追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第61話 昏い炎③(第二章完)

 ◆

 

 報告は短かった。

 

 ラスフェル冒険者ギルド最上階。ギルドマスターの執務室という名を冠してはいるが、その実態は帳簿と酒瓶と魔獣の牙が節操なく同居する混沌の巣窟であり、部屋の主の整理整頓に対する無関心を雄弁に物語っている。壁一面に設えた窓が大通りを見下ろせるはずだが、背の高い書棚がその大半を塞いでおり、差し込む光は書棚の隙間を縫う細い筋に過ぎない。

 

 その薄暗がりの中央に、グレンと呼ばれる男が座していた。

 

 五十を幾つか超えた痩身の男である。禿げ上がった頭頂部とは不釣り合いなほど鋭い鷹の目が印象的で、左の耳朶を斜めに横切る古い刀傷がかつての来歴を暗示している。ギルドマスターとしてこの街の運営を預かること十八年。ラスフェルに持ち込まれるあらゆる厄介事はこの男の机を経由する。

 

 その机の向かいに一人の女が立っていた。

 

「三つ、終わりました」

 

 アレッサンドラ。

 

 装飾を排した黒い外套に実用一辺倒の身なり。腰に佩いた細剣は鞘の装飾が擦り減って地金が覗いている。使い古された道具だけが持つ凄みがそこにある。冒険者というよりは何か別のものを連想させる佇まいであったが、ギルドの名簿上は紛れもなく銅等級の冒険者として登録されていた。

 

「三つか」

 

 グレンは右手の羽根ペンを置き、左手で顎の無精髭を撫でた。

 

「予定より一つ多い」

 

「崖沿いの宿に二人組がおりまして。片方を処理した段階でもう片方が気づきましたので、纏めて」

 

 市場で買い物の内訳を報告するかのような声であった。グレンはそれに驚かない。この女が必要以上の仕事をすることはない。纏めたと言うなら纏めるべき状況だったのだ。

 

「残りは」

 

「はっきり掴んでいるのがあと五つ。ただし一つ、厄介なのが混じっております」

 

 アレッサンドラの眉がわずかに寄った。この女にしては珍しい表情の変化である。

 

「腕が立つわけだな」

 

「立ちます。あれを消すとなると犠牲もでましょう」

 

 グレンは肘掛に顎を載せて黙り込んだ。窓の隙間から漏れる午後の光が書棚の合間を細く横切っている。

 

「名分は」

 

「抜かりはございません。いずれも入街の後に条例違反を確認してからの措置でございます」

 

 グレンは頷いた。

 

「続けろ。ただし厄介な方には二人つけろ。こちらに傷が出るのは面白くない」

 

「承知しました」

 

 アレッサンドラは一礼して踵を返す。外套の裾が床を掃く音がして扉が閉まると、執務室は再び薄暗い静寂に沈んだ。

 

 グレンは椅子の背に体を預けたまま天井を見上げている。古い梁に蜘蛛の巣がひとつ。

 

 やがてグレンは視線を机の上に戻し、ぼそりと──

 

 「舐めた真似しやがって」

 

 と呟く。

 

 低く、圧のある声であった。

  

 そして何事もなかったかのように羽根ペンを走らせ始めた。

 

 ◆

 

 ウェザリオ王都。

 

 諜報部の長官室は王宮の東翼にあり、表向きには記録保管庫として登録されている。扉には鍵が三つ掛かり窓には鉄格子がはめ込まれ、壁の厚さは通常の部屋の二倍ある。ここで交わされた言葉が壁の外に漏れたことはない。少なくとも長官側はそう信じていた。

 

 黒衣の長官エドガルは机の前で姿勢を正したまま沈黙している。

 

 向かいに立つのは王太子マーキスであった。

 

「つまり七名のうち三名が連絡を絶った、と」

 

 マーキスの声は静かだ。

 

 数ヶ月前の彼であれば──追撃隊全滅の報を受けたあの夜であればこの部屋の調度品が灰になっていただろう。だが今のマーキスは怒りを表に出さぬ(わざ)を身につけつつあった。灼熱を炉の中に閉じ込める業である。が、それが業と呼べるものか否かは判断が難しい。炉に封じ込められた熱は消えるのではなく、より高温になるだけだからだ。

 

「は。三名が定時の連絡を履行しておりません。いずれもラスフェルに潜入した者でございます」

 

 エドガルの声には控えめな困惑が滲んでいる。

 

「先任の二名を含めますと、あの街で消息を絶った者は計五名に上ります」

 

 五名。

 

 数としては少ない。だが密偵の世界においてその数字は重い。一名が消えるのは事故として処理できる。二名ならば不運。三名で疑惑となり四名で確信に変わる。五名ともなれば相手が組織的な対抗措置を講じていることの動かぬ証左であった。

 

「偶然ではあるまいな」

 

「偶然とするには数が過ぎます。何者かが介在しているものかと」

 

「何者か」

 

 マーキスは窓辺に歩み寄った。鉄格子の向こうに中庭の緑が見える。目は北を向いている。この部屋からラスフェルは見えない。山脈が隔てていた。だがマーキスの視線はその山の向こうを射ようとしていた。

 

「ギルドか」

 

「断定はできませんが可能性は高いと見ております。自治都市は外部の介入に対してきわめて敏感でございます。密偵の存在を察知した場合、排除に動くことは十分にあり得ましょう」

 

 マーキスの顎がわずかに動く。歯を噛み締めている。

 

 排除。

 

 王国の密偵が排除されている。それはすなわちラスフェルがウェザリオ王国の意図を察知し、無言の拒絶を突きつけていることに他ならない。宣戦布告ではない。だが敵意の表明としてはこれ以上なく明瞭なものだ。

 

「新たに送り込め。今度はもう少し腕の立つ者を」

 

「畏まりました。ただ──」

 

 エドガルが口を噤む。マーキスが視線だけで先を促した。

 

「人員の投入を重ねれば遠からず我が国の意図は公然たるものとなりましょう。自治都市との関係が決定的に悪化する恐れがございます」

 

「構わぬ」

 

 マーキスは遮った。

 

「ラスフェルとの関係など、いずれ清算する。その時期が早まるだけの話だ」

 

 エドガルは唇を引き結ぶ。言いたいことはあるが王太子に対して二度は言えぬ。

 

「……畏まりました」

 

 マーキスは窓辺を離れ、足音もなく退室していった。

 

 残されたエドガルはしばらくその場に立ち尽くしていた。かつて仕えた先代の長官ならばこう言っただろう──密偵を五人失って怒らぬ王は危ういが、怒りを飲み込んで平静を装う王はもっと危うい、と。

 

 ◆

 

 国王オルドヴァイン三世が公の場に姿を見せなくなって久しい。

 

 王宮の奥殿。陽の差さぬ寝室に病んだ王は横たわっている。かつて精悍そのものであった体躯が寝台の上で日ごとに縮んでいくように見えるのは衰弱のためだ。頬はいっそう痩け、手の甲の血管が浮き立ち、声は掠れて遠い。

 

 火の魔力を宿す王家の血統が病に屈する。その一事がどれほど異常な事態であるかを王宮の者は誰もが知っていた。侍医たちはもはや治療ではなく延命を旨として動いている。だが延命と呼ぶべき何かを実際に為し得ているか、彼ら自身にも確信が持てずにいるのが実情であった。

 

 マーキスは一日に一度、短い見舞いに訪れる。銀の盆に薬湯を載せて。孝行息子の務めである。

 

「お加減はいかがでしょうか」

 

「変わらん」

 

 それが父子の間で交わされる会話のほとんどだ。

 

 だがこの日、オルドヴァインは枕の上で首を動かし、息子の顔を見つめた。

 

「ラスフェルの件はどうなっている」

 

 掠れた声であるが問いは鋭い。病は体を蝕んだが知性の刃はまだ錆びていない。

 

「問題なく進めております」

 

「嘘をつくな」

 

 その声に力が籠もった。火の魔力を持つ者の、最後の残り火のような力である。

 

 マーキスは束の間沈黙した。

 

「……密偵が何名か消息を絶ちました。ラスフェルのギルドが動いているものと」

 

「やはりな」

 

 オルドヴァインの唇が歪む。笑みともつかぬ表情が病んだ顔に浮かんで消えた。

 

「冒険者どもを甘く見るなと言ったはずだ」

 

「承知しております」

 

「承知しているならなぜ同じ過ちを繰り返す」

 

 マーキスは答えなかった。答える必要がないからだ。なぜなら父王はその答えを既に知っている。

 

 シャールとセフィラがあの街にいる限り、マーキスは何度でも手を伸ばす。密偵が五人消えたなら十人送り込む。十人が消えたなら二十人を。そうしてやがて力ずくという最後の手段しか残らぬところまで自らを追い込んでいく。オルドヴァインにはそれが見えていた。

 

「マーキス」

 

「はい」

 

「私は長くない」

 

 その言葉に、マーキスの表情が強張った。

 

「何を仰います。侍医は──」

 

「侍医が何を言おうが体は嘘をつかぬ。この足はもう床を踏めぬのだ。私にはそれが分かる」

 

 オルドヴァインの目が天井を見つめている。

 

「私が逝けばお前を止める者はいなくなる。重臣どもはお前の火が怖い。宰相代理は事なかれ主義の老骨だ。お前は己の望むまま振る舞うことになるだろう」

 

 マーキスは黙っていた。

 

「それが国を栄えさせる方向であれば結構。だが私が案じているのは──」

 

 言葉が途切れた。咳が込み上げたのだ。乾いた痛々しい咳が寝室に響き、侍医が慌てて駆け寄る。マーキスは半歩退いて咳が収まるのを待った。

 

 やがて咳は止んだが声はもう出ない。オルドヴァインは片手をわずかに挙げてもうよいと示した。マーキスは恭しく頭を下げ、退室する。

 

 扉が閉まった後、病床の王は天井の闇を見つめていた。

 

 言おうとしたことがある。だが言葉が形になる前に体が裏切った。

 

 案じているのは、お前の中にある暗い炎だ──。

 

 それは声にならぬままオルドヴァインの喉の奥に沈み、眠りの淵に溶けていった。

 

 ◆

 

 ところで、王太子の婚姻は国家の大事である。

 

 ウェザリオ王国において正妃の選定は恋愛沙汰ではない。王家の血統を次代に繋ぐための政治的行為であり、同時に貴族間の権力均衡を再編する巨大な賭けでもある。どの家門から妃を迎えるかによって向こう数十年の宮廷内力学ががらりと変わるのだから、この選定に慎重を期すことは当然であった。

 

 マーキスが王太子に就任して以来、宰相代理をはじめとする重臣たちは幾度となくこの議題を持ち出している。

 

「殿下もそろそろご決断をいただかねばなりませぬ。陛下のご容態を鑑みれば、王太子としての基盤を一日も早く固めることが肝要かと」

 

 宰相代理の老臣がそう進言するたびに、マーキスは同じ言葉で返した。

 

「急かすな。候補を揃えろ」

 

 候補は揃っている。揃いすぎていると言っても過言ではない。

 

 ウェザリオ王国の有力貴族家から選りすぐられた令嬢たちの名が一覧表にずらりと並んでいた。筆頭はラクレール侯爵家の長女ヴィオレッタ。火の魔力を持ち容姿端麗にして聡明、社交界の華と謳われる十八歳である。次点にベルグスト辺境伯の姪アデライーデ。土の魔力の持ち主で武芸に長け、北方防衛における辺境伯家の貢献を鑑みれば政治的にも申し分のない家柄だ。三番手以降にも各家門が推す令嬢の名が続く。

 

 だがマーキスはそのいずれにも目を留めようとしなかった。

 

「どれも同じに見える」

 

 一覧を投げ返されるたびに宰相代理は頭を抱えるのだが、王太子を問い詰める胆力はこの老臣にはない。

 

 マーキスが候補に興味を示さぬ理由を、宮廷の者は薄々感づいていた。

 

 セフィラ・イラ・エルデ。

 

 もう王国にはいないその名が、王太子の心にはまだ住んでいる。正妃にできぬことは本人も承知していた。逃亡者として国を捨てた公爵令嬢を正妃に据えることは法的にも政治的にも不可能であり、仮にそれを強行すれば王位の正統性そのものが揺らぐ。マーキスはそのくらいの判断力は持ち合わせていた。

 

 しかし理解と感情とは別の回路で動くものだ。

 

 どの令嬢の顔を前にしても翠色の瞳が脳裏をよぎる。どの令嬢の声を聞いてもあの知的な抑揚が耳の奥で蘇ってくる。比較してしまうのだ。そして比較するたびに目の前の候補が色褪せていく。

 

 それは恋というよりも呪いに近い。

 

 ◆

 

 王太子の正妃候補に名が挙がることは、貴族の令嬢にとって最高の栄誉であるはずだ。少なくとも建前としてはそうである。

 

 しかし王都の社交界において建前と実態が甚だしく乖離していることは、令嬢たちの間ではもはや公然の秘密であった。

 

 ラクレール侯爵邸の茶話会。

 

 令嬢たちが集う午後の社交の場は絹のドレスと花の香りに満ちており、一見したところ何の問題もないように見える。だがその華やかな水面の下で交わされている会話の色は、外から見えるそれとはだいぶ違う。

 

「殿下のご気性がね……」

 

 ヴィオレッタ──正妃候補の筆頭に名を連ねる当のラクレール侯爵家の令嬢自身である──がそう呟いた時、周囲の令嬢たちは茶杯に口をつけたまま微妙な視線を交わした。

 

「先日の舞踏会でもご覧になったでしょう。給仕が杯を倒しただけでお怒りになって」

 

「まあ」

 

「宮仕えの者が暇を願い出るたびに火の魔術でお脅しになるとか」

 

「噂でしょう」

 

「噂にしては出処が多すぎますわ」

 

 声は小さいが含みは深い。彼女たちは政治の道具として使われることには慣れていた。公爵家や伯爵家に生まれた時点でそれは避けられぬ宿命である。だが道具として機能することと暴君の所有物になることとは話が違う。

 

「セフィラ様が逃げたことを責める者は、この場にはおりませんわね」

 

 誰かがそう言った時、場が静まった。

 

 セフィラ・イラ・エルデ。かつての社交界の花。水の魔力を──いや「無の魔力」を持つと判明してからは憐れまれた女。だがマーキスとの婚約を拒み国を出たと聞いた時、令嬢たちの多くが覚えたのは憐憫ではなかった。

 

 逃げることができた女。

 

 自らの意志でこの柵を飛び越えた女。

 

 それは眩しくもあり、妬ましくもあったことだろう。

 

「おかしな話ですわね。わたくしたちは候補に選ばれることを光栄に思わねばならないのに」

 

 ヴィオレッタの声にはどこか自嘲の響きが混じっている。

 

「光栄ではなくて?」

 

「光栄であるかどうかは、お相手によりましょう。わたくしは自分の目で確かめたいと思っておりますの」

 

 令嬢たちは優雅に微笑み合った。その微笑みの裏に何を隠しているかは互いに問わない。それが貴族の作法である。

 

 かくしてウェザリオ王国の正妃選定は難航していた。候補は揃い、条件は整い、政治的妥当性も申し分ない。欠けているのは当事者の熱意だけであった。

 

 双方の、である。

 

 ◆

 

 夜。

 

 王宮の自室に戻ったマーキスは窓辺に立ち、夜空を見上げていた。月は細い。星が冴え冴えと光っている。

 

 あの女は今どこにいるのだろう。

 

 ラスフェルか。まだあの街にいるのか。あるいはもう旅立ったのか。密偵が消えていく。五名。送っても送っても、誰ひとり戻ってこない。あの街は兄と、兄に連れ去られた女を飲み込んで、こちらの手が届かぬ場所に隠してしまった。

 

 掌を開く。

 

 火の魔力が脈動していた。

 

 この力で山を焼いて街を灰にし、瓦礫の中からあの翠色の瞳を探し出す──そんな妄想が胸の奥で蠢くことがある。それがどれほど愚かな想念であるかは分かっている。分かっていてなお、想像から目を逸らすことができない。

 

 昏い炎だ。

 

 この胸の底で燃え続けているものは王家の火の魔力とは別の何かだ。もっと暗くて、もっと冷たくて、しかし水をかけても薪を抜いても消えない。

 

 この炎がいつか自分を焼き尽くすかもしれぬことを、マーキスは心のどこかで感じ取っていた。

 

 知っていて、火加減を調節することを拒んでいる。

 

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