玄弥ファンの方々には申し訳ありません。
それは、竈門炭治郎の数年前の記憶。
育手・鱗滝のもとでの修行が半ばまで進んだ時、狭霧山を訪ねてきた男がいた。
「お前が炭治郎か。義勇殿の紹介で来たという」
鱗滝と揃いの青い羽織を着た青年だ。
顔に狐の面を被っているのが目についた。
近くの畳の上に自分の日輪刀を置いている。
「はい、竈門炭治郎です。貴方は……?」
「こいつは滝沢鯉竜。お前の兄弟子だ」
横から鱗滝が口を挟んだ。
滝沢は炭治郎の体躯をじろじろと見て鼻を鳴らし、
「まだ全然だな。トーシローが少し鍛えた程度では当然か」
「は、はい!すみません!」
「それで……あれが例の鬼の妹というわけかね」
そう言って、部屋の隅を見た。
禰豆子が布団の中ですやすやと寝息を立てている。
「臭いも完全に鬼だな。今にも起き出して俺たちを……」
そこまで言いかけて、肩をすくめ、
「まあ、師範と義勇殿が決めたことなら俺は言うまい。好きにするといい」
「はい!ありがとうございます!」
「チッ!調子が狂うな。嫌味を言ってるんだぞ」
「え……」
炭治郎はたじろいだ。
滝沢はその肩を叩き、
「まあ剣士になるというなら、精々強くなって俺を見返すことだ。このいけすかない兄弟子をな。ハッハッハ!」
そう言って、からからと笑う。
炭治郎は遅れて気づいた……
滝沢の手が豆と古傷にまみれ、ごつごつしていることに。
苦労に苦労を重ねた者の手だ。
「炭治郎。お前が鬼殺隊の剣士になるには、"最終選別"を抜けなければならない」
滝沢が大量の土産物を置いて去った後、鱗滝は語った。
「儂の弟子で最終選別を抜けたのは、義勇と鯉竜の2人だけだ」
「他の方は……」
「死んだ」
炭治郎の問いに、鱗滝は短く答える。
その表情は天狗の面に隠されて読み取れなかった。
その後たびたび、滝沢は炭治郎に手紙や土産を送ってきた。
鱗滝以外に話す相手もなく果てしない修行に励む炭治郎にとって、それは快い刺激だった。
いつか肩を並べる日が来るだろうかという想像。
……滝沢の訃報が届いたのは、しばらく後のことだった。
上弦の弐に遭遇し、獪岳という味方の隊士に見捨てられ、孤独に戦って死んだという。
死体は見つからなかったが、その上弦の鬼に食われたと考えるのが普通だった。
炭治郎もショックを受けたが、もっと堪えていたのは鱗滝だった。
彼はその手紙を読んで、何日か黙りこくって過ごし……
そして、炭治郎に岩を斬ることを命じたのだ。
◆
「……!」
炭治郎は跳ね起きた。
座卓に突っ伏して眠り込んでしまっていたようだ。
時計を見ると、善逸と禰豆子が出て行ってから30分ほどか。
何故目が覚めた?
周囲はランプだけが光る薄暗闇……夜中のことで、音もなく……
臭いだ。
炭治郎は日輪刀を手に、部屋を飛び出した。
(((この臭いは……禰豆子の血の臭いだ……!)))
炭治郎は階段を駆け下りながら思考を巡らせる。
今の禰豆子は鬼ゆえに身体能力が上がっており、怪我をすることなどそうない。
とすれば、敵に襲われたのか。
(((でも、禰豆子以外に鬼の臭いはしない……敵襲の可能性を考えれば、今すぐ大声を上げて皆を起こすべきなのか?……いや、下手に騒ぐと敵が興奮して暴れるかも……!)))
炭治郎は手元の日輪刀を握りしめる。
慣れない感触で、心細い手応え。
彼自身の日輪刀は遊郭での戦いで破損して修理中であり、今ここにあるのは一時的に借り受けている代替品なのだ。
仮に戦闘になったら、この武器でどこまで──
「うわっ!?」
廊下の曲がり角で、炭治郎は何か分厚い柱材のようなものにぶつかった。
「あら?炭ちゃんじゃない。廊下を走っちゃいけないわよ」
「ふああ……。どうしたの炭治郎くん?こんな夜中に」
それはフランソワ黒沼の巨躯だった。
その背後から甘露寺も顔を出す。
2人とも油断なく刀を持っているのを見て、炭治郎はハッとした。
◆
「テメエ!何故庇う、善逸!」
獪岳は罵った。
手にした日輪刀からは血が滴っている。
「そいつは鬼だろうが!この里にまで入り込みやがって……鬼舞辻にこれ以上の情報をご注進される前に殺す!」
「何言ってんだよ獪岳、禰豆子ちゃんは味方だ!」
善逸は立ちはだかって言う。
禰豆子は彼の背後で──腕の浅い傷から血を流しながら──地面に座り込んでいた。
……獪岳は寝付けずに外を眺めていたところ、善逸と禰豆子が歩いているのを目撃。
すぐさま刀を取って乱入したという経緯があった。
2人の間には禰豆子への認識について致命的な食い違いがあった。
「お館様だって許してくれたはずだろ、なんで知らないんだよ!?」
「出鱈目ほざくな!鬼殺隊が鬼と組むわけねえだろうが!」
やがて獪岳は、つい先日戦った鬼のことを思い出した。
人間を洗脳する血鬼術……
眉間の皺を深くする。
「そうか善逸……お前、その鬼に洗脳されてるんだな。あっさり術にかかりやがって、情けねえやつだ」
「洗脳なんてされてない!頼むから、時透さんか黒沼さんに聞いてみてくれよぉ……!」
善逸は身を震わせ、半泣きで懇願する。
その情けない様子が獪岳の神経をさらに逆撫でした。
……何故こいつはこうも軟弱なのか。
何故こいつに使えるような技を自分は使えず、出世でも負けているのか。
自分はこいつ以下なのか?
「軟弱者のカスめ。何度か勝ち戦に便乗して手柄を立てたようだが……結局、テメエの本性は昔のままだ」
獪岳は苛立ちに任せて、吐き捨てるように言う。
「どうせ炎柱が死んだのも、お前が足を引っ張ったせいだろうが!」
「……なんだと?」
とたんに善逸の震えが止まり、表情が消えた。
「獪岳お前、今なんて言った?……煉獄さんが、俺のせいで死んだだと?」
「ああ?……ついに唯一の自慢の耳もダメになったのか、テメエ」
獪岳はその変化を怪訝に思った。
善逸が怒っているところは一度も見たことがないが、今まさにそれに直面しようとしているのか。
……そう考えながらも、踏みとどまらなかった。
悪意よりもむしろ奇妙な期待があった。
「炎柱が死んだのはテメエのせいだって言ったんだよ!」
「バカにするなぁーっ!」
「ぐあっ!?」
獪岳はいきなり顔面を殴られた。
善逸が驚異的な速度で踏み込み、殴りつけたのだ。
「畜生!煉獄さんをバカにするな!煉獄さんが認めてくれた俺をバカにするな!」
善逸は怒り狂っていた。
顔を真っ赤にしながら、立て続けに殴る。
「禰豆子ちゃんだって煉獄さんに鬼殺隊の一員って認めてもらったんだ!なに禰豆子ちゃん斬ってんだよ!謝れよ畜生!」
「ふざけんな、カスがぁ!」
「ぎゃあっ!」
獪岳は殴り返した。
刀を投げ捨て、その手を握りしめてさらに殴る。
「鬼の事情なんか知るか!兄弟子に対して厚かましいぞ!」
「うるさい!壱ノ型使えないくせに!」
「はあ!?なっ……何ぃ!?」
獪岳は後ずさった。
険悪な中でも互いに触れないようにしていたタブーに踏み込まれた瞬間。
善逸は鼻血を流しながら訴える。
「俺を認めてくれよ!あんたが使えない壱ノ型を、俺は使えるんだよ!」
「なんだテメエ、見下してんのかぁっ!」
「違うよ!殴んなよ畜生!殴ってやる!」
逆上した獪岳が再び殴りかかり、善逸も臆せず反撃した。
「獪岳はすごいよ!毎日欠かさず鍛錬してるし、じいちゃんにも獪岳を見習えって言われたし、俺もその通りだって思うもん!」
「だったら……!」
「でも、俺も頑張ったんだよぉ!そんなアンタにもできない技を、俺は頑張って……頑張って頑張って、使えるようになったんだ!」
「……」
獪岳は躊躇し、殴るのを止めた。
……稽古中、善逸が根性を見せたことを思い出す。
それに、善逸が下弦の壱や上弦の陸との戦いで活躍したという評判も。
……善逸は実際、客観的にみて、優秀な剣士なのか。
ならば、自分がそれに劣っているとしても……
「いや、違うだろ」
「え……」
今度は善逸が戸惑う番だった。
獪岳は笑っていた。
それは自棄、自嘲の笑いだった。
善逸は獪岳の精神の奥底から病巣を引き摺り出したかのような感覚を覚えた。
彼の胸の中からずっと聞こえていた不満の音。
他者からの特別な評価を求め続ける精神性……
その根源には、潜在意識での自己評価の低さがあったのか。
「雷の呼吸の使い手は全部の型が使えて当然だろ。全部の型が使えた鳴柱たちにも、上弦の鬼や鬼舞辻無惨は殺せなかったんだぞ」
獪岳の脳裏に、寺の子供達や滝沢、小石山の顔がよぎる。
自分のせいで死んだ者。
自分を助けるために死んだ者。
彼らを犠牲にして生き延びたのに……それから血の滲むような鍛錬を経てもなお……自分は、過去の雷の呼吸の使い手たちには及ばない。
「俺やテメエが誰に認められていようと、何を背負っていようと、結局同じカスだ。見苦しく生き続ける以外は何もできやしない!」
「馬鹿野郎ーっ!」
「ぐわあっ!」
善逸は獪岳を殴り倒した!
病巣を叩き潰す!
「あんたはすごいんだ!努力家だし、俺に使えない技が使える!他のみんなが知らなくて勝手なことを言ったって、俺と爺ちゃんは知ってるんだ!」
善逸は顔を涙と鼻水にまみれさせながら、獪岳に馬乗りになった。
「あんたはすごいし、俺だってすごいんだ!カスなんかじゃない!」
「黙れーッ!善逸のくせに知ったふうな口聞きやがって!」
獪岳は両足で善逸の両脇を蹴り上げて体勢を崩し、マウントポジションを奪う。
いつしか獪岳も泣き始めていた。
その後、2人は地面を転がりながら殴り合った。
善逸は過去に獪岳から受けた冷たい仕打ちを一つ一つ掘り返して罵り、獪岳はそれに憤慨して殴った。
◆
殴り合いの喧嘩を続ける善逸と獪岳を遠くから眺める者がいた。
炭治郎とフランソワだ。
「……あれはいつまで続くんでしょうか?」
炭治郎は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「ウウッ、グスッ。当然、2人が納得するまでよ」
フランソワはしゃくりあげて泣いていた。
巨漢のオカマが化粧の溶けた黒い涙を流すさまは異様だった。
「2人は今、互いに溜め込んでいた本音をぶつけ合って新たなステージへと進もうとしているのね。青春だわ。つまり恋よ」
「獪岳さんも善逸も男ですけど……」
「バカ!恋に性別は関係ないのよ!ウウッ、グスッ!」
「……」
炭治郎は手持ち無沙汰になり、背後を振り返った。
禰豆子と甘露寺が肩を並べて座り、眠り込んでいる。
……炭治郎はフランソワと甘露寺に同行を頼み、血の臭いを辿ったところ、獪岳と善逸が口論しているのを発見。
そしてこの予想外の展開になった。
(((獪岳さんから禰豆子に、怪我させたことを謝って欲しかったんだけど……今度でいいか)))
フランソワに一言断ってから、禰豆子を背負って自室へ向かう。
途中で一度、振り返る。
獪岳と善逸はまだ争っていた。
兄弟子と弟弟子……
その関係に、滝沢と自分を重ねる。
滝沢が死んだ以上は、意味のない想像か。
(((獪岳さんと善逸、仲良くなれるといいな)))
炭治郎は漠然とした願いを抱きながら、帰路に着いた。
◆
……空が白み始めている。
獪岳は地面に仰向けに寝転び、それを見上げていた。
「善逸……。起きてるか」
「……起きてるよ」
善逸の返事は、思ったより近くから聞こえた。
並んで地面に寝ているようだ。
「何やってんだろうな、俺たちは」
「ああ……今日も鍛錬なのにさ」
「お前も大変だな、アンジェリカの命令で付き合わされてよ」
「別に、命令だからやってるわけじゃないよ」
善逸は淡々と言った。
「爺ちゃんのところにいた時はあんたに迷惑かけたし、世話にもなったと思うから……今回は、俺があんたを助けたいんだ」
「俺を助ける?ハハッ」
獪岳は笑った。
毒気を抜かれた、自然な笑いだった。
「言うようになったじゃねえか、お前」
「へへっ」
善逸は笑い返した。
……この夜、獪岳が壱ノ型を使えるようになったわけでも、善逸が壱ノ型以外を使えるようになったわけでもなかったが──
2人の関係は大きく改善した。
まるで関係のこじれを互いの拳で叩き直したかのように。
◆
……翌朝。
縁壱百式との試合まであと6日となった。
獪岳はアンジェリカのもとを訪ねた。
青あざだらけの顔について半笑いで問われたが適当にあしらい、逆に問うた。
禰豆子という鬼は鬼殺隊の一員だと聞いたが本当か、と。
アンジェリカはぽかんとした顔で答えた。
「Oh, たぶん私その連絡受けましたですが、私にもカイガクにも関係ない思ってすぐ忘れました。──え?会ったですか貴方その鬼に?」
……要するに、彼が禰豆子について知らなかったのは、アンジェリカが浅い考えで連絡を握り潰していたせいだった。
早く出世してこのバカ金髪の部下という身分から抜け出したい──
それがあらためて強く感じたことだった。
その後すぐ、鎹鴉による緊急の伝令が入った。
それは鬼殺隊にとっては悲劇、大打撃の知らせだった。
──「雪柱・嵯峨山白頭、上弦の壱と格闘の末死亡」。
「イヤァーッ!白ちゃん!」
フランソワの絶叫が里に響き渡る。
……以後、かの恋柱は自室に籠って泣き暮らすようになってしまった。
獪岳と善逸の鍛錬については、代理の教官として甘露寺が送り込まれた。
しかし彼女は教えるのが爆発的に下手だった。
獪岳と善逸は、以前フランソワに課されたカリキュラムに漫然と取り組むほかなかった。
そして、獪岳と善逸は関係を大きく改善させながらも、その戦闘力には明確な成長がないまま──
3日が経過してしまった。
【続く】