とある街、とある路地裏。誰かが吐き捨てたままのゲロと、貰い手のない落書き共の集う底。違法改造の建築物だの、剝き出しの配線だの、とても青空に顔向けできないヤミ市だの。身綺麗さばかりを気にする連中が毛嫌いするようなドブには、それでも多くの人々が、互いを睨みながら生きてきた。時折やってくる御回りが紛れ込んじゃあいないか、誰かが誰かを売ろうとしていないか? 互いに信じ、互いに不信し、つかず、離れず、食って食われの掃き溜めには、けれどそんな日常をブッ飛ばす、究極の娯楽が存在する。
喉が焼けるようなキツい酒? どこ触っても気持ちの良い、最高にカスタマイズされたミュータントの娼婦? いやいや、そんなもんじゃない。もちろんそれも捨てがたいが、もっともっとヨくなれるヤツ。
それに繋がる扉こそが、ここにはある。今は静かなネオン管。それが描くは“Killer Tune”。ジュークボックス状のドアはまだ沈黙しているが、その扉をトントンと、小さく叩く、若い男がひとり。カランと開いて見上げる華奢な少女は、男に差し出された手紙を開き、「フゥン」、と。次に冷たい瞳を男に向け、けれどすぐに「入って」と、男を招き入れた。
少女、名をレコと云う。巨大な円盤状に結い上げたアシンメトリーの髪には、黒と白と黄色が混ざり、その身を包む服装には、この店で共に働くロボティクスの気配を十全に織り交ぜていた。バルーンスリーブのクールなクリームカラーに、仕込まれたアンプがちらりと覗く。
さて、少女は男を連れて、地下フロアへと繋がる通路をかつかつと降りていく。その間に何かを話すわけでもなく。少女はちらり、隣の男を見上げた。開店前はほとんど消灯されていて暗く、身長の差もあって顔ははっきりとは見えないが、体格はよい。マッチョではないけれど、ぱっと見でも背が高く、恵まれた体躯をしている。少女は思索を巡らせた。ここら界隈で見覚えのある男ではない。けれど男は、ここら界隈らしいパンキッシュながらも、独特なルーズスタイルでびしっと決めている。しかしやはり身綺麗で、恐らくはスラムの外からやってきたのだろう、と。普通こういうところに、しかも初出勤ともなれば、オドオドするのがほとんどだろうに、その男は随分と自信ありげに、背筋をピンと伸ばしている。
「ここ」。少女が重い扉を開けば、そこには巨大な円形のステージが佇み、DJブースがその上へ鎮座している。その守護神の如き巨大なロボットは、今は点検中であり、その中身の極太ケーブルを存分に垂れ下げていた。男がちらりと目で追えば、舞台をぐるっと囲む客席部分には随分とごみが散乱している。飲み食いのものだの、汚物だの。「仕事、分かってんだよね。掃除用具は裏のロッカー。分かんないことあったら、ミクスに聞いて。クリップは基本不機嫌だし。じゃ、あとはよろしく。バイト君」、と。少女は手をひらりと振っては、背を向けて歩き始めた。
男は何も言わず、自らに割り当てられた仕事にかかる。持参したエプロンを首からかけ、後ろで結び、ロッカーからモップと箒とごみ袋を取り出しては、客席の清掃へと取り掛かる。まずは異臭を放つ隠された汚物を片付けて消毒し、大きなゴミを袋に纏め、大きなものがなくなったとみれば、機材類を濡らさぬよう細心の注意を払いながら、薄めた洗剤でフロアを拭きとっていく。黙々と働く男の様子を、3人の少女は自分たちの仕事を進めながらも、ジィッと眺めていた。
あの男は、この店の主たるロボットが短期のバイトにと雇い入れたものだ。少女たちが誰1人として清掃作業をやりたがらないせいで、店の汚さは天元を突破していた。こんな路地裏にある店なのだから放っておけばいい、少女たちはそう主張したものの、我慢ならなかったロボットによって、外部の人間が昼間にうろつくこととなってしまった。それ自体は少女たちの望むところではなかった。なかったのだが。
「ホラ、見てみろ!」手際よく、みるみるうちに綺麗になっていく客席と、それを自慢げに指さすロボットを見て、少女たちはとうとう、黙り込むしかなかった。「だって、キッタネェし」。「んねー、触りたくなんてないじゃん?」。開き直るふたりの少女は、それぞれ機材の整備作業と、昨日のプレイのリミックスをいじりながら、そんな文句ばかりを返した。「オレからすリャ、キッタネェまんま放っとくオメェらもドーカしてんゼ」。そんな反論に、ふたりの少女はぷいと、そっぽを向いた。
「ね。なんであの人を雇ったの?」。男を迎えに入った少女は、ロボットに尋ねた。ロボットは細い鉄棒をチッチッチと振り、分厚いモニターの表情をしたり顔に変えた。「掃除が得意、整備も得意、さらには音楽の知識までアル。ここらのアホどもジャァ何ひとつわかりゃしねェような、オレ達の“コダワリ”を理解しやがったんだナ、アイツ。違いの分かるオトコってやつ? ダカラ、採用ォ!」、と。
少女はしばらく、男を眺める。男はまだ清掃しているだけだ。けれど、店主が言うのであれば、少しだけは、話をしてみてもいいかもしれない。少女はにわかに、そんな思いが湧き出ていた。
日の差し込まぬジュークジョイント、けれど薄ぼんやりとした照明が手すりを拭く男を照らせば、あぁようやく、顔が見えた。どこまでも余裕があって、どこか柔和な雰囲気を纏う男は、けれどあまりに目が細すぎて、表情が読めない。糸目、というものなのだろう。ふ、と。こちらに顔が向く。わずかに微笑み、また仕事に戻る。
「ねぇ~、レコ。サンプリングしてきてよ~。ホラ、掃除終わりそうじゃん? イカした音、頼むよ!」、なんて。旧式のマイクとレコーダー…それも、かなり大型のものを指さして、少女ミクスはニヤニヤしている。なにをニヤニヤしてるのやら。
ハァ、と。ため息ひとつ。清掃の区切りがついた男に、少女は声をかけた。