相変わらず汚らしい路地裏に、大きな機材を持ったバイトの男と、その先を行く少女レコ、ふたりきり。安いクスリに溺れたドーパミン中毒者が這うスラムには、ゴミのような食べかけひとつの所有権を奪い合う、苛烈な争いがちらほらと。「あんなの食べたって仕方がないのに」。少女は嫌悪を吐き捨てる。けれど、男は何も言わなかった。
男と少女は諍いに巻き込まれぬよう道を選び、歩き続ける。男の背負う録音機材一式は、少女たちがキャッチオールスペースから掘り出したものであった。おそらく、スラムの外の…テレビ局かなんかがポイ捨てしたのだろう業務用のそれは、中の配線が一本切れていただけで、それさえ直せば全くが新品同然であった。そんな高級品を拾えたのは僥倖。しかし、問題がひとつ。少女たちには重すぎたのだ。3人で運んで持ち帰ったはいい。だが自分の体ほどもある巨大な機材を誰が持ち運ぶのか? 少女たちは巨大な文鎮を互いに押し付けあった。そんな押し付け戦争の終着点、それこそが、バイトの男の背中であった。
男は若く、けれど幼いわけではない。腕から覗く筋肉は、しなやかながらもがっしりとついていて、少女たちがあれだけふらついていた足取りもしっかりしている。機材に接続されたヘッドホンは首からかけ、ガンマイクは手に持ったまま。こんな大荷物、進んで持ってくれるとは思っていなかったけれどと、少女が見上げれば、やはりその顔はいつでもにっこり微笑んでいて、変わらず余裕綽々。しっくりくる置き場所に満足していれば、ふと、どこかから奇妙な、甲高いリズムが聞こえてきた。コォーン、コォーン…何かが、空洞のある鉄を打ちつけているような。
「あちらかな」。少女があたりを見回している間に、男がふらり、足を向ける。ガンマイクで指示した先には、干されたベルトが風に吹かれては、ゆらり、ゆらり。ぶら下がったバックルが、鉄塔にあたって、コォーン、コォーン…と。男はすぐに、後ろ手で録音開始ボタンを押す。黙って、静かに、じいっと。少女もまた物音をたてぬように。事前の指示通り、出来る限りの長尺で。そうしていると、ひときわ強いビル風が、ビュウ! と吹いては、ベルトを落とした。
カツン、と。ビルの隙間を縫うぬるい風が、静かになる。そのまま、少しばかりのホワイトノイズの採取を終え、男は録音を切った。「こんなものか」、と。どうにもしとやかで優雅な男の所作に、少女は胸にざわめきを覚えた。こんな男がどうしてこんなところで、あの店にバイトしに来ているのやら。すると、男は少女の顔を覗き込んだ。「どうか、しましたか?」、と。背の高い男だ。相変わらず、目は伺えないし。少女はつい、視線を逸らした。「別に」、と。
「…次、ミクスがインダストリアルやりたいみたいだから。工業地帯とか、工事現場とか」、と少女が提案すれば、男は微笑んで頷いた。「えぇ。それでは、こちらへ」、と。
歩く間、少女はふと、質問を投げかけた。「そのマイクの指向性と距離、わかってんだ?」。男は答える。「えぇ、使ったことがありますから。慣れてはいないので、音に問題が無ければよいのですが」、と。次には、「なんでこんなところに来たの?」。男は答える。「あなた方の音を、もっとよく聞きたくなったのです」。「…そりゃ光栄だけど。まさか同業者?」。「ははは、ただの音楽好きですよ。このような危険地帯に来るくらいにはね」。
…どうにも、煙に巻かれているような。雲を掴むかのような。けれど、ここらの奴らが言うような嘘は一言も言っていない。多分、言葉は全部本当。不意に見下ろすその視線が、微笑むばかりの表情が、読めないせいだろうか。距離が近いのか、遠いのか。いや、距離は置いている。指示も聞いている。こっちのものを、積極的にいじろうともしていない。なのに、どうにも釈然としないのは、店主が話を強引に進めただけじゃないはずだ。少女は男に背を見せながらも、けれど5歩先を歩き続ける。
それからも、ふたりは工業地帯をめぐりながら、サンプリングを続けた。プレス機やクレーンといった重機の生み出す重厚な音、放映なんてできっこない喧嘩や罵倒に、危険極まりない漏電の、パチリと爆ぜるエネルギーの音。すっかりとっぷり日が傾いては、放棄されたビル群の隙間にはもはや、暗闇ばかり。「そろそろ戻んないと」。少女の提案に、男は大人しく従った。「んで、戻ったらメイカー…あー、うちのオーナーね。アイツから給料もらって。そしたら今日は、帰っていいから」。