押し返す。その顔は熱のせいだけではなく、羞恥で赤く染まっていた。

 

「なぜだ。汗まみれのシャツを着たままでは余計に体調を崩す」

 

「でも、その、俺は」

 

 リッキーはもごもごと口ごもる。その様子が妙であった。病人が介助を断るのは珍しくないがこのリッキーの反応には単なる遠慮以上の何かがあるように感じられた。

 

 シャールは視線をヴァンスに向けた。

 

 赤毛の少年は何やら居心地悪そうに視線を泳がせている。トトもまた、手元の桶をじっと見つめたまま顔を上げようとしない。ミランは部屋の隅で黙って壁を見ていた。

 

 明らかに何かを隠している。

 

「何を言いたがっている」

 

 シャールの問いに、誰も答えなかった。

 

「構わん。見せろ」

 

 シャールは有無を言わせずリッキーのシャツを引き上げた。

 

「あ、ちょ、兄貴っ」

 

 リッキーが悲鳴じみた声を上げる。だがシャールは手を止めなかった。襤褸シャツを脱がせ、真新しい布で汗ばんだ肌を拭う。

 

 リッキーは自分の身体を両腕で抱きすくめるようにしていた。特に胸のあたりを覆い隠すような姿勢である。

 

 シャールはその腕を静かにどかした。

 

「拭くのに邪魔だ」

 

「や、やめ──」

 

 リッキーの抵抗は弱かった。病で体力を消耗しているのだから当然である。シャールは淡々と布を滑らせ、胸元を拭おうとして、

 

 手が止まった。

 

 そこにはうっすらと隆起した二つの膨らみがあった。

 

 シャールは数秒ほど沈黙していた。

 

 それから、ゆっくりとリッキーの顔を見た。

 

 リッキーは──いや、彼女は目を固く閉じ、顔を真っ赤にして俯いている。その表情には羞恥と、それから何か別のもの──諦めのような、あるいは覚悟のようなものが入り混じっていた。

 

「……そういうことか」

 

 シャールの声は静かだった。

 

 リッキーが女であることを、彼はようやく理解した。

 

 ◆

 

 部屋の中には重たい沈黙が落ちていた。

 

 シャールはリッキーの身体を拭き終えると、新しい布を渡して身体を覆わせた。それから一歩下がり、腕を組んで壁に背を預ける。

 

「説明してくれ」

 

 その声には責める響きはなかった。ただ淡々と、事実を求めている。

 

 リッキーは布を胸に押し当てたまま、しばらく黙っていた。やがて、絞り出すような声で口を開く。

 

「……バレちまったっすね」

 

「ああ」

 

「すみません、兄貴。ずっと騙してて」

 

「騙していたという認識があったのか」

 

 その問いに、リッキーは小さく頷いた。

 

「最初は……そういうつもりじゃなかったんす。別に嘘をついてるわけでもないし、聞かれなかったから言わなかっただけで。でも、兄貴と話すようになってから、なんか、言い出せなくなっちまって」

 

「なぜ女であることを隠していた」

 

「そりゃあ……」

 

 リッキーは視線を落とした。

 

「女が冒険者なんて、面倒事しか起きないっすから」

 

 その言葉の意味するところは明白であった。

 

 冒険者という職業は圧倒的に男性が多い。女性の冒険者がいないわけではないがその多くは魔術師や神官といった後衛職であり、前線で戦う戦士や斥候はほとんどが男である。

 

 若い女が一人で、あるいは男たちの中に混じって冒険者をやるということは様々な危険を伴う。魔物との戦いよりもむしろ、人間からの被害の方が深刻な場合すらあった。酔った冒険者に絡まれる、依頼先で襲われる、仲間と思っていた相手に裏切られる。そうした事例は決して珍しくない。

 

「それで男のふりを」

 

「ふりっていうか……髪を短くして、胸を押さえて、声は元々低い方だったし。誰も疑わなかったっす」

 

 確かに、言われてみればリッキーの体格は華奢である。だがそれは栄養状態の悪い少年と言われれば十分に通用する範囲だった。痩せぎすの身体、ボロボロの革鎧、擦り切れた装備。誰もその下に隠されたものを疑おうとはしなかったのである。

 

「君も同じか」

 

 シャールの問いに、トトがびくりと肩を震わせた。

 

「……はい」

 

 トトは観念したように頷く。

 

「あたしもリッキーと同じです。女だって分かったら色々と面倒なんで」

 

 シャールは二人を見比べた。

 

 そういえば、とふと思い出す。トトもまた、シャールに対して一定の距離を保っていた。リッキーほど懐いてくることはなく、かといって敵意があるわけでもない。ただ、近づきすぎないように注意しているような、そんな印象を受けていた。

 

 それは自分の正体を隠すための処世術だったのだろう。

 

「セフィラのような冒険者は稀なのか」

 

 シャールの問いに、ヴァンスが答えた。

 

「そりゃあそうっすよ。セフィの姉さんみたいに、誰が見ても女だって分かる格好で冒険者やってる人なんて珍しいっすよ」

 

「なぜだ。彼女は自分の性別を隠していないが特に問題は起きていない」

 

 ヴァンスは苦笑した。

 

「セフィラ姉さんは見た目は華奢だけど、なんつーか……迫力があるっていうか。下手に手を出したらやべえって、誰でも分かるじゃないすか。それにシャルの兄貴もいつも一緒だし」

 

 確かにそうかもしれない、とシャールは思った。

 

 セフィラには生まれながらの気品がある。公爵令嬢として培われた威厳のようなものが無意識のうちに周囲を圧している。軽んじれば痛い目に遭うと、本能的に悟らせる何かがあるのだ。

 

 だがリッキーやトトにはそれがない。彼女たちはただの駆け出しの冒険者であり、力も経験も乏しい。そんな状態で女であることを公にすれば、確かに様々な厄災を招きかねなかった。

 

「分かった」

 

 シャールは短く言った。

 

「事情は理解した。責めるつもりはない」

 

「……ありがとうございます、兄貴」

 

 リッキーの声が掠れた。

 

「でも、なんか、すみません。兄貴にはちゃんと言っておくべきだったって思ってたんすけど、なんかずるずると言えないまま来ちまって」

 

「気にするな。言いにくいことは誰にでもある」

 

 シャールはそう言って、視線をトトに移した。

 

「リッキーの看病は任せていいか」

 

「はい、任せてください」

 

 トトが頷いた。

 

 シャールは立ち上がり、ヴァンスに向き直った。

 

「医者に診せるのに銀貨十枚と言ったな」

 

「へい」

 

「それだけあれば足りるのか」

 

「っすね……」

 

 シャールは黙って計算した。

 

 銀貨十枚。自分とセフィラの蓄えの中から出せない額ではない。だが気軽に出せる額でもなかった。

 

「分かった。今日のところは引き上げる。またな」

 

 シャールはそう言って、セフィラと共に部屋を後にした。

 

 ◆

 

 宿への帰り道、二人は無言で歩いていた。

 

 夕暮れの街は橙色に染まり、長い影が石畳の上を這っている。行き交う人々の姿もまばらで、どこか遠くで犬の鳴く声が聞こえていた。

 

「リッキーさんが女性だったとは」

 

 セフィラがぽつりと言った。

 

「驚きましたわ」

 

「ああ。私も気づかなかった」

 

「でも、言われてみれば、そうかもしれないと思える節はございましたわね」

 

「どういう意味だ」

 

「シャールのことをやたらと意識していらしたでしょう。兄貴、兄貴と慕っていらっしゃいましたし」

 

 シャールは首を傾げた。

 

「それは単に世話になったからではないのか」

 

「それだけではないように見えましたわ。なんと申しますか……目の輝きが違っておりましたもの」

 

 セフィラの声には微かな含みがあった。だがシャールにはその意味するところが今ひとつ分からない。

 

「よく分からんな」

 

「分からなくてよろしいのですわ」

 

 セフィラは小さく笑った。

 

 宿に戻り、部屋の扉を閉めると、シャールは深い息を吐いた。

 

「セフィラ」

 

「はい」

 

「リッキーのことだが」

 

 シャールは窓際に立ち、外を見つめながら言葉を選んだ。

 

「手を貸してやりたい気持ちはある」

 

「医者代のことですわね」

 

「ああ。銀貨十枚。私たちの蓄えから出そうと思えば出せる」

 

「ええ」

 

「だが」

 

 シャールは振り返り、セフィラの目を見た。

 

「この金は私一人のものではない。君のものでもある。私の一存で使っていいものか」

 

 セフィラは黙って聞いていた。その翠色の瞳は静かに、だが何かを見透かすようにシャールを見つめている。

 

「金は文字通りの命綱だ」

 

 シャールの声は低かった。

 

「少し顔を知っている相手にポンポンと使っていては切りがない。今日はリッキー、明日は誰か別の者、そうやって際限なく出費を重ねれば、いずれ自分たちの首を絞めることになる」

 

 それは冷徹な計算であった。

 

 だがシャールの胸の内にはその計算とは別の何かがあった。帝王学というものが骨の髄まで染み込んでいる彼にとって、施しというものは単純な善意の発露ではなかった。そこには常に打算が伴う。何を得て、何を失うか。誰に恩を売り、誰を敵に回すか。そうした計算なくして金を使うことは為政者として愚かなことであった。

 

 もっとも、今の自分はもはや王太子ではない。為政者でもない。ただの冒険者に過ぎないのだからそこまで考える必要はないのかもしれない。だがそうした思考の癖というものは簡単には抜けないのである。

 

「もちろん」

 

 シャールは言葉を継いだ。

 

「君が同じ状況に陥ったなら、私は持てる金をすべて使うだろう。何を犠牲にしてでも君を救う」

 

 その言葉は自然と口をついて出ていた。

 

 セフィラの頬がわずかに染まる。彼女は視線を落とし、それから小さく咳払いをした。

 

「……急にそのようなことを仰られても困りますわ」

 

「事実を述べただけだ」

 

「事実であっても、言い方というものがございます」

 

 セフィラは頬を膨らませて見せたがその声には照れが滲んでいた。

 

 しばしの沈黙が二人の間に横たわる。

 

 やがてセフィラは椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。その仕草には考え込むような真剣さがあった。

 

「シャール」

 

「なんだ」

 

「あなたの中には複数のあなたがいらっしゃいますわね」

 

 その言葉に、シャールは首を傾げた。

 

「どういう意味だ」

 

「王族としてのあなた。冷静に損得を計算し、施しの是非を論じるあなた。そして心優しい青年としてのあなた。困っている者を放っておけない、情に厚いあなた」

 

 セフィラの声は静かだった。

 

「その幾つかのあなたが今、せめぎ合っているように見えますわ」

 

 シャールは答えなかった。だが否定もしなかった。

 

 セフィラの言う通りなのかもしれない。自分でも気づいていなかったがそうした葛藤が確かに胸の内にあるのかもしれなかった。

 

「わたくしの考えを申し上げてもよろしいですか」

 

「聞こう」

 

「リッキーさんを救うのも悪くないのではないか、と思いますの」

 

 シャールは眉を寄せた。

 

「理由を聞かせてくれ」

 

「わたくしたちには一人でも多くの味方が必要ですわ」

 

 セフィラの声には静かな決意が宿っていた。

 

「わたくしたちはウェザリオ王国から逃亡してまいりました。このラスフェルにたどり着いたことは僥倖と申すべきでしょう。しかし──」

 

 彼女は言葉を切り、窓の外を見やった。夕闘の光が彼女の横顔を照らしている。

 

「王国がわたくしたちをこのまま放置しておくでしょうか。わたくしにはそうは思えません」

 

「ああ」

 

 シャールも頷いた。

 

 マーキスの性格を考えれば、諦めるとは思えない。彼は執念深い男だ。一度狙った獲物は必ず仕留めようとする。今は静観しているように見えても、いずれ必ず手を伸ばしてくる。

 

「いずれはラスフェルにも王国の手が伸びてくるでしょう」

 

 セフィラの声が低くなった。

 

「その時、わたくしたちには逃げる手段が必要です。隠れる場所が必要です。そして力を貸してくれる者たちが必要ですわ」

 

「つまり、リッキーを救うことで恩を売れと」

 

「恩に着せる、というと語弊がございますが」

 

 セフィラは小さく首を振った。

 

「少なくとも、いざという時に逃亡の手助けをしてくれるかもしれません。冒険者としての人脈というものはそういった場面で役に立つことがございますわ」

 

 シャールは腕を組んで考え込んだ。

 

 セフィラの言うことには一理あった。いや、理があるというより、極めて合理的な判断であると言える。感情に流されるのではなく、将来の危機に備えて今から布石を打っておく。それは貴族としての教育を受けてきた者ならば当然身につけている処世術であった。

 

 だが同時に、シャールの胸の内にはある種の苦さもあった。

 

 リッキーを助けるのは打算のためなのか。将来役に立つかもしれないから恩を売っておくのか。そうした計算が先に立つことに対する、微かな後ろめたさのようなものがある。

 

「根っからの貴族だな、セフィラ」

 

 シャールの呟きに、セフィラは苦笑した。

 

「お互い様ですわ」

 

「ああ」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 かつて王宮にいた頃、彼らは純粋な心で世界を見ていた。正義と悪、善と邪。そうした単純な二項対立を信じていた時期がある。だが今はどうか。あらゆる行動に打算が絡み、あらゆる判断に損得が伴う。それが大人になるということなのかもしれないし、あるいは貴族という血が成せる業なのかもしれなかった。

 

「明日、もう一度リッキーの様子を見に行こう」

 

 シャールが言った。

 

「医者代は出す。薬代も必要ならば出そう」

 

「よろしいのですか」

 

「君の言う通りだ。味方は多いに越したことはない。それに」

 

 シャールは小さく笑った。

 

「放っておけない性分なのは否定できん」

 

「ふふ、やはりあなたは優しい方ですわ」

 

「打算と優しさは矛盾しない」

 

「そうですわね。わたくしもそう思いますわ」

 

 セフィラが立ち上がり、シャールの傍に歩み寄った。

 

「リッキーさんのこと、きっと喜びますわ」

 

「まあ、金を出すだけだ。大したことではない」

 

「いいえ、大したことですわ。少なくとも、彼女にとっては」

 

 セフィラはそう言って、窓の外を見やった。

 

 夕闇が迫り、街灯に火が灯り始めている。石畳の上を歩く人々の影が長く伸び、やがて闘に呑まれていく。

 

「明日が楽しみですわね」

 

「楽しみか?」

 

「ええ。リッキーさんがお元気になられたら、きっと大喜びでシャールに飛びついてくるでしょうから」

 

「それは勘弁してほしいな」

 

「あら、嫌ですの?」

 

「嫌というか……困る」

 

 セフィラがくすくすと笑った。

 

 その笑い声を聞きながら、シャールは静かに息を吐いた。

 

 ◆

 

 翌朝、二人は鉄鉢亭を再び訪れた。

 

 リッキーの容態は昨日と大きく変わってはいなかった。熱は依然として高く、顔色も悪い。だが意識はしっかりしており、シャールたちの姿を見ると弱々しくも笑顔を見せた。

 

「兄貴、また来てくれたんすか」

 

「ああ。それと、これを」

 

 シャールは懐から銀貨を取り出し、ヴァンスに渡した。

 

「十枚ある。医者を呼べ。薬代も含めて、足りなければ言ってくれ」

 

 ヴァンスは目を丸くした。

 

「え、でも、こんな……」

 

「遠慮するな。困った時はお互い様だ」

 

 シャールは淡々と言った。

 

 ヴァンスはしばらく銀貨を見つめていたがやがて深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます。必ず返します」

 

「返す必要はない」

 

「でも」

 

「いいから医者を呼べ。早い方がいい」

 

 シャールに促され、ヴァンスは慌てて部屋を飛び出していった。医者を呼びに行ったのだろう。

 

 リッキーは寝台の上で目を潤ませていた。

 

「兄貴……」

 

「何も言うな。寝てろ」

 

「でも、なんで、俺なんかのために」

 

「なんかではない」

 

 シャールは静かに、しかし有無を言わせぬ調子で言った。

 

「君は私の知り合いだ。知り合いが困っていれば手を貸す。それだけのことだ」

 

 リッキーは何か言おうとしたが言葉にならなかった。ただ涙が頬を伝い落ちていく。

 

「泣くな。病人が泣くと余計に消耗する」

 

 シャールの言葉に、リッキーは慌てて目元を拭った。

 

「すみません……ありがとうございます……本当に」

 

 セフィラがリッキーの傍に膝をつき、その手を取った。

 

「早く元気になってくださいませ。また一緒にお仕事ができる日を楽しみにしておりますわ」

 

「……はい」

 

 リッキーの声は震えていた。

 

 トトが横から口を開いた。

 

「あの、シャルさん」

 

「なんだ」

 

「あたしからもお礼を言わせてください。リッキーのこと、ずっと心配で。でもお金がなくて、何もできなくて」

 

「君は看病を続けてくれた。それで十分だ」

 

 シャールはそう言って立ち上がった。

 

「医者が来るまでは安静にさせておけ。必要なことがあれば遠慮なく言ってくれ」

 

 そう言い残して、シャールとセフィラは部屋を後にした。

 

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