追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第47話 帝国の密偵

 ◆

 

 日がすっかり暮れ、宵の翼がラスフェルを覆い隠した頃。シャールとセフィラはいまだに宿で話を続けていた。ラスフェルを出て、ヴェイル帝国へ向かう──軽々に判断を下せる類のものではない。

 

「もう一度、あの男に会うべきだろうか」

 

 シャールがぽつりと呟いた。

 

 セフィラは少し考え込むような仕草を見せてから口を開いた。

 

「わたくしは会うべきだと思いますわ」

 

「だが相手は帝国の密偵だ。迂闘に接触するのは危険かもしれん」

 

「そうですわね。ですが、このまま何も知らずに帝国へ向かうよりはましではございませんか」

 

 その言葉にシャールは顔を上げた。

 

 セフィラの表情は落ち着いていた。いつもの聡明な瞳が理知的な光を湛えている。幼い頃から政治の駆け引きを間近で見てきた公爵令嬢の血が、こういう時に彼女を冷静にさせるのだろう。

 

「相手の意図を探った方がいい、ということか」

 

「はい。ギルドマスターのグレン殿がわざわざ教えてくださったのも、わたくしたちに選択の余地を与えるためでしょう。タマさんが何者であるかを知った上で接触すれば、少なくとも相手の思惑に気づかぬまま踊らされるということは避けられます」

 

 シャールは黙って頷いた。

 

「利用されるにしても」

 

 セフィラは続けた。

 

「利用されていることを自覚していれば、対処のしようがございますわ。問題は、知らぬ間に手駒にされることでございます」

 

 その分析は的を射ていた。情報を持つ者と持たざる者では立場が違う。ギンタマの正体を知らぬまま彼の提案に乗っていれば、それこそ帝国の傀儡にされていたかもしれぬ。だがグレンの助言によって二人は対等とまではいかずとも、少なくとも盤上の駒が自らの位置を把握する程度には状況を理解している。

 

「行こう」

 

 シャールは立ち上がった。

 

「赤銅の盾亭へ」

 

 セフィラもまた静かに頷いて立ち上がる。その表情には覚悟のようなものが浮かんでいた。

 

 ◆

 

 赤銅の盾亭は盛況だった。

 

 入り口の扉を開けると、焼けた肉と安酒の匂いが鼻を突く。店内には木製のテーブルがいくつも並び、酒を楽しむ冒険者たちの姿があった。壁には古びた盾や剣が飾られており、店名の由来であろう赤銅色の大盾が正面の壁に鎮座している。

 

 シャールとセフィラが店内に足を踏み入れると、奥のテーブルで一人の男が手を挙げた。

 

 ギンタマである。

 

 くすんだ茶色の革鎧を纏った彼は、まるで二人が来ることを予期していたかのような顔でにやりと笑った。テーブルの上には既に三つの杯と酒瓶が用意されている。

 

「来ると思ってたぜ。グレンのおっさんから聞いたんだろ?」

 

 二人が席に着くと、ギンタマは開口一番そう言った。

 

 隠すつもりはないらしい。シャールは黙って頷いた。否定しても意味がないと判断したのである。

 

「まあ、そうなるだろうとは思ってた」

 

 ギンタマは酒瓶を手に取り、三つの杯に琥珀色の液体を注いだ。

 

「あの爺さんは義理堅いからな。お前さんたちを見殺しにはしないだろうって踏んでたんだ」

 

「それで、あなたは何者なんだ」

 

 シャールの問いは直截であった。正体はすでに知っているが、直接相手の口から聞きたいという想いがあった。

 

 ギンタマは杯を掲げ、一口含んでから答えた。

 

「ヴェイル帝国の密偵だ。お前さんも聞いてるんだろ?」

 

「ああ」

 

「俺の仕事はこの街で情報を集めることさ。王国の動き、諸国連合の動き、自由都市の内情。色々とな」

 

 彼は杯を置き、二人の顔を交互に見やった。その鋭い目つきは相変わらずだが、敵意は感じられない。むしろ品定めをしているような、どこか値踏みするような眼差しである。

 

「だがお前さんたちに関しては、仕事の範疇を超えて興味を持っている。だからちょいと個人的な提案をしてやる」

 

「提案?」

 

 セフィラが問い返した。

 

 ギンタマは頷いた。

 

「帝国へ渡る手助けをしてやろう、って話だ」

 

 その言葉にシャールとセフィラは顔を見合わせた。グレンから聞いていた内容ではあったが、当人の口から直接聞くのはまた別の重みがある。

 

「具体的には」

 

 シャールが促すと、ギンタマは指を三本立てた。

 

「まず一つ目。帝国への渡りをつけてやる。国境を越えるだけなら難しくはないが、向こうで身元を保証してくれる者がいなけりゃ話にならん。俺のツテを使えば、正規の手続きを経て入国できる」

 

 帝国の国境警備は厳しいと聞いている。特に王国からの亡命者に対しては慎重な審査が行われるのが通例だ。だがギンタマの言うように内部に協力者がいるのなら、その障壁は大幅に低くなる。

 

「二つ目。帝国側の受け入れ先として、冒険者ギルドの支部への紹介状を用意する。帝都ヴァルシオンの支部長とは顔見知りでな。悪いようにはしないと約束しよう」

 

 冒険者ギルドは各国に支部を持つ国際的な組織であり、ある程度の政治的独立性を保っている。王国の支部に所属していた者が帝国の支部に移籍することは珍しくない。だがその場合も通常は審査があり、素性の知れぬ者が簡単に受け入れられるわけではなかった。

 

 ギンタマは二本の指を折りたたみ、杯を手に取った。

 

「どうだ、悪い話じゃないだろう?」

 

 シャールは黙って考え込んでいた。

 

 確かに、条件だけを見れば破格と言っていい。帝国への亡命を考えていた二人にとって、これ以上ない申し出である。だがその厚遇には当然、見返りがあるはずだった。

 

「代償は何だ」

 

 シャールの問いに、ギンタマは肩をすくめた。

 

()()何もない」

 

「今は?」

 

「ああ。今すぐ何かを求めるつもりはない。ただし」

 

 彼の目が鋭くなった。

 

「いずれ帝国がお前さんたちに協力を求めることがあるかもしれない。その時に話を聞いてもらえれば、それでいい」

 

 シャールは眉をひそめた。

 

「それは帝国の駒になれということか」

 

「そう受け取るのは早計だぜ」

 

 ギンタマは笑った。

 

「駒になるかどうかはあんたら次第だ。俺はただ、選択肢を増やしてやってるだけさ。協力要請が来た時に断る自由もある。その時点での判断に任せるさ」

 

「随分と都合の良い話だな」

 

「そうでもないぜ。俺たちにとってもリスクはある。お前さんたちが帝国に仇なすようなことをすれば、俺の首が飛ぶ。だからこそ、お前さんたちを見極めようとしているんだ」

 

 その言葉には妙な説得力があった。

 

 密偵という稼業は信用で成り立っている。自分が推挙した人間が問題を起こせば、推挙者の評価も地に落ちる。ギンタマがこれほど積極的に関わろうとしているのは、二人に何らかの価値を見出しているからに違いない。

 

「なぜそこまでわたくしたちに肩入れなさるのです?」

 

 セフィラが静かに問うた。

 

 その声は穏やかだったが、翠色の瞳は鋭くギンタマを射抜いている。相手の真意を見極めようとする聡明な令嬢の眼差しであった。

 

 ギンタマは少しの間沈黙した。

 

 杯の中の酒を見つめ、それから顔を上げた。その表情には先ほどまでの飄々とした雰囲気が消え、どこか真剣な色が浮かんでいる。

 

「面白いと思ったからだ」

 

 彼は言った。

 

「お前さんたちは王国を捨てた。王太子と公爵令嬢という地位を投げ出して、自分の足で歩こうとしている。そういう奴は嫌いじゃない」

 

「それだけですの?」

 

「それだけさ」

 

 ギンタマは肩をすくめた。

 

「俺は生まれも育ちも貧民街だ。親の顔も知らん。物心ついた時には路地裏で盗みを働いていた。そこから這い上がって今の立場を手に入れたんだ。だからかもしれんな、自分の力で道を切り拓こうとする奴には、つい肩入れしたくなる」

 

 その言葉が嘘か真かを判断する術はない。

 

 だがシャールは、この男が完全な嘘を言っているようには思えなかった。ギンタマの目には打算だけでは説明のつかない何かが宿っている。それを信頼と呼ぶには早計だが、少なくとも敵意や害意に類するものではない。

 

「完全に信用することはできない」

 

 シャールは率直に言った。

 

「だが、今は利用し合う関係でいい。そういうことでいいか」

 

 ギンタマは満足そうに笑った。

 

「そういう正直さは好きだぜ。下手に信じたふりをされるより、よっぽど気持ちがいい」

 

 彼は杯を掲げた。

 

「じゃあ、これからよろしくってことで」

 

 シャールとセフィラも杯を手に取った。

 

 三つの杯が小さな音を立ててぶつかり合う。酒場の喧騒の中で、奇妙な同盟が結ばれた瞬間であった。

 

 ◆

 

 席を立とうとした時、ギンタマが思い出したように言った。

 

「ああ、それと」

 

 二人が振り返ると、彼は少しだけ真面目な顔になっている。

 

「この街を出るなら、ちゃんと別れを済ませておけよ」

 

「別れ?」

 

「ああ。お前さんたちがここで過ごした時間は短いかもしれないが、それでも縁ってもんはできてるだろう。リッキーって少年がいたな。それにセイルとかいう元騎士も。ギルドの連中とも顔見知りになっているはずだ」

 

 シャールは黙って聞いていた。

 

「後悔するのは自分だからな」

 

 ギンタマは杯を置いて立ち上がった。

 

「挨拶もなしに消えるのは、後々の自分の心に残る。俺もそういう経験があるから言ってるんだ。余計なお世話かもしれないがな」

 

 その言葉は意外だった。

 

 密偵という冷徹な稼業に身を置く男から、こうした情緒的な助言が出るとは思わなかったのである。だがギンタマの目には冗談を言っている様子はなく、むしろ自らの経験に基づいた真摯な忠告のように見えた。

 

「覚えておく」

 

 シャールは短く答えた。

 

 ギンタマは軽く手を挙げて別れの挨拶とし、店の奥へと消えていった。

 

 ◆

 

 赤銅の盾亭を出た二人はどちらともなく顔を見合わせる。

 

「行きましょうか」

 

 セフィラが言った。

 

 シャールは頷き、二人は宿へと足を向けた。

 

 これからのことを話し合わねばならない。帝国へ向かうのか、それとも別の道を選ぶのか。そしてもし帝国へ向かうとして、この街で出会った人々にどう別れを告げるのか。考えるべきことは山積している。

 

 ただ、シャールもセフィラもこの時、すでに半ば以上心は決まっていた。

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