若干放置気味になっていたが、赤兎馬ことアハルテケ種の馬が日本の在来種の馬と大繁殖していた。
かれこれ赤兎馬を召喚して4年目、最初のうちは三河の家臣達の馬を中心に種付けさせていたが、専用の繁殖牝馬を集めた牧場を作り、数を増やしていた。
あとは今川家と合体したことで、今川家臣達からも種付け依頼が大量に来て、その馬達にも繁殖させたことで、1年で250頭近く赤兎馬は種付けをすると言うハードスケジュールをこなしていた。
元々アハルテケ種は暑さ、寒さの両方に強く、粗食にも耐え、それでいて優れたスタミナと速度、パワーを高水準で纏められた品種である。
ただ遺伝子的にサラブレッド系の品種と掛け合わせると虚弱になるという性質があるため、頑丈が売りの日本在来種と掛け合わせると、赤兎馬のコピーもしくは劣化コピーが生まれてきたのである。
赤兎馬の最初の子供達が3歳を迎えたことで、赤兎馬の子供達も繁殖入りし、牡馬、牝馬問わず赤兎馬の血がばら撒かれた。
お陰で今川軍の軍馬の質はうなぎ登りであり、それに伴って軍馬として馬術を研究する者……松平時代に流民を取り込んで馬の生産や馬術向上を探求させていた元流民達がしっかり成果を出し始め、それが更に騎馬の質を向上させる循環が始まっていた。
「義経、軍馬の質はどうだ?」
「主殿の赤兎馬には及ばないものの、義経の大夫黒と勝るとも劣らない馬がポツポツと現れているので」
「義経の愛馬である大夫黒に比べられる馬が多いのは良い傾向だな」
義経が太鼓判を押すように、質の良い軍馬が増えており、その馬達を育てる広い牧場を奥三河や駿河の畑にできないような山々を切り開いて牧場を増やしていた。
現在飼育されている馬の数は150頭ほど、まだ数は少ないが、将来的には数千頭を飼育して常備軍内に騎兵隊を作り、専用の部隊を編成したいと思っていた。
ここで戦国時代の騎兵の事について説明を入れようと思う。
まず戦国時代の騎兵の意味は西日本と東日本で意味が違う。
西日本の騎兵は主に馬で移動することに重きをおいており、戦になると馬から降りて戦うというのが西国の戦い方で、とある東国の武将が西国の武将は騎馬での戦い方を知らぬと馬鹿にしたという逸話が残っていたりする。
というのもこの頃の馬には蹄鉄が無く、代わりに馬沓(うまぐつ)と呼ばれる主に藁で作られた蹄を守る履物を馬に付けていたのだが、蹄鉄に比べて消耗が激しく、合戦になると何個も持っていかなければならなかったりする。
今川軍でも蹄鉄の研究はしているが、蹄鉄を取り付けたりする蹄鉄技師の育成が完了しておらず、実用化に至っていないため、馬沓を今川軍でも使っていた。
では東国の大名達はどうなのかと言うと、ヨーロッパの騎馬隊やモンゴル騎兵の様な大軍での騎馬突撃は山の多い地形故に行われてなかったが、数十人単位での騎馬突撃は行われていた。
というのも、東国は馬産地が多く、質の良い軍馬を入手しやすかったことや、鎌倉時代から東国にて武芸を磨く事を長年やってきたので馬術の技術的な蓄積があったこと、そして騎馬突撃が合戦の勝利を決定づけるものと認識されていた為、東国では現代人がイメージするような騎馬突撃があったのである。
1つ合戦の例を話そう。
合戦はまず弓合戦から始まり、投石、槍合わせ、乱戦へと移行していく。
自分達が劣勢の場合騎馬に乗っていた将や兵も降りて戦うが、優勢の場合、勝負を決定づける為に騎馬突撃が行われて、逃げる兵を追いかけ、敵将を討ち取っていく……というのが普通の合戦の流れである。
あと防御側、攻撃側、地形の差などで騎馬突撃をするかしないかを決めていくのである。
ここで有名な武田騎馬隊の話になるが、武田は他の大名家より騎兵の割合が多いのは事実で、通常騎馬武士の周りには小姓や旗持ち、槍持ちなどの歩兵が5から6人追随しているのであるが、武田は身分の低い者でも騎兵となれるように1人騎馬(騎馬武士1人に対して荷物持ちが1人しか付けない)とかそもそも随伴歩兵を一切付けない足軽組頭程度の身分の騎馬武士を組織して纏めてみた運用することで他家に無い突破力を生み出していたのである。
これが武田騎馬隊の強さの秘訣であると同時に、武田といえば騎馬隊とイメージ付けられた事なのである。
まぁあと武田が強いのは先進的な軍事編成や徴兵に関する法律を決めた甲州法度次第という分国法があったり、優秀な者を引き上げる武田信玄の目利きの良さなんかもあったりする。
とにかく、東国では騎乗戦闘は普通に行われていた。
なので、今川軍では、今川仮名目録の改訂により、新規の家臣雇用の緩和を行ったので、常備軍に先駆けて旗本騎馬隊を創設した。
この部隊は今川家臣の子息及び、騎乗技術を持つ浪人を騎馬学校という三河に建てた軍事学校に通わせて、騎乗技術と軍略、兵法を学び、優秀な下士官、士官に育てることを目的とした学校を創設した。
学校の教官には鞍馬とその弟子達に運営してもらい、岡崎学舎と駿河学舎からは独立させた士官学校に将来昇格させる学校である。
これで将来騎兵が育ち、他を蹂躙できる騎馬隊が編成できれば儲けもの、ダメでも士官教育を受けた者から部隊を任せられる人材が生まれれば良いと思うのであった。
経済的に豊かになった農民が増えたことで、鉄製の農具の需要が増え、それに伴って鉄そのものの需要も増えていた。
急増する鉄需要を支えるために、砂鉄が多く取れる川、もしくは鉄鉱山の探索が今川義元様の存命時代より行われていたが、そのかいあり、2つの鉱山が発見された。
1つは主に銅と鉄、副産物として金と銀を産出する峰之沢鉱山で、遠江の天竜川上流にある山々が鉱脈となっていた。
もう一つは大岳鉱山。
駿府から見て北にある甲斐国よりやや南にある玉川村という村の山から大量の鉄鉱石が産出することが判明したのである。
直ぐにその場所に金屋子とイッポンダタラを派遣すると、鉄の採掘は大岳鉱山の方が産出量が多く、大量の鉄を作るのであるならこっちに注力し、銅を主目的にするなら峰之沢鉱山であると言われた。
現状注力できるとするなら鉄の生産を行う方だと俺は思い、今川領内の各採掘衆から人員を出させて、流民も動員。
近くに砦を建設すると共に、たたら製鉄を行う製鉄所を建設し、鉄の生産体制強化を目論むのであった。
勿論国境を接している武田や北条にもこの情報が流れたが、金や銀では無く鉄の採掘ということで注目度は低く、今川を裏切った奥山氏の領地と近いことがあり、小競り合いが度々起こったが、今川の鉄供給の生命線と見なして、兵を1500名駐屯させ、内藤正成、蜂屋貞次といった鞍馬の弟子達を配置。
奥山氏の攻撃を撃退し、手痛い損害を与え続けたのだった。
奥山氏は武田に泣きついたが、内乱と上杉の戦いのダブルパンチでそれどころではなく放置され、数度の小競り合いの末に沈静化。
今川と武田の戦いが激化するまで大量の鉄が供給されることになるのだった。