年が明けて1554年、天文23年……俺も数え年で13歳。
去年は京や信濃で色々なことが起こっており、遅れながらその情報を耳にした。
まず京では三好長慶が第十三代将軍足利義輝(この頃はまだ義藤)を京から追放するという事件が起こっていた。
そもそも京がどうなっているか少し解説しよう。
約50年前、応仁の乱の傷跡が癒えていない京では明応の政変と言う第十代将軍足利義稙が幕臣達によって将軍の座から引き下ろされると言う事件が発生し、この頃から戦国時代が本格化していく。
この政変の黒幕にいたのが細川家という応仁の乱でも東軍の総大将をしていた細川勝元の親族で四国に政治基盤を持つ家柄であった。
本流の細川勝元の子息は断絶したものの、京極細川家という分家があり、この家が明応の政変以後足利将軍を傀儡にし、管領職を独占。
副将軍や半将軍と呼ばれ細川の時代を作ったのである。
時代は進み、今度は細川家が家督相続の関係で分裂し、それぞれが足利将軍一族を神輿として担ぎ上げて将軍にしようとしたので近畿周辺大名は大混乱に陥る。
一応応仁の乱唯一の勝者と言われた九州と中国地方に5カ国の領地を持っている大内家が上洛することで一旦落ち着きを見せるが、大内家が中国地方に帰ると、争いは再燃、それが20年近く続いたのである。
そして細川晴元という化け物を生み出すに至る。
この人物も管領になるのであるが、京周辺を文字通り火の海にし、本願寺や比叡山延暦寺などの寺社勢力を敵勢力にぶつけた上で、双方弱体化したところを別勢力に襲わせる、そして自身の家臣も力を付けてきたら容赦なく粛清するという織田信長から家臣愛や家族愛を抜き取り、冷酷さと残虐性、そして謀略の才能を増し増しにした戦国一のモンスターが彼であった。
あまりの暴君っぷりに立ち上がったのが細川晴元の家臣の三好長慶であり、彼は細川晴元を京から追放し、幕府の代わりに政務を行ったのである。
ただ化け物の細川晴元は京から逃げる際に将軍を連れて逃げた為に京が将軍不在となってしまい、足利幕府の権威はズタボロに。
これではまずいと足利将軍を匿っていた六角家がクーデターを起こして三好長慶と和睦。
そのまま足利将軍と三好長慶を和睦させて京に返り咲いたのが足利義藤……後の足利義輝である。
数年間はギスギスしながらも三好長慶が権力を掌握しつつ、若年の足利義輝を支えたのであるが、反三好勢力が活気づくと足利義輝は反三好勢力と結びついて三好を攻撃し始めてしまい、お仕置きとして足利義輝を京から追放したというのがこれまでの流れである。
俺への直接的な影響はないのであるが、今川義元様には多いに影響があり、足利義輝公が上洛して三好を倒せと書状が送りつけられていたのである。
まだ織田との休戦期間は過ぎてないため、尾張を抜けて上洛することもできないし、信濃から美濃を抜けては難所が多すぎて難しい。
結果今川義元様がどうしたかというと、幕命をガン無視。
幕府からの心象は悪くなるが、今川は公家や貴族達を保護している関係で、朝廷へのパイプがあるため、朝廷への献金を多くして幕府よりも朝廷工作の方に切り替えていった。
三好長慶にも今川義元様は争うつもりは無いという意思表示を行い、京関連の事象に対処していった。
次に、信濃方面では有名な川中島の戦いが始まった。
昨年に行われた戦いが第一回であるが、ここから第五回まで戦いが続いていくことになり、武田は今川との同盟を切りたくても切れない状態となった。
これで甲相駿の三国の利害が一致し、年明け早々に三国同盟が締結。
これで今川は外を気にする必要がなくなったのである。
ガチャを回していると面白い作物を引き当てた。
俺も現代で品種改良の末に作られたことはネットで耳にしていたが、実物を見るのは初めてである。
【イネコムギ No.1】
〈育てやすさSS〉
〈病気の強さSSS〉
〈収穫量SS〉
〈味 基本は小麦であるが、米の様なほのかな甘さがある〉
〈米と小麦の交雑種。米の様に水田で育てることも可能ながら、畑で育てても十二分の収穫量を見込める。背丈も低く、風で倒れる心配も少ない〉
稲と小麦……どちらもイネ科の植物で、2020年代に交配に成功した新種で、小麦としては収量が多く、そして病気にめちゃくちゃ強いという性質を持ってると紹介されていたが……ガチャで出るとは……。
多月に渡して種籾を増やしてもらうが、収量が増えて酒や粉にしてから加工した時に味が違ってくれば、より米の味に近くなるので、日本人の口に合うかもしれない。
そうなれば、いまいちとしか言いようがないパンの普及が上がるかもしれないと期待する。
とにかく今は内政タイム。
少しでも国力を上げて、人口を増やしていくしかないのである。
ちなみに俺がガチャで当たった作物は現在多月にほぼ丸投げしてしまっている。
俺も政務で忙しくなり、とてもでは無いが畑仕事に性を出している時間が無い。
農業の女神である多月に任せれば今まで失敗して枯らされたことも無いし、引き続き作物が増えるように頑張ってもらおう。
そんな多月から今年は椎茸の栽培に挑戦してみると報告があった。
椎茸……日本食に欠かせない食材であるが、一般に流通するようになったのは1900年以降、それ以前は高級食材として売られており、大陸の中華でも需要が凄まじくあった食材だ。
歴史的記述として遣隋使として大陸に渡った者が、大陸の僧から椎茸を持ってきてはいないかと聞かれたなんて逸話が残っている。
この戦国の世でも椎茸の値段は1籠で城が建つと言われ、1籠……まぁ1俵30キロ計算とすると、岡崎城を築城した時の費用が25万石と記述されていたので、それには及ばないにしろ、1俵で1万石……5000貫で現代換算だと6億円には確実になる。
椎茸がそんな高値がつくのかと現代に生きる人達からは思うかもしれないが、人工栽培ができない茸というのは高級品になるというのは松茸で知っているだろう。
まぁその松茸は戦国時代だとそこらに普通に生えている日常的に食べられる茸なのであるが……。
なので秋になると松茸を市で買ってきてもらって、松茸ご飯で食べるという贅沢をしていたが……。
多月は完熟したホダ木から得られた木片を原木に埋め込む方法や胞子の粉末を水に混ぜ込みホダ汁として使用する方法を知識としては知っていたが、椎茸の現物を得ることができていなかったので、胞子を得ることができず、俺が今年に入って、ガチャで、椎茸のボダ汁1リットルを引き当てたことで栽培することが可能となった。
「今年の春に準備したら秋に収穫できると思うやけど、良くても3俵採れればいいほうやないかな」
「それだけ収穫できれば十分ですよ。あまり市場に流しすぎても値崩れを起こしますのでね」
「市場については私はわからん。元信はんに任せるよ」
三河で椎茸栽培が始まった瞬間だった。