濃密な霧が立ち込める狭霧山。
その木々のあいまを縫って、颯爽と駆ける者がいた。
獪岳だ。
「ハアッ!」
跳躍すると、飛来した丸太がその股の下を通過。
着地の一瞬後、足元に落とし穴が開くが、その頃には獪岳はすでにその場にはいない。
はるか前方へ走り抜けている。
獪岳の水の呼吸は飛躍的な成長を遂げていた。
長い訓練の成果だ。
ここに至るまでに何日経っただろうか?
この山に来てから時間の感覚はどうにも朧で、曖昧だ。
獪岳の頭上で木の枝がザザッと鳴る。
直後、その陰から錆兎が飛び出した。
「"滝壺"……!」
木刀を振るって繰り出すのは、落下の勢いを乗せた上段斬りだ。
獪岳の脳天めがけ振り下ろす。
「"ねじれ渦"!」
獪岳は渦巻く一撃を繰り出し、弾き返した。
錆兎は体を翻して着地。
両者、数メートルの間合いで対峙する。
睨み合いはごく短かった。
「肆ノ型、"打ち潮"……!」
錆兎が踏み込み、連続斬りを繰り出す。
その冷酷さ、苛烈さは、冬の海から断崖絶壁へ打ち付ける荒波を思わせた。
「ヒュウウウウウッ」
獪岳は息を吸い込んだ。
……工夫が要る。
錆兎は水の呼吸を知り尽くしており、その技で上をいくことは容易ではない。
長期戦に持ち込めば、体格や実戦経験の差で勝つことはできるかもしれない。
しかし、それでは満足できない。
胸の内で不満の音が狂おしく反響し、耐えがたい。
(((俺はもっと優秀であるはずだ)))
育手の師範に、アンジェリカに、フランソワに、そしてこの錆兎に、どれだけ訓練を受けたか。
その内容を人並みにただ呑み込むだけか?
……いい加減、教えられたこと以上の結果を出してしかるべきだ。
自分にはその素質がある。
雷と水、2つの呼吸を使えるということ。
(((瞬発力に優れる雷と、体に馴染みが良くしなやかな水。その2つを──)))
獪岳が吸い込んだ空気は、瑞々しい清流となって両脚へ流れる。
両脚が地面を踏み締めて生み出した力は、荒々しい雷となって右手へ流れる。
右手で握った木刀へ。
(((組み合わせて、ぶちかます!)))
獪岳は地面を蹴った。
その瞬間、彼は一条の稲妻と化す。
稲妻は錆兎の"打ち潮"のわずかな隙間を縫うようにしてZ字に迸り、彼の眼前でスパークした。
──"火雷神"は、善逸が作った。
本人からそう聞いた。
俺も作っていいはずだ。
俺自身の漆ノ型を。
「雷の呼吸、漆ノ型── "
直後、獪岳はすでに錆兎の背後に立っている。
右手、ワンハンドでの斬撃を振り抜いた姿勢で。
……錆兎の狐面が割れ、からんと音を立てて彼の足元に落下した。
「……瞬間的に加速して敵の攻撃を回避し、その勢いのままに反撃を叩き込む技か」
錆兎が振り返る。
右頬に大きな古傷のある、精悍な顔つきの少年が獪岳を見た。
「驚いたぞ。俺の教えを全て体得するのみならず、独自の技にまで昇華させるとは」
「フン、このくらい当然だ」
獪岳は不敵に笑い、
「俺はまだ強くなる。俺の過去全てに俺自身で決着をつける。そしていつか、俺を知る連中すべてに俺を認めさせてやる」
「強欲な奴だ」
「そうとも。俺をよく理解してるじゃねえか」
「……お前を現の世界へ返す」
錆兎が言う。
すると、霧がいっそう濃くなり始めた。
木々、そこに仕掛けられた丸太、割られた注連縄の大岩……
そのすべてが、みるみるうちに霧に覆い隠されていく。
「何のために俺を鍛えた」
獪岳は尋ねる。
「すぐにわかる。わかりたくなくてもな。過酷な一夜が、現の世界ではもう始まってしまっている」
錆兎は謎めいた答えを返し、そして……
うやうやしく頭を下げた。
「獪岳さん。俺たちの弟を──鯉竜を、お願いします」
霧が、獪岳の視界のすべてを白く塗りつぶした。
◆
「……」
獪岳は布団からのっそり身を起こした。
窓を見ると、すでに外は日が落ちている。
寝坊どころではない。
ほとんど1日中眠っていたことになる。
しかし不思議と、体にだるさや違和感は無かった。
むしろ好調だ。
思いのままに狭霧山を駆け、思いのままに新技を繰り出した余韻が、今でも全身を温めているようである。
獪岳は、我知らず握りしめていたものを見た。
昨日炭治郎から受け取った"守り狐"だ。
(((これのせいか?変な夢を見たのは……いや、そんな非科学的なことは……)))
そんなことを考えていると、ふと気づく。
……外が騒がしい。
里の住民たちが大勢で何やら話し合い、バタバタと走り回っているようである。
"過酷な一夜が、もう始まってしまっている"……
錆兎の言葉が頭をよぎる。
◆
獪岳が身支度を済ませて外へ出ると、里はいつになく明るかった。
あちこちに篝火が焚かれているからだ。
刀鍛冶たちが手に手に武器や松明を持ち、何やら深刻そうに話し合い、あるいはどこかへ走っていく。
『捜索にあたっては、必ず複数人で行動してください。発見した場合は我々警備隊か滞在中の隊士のどなたかにご通報いただくよう……』
三つ編み髪の女隊士(獪岳は名前を思い出せなかった)が高所に陣取り、舶来品の拡声器で何かアナウンスしている。
「あら、獪ちゃん!ドカ寝してて全然起きないって聞いてたけど?」
ムキムキのオカマが通りかかった。
フランソワ黒沼である。
「さっき起きたところだ。一体何の騒ぎだよ?」
「それがネ、大変なのよ」
フランソワは悩ましげにため息をつき、言う。
「百式ちゃんが──縁壱百式が、小鉄博士を刺して逃走中なの。生みの親を殺そうとしたのよ」
「……何だと……」
獪岳は相当驚いた。
物騒な話だからというだけではない。
これまで、縁壱百式は──試合中に一度命令を無視することはあったが、基本的には──小鉄博士に従順だった。
過激な反逆行為を行うイメージが結び付かなかったのだ。
「逃げた場所に見当はついてるのか?」
「全然!善ちゃんや炭ちゃんも手伝ってくれてるんだけど、この分だと山狩りが必要になっちゃうわね。──このまま見つからないだけならまだいいんだけど」
フランソワはごつい顔を懸念に歪め、
「問題は、百式ちゃんが里を出て鬼に寝返っちゃった場合よ。百式ちゃんが習得している呼吸法の情報が全部鬼に筒抜けになっちゃうわ」
「何だと……!あのデク人形め!」
獪岳は舌打ちして、真剣に考え込んだ。
思い出すのは、昨夜に善逸から聞いた話。
……縁壱百式は、自らの"役割"に執着していたらしい。
それが今回の異常行動の動機なのではないか?
◆
「血がついてることですね、あなたの刀」
アンジェリカは指摘した。
「Whose blood? 誰の血ですか」
『小鉄博士の血だ。奴は私が殺した』
縁壱百式はこともなげに言った。
赤茶色の着物を纏い、血に濡れた刀を右手にぶら下げている。
その顔に表情はなく、「百」の漢字が刻まれた双眸からも感情を読み取ることはできない。
「なら彼、あまり良いengineerじゃなかったことですね。自分が作った機械の誤作動で死ぬなんて」
アンジェリカは呆れた様子で言う。
2人は薄暗い稲荷神社の境内にいた。
今日もアンジェリカがここで訓練に励んでいたところ、縁壱百式が訪ねてきたのだ。
小鉄博士を刺した後の縁壱百式が。
石油ランプの揺らめく光が、対峙する二者の姿を朧げに照らす。
『奴の技術は関係ない。邪魔だったから殺しただけだ』
「ジャマ?彼が何のジャマするですか、あなたの」
『私の役割を……戦い続け、強くなる……それを果たすことだ』
「それで、ここに何しに来たですか、あなた?」
アンジェリカはその薄暗闇を青い瞳で見通す。
「ここで何をしようと、本当に人殺しするようなポンコツだったら、鬼殺隊あなたを追い回してぶっ壊しますねすぐに。鬼殺隊のヒミツ知りすぎてます」
『たしかに、私の稼働時間はもはや長く残されていないだろう。それは小鉄博士を殺さなくとも同じだった。……私は、残された時間で確かめることにした』
「何を?」
『私がどれほど役割を果たせたのか。私がどれほど強くなったのかをだ』
縁壱百式は刀の切先をアンジェリカに突きつけた。
『月柱、時透アンジェリカ。お前を殺す』
「ハアーッ」
アンジェリカは大きくため息をついた。
そして、背中に担いでいた自らの日輪刀を抜いた。
その刃は巨大なナタに似て分厚く、ムカデの体のような節がある。
「It's no more time to waste on you.」
アンジェリカは日本語で喋るのをやめた。
百式に何を話し、何を理解させようと、その記憶を百式の電子頭脳ごと破壊する以上は無意味なことだと思ったからだ。
(((そうだ、時透アンジェリカ。私に呆れ、私を嫌い、本気でかかってくるがいい。それでこそ私の望みは果たされる)))
百式はそれを察し、1人、捨て鉢で冷たい喜びを噛み締めた。
そして足元の石畳を踏み締め、最初の攻撃のために踏み込もうとした、その時だ。
「待て、百式ッ!」
思いがけない声がそれを制した。
獪岳だ。
長い石段を登り鳥居をくぐって、今、境内に姿を現した。
「武器を捨てやがれ。ふざけた真似は今すぐやめろ!」
『獪岳か。意外だな』
百式はアンジェリカから目を離さないまま答える。
『ここを突き止めるのは、我妻善逸か竈門炭治郎だと思っていた』
「何……」
獪岳はたじろいだ。
たしかにあの2人は超感覚の持ち主であり、百式の痕跡を辿ることも容易だろう。
なぜ自分は彼らより早く百式を探し出せたのか。
……百式が何を考えているのか、見当がついたのだ。
もし自分がその立場だったらどう考えるか、考えて……
「百式ちゃん、聞きなさい!小鉄博士は生きているわ」
フランソワが獪岳に追いついてきて言った。
その肩には1羽の鎹烏が留まっており、甲高い声で喋る。
〈カー!診療所から連絡!小鉄博士の傷はどれも、奇跡的に急所を外れている!命に別状なし!〉
「投降しなさい、百式ちゃん。今ならまだ間に合うわ」
『間に合う?何が間に合うというのだ。小鉄博士が生きていようといまいと、こうして騒動を起こした以上……もはや私が解体される予定は変わるまい!』
百式は早口に言い募る。
初めて、口調に感情らしいものが覗いたようだった。
『私はこの世から消えるのだ。その前に、自分の役割をどれほど果たしたのか、自分の価値がどれほどのものだったのか――確かめる!』
「Moon Breathing, First Form: Dark Moon - Evening Palace!」
アンジェリカが容赦なく先手を打って動いた。
刀を振るうと、その刃は節ごとに分解。
ムチ状の凶器となって百式を襲う。
『私があの試合で全力を出していたと思うか。あてが外れるぞ』
百式の両足かかとからローラーが展開し、高速回転した。
キュイイイイン!
甲高い駆動音と火花をまき散らして、石畳の上を滑るように高速移動。
アンジェリカの攻撃を回避した。
足元が砂利だったあの試合では使えなかったローラーダッシュ機能だ。
「フランソワ、カイガク!気を付けてください、私に殺されないように!」
アンジェリカはそう警告し、次なる技を繰り出す。
「Seventh Form: Mirror of Misfortune - Moonlit!」
横一線の振り抜きから、サメの背ビレじみた垂直の斬撃波がいくつも周囲へ発射された。
無差別の広範囲攻撃だ。
「獪ちゃん危ない!」
「ぬおおっ!?」
獪岳はフランソワに庇われ、間一髪で斬撃波を回避する。
『ぬうっ……!』
百式はローラーダッシュをもってしても回避不可能と判断し、足を止めて防御した。
受けきれず、少しよろめく。
柱の大技、そのパワーは獪岳や善逸よりも上だ。
「Eighth Form:……!」
アンジェリカがその隙を見逃さず、必殺の一撃を振りかぶった、その時。
……どおん。
遠くで爆音が轟いた。
「What's?」
『何?』
「あらっ」
「何だ?」
戦闘は中断した。
一同は揃って、鳥居と石段の向こうに見える、刀鍛冶の里の中心街を見た。
……火柱が立ち昇っている。
どおん。どおん。どおん。
爆発は連続して起こり、そのたびに火柱が立ち昇る。
「ヒャクシキ、あなたあんな仕掛けまで」
『違う……私は知らない、こんなことは……』
アンジェリカがじろりと睨むが、百式は動揺しているようだった。
――カーン!カーン!カーン!
刀鍛冶の1人が火の見やぐらに登り、早鐘を打ち鳴らしているのが見える。
「敵襲!敵襲!鬼の襲撃だーっ!」
刀鍛冶は喉も裂けよとばかり、声を張り上げて叫んだ。
「数がメチャクチャ多い!みんな逃げろ、刀を持って逃げろーっ!」
「「「ヒャッハアーッ!」」」
たちまち周囲から数体の鬼が群がり、やぐらを登った。
「イキのいい人間だぜ!俺が食う!」
「いーや俺が食う!」
「早い者勝ちだぜ!キイヤーッ!」
「ぎゃあああーっ!」
刀鍛冶は無残に引き裂かれて死亡!
「キヒイーッ!肉肉ゥー!」
「ひいーっ!助けて!」
「血と髄をチュルチュルすすってやるぜェ!イヒヒーッ!」
「ウワーッ!」
他の場所からも鬼が人を襲っているような騒音が多数!
「バモオオオオオー」
身長20メートルはある鬼がのっそりと身をもたげて姿を現した。
牛のような唸り声を上げながらのし歩き、家々を踏み潰す。
「そんな!厳重に秘匿されたこの里が鬼の侵入を許したっていうの?」
獪岳の隣でフランソワがロン毛頭をかきむしった。
「烏の警戒網もあるのに、あれだけの数の鬼が接近してくるのを少しも察知できなかったっていうの!?」
「ヒャクシキ!あなたの相手は後でします。約束します」
アンジェリカが切羽詰まった表情で言う。
「今は私あっち行く、あなた良い子で待つ、いいのことですね!?」
「――いーや、お主はどこへも行かせんよ」
神社本殿の陰から、鬼が姿を現した。
若い山伏のような出で立ちの鬼だ。
その瞳には、「上弦」「肆」の文字が刻まれている。
(((じょ……上弦の鬼だと……!?)))
獪岳は心臓を鷲掴みにされたような衝撃にうめいた。
嫌な汗が噴き出すのを感じる。
今腰に帯びている日輪刀は、自前のものの修理が済むまで貸与されている仮のものだ。
上弦の鬼と戦うにはあまりに頼りない。
「儂は上弦の肆、可楽じゃ。そこの青い目の女、儂はお前に用があってな」
「私には無いです」
アンジェリカはもはや百式には構わず、可楽に向き直った。
「カラク。人間を何百人食べたか知りませんが、そのrecordも今夜で打ち止めです。永遠に」
「おお、威勢のいいこと。楽しいのう」
可楽はにやにやと笑い、
「しかし今回は遊んでもいられん。黒死牟殿の命じゃからのう。――おい、赤狐!」
「グルルルル……」
促すと、本殿の裏からもう1体鬼が現れた。
両目の漢字は「上弦」「伍」。
狐の頭を持つ異形の剣士のような姿。
体毛も、羽織も、燃え盛る炎のような赤色だ。
「バカな。お前は」
獪岳は目を見開いた。
すぐに気づいた。
気づいてしまったのだ。
上弦の伍、赤狐――
その外見が、色味を除けば、彼の知るある人物と似通っていることに。
心臓が早鐘を打ち、口がカラカラに乾く。
「お前は……滝沢……?」
「グルルルル……」
赤狐は牙を剥き、唸った。
ボタボタと垂れた涎が石畳に落ち、沸騰する。
「カイガク……カイガクゥゥゥ!ガアアアアッ!」
獣は知己の名を口にして、吠えた。
【続く】
◆大正わくわく鬼図鑑④:雁巣
名前の読みは「がんそう」。
一年中曇っている山村「垂雲村」を支配していた。
人間だった頃から何かしら弱者を食い物にする悪事を働いていたが、恨みを買って銃で撃たれ、ひどい後遺症の残るケガを負う。
半狂乱になり、鬼になるまでは何年も日々を無為に過ごしていた。
血鬼術「自在銃廠」で銃火器を作り出し、自分で使ったり手下の人間に使わせたりして戦う。
手下ががっちり陣形を組んでいれば柱にも少し抵抗できる程度の鬼。