追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第32話 王種⑦

 

 血が、飛沫いた。

 

 木陰に紛れてシャールの背後から跳びかかった小鬼が、宙空で引き裂かれて地に落ちる。真っ二つに、という表現は正確ではない。むしろ荒縄を千切るように、あるいは腐った布を引き毟るように、その緑色の肉体は五つか六つの塊へと分解されたのである。内臓が零れ、血飛沫が弧を描き、断末魔の悲鳴すら上がらぬ速度で命は終わった。

 

 周囲に漂う微細な粒子、砂塵や土埃や枯れ葉の欠片といったものが瞬時に集束し、刃を形成し、敵の肉体を切り裂いたのだ。

  

 シャールは振り返りもしなかった。ただ左手の指先がかすかに動いただけである。その微細な動作に呼応して、周囲に展開されていた不可視の力場が収束し、刃と化し、敵を切り刻んだ。

 

 シャールは足を止め、周囲を見回した。

 

 森の闘は濃く、月明かりも木々の梢に遮られて地表には届かない。常人であれば一歩先すら見通せぬ暗黒の中、しかし彼の知覚は異なる次元で機能している。意識を薄く広げ、周囲に張り巡らせた感覚の網が空間を把握していた。岩の配置、木々の位置、地面の起伏、そして潜む者たちの気配。それらすべてが彼の脳裏に地図のように描き出される。

 

 感覚拡張領域とでもいうべきか──それがシャールの力の基盤であった。

 

 己の意識を物質的な肉体の枠を超えて周囲に展開し、あたかも触覚が空気そのものに浸透していくかのように空間を支配する。その領域内にあるものは、彼にとって自らの身体の延長に等しかった。指先で砂粒を摘まむように、あるいは息を吐くように、領域内の物質を操作することができる。そしてその操作が殺意を伴う時、領域はそのまま殺傷圏へと変貌するのである。

 

 ◆

 

 森の奥へと進むにつれ、異変は一層その度を増していった。

 

 腐臭が鼻腔を焼く。獣脂の腐れたものと、肉の崩れゆくものと、それから言葉では掬い取れぬ何か別の瘴気が幾重にも折り重なり、大気そのものを汚濁させている。呼吸のたびに肺腑の奥まで毒が染み込んでくるようで精神の表皮にまで腐食が及ぶかと思われた。

 

 足元に転がるものがある。

 

 小鬼の死骸であった。

 

 緑色の肌は青黒く変色し、眼窩は虚ろに見開かれたまま虚空を睨んでいる。胸郭が陥没し、内臓が露出していたが傷口は戦によるものではなかった。内側から何者かに吸い尽くされたかのような、干からびた様相を呈している。

 

 さらに進む。

 

 灰狼の死骸が三頭、折り重なるように倒れていた。いずれも同様の状態で毛皮は艶を失い、骨格の形がくっきりと浮き出ている。眼球は白濁し、舌は口腔から垂れ下がったまま乾いていた。生気を抜かれた土嚢のような、もはや生き物であったことすら疑わしい物体と化している。

 

 岩猿の残骸もあった。

 

 あの硬い体毛を持つ魔物ですらこの有様である。巨体が互いに寄り添うように倒れており、周囲には凄惨な痕跡が散らばっていた。だが戦闘の跡ではない。何かに養分を吸い取られ、抜け殻のように朽ち果てた──そういう類の死に様であった。殺戮と飢餓が共謀してつくり上げた墓標の群れ。彼らは一方的に収穫されたのだ。

 

 シャールは足を止めることなく進み続けた。

 

 死骸の数は増えていく。小鬼、灰狼、岩猿。森に棲息していたはずの魔物たちが次々と目に入る。いずれも同じ状態で生命力を根こそぎ奪われたかのように干からびていた。血の名残すら残っていない。骨と皮だけになった残骸が腐葉土の上に無造作に打ち捨てられているばかり。

 

 この森は死につつある。

 

 否、既に死んでいるのかもしれない。生きているのは森の奥に潜む何かだけでそれ以外のすべては贄として捧げられた。

 

 やがて、視界が開けた。

 

 木々が不自然に倒れ、あるいは根こそぎ引き抜かれて、小さな空き地のようなものが形成されている。月明かりがそこだけ地表に届き、青白い光が異様なものを照らし出していた。

 

 それは肉の塊としか形容できぬものであった。

 

 高さは人の背丈の三倍ほど。幅はさらに広い。脈動している。どくり、どくりと、巨大な心臓が鼓動するかのように全体が蠢いていた。表面は粘液に覆われ、月光を反射して不気味に光っている。腐った卵の黄身を煮詰めたような、粘ついた質感。

 

 よく見れば、その塊の中に何かが蠢いていた。

 

 小鬼の顔が見える。半ば肉塊に埋もれながら、まだ口を動かしている。灰狼の四肢が突き出ており、時折痙攣するように震えている。岩猿の頭部が表面から覗き、白目を剥いて何かを訴えるように口を開閉していた。

 

 生きている。

 

 この肉塊に取り込まれた魔物たちはまだ息があるのだ。死ぬことすら許されず、養分として吸い上げられながら、意識だけを保ったまま呻いている。底無しの沼に溺れ続ける悪夢。それは死よりも残酷な在り様であった。

 

 これは何か。

 

 シャールはその疑問を抱かなかった。

 

 抱く必要がなかったのである。理解も分析も不要であった。ただ目の前にあるものが排除すべき敵であるということだけが明確だった。形を持たぬ悪意が肉を纏ったもの。生きとし生けるものを貪り食らい、その苦痛を糧とする存在。それを前にして問うべきことなど何もない。

 

 剣を抜き放った。

 

 同時に、意識を研ぎ澄ませる。

 

 周囲に展開していた感覚の領域を急速に収束させていく。薄く広がっていた力の膜が凝縮し、密度を増し、刃の形を取り始めた。かつて王宮の追っ手を斬り伏せた時と同じ要領である。不可視の刃が形成される。

 

 そして薙ぎ払った。

 

 横一文字に振り抜いた剣に呼応して、不可視の刃が空間を疾駆する。それは肉塊の胴を凄まじい勢いで切り込んでいった。

 

 だが──

 

 刃は半ばまで斬り込んだところで止まってしまった。

 

 弾かれたのではない。肉塊の内部に吸い込まれるようにして、その威力が殺されたのである。斬撃を構成していた微細な粒子が肉塊の中に飲み込まれ、そのまま同化されていくような感覚があった。夜を切り裂こうとした刃が、夜そのものに呑まれていく。

 

 シャールの眉が寄った。

 

 切れない。いや、切れはするのだが決定打にならない。表面を傷つけることはできても、本体を断ち切るには至らない。まるで泥沼に剣を振り下ろしているかのような手応えのなさだった。

 

 肉塊が震える。

 

 表面が波打ち、粘液が泡立つ。何かが生まれようとしている。目に見えぬ巨大な産道が新たな凶器を練り上げている。その気配を感じ取り、シャールは後方へと跳躍した。

 

 次の瞬間、肉塊の表面が裂けた。

 

 そこから這い出てきたのは真っ黒な小鬼であった。

 

 否、小鬼と呼んでよいものか。

 

 形状は確かに小鬼に似ている。人の膝から腰ほどの背丈。尖った耳。不格好に長い腕。だがその全身は墨汁を塗りたくったように真っ黒で表面には粘液が滴っていた。両眼は飢えた獣のそれのように赤く燃え、口腔からは黒い涎が垂れている。皮膚の下では縄を撚ったような筋肉が蠢いていた。

 

 そして何より、その存在感が尋常ではなかった。

 

 生きとし生けるものの敵。

 

 シャールの脳裏にその言葉が浮かんだ。命あるものすべてに対する純粋な敵意。殺意というより、むしろ貪欲さに近い何かがその黒い肉体から立ち昇っている。近づくものを喰らい、吸収し、己の一部と化す。噴き出す殺気の間欠泉とでも形容すべき、圧倒的な存在の在り様が肌で感じ取れた。

 

 ◆

 

 黒い小鬼がシャールを見た。

 

 赤い瞳が獲物を捉える。瞳孔の奥で溶けた鉄のような光が蠢いていた。口が裂けるように開き、歯列が剥き出しになった。歯は錆びた鉄釘のように鈍く光り、その一本一本が鋭利な凶器と化していた。野犬の群れを一匹に凝縮したような相貌。

 

 戦闘が始まった。

 

 黒い小鬼が地を蹴った。その動きは通常の小鬼とは比較にならぬほど速い。矢が弦を離れるように間合いを詰め、振り上げた腕を力任せに振り下ろしてきた。

 

 シャールは横に躱した。

 

 黒い腕が空を切り、地面を抉る。土砂が吹き上がり、衝撃波が周囲に広がった。直撃すれば人体など紙くずのように引き裂かれるだろう。それほどの威力が込められていた。骨が砕け肉が裂ける音を想像するだけで背筋を氷の指がなぞるような感覚がある。

 

 反撃を試みる。

 

 意識を集中し、不可視の刃を形成して斬りつけた。黒い小鬼の横腹に深い切り傷が走る。黒い血が弾けた。だが次の瞬間、その傷口が塞がり始めた。黒い肉が蠢き、盛り上がり、瞬く間に元通りになっていく。

 

 ──再生能力か

 

 舌打ちしそうになるのを堪えた。多少の傷では意味がない。致命傷を与えなければ、この怪物は止まらない。だが大きく力を溜める余裕など与えてはくれないだろう。

 

 小鬼の二撃目が来た。

 

 今度は横薙ぎ。シャールは後方へ跳んで距離を取った。黒い腕が眼前を通過し、その余波だけで顔に風圧を感じる。刃物のような殺気が頬を掠めていった。

 

 三撃目。

 

 地面を抉りながら下から掬い上げるような軌道。シャールは横に転がってこれを躱した。背後で大木が根元から折れる音がした。直径が人の胴ほどもある大木がたった一撃で薙ぎ倒されたのである。

 

 ──あれは受けられない。

 

 直感的にそう判断した。力と力のぶつかり合いでは勝ち目がない。ならば戦い方を変えるしかなかった。

 

 シャールは黒い小鬼の動きを観察し始めた。

 

 攻撃は確かに強力だ。一撃一撃が必殺の威力を持ち、喰らえば重傷は免れないだろう。だが、とシャールは冷静に分析する。

 

 動き自体は単純だった。

 

 力任せに腕を振り回しているだけ。技も駆け引きもない。ただ暴力を叩きつけているに過ぎない。これならば躱せる。予測できる。間合いを読めば、対処は可能だ。

 

 さらに気づいたことがある。

 

 小鬼の動きが時折乱れるのだ。攻撃の途中で急に停止したり、明後日の方向を向いたり、まるで混乱したかのように挙動が不審になる瞬間がある。

 

 ──生まれたばかりだからか。

 

 シャールはそう推測した。この怪物はつい先ほど肉塊から生まれ落ちたのだ。まだ自分の身体を完全には制御できていないのかもしれない。あるいは思考そのものが未成熟で戦闘中に錯乱を起こしているのか。

 

 いずれにせよ、つけ入る隙はある。

 

 そう判断した瞬間だった。

 

 小鬼の腕がどろりと溶けた。

 

 文字通り、溶けたのである。黒い肉体が泥のように崩れ、形を失い、そして次の瞬間には全く別の形状を取っていた。

 

 戦斧。

 

 小鬼の右腕が巨大な戦斧と化していたのである。刃渡りだけで人の背丈ほどもあろうか。月光を反射して鈍く光る黒い金属。それは生物の一部とは思えぬ鋭利さを帯びていた。

 

 振り下ろされる。

 

 シャールの背筋を冷たいものが駆け抜けた。咄嗟に横へ飛び退く。戦斧が空気を切り裂き、地面に叩きつけられた。衝撃で地面が爆ぜ、土塊が四方に飛び散る。

 

 先ほどまでとは威力が違う。

 

 いや、威力だけではない。軌道が読めなくなっている。腕が変形したことで間合いが変わり、角度が変わり、速度も上がった。単純だった攻撃に変化が生じていた。

 

 戦いの中で成長しているのか。

 

 シャールの胸中に不穏な疑念が湧いた。この怪物は学習している。戦闘を通じて自らを研ぎ、より効率的な殺戮者へと進化している。だとすれば長引けば長引くほど不利になる。早期に決着をつけなければ。

 

 だがシャールはすぐに気づいた。

 

 そうではない。

 

 成長しているのではないのだ。なぜなら、小鬼の胸に顔が浮かび上がってきたからである。

 

 それは人間の顔だった。

 

 黒い肉体の表面に、まるで水面に映る像のように、人の顔が浮かんでいる。年の頃は三十前後だろうか。彫りの深い顔立ち。額に深い皺が刻まれ、口元は苦悶に歪んでいる。目は固く閉じられ、眉間には深い溝が走っていた。

 

 その顔には見覚えがなかった。

 

 シャールにとっては見知らぬ男である。この街で出会った誰でもないし、かつて王宮にいた頃に見た顔でもない。ただの他人。縁もゆかりもないどこかの誰か──だが見る者が見れば分かるだろう。

 

 例えばその男の家族であれば。

 

 例えばその男の恋人であれば。

 

 例えばその男と共に森へ入った仲間であれば。

 

 その男の名はJJという。

 

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