追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話 作:スパイン・ケレス
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道具屋を出てから、アストレイの足取りはやや早くなった。
「日が傾いてきましたので、駆け足で回りますね」
帝国正教の神殿は道具屋から二筋先の角に在った。白い石壁の小ぢんまりとした建物で、扉の上に十字に近い意匠の徽章が掲げてある。
「冒険者の方々が怪我の治癒の祈りを受けに駆け込む場所です。お代は祈りの規模ごとに扉の脇に貼り出してありますから」
明朗会計という奴である。この帝都という街は何事につけそういう流儀を好むらしい。
質実剛健、それでいて覇権主義的な国というのは周辺諸国にとって大きな脅威になりえる。もしシャールが今なおウェザリオの王族でいれば、いずれはこの帝国と対峙しなければならなくなる時もあったかもしれない。
──まあ、詮無き事だな
そう、シャールはいまや自由の身なのだ。帝国の政治について考える必要はなかった。そんな現在の境遇に、シャールはどこかほっとする所がある反面、何となく落ち着かない部分もあった。
三人は外周街区にも足を延ばした。
西方諸国連合の宗派の神殿があるのだという。帝国正教とは別の系統だが、冒険者は基本的に怪我を治してくれるなら宗派は問わないとアストレイは笑った。造りには興味深い意匠があるらしく、セフィラは少し惹かれていたが、陽が赤く染まり始めていた。
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ギルドに戻る頃には、空は薄紫から藍に変わりつつあった。
「今日は本当に助かった」
シャールがそう言うと、アストレイは嬉しそうに頭を下げた。
「いえ、お二人をご案内できて光栄でした。また何かあればいつでもお声がけください」
少年は丁寧にもう一度頭を下げてから、ギルドの中へ駆け戻っていった。
「いい子でしたわね」
セフィラの言葉にうなずくシャール。
「シャールがあのくらいの年頃の時は──」
「随分夢見がちな子供だったと自覚はしているよ」
シャールは苦笑しながら言う。
やれどこそこの山脈にいってナントカとかいう竜を斃すのだとか、どこぞの秘境のなんちゃらとかいう聖剣を引き抜くのは私だとか、そんな事を言っていた記憶がある。無論誰彼かまわずそんな戯言を言っていたわけではない。心を許したセフィラにのみ自身の夢を明かしていたのだ。
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赤楡亭の三階からは南窓から帝都の屋根並みがよく見える。東窓には学院の尖塔がぼんやりと闇に浮かんでいた。
セフィラは寝台に横たわり、シャールの腕を枕にしていた。二人の間に男女の営みはすでにあったが、この日はそういった気分でもなく、ただ寄り添うだけだった。
「今日はよく歩きましたわね」
「ああ」
「帝都は思っていたより広いですわ。ウェザリオの王都とどちらが広いでしょう?」
「そうだな、広さだけならウェザリオだろうが──ただ、活気がまるで違う。街全体が騒がしく、もっと大きくなりたいと渇望する巨大な獣の胃袋にいるような気分だったよ」
「まあ、それは褒めていますの?」
「もちろん」
シャールは短く答えたが、実際にはそういった活気には良いところも悪いところもあると考えていた。端的にいえば、どこまで大きくなれば満足するのか、という漠然とした不安だ。
──帝国の在り様を否定してはいないが、しかし
シャールがそんな事を考えていると、セフィラが強く体を押し付け、シャールの眉間に指で触れながら
「真面目なのもいいですけれど、今ここで考える事ではありませんわよ」
などと言う。
まあそんな事をいいながらも、セフィラ自身も今後の事について思う事はあったのだ。
◆
セフィラは追手のことを考えていた。
ウェザリオ王国がこのまま諦めるとは思えない。マーキス王太子の執念を考えれば尚更だった。ラスフェルを発ってから追手の気配は感じていないが、それは単に距離が離れただけかもしれない。帝国領に入ったことで王国の密偵が動きにくくなっている可能性もある。いずれにしても、安全になったわけではないだろう。
けれども──
また追ってきたら、また逃げればいい。
セフィラは、そう思っていた。ラスフェルからマルディンへ、マルディンからこの帝都へ。追われれば逃げる。逃げた先で、また新しい土地を見る。新しい人に会う。新しいものを知る。それはそれで、悪くない生き方かもしれない。
定住の地を持たず、二人で世界の果てまでも見て回る。
そんな生き方も、面白いかもしれない。
帝都の東の丘陵には鉱山があり、西の森には森の民がいて、北の山には水源があるのだという。ドリスから聞いた話である。この帝都だけでも、まだ見ていないものが山ほどある。
帝国を見尽くしたら、次はどこへ行こうか。南海の港町か、西方諸国連合の辺境か、それとも東方の山岳地帯か。この世界はセフィラが思っていたよりもずっと広い。
ただ──
シャールが
セフィラは隣で目を閉じている男の横顔を見た。シャールは強い──心も、体も。セフィラはそれを知っている。しかしその心も体も、決して疵つかないわけではない事も知っている。
逃げ続けることに、いつか疲れる日が来るかもしれない。
そうなった時、セフィラは彼に何を言えばいいのだろう。もう少しだけ一緒に逃げてくれと頼むのか。それとも、どこかで根を下ろそうと提案するのか。
けれども根を下ろすということは、追手と向き合うということでもある。
いつかは対峙しなくてはならない時が来るのかもしれない。ウェザリオ王国そのものと。マーキス王太子と。あるいは、王国という枠組みそのものと。
その時はどうすればいいのだろう。
何か、別の手が必要になる。
帝国の庇護を求めるのか。それとも、第三の勢力を探すのか。マーキス王太子の失脚を待つという手もあるかもしれない。けれどもあの男が失脚するには、何か大きな──
思考が途切れた。
シャールの左腕が、ほんの少しだけセフィラを引き寄せた。無意識なのか、それとも起きているのか。どちらにしても、セフィラはその力に逆らわなかった。
考え事は明日にしよう。
今夜はこのまま、この男の腕の中で眠ればいい。明日の朝になれば、また別の考えが浮かぶかもしれない。あるいは何も浮かばないかもしれない。それでも構わない。
少なくとも今夜は、二人でここにいる。
それだけで十分だった。
セフィラ・イラ・エルデ──冒険者セフィ。この女が眠りに落ちる瞬間に考えていたのは、世界の広さと、隣にいる男の体温と、まだ見ぬ明日のことである。逃げ続けることを恐れてはいなかった。ただ、いつか立ち止まる日のことを、少しだけ考えていた。