時刻はすでに夜の10時を指す。
約束の埠頭へとやってきていた降谷零は、まだ寒さの残る冷たい風にわずかに身を震わせた。
辺りには人の気配はなく、ただ港に波が打ちつける音だけが満ちている。
このくだらない取引を終わらせて、早く帰って寝よう。
そのように思考を巡らせて眉を顰める。
昨日の夜の任務だって、上手くいったはいいもののトラブルも多かったし。
詳細は記憶に靄がかかったように思い出せないが、後で対応しないといけないことが山ほど…。
妙だ。任務の内容を思い出せないなんて、そんなはずは、
────思い出せなくとも特に問題はないはずだ。
ああ、そうだ。
対処すべき事案はわかっているのだし、そんな些事忘れてしまっても問題あるまい。
思考を切り替えて埠頭を進んでいくと、先に到着していたらしき黄衣ハスタが所在なさげに一人で立っていた。
特に警戒させるつもりもないので、距離のあるうちに声をかけておく。
「待たせてしまいましたか」
「お、どうも降谷零さん。ご足労かけてすまないな」
「……いや、構いませんよ」
あれ、と降谷零は内心首を傾げた。
「そう思うなら早く本題に入ってくれませんか。こちらも暇じゃないので」と皮肉を言おうと思っていたのに。
なぜか、そんな気持ちになれなかったのだ。
───奴にそんなことを言ったら、繊細で人間臭い奴がしょぼくれてしまいそうだからな
人間臭い奴の悲しみに暮れた顔が見たくないと言ったら嘘になるが、単純に嫌われたいわけではない。
そんな妙な思考が脳裏をよぎる。
自分で考えておいてよくわからない。
それよりひとまず今回の取引の件だ。
「それで、僕に贈りたいものとは?」と声をかければ、黄衣ハスタはやや躊躇ってから口を開いた。
「ああ、それなんだけど。まず、幽霊って信じるか?」
「……夢があっていいとは思いますよ。個人の思想に文句をつけたりはしませんとも」
「じゃあ、死者と会話できたなら」
「便利ですねぇ。そんなことができればの話ですけど」
宗教勧誘か?と降谷は嘆息した。
いよいよ面倒くさくなってきたので、話を切ってさっさと帰ろうかと思い始める。
「俺が贈ろうと思うのは、その死者との会話の機会だ」
「…このくだらない話、いつまで続くんです?僕は暇じゃないんですけど」
やや語気を強めて黄衣ハスタを睨め付ける。
こんなくだらない話をするために降谷を呼び出したというのなら業腹だ。
こちらは寝る暇もないほど予定がみっちり詰まっているというのに、腹立たしいにも程がある。
そう思って踵を返そうとした、その瞬間のことである。
『よお、ゼロ』
「───────」
目の前に。
あの日のままの姿の、親友が、姿を現したのだ。
一瞬の思考の空白。
混乱。硬直。それでも脳裏に湧き上がる微かな期待。
そして遅れて、純粋かつ膨大な、怒り。
考えるより先に手が出た。
遠慮も何もなく、全力の右ストレートを男の顔面にぶち込む。
殴り抜けたと思った瞬間。
拳は亡き親友の幻影を通り抜けて、降谷は思わずたたらを踏んだ。
諸伏景光の幻影が困ったように微笑んでいる。
『やっぱりか。キレると手が出る癖、直ってなかったんだな』
「……薬を盛るのはオハコというわけだ。随分な歓迎の仕方じゃありませんか」
降谷は憎しみすら籠った声で吐き捨てた。
はらわたが煮えくり返るようだ。
この売人の脳天を今すぐぶち抜くことができたら、どんなにすっとするか。
黄衣ハスタがパタパタと手を振って降谷の言葉を否定した。
「いやいやいや、見せる幻覚を正確に操作できる薬とか常識的に考えて有り得んだろ!」
「…暗示と併用すれば、あるいは」
「そんな隙アンタには無かっただろ!普通に幽霊だよ!」
思わず鼻で笑おうとして失敗する。うまく笑えない。
親友の懐かしい幻が降谷に話しかけてくる。
『お前の初恋の話でもしたらどうだ?女医さんの話』
「そんなもの、僕の脳が見せる幻なら知ってて当然だろう。なんの証明にもならない」
『ならこいつはどうだ?氷室製菓の社長が組織の連中から金を借りてる件。あれ、仲介人は秘書の中島って男だ』
「!」
5日ほど前に情報を掴んで降谷が独自に調べていた件だ。
まだ調査し切れていない点が多くあり、仲介人が誰だったのかは降谷ですら知らない情報だった。
『俺が独自で調査した。この身体なら誰にも見つからずにどこへでも潜入できるからな』
「………それは」
降谷ですら知らない真実がここで伝えられたとして。
ならつまりこれは幻ではないということで。
「………」
嘘だ。
そんなことあるわけない。
諸伏景光は死んだ。幽霊など存在しない。こんなタチの悪い欺瞞に乗る義理はない。
脳の奥にこびりついた微かな期待が、無視できないほど大きく育って、それがギリギリと心臓を圧迫する。
やめてくれ。期待させないでくれ。
そんな荒唐無稽な嘘で再び希望が崩れたら、そんなの、もう立ち上がれないかもしれないのに。
『ゼロ』
己の名を呼ぶ声の響きは、あの頃のまま。
すでにそう呼ぶ人間は誰もいなくなってしまった、懐かしい名で降谷を呼ぶ。
喉がカラカラに乾いて、眩暈にも似た感覚に襲われる。
幻覚だ。一人で幻覚を見て哀れに突っ立っている姿は、さぞや滑稽なことだろう。
息が荒い。期待と恐怖に胸が張り裂けそうだ。
『先に逝って、ごめん』
「ッ!」
ヒュッと、喉が鳴った。
『あの時はああするしかないと思ったんだ。間違ってもデータの入ったスマホを組織に回収されるわけにはいかなかったし』
「………」
『お前を置いて行って悪かった。だって、思いもしなかったんだ。階段を上がってきたのがお前──』
「違うッ!!!」
思考より先に絶叫していた。
はあはあと息を荒らげて、ろくに言葉も続けられない。
息が上がって肺が苦しい。
全力疾走をしているかのようだ。
心臓が早鐘を打って、指先が不随意に震える。
「あいつが!!!あの男が、FBIが、お前を、だってそう言って、」
『ゼロ、違うんだ』
静かな声で、狂乱する降谷を親友が諌めた。
あまりに苦しくて惨めで、この場から逃げ出そうとすら思った。
降谷だってとっくに気付いていた。気付かないはずがなかった。現場は自明だった。
死んだ諸伏景光の遺体の指には、べっとりと返り血が付着していた。
銃の引き金と同じ形に血痕は途切れてもいた。
赤井秀一の証言は、降谷を慮って放たれた舐め腐った出鱈目なのだ。
本当は。本当の本当は、自分が馬鹿みたいに音を立てて階段を、上がって。
憎悪で蓋をしていた後悔が、今、降谷を捕らえた。
「……ごめん、ヒロ。ごめん、ごめん、ごめん……!」
彼のパーカーを掴んですがりつこうとして、その手は宙を切った。
もはや彼はこの世にいないのだと、降谷に見せつけるかのようだった。
情けなくも涙が込み上げる。
見苦しく喉が痙攣する。
もはや事態は過ぎ去った後だった。
どれほど後悔しても彼は帰ってこない。
あの日火葬場に近寄ることすらできなかった降谷には、悔いる権利すら無いのだ。
『いいんだ。あれは俺が悪かったんだ。俺こそ、お前を一人にしてごめん』
「おまえは、わるくない、俺が、俺が、間抜けで、なければ、」
言葉はそれ以上続かず、嗚咽のみが夜の埠頭に響いていた。
涙が止まるのにしばらく時間を要した。
それでも、埠頭にはその間誰も近寄らなかった。
黄衣はただただ静かに夜の海を見つめていて、波の音だけが降谷の嗚咽を隠していた。
しばらく後。
降谷は涙を拭い、力なくアスファルトへと座り込んで口を開く。
「g何円だ?」
「へ?」
「末端価格だよ。さぞ高価だろう。いい夢を見させてもらった礼くらいはさせてくれ。もちろん、以前依頼された件もきちんと果たそう」
「その話まだ続いてたのかよ!?いや礼をしてくれるのは嬉しいけどさ!!」
黄衣は憤慨して立ち上がった。
どうあっても幽霊ということにしたいらしい。
それならそれで、降谷としてもありがたい。
少しだけ爽やかな気持ちで夜の海を見つめていると、黄衣がため息をついた。
「なら、礼はそうだな」と妙に平坦な声で言いながら、一歩降谷に近づく。
「そこから動くな。一歩もな」
「…へ」
瞬間。
長大な触手が幾条も海から立ち上がり、降谷を縛り上げた。
ヒロが「ゼロに何をするんだッ!!」と慌ててこちらに近寄ろうとする。
それを黄衣ハスタは手で制して、加えて光の帯のようなものでこちらを拘束した。
そのまま身体が宙へと持ち上げられる。
降谷は愉快で愉快で、思わずニタリと笑みが溢れた。
「───どうしてわかった?」
「見えてたぞ。悲しみに揺れる降谷零の魂の奥に、お前の嘲笑が」
「残念。良い素体を見つけたと思ったのに」
降谷は縛り上げられたままガックリと肩を落とした。
こんなに面白い人形は中々見つからないのに。
しかも身体が馴染み切っていなくて抵抗できない。
と、そこまで考えて自分の思考が理解できなくて首を傾げる。
人形?なんの話だ?
思考が散り散りに乖離していく。
自分で口を開いていて、何を喋っているのかがよくわからない。
ひとまず自分を拘束した黄衣ハスタに向かって、抗議の声をあげた。
「せっかくこの僕が親友として会いにきたのに、こんな歓迎あんまりじゃないです?」
「うるさいニャル野郎め!俺の環惑星魔術式ボロボロにしやがって!直すのに夜通しかかったわ!」
「それは貴方の魔術式が見るに耐えないものだったので親切心で直して差し上げただけですが」
「ついでに面白おかしく改造して?」
「そう。アクセスした身の程知らずが一族郎党突然爆散したら楽しいかなって」
「俺も爆散するところだったよこのニャル野郎!ニャル野郎!!」と黄衣ハスタが喚いている。
本来なら一発ブン殴るところ、降谷零では殴れないということで地団駄を踏んでいるようだ。
こんな素体なんて気にせず殴れば良いのに。
諸伏景光が困惑したまま黄衣に詰め寄った。
『どういうことだよ、ゼロはどうなってるんだ!』
「ちょっとタチの悪いのに乗っ取られてるだけだよ。いま立ち退きさせるから待っててくれ」
ちょっと聞き捨てならなくて、降谷は目を見張った。
黄衣の手の中で膨大な量の魔術式が積層していくのが見える。
「え、僕を退散なんてさせませんよね?親愛なる友人ですよ?」
「ギルティ!!!あとなんだその口調、お前、前はそんな感じじゃなかっただろ?」
「まあ僕は降谷零なので?あとこの間の裸顕現未遂も死ぬほど笑わせてもらいましたよ。向こう200万年はこのネタで笑顔になれます」
「あーもー、わかったわかった。とりあえず地球外退去な」
瞬間、ボシュっと光の柱が立ち上がり、無慈悲な退散の呪文が己の体にぶち当たる。
降谷は「ぎゃー!」と全然こたえてなさそうなコミカルな声をあげた。
そしてやや反動で身体がゆらぎ、埠頭のアスファルトに膝をつく。
「ゼロ!大丈夫か!」と諸伏景光が駆け寄ってくる。
アスファルトに両手足を突いて、降谷は呆然と硬直していた。
一気に明瞭になり、解放された思考がぐるぐると回りだす。
これまでの己がいかに可笑しかったのか。
じわりとまとわりついていた違和感が、形となって降谷の思考を苛んでいく。
鏡の中で見ていた、あの悪意に満ちた視線が忘れられない。
己が己でなくなっていく悍ましい感覚。
全身の肌が粟立ち、吐き気が込み上げ、自分すらも信じられなくなって。
「……ッひ」
『ゼロ!』
白く混迷していく思考の先で、黄衣ハスタが手の中に白い渦のようなものを集めているのが見えた。
それが「魔術式」と呼ばれるものであると一目で分かったのは、先ほどまで降谷に取り憑いていたナニカの残滓のせいだろう。
美しい、あまりに美しい光が集っていく。
それは人類の歴史そのものだった。
白い渦の中にこれまでヒトが歩んできた輝き、絶望、執着、理想。
あらゆる時の流れが描かれて一枚の絵画のように輝いている。
まさに至極の芸術品。
「人の魂に正常性を取り戻させる」という神の御技を成す、この宇宙に唯一無二の魔術式!
淡い光が降谷の体を包み込む。
先ほどまでの悍ましい感覚は次の瞬間綺麗さっぱり消えていた。
黄衣がしゃがみ込んで降谷の様子を確認する。
「これでOKっと。あとどこか具合の悪いところはあるか?」
「……いや、無いよ。助かった、ありがとう」
もはや言い訳できない神秘を目の前に、ただ見上げるだけの降谷にできることは疑問を投げかけることのみだった。
半透明の親友が、未だ自分を心配そうに見つめている。
「僕からも聞いて良いかな」
「ん?なんだ?」
「君は、何者なんだ」
心からの疑問だった。
もっと聞き方はいろいろあるだろうに、こんな馬鹿みたいなことしか聞けないのは頭が回っていない証拠だろう。
予想外のことを聞かれたように瞬いた黄衣ハスタは、少しだけ頬をかいてから優しい笑みを作ったのだった。
「黄衣ハスタ。このしがない探偵事務所の、所長だよ」
・降谷零
やや残滓が残っている。理解できないはずのものが理解できてしまってSAN値が減りやすい。
・コナン君
夜遅いのでお留守番。
めちゃくちゃブスくれている。