はい、皆さんお待ちかね国力チェックの時間です!
数年間冷害や農業の成熟、インフラ整備などでちょっとずつしか上がってなかったけれど、色々やってきた成果を含めて発表します!
せーの、どん!
農業180万石
(三河73万石、遠江64万石、駿河43万石)
商業42万石
工業35万石
貿易30万石
合計287万石
農業の伸びが悪いのは冷害により米の収穫量が落ち込んだり、冷害に強い作物に転作したためであり、前回から個人当たりの収量は若干落ち込んだ。
じゃあ10万石増えてるのはなんでじゃ! とお怒りかもしれませんが、これは流民に新しい土地や荒地を開墾させたり、細々とした川の治水工事や海岸沿いの埋め立てによって新田を作り出したことによる増収である。
あとは天候が安定すれば収量が上がるし、ようやく鶏を食すことへの抵抗が薄れてきて、養鶏の必要性を理解できた領民が増えてきたこと、豊かになった領民達が労働力のために牛や馬を購入し、そこから肥料を作るようになった為、鶏糞や牛糞、馬糞由来の肥料が作られるようになったのである。
更に輪作の普及と輪作の時に緑肥の材料となる作物を育てるため、肥料の品質も上がってきており、全てがうまく噛み合えば3国の農業だけで200万石も夢ではない。
商業の規模拡大は港が完成したことによる商業地の増加で、港の周りを中心に商業都市が発展。
更に浜松城下の商業地を整備し、城下町を拡大させたことにより、商人の流入が増加。
楽市令の地域拡大も合わさって領内での商業規模が拡大していた。
その商業取引が増加したことで加工品の製造も好調。
玉川村の鉱山の採掘に火薬を使った爆発採掘が行われ始めたことで産出量が増加、これに合わせて製鉄所の規模拡大したことにより鉄の供給量が増加したことも工業が発展したことに繋がっていた。
あと生糸と木綿の生産が軌道に乗り、年を増すごとに生産量が上がっていってるため、紡績工場が各地に作られ、軽工業が発達。
ここで作られた糸や布類が貿易の金額を押し上げていた。
あと今年は検地を行い、人口の確認も行った。
知多半島が9万人、三河が前回約10万人だったのが、現在は18万人に増加、遠江が21万人、駿河が13万人という結果が出た。
各国流民や出生人数の増加、食料と衣類が行き渡ったことで幼児の死亡率も下がったため、人口爆発状態となり、流民を除いた出生のみでの増加率を三河で計算したところ7%にもなった。
これを人口が倍になるのにどれくらいかかるかを示す72の法則を適応すると、72を増加率の7%で割ると10.28……という数値が出てくる。
この数字は出生率のみで人口が倍になる年数を示しており、この計算から10年と少しで人口が倍になると示されていた。
ただ、それは三河が豊かになる前の数年の準備期間も合わせた数値であり、直近3年での増加率は14%……5年で倍になる計算になっており、今川領全体で約61万人の人口が居るが、全体での出生率は10%……7年後には人口が倍増することが約束されていた。
これがどれだけ異常か……現代だと人口爆発しているとされる国の出生率が5%前後なので、その倍の10%がいかにヤバいかが分かる。
統計を取っていた俺は頭痛くなったわ。
まぁ確かに戦国時代から江戸時代の中期までの100年間で日本の人口は2.5倍に増えていたが……。
こりゃ人口が爆発しきる前に拡張しないとヤバい……。
貿易による食料を頼らないで日本が養える人口は7000万人ほど……勿論北海道や沖縄を持っている状態かつ、肥料などを使いまくっての限界がその人数である。
現代日本の1億2000万人というのは貿易で食料を輸入できているから賄えている人数であり、とてもではないが日本列島単独で人口爆発に耐えられるだけの農地は無い。
となると人口スッカスカな関東平野を開拓して人口を養える土壌を作りつつ、北に北にと勢力を目指すのが一番手っ取り早い解決方法だが……。
まぁとりあえず7年経過しても人口爆発世代はまだ繁殖世代になってないから、14年がこのままいくとタイムリミットだろう。
「嫌な目標ができたな……」
まぁ人口爆発世代が成人し始める14年後には122万人の人口となり、そのうちの5%を兵隊とすると6万1000人の兵隊を揃えられるということになる。
うーん数の暴力的。
まぁそんなんになれば織田が例え畿内を制圧して今川を潰しにかかっても余裕で撃退することのできる兵数だし、なんなら2方面作戦してもいける兵数になるな……。
「まぁそれを支えられるだけの金銭収入とか産業基盤が無いといけないけど……」
俺は国力と検地による人口調査で判明した問題に頭を悩ませるのであった。
案の定、全国的に凶作であったため、武田が今年は北条を攻め始め、岡部と氏真様が北条救援の為に援軍として兵7000名を率いて出陣し、武田信玄は北関東を荒らすだけ荒らして撤退。
イナゴの様な行いである。
北条には救援部隊が持っていった兵糧をそのまま贈り、北条氏康殿より感謝状をいただくことになった。
とりあえず武田は今年はそれで十分な略奪ができたのか、今川領には襲ってこず、今川領内は平和な時を過ごすのであった。
ただ幕府が東日本の状況を憂慮して各自仲良くし、上洛して幕府を助けよと命令文が届いていたのだが、上杉謙信は上洛に成功したものの、懇意だった足利義輝将軍から管領並の待遇を約束されたことと、上杉家の家督を継承したことで関東管領の正統性を得てしまった為、関東遠征の準備に取り掛かり、武田は武田で全方位に噛み付く狂犬外交をしていて信用が出来ない。
今川としても織田領を通って上洛する手間と武田に留守中襲われる危険性が高すぎて上洛は無理。
北条は上杉贔屓の幕府に嫌悪感を抱いているため話にならない。
結局幕府の命令は現場の混乱を招くだけで終わり、運命の1560年が始まるのだった。