獪岳の刃 〜鬼を斬るか腹を切るか〜   作:ボブ・ニンジャ

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第35話

 

 

「シイイイィーーッ……」

 

善逸は岩陰で仰向けに寝そべり、雷の呼吸を深めていた。

両脚の血管に意識を集中し、血流を加速。

脚に蓄積した熱と疲労物質を全身へ希釈していく。

善逸はフランソワ黒沼に担がれて戦場から退避して以来、ずっとこの自己回復を続けていた。

 

両脚を曲げ伸ばしする。

痛みや痺れは残るが、ひとまず最低限動くまでに回復した。

これで、もう一度だけ――

脚が壊れるまでにもう一度だけは、技を繰り出すことができるだろう。

 

(((戦況はどうなってる……?)))

 

ふらつきながら立ち上がり、岩陰から顔を出して周囲を見回す。

真っ先に目についたのは、無残に弾けたフランソワ黒沼の遺体だった。

 

「うっ……」

 

善逸は激しく動揺した。

しかし強いて平静を保ち、視線を巡らせる。

甘露寺と女の鬼が戦っているその奥に――獪岳はいた。

赤狐と睨み合っている。

 

「……!」

 

善逸は何か獪岳を励ますような言葉をかけようとしたが、喉元で止めた。

彼の気を逸らしてはまずい。

岩陰を伝って、戦場へ近づいていく。

 

 

 ◆

 

 

空は明るさを増し、山際やまばらな雲の輪郭が鮮明になりつつある。

夜明けが近いのだ。

しかし、視界の隅では甘露寺が刹火に追い詰められつつある。

 

(((日の出は待てない……!)))

 

獪岳は眼前、燃える刀を八相に構える赤狐を睨み……

きっかけを待たずに動いた。

獪岳の生涯においてもっとも長い1秒間が、始まった。

 

「シイイイィーーッ」

 

獪岳が吸い込んだのは、雷の呼吸だ。

最速の一撃の予備動作。

 

「ガルルァ……!」

 

0.2秒時点で、赤狐の姿がブレた。

燃える刀の火花が舞い散る。

ただでさえ俊敏だった滝沢の体さばきが、鬼になったことでさらに強化されている。

見てから対応するのでは到底間に合わない。

獪岳は先読みだけを頼りに、動いた。

 

「水の歪、漆ノ型――"濁涙一滴(だくるいいってき)"……!」

「雷の呼吸、漆ノ型――"水影一閃"ッ!」

 

燃える濁流と澄んだ稲妻が交錯した。

0.4秒時点ではすでに、獪岳と赤狐はすれ違い終えて、背中合わせで立っていた。

赤狐は燃える肉骨刀を突き出し、刺突を繰り出した姿勢だった。

 

(((――そうだよな。お前の方は、頸を斬らなくても勝てるんだから)))

 

獪岳は胸の内で独りごちる。

彼の胸板は浅く切り裂かれ、ブスブスと焼け焦げていたが、致命傷にはほど遠い。

 

(((土壇場で頼るのは、最速の"雫波紋突き"だ。――俺だってそう思う)))

 

0.6秒時点。

赤狐の右腕が、肩のところで千切れた。

赤狐の動きを読み切った獪岳が、回避しつつカウンターで繰り出した一撃によるものだった。

肉骨刀が地面に転がる。

 

「ガアッ……!?」

 

赤狐は右腕と武器を失い、よろめいた。

獪岳は振り返り、因縁の敵の背中の方へと一歩踏み出す。

 

(((終わらせる。次の一撃で、因縁を断ち切る!)))

 

その判断は慢心ではなかった。

しかし、焦りで濁ったものだった。

 

獪岳は右胸に殴られたような衝撃を感じた。

遅れて、乾いた破裂音が耳に入る。

銃声だった。

赤狐の赤い羽織、その右脇の部分に小さな穴が開き、硝煙が立ち上っている。

 

「……!」

 

0.8秒時点。

今度は獪岳が姿勢を崩す番だった。

膝をついた彼の胸の銃創から血がこぼれ出て、地面を汚す。

 

赤狐が振り向く。

左手に銀色のリボルバー拳銃を持っている。

隠し持っていた銃を脇に挟み込むようにして構え、真後ろにいる獪岳に向けて発射したのだ。

狡猾な騙し討ち。

明確な理性ある悪意の証左。

 

獪岳は立ち上がり、もう一度斬りかかろうとする。

それに先んじて、赤狐の銃撃が獪岳の右手首を撃ち抜いた。

日輪刀が彼の手からこぼれ落ちて、赤狐の足元に転がった。

 

1秒経過。

獪岳は重いダメージを負い、武器も失って膝を屈している。

赤狐は左手で拳銃を構えており、右腕も新たなものがメキメキと音を立てて生え始めている。

1秒間の戦いを制したのは、赤狐だった。

 

「人の忠告は聞くものだぞ、獪岳」

 

赤狐は喋った。

 

「お前はあの石段で引き返すべきだったんだよ」

 

そして、獪岳の刀の刃を横から踏みつけ、へし折った。

獪岳はうめいた。

 

「滝沢……テメエ、何故……」

「人間だったときはな、何も感じなかったよ。人を助けても、鬼を殺しても。与えられた生き方に上っ面で従ってただけなのさ」

「ぐわっ!」

 

3発目の銃弾が獪岳の左足に命中した。

 

「鬼になって人を食ったとき、俺は最高にスカッとした。生まれて初めて、自分自身の喜びを実感したんだ。ざまあみろってな」

「何だと……テメエ、そいつがお前に何を……」

「俺をのけ者にして幸せに生きてるじゃねえか!有罪だ!」

「ぐあっ!」

 

4発目、5発目が腹に命中する。

 

「最後だから教えてやるよ。人間だったころの俺は、顔の皮をほとんど引っぺがされたような一生モノの怪我をしててな」

 

赤狐は再生した右手で自分の顔を撫でた。

 

「それをやったのは、鬼じゃない。普通の人間、俺の両親なのさ」

「滝沢、テメエッ……!」

 

獪岳は傷ついた左足で踏ん張り、立ち上がって、何か反撃しようとした。

それに先んじて、赤狐の最後の弾丸が命中した。

獪岳の左胸、心臓の位置に。

 

「――」

 

獪岳は仰向けに倒れた。

微かに痙攣し始める。

全身の傷が開き、血が噴き出し始める。

 

「顔は傷つけずに綺麗に残しておいてやる。感謝しろよ」

 

赤狐は鼻を鳴らした。

 

「羅刹流、"龍腿蹴(りゅうたいしゅう)"!」

「うぎゃあっ!」

 

傍らでは、刹火が空中回し蹴りを放ち、甘露寺の顔面に命中させたところだった。

血と肉片が飛び散る。

 

「あーあー、あっちは女の子同士だってのに残虐試合だなあ。……まあ、任せるとするか」

 

赤狐はそれを捨て置き、遠く、山の斜面を見やった。

木々の隙間に、稲荷神社の焼け跡が覗いている。

 

(((時透アンジェリカを確保しなきゃならんが、歩いていくんじゃ夜明けまでに間に合わんな。少し無理をするか)))

 

赤狐は自分の中に残る血鬼術の力を振り絞り、練り上げる。

そして身震いするやいなや、その背中から左右へ炎が噴出した。

炎の翼だ。

それを確かめるように一度二度と羽ばたいたところで――

赤狐は、側方から接近してくる新たな敵に気づいた。

 

「お前っ!お前ええええっ!」

 

それは我妻善逸だった。

兄弟子の死に怒り狂っているらしく、目を血走らせて駆け寄ってくる。

またも居合を繰り出そうとする構え。

 

「死にぞこないめ。お前のできることはとっくにタネが割れてる」

 

赤狐は足元に落ちていた肉骨刀を拾い上げ、水の歪の構えをとった。

迎撃に不安はない。

善逸が居合斬りしかできないことは今までの戦いの中で把握している。

どれほど速かろうと、正面から突っ込んでくるとわかっていれば対応できる。

 

その判断は慢心ではなかった。

しかし、善逸だけを相手にすればいいという前提が誤りだった。

 

「がっ……!?」

 

赤狐は、脇腹に何かが突き刺さるのを感じた。

クナイ手裏剣だった。

 

「結構当たるもんだな、手裏剣ってのも」

 

死人の声が聞こえた。

赤狐は思わず振り返った。

血みどろの獪岳が、こちらを見て、右手を振りぬいた姿勢だった。

 

何故生きている。

心臓を撃ち抜いたのに。

赤狐はその思考を打ち切り、注意を善逸へ戻した。

善逸は地面を踏みしめ、今まさに居合斬りを繰り出そうとしているところだった。

 

赤狐はとっさに回避しようとした。

その動きを、クナイに塗られていた麻痺毒が阻害した。

 

「雷の呼吸、漆ノ型――"火雷神"!」

 

善逸は駆け抜けた。

繰り出した一撃は、今夜蓄積した疲労と負傷の影響を微塵も感じさせないほどに、鋭く研ぎ澄まされた一撃だった。

 

赤狐の炎の翼が消えた。

よろめき、膝をつく。

その肩の上から、狐じみた生首がごろりと転げ落ちた。

 

 

 ◆

 

 

滝沢鯉竜は不運な少年だった。

両親がともに、彼に激しい虐待を加える異常者だったからだ。

しかし多少は幸運でもあった。

幼いころから、そうした虐待を面倒とだけ感じて受け流せる性分だったからだ。

 

両親の虐待はエスカレートし、ついに鯉竜は顔面の広範囲に及ぶ大けがを負った。

その時、流れた彼の血の臭いを嗅ぎつけたものか――

家に鬼が乱入してきた。

 

「誰だテメエ、人さまの家に勝手にズカズカと!」

 

そう言って突っかかっていった父親が、まず殺された。

酒と煙草で濁った臭いのする血が飛び散った。

母親がパニックに陥った一方、鯉竜は顔の激痛をこらえながら冷静に行動した。

裏口から家を出て、太いつっかえ棒をかけて扉を封鎖したのだ。

中に母親を残したまま。

 

「開けなさい、鯉竜!親に対してよくもこんな!」

 

母親の言葉を無視して、鯉竜は逃げた。

悲しいとも痛快とも思わなかった。

ただ、「もう少しマシな結末にならなかったものか」と、残念に思った。

冷めた性分の彼も、きっと心のどこかで普通の家族に憧れていた。

 

鬼は追ってこなかった。

鯉竜は貧しい孤児としてしばらく路上で生活した。

天狗の面を付けたおかしな男が訪ねてきたのは、1ヶ月後のことだ。

鯉竜の遠縁の親戚だという。

 

「立ち入ったことを聞くが。……その傷は、鬼にやられたのか」

 

鱗滝と名乗ったその男は、鯉竜の顔の傷を指して尋ねた。

心痛を感じているような臭いがした。

……どうやら父や母よりは真っ当な人間のようだ。

あえて重苦しい事情を聞かせて、これ以上不安がらせることもないだろう。

鯉竜は持ち前の冷静さでそう判断した。

 

「ええ、そうです」

 

鯉竜の嘘はここから始まった。

彼は鬼殺隊の剣士となってからもずっと、その嘘をつき続けていた。

きっとそれは、自らの心の闇をも胸の奥底に封じ込め、熟成させることになったのだろう。

 

 

 ◆

 

 

「ちょっと、嘘でしょ……!冗談じゃないんだけど……!」

 

刹火は後ずさった。

時間が無い。

 

「ゼエーッ、ハアーッ……向こうは片付いたぞ。俺もこっちに混ぜてもらおうか」

 

全身血みどろの獪岳が、善逸の刀を手ににじり寄ってくる。

 

「ゲホッ、ゴホッ!私だって、ゴボッ、まだやれるもん……!」

 

顔の左半分が吹き飛んだ甘露寺も、残った右目に戦意をみなぎらせ、気丈にリボン状の日輪刀を構える。

倒しきるまでには明らかにまだ時間がかかる。

そして頭上では、いよいよ夜明けが近づく空。

とにかく時間が無い。

下手に焦った攻めをすると返り討ちに遭う危険もある。

 

「……ああーっ!やめた!もうやめたーっ!」

 

刹火はまたも戦闘を放棄した。

 

「あんたたち殺す!あたしが後で絶対殺すから、覚えてろ!くそっ!くそーっ!」

 

捨て台詞を残して、暗い森の中へ逃げていく。

その背中が見えなくなると、真っ先に甘露寺が限界に達した。

 

「うわあああん!痛い!痛いよお!私の顔があ!いつか旦那様に愛してもらうための私の顔がー!」

 

顔の傷を抑えてのたうち回る。

 

「うぎゃああああ!痛い痛い痛い!俺の脚!俺の脚がああああ!」

 

少し離れたところでは、善逸ものたうち回っている。

火雷神を2回使った反動で脚が折れたのだろう。

 

「チッ、刹火の間抜けめ。あのバカ殿にどう思われるかわからんのか」

 

赤狐の生首がつぶやいた。

獪岳は刀の鞘を杖代わりにしながら、そちらへ近づく。

生首は灰のように崩れていきつつある。

赤狐こと滝沢鯉竜は、死ぬのだ。

 

「滝沢。何故嘘をついた」

「どの嘘のことだ?」

「理性のないフリをしていやがっただろう」

「別に嘘じゃない。鬼の本能に任せていただけだ。喋るのも考えるのも面倒だったからな」

「俺を石段で引き返させようとしたのも本能か」

「単にお前たちを言いくるめて門前払いにしようとしただけだ」

「フン、そうか」

「何が言いたい?俺が実は後ろめたく思っていたんだろう、とでも言いたいのか?」

「俺ならともかく、お前が鬼になったとたん割り切った外道になるなんざどうも納得できねえな」

「ずいぶん買ってくれているじゃないか」

「俺にはそういう機微はわからんが、竈門のやつはお前をずいぶん慕っていたぞ。フランソワ黒沼も惜しんでいた」

「適当なことを」

 

赤狐は吐き捨てるように言った。

 

「俺が今の鬼殺隊にどう思われているかなんて察しが付く。『童磨に負けて死んだ役立たずの無能』だ。そうだろう」

「……本当にそうだったら、俺の扱いももう少しマシだっただろうがな」

「何?」

「あいにく、役立たずの無能扱いされたのは俺の方だ。お前は味方に見捨てられた悲劇の若き天才扱いさ」

「ああ?……ハハッ!ハッハッハ!そりゃあ傑作だ」

 

赤狐は乾いた笑い声を上げた後、ぼそりと呟いた。

 

「捨て鉢になりすぎたか。どうも昔からやることなすことうまくいかん」

「お前のヤケクソに巻き込まれて死ぬやつの身にもなれよ」

「俺からも一つ聞かせろよ。……心臓を撃ったはずだぞ。何故生きてる?」

「これだ」

 

獪岳は懐から何か取り出した。

それは拳大の、狐の金属像――"守り狐"だった。

銃弾がめり込み、しかし貫通せずに止まっている。

 

「お前の師範が、お前への贈り物として用意してたそうだ」

「まったく、あの人は……」

 

滝沢は脱力して、異形の狐顔ながら、真顔になったようだった。

獪岳は彼の冷めた本性を初めて見たように思った。

 

「……童磨は粉みたいに細かい氷をばら撒く。吸うと肺を痛めるから気を付けろ。俺もそれでやられた」

「なんだ、今更情報提供か」

「鱗滝さんの手柄ってことにしといてくれ。あの人が俺のことで腹を切――」

 

滝沢が最後の遺言を残そうとした、その時。

 

(((おいおい、何勝手に満足して死のうとしてるんだよ?)))

 

滝沢の体の内側から、第三者の声が響いた。

獪岳は全身の血が凍りつくような戦慄を覚えた。

その声は、1年越しだが聞き間違えようはずもない――童磨の声だった。

 

「がっ……!?ガァァァ!?」

 

滝沢の生首と首無しの死体が猛然と燃え上がった。

鬼の生命力が外部から過剰に供給され、血鬼術としてオーバーフローしたさまだった。

滝沢の遺志を宿した生首はたちまちのうちに炭化して消えた。

 

(((死ぬなら最低限の仕事くらいやってからにしろよな!)))

 

童磨の声とともに、首無しの死体が立ち上がった。

絶えず燃え上がり、全身を崩壊させながら、それ以上の速度で肉体を再生させていく。

 

「ガ……ガァ……ガァガガガ」

 

ついには、頸から上までもが再生した。

いびつに歪み、ひしゃげた狐の頭。

その表情にはもはや理性など欠片も無い。

 

「ガガガガガ」

 

赤狐の全身からあふれる炎はやがて背中へ収束し、炎の翼を編み上げた。

獪岳は走り出した。

左足の銃創が激しく痛む中、それは今夜最後の疾走だった。

 

 

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