追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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血の夜

 ◆

 

 エルデ公爵邸の庭園において、二つの魂が未来をひとつにすると決したあの夜。

 

 そこに至るまでの数日間、シャールは決して無為に懊悩の日々を過ごしていたわけではない。政治的権威の失墜は影響力を奪う代償として、皮肉にも監視の目からの解放という自由をもたらす。

 

 彼はその孤独と屈辱を逆手に取り、来るべき出奔のための準備を密かに、そして周到に進めていたのである。

 

 かつての王太子という立場であれば、その一挙手一投足は常に衆人の監視下にあり、いかなる密計も画餅に帰したであろう。

 

 しかし「無能の王子」という烙印を押された今の彼は良くも悪くも王宮内において無視される存在であった。その孤立こそが彼に計画を実行するための時間と行動の余地を与えたのだ。

 

 王妃より賜った宝石、数枚の金貨、そして最低限の武具。それらを小さな革袋に詰め込み、来るべき時に備える。すべてはセフィラという唯一の王国を、この息詰まる政治の桎梏から解放するためであった。

 

 さて、運命の夜。

 

 固い抱擁を解いた二人に、もはや感傷に浸る時間は残されていない。

 

 エルデ公爵家の厩舎より夜陰に紛れやすい漆黒の駿馬二頭を密かに選び出すと、彼らはその手綱を握る。シャールは平民の若者のごとき丈夫な衣服を、セフィラもまた侍女のそれに身をやつし、頭巾でその高貴な顔を隠した。

 

 その姿はもはや王子と公爵令嬢のそれではない。過去の身分という名の衣は彼ら自身の意志によって既に脱ぎ捨てられている。

 

 王都の城壁を越えるにあたり、シャールが事前に調査しておいた古い地下水路の存在が決定的な役割を果たした。汚泥にまみれることも厭わず暗渠を通り抜け、彼らが再び地上に出て自由の空気を吸い込んだ時、東の空は既に白み始めている。

 

 追手の来襲まで、時間的猶予はほとんど存在しない。二人は馬に鞭を入れ、一路、国境へと続く森を目指して疾走した。

 

 ◆

 

 どれほどの時間を駆けたであろうか。

 

 背後から迫る複数の馬蹄の音がついに二人の耳に届く。マーキスが差し向けた追手、王国第二騎士団の一隊であった。

 

 軍馬と乗馬とではその機動力に雲泥の差がある。森の中の開けた場所に追い詰められ、二人は馬を止めると静かに振り返った。十数騎の騎士たちが抜き身の剣を煌めかせながら包囲網を形成していく。

 

 その先頭に立つのは屈強な体躯を持つ隊長オズワルド。かつてシャールの剣術指南役を務めたこともある男である。

 

「シャール殿下、セフィラ様。ご無事なご様子、何よりに存じます。王命です。王都へお戻りいただきたい」

 

 シャールは静かに馬から下り、セフィラを背にかばうように立つ。

 

「オズワルド隊長か。久しいな。だが断る。ここを見逃してはくれぬか」

 

 その落ち着いた声に、オズワルドは憐憫の色を隠さず、わずかに眉をひそめた。

 

「それはなりませぬ、殿下。抵抗なされば、力を用いざるを得ません。その腰の短剣で、我々騎士団にどう立ち向かうおつもりか」

 

 かつての教え子に対する、それが最後の情けであったのかもしれない。しかしシャールは短剣の柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜く。

 

「私はもう殿下ではない。ただのシャールだ。国よりも、ただひとりの女を選んだ愚かな男に過ぎぬ。だから──」

 

 次の瞬間、シャールの周囲で不可視の力が蠢いた。

 

 彼が踏み込み、腰を鋭く回転させて短剣を振り抜く。

 

 その意思に呼応して、大気中の塵芥、砂粒子、木々から滴る夜露までもが一瞬にして凝縮され、シャールの振るった刃の軌跡をなぞるように、極薄にして長大な不可視の刃を形成したのである。

 

 それはまさしく死神の鎌であった。

 

 オズワルドを含む数名の騎士の首が音もなく胴体から離れ、宙を舞う。人体の抵抗などまるで存在しないかのような、あまりにも滑らかな切断。鮮血が噴水のように吹き上がり、静謐な森をおぞましい赤黒色に染め上げていく。オズワルドは何が起きたのかを理解する間もなく、絶命して馬上から崩れ落ちた。

 

 一撃。ただの一撃で、騎士団の一隊は事実上壊滅する。

 

「……すまない、オズワルド」

 

 シャールはかつての師であった男の亡骸を見下ろし、静かに呟いた。

 

「見逃すわけにはいかなかった」

 

 彼はゆっくりとセフィラの方を振り返る。その顔は蒼白で、額には脂汗が滲んでいた。

 

「私を……軽蔑するか、セフィラ」

 

 声はかすかに震えている。

 

 人を殺めたという事実。それもかつて顔見知った者たちを、己が手で葬ったという現実。その重さが彼の精神に重くのしかかっていた。

 

 手がまだ震えている。短剣を握る指先から、力が抜けそうになる。これが正しかったのか、他に道はなかったのか。答えの出ない問いが頭の中を駆け巡っていく。

 

 セフィラはしかし静かに首を横に振った。

 

 彼女が感じていたのはシャールへの恐怖ではない。彼の精神がこの過酷な現実の重圧によって砕け散ってしまうのではないか──その切実な危惧である。

 

 あの優しい人が自分を守るためにここまでのことをしてくれた。その事実が胸を締めつける。同時に、彼がこの重荷をひとりで背負おうとしていることがたまらなく辛かった。

 

 セフィラはシャールの傍に駆け寄り、その震える手を自らの両手で強く包み込む。冷たくなった彼の指先に、自分の温もりを伝えようとするかのように。そして言葉もなく、彼の全身を力強く抱きしめた。

 

 その時である。

 

 地面に散らばっていた騎士たちの剣のうち数本が意思を持ったかのごとく宙に浮き上がった。そしてまだ息のあった数名の騎士たちの身体に向け、容赦なく突き刺さっていく。

 

 短いうめき声の後、森は再び完全な静寂に包まれた。

 

 セフィラがシャールと同じ力を行使し、生き残った者たちにとどめを刺したのである。

 

 共有された罪は時にいかなる愛の言葉よりも強く二人を結びつける。

 

 シャールの腕の中で顔を上げたセフィラの瞳にはもはや一片の迷いもなかった。

 

「シャール様、いえ、シャール。わたくしのことを軽蔑なさいますか」

 

 その問いはシャールに対する絶対的な信頼と、そして彼と対等な共犯者となるという峻烈な決意の表明であった。

 

 あなたひとりに背負わせはしない。わたくしも同じ罪を犯した。これからはふたりで歩んでいく。

 

 言葉にはしなかったがその瞳がすべてを語っている。

 

 シャールは目を見開く。そしてやがてゆっくりと首を横に振ると、先ほどよりも強くその華奢な身体を抱きしめ返したのである。

 

 血の匂いが漂う森の中で、二人はしばらくそのまま動かなかった。互いの鼓動を確かめ合うように、ただ静かに抱き合っていた。

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