追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第55話 地を割る顎

 ◆

 

 バーヴェラの一行が戻ってきたのは、日が傾き始めた頃だった。

 

 宿の窓から見えたのは、朝の出発とは別の顔をした一団である。装備に汚れや損傷の跡はほとんどない。戦鎚は乾いたまま、酸耐性の革手袋も使った形跡がない。十二人が十二人とも無傷で揃っている。

 

 シャールは窓辺に肘をついたまま眉を寄せた。

 

 セフィラが椅子から立ち上がり、同じ窓から外を見る。

 

「早いですわね」

 

 早すぎる、とシャールも思った。出発から半日も経っていない。坑道への往復だけでも相当な時間を要するはずが、討伐どころか探索すらまともに行えたとは思えない帰り方だ。

 

 階下の通りでバーヴェラが子分の一人と何か話している。声は聞こえないが、身振りに苛立ちが見える。戦鎚を地面に突き立て、腕を組み、首を振っている。

 

「行こう」

 

 シャールが言い、二人は階段を下りた。

 

 ◆

 

 バーヴェラは宿の前で坑夫たちを解散させているところだった。

 

 シャールの顔を見ると、肩をすくめた。

 

「空振りさ。巣に入ったんだがね、虫がほとんどいなかった」

 

「いなかった?」

 

「三匹だよ。三匹。十二人で押しかけて三匹ってのは、どう思う」

 

 子分の一人──黒い顎髭の男が横から口を挟む。

 

「しかも小せえのばっかりで。成虫じゃなかった。坑夫の連中は拍子抜けしてやがった」

 

「巣の奥まで行ったが、卵殻が散らばっていただけだ。卵殻の数は多い。あそこにいたのは規模の大きな群れのはずなんだがね」

 

 バーヴェラが腕を組んだまま、鉱山の方角に目を向ける。

 

「坊やはどう思う」

 

「移動した可能性がある」

 

「あたしもそう思ってる。だが連中は地中を掘り進んで移動する。その時の振動が地上にまで伝わるはずなんだよ。揺れがなかった。少なくともマルディンの地面は昨日から揺れていない」

 

 セフィラが口を開きかける。だがバーヴェラが先に手を振った。

 

「ま、考えたって今日のところはどうしようもない。明日もう一度潜ってみるさ」

 

 陽が落ちかけていた。精錬所の煙突が夕暮れの空を切り裂くように聳えている。煙の色が灰から茜へ変わり、通りを歩く人の影が長く伸びている。

 

 バーヴェラが背伸びをした。

 

「さて。今日は風呂にでも入って寝るとするかね。あんたたちは明日の朝の馬車だろう」

 

「ああ」

 

「なら今夜でお別れだ。──嬢ちゃん、元気でやんなよ」

 

 セフィラが微笑んだ。「バーヴェラさんこそ」

 

「さん付けは気色悪いからやめな」

 

 バーヴェラが笑って、子分たちを連れて通りの奥に消えていった。

 

 ◆

 

 異変は深夜に起きた。

 

 最初に聞こえたのは音ではなく、振動だった。

 

 寝台が揺れた。微かに、だが確かに。壁の窓枠がかたかたと鳴り、机の上に置いた水差しの水面が輪を描いている。

 

 シャールは即座に目を開けた。暗闇の中で耳を澄ます。

 

 揺れが止まない。断続的ではなく、持続している。地面の奥底から何かが這い上がってくるような、低く継続的な振動。

 

 隣の部屋の扉が開く気配がした。セフィラだ。

 

「シャール」

 

「ああ」

 

 窓を開けた。

 

 夜気が流れ込む。精錬所の煙突の向こうに星が見えている。通りは暗い。この時刻に起きている者は──

 

 悲鳴が上がった。

 

 精錬所地区の方角。遠くはない。女の悲鳴の後を追うように、何かが砕ける鈍い音が連なる。石畳が──割れている。

 

 シャールは靴を履き、剣を取った。セフィラも既に外套を羽織っている。二人は無言で階段を駆け下りた。

 

 ◆

 

 宿の扉を開けた瞬間、空気が変わっていた。

 

 硫黄と焦げた金属のいつもの匂いに、別の臭いが混じっている。湿った土の匂い。それと、何か酸っぱいもの──腐食性の体液だ。地脈虫。

 

 通りの先で松明が揺れている。人が走っている。怒号が飛び交い、金属が衝突する音がする。

 

 走った。

 

 精錬所の手前の広場に出ると、そこは既に戦場だった。

 

 石畳の継ぎ目から虫が湧いている。一匹、二匹ではない。亀裂の奥から次々と甲殻の光沢が覗き、顎が石を噛み砕きながら地上に這い出してくる。成虫だった。人の腕ほどの太さの胴体が、暗褐色の甲殻に覆われて蠢いている。

 

 冒険者が数名、既に応戦していた。剣を振るう者がいる。だが刃が甲殻の表面を滑る。鈍い金属音だけが返ってきて、虫は怯まない。

 

「足元──」

 

 セフィラの声。

 

 シャールの靴の下で石畳が盛り上がった。咄嗟に飛び退く。一拍遅れて石畳が弾け飛び、太い胴体がせり上がってきた。顎が開く。鉄を噛み砕くという顎が月光を反射して黒く光る。

 

 剣を逆手に握り直し、突いた。甲殻の隙間、胴の第三節と第四節の間を狙う。だが虫が暴れた。胴が横に身を捻った瞬間に節の位置がずれ、刃が甲殻の表面を滑る。硫黄の火花のような音がして、刃先が浮いた。

 

 節の隙間は狭い。虫が止まっていれば狙えるが、そんな注文に応じてくれる相手ではない。胴体がのたくり、身をくねらせ、予測のつかない動きで暴れ回る。二度、三度と突きを繰り返すが刃は甲殻を滑るばかりで、一向に通らない。

 

 ──切っ先を、誘導できないか。

 

 剣を握る手に意識を集中した。刃先だけに念動力を及ぼす。砲弾のように剣を押し出すのではなく、切っ先そのものに微かな「引き」を与える。節の隙間へ向かって「吸い寄せられる」ように。

 

 突いた。

 

 虫が身を捻る。節の位置がずれる。だが刃先が勝手に軌道を修正し、節と節の隣接部分を追尾する。金属が肉に沈む感触が柄を通じて伝わった。体液が噴き出して石畳を焼く。

 

 通った。

 

 倒した。だが周囲にはまだ何匹もいる。

 

 精錬所の壁を突き破って虫が溢れ出した。煉瓦が砕け、粉塵が舞い上がる。中にいた夜間の操業員が叫びながら逃げてくる。一人が足を取られた。虫の顎が男の脹脛に噛みつき、引き倒す。別の虫がその上に覆い被さる。

 

 シャールが走った。同じ要領だ。刃先に念動力を載せ、節の隙間を強制的に突く。足を取られた男の上にいた虫の胴を貫き、もう一匹の顎を踏みつけて節ごと断つ。男を引きずり起こす。脹脛の肉が抉れていたが骨は無事だ。男は何も言わず、這うようにして逃げ始めた。

 

 不意に、視界の端で動きが止まった。

 

 セフィラが立っている。広場の中央、虫が三匹這ってくるその正面に。

 

 両手を胸の前で組み合わせていた。指を絞り込むように紡ぎ、翠色の瞳が虫を真っ直ぐに見据えている。

 

 先頭の一匹が宙に浮いた。

 

 文字通り浮いたのだ。地面から一メトルほどの高さに持ち上げられ、甲殻に覆われた胴体がもがき苦しんでいる。空中で脚が掻き、顎が虚しく開閉を繰り返しているが、何も噛めない。地面に接していないので振動も伝えられない。

 

 シャールは剣を下ろしたままその光景を見ていた。

 

 セフィラが組んだ手に力を込めた。

 

「えい」

 

 虫が潰れた。

 

 短い掛け声とともに、甲殻が内側から圧壊された。内臓と体液が飛散し、甲殻の破片が石畳に散らばる。広場に酸の臭いが広がる。残りの二匹が慌てて地中に潜り込もうとしたが、それもまた宙に浮かび上がり、同じ末路を迎えた。

 

 セフィラ三匹。シャール二匹。

 

 シャールは一瞬だけセフィラの横顔を見た。彼女は何事もなかったかのように袖口で額の汗を拭い、次の虫に視線を移している。

 

 通りの向こうから火の手が上がった。精錬所の炉が損壊したのだ。火の粉が夜空に散り、赤い光が虫たちの甲殻を照らし出す。暗褐色の胴体が何十と蠢いている。壁に取り付き、屋根を這い、通りを横切り、建物の隙間から湧き出す。

 

 炎に照らされた通りの惨状が露わになる。逃げ遅れた坑夫が路上に倒れている。その傍で犬が吠え続けていた。飼い主の体液にまみれた手を舐めている。飼い主はもう動かない。

 

 坑夫の居住区の方角から子供の泣き声がした。

 

 ◆

 

 戦闘は一刻を超えて続いた。

 

 シャールの剣に粘ついた体液がこびりつき、柄が滑りかける。刃先への念動力の制御にも次第に慣れてきていた。三匹目あたりからは動作が自動化し始める。突きの動作と同時に刃先が節を追い、甲殻の隙間に吸い込まれるように通っていく。セフィラは広場の東側に即席の避難所を設けつつ、近づく虫を片端から宙に持ち上げては握り潰している。負傷者を集め止血の指示を出し、子供を抱えた母親を建物の中に誘導し、その合間に虫を宙で潰す。その声は落ち着いていたが、額には汗が光っていた。

 

 冒険者たちが集まり始めていた。ギルドから応援が駆けつけ、鈍器を持った者が前線に立つ。戦鎚の一撃で甲殻が砕ける。剣よりも遥かに有効だ。

 

 だが虫の数が多すぎた。

 

 石畳の下から、建物の壁の中から、排水路の底から。次々と這い出してくる。殺しても殺しても後から湧く。坑夫たちの居住区では長屋の床を突き破って虫が飛び出し、寝ていた家族が悲鳴を上げた。子供を抱えて逃げる母親の足元を虫が横切る。

 

 犠牲者が出始めていた。

 

 広場の隅に冒険者が一人倒れている。腿を噛み千切られ、体液の酸で傷口の周囲が爛れていた。仲間が引きずって下がらせようとするが、虫がそれを追う。もう一人が割って入り、虫を蹴り飛ばしたが、足元から別の一匹が跳ね上がって喉元に食いついた。男の口から短い叫びが漏れ、それきり声は途切れる。

 

 シャールの視界の端で、人が倒れていく。

 

 昨夜の酒場で歌を歌っていた男が見えた。バーヴェラの子分の一人だ。短剣を両手に持ち、虫の群れに囲まれながら奮戦している。だが足元が悪い。石畳の亀裂に踵を取られて膝をついた瞬間、三匹が同時に飛びかかった。短剣が一匹を貫くが残りの二匹が両脇腹に顎を立てる。男が喉から絞り出すような声を上げ、短剣を振るおうとした腕が力を失って垂れた。

 

 シャールが駆け寄った時にはもう遅い。虫は退いたが男の腹は裂けていた。内臓が露出し、体液の酸が傷口を焼いている。男の目がぼんやりとシャールを見上げ、何か言おうとして、言えずに閉じた。

 

 精錬所の前で坑夫が三人、鶴嘴を振るって虫と戦っていた。一人が顎に腕を挟まれ、骨が砕ける音がした。残る二人が虫を叩き殺したが、腕を失った男はそのまま動かなくなる。出血が早すぎた。

 

 ──そして、それは来た。

 

 ◆

 

 地面が割れた。

 

 石畳が隆起するのではなく、広場の中央が陥没するように崩落した。直径にして五メトルはある穴が口を開け、瓦礫と土砂が吸い込まれていく。

 

 穴の縁に立っていた冒険者が二人、足場を失って落ちた。

 

 そして──穴の底から、それが現れた。

 

 最初に見えたのは顎だった。他の地脈虫とは比較にならない大きさの顎が、穴の縁に掛かる。顎だけで人の胴ほどもある。噛み合わせの面に鋼色の光沢があり、そこに並ぶ歯列は鉱石の結晶のように半透明に輝いている。通常の成虫の顎は黒い。だがこの個体の顎は、石英を思わせる乳白色だった。

 

 胴体がせり上がる。通常の成虫の三倍はあった。甲殻の色が違う。他の虫が暗褐色であるのに対し、この個体は蒼黒い。藍色に近い光沢を帯びた甲殻が鱗のように重なり、その隙間から淡い燐光が漏れている。まるで体内に鉱脈を抱えているかのように、青白い光が甲殻の合わせ目を走っている。

 

 頭部──虫に頭部という呼び方が適切かは分からないが、胴体の最前節には、通常の成虫にはない器官があった。顎の付け根の左右に、碗ほどの大きさの球状の突起が二つ。半透明の膜に覆われたそれは、光を受けて鈍く反射する。

 

 眼だ。

 

 地脈虫は振動感知で獲物を捉える。眼は退化し、成虫にはないとされている。だがこの個体には眼があった。

 

 その眼が動いた。穴の縁に立つ人間たちを、ゆっくりと見渡すように。

 

 見ている。こちらを。

 

 松明の火に照らされた蒼黒い巨体が、穴から半身を乗り出している。全長は見えている部分だけで四メトルを超え、地中にはまだ胴体が続いている。甲殻の隙間から漏れる燐光が脈動するように明滅し、広場を青白い光で染めていた。

 

 冒険者たちの動きが止まった。

 

 誰も声を出さない。松明の爆ぜる音だけが響いている。

 

 ◆

 

 沈黙を破ったのは足音だった。

 

 重い。地面を踏みしめるたびに砂利が軋む足音。

 

 バーヴェラだった。

 

 戦鎚を片手に提げている。革鎧の上に返り血──虫の体液が付着し、あちこちが焼け焦げている。顔にも飛沫が飛んだのか、頬に赤い筋が走っていた。

 

 広場に踏み込んできたバーヴェラの視線が、まず地面に落ちた。

 

 広場の隅に転がされた遺体の列。毛布を被せられているが足がはみ出している。その中に、見覚えのある靴があった。底が減って踵の金具が曲がった、使い古しの革靴。

 

 黒い顎髭の男の靴だ。

 

 バーヴェラの顔から表情が消えた。

 

 戦鎚を握る手が白くなるほど力が入る。唇が一文字に引き結ばれ、頬の筋が引き攣り、額の古傷が浮き出すように皮膚が強張る。

 

 誰も声を掛けなかった。掛けられなかった。

 

 バーヴェラは遺体の前に片膝をつき、毛布の端を捲った。黒い顎髭の男の顔が覗く。目を閉じている。喉元から胸にかけてが抉られていた。虫の顎に噛み砕かれたのだ。

 

 毛布を静かに戻した。

 

 立ち上がる。

 

 蒼黒い巨体に向き直る。戦鎚を両手で握り直した。八十ギラの鉄塊が、持ち上げられる。

 

 燐光を放つ眼がバーヴェラを捉えた。巨大な顎が開き、空気を震わせる低い音を発する。威嚇か、咆哮か。その音の圧力だけで広場の砂利が弾けた。

 

 バーヴェラの口が開いた。

 

「──おまえが親玉かい」

 

 声は低く、静かだった。怒鳴りも叫びもしない。だがその声の底に、マルディンに十五年根を張った女の全てが籠っている。

 

 戦鎚の柄を握り締め、一歩踏み出す。

 

 蒼黒い甲殻が燐光を脈動させる。乳白色の顎が開き、結晶の歯列が松明の光を反射して煌めいた。

 

 広場の石畳を挟んで、二つの影が向かい合う。

 

 片方は鉄の女。片方は地の底の王。

 

 風が止んだ。

 

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