追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第56話 鉄の女

 

 ◆

 

 バーヴェラが一歩を踏み出した瞬間、空気が裂けた。

 

 戦鎚が弧を描く。八十ギラの鉄塊が頭上から振り下ろされ、蒼黒い甲殻の頭部を直撃する。石畳が破裂し、衝撃波が埃と瓦礫を巻き上げた。広場の松明が数本まとめて吹き消され、一瞬だけ闇が広がる。

 

 だが虫は退かなかった。

 

 顎が開く。乳白色の歯列が鳴り合い、軋む音が広場に撒き散らされた。直撃を受けた甲殻の表面に亀裂が走っているものの、砕けてはいない。頭部を打たれた態勢のまま、巨体がゆっくりと持ち上がる。燐光が脈動し、蒼い光が亀裂の奥から滲み出していた。

 

 バーヴェラは戦鎚を振り戻す。跳ねた鉄塊を肩に担ぎ直し、蒼黒い巨体を見上げた。

 

「硬いね」

 

 感想はそれだけだった。

 

 巨大な胴体が横に振れた。穴の縁から這い出してきた後半身が、鞭のようにしなって広場を薙ぐ。バーヴェラはそれを跳んで避ける。着地と同時に地面が陥没したのは、彼女自身の体重と戦鎚の重量が合わさった結果だ。石畳に蜘蛛の巣状のひびが入る。

 

 シャールは剣を握ったまま動けずにいた。

 

 動けない、のではない。動かない、のだ。

 

 バーヴェラはまるで生きた嵐の様だった。戦鎚が旋回するたびに周囲の空気が渦を巻き、石畳の欠片と砂利が弾丸のように飛び散る。彼女の一撃ごとに半径三メトルの空間が破壊圏に変わる。その中に割って入れば味方もろとも砕かれかねない。

 

 セフィラがシャールの袖を引いた。

 

「ここからは見守るしかありませんわね」

 

 シャールは頷いた。介入できる戦いではない。

 

 ◆

 

 いつのまにか隣に人が立っていた。

 

 バーヴェラの子分の一人だ。痩せた男で、顎が尖っている。右の眉に裂傷の跡があり、それが眉毛を二つに割っている。腰に短剣を差しているが抜く気配はない。腕を組んで、師範の演武を見守る門弟のような顔で広場を見つめていた。

 

「あんたらが例の──。なるほど、姐御が気に入るわけだ」

 

 なにやらやけに馴れ馴れしく話しかけてくる。

 

「俺はグレイグ。人は俺を“百識”と呼ぶ──まあ、呼ばれた事はないが。そのうち呼ばれる事になるだろう。ともあれ、俺はいちおう姐御のとこの古株でね。ま、解説でもしてやろう」

 

 広場の向こうでバーヴェラが戦鎚を横薙ぎに振るった。蒼黒い甲殻の側面を捉え、凹みが生まれる。虫が身をよじり、体液が飛散する。グレイグは飛沫が届かない距離にいることを確認してから、得意げに語り始めた。

 

「まず分かっておいてほしいんだがね。姐御は余り魔力の細かい制御ができねぇんだ」

 

 シャールが眉を動かした。

 

「魔力を?」

 

「そうよ。この辺の冒険者ってのは、多かれ少なかれ自分の魔力を体に通して戦うもんだ。魔術師みたいに陣を描いて術を放つんじゃねえ。もっと原始的な──そうだな、自分の体を魔力で底上げするって言えばいいか。この辺は知ってるだろ?」

 

 セフィラが小さく頷いた。知識としては知っている。

 

「で、問題は姐御だよ。姐御は魔力の量だけは馬鹿みてぇにある。だが制御が下手くそでな。剣みてぇな()()な得物じゃあ耐えきれねぇのさ」

 

 グレイグが肩をすくめた。

 

「だからあんなデカくて重くて頑丈な得物を使ってるのさ」

 

 確かにそうだ、とシャールは思った。バーヴェラの戦い方には剣術に見られるような合理的な動線がない。斬撃の角度も間合いの管理も存在しない。ただ巨大な鉄塊を力の限り叩きつけるだけだ。

 

 だがその一撃ごとに、地脈虫の甲殻が確実に凹んでいく。

 

「それとな」

 

 グレイグの声が少し低くなった。

 

「量だけは馬鹿みてぇにあるって言っただろ。それで単純に体を強化ってのは如何にも芸がねえが、それがまたツエエのよ」

 

 広場で、蒼黒い虫の顎がバーヴェラの肩に食いついた。乳白色の歯列が鎖帷子に噛み込む。金属が軋む音がここまで聞こえる。

 

 バーヴェラは肩を噛まれたまま、戦鎚を振り上げた。

 

 振り上げたのだ。肩に虫の顎が食い込んだ状態で。鎖帷子の金属環が千切れ、革鎧の表面が裂け、歯が肌に触れていてもおかしくない衝撃のはずだが——バーヴェラの表情に苦痛の色はない。

 

「あれをみな」

 

 グレイグが指を立てた。

 

「土の属性の魔力のおかげで骨が芯から硬くなり、筋肉の繊維が密になり、肌が鎧みたいになる。おまけに持久力も上がるから、あの重い鎚を何十回振っても息が切れねぇ。まさに人間要塞だよ」

 

 戦鎚が落ちた。噛みついていた虫の頭部を直上から叩き潰す。甲殻が砕け、体液と燐光が弾け飛ぶ。バーヴェラの顔に飛沫がかかるが、彼女は顔を背けもしなかった。鎖帷子が裂けた肩口からは、血がほとんど出ていない。

 

「ただし弱点もある」

 

「弱点?」

 

 セフィラが聞き返した。

 

「姐御の魔力制御は『体に通す』か『通さない』かの二択だ。量の調節もできねぇ。一度通したら全力で流し続けるしかないから、消耗が激しい。長い戦いになればなるほど不利になる」

 

 グレイグの顔から笑みが消えていた。

 

「……姐御が疲れきっちまう前にあの化け物をぶっ潰せるか──そこが勝負さ」

 

 広場の中央で、戦鎚が高く掲げられた。

 

 バーヴェラの全身から蒸気が上がっている。肌が赤熱し、鎖帷子の金属環の隙間から湯気が噴き出していた。

 

 虫が顎を開いた。乳白色の歯列が鳴り合い食いつこうとする。

 

 だがバーヴェラのほうが速い。

 

 戦鎚が落ち、甲殻の最も薄い、頭部と胴体の継ぎ目を正確に叩き割った。ぐしゃりと甲殻が陥没し、体液が噴き上がる。蒼い燐光が明滅して消え、巨体がゆっくりと傾いだ。

 

 虫は動きを止めなかった。

 

 頭部を半ば潰された状態で、胴体がなお蠕動している。後半身が鞭のようにしなって横薙ぎに振れ、バーヴェラの脚を払おうとする。だがバーヴェラは跳ばなかった。跳ぶ余力がなかったのかもしれない。その場に踏み止まり、振ってきた胴体を戦鎚の柄で受け止める。石畳が足元で砕け、バーヴェラの靴が三寸ほど地面にめり込んだ。

 

「しぶといね!」

 

 バーヴェラは笑っていた。

 

 戦鎚を振り上げ、もう一度叩く。甲殻が割れる。振り上げ、叩く。体液が飛ぶ。さらに振り上げ、叩く。潰れた頭部に何度も何度も鉄塊を振り下ろし、そのたびに石畳が陥没し、虫の甲殻が粉々になり、飛沫がバーヴェラの全身を蒼く染めていく。

 

 五回、六回、七回。

 

 グレイグの顔が強張っていた。

 

「……やりすぎだ」

 

 シャールがグレイグを見た。

 

「姐御はああなるんだよ。仲間をやられるとな。必要な分じゃ気が済まねぇのさ」

 

 こめかみの辺りにへばりついた虫の体液を拭いもせずグレイグはそう言った。

 

 広場では頭部が完全に原形を失った虫の残骸の上にバーヴェラが仁王立ちしている。肩で息をしながら戦鎚を地面に突き立て、しばらく動かなかった。

 

 ◆

 

「ひとつ教えておくとな」

 

 グレイグが息を吐いた。

 

「この虫どもは、頭を潰してもしばらく体が動くんだ。神経の節が胴体に何箇所もあるらしい。頭のない蛇が這い回るのと似たようなもんだが、地脈虫の場合はもっとたちが悪い。顎がなくても体液を撒き散らすし、暴れてるうちに周りの建物を壊す。姐御が何度も叩いてたのは意趣返しだけじゃねぇ。ああしねえと危ねぇからだ」

 

 セフィラが小さく頷く。

 

「生命力が分散している構造なのですわね。一箇所を潰しても全体が死なない」

 

「そうよ。厄介な話だ。地上に出てくるのが巣の個体の一割にも満たねぇってのに、一匹でこの有り様だ」

 

 グレイグが広場を見渡した。石畳は半分以上が砕け、精錬所の壁面に大きな亀裂が走っている。松明はほとんど消え、残っている灯りは建物の窓から漏れる蝋燭の光だけだ。

 

 バーヴェラが戦鎚を肩に担ぎ直して歩き始めた。蒸気がようやく収まりつつある。足取りは重い。だが崩れてはいない。広場の端にいるシャールたちに向かって、ゆっくりと近づいてくる。

 

 ──ぼこり。

 

 バーヴェラの背後三メトルほどの地面が隆起した。石畳が内側から突き上げられ、瞬く間にひび割れが走る。

 

 長い。

 

 親玉とは違う。細く、長く、蒼黒い甲殻に覆われた体がずるりと地中から這い出してくる。頭部は小さいが顎は鋭い。親玉の巨体に隠れて地中に潜んでいたのか、それとも騒ぎに引き寄せられて今ようやく辿り着いたのか。

 

 バーヴェラが振り向く。

 

 遅い。

 

 消耗しきった体が言うことを聞かない。振り向いた時点で長虫の顎はすでにバーヴェラの背中に届く距離にあり、戦鎚はまだ肩に担がれたまま構えに入れていない。鎖帷子は先ほどの戦闘で数箇所が裂けている。そこに顎が食い込めば──

 

 バーヴェラの右腕が動いた。

 

 本人の意思ではない。意思であるはずがなかった。あの消耗した状態から戦鎚を振り抜く速度ではない。しかし右腕が跳ね上がり、八十ギラの鉄塊が弧を描き、バックハンドの一振りで長虫の頭部を横から叩いた。

 

 甲殻が砕ける。先ほどの親玉と違い、この長虫の殻は脆い。一撃で頭部が歪み、体がくの字に折れ曲がって石畳に叩きつけられた。びくびくと痙攣してから動かなくなる。

 

 グレイグが目を見開いているが──バーヴェラ自身が一番驚いた顔をしていた。自分の右腕を見つめ、開いて、閉じて、首を傾げている。

 

 ふと思う所のあったセフィラがシャールにちらと視線を向けると、シャールは少し疲れた様に息をついていた。それを見たセフィラはシャールの背を優しく撫でてやるのだった。

 

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