追放された王太子と公爵令嬢が冒険者になる話   作:スパイン・ケレス

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第74話 採取

 ◆

 

 翌朝、赤楡亭を発ったのは陽が中庭の石畳をまだ白く照らし切らぬ頃だった。宿の帳場で受け取った弁当は黒パンと干し肉と小さな林檎が二つの簡素なものだ。ちなみにこういったサービスはそれなりにしっかりした宿でないと受ける事はできない。

 

 西門を出ると街道は緩やかに下り、帝都の石壁と屋根の群れが背中の側へ遠のいていく。朝の空気にはまだ夜の冷えが残っていて、吐く息がかすかに白い。舗装は西門を出て二十歩ほどで途切れ、踏み固められた土の道に変わった。

 

 帝都の喧騒が嘘のように静かだった。風が草を鳴らす音と、二人の靴底が砂利を踏む音だけが交互に聞こえてくる。まるでこの広い世界にたった二人だけでいるような、そんな感覚をおぼえるシャール。

 

「いい天気ですわね」

 

 不意にセフィラが言った。空は雲一つなく、東から射す朝陽が道の右側だけを金色に染めている。

 

 シャールは頷き、自分達の行く()()()()道がずっと晴れ渡っていればいい──などと思っていた。

 

 ◆

 

 テレザの地図によれば、帝都西門から最初の調査地点までは徒歩で半日の行程である。道は街道から外れて獣道に近い細い筋に入り、そこから森の縁に沿って北西へ進む。七つの地点は扇状に配置されており、一日に一ないし二地点を回る想定で五日の工程が組まれていた。

 

 森が見えてきたのは、出立から二刻ほど経った頃だ。

 

 遠くからでも分かる。帝都の東側に広がる丘陵とはまるで違う、濃い緑の壁が地平を横切っている。近づくにつれ個々の樹木の輪郭が見え始め、やがてそれは途方もない量の幹と枝と葉の集積であると知れた。

 

 セフィラの足が止まった。

 

「大きいですわね」

 

 子ども並みの感想だがさもありなん。ケリガンの森もそれなりに深かったが、あれはラスフェルの町から歩いて行ける程度の、いわば人の手が及ぶ範囲の森だった。眼前の森は規模が違う。樹冠の連なりが左右どちらを見ても途切れず、その奥がどこまで続いているのかは想像の外にある。

 

 シャールが地図を広げた。

 

「最初の地点はここだ。森の縁から北西へ入って、小さな沢を越えた先の窪地」

 

 指の腹が紅墨の印をなぞる。地点ごとに「日照:半日陰」「土質:腐葉土、やや湿り」といった注釈が添えてあり、セフィラがそれを覗き込んで目を細めた。

 

「テレザさんはこの地図を描くために、一度は自分で歩いていますわね」

 

「そうだろうな。歩いた者にしか書けない情報だ」

 

 地図を畳み、二人は森の入り口へ向かっていった。

 

 ◆

 

 森に入った瞬間、世界が変わった。

 

 光が変わる。さきほどまで頭上にあった空が樹冠に遮られ、地面に届く陽光は葉の隙間から漏れる斑のそれに変わった。斑の一つ一つが風に揺れ、足元の落ち葉の上を這い回っている。

 

 空気が変わる。帝都の乾いた石の気配が嘘のように湿り気を帯びて、土と苔と朽ちた木の匂いが鼻腔を満たした。セフィラはその匂いを胸の奥まで吸い込んだ。目を閉じれば、かつてケリガンの森で採取に明け暮れた日々の手触りが甦ってくる。

 

 音が違う。帝都では石畳を踏む靴音と鍛冶の槌音と商人の呼び声が途切れなかったが、ここには鳥の囀りと枝葉の擦れる音と、足の下で落ち葉が砕ける小さな音しかない。

 

 獣道と呼ぶにも狭い筋が、大きな楢の根の間を縫うようにして奥へ続いている。木の根が地面から隆起して通せんぼのように横たわり、苔がびっしりとそれを覆っていた。ちなみに苔の種類と密度は土壌の酸性度に相関するとセフィラは以前どこかで読んだ記憶がある。

 

 余人には窺い知れぬ事かもしれないが、セフィラは()()()()()が好きなのだ。貴族時代、セフィラのこういった気質は余り周囲からは理解されなかったものだが、シャールをはじめ極々少数の者たちは彼女に理解を示していた。まあそのシャールも、冒険譚やら英雄譚やらにうつつを抜かす空想少年だったわけなのだが……。

 

 ──この土は初めてみる土ですわね。

 

 などと思いながら、心をときめかせる元公爵令嬢であった。

 

 ◆

 

「どうしたんだ?」

 

 シャールが問う。

 

 セフィラが不意にかがみこみ、じっと何かを見つめている。

 

「植生を記録しておこうと思いまして……」

 

 シャールの返事を待たず、背嚢から記録票を引き抜き木炭筆を走らせるセフィラ。シャールも特に否やはない。こういった植生の記録も追加報酬になるとテレザが言っていたからだ。

 

 シャールはその間、周囲に目と耳を配っていた。鳥の声も途切れておらず、念のために()も使ってみたが特に問題はなさそうだった。ドリスが言った通り、森の浅層は穏やかなものらしい。

 

 ◆

 

 沢を越えたのは昼を少し過ぎた頃だった。

 

 沢は幅が二歩ほどの細いもので、底に丸い石が敷き詰まり水は澄んでいた。シャールが先に渡り、振り返って手を差し出す。セフィラがその手を取る。渡り終えてもしばらく手を離さないのは二人の若さゆえであろう。

 

 対岸の地面は湿り気が増していた。靴底が土に沈み、踏み跡に水が滲む。テレザの注釈に「やや湿り」とあったのはまさにこれだ。

 

 そしてその湿った窪地の縁に目当ての銀星花があった。

 

 セフィラが息を呑む。

 

 五弁の薄青い花、対生で鋸歯のある葉、蕾の先端が銀色がかって光る。知識としてはテレザから標本を見せてもらったこともあって形は知っている。だが群落を目の当たりにするのは押し葉を指でなぞるのとはまるで別の体験だった。窪地の北側の斜面に数十の株が散らばり、銀色の先端が木漏れ日を受けてちらちらと明滅している。地面に星が落ちたようだと言えば月並みだが、月並みな感想しか浮かばぬほどにそれは率直に美しかった。

 

 屈み込んで一株に触れるセフィラ。蕾は固い。石のような硬さがある。これが銀星期の蕾だ。開花の一歩手前といったところだろうか。

 

「シャール、鋏を」

 

 シャールが背嚢から採取用の小鋏を取り出して渡す。セフィラは蕾の下の茎を慎重に切った。根は残す。テレザの指示であり、森の民への配慮でもある。切り口から微かに甘い匂いがした。

 

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