聞こえますか。聞こえますか。
ヒヤデス星団おうし座のアルデバラン、黒きハリ湖より通信中。
俺の名前はハスター。
神話生物にして神。遍く星々の海に君臨する偉大なる者、旧支配者の一柱である。
長いタコともイカともトカゲともつかぬ身体をくねらせて、俺は黒きハリ湖の湖底でため息をついた。
俺が生を受けて138億年以上。
長い長い悠久の時間の流れは、俺という一般人の精神には憂鬱に過ぎる。
………ふむ。
ところでだが、ハスターとは何者か、皆さまはご存じだろうか。
ハスターとは、現代仮想神話体系でおなじみの「クトゥルフ神話」にて登場する邪神だ。
名状しがたきもの・名付けざられしものなんて呼ばれることもあれば、ハスターが訛ってハストゥールやアサターとか呼ばれることもある。
部下にはかの有名なお手軽騎乗生物ビヤーキー、人攫いが趣味のイタクァ、人間の脳を生きたまま瓶詰にすることで定評のあるミ=ゴなんかがいる。
碌なメンツじゃねぇなというコメントは心の中だけに留めておこう。
彼らは「いあ いあ はすたぁ!」と純粋に俺を崇めてくれるのだが……残念ながら割と頻繁にR-18G。
冒涜的で血と脳漿と汚物みたいな汚ぇラインナップとなっている。
日本での俺の教徒も発狂者マシマシ。
勝手に俺と交信しようとして俺の姿を視認。そのままSAN値(正気度)を直葬されてジエンドの人がわんさかいるのだ。
昼も夜も寝てる時も勝手に俺のプライベートゾーンに上がり込んでは発狂するのやめてくれないかな……!
実は温厚で優しい羊飼いの守護神が本業なので、ハスター信仰の皆さんは「羊飼いのハイタ」を読んで一度冷静になろうね。
さて、説明終了。
俺はそんな冒涜的な神となってしまったごく普通の転生者だ。
俺は自分が死んだと自覚した直後、この世界に旧支配者ハスターとして再度生まれ落ちていた。
生まれた瞬間目の前に広がる父上・時間の大神ヨグ=ソトース!
俺の誕生を祝っているらしい踊り蠢く異形の生き物たち!
なんか捻れた空間と宮殿っぽい謎の建造物!
お分かりだろうか。
この寝起きに貞子が自分の顔を覗き込んでいたみたいなSAN値チェック不可避の状況を。
生まれた直後に人間の赤ん坊もかくやという勢いで絶叫した俺は悪くない。
父上を見るだけでSAN値減少は1D10/1D100、実質即死なのだ。
そこに異形の群れと捻じれた空間、死んだはずなのに化け物として蘇ったというショックの3連打。
即死トラップにしても殺意高すぎだし、普通の人間なら3度は死んでるレベルである。
そんな人間の脆弱なSAN値なんて一発で消し飛ぶ場面だというのに、いつまで経っても俺に狂気は訪れなかった。
通常、神話生物にSAN値(正気度)は設定されていない。
正気か狂気かなんて人間の尺度でしかないんだから、そんなものに神話生物は囚われないという意味だ。
それが関係しているのかは定かではないが、俺はどんなショックを受けようがどれほど冒涜的な景色を見ようが心を壊すことはなかった。
父上とともに彼の大神、盲目白痴の御方のもとに馳せ参じた時も。
近場の街カルコサで正気を疑うようなスプラッタ儀式が俺を祀るために行われても。
おぞましい異形のものどもの狂気的な雄たけびの中、神と崇め奉られても。
俺は狂気に逃げることはできなかった。
つまり毎回新鮮に恐怖だし絶叫と号泣が板についてきたってことだよ!!!
アイツら俺がビビってマジ泣きしてんの見えてないの?
触腕はガクガク震えてるし全身の穴という穴から粘液(毒性)を垂れ流してる俺が可哀そうじゃないの?
別に触腕が震えてるのがデフォルトなわけじゃねーよ。
怖すぎて震えてんだよこれは。
あとイタクァ君は猫じゃないんだから攫ってきた人間を毎回俺に見せに来るのは止めようね。
普通にスプラッタだわ止めろって何回言わすねん。
ミ=ゴの人たちは謎のねちゃっとする物体を大量に俺に送りつけてくるし最悪かよ。
何に使うのかすら分からんのだが。
マジでなんなのもう。
地球に帰りたい。平和で穏やかな人間の生活に戻りたい。
何十人も人間をぶっ殺して作ったような粘ついたPOW(精神力)の塊を問答無用で口に突っ込まれるなんてもうたくさんだ!
そうして、苦節〇〇年。俺はついに立ち上がった。
────────そうだ、地球へ行こう。
前回行ったときは、色々あった上にクトゥルフのアンチクショウが何かとちょっかいをかけてきてゆっくりできなかったからな。
その後はアル・アジフが……いや、それはいい。
なんにせよ行くべきだ。
地球にいる俺のファン(?)の人たちによれば、今の地球はカラーテレビもあるし携帯電話も普及しているとのこと。
ちょうど俺の前世のころの地球そのものだ。
……本当はローマ帝国ができたあたりで世界史見学ツアーをするつもりだったのだが。
ちょっと部屋に引きこもっていたらこんな時間になってしまっていた。
いやいいけどさ。後から時間を遡って見に行くから困らないけど。
だがリアタイの大切さもまた間違いない。
これはもう行くしかない。
涙を呑んで神話的恐怖に耐えるだけの生活はもう終わりだ。
こんにちは地球。
俺の魂の故郷にして心の平穏よ。
そうして。
星辰正しきその日、俺は魔術と己が存在の全てでもって黒いハリ湖を飛び立ったのだった。
と、そんなわけで時は流れまして1週間。
現在、俺は日雇いの交通整理のバイトで、真夜中の工事現場前に赤く光るバトンを持って一人ぽつんと立っております。
やってきました地球、母国たる日本と首都。
夜の闇を加味せずとも、傍目には今の俺は人間にしか見えないだろう。
ジーンズに黄色いパーカーを合わせた、大学生ぐらいの兄ちゃんをイメージした身体になっている。
筋肉は意外とあるが蒼白と言えるほど色白なのが若干不自然。
目を直接見られると相手にSAN値チェックが発生してしまう仕様なので、大きめのサングラスをかけて誤魔化している。
髪の毛に関しては、残念ながら触手色のままだ。
後ろでひとまとめにしてフードをかぶったのでどうにか隠せているが、実は完全に化けきれていないせいで後ろ毛の先端が触手になってしまっている。
これこそが俺の努力の結晶、人間社会に紛れるための全力変化Ver.黄衣の王である。
詳しく言うと化身である黄衣の王となった後に化け物感を消すため魔術で細かなディティールを整えた姿だ。
魔術「ゴルゴロスのボディ・ワープ」。
これは精神力を捧げることで発動するお手軽変身魔術だ。
人間と違って俺のPOWやSAN値は秒間で自然回復するので気軽に発動できるし、変身しても身体能力自体は元のままなのでいざという時に困ることもない。
SAN値消費で背筋が凍えて涙が出ちゃうという難点はあるが、泣き虫ハスター君も可愛ええやろ。
なお、呪文名にゴルゴロスとあるが管轄は黒い石の神ゴルゴロスさんではなくニャルラトホテプのあん畜生なので注意すること。
使うたびにあの野郎の化身が「自分で変身もできないとか(笑)」「ねえ今どんな気持ち?」「神として恥ずかしくないんですかぁー?」とテレパシーで煽ってきてとてつもなくウザいのだ。
奴は俺を頑丈で愉快なオモチャだと思っている節があって困る。
まあ、俺は俺で奴の人間臭さに救われている部分があるのでお互い様であるが。
それはそれとして野郎いっぺん殴る。
ともかく。
時期も季節も選ばない飛び込みの真冬の深夜バイトは最悪の一言だ。
現在の時刻は深夜2時。
給与形態の説明も碌になく現地集合即労働なこの職場は、寒さも厳しく現場責任者が誰なのか休憩がいつなのかも分からない極限仕様だ。
極寒で握るライトの棒は凍てつくようで、手がかじかんで凍傷になりそう。
おおむね、常人では二度と経験したくない類のバイトと言えるだろう。
しかし俺は腐っても旧支配者。
化身として本来の1/10以下にスケールダウンしていても肉体性能は人類の限界を遥かに超える。
雪がちらつく中氷みたいに冷え切った赤いバトンを素手で持っても大丈夫で、支給された無線の調子が悪くて指示も仰げない有様でもノー問題ということだ。
身分証無し履歴書なしの怪しい人物を雇ってくれるバイトだからね。
ある程度は仕方ないよね。
……ちょっと想定より現代社会の闇が深かった。
思い返せば前世でも人間社会ってこんなもんだった。
思い出は美化されるもの。
早くも荒んできた心は実に現金で、こんなことなら地球にいる俺のファンに連絡を取ればよかったかと後悔もし始めている。
いや待て、冷静になれ。
冒涜的な儀式やらの主賓として非ユークリッド幾何学な建築物に招待されるぐらいなら、ブラックバイトの方が遥かにマシだ。
そんな風に一般人ゆえの心の弱さと戦っていたその日。
路地裏から「うぁ、ガ……」と不自然な苦悶の声が漏れ聞こえてきたのを俺は耳にした。
暗い住宅街の道は人通りどころか車通りもまばらだ。
もし急病で倒れた人がいた場合、息のあるうちに発見される可能性は非常に低いだろう。
そうでなくともこの寒さの中放っておかれたら命にかかわる。
そっと己の持ち場を離れ、交通整理用のバトンを懐中電灯代わりにしながら、俺は向こうの河川沿いに続く細い道へと入っていった。
夜の住宅街は実に静かだ。
ざりざりと何かをアスファルトに引きずる音。
遠くで男の話し声が聞こえる。
普段なら聞こえないような微かな物音が家々に反響し、小さく俺の耳へと届いている。
もしかして不審者とかかな、ヤバそうなら見なかったことにして引き返そう。
そんな風に若干おびえつつ一応の確認だけ取ろうとひょいと高いブロック塀の向こう側を覗き込み。
俺は銀髪の黒ずくめが死体に腰かけて一服ふかしている姿を目撃してしまったのだった。
「────っ!?」
「……はっ、随分と運の悪い奴もいたもんだ」
黒い帽子に黒いコート。
長い銀髪はコスプレのように黒ずくめの服に似合っている。
年齢不詳の銀髪は「こいつ、人殺しの眼だ…!」みたいなアニメのモブキャラ台詞を吐きたくなるような眼で冷たい笑みを浮かべた。
手には黒光りするエモノが一丁。
モデルガンだと思いたい。
思わずのけぞった俺の後頭部に、いつの間に忍び寄っていたのかもう一人の男が銃口を押し当てた。
「こっちは行き止まりだ。おら、俺たちと楽しくお話でもしようぜ」
「あっ俺今日は特に変なものは見てません。普通にバイトして帰りました。はい」
「聞き分けのいい子は嫌いじゃない。けどなァ、へへへ。夜は人気のない場所には近づいちゃいけませんってママに教わらなかったのかい?」
拳銃の主は銀髪の男同様に黒い帽子を被った大柄な男だ。
俺の渾身の命乞い台詞を一瞬で切り捨ててゴリッと後頭部を銃で抉ってくるさまは、ハリウッド映画で採用されても何ら不思議ではないほど完璧な悪党だった。
何言っても殺されるヤツだわこれ。
俺は無言で両手を上げて大柄な男にされるがままに銀髪の前へと引きずりだされる。
……ホールドアップなんてしなくても旧支配者ハスターが拳銃の弾で死ぬはずがないって?
それはそうなのだが、人間だって針で突き回されたら痛いものは痛いだろう。
それと同じで、そんな痛い思いはしたくない俺である。
涙目で両手をあげた俺を、銀髪の野郎は鼻で笑った。
げ、現代社会の闇が深すぎる…!
日本って前世の記憶だと結構治安がいい国だったような気がするのだが、どうやら今世では違うようだ。
あまりにも突然に火サスのアバンタイトルみたいな展開に巻き込まれてしまい頭が回らない。
なに?俺が何したっていうの!?
「兄貴、こいつどうしますかい?」
「適当に処分しておけ。そんなことより例の取引の方はどうなった、ウォッカ。あの気狂い連中がまともにブツを寄こすとは思えんが」
「そっちは予想外に順調に進んでます。奴ら、最近動きが妙にきな臭いのが気になりますが……」
「注意だけは怠るな。次の会合には俺も出る。可笑しなマネをしているようなら直ぐに俺に報告しろ」
「へい!」
俺という存在をまったく無視して進む会話は墨汁よりも真っ黒だ。
もう俺なんて死んでる前提というか、これから死ぬ奴に何を聞かせても問題ないだろうという意思が透けて見える。
冷徹な殺気、あるいは羽虫を潰すような無造作な殺意。
狂気とは無縁の硬く冷え切った理性を感じ取り、俺は恐怖より先に思わず安堵してしまっていた。
そうだよね、知性体が他の知性体を殺すって本来そういう冷たい理性が必要な行為だよね!
「ま、そんなわけだ。運が悪かったと思って諦めるんだな」
「っ……下働きとかそういう枠は……」
「人手は在ればあるほど良いっつーのは間違いじゃねぇが、この場合はダメだな。生かしとく意味はないし、何より兄貴が処分しておけと言ったんだ」
「………ぅ」
とはいえ怖いことに変わりはなく、あくまで一般人でしかなかった俺にはそろそろ精神の限界も近い。
脳内こそ冷静だが身体は全身鳥肌だし背中は脂汗でぐっしょりの有様だ。
ちゃきり、と頭の後ろで拳銃が部品のぶつかる金属音を立てる。
きっとトリガーにはすでに指がかけられていて、次の瞬間にでも俺の脳みそはアスファルトにぶちまけられることになる。
既に銀髪の男はこちらに背を向けて路地の暗闇に消えてゆこうとしている。
「じゃあな」
一般人にも可能な抵抗は全て行った。言葉、恐怖、交渉、考察。
それでもなお俺を殺そうというのなら。……心苦しい、とても心苦しいが……神話より来りて狂気を撒くモノとして抵抗せざるを得ない。
ああ嫌だ。俺は人間なのに。
そしてごめんなさい。
そっちだって人間には違いないのに。
黒く塗られたトリガーが引かれてゆくのを俺は眼ならぬ眼でじろりと見つめた。
【黄衣の王の凝視】
「っひ!、………、ぁあぁ、あ」
「ぅぉお俺は死にたくないんだよ糞ぉホントごめん!!!」
恐怖の発作を引き起こす邪視を超至近距離から浴びた帽子の男が、不自然に身体をカクつかせた。
その隙を見計らい、銀髪の男が向かった方向とは逆へ全力猛ダッシュ。
もうこれで終わってもいい、だからありったけを…とはゴンさんの名言だったか。
そんな言葉がふと思い浮かぶレベルで必死に爆走する。
次の瞬間、背後で銀髪の男の怒号と容赦ない発砲音が耳を突く。
どうやら拳銃の腕も良かったらしい銀髪の鉛弾が俺の腹に2発着弾。
やわやわな俺の人間ボディに風穴を開けてその向こうのアスファルトに傷跡を残した。
「痛っだぁ、ギ、追ってくんな馬鹿野郎っ!!!」
「馬鹿なその体で────っ!?」
ハスターたる俺本来の生命力は通常の生き物の遥か上にある。
銃弾で受けた傷に思わず涙目になりつつ、それでもなお追いすがる銀髪を思いっきり「睨みつける」。
それで銀髪が怯んだかを確認する余裕は無かった。
人外の身体能力を隠すことすらせずに全速力で住宅街の角を曲がること四度、五度。
脇目もふらず10分ほど走り続け、車通りの多い大通りへとなんとかたどり着いて息を整える。
追っ手らしき足音は無く、銃弾も飛んでこない。
気配や視線を感じ取れるような特殊能力は持ち合わせていないため、無駄にキョロキョロと四方を見回して再確認。
身を固くして再度の襲撃を警戒したが、何分経っても銃弾が再び俺を貫くことは無かった。
…………。
はぁぁぁあ、と魂がはみ出そうな大きなため息を一つ。
車のフロントライトが平和に道を照らしている。コンビニを出た歩行者が、地面に膝をつく俺の姿をちらりと一瞥して通り過ぎていった。
「……夜中にバイトするの、もう絶対止めよう」
忘れかけていた人間社会の闇を再確認した、ある日の出来事であった。
初期だけ毎日投稿しつつ、隔日投稿を基本としていきたい所存。